スピリチュアリズムの普及と「シルバーバーチの読書会」について
1)スピリチュアリズムは“霊的真理の啓蒙運動”
――スピリチュアリズムと地上の組織宗教における布教の違い
スピリチュアリズムと“霊的真理の布教”
これまで何度も述べてきましたが、スピリチュアリズムは、イエスを中心とする高級霊たちが総動員体制で進めている“地球人類救済運動”です。そのスピリチュアリズムによる地球人類救済運動は、地上世界の悲劇の元凶である「霊的無知」を克服するところから始まります。
したがってスピリチュアリズムは、「霊的真理を地球上に広める」という形で進められていくことになります。霊的真理を普及することが、スピリチュアリズム運動の最大の目標となります。スピリチュアリズムとは――「霊界から霊的真理をもたらして地上世界の霊的無知を追放し、さまざまな悲劇を駆逐する運動」と言えます。
霊界からもたらされた霊的真理は、“布教活動(伝道)”を通して地球上に広まっていくことになります。
スピリチュアリズムと地上の組織宗教における布教活動の違い
地球上の多くの宗教は、自分たちの教義を普及するために、活発に布教活動を展開しています。布教活動という点だけに注目するならば、スピリチュアリズムも他の宗教も同じように見えます。しかし、スピリチュアリズムと他の宗教の布教は、その本質と内容において大きく異なっています。スピリチュアリズムにおける霊的真理の布教と、地上の組織宗教における教義の布教には、さまざまな点で根本的な違いがあります。
以下では、その違いを6つの点から見ていきます。
第1の違いは、スピリチュアリズムでは“布教活動の主役”が霊界の霊たちであるのに対して、地上の宗教の“布教活動の主役”は、宗教組織そのものと人間(信者)たちであるということです。スピリチュアリズムの布教では霊界人が主導的立場にあるのに対して、地上の宗教では地上人(組織の人間)が主導的立場にあります。このようにスピリチュアリズムと地上の宗教では、布教の主役が全く違っています。
スピリチュアリズムでは、地上人(スピリチュアリスト)は霊界人の助手として布教に携わることになります。見た目には地上人から真理が手渡されたり、真理が紹介されるという形をとりますが、そこに至るまでのすべてのプロセスは霊界サイドによって準備されます。
第2の違いは、布教しようとする“内容(霊的知識)のレベル”が全く異なっているということです。地上の組織宗教はいずれも、自分たちの教団の教義こそが唯一の真理であると主張しますが、スピリチュアリズムの霊的知識と比べるならばその差は一目瞭然です。スピリチュアリズムが広めようとしている霊的真理と地上の宗教の教義では、内容的に天と地ほどの違いがあります。地上の宗教の教義の多くは、真実からかけ離れています。「霊的無知」からつくられた間違った教えでは、人類を真の救いと幸福に導くことはできません。
本当に人類を救いに導く真理であるならば、布教に多少の強引さがあったとしても深刻な問題を引き起こすことはありません。しかし、広めようとする教義が本物ではなく偽りであるなら、布教それ自体が間違った行為になってしまいます。人々の魂を救済するどころか、霊的成長を妨げることになってしまいます。(*組織宗教に所属する人々にはぜひ、スピリチュアリズムの霊的知識と自分たちの教団の教義を比較したうえで、自らの優越性を主張してほしいと思います。)
第3の違いは、“布教の目的”それ自体が全く異なっているということです。地上の組織宗教の布教は、常に自分たちの教団(組織)の拡大を目的としています。信者を増やすことによって教団の勢力を大きくしようとします。そして信者が増加すると必ず、教団の権威を誇示するための立派な礼拝施設をつくるようになります。
信者たちは、自分たちこそが人類救済という最高の使命を持った唯一の宗教であると思い込んでいます。そして自分たちの“教団の拡大”を“人類の救済”と同一視するようになります。教団の幹部は、信者に偽りの使命感を植え付けて、組織の拡大に貢献することが人類の救済に寄与することであると教え込むのです。本当にその宗教の教義が唯一の本物(真実の教え)であるならこうしたあり方も正当化されるかもしれませんが、問題はその教義の真偽です。
結論を言えば、地上の宗教の教義の中にもわずかな真理は含まれていますが、大部分は真実とは程遠い内容です。それはその宗教の独断的な見解であり、勝手な自己主張にすぎません。間違った教えを説く宗教は、人類にとって何の役にも立たないどころかマイナスになるだけです。自分たちこそが唯一の正しい存在であり、特別な使命を担っているとの思い上がりや、自分たちの組織を拡大することが人類の救いにつながるとの独断論は、すべて「霊的無知」から出たものです。間違った教えによって洗脳され布教に駆り立てられる信者たちは、かけがえのない人生を棒に振ることになってしまいます。
スピリチュアリズムには、地上の宗教のような組織はありません。したがって、自分たちの組織を大きくしようというような方向に向かうことはありません。もっとも、スピリチュアリストを自称する人間の中にも自己顕示欲や名声欲の強い者がいて、自分を中心とした集まり(グループ)をつくろうとします。また、人の上に立って教えることが好きな者もいます。こうした人間はグループをつくり、それを大きくしようと必死になるかもしれません。言うまでもなく、そうした自己中心的な動機から出たグループづくりは間違っています。スピリチュアリズムの普及にとってはマイナスです。しかし、こうした一部の人間(偽スピリチュアリスト)による不正がスピリチュアリズム全体を支配するようなことにはなりません。
