(6)地上世界の悲劇〈3〉
――間違った宗教がつくり出す魂の牢獄
1)本来の使命を果たせなかった地上の宗教
地上人の霊的成長を促すことが宗教の使命
地球上の3番目の悲劇は、間違った宗教による「霊的弊害」です。宗教は本来、人類に霊的真理を示して霊的人生を歩ませ、霊的成長をもたらすことを目的としています。宗教の役割は――「地上人類に利他的な生き方(サービス)を教えて霊的成長を促す」という一言に言い尽くされます。こうした宗教本来の目的からすると、これまで地球上に存在してきたほとんどの宗教は“失格”ということになります。人類の霊的成長に全く役に立っていないどころか、反対に霊的成長の道を妨げてきたからです。
霊界から見ると地球上の大半の宗教は、「人間を大霊と結びつける」という大切な目的を果たしていません。それどころか、人々に憎しみや迷信を植えつけて仲違いさせ、大霊との距離を広げてきました。そして、戦争という悲劇を引き起こす張本人となってきました。これまでの宗教は、天国ではなく地獄へと人々を向かわせてきたのです。
「肝心な宗教としての機能を果しておりません。本当の宗教とは大霊との絆を結んでくれるものでなければなりません。なのに、この国の宗教はもはやその役目を果たしておりません。かつては基盤となっていたインスピレーションはとっくの昔に教会から追い出され、代わって教義と信条とドグマと儀式のみが残っております。こうしたものは宗教とは何の関わりもないものばかりです。大霊に近づけるという宗教の本来の目的には何の役にも立たないからです。」
「地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。」
地上の間違った宗教がもたらした、さまざまな「霊的弊害」
地球上の宗教は本来の使命を果たせないどころか、むしろ地上世界にさまざまな霊的弊害をもたらし、悲劇を生み出してきました。人類を救うどころか、反対に害を及ぼしてきたのです。宗教は人類に霊的幸福をもたらすのではなく、悲劇と不幸をもたらす加害者となってきました。宗教はまさに、人類の魂にとって有害な存在だったのです。
宗教が引き起こす悲劇の原因は、すべて“人工の間違った教義”にあります。間違った宗教の教義によってもたらされる弊害と悲劇を整理すると、次のようになります。
- ①人工的な間違った教義が、人々を霊的牢獄の中に閉じ込め、霊的真理を受け入れる道を閉ざす。(霊的牢獄化)
- ②人工的な間違った教義が、人々の心に独善性・偏狭性・憎しみ・排他性を植えつけて利己愛を増幅させ、霊的成長を阻害する。(霊的成長の阻害)
- ③人工的な間違った教義が、異なる宗教との間に対立を発生させ、戦争を引き起こす。(戦争・紛争の原因)
- ④人工的な間違った教義に基づく狂信が死後にも持ち越され、霊界下層に多くの狂信的地縛霊を生み出し、暗黒の地獄状況をつくり出す。そして霊界の人々に、地縛霊のケアのために多大な負担と苦労をかける。(狂信的地縛霊を生み出す)
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2)宗教による魂の支配と霊的牢獄
「盲目性」という信仰の本質的要素
宗教や信仰の特色は「信じる」という点にあります。理性・知性の次元を超えて、教えや信仰対象をすべて受け入れるのが宗教であり、信仰なのです。この点で思想や哲学や学問とは根本的に異なります。こうした「全面的受容性」、ある意味での「盲目性」がなければ信仰は成立しません。“神仏への帰依”という言葉は、信仰の本質をよく言い表しています。信仰とは、教義と信仰対象を心の底から信じて丸ごと受け入れ、自分自身を信仰の対象に捧げ、それに近づくための実践に専念することです。信仰にはこうした真剣さがともなう分だけ、自分の宗教とは無関係な人間に対して排他性が生じやすくなり、妥協性や寛容性が欠如する傾向が強くなります。
熱心な信仰者は自分が崇拝している信仰対象が一番であると思い、自分のしていることは世の中で最も価値あることであるという確信を持っています。もしそうした信念がなければ、人生を懸けた純粋な信仰は成り立ちません。「自分は正しい、自分の信じるものは一番である」という信念こそが、信仰を支える本質なのです。
信仰にはこうした盲目的と言ってもいいようなエネルギーの集中がともなうため、普通ではできないことができるようになったり、自己の殻を破って新しい自我を確立することが可能となります。大きな魂の飛躍をもたらすことができるようになるのです。しかし同時に、それは一歩方向を間違えると凶器にもなり、本人ばかりか周りの人々をも傷つけ滅ぼすような恐ろしい結果を生むことになります。
信仰の純粋性と、教条主義・原理主義
