(4)地上世界の悲劇〈1〉
――戦争
1)戦争という悲劇
動物にも劣る人間の戦争行為
動物の世界では、同種間での殺し合いはありません。ところが人間の世界では、目を覆いたくなるような残虐な
戦争が地球人類にとって“最大の悲劇”であることに異論を唱える人はいません。それにもかかわらず、どうして人間は、子供でも分かるような馬鹿げた行為をやめることができないのでしょうか。
なぜ戦争は罪なのか?
誰もが当たり前に分かっているようで、実際には大半の人間が戦争の問題の本質を正しく理解していません。その本質とは――「なぜ人殺しは罪なのか?」ということです。
スピリチュアリズムでは、物事を常に「霊的観点」から考えます。では、霊的観点から見たときなぜ“人殺し”は罪なのかと言えば、スピリチュアリズムでは次のように説いています。「生命は神が与えたものであり、人間のものではない。生命は本来神のものであって、人間が勝手気ままに取り扱ってはならないものである。生命は神から付与されたものであるため、たとえ自分の生命であっても侵すことができない価値を持っている」――こうした理由から、人間が戦争や自殺によって生命を奪い去ることは摂理に反する行為となり、“罪”となるのです。
スピリチュアリズムと一般の人々とでは、戦争という悲劇に対する見解は異なっています。スピリチュアリズムでも、戦争は人間による最も愚かな行為であると考えますが、戦争が人間にとって悲劇であるのは、ただ単に肉体生命が奪われるという単純な理由からではありません。
スピリチュアリズムでは、肉体生命それ自体を最も価値のあるものとは考えていません。死ぬこと(肉体の死)を、悲劇とはとらえていないのです。それは霊界こそが本来の世界であって、肉体の死はその本来の世界へ帰ることにすぎないと考えているからです。それどころか、大半の人間にとって「死んで霊界に行くことは、辛い地上人生を歩み通したことへのご褒美である」とし、「死は喜びであり、希望である」と教えています。
戦争が“罪”となるのは、戦争が人間にとって最も価値のあるもの、神から与えられた肉体生命以上に価値のあるものを奪ってしまうからです。その肉体生命よりも大切なものとは、「霊的成長」です。肉体は、霊的成長をなすために神から与えられたものであり、それはどこまでも霊的成長のための手段・道具にすぎません。人間が肉体を持って地上生活を送る目的は、「霊的成長」にあります。こうした意味において霊的成長は、肉体生命よりも重要なものなのです。
スピリチュアリズムが「戦争」という殺し合いを“最大の悲劇”と考えるのは、戦争によって霊の道具である肉体が失われ、人間にとって最も重要な「霊的成長」のチャンスが強引に奪われることになるからです。さらに「戦争」は、人々の心に憎しみを増幅させ、より本能的・利己的にしていきます。人間を霊的成長とは反対の方向に向かわせることになります。こうした理由によって戦争は“大悪”であり、“大罪”と言えるのです。
*多くの人々は、「戦争」は人間の肉体生命を奪うために“悪”であると思っていますが、そこには人間中心の考え方が多分に存在しています。“戦争反対”を叫ぶ大半の人々は、動物の生命も神が与えたものであり、人間のものではないことに思いが至っていません。霊的観点から言えば、動物を殺して食料にすることは、ある意味で戦争における“人殺し”と同じ残酷な行為なのです。人間の生命を奪うことは悪であるが、動物の生命を奪うことは許されるという考えは間違っています。
現在、地球人類が行っている動物に対する残虐行為を正当化し、“肉食”を平気でしているような人間には、“戦争反対”を叫ぶ資格はないということなのです。
霊界側にも大きな悲劇を生み出している戦争
戦争が悲劇を発生させているのは、地上世界だけではありません。実は、戦争で突然死した地上人が次々と霊界に送り込まれ、霊界サイドでも大きな混乱が生じているのです。そしてその対処のために、霊界の人々に多大な迷惑をかけることになっています。地上人は霊界の様子が分からないため、戦争の悲惨さを物質次元だけで認識しています。しかし戦争によって引き起こされる霊界サイドの惨状を知ると、地上人による戦争の罪の重さを強く実感するようになります。
シルバーバーチは、戦争によって引き起こされる霊界サイドの悲劇について次のように述べています。
「私たちのように地球圏に降りて仕事をしている者は、私たちがお届けしている霊的真理が受け入れられるようになる以外に救いようがないことを痛感いたします。(中略)地上界で間違ったことをすると霊界でこういう迷惑が生じますよと教えてあげるしかありません。迷惑とは、霊的に何の準備もできていない魂が霊界へ続々と送り込まれてくることです。そのあまりの酷さに、霊界側としても黙って見過ごすわけには行かなくなったのです。戦死者たちはあたかも熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上界で生活するための道具(肉体)を破壊された魂の傷を、なぜ霊界で癒さねばならないのでしょうか。地上界でやっておくべきことを疎かにしたために生じた面倒な事態に対処するために、なぜ私たちが進化の歩みを止めて地上圏へ戻って来なければならないのでしょうか。」
「戦争を正当化することは、地上界の問題に限って考えても、できません。ただ破壊するだけだからです。ましてや霊界側へ及ぼす影響を考えた時、絶対に正当化できません。霊は地上界を離れるべき時期が熟した時に肉体から離れるべきであるという摂理に反したことを無差別に行うことになるからです。大霊の子がよくぞあれほど大規模に大霊の摂理を平気で犯すものと、私たちは呆れるばかりです。実は地上界のそうした愚かな行為が、霊界の無知な低級霊集団を