スピリチュアリズムは、“スピリチュアリズム”それ自体の拡大を目的とするものではありません。スピリチュアリズムは、霊界からもたらされた「霊的真理」をただひたすら地上世界に広めようとする“啓蒙運動”です。スピリチュアリズムによる布教活動の本質は「霊的真理の啓蒙」です。そこには世の中の組織宗教のような信者獲得とか組織拡大といった目的はありません。
スピリチュアリズムは、霊的真理を受け入れられる地上人が増えることによってその影響力が地上世界全体に及ぶことを目指しています。地上人が自己努力によって自らを救う道を提供することが、スピリチュアリズムの目的なのです。世の中の宗教のように、信者を獲得して組織の拡大を図り、それによって人類を救済しようというような考えは全くありません。スピリチュアリズムは、霊的真理を広めることだけを目的として展開している霊界主導の地球人類救済運動であり、霊的真理の普及活動(啓蒙活動)なのです。
第4の違いは、“布教方法”が全く異なっているということです。地上の組織宗教の布教は、自分たちの教義を広め、自分たちの組織の信者を増やすことに目的が置かれています。“人類救済”などという大義を掲げていても、実際には“組織拡大”が唯一の目的となっています。自分たちの組織を拡大するという目標の前には、人類の救いという大義はどこかに消え失せています。
大半の宗教では、自分たちの組織拡大のために信者に布教のノルマと献金の義務を課しています。そして布教の実績をあげた者や多額の献金をした者は信仰があると見なされ、より多くの救いが得られるようになると賞賛されます。組織宗教では信者の士気を鼓舞するために、自分たちだけが最高の正義に立った唯一の存在であることを繰り返し教えます。常にこうした形で信者のエゴを刺激し、組織拡大に駆り立てるのです。そして組織から離れようとする人間に対しては“地獄に堕ちる”とか“先祖が苦しむことになる”とか“不幸になる”といった脅しをかけて、組織に押しとどめようとします。
これに対して、組織を持たないスピリチュアリズムでは、信者を増やして自分たちの組織を拡大しようといった考え方自体が生じません。スピリチュアリズムは、霊界からもたらされた「霊的真理」を地上世界に普及することだけを目的として布教活動を展開します。組織がないため、誰がスピリチュアリストになったのかを知る必要もありません。「霊的真理を受け入れられる人が、日本のどこかで一人、また一人と現れてほしい」というのがスピリチュアリズムの布教に携わる者の基本的姿勢です。
スピリチュアリズムの布教活動の目的はどこまでも「霊的真理の啓蒙」です。スピリチュアリズムでは「霊的真理」を広く人々に紹介しようとしますが、こちらから出向いて一人一人を説得して受け入れさせるといった方法はとりません。そんなことをしても、ムダになるだけです。この世の組織宗教がしているような強引な布教活動が、最終的に良い実を結ぶことはありません。強引にやれば一時的に信者の数は増えますが、無理やり信じ込ませるような不自然な布教は時間とともに内部から崩壊現象を引き起こすようになります。いったんは信者になったものの長続きせず、次々と教団を離れていくようになります。
スピリチュアリズムの布教方法とは――「霊的真理を広く示し、それを求める人に自由に受け取ってもらう」というものです。霊的真理と出会ってもそれを本物と感じられない人間や反発する人間を強引に説き伏せ、真理を受け入れさせるようなことはしません。どこまでも自分から求める人だけを布教の対象とします。“馬を水辺に連れて行っても、無理に水を飲ませることはできない”との喩えのように、スピリチュアリズムでは自分から求めようとしない人、自分から学びたいと思わない人を布教の対象とはしません。自分の方から求めてくる人だけを相手にするのです。したがってスピリチュアリズムの布教には、組織宗教のようなギラギラした雰囲気はありません。ただ霊的真理を示し、自らそれに反応する人間の登場を待つだけなのです。
スピリチュアリズムでは他の宗教と違って、霊界の人々が時期のきた地上人(真理を受け入れられる霊的レベルにまで至った人)を導いてきてくれます。霊界からの働きかけの中で、時期のきた人が次々とスピリチュアリズムの真理のもとに導かれるようになっています。そのためスピリチュアリズムでは、組織宗教のような大々的な布教活動は展開しないにもかかわらず、相手の方から次々と足を運んでくるのです。そうした人々の中には、それまで長年所属していた宗教を離れ、スピリチュアリズムを本物と認めるようになった人がいます。こうした状況は、組織宗教にとってはたいへんな脅威となります。スピリチュアリズムは組織宗教に所属している信者を無理やり引き抜こうとするようなことはしませんが、相手の方から求めてくるのです。
スピリチュアリズムの布教(霊的真理の伝道)は、霊界からの働きかけによって進められていきます。霊界の導きの中で時期のきた一人一人の人間に霊的真理が手渡されるという形で、徐々にではあっても確実に普及していくことになるのです。
第5の違いは、“布教活動のスケール”が異なるということです。組織宗教では、信者の数を増やそうと躍起になって布教活動をしていますが、時間とともに信者たちは離れていくようになります。いったん拡大した組織を維持するためには、がむしゃらな布教活動をするしかなくなります。ボロボロと信者が離れていく状況では、新しい信者を補充しないかぎり組織は衰退し、やがて消滅してしまうようになります。
教団の幹部たちは常に組織の維持に頭を抱え、何とかして現状の勢力だけは守ろうとします。そして信者に次々とノルマを課し、繰り返し使命感を訴えますが、ほとんど効果はありません。宗教本来の大義を忘れ、自分たちの組織維持という小さな目的のために奔走せざるをえない実態は、哀れとしか言いようがありません。いずれの宗教でも組織の幹部たちはこれと同じような状況に置かれ、虚しい努力を続けています。
