(8)地上世界の悲劇〈5〉
――動物虐待・自然破壊
1)人間と他の生命体との相互依存・共生関係
――生命界を支配する摂理とは相互依存・共生関係
愛によって結ばれている人間と動物・植物
人間は神によって個別性が与えられており、死後も永遠の個的存在として生き続けます。そしてどこまでも霊的成長の道を歩むことが宿命づけられています。人間にとって地球という環境は、「永遠の霊的成長」という長い道のりの中の一時の逗留先にすぎません。その短い逗留場所で触れ合う動物や植物は、人間に励ましと安らぎと喜びを与えてくれる友なのです。
人間は本来、動物や植物と“愛”において結ばれる関係にあります。人間には、神の「代理者」として動物や植物を愛しかわいがる役目が与えられています。動物と植物に愛を与え、その進化に貢献することが、人間の使命なのです。人間から愛された動物や植物は、人間にさまざまな喜びや感動を与えてくれます。人間の肉体を健康にするエネルギーをもたらし、人間からの愛に恩返しをするのです。このように人間と動物・植物は“愛”という絆によって結ばれ、“相互依存・共生関係”という摂理にそった歩みをするようになっています。
人間と他の生命体(動物・植物)が「利他性の関係」で結ばれること、すなわち相互依存・共生関係を築くこと――これが摂理に一致した調和のとれた生命界の姿なのです。
人間と他の生命体との“相互依存・共生関係”
地球は、人間のためだけでなく多種類の生命体がともに“相互依存・共生関係”を結んで生きていく場所として創造されました。人間の生存や心の安らぎや身体の健康のためには、動物・植物という他の生命体との相互依存・共生関係が不可欠です。同時に動物・植物にとっても、人間の愛情という“神の愛”が必要なのです。人間から愛され感謝されることによって、動物や植物は神の愛を受けられるようになります。人間と他の生命体は互いに助け合う関係の中で、ともに生存していくようになっているのです。
そうした中で人間は、地上人生の最大の目的である「霊的成長」を達成していくことになります。
相互依存・共生関係にある地球上の全生命体
現在では、地球は閉ざされた閉鎖系の惑星であることが明らかにされています。そこでは、どのような生物も自分一人だけで独立して存在することはできず、発展することもできません。仮に一つの種(動物であれ植物であれ)が一時的に爆発的に栄えるようなことがあっても、やがて他の種によって制約を受けるようになり、いつまでも独走することはできません。一つの種だけが繁栄して他を支配するようにはなっていないのです。
地球上に存在するあらゆる生命体の間には“共生関係”というシステムが備わっており、これによって全体のバランスが保たれるようになっています。互いに補い合うことで互いに成立しているのです。地球上に存在する何百万種(200万~250万種)に及ぶ生命種は、生物の社会(生命界)の中でそれぞれの役割を担い、どれ一つとして欠くことのできない重要性を持っています。そうした自然界の秩序・システムの中では、すべての生命体が対等性を持っており、進化の高い種が低い種を一方的に支配することはできません。このように地球の生命界は、他の生命体との無益な争いを避け、共存するようになっているのです。
こうした神が与えた絶妙な“相互依存・共生関係”のシステムの中で、人間も存在しています。人間だけが一方的に支配し、独り勝ちするようにはなっていません。人間は他の生命体との“相互依存・共生関係”を維持する中で進化し、幸福を手にするようになっています。人間が他の生命体を慈しみ、“利他愛”で接するときに共生関係が形成されます。そしてその摂理に適ったあり方を通して、人間にも「霊的成長」という恩恵がもたらされるようになるのです。
したがって、もし人間が「自分たちが一番進化しているのだから、他の生命体を支配するのは当たり前だ」と考え、動物や植物を虐げて利他的な関係を壊してしまうなら、幸福にはなれないことになります。当然、霊的成長もできなくなってしまいます。「人間も自然界の一部であり、自然に対して謙虚でなければならない」という姿勢を持たないかぎり、人間は自らの傲慢さから摂理を犯すことになってしまいます。他の生命体との相互依存・共生関係を壊すのは、人間の「物質中心主義」と「利己主義(エゴイズム)」です。人間の自己中心的で身勝手な考え方であり、利己愛に基づく間違った生き方なのです。
シルバーバーチは次のように述べています。
「愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、勝手に優越性を誇ったためです。」
人間と微生物との相互依存・共生関係