信仰における「盲目性」は、信仰者本人にとっては純粋性・熱意・真剣さに他なりません。しかしそれは、信仰をしていない外部の人間には“狂信”として映ります。真剣に信仰をすればするほど教団の教えに忠実でありたいと思い、教えを厳格に守ろうとします。それは部外者からは“教条主義・原理主義”に見えます。教条主義・原理主義は、信仰に対する熱心さ・真剣さ・忠実さを外部の人間が非難するときに用いる言葉です。部外者が自分を高みに置いて、宗教者・信仰者にラベル貼り・レッテル貼りをすることなのです。
無神論者や他の宗教を信じる者からすれば、熱心な信仰者は皆、教条主義者・原理主義者ということになります。しかし熱心な信仰者からすれば、自分たちを非難する者たちは、単なる不信仰者ということになります。熱心なクリスチャンやイスラム教徒から見れば、大半の先進国の人々や日本人は不信仰者以外の何ものでもありません。
間違った宗教教義の形成と、それによる洗脳
信仰には、全エネルギーを集中させるという「盲目性」が不可欠であることを述べました。それは目指す方向が正しければ飛躍的な発展(霊的成長)や、さまざまな霊的恩恵をもたらすことを意味します。しかし方向を間違うと、限りなく霊的成長から外れていくことになります。このように信仰は“両刃の剣”といった性格を持っています。問題は、「方向性が正しいかどうか」という一点にかかっているのです。
多くの教理宗教は、霊界から送られてくる“インスピレーション”から始まっています。インスピレーションを通じて示された教えの中には、霊的真理の一部分が含まれています。しかし、もたらされた霊的真理は、人類を正しく導くにはあまりにも部分的にすぎません。しかもそのわずかな真理さえも、地上人のエゴと無知によって歪められ、インスピレーションとしての純粋さが失われてしまいます。やがてそれは宗教組織にとって都合のいいものへと手が加えられ、人間の霊的成長とは全く無関係な“人工の教義”につくり替えられてしまいます。
組織宗教の方向性を決定するのは、その宗教の教義であり、それに基づいて指導者や組織の幹部が掲げる目標です。結論を言えば、これまで地球上のすべての宗教は「霊的真理」に対する無知から、正しい方向性を示すことができませんでした。人工的につくり上げた教義によって人々を間違った方向に導いてきました。信仰の「盲目性」という特性を霊的成長に結びつけることができなかったのです。それどころか信仰の特性を悪用して、霊的成長とは反対のマイナスの方向、霊的成長を妨げる方向に人々を向かわせてきました。
「地上にはこれまであまりに永い間、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教が最も大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を1インチたりとも増しておりません。逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、はては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかり行ってきました。神の子等を一つに結びつけることに失敗しております。」
間違った教義が引き起こす“霊的牢獄”
信仰は人々の心を強く支配します。そのためいったん間違った教義を信じ込むようになると、その間違いに気がつくことができなくなります。信仰熱心な人であればあるほど、真剣な人であればあるほど、自らを“霊的暗闇・霊的牢獄”の中に閉じ込めてしまいます。そして自分一人の力では、そこから抜け出ることができなくなってしまうのです。
「教義による束縛は地上世界の苦痛のタネの一つです。伝染病や不健康より厄介です。病気による身体上の苦痛よりはるかにタチが悪いものです。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠しをしてしまうのです。」
「教義というものは例外なく魂にとって足枷となるのです。」
「霊的真理」が絶対的な基準となっている霊界から見ると、キリスト教・イスラム教・ヒンズー教、その他ありとあらゆる地上の宗教の教義は、すべて真実からかけ離れています。そして人々を間違った方向に導いています。その結果、大半の信者が教義の間違いに気づくことなく“霊的牢獄”の中に留まり続けているのです。人々は間違った宗教の教えに従い、大切な地上人生を無駄に過ごしています。そして霊界に行って初めて、地上で教えられてきた教義と信仰の間違いを知り、地上人生を無駄に過ごしてきたことを後悔するようになるのです。
また、中には稀に自分の信仰の間違いに気がつく人もいます。しかし、長いあいだ信じてきた信仰や宗教組織から離れるには、あまりにもハードルが高すぎます。その教団に背くと地獄に堕ちるかもしれないと恐怖を感じ、結局はそれまで通り“霊的暗闇”の中で一生を終えることになってしまいます。
「私たちは物質の子等がいかにして魂の自由を獲得し、いかにして霊的真理の光に浴し、いかにして教義の足枷を解きほどくかをお教えしたいと思っているのです。もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教の虚飾に目を奪われたら最後、霊的真理の光がその厚い迷信の壁を突き通すまでには大変な時間を要するものだからです。」