スピリチュアリズムには、組織はありません。そのため世の中の宗教のように、自分たちの組織を維持するために無駄なエネルギーを費やす必要はありません。霊界主導で進められるスピリチュアリズムの布教活動(霊的真理の伝道)は、何百年もの将来を見据えて展開しています。それは500年単位、千年単位の計画として進められている運動で、その運動の一コマを担当しているのが今のスピリチュアリストたちなのです。スピリチュアリズムの布教に携わるスピリチュアリストには、何が何でも信者の数を増やそうといった気負いはありません。「霊界の道具」として時期のきた人に真理を手渡すだけで、スピリチュアリズムは拡大していくからです。
スピリチュアリズムの布教活動は、「地球人類全体の救済」を意図する永遠の時をかけた大事業です。人類の歴史が始まって以来の一大救済運動です。一時的な勝ち負けといった次元での布教活動ではなく、何百年、何千年という永い期間をかけて進められていく霊的真理の啓蒙運動なのです。このように“布教のスケール”という点で、スピリチュアリズムはこの世の宗教とは次元が違っています。
20世紀末から急速に普及するようになったインターネットは、まさにそうしたスピリチュアリズムの布教のために用意されたツールと言えます。インターネットを用いることで、世界中の人々にスピリチュアリズムの霊的真理を広く紹介することができます。インターネットによって、本物を求める人は確実にスピリチュアリズムにたどり着くことができるようになります。最高次元の霊的真理・霊的知識をネット上に示しておけば、あとは自動的に時期のきた人にそれが届けられるようになるのです。
スピリチュアリズムでは、これまで組織宗教がしてきたような強引な布教は全く必要ありません。人々は宗教と煩わしい関わりを持つことなく、ホームページにアクセスするだけでさまざまな内容を比較し、教えの真偽を判断できるようになります。誰からも強制されずに、自分が納得し決意を固めるための時間を十分に取ることができます。インターネットはまさに、スピリチュアリズムの布教のために霊界から準備された強力な武器と言えます。
インターネットが登場するまでは、世の中の宗教は布教のために書籍を出版したり、各地に支部をつくるなどの組織展開をしなければなりませんでした。また、全国隈なく講演活動をしなければなりませんでした。従来の宗教はいずれも、こうした努力を積み重ねて組織を拡大してきたのです。
しかしインターネットの登場は、そうした従来の布教のスタイルを根本から変えることになりました。インターネットで真実の霊的知識・霊的情報を紹介するだけで自動的に布教が進んでいくようになります。スピリチュアリズムはインターネットの登場によって、何百万人もの信者を抱える巨大宗教教団に匹敵する布教能力を手にすることになったのです。
第6の違いは、“布教の責任範囲”が異なるということです。スピリチュアリズムの布教では霊的真理を相手に手渡すまでが“布教する側”の責任とされ、それ以降についてはすべて“布教された側”の自己責任の範囲となります。スピリチュアリズムの布教の主役は、霊界の何百億という霊たちです。その霊たちが時期のきた地上人を「霊的真理」のある所に導いていきます。真理を手にした人間や書籍やホームページと出会うことができるように働きかけ、導いていくのです。
時期のきた人とは「一定の霊性レベルにまで至った人」のことで、人生上でのさまざまな苦労を通してカルマが清算され“魂の窓”が開かれた人間のことを言います。霊的真理は純粋に霊的なものであるため、霊的受容性が備わっていないかぎり(魂の窓が開かれていないかぎり)受け入れることはできません。一定の霊性レベルに達した人の場合には“霊的受容性”が高まっているため、自ら霊的真理を求めるようになります。そうした人が霊界から導かれて霊的真理との出会いを果たすようになるのです。スピリチュアリストは、時期のきた人に霊的真理を手渡すのが役目です。スピリチュアリストがなすべきことは、それだけです。そこまでが“布教する側”の責任範囲なのです。
一方、この世の宗教では、何が何でも布教の相手を自分たちの組織の一員にしようとします。組織宗教による布教は、相手を組織の一員とすることに目的が置かれています。いったん釣り上げた魚は決して逃さないといった気迫で、洗脳や脅しを含むあらゆる手段を用いて組織の中に組み込んでいきます。
何度も述べてきましたが、スピリチュアリズムには組織がないため、組織のメンバーを増やそうという意図はありません。スピリチュアリズムでは真理を伝えるまでが布教する側の責任とされ、相手が真理を受け入れないときにはさっぱりと手を引き、関係はそこで終了します。スピリチュアリズムの布教はすべて本人の自発性のもとで進められ、外部からの強制は一切ありません。霊的真理を手渡した後は布教する側の責任ではなく、真理を受け取った人の自己責任の領域となります。手にした真理を活用して霊的成長の道をたどるかどうかは、すべて本人しだいということなのです。“スピリチュアリズム人生”とは――「各自が霊的真理を人生の指針として信仰的努力を積み重ねていくこと」「霊的真理を拠りどころとして厳しい内面の闘いを乗り越え霊的成長の道を歩んでいくこと」なのです。これは多くの人々が望む気楽な人生とは正反対のあり方です。
組織に所属して指導者の指示や命令に従っている方が、ずっと気楽です。自分で何をするか考える必要はなく、言われた通りのことをしていればそれで
スピリチュアリズムの霊的真理は、それを受け入れた人間が自ら日常生活の中で実践して霊的成長をするためにもたらされたものです。霊的真理との出会いは霊界からの導きによってなされますが、手にした真理を実践して霊的成長をするかどうかは、すべて本人の責任です。宗教組織の中に埋没して指導者の言うことを鵜呑みにし、指示や命令に従っていくあり方と比べるなら、スピリチュアリズムでははるかに厳しい自発的な信仰努力が要求されるのです。