最近では、人間の腸内細菌と健康との関係に注目が集まるようになっています。腸内環境を整える細菌を“有益菌・善玉菌”と呼び、それと反対の作用を及ぼすものを“有害菌・悪玉菌”と呼んでいます。そして善玉菌を増やして悪玉菌を排除するための、さまざまな方法が試みられています。
しかし実は、こうした考え方自体が「人間中心」の見方なのです。本来、人間が摂理に合った健全な生活(健全な心・正しい食事・十分な休養と睡眠・適度な運動)を送っていれば、腸内に500種類以上、1000兆個もいるとされる細菌が“共生関係”を維持するようになります。すべての細菌が人間の健康にとってプラスの働きをし、良い影響をもたらすようになるのです。腸内細菌が互いに共生関係を維持するとき、腸内細菌全体と人間も“相互依存・共生関係”の状態に置かれることになります。そうなれば腸内細菌全体が人間にとってプラスの働きをするようになり、善玉・悪玉といった区別は不要になります。
腸内細菌を善玉・悪玉と呼んで区別することは間違っています。腸内細菌に関する最も本質的な問題は、「人間が神の摂理に合った健全な生き方をしていないために腸内細菌全体のバランスが崩れている」ということなのです。人間の間違った考え方・生き方の結果として腸内細菌がアンバランスになっているのであり、それを棚に上げて善玉・悪玉と決めつけるのは的外れです。
これは、他の微生物や昆虫に対しても当てはまります。人間が摂理に合った生き方をしていれば、細菌やウイルスや昆虫が人間に悪い作用を及ぼすようなことはありません。人間の生き方が物質中心で利己的になっているため、結果的に微生物や昆虫が、人間や家畜などの健康に害をもたらすようになっているのです。
こうした問題に対して、シルバーバーチは次のように言及しています。
「そもそも人間の生命を奪うようなビールスが発生するということは、人類の生き方がどこか間違っていることの証拠です。人類の生き方は地上の環境のすべてに反映するのです。生き方を正せば、そういう克服できそうにない問題は生じなくなります。人類の行動と環境との間には不離の関係があるのです。」
「これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります。」
人間の「物質中心主義」と「利己主義」という摂理に反した生き方が、微生物や昆虫との健全な相互依存・共生関係を崩し、その結果、肉体の病気を引き起こすことになっています。現在の地球人類の霊性の低さが、人間に害を及ぼす微生物や昆虫を発生させることになっているのです。地球という環境は、まさに人間の霊性を反映しているのです。
2)動物を虐待する人間の罪
極限にまで至っている人間の「動物虐待」
これまで地球人類は、他の生命体に対して非道な支配者・独裁者の道をひたすら走ってきました。他の生命体を人間の利益のためだけに利用し、虐待してきました。「動物・植物を愛し共生関係をつくる」という崇高な摂理にそったあり方ではなく、動物や植物を自分たちの食料や金儲けの手段として残虐に扱い殺害してきました。そうした摂理に反したあり方が、地球人類に飢餓やさまざまな病気をもたらすことになったのです。
動物の生命は神によって与えられたものであり、人間が勝手に奪うことは許されません。しかし物質文明の発展、経済・技術の進展にともない、人間は動物に対する虐待をますますエスカレートさせてきました。現在、家畜は工業化されたシステムの中で飼育され、食料にするためだけに生かされています。動物たちを一日中、身動きもままならない狭い場所に閉じ込め、太陽の光も届かない中で、人工的につくり出した薬品漬けの飼料によって育てています。人間は愛すべき動物たちに最も非道で冷酷な仕打ちをしています。自分たちの金儲けのために動物を残虐に飼育し、大量に殺害し続けているのです。今や先進国における家畜の飼育は、動物という生き物を工業製品のようにつくり出しているのと同じことなのです。
そうした哀れな動物たちの立場に立って考えてみるなら、人間のあまりの残虐性と利己性に鳥肌が立つはずです。現代の人間の傲慢さ・自己中心性は、極限にまで至っています。人間が動物に対して行っていることは、「神の摂理」から大きく外れているのです。
*絵葉書などで羊の放牧風景を見ると、誰もが穏やかで平和な思いに包まれます。しかし、その羊の放牧の裏側に一歩踏み込むと、そこには恐ろしいほどの人間の残忍性と冷酷さの実態を見ることになります。これほどまでに残虐なことをよくも人間ができるものだと、身の毛がよだつような思いに駆られます。