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3)宗教エゴが生み出すさまざまな悲劇
宗教につきまとう“エゴ性”
敵対する民族や国家が自分たちの正義を主張して譲らないとき、最終的に戦争に至ります。自分たちだけが正しくて相手は間違っているという姿勢は、民族のエゴであり、国家のエゴです。戦争とは、「自己中心の主張との衝突、エゴとエゴのぶつかり合い」に他なりません。
一方、宗教同士の戦争も、自分たちが正義で相手は間違っているという“宗教エゴ”から発生しています。ただし宗教エゴは、民族エゴや国家エゴとは違った一面を持っています。それは宗教的感情・信仰的盲信という強烈な宗教的要素によってつくられているということです。
信仰における「盲目性」という本質をしっかり押さえておかないかぎり、宗教について正しく論じることはできません。宗教に盲目性がともなうということは、自己の信仰に反対する者、また批判する者は自動的にその宗教にとっての“敵”となることを意味しています。信仰に基づく盲信性は、自分たちだけが正しいとする偏狭な考えを生み出し、自分たち以外の者を“敵”、あるいは“不信仰者”と見なすようになります。宗教や信仰には、こうした偏狭性、ある種のエゴ性が初めから付きまとっているのです。
宗教の「盲目性」を利用すれば、宗教指導者はいとも簡単に信者を操ることができるようになります。“組織”を絶対的な善とし、それに忠実に従うことが正しい信仰であるかのように洗脳することができます。また、他の宗教と戦うことが正義であるかのように信じ込ませることもできます。イスラム教における自爆テロは、まさにこうした間違った正義感と組織のエゴによって起こされています。宗教のエゴ性は、組織を通じてよりいっそう増幅されることになります。こうした宗教組織のエゴ性とそれを利用した洗脳は、伝統的宗教ばかりでなく、新しく生まれた日本の新興宗教(新宗教、新新宗教)においてもしばしば見られます。
宗教は、戦争を引き起こす“元凶”
宗教や信仰の本質について知らない人々は、「なぜ宗教は暴力的になり、戦争を引き起こすのか?」「寛容・博愛・平等を唱える宗教こそが、人類を永遠の平和に導くものではないのか?」との疑問を持ちます。
しかし現実を見れば分かるように、地球上の紛争・戦争の多くに宗教が絡んでいます。歴史を振り返ると、宗教同士の戦争のあまりの多さに驚かされます。宗教には盲目性が不可欠であるという特性を考えると、宗教だからこそ、いとも簡単に戦争を引き起こしてきたのだと納得することができます。
人類史上、数え切れないほどの宗教戦争が行われてきました。代表的なものとしては、キリスト教徒とイスラム教徒の十字軍戦争(1096~1270年のキリスト教軍の遠征)を挙げることができます。また17世紀のキリスト教における旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)との三十年戦争も、その残虐性で筆頭に挙げられます。このキリスト教内部の新旧の戦いによって、当時のヨーロッパの人口の30%が失われたと言われています。現在の北アイルランド紛争は、この新旧のキリスト教の対立が今日まで持ち越されたものです。
21世紀の地球上でも、実に多くの宗教による紛争・戦争が起きています。パレスチナにおけるユダヤ教とイスラム教との戦い、カシミール地方(インドとパキスタン国境)のヒンズー教とイスラム教との紛争、イスラム教内部のスンニ派とシーア派との対立、スーダンのキリスト教とイスラム教との対立、インド国内のヒンズー教とイスラム教との対立抗争など、殺し合いが毎日のように行われています。
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間違った宗教が引き起こす霊界下層での地獄化
地上の間違った宗教は、さらなる厄介な問題を霊界にもたらしています。地上時代に間違った宗教に洗脳され、そこから一歩も抜け出すことができなかった人間は、死後もその信仰を持ち続けることになります。死んでいるにもかかわらず“生きている”と思い込み、地上時代の信仰を熱心に続けるのです。こうした“地縛霊”が霊界下層に集まって、地上時代の宗教を再現することになります。そして地上にいる同じ宗教の信者に向けて、有害な影響を及ぼすのです。
また、地上時代に間違った宗教を固く信じてきた人は、偏見を持ったまま霊界に入ります。すると間違った知識によって、霊界という新しい環境に馴染むことを自ら妨げてしまいます。基本的な霊的知識を全く知らないまま他界した人間は、霊界でゼロから学び直さなければなりません。そのため霊界の人々に多大な苦労をかけることになるのです。