2)スピリチュアリズムの中における『シルバーバーチの霊訓』の位置
――『シルバーバーチの霊訓』はスピリチュアリズム思想の集大成
スピリチュアリズムの霊的真理と、この世の宗教の教義の違い
スピリチュアリズムの布教が、この世の組織宗教における布教とどのような点で違っているかが明らかになりました。それを通して、スピリチュアリズムの布教の特色を理解していただけたものと思います。スピリチュアリズムは、霊界から地上に「霊的真理」をもたらし、地上世界の悲劇の元凶である「霊的無知」を克服して地上人類を救済しようとする運動です。霊的知識の普及という点では従来の宗教における布教と共通性がありますが、スピリチュアリズムは組織拡大を目的としない“純粋な啓蒙運動”です。組織に人々を囲い込む必要がないため、摂理に反した強引な布教方法をとる必要はありません。
スピリチュアリズムは、霊的真理を普及することだけを目的としています。時期のきた人が霊的真理を受け入れて自ら実践し、霊的成長の道を歩むことを願っています。スピリチュアリズムでは組織拡大を目的とした布教活動をしないため、誰が霊的真理を受け入れたのか分かりませんが、それでいいのです。こうした形でスピリチュアリズムの裾野は、時間の経過とともに広がっていきます。
スピリチュアリズムと地上の宗教では、布教しようとする霊的知識のレベルが全く違っています。スピリチュアリズムの「霊的真理」は霊界からもたらされた純粋な霊的叡智であるため、地上の宗教の教義や宗教思想と比べるとその差は歴然としています。スピリチュアリズムが伝えようとしている霊的真理は、霊界から直接地上にもたらされたものです。それに対し地上の宗教が布教しようとしているもの(教義など)は、霊界から送られてきた啓示の一部分を地上の霊能者(教祖など)が受け取ったもので、きわめてわずかな知識にすぎません。スピリチュアリズムでは、「霊界通信」を通して膨大な霊的知識が地上にもたらされました。霊界から直接もたらされた霊的知識は、地上の霊能者や教祖によって部分的に受信された霊的知識とは次元が異なります。
スピリチュアリズムの「霊界通信」には、さまざまなレベルがある
――『シルバーバーチの霊訓』は最高次元の霊界通信
ここで重要なことは、スピリチュアリズムの「霊界通信」にはピンからキリまである、ということです。スピリチュアリズムが地上人類を救済するために布教しようとしている霊的知識は、多くの霊界通信によってもたらされたものです。その霊界通信には、きわめて優れたものからそれほど価値のないものまでさまざまなレベルがあります。一口に「霊界通信」と言っても、通信霊の霊格などの違いによって大きな差があるのです。
スピリチュアリズムの霊界通信の中で特に優れたものが、アラン・カルデックの編集による『霊の書』、ステイントン・モーゼスを霊媒とする『霊訓』、モーリス・バーバネルを霊媒とする『シルバーバーチの霊訓』で、これらはスピリチュアリズムの“世界三大霊訓”と呼ばれています。その中で『シルバーバーチの霊訓』は、傑出しています(*『シルバーバーチの霊訓』が他の霊界通信と比べて特別に優れている理由についてはすでに述べてきましたので、ここでは省略します)。
『シルバーバーチの霊訓』は、スピリチュアリズムの霊界通信の最高峰であり、スピリチュアリズム思想の集大成と言うべきものです。その中には、スピリチュアリズムの霊的思想・霊的知識のすべてが含まれています。『シルバーバーチの霊訓』は、あらゆる霊界通信の中で文句なしに頂点に立っています。それは『シルバーバーチの霊訓』が、スピリチュアリズム思想を代表するものであることを意味しています。『シルバーバーチの霊訓』の中には、スピリチュアリズム思想のすべてが次元を高めて示されているのです。
霊的真理の効率的な学習とは
――最高の教材・テキストを徹底して学ぶこと
皆さんがスピリチュアリズムの霊的真理・霊的知識を学ぼうとするとき、すべての霊界通信を片っ端から読破する必要はありません。霊界通信の中で最も優れたもの、すべてを包括するものを徹底的に学ぶことで、スピリチュアリズムの思想(霊的真理)を正しく理解することが可能になります。『シルバーバーチの霊訓』は、まさにそうした霊界通信です。霊的真理を学ぶうえでの最高の教材・テキストなのです。
『シルバーバーチの霊訓』を徹底して学ぶことによって、スピリチュアリズムの思想を包括的にしかも正しく理解することができます。『シルバーバーチの霊訓』には、あらゆる霊的知識・霊的情報が内包されています。しかも、そのどれもが最高レベルの形で示されています。霊的真理・心霊現象・思想哲学・人生問題・実用的問題――いずれをとっても最も包括的で高次元の霊的知識が示されています。
こうしたことから私たちのサークルでは、スピリチュアリズムの普及を『シルバーバーチの霊訓』の普及と位置づけして布教活動をしてきました。レベルの低い霊界通信や宗教思想を広めるよりも、最も信頼のおける『シルバーバーチの霊訓』を広めることによって、人々は初めから最高のスピリチュアリズム思想(霊的真理)を学ぶことができるようになります。限られた地上人生の中であれもこれもと手を広げ、意味のないものに時間を費やすようなことがなくなります。
私たちは『シルバーバーチの霊訓』の知名度のアップが、スピリチュアリズム普及のバロメーターであると考えています。『シルバーバーチの霊訓』の普及状況が、真のスピリチュアリズムの普及状況と一致していると考えています。
『シルバーバーチの霊訓』の普及は、イエスをはじめとする高級霊の最大の関心事
『シルバーバーチの霊訓』が霊界通信の最高峰であり、スピリチュアリズム思想の集大成であるなら、それはスピリチュアリズムを主導してきたイエスをはじめとする高級霊の思いが『シルバーバーチの霊訓』の普及に向けられていることを意味しています。最高のスピリチュアリズム思想の普及状況に、霊界の高級霊たちが最大の関心を寄せていることは言うまでもありません。