ニュージーランドなどの羊毛の生産国では、春になると子羊が生まれます。母羊は常に子羊に寄り添い、自分の身を挺して危害から子羊を守っています。母羊から母乳を飲んでいる子羊の姿は、まるで天国での様相を映し出しているようです。しかしそうした子羊には恐しい運命が待ち受けています。オスの子羊の大半は、肉質を良くするために早いうちに去勢され、しかも1歳になる前に殺されてラム肉にされてしまいます。子羊の肉は臭みがなく柔らかいためグルメ通に人気があるからです。一方、成長した羊の肉(マトン)は品質が劣るため安価になります。こうした理由から、オスとメスの比率は1対50というきわめて不自然なものになっています。
子羊には、さらにオスとメスにかかわりなく別の虐待も待ち受けています。お尻の周りに便がついて病気になったり、毛が汚れたりするのを防ぐために、人間が
“肉食”という異常を異常として認識できない地上人類
戦争体験の悲惨さを熱く語る人間は多くいますが、動物が置かれている現在の悲惨さは、それとは比較になりません。「動物虐待」の現実を前にすると、“戦争反対”と主張する大義も色あせて見えます。動物の肉を食べなければ生きていけないというのならともかく、人間は大地からの産物で十分に食料の調達ができるようになっています。現在の先進国における“肉食”は、自分たちの楽しみのためだけに動物の生命を奪うという非道な行為なのです。宗教者は隣人に対する利他愛の大切さを強調しますが、動物に対しても利他愛を主張しなければなりません。人間は苦しみに遭遇すると“悲劇だ、不幸だ”と言って嘆き悲しみますが、人間はそれよりも、もっと酷いことを動物に行っているのです。動物から見たとき人間は、残虐者なのです。
しかし現代において「肉食は間違いである」と言うと、必ず世の中の人々から非難されることになります。それほど地球人類は、肉食を当たり前と考えているのです。人類にとって今や“肉食”は常識であり、その異常さを異常として認識できなくなっています。霊的に見ると、そうした事実こそが人類の霊性の低さを物語っているのです。地球は、まさに下から2番目の惑星なのです。
多くの人々は、人間同士の利他愛の重要性については気がついていますが、人間と同様に神によって造られた動物に対する愛の重要性には考えが及んでいません。生命あるものを物質と同一視することの愚かしさに、地球人類はそろそろ気がつかなければなりません。人々の間で当たり前になっている“肉食”という悪習慣は、動物に対する人間のエゴと愛情のなさ、さらに人間の霊性の低さを端的に示しています。
動物に対する間違った優越心と本能的な利己主義が「動物虐待」の原因
すべての生命は神のものであり、平等で尊いものです。ところが人間は霊的未熟さゆえに、自分たちを生かしている生命が、地球上の他のすべての生命体の持つ生命と同じであるということを理解していません。動物も人間と同じく神によって生命を与えられた霊的存在者であるということに理解が及んでいません。それどころか、自分たち人間は“万物の霊長”であると傲慢になり、動物に対して一方的に上から臨み、自分の所有物のように好き勝手に扱ってきました。罪のない動物に対して、情け容赦のない残虐行為をしてきました。(*物質と生命体という区別のもとで考えたとき、動物は広い意味での生命を持っており、それを「霊」と呼ぶなら霊的存在者と言えます。しかし動物は、人間のように「神の分霊」を有しているわけではありません。「神の分霊」という点から見た場合には、動物は霊的存在者には含まれません。)
人間が万物の霊長であるなら、上位の者として下にいる動物を愛し慈しみ、手助けをすることが責務となります。しかし現実には、それとは正反対の残虐の限りを尽くしています。たしかに人間の身体は、動物としての身体(肉体)として見たときには進化の頂点にありますが、だからと言って他の生命体や動物に対して上から傲慢に臨んでよいということにはなりません。進化の上位にいるということは、進化の段階が低い存在に対して愛を与え慈しみ、保護すべき責任があるということを意味しています。それは“利他愛”が摂理として、宇宙のすべてを支配しているからです。
しかし人間は、無抵抗の動物を無慈悲に扱い、殺して食用にしたり、動物実験で死の苦しみを与え続けてきました。「間違った優越心(霊的無知)」と「利己主義」から、目を覆いたくなるような「動物虐待」を繰り返し行ってきたのです。そしてそうした異常な行為に対して、人間は何の疑問も持っていません。あまりの霊性の低さゆえに、異常を異常として認識できなくなっているのです。