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4)スピリチュアリズムの「霊的真理の普及」による間違った宗教の一掃
一神教宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)同士の妥協のない激しい反目と殺し合いを目の当たりにして、世界中の多くの有識者が一神教宗教を非難してきました。そしてこれからの時代は、一神教ではなく多神教、あるいは自然宗教や仏教などが精神世界をリードすべきであると主張します。宗教間戦争の発生源として、確かに一神教は人類に大きな弊害をもたらしました。しかしそれをもって多神教や自然宗教・仏教などが、一神教よりも優れているとは言えません。戦争犯罪の度合は軽くても、人類の霊的成長を促すという本来の目的から見れば、一神教もその他の宗教も大した違いはありません。いずれの宗教も「霊的事実に対する無知」という点では、みな同じなのです。
現在の地球上の宗教は「霊的無知」により、人類に幸福をもたらすどころか、反対に悲劇・不幸に追いやってきました。大半の宗教は、人類にとって有害な存在なのです。地球上から宗教が消滅すれば、人類はもっと幸福になれるはずです。戦争が起きるとその原因が政治に求められますが、本当は政治よりも宗教に原因があることが多いのです。
スピリチュアリズムは、人類に「霊的真理と霊的事実」を示すことによって、信仰的情熱をより広い「霊的同胞世界」に向けさせます。霊的真理によって全人類が「霊的同胞意識」を持つようになれば、これまで地球人類を悩ませてきた民族エゴ(民族主義)や国家エゴ(国家主義)・宗教エゴの壁を見事にクリアすることができるようになります。民族エゴや国家エゴに利用されてきた宗教の歴史に、終止符を打つことができるようになります。これまでの間違った宗教が地球上から一掃されれば、多くの戦争はその原因を絶たれることになるのです。
スピリチュアリズムという霊界主導の「霊的真理の普及計画」は、地上から間違った宗教を消滅させ、人類を霊的弊害から解放し、宗教による戦争を根絶することになります。
「既成宗教のドグマや信条から精神を解放する必要があります。(中略)これまで何千年もの長きにわたって地上人類を縛りつけてきた教条やドグマをめぐる戦争や論争や不和を止めにしなくてはいけません。」
「霊的真理の宗教的意義を披露することこそ私たちの努力目標です。地上人類がその霊的な重要性を認識すれば、戦争や流血による革命よりも遥かに大きな革命が生じるからです。魂の革命とも呼ぶべきものです。地上のすべての人間が魂としての本来の権利――霊的存在としての自由を享受する権利を我がものとすることになりましょう。その時は、何世紀にもわたって魂の足枷となってきたものがすべて取り払われることでしょう。」
地球上の各宗教では、霊的に堕落が進むと、内部から初心に戻ろうとする刷新運動が起こされてきました。多くの宗教にはこうした歴史があります。その中で最も大きな規模で引き起こされた刷新運動が、16世紀から17世紀にかけての“宗教改革”です。キリスト教会全体が大きく分裂したこの改革は、地球上の宗教における最大の刷新運動と言えます。
しかしスピリチュアリズムによる地上の宗教の刷新運動は、そうしたものとは次元が異なります。スピリチュアリズムは地球上のすべての宗教を対象とし、それらをまとめて根底からつくり直そうとする人類史上初めての宗教革命、地球上で“最大の宗教革命”なのです。
スピリチュアリズムによる宗教革命は、地球上に存在する間違った宗教をすべて駆逐しようとする運動です。本来の使命を全うできなかった宗教を追放し、人類の霊的成長を促す本当の宗教を築こうとする大計画なのです。その運動の主役は地上の人間ではなく、地球人類の救いを願う、イエスを中心とする霊界の億万の高級霊たちです。こうした意味においてスピリチュアリズムによる宗教革命は、従来の宗教刷新や宗教改革とは根本から違っています。この霊界を挙げての宗教改革は、長い時をかけて着実に進展していくことになります。
そしていつの日か、地球人類は「霊的真理」を土台とするスピリチュアリズムを唯一の宗教・共通の宗教として受け入れることになります。すでに霊界では当たり前になっている真の宗教が、遠い将来、地球上においても実現することになるのです。そこに至るまでには、組織宗教という既存の権益者からの猛烈な抵抗を受けることになります。彼らはスピリチュアリズムによって、自分たちの存在自体が抹殺されてしまうことを知っているからです。
「その仕事の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。誤った教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。」
組織宗教がどれほど抵抗しても、スピリチュアリズムの拡大を押しとどめることはできません。組織宗教は時間とともに瓦解し駆逐され、地上世界から姿を消すことになります。