3)「シルバーバーチの読書会」の役割と意義
“大人の霊”が集う「シルバーバーチの読書会」
スピリチュアリズムの布教活動における『シルバーバーチの霊訓』の位置が明確になりました。スピリチュアリズム運動を進める霊界のイエスと高級霊たちの目には、『シルバーバーチの霊訓』の普及とスピリチュアリズムの進展が重なって映っています。『シルバーバーチの霊訓』の中には、スピリチュアリズム普及にかけるイエスの強い決意と人類全体に対する深い愛が込められています。霊界の高級霊たちの願いが凝縮されています。今この時も『シルバーバーチの霊訓』を地上に普及させるために、霊界から懸命な働きかけがなされているのです。
「シルバーバーチの読書会」は、そうした霊界からの働きかけの“地上サイドの足場”となります。霊界からの導きの中で『シルバーバーチの霊訓』と出会い、そこに最高の価値を見いだした人々が集まる場所が「シルバーバーチの読書会」です。一定の霊性レベルにまで至っていないかぎり、霊的真理を受容できないことについてはすでに述べてきました。書籍やネットなどを通じて『シルバーバーチの霊訓』と出会い、それに感動した人は“霊的受容性”に恵まれた人間と言えます。一定の霊性レベルに至っている人を、シルバーバーチは“大人の霊”と呼んでいます。世の中には『シルバーバーチの霊訓』と出会っても価値を見いだせず、感動できない人もいます。それどころか、反発を感じる人もいます。また、他の宗教の教えと同じようなものといった理解にとどまる人もいます。そうした人たちはまだ、最高次元の霊的真理に対する“霊的受容性・霊的感受性”が備わっていないのです。
それとは反対に『シルバーバーチの霊訓』に感動するだけでなく、その教えを人生の指針にして生き直そうと決心する人もいます。そうした『シルバーバーチの霊訓』を人生の指針・人生の拠りどころとする人々が、交わりを求めて集う場所が「シルバーバーチの読書会」なのです。それは霊界から見ると、暗黒の世界における“一条の光”として映ります。「シルバーバーチの読書会」は、霊界の人々が最も働きかけやすい拠点であり、霊界と地上界をつなぐ架け橋になります。
“サイキック・レベル”の集いから、“スピリチュアル・レベル”の集いに
スピリチュアリズムの初期には、欧米ではスピリチュアリズム・チャーチ(*ホームサークルとかサンクチュアリーと呼ばれることもあります)がつくられ、スピリチュアリストが定期的に集まって交霊会を開いていました。スピリチュアリズム・チャーチは霊能者を中心とした集まりで、交霊会を開くことを主な目的としていました。
当然そこには“霊媒現象・心霊現象”目当ての人々が集ってきました。当時はスピリチュアリズムが地上展開を始めてさほど時間が経っていない時期で、「心霊研究」によってスピリチュアリズムの方向性を形成していく段階にありました。したがって霊能者と心霊現象を中心とするスピリチュアリズム・チャーチにも、それなりの重要性と存在意義があったのです。
欧米のスピリチュアリズムは、こうしたスピリチュアリズム・チャーチを中心として展開していきましたが、時間の経過とともにスピリチュアリズムが次の段階に移行する時期を迎えると、新たな問題が発生するようになりました。その問題とは、スピリチュアリズム・チャーチが低いレベルにとどまったままで、変化しようとしなかったことです。いつまでも霊能者と心霊現象を中心とした低次元の集まりから抜け出せずにいたことです。欧米のスピリチュアリズム・チャーチは、同じ問題を現代にまで引きずり、旧態依然とした状況に停滞しています。現象レベル・好奇心レベル、単なる思想レベルにとどまっています。
ある日のシルバーバーチの交霊会に、当時、SNU(英国スピリチュアリスト連盟)の会長を務めていたヒギンソン氏が招待され、シルバーバーチとチャーチのあり方について対話をしています。シルバーバーチから指導を仰ぐ中でヒギンソン氏は、「現在のスピリチュアリズム・チャーチは程度が低く、こんなものならない方がましだ」とまで言っています。それに対してシルバーバーチは――「チャーチはいつまでも“サイキック・レベル”にとどまるのではなく、ぜひとも“スピリチュアル・レベル”に引き上げられなければならない」と教えています。
シルバーバーチが“スピリチュアル・レベル”と言っているのは、「心霊現象や交霊会を中心とした集まりから、霊的真理を中心とした集まりにする」ということを意味しています。「霊的真理を実践して霊的成長を目指すスピリチュアリストの集まりにする」ということです。そうした集まりであってこそ、霊界の高級霊がチャーチに集い、背後からさまざまな応援や指導をするようになります。シルバーバーチは、霊界からの応援が得られるような高い集まりを“スピリチュアル・レベル”と呼んだのです。
英国の現状を見るかぎり、シルバーバーチの教え(指導)はあまり実行に移されていないようです。依然として“サイキック・レベル”にとどまり、スピリチュアリズム本来の高い次元には向かっていません。高級霊が霊界から地上に働きかけたくても足場がないような状態が続いています。
こうした英国のスピリチュアリズム・チャーチに対して、日本における「シルバーバーチの読書会」は、初めから“スピリチュアル・レベル”の集まりを目指しています。『シルバーバーチの霊訓』という最高の霊的真理を中心としてスピリチュアリストが集い、真理を日常生活において実践し、霊的成長を目指すことを目的としています。これはシルバーバーチが述べている“スピリチュアル・レベル”の集まりです。「シルバーバーチの読書会」こそが、本当の意味でのスピリチュリズム・チャーチと言えます。英国のような心霊現象との深い付き合いがなかった分、日本では初めからハイレベルの集まりが可能になったことは幸いでした。