「地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。(中略)動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。自然界の生命はすべてが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間どうしを超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。
抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、ぜひとも阻止しなくてはなりません。装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。(中略)小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。」
3)人間を生存させている地球の自然環境
――自然界の一部分としての人間
共生関係にある地球上のすべての存在
最近になって環境問題に注目が集まり、「閉鎖循環系」とか「持続可能な文明発展」とか「ガイヤの思想」などという言葉が聞かれるようになってきました。これらの言葉は、人間を含むすべての生命体が地球と密接につながり、一つの全体的世界を形成しているということを意味しています。地球上に生息するすべての生命体は、地球という共通の環境の中で互いに依存していることを示しています。人間だけが独立して存在しているわけではなく、地球上のあらゆるものが相互に関連し影響を与えながら、あたかも一つの生命体のような世界を形成しているのです。
宗教や神秘思想では古代から、生命あるものは互いにつながりを持って生存していることを説いてきました。スピリチュアリズムもそれと同じく、人間は他の生命体と“共生関係”にある一つの存在として教えています。人間は自然界の一部分であり、自然界との共生関係を維持しないかぎり幸福にはなれないと主張しています。人間は地球という環境、自然界という環境を維持しながら生きていくように、神によって定められているのです。それが摂理にそった人間の生き方に他なりません。自然界の摂理と一致した生活を送るとき初めて、人間は神が準備してくれた幸福を手にすることができるようになるのです。
「人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線をたどっています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあるのです。」
「進化の法則はすべての生命、すなわち昆虫類、鳥類、動物、そして人類のすべてを包摂しています。それぞれに果たすべき役割があり、しかもお互いに関連し合っております。孤立しているものは一つもありません。全体として完全な複合体を形成しているのです。(中略)その自然法則に従って生活していれば、言いかえれば自然法則と調和していれば、あなたは天命を全うできると同時に他の生命の進化を助けることにもなります。各自が協調的要素としての役割を果たすように宇宙の全機構ができあがっているのです。」
*植物は、摂理に一致した生き方をしている人間から愛されると、その人間の役に立つ反応を示すようになります。人間を通して“神の愛”を受けることになるからです。すべての植物は人間の“愛の対象”になることを願い、人間のために自分自身を提供することに喜びを持っています。人間が愛の思いで植物を扱うなら、植物は身体の一部が切られても悲しむことはありません。また、愛のある人間に対して喜んで自らを食料として提供しようとします。この点で動物と植物は異なっています。
詳しく知りたい
「閉鎖循環系」としての地球
地球は、外から物質を運び込むことも、不用な廃棄物を地球外に持ち出すこともできない「閉鎖循環系」となっています。その中で、一つの有機体のような存在として多様な生命体を生かしています。地球は実に精妙でデリケートなシステムを満載した惑星なのです。
しかし人間は今、この奇跡とも言うべき素晴らしい「閉鎖循環システム」を、過度の生産と消費活動によって狂わせ、その動きを妨げようとしています。これ以上、エネルギーと資源の浪費を前提とする経済発展を続けるなら、いつか必ず地球は自らを正常化するキャパシティーを超えてしまうことになります。このままいけば人間だけでなく、地球全体が破綻状態に至るかもしれません。そのときになって人類は、「地球はたいへんなことになってしまった。人類は生き延びられるのだろうか?」と、絶望のどん底に突き落とされることになるでしょう。今、地球上の至る所で黄色信号が点滅しているのです。
*地球の破綻が、いつどのような形で到来するのかは誰にも分かりません。気象学者・生物学者・経済学者、その他さまざまな研究者による見解はばらばらです。悲観論と楽観論が対立しています。地球温暖化やオゾンホールの影響をめぐってさえも、賛否両論が入り乱れています。しかし「神の摂理」に反した利己的行為は、必ず何らかのツケとなって返ってくるようになっています。
とは言っても、一部の環境論者が言うような“すべての地球人類が滅んでしまう”といった決定的な破滅状況に至ることはありません。そうならないようなシステムが、地球自体に組み込まれているからです。シルバーバーチは――「人間に為しうることには、自然の摂理によって、おのずから限界というものがあります。地球という天体を、そこに住むものもろともに破壊してしまうことはできません」
(『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』(ハート出版)p.159)と述べています。
ガイヤの思想
英国人科学者ジェームズ・ラブロックは、人類を含めた地球上のすべての存在物は、自己調整・自己維持機能を持って一つの大きな生命体を形成していると説いています。地球は生命の存続に最適な条件を完備しています。すべての生命体と環境が奇跡的なシステムのもとで存在し、自己を維持することを可能にしているのです。ジェームス・ラブロックはこうした考えをギリシヤ神話の大地の女神にちなんで“ガイヤ仮説”と呼びました。似たような考え方は、古くから宗教や神秘思想などによっても説かれてきましたが、それが現代科学の知識を用いて説明されることになったのです。
生命体を存在させる奇跡的なシステムが地球に備わっているという事実は、地球全体が一つの生命体として機能しているということを意味しています。人間が肉体に備わった絶妙なホメオスタシス・システムによって生存しているように、地球も一つの生命体として存在していると考えられるのです。
自然界や宇宙を支配する複雑な法則が、共通の目的を持って全体を成り立たせているという事実は、それらを全体的にコントロールしている知性的な存在者を想定しなければ合理的な説明はできません。スピリチュアリズムではそれを“大霊(神)”と呼んでいます。万物を創造した神は、被造物を維持するために「摂理による支配」という奇跡的なシステムを設けられました。“ガイヤ仮説”は、そうしたスピリチュアリズムが説いている「摂理(法則)による神の支配」を、科学サイドから説明したものになっています。そしてそれは、人間も地球における一つの部分、自然界の一部分として他の生命体と相互関係を結ぶ中で生きていかなければならないということを意味しています。
4)人間の利己的な欲望追求が自然環境を破壊
文明の歴史とは“森林破壊”の歴史
とどまるところを知らない人間の欲望は、人間が住んでいる“地球”という環境自体を崩壊しようとしています。文明の歴史とは、人類が森林を一方的に破壊してきた歩みであるとも言われています。歴史上の大文明は、いずれも広範囲の原始林を徹底して収奪・破壊し、消滅させてきました。「文明の前に森林があり、文明の後に荒廃がある」と言われているように、これまで地球人類は「森林破壊→家畜の過放牧→土地の荒廃・荒地化→文明消滅」というプロセスを踏んできました。ギリシア・ローマ・古代中国は、いずれも大森林を消滅させ、同時に自らも滅んでいきました。岩の上に建てられたパルテノン神殿も、かつては豊かな森林の中に聳え立っていたのです。
18世紀に西欧で近代科学が始まりました。科学の発展にともない、人類の幸福(物質的利益)を拡大するために自然を支配することは良いことであると考えるようになりました。そしてヨーロッパにおける“自然環境破壊”が、一気に進むことになりました。
現在では、高度に発達した科学や技術を用いて自然を支配するための試みが盛んに進められています。その結果、自然破壊は発展途上国を巻き込んで、地球規模で行われるようになっています。
物質文明の発展にともなう「自然環境破壊」
古来、ヨーロッパでは農耕や牧畜のために森林を破壊してきました。それが土壌の生産性と治水能力を低下させ、先に述べたような文明の滅亡へとつながっていきました。物質文明が急激に進展した近代以降、人間は経済優先の考え方をするようになり、森林や土地といった自然環境を手段と見なし、単なる資源として収奪し荒廃させてきました。森林は工業用地の拡大や都市化にともなう宅地造成、またゴルフ場などの娯楽施設用地として乱開発され、自然環境は急激に悪化しました。