*後でも述べますが、「読書会」が単なる霊的知識の学習だけの場所になって実践を無視していたり、参加者同士が無意味な議論をしたり、軽い友達付き合いを目的としたサロンのようになっている場合には、シルバーバーチの読書会を名乗っていても、実際には“サイキック・レベル”にも至っていないことになります。
「シルバーバーチの読書会」のレベルアップ
シルバーバーチの読書会にも、さまざまな霊的レベルがあります。読書会には、スピリチュアリズムに関心を持った人々を広く受け入れる“窓口”としての役割もあります。しかし窓を開き過ぎると、単なる好奇心レベルの人だけが集まるようになり、読書会がレベルの低いものになってしまいます。
霊的真理に感動したり共鳴した人々が集まる読書会は、まだ“サイキック・レベル”です。それは読書会としては初歩の段階と言えます。読書会の内容が高まってより霊的なものになると、“スピリチュアル・レベル”ということになります。スピリチュアリズムを主導する霊界の高級霊が働きかけ、読書会が「霊界の道具」として用いられる状態です。真のスピリチュアリストによって読書会が構成される段階です。こうした段階に至った読書会が「本物の読書会」です。
どのような読書会も最初は低い次元から出発しますが、やがて「本物の読書会」へと進歩していかなければなりません。すなわち読書会は“サイキック・レベル”から“スピリチュアル・レベル”へ、“初歩の段階”から“本物の段階”へとレベルアップしていかなければなりません。感動と共鳴のスピリチュアリストの集まりから、道具意識に立った真のスピリチュアリストの集まりへとレベルアップすれば、読書会がそのまま“スピリチュアリズム・サークル”ということになります。
以上の内容を図示すると次のようになります。
「本物の読書会」の意義
「シルバーバーチの読書会」は、スピリチュアリズムの展開における“草の根運動”の拠点となります。「本物の読書会」には、『シルバーバーチの霊訓』が最高であると感じ取ることのできたスピリチュアリストが集います。それは、シルバーバーチが言う“大人の霊”が集まる場所です。
こうした「本物のシルバーバーチの読書会」には、次のような意義があります。
①スピリチュアリスト同士の霊的交流の場所
読書会では、「霊的真理」を絆とした世間にはない人間関係が築かれます。読書会に集ってくるメンバーはまさに、神を中心とした霊的家族の一員と言えます。そこではお互いが利他愛によって結ばれた“真の人間関係”をつくることができます。
②霊的真理の学習の場所
読書会での学習を通して、霊的真理の理解が深められます。読書会に参加することによって、自分ひとりでは到底できなかった真理の深い理解が可能となります。『シルバーバーチの霊訓』の素晴らしさ・卓越性を、改めて実感することができます。
③信仰訓練の場所
読書会に参加することで、スピリチュアリズムが信仰であることを学び、その具体的な実践方法を体験することができます。学んだ真理を実践レベルにまで引き上げないかぎり、スピリチュアリズムを正しく理解したことにはなりません。スピリチュアリズムの信仰とは「霊的真理の実践」に他なりません。
霊的真理の実践はさまざまな内容から成り立っていますが、読書会では直接、信仰実践の手本に触れることができます。そして同時に、自分が信仰実践の当事者になることで、信仰者としての訓練がなされることになります。
④神への礼拝の場所・霊界との交わりの場所
自分ひとりで『シルバーバーチの霊訓』を学ぶだけでは、神への礼拝の仕方や霊界との交わりを体験することはできません。読書会は、メンバーが揃って神に祈りを捧げる場所です。読書会に参加することによって神への正しい祈りを覚え、霊界との交わりを実感できるようになります。
霊性が高められた読書会には多くの霊が参加するようになり、文字通り“交霊会”と同じ霊的雰囲気がつくり出されます。読書会を通して霊の存在を実感し、霊的交わりの感性が養われることになります。
⑤人間性を修養する訓練場所
大半の人間は大人になって他人から、自分の欠点を指摘されたり、人間性の修正を迫られるようなことはありません。そのため自分の欠点を修正せずに人生を終えることになります。欠点を指摘されたり注意されるのは誰にとってもイヤなことですが、そのイヤなことが人間の成長にとって重要な意味を持っているのです。勝手気ままに人生を歩む人間は、霊的成長をすることはできません。自らの未熟さや欠点を自覚し、人間性を磨く努力をしなければ霊的成長は得られません。
本来なら、親や兄弟・先生・上司・配偶者などが相手のためを思って働きかけ、成長の道へと導くべきですが、現在ではそうしたことはあまり期待できません。まして霊的内容が絡んだことに対しては、他人から問題点を指摘されたり注意を受ける機会はほとんどありません。
読書会では、お互いの間に「霊的真理(スピリチュアリズム)」という共通の絆があるため、世間にはない深い信頼関係をつくることができるようになります。そして相手の霊的成長を願って足りない点を率直に指摘し、お互いに高め合うことができる関係を築くことが可能となります。「霊的真理」を人生の指針とすることによって本当の謙虚さが身につき、他人の指摘に素直に耳を傾け、自らの欠点を修正して魂を修養することができるようになるのです。
「シルバーバーチの読書会」は、スピリチュアリストにとっての“霊的宝”
「本物の読書会」には今述べたような意義があり、多くの霊的恩恵が一人一人にもたらされます。読書会に参加することは、地上人が「霊的成長」をするうえできわめて重要な意味を持っています。