一方、日本では昔から森林の助けを借り、森林に水源を求める農業を営んできました。人間も自然界の一部であるという伝統的な自然観のもとで、自然環境と共生する農業が行われてきたのです。それが日本古来の農業でした。しかし明治期を迎え、西洋文明を積極的に導入するようになると、西洋社会と同じような「自然環境破壊」の道を歩み出しました。明治30年頃から森林資源の搾取が急ピッチで進められ、それまで控えてきた乱伐が積極的に行われるようになりました。
森林は一度乱伐されると短期には元に戻らず、保水能力を劣化させます。そのため河川の洪水や渇水を引き起こしたり、山崩れを発生させるようになります。近年になってワイヤロープ方式の伐採方式が開発され、ますます「自然環境破壊」が進むことになりました。
「自然破壊」と「動物虐待」の同時進行
近年、自然環境破壊は動物虐待と並行して拡大していきました。長い間、伝統的に行われてきた焼き畑農業などの農業システムによっても部分的な自然破壊は引き起こされますが、自然の再生能力の範囲内で行われるかぎり、自然破壊には一定の歯止めがかけられます。しかし人類が必要以上の食料(麦など)を確保したり、家畜放牧用の牧草地をつくるために森林を次々と乱開発したことによって自然破壊は一気に規模を拡大し、猛烈なスピードで広がることになりました。
森林破壊の大きな原因の一つは、家畜の大規模放牧にあります。人間は家畜を放牧してより多くの収入を得ようとしてきましたが、それが広大な森林面積を失わせることになりました。こうした森林の牧草地化は、家畜動物に対する虐待を、さらに拡大させることになります。食料にしたり、毛皮を取ったりするために繁殖させて殺すということは、動物にとっては大きな悲劇です。このようにして、自然破壊と動物たちへの虐待がエスカレートしていきました。
森林破壊という点から言えば、日本では仏教の影響で肉食の習慣がなかったことに加え、植林を積極的に進めてきたために壊滅的な森林破壊には至らず、ある程度まで緑豊かな自然環境を維持することができました。それには、雨が多いという日本の自然条件が幸いしたことは言うまでもありません。
最近になってやっと地球人類は、「自然破壊」の愚行に気づき始めるようになりました。そして欧米では“自然保護”の活動が起こされ、乱開発を規制するようになってきました。しかしその一方で、自分たち以外の国(発展途上国)においては、経済的利益のために自然環境を破壊し続けているのです。
「大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。(中略)自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。」
1950年を境に急激に進行している「地球規模の自然破壊」
20世紀半ば以降、自然保護の動きに逆行するように地球規模での森林破壊・自然破壊がすさまじい勢いで拡大しました。森林伐採に代表される環境破壊は、先進国の急激な経済発展によって急速に進むようになり、大昔から手つかずであったアジアや南米・シベリアの森林までもが次々に伐採され、地球規模での自然破壊が進行しています。
また1950年以降、石油系の化石燃料によって先進国の経済は大きく発展しました。石油は燃料としての効率が高く、運搬にも便利であるため世界規模で大量に消費されるようになりました。過去2千年以上かけて人間が少しずつ変化させてきた地球の様子は、わずか数十年という短い間に一変してしまいました。
石油は人類に、かつてない物質的な繁栄をもたらしましたが、同時に地球全体に深刻な打撃を与えることになりました。今、人類は「地球規模の環境破壊」という新たな問題に直面し、右往左往しています。森林破壊が大文明を消滅させるという悲劇をもたらしたように、地球規模の森林破壊・自然破壊は、地球人類の文明の破滅を招来するかもしれません。
全世界には、200万~250万種以上(一説では3千万種以上)の生命体が存在すると言われていますが、人間はそうした生命体社会の一員でしかありません。しかし人間はその立場を忘れ、自分たちだけが支配者であるかのような傲慢な振舞いをしています。毎日のように多くの生物を絶滅させ、森林や自然環境を崩壊させ、地球全体の生態系を狂わせ続けているのです。そうした愚行をやめないかぎり、そのツケが人類全体に大きな痛みとなって降りかかることは避けられません。
「自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。(中略)人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。」
5)果てしない経済発展・経済成長という幻想がさらなる自然破壊を進める
物質中心主義と利己主義から発生する“経済優先主義”が自然環境を破壊
人類は、物質的豊かさへの強い欲望から目先の経済的利益を優先し、自然保護・環境保護への配慮を完全に無視してきました。21世紀の先進国では、大量にエネルギーを使って贅沢をすることが当たり前になっています。化石燃料(特に石油)をふんだんに用いて快適な生活を送りながら、物質的にもっと豊かで便利な生活を追求しています。
近代以降の科学と物質文明の発展は、人間を「物質中心主義」と「利己主義」へと向かわせました。そして“経済優先主義”“経済成長至上主義”が大手を振るうようになりました。1920年代のアメリカにおいて、大企業による大量生産と人々の大量消費という経済のシステムが確立されると、大衆の「物質中心主義」の傾向は急速に進みました。物質的に豊かになったアメリカ国民は、自動車やさまざまな電気製品、娯楽施設や住宅を所有するようになりました。アメリカで実現した物質的に豊かで幸福な社会は、世界中の国々の憧れとなり、各国はアメリカに倣って経済成長による物質的繁栄を目指すことになったのです。
しかし、いったんモノが国民の間に行きわたり、誰もが自由に所有できるようになると、人々はそれまでの画一的なものでは満足しなくなります。より個性的で、より便利なものを求めるようになります。他人よりも優れた自分独自のものが欲しくなるのです。そうした中で企業は、これまでになかった新しいものをつくり出し、大衆の欲求に応えようとしてきました。企業は新製品を次々と世に送り出して大衆の購買意欲を刺激し、大衆はそれに飛びつき、まだ十分に使えるものであっても流行に遅れまいとして惜しげもなく捨ててきました。こうして大量に消費することが経済的に恵まれた人々にとって当たり前のものとなり、浪費が異常どころかステイタスにさえなってしまったのです。
人間のエゴに発する物欲の追求は、“利益を得るためには何をしても構わない”という利己的経済活動を生み出します。自己の利益と便利さと快楽だけを重視する利己的経済活動は、地球の環境そのものを狂わせ、破壊させることになります。「モノに恵まれていてこそ人間は幸せである」「モノがないことは不幸である」という物質的価値観が、自然環境破壊をさらに進行させることになるのです。
これ以上の経済発展は必要か?
最悪の事態に至るのを防ぐためには、先進国に見られるような大量消費を善とするあり方、贅沢を美徳とする生き方を改めなければなりません。そうでなければ人類は、自分で自分の首を絞めることになってしまいます。
もっと低い経済レベル・消費水準でも、人間は幸福に生きられます。日本や欧米などの先進諸国の経済レベルを引き下げ、その分のエネルギーや資源を貧しい発展途上国に回すべきです。地球全体の経済活動を一定限度に抑えても、人間は不幸になることはありません。むしろ霊的には、ずっと恵まれることになるはずです。これまで人間が行ってきた過剰な生産と消費によって、地球の生態系を安定させている“自己回復能力”は限界を超えようとしています。それを取り戻すためには、急激な経済成長を抑制し、自然界との調和をはかっていかなければなりません。「人間の幸福は、果てしない経済発展・経済成長の中にしか存在しない」という、これまでの間違った常識を捨て去らなければなりません。
とは言っても、いったん物質の快楽の味を知った者は、それを決して手放そうとはしません。自分の幸福は何としても維持したいと考えます。「地球を救うためには経済レベルを引き下げるべきである」という意見に賛成する人であっても、全体の幸福を自分の幸せよりも優先しようとする人間はいません。すでに手にしている物質的豊かさと快楽は、何が何でも守りたいと思うのです。一人の人間がいったん味わった快楽を手放すのが至難の業であるように、贅沢と過度の消費に慣れた先進国の社会を質素な方向に向けることは不可能に近く、必ず想像を絶する抵抗を受けるようになります。
おそらく今の物質中心主義的で利己的な経済活動が「摂理違反の限界」に達するまで、人間は自らの手で方向性を正すことはできないでしょう。摂理による痛み(世界レベルでの経済破綻)という形でしか、間違った経済活動を修正することはできないでしょう。
経済活動の後退や破綻は、地球人類のために必要
人間の肉体は、飽食を続けると悲鳴をあげるようになります。それを無視してさらに飽食を続ければ、やがて病気という破綻状態に陥ります。この一連の流れは、すべて「神の摂理」に従って発生しています。悲鳴という“警告”、そして病気という“破綻”――これらは摂理によって引き起こされる現象です。病気は誰にとってもイヤなものですが、考え方によっては、痛みも病気も“ありがたいもの”なのです。健康を回復するためのチャンスとなるからです。