人に頼らず「霊的真理」を指針として実践と奉仕の道を歩み、霊的成長を達成していくのがスピリチュアリスト人生の大原則ですが、実際には一人でそうした道を歩んでいくことができる人間はほとんどいません。霊的真理を実践する“霊的人生”は、本当に厳しいものです。どのようなお稽古事や技術の習得よりも困難な歩みです。スピリチュアリズムの“霊的人生”――すなわち霊的成長の道は、人間にとって最も困難な実践と言えます。
そうした厳しい道を歩むについては、「霊的真理(スピリチュアリズム)」という共通の絆で結ばれた仲間との交わりが大切になります。霊的真理にそって歩もうとする者同士が励まし合い・支え合うことが不可欠です。こうした意味で「本物の読書会」は、きわめて重要なものなのです。「本物のシルバーバーチの読書会」に参加できることは、人生における“霊的宝”を得たということなのです。
4)「シルバーバーチの読書会」における問題点
――さまざまなレベルの読書会と主催者の内容
今後増えていく「本物の読書会」
「シルバーバーチの読書会」が、スピリチュアリストに多くの霊的恩恵をもたらすことが分かりました。シルバーバーチは――「スピリチュアリストにはこうしたものがぜひとも必要です」と述べ、霊的人生を全うして霊的成長をしていくために、スピリチュアリスト同士の次元の高い集まりの重要性を教えています。
スピリチュアリズムが地球上に普及してスピリチュアリストが増えていくにともない、世界各地に優れた読書会がつくられていくようになります。霊的真理の学習・神への礼拝・霊界との交わり・霊的絆で結ばれた真実の人間関係・信仰訓練・人間性の修養と訓練といった内容を備えた「本物の読書会(真のスピリチュアリズム・サークル)」が現れるようになります。そしてそうした読書会(サークル)を通して、霊界からさまざまな働きかけがなされ、スピリチュアリズムの普及が加速していくことになります。
現時点での読書会の実態
――「本物の読書会」は、ほんの一握り
しかし現時点では、そうしたすべての内容を備えた「本物の読書会(真のスピリチュアリズム・サークル)」は、ほとんど存在しません。大半が理想から離れており、これが現在の「シルバーバーチの読書会」の最大の問題点と言えます。最近では「シルバーバーチの読書会」と銘打った集まりが各地で開かれるようになっていますが、その実態は理想とは大きな隔たりがあります。
ほんの一握りの優れた読書会がある一方で、多くの読書会が好奇心を満たし仲間付き合いを求めてつくられた次元の低い集まりになっています。単なる真理を勉強するだけの読書会や、議論好きな人間が集まって自分の知識をひけらかして満足感に浸っている読書会もあります。また、人集めが好きな人間が“自分を中心とした集まりを持ちたい”といった個人的な理由から始めた読書会もあります。多くの読書会がスピリチュアリズムのためでも人類のためでもなく、ただ単に自分のため・自己満足のためのものになっています。なかには“自分の実績がほしい”という、きわめてエゴ的な動機からつくられた読書会もあります。残念ながら現時点では、「本物の読書会(真のスピリチュアリズム・サークル)」と言えるものは、ほんの一部を除いて存在していません。
内容のない読書会に参加しても、本当の真理の学習はできません。霊的成長もスピリチュアリズムへの貢献もできません。“類は類をもって集まる”との諺どおり、低い次元の読書会にはそれに相応しい人間が集まり、優れた読書会には霊性の高い人間が集まるようになります。「霊的親和性」という摂理の働きによって、同類の人間が自然に集まるようになるのです。低俗な読書会には霊的価値がないどころか、霊的成長に逆行するようになってしまいます。
読書会のレベルを決定する主催者の内容
読書会のレベルは、ひとえにリーダー(主催者)の内容によって決定されます。主催者の霊性・真理の理解度・信仰性・人間性・純粋性・利他性・知性・忍耐力・包容力・寛容性・自己犠牲性・情報発信能力などの総合力によって、読書会のレベルが決定されます。「グループや組織のレベルは、指導者のレベル以上にはならない」との言葉は、いずれの分野においても適用される鉄則です。スピリチュアリズムの発展のためには、優れたリーダー(主催者)による「本物の読書会(真のスピリチュアリズム・サークル)」の展開が決め手となります。
しかし現実には、すべての条件を満たすような優れたリーダー(主催者)はなかなかいるものではありません。スピリチュアリズムが世界的に普及したときには、選りすぐられた人材が現れて「本物の読書会」が次々と開かれていくようになるでしょうが、スピリチュアリズムの歴史が始まってさほど時間が経っていない現時点では、それを望むのは無理です。
主催者に求められる「道具意識」
――主催者にとって最も大切な「道具意識」
ここで忘れてはならない重要なことは、スピリチュアリズムの普及活動は「霊界主導で行われる」ということです。読書会も霊界の導きの中で進められてこそ、本物になります。自己中心的な動機から始めた読書会では、霊界の人々の援助も導きも得られません。“人集めが好き”とか“人を集めて指導的な立場に立ちたい”といった低俗な自己顕示欲を動機とした読書会に、霊界が働くはずはありません。
読書会はどこまでも、スピリチュアリズム普及のため・人類救済のために行う“無私無欲のボランティア活動”です。誰からも注目されなくても「霊界の道具」に徹して困難を乗り越え進めていく利他愛の実践なのです。自分の力・人間の力に頼ってがむしゃらに進めようとすると、必ず失敗します。人間中心のやり方でも一時的に人を集めることはできますが、そのうち各自が好き勝手なことをやり始め、読書会そのものが成り立たなくなってしまいます。
すべての条件を満たすようなリーダー(主催者)でなくても、スピリチュアリズムに対する純粋な奉仕精神・犠牲精神を持った者には霊界が働きます。「真の道具意識」に立った人間のもとには、霊界の導きの中で霊性の優れた人々が徐々に集まってくるようになります。スピリチュアリズムを単なる思想や現象としてではなく、信仰的生き方として捉えることができる“大人の霊”が少しずつ引き寄せられてくるようになるのです。霊界主導のプロジェクトには、ウソ隠しは通用しません。表面をいかに取り繕っても、霊界の人々の目はごまかせません。霊界の道具・人類救済の無名の兵士として“捨石”となることを喜び、自分の人生をすべて捧げるような人間でないかぎり、霊界が働く「本物の読書会」をつくることはできません。
読書会を主催することは、最高の人類愛の実践・利他愛の実践になります。そのためには当然、先に述べたような道具としての純粋性と献身性・誠実さ・忍耐・寛容性・自己犠牲といったさまざまな内容が要求されます。主催者が「霊界の道具」になってこそ、読書会は“スピリチュアル・レベル”にまで引き上げられます。自分の人生を捧げる決意と見返りを一切求めない姿勢があってこそ、「本物の読書会」を運営していけるようになるのです。
「霊界の道具」としての歩みは本当に厳しいものですが、それは自分に霊的成長をもたらしてくれるありがたい道でもあります。そうした地上での体験(*読書会を主催すること)は死後、霊界に行ってからも活かされるようになります。地上で展開する読書会の“背後霊”として働きかけ、指導する資格が優先的に与えられることになります。
5)今後の読書会の展開と、スピリチュアリズムの将来
今後のスピリチュアリズムの展開において「シルバーバーチの読書会」は、大きな原動力になっていきます。スピリチュアリズム普及の“草の根運動の主役”になっていきます。そして「本物の読書会(真のスピリチュアリズム・サークル)」は霊界からの働きかけの足場となり、霊的影響力が集中する“霊的拠点”になっていきます。
今はスピリチュアリズムの開拓期であるため「読書会」の数は少なく、そのレベルもさまざまです。霊界の足場となるような優れた読書会がある一方で、不純な動機からつくられた霊界の足場とは程遠い読書会もあります。さまざまなレベルの読書会が混在するのは、開拓期における避けられない運命と言えます。スピリチュアリズムが進展して「本当のスピリチュアリズムのあり方」が広く人々に知られるようになるにともない、低次元の読書会は自然淘汰されていくようになります。
スピリチュアリズムの発展を担う読書会とは、言うまでもなく霊界が働きかける「本物の読書会」のことです。高い霊性を持った人々が集まる「真のスピリチュアリズム・サークル」のことです。今はそうしたレベルの高い読書会は一握りしかありませんが、今後は日本の各地に現れるようになるでしょう。現時点ではほんのわずかであっても、本物の存在は将来に確かな希望があることを意味しています。
現在のようにインターネットを通じて情報が瞬時に伝わる時代には、「本物の読書会」が存在するという事実はすぐに知られるようになります。そしてその読書会にどのような人たちが集い、どのような意識のもとで学習が進められているのかといった情報までも知られるようになります。インターネットのお蔭で、人々はさまざまな読書会の内容を比較することができます。わざわざその場に足を運ばなくても、どこが優れた読書会なのかが分かるのです。こうした形で時期のきた人、霊的真理の普及に人生を捧げたいと願う人が「本物の読書会」に集うようになっていきます。
また、すでに読書会を始めている人にとっても「本物の読書会」の存在は、大きなプラスとなります。本物の読書会を見習って良いところを取り入れ、自分の読書会を高めていくことができるようになるからです。低俗な競争意識を持たず、素直に自分を変えていこうとする人であってこそ優れた主催者と言えます。そうした謙虚さを持った人間は、他の読書会から学ぶことで自分が主催する読書会をレベルアップできるだけでなく、自らの霊的成長のチャンスを広げることにもなるのです。
また、これまで特定の宗教を熱心に信仰してきた人にとっても、ネットの情報を通して「自分の信じてきた宗教が果たして本物なのかどうか」を判断することができるようになります。自分が正しいと信じてきたものが実は間違っていたことを知るのは大きなショックですが、それによって真実の信仰のもとで生き直すきっかけを得ることになります。
本物の情報がネット上に示されることによって、至るところに大きな影響が及んでいきます。情報が自由に行き交う世界では、最後に残るのは本物だけです。本物しか生き残ることはできません。本物の情報を隠そうとするのは、自分たちの教えるものが間違っているからです。今後はこうした形で、すべての宗教が試練の中に立たされることになります。
今後、スピリチュアリズムが地球上に普及していくにともない、日本だけでなく世界各地に「本物の読書会」がつくられていくようになります。しかし、しばらくは本物が少数派の時代が続くことになります。その間、さまざまなレベルの読書会が乱立する状況の中で人々は、その時点で自分の霊性に合った読書会を選び、参加するようになります。そして霊的成長にともなってその読書会を卒業し、よりレベルの高い他の読書会に移っていくようになります。
こうしてある読書会は自然消滅し、その一方で新しい読書会がつくられていくようになります。また、一つの読書会から枝分かれして別の読書会ができるようになります。読書会に集う人と読書会を主催する人が次々と入れ替わるというダイナミズムの中で、スピリチュアリズムは全体としてレベルアップしていくことになるのです。
こうした地上における「読書会」の展開を、霊界にいる無数の霊たちが背後から支え導いていきます。霊界人と地上人が読書会を中心としてスピリチュアリズム発展のためにタイアップし、何百年もの時をかけて「霊的真理普及」という大プロジェクトを進めていくことになるのです。
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