利己的な経済活動は、飽食と同じことです。1980年代の日本のバブル経済は“飽食”に、1990年の経済破綻は“病気”に相当します。1980年代の後半、日本はいわゆる“バブル景気”という史上最高の繁栄期を迎えました。銀行の後押しで「地上げ屋」と呼ばれた悪徳業者が闊歩し、全国の地価が暴騰しました。一般庶民も株の投資に走り、さらに本来地道なはずの製造業者までもが、本業をないがしろにしてマネーゲームに没頭しました。また、全国各地に観光レジャー施設やゴルフ場が建設され、自然を破壊していきました。その結果、日本中が“カネ、カネ、カネ”の狂った時代となったのです。人々は日常的にグルメを求め、身に付けるものは一流のブランド品、余ったお金はゴルフやテニス、スポーツ観戦や海外旅行に向けられました。こうして古代ローマ時代の“パンとサーカス”の愚民政治の現代版が、日本に出現したのです。
かつて日本人は、敗戦から復興するために必死に働いてきました。そして高度経済成長の時代を経て、バブル景気を迎えることになりました。こうした過程の中で、大半の日本人の心は“モノとカネ”だけに占められるようになり、経済と技術の論理がすべてを支配するかのような風潮が生まれました。そしてその当然のツケを払う形で、バブルがはじけたのです。株は暴落し、莫大なお金があっという間に消え去り、本能的快楽に酔いしれていた人々を奈落の底に突き落としました。日本はその後、長い経済低迷の期間を歩むことになりました。
今にして思えば、この“バブル景気”と“バブル崩壊”は、私たちに多くの教訓を与えてくれました。もしバブルがはじけていなかったなら、日本人はさらにカネの亡者となり、物欲と本能的快楽だけに振り回され、よりいっそう「精神的堕落」を招くことになったはずです。衝撃的な痛みが与えられた結果、否応なくそれまでの方向を改めざるをえなくなりました。霊的に見ると、バブルがはじけたことは日本人にとって良いことだったのです。モノやカネより大切なものを、取り戻すチャンスが与えられたからです。
現在、かつての日本の“バブル景気”と同じような経済状況が世界各地で進行しています。そして至る所で“バブル崩壊”の兆しが現れ始めています。ある国でいったん破綻が表面化すると、その影響はあっという間に世界中に拡散します。そして世界中の人々が、絶望と不安のどん底に叩き落とされることになります。しかしそれは霊的に見れば、実にありがたいことなのです。
“スピリチュアリズム”による精神革命と禁欲的経済活動
人間の欲望はとどまるところを知らず、「肉主霊従」はどんどんエスカレートしていきます。古来、宗教では人間が過度の欲望に走らないように“禁欲”を重要視してきました。「霊主肉従」を目的とする節度ある禁欲は、摂理に適っています。肉体を維持するための最低限の物質で満足し、贅沢をしないことは、摂理に一致した生き方なのです。
先進国では、20世紀になるとそれまでの伝統的宗教が後退し、健全な禁欲というブレーキが失われてしまいました。それに代わって経済原理が支配的になり、「儲かるか、儲からないか」という強欲な経済活動が地球上を支配するようになりました。その結果、これまで述べてきたように人類の住処である“地球”そのものを、破壊寸前にまで追いやることになってしまいました。物欲と利己主義の上に立った市場原理や経済活動に任せているかぎり、地球全体が破滅状態に至ることは避けられません。
環境問題に関する事件が起きるたびに、多くの学者が「このままでは大変なことになる。人間は環境破壊をやめ、この美しい地球を子孫に遺さなければならない」と言います。しかし、そうした意見には「一人一人の欲望に歯止めをかけなければならない」という重要な内容が欠けています。“禁欲”をベースとした経済活動こそが、環境問題を解決する唯一の方法なのです。そのためには地上人一人一人が、贅沢な生活を改めるところから出発しなければなりません。環境破壊を止めるには、学者や政治家による努力だけでは限界があります。一人一人の「心の改革・意識改革・価値観の改革」なくして、環境問題を根本的に解決することはできないのです。
環境問題を解決するためには、地球人類の際限のない物欲追求に歯止めをかける思想・哲学が必要です。地球上の全人類が幸せになるためには、「物質的幸せではなく、霊的幸せこそが大切である」という“人生観・価値観の革命”が不可欠です。人間の幸福は物質の多さではなく、「霊的成長」によるものであることを納得させることができる思想が必要となります。まさにそれが、スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理」なのです。そうした思想の上に営まれるのが、摂理に一致した“禁欲的経済活動”なのです。