跋扈 させることになることを、皆さんはご存じありません。彼らは進歩と平和と調和を憎み、組織的な態勢で邪魔立てしようと画策しているのです。」
2)戦争の原因
戦争の根本的な原因は、“霊的同胞意識”と“霊的絆”の欠如
地球人類は皆、神を「霊的親」とする霊的家族の一員であり、霊的同胞です。全人類は等しく神によって生み出された「神の子供」です。すべての地球人類は“利他愛”という霊的絆で結ばれた霊的家族であり、これが神の摂理に合った本来のあり方なのです。
もし、地球人類全員が“神”を自分の親として受け入れ、他国の人々も霊的家族の一員であると認識するなら、お互いが血縁関係以上の強い“霊的絆”で結ばれるようになり、地上から戦争が消滅することになります。現に、私たちが死後に行くことになる霊界では、そうした神を中心とした「霊的同胞世界」ができ上がっているのです。しかし多くの人々は、“そんな話はまるで夢物語か、現実離れした理想論にすぎない”と考えます。物質世界しか見えず、物質次元のことしか理解できない人間は、霊界の事実は単なる空想のように思えてしまうのです。
これまで地球上では、霊的関係よりも血縁関係が重要視されてきました。大半の人間は霊的絆が存在することさえ知りません。その結果、霊的関係は常に血縁関係よりも後回しにされてきました。地上人が最も重要視している血縁関係は、霊的観点から見れば「肉体次元・物質次元での人間関係」ということになります。それは永遠性を持っていないため、ほとんどの血縁関係は霊界でばらばらになってしまいます。“霊的絆”が唯一の結びつきとなる霊界では、地上の血縁関係を維持することはできなくなるのです。霊優位の人間関係、すなわち「霊的次元での人間的結びつき」「真の利他愛で結ばれた霊的関係」であってこそ神の摂理に一致しており、永遠性を持つことになります。しかしこれまで地球上には、そうした人間関係は稀にしか存在しませんでした。
もし現在の地上人が、霊界人のように他人や他国の人々を自分の家族であると心の底から実感するようになれば、“霊的同胞意識”と“利他愛”が地球上を支配するようになります。そして地球上から、すべての争い・戦争が消滅することになります。しかし現在の地球は、それとは全く正反対の「肉主霊従」の世界になっています。地上人は霊性の未熟さと霊的無知から霊的関係の重要性を理解できず、その結果として人間同士の争い・戦争を引き起こすことになっているのです。
「物質中心主義」と「利己主義」が引き起こす戦争
すべての人間が“戦争は悪である”ということを知りながら、いまだに戦争をやめることができないのは、人類全体に圧倒的な影響を及ぼす圧力があるからです。その圧力とは、地球人類が心に宿している「物質中心主義」と「物質的価値観」と「物質的幸福観」です。「もっと多くのモノとカネを手に入れて、もっと豊かで楽しい人生を送りたい」という物質的・肉体的な欲望は、政治的圧力や軍事的圧力をもってしても押しとどめることはできません。もし、人々の心に物質的な幸福への願望がなくなれば、地球上の大半の戦争はたちどころに消滅することになります。
死後、すべての人間が赴くことになる霊界には、物質的な幸福を求める人間はいません。そのため霊界では、地上世界のような“モノ”をめぐっての争いは一切存在しません。地上人が物質的な幸福に対する欲求を今より減らすことができれば、地球は霊界にもっと近い世界になるはずです。
地上人が等しく有している物質中心主義的な考えは、「物質こそが幸福の源泉である」という間違った幸福観を抱かせ、幸福になるために少しでも多くのモノとカネを得たいとの願望をふくらませます。そして「他人よりもっと多くのモノとカネを手に入れたい」「他人の幸せよりも自分の幸せの方が大切である」という利己主義を生み出します。こうした「物質中心主義」と「利己主義」は、国家レベルにもそのまま反映され、戦争が引き起こされることになります。
かつて19世紀の後半から、資源と市場をめぐる国家間競争によって帝国主義が生み出され、西洋の列強は植民地の獲得・分割にしのぎを削ってきました。後進地域を植民地として支配し、思い通りに物欲と勢力の拡大をはかってきました。こうした経済(モノとカネ)をめぐる国家ぐるみのエゴ的な奪い合いと摩擦が、やがて世界中を巻き込んだ2つの世界大戦を引き起こすことになってしまったのです。
地球上の戦争の主役となる3つのエゴ集団
――民族・国家・宗教
地上世界の大半の戦争は、民族・国家・宗教という人間集団のエゴから引き起こされています。戦争はこれら3つの人間集団の、エゴとエゴのぶつかり合いから発生します。対立する民族はお互いに、自分たちの利益を求め、自己の正義を主張して一歩も引き下がろうとしません。その結果、民族間に紛争や戦争が引き起こされるようになります。国と国との間においても、自国の利益の追求と権力の拡大をめぐって戦争が引き起こされます。また宗教間においても、自分たちの教えの正当性と正義の主張が発端となり、そこに勢力を拡大したいという思惑が絡んで宗教戦争が引き起こされるようになります。現在では、民族と国家と宗教という3つの集団的要素が複合的に絡み合い、より複雑な形で戦争が展開するようになっています。
戦争には必ず、当事者による自己正当化の主張と相手への非難の応酬が先行します。そして両者の言い分には、それなりの正義と正当性があるように聞こえます。しかし、それぞれの主張にどんなに正当性や根拠があるように思えても、霊的に見れば、そのほとんどは“エゴ”から発しています。戦争の原因を根源まで遡ると、最終的には“物欲”と“利己性”という単純な原因に行き着きます。
多民族と多宗教の融和の難しさ
民族紛争はしばしば宗教の対立と絡まり、悲惨な結果をもたらします。その一例として、かつてのユーゴスラビアで実際に起こった歴史的事実を紹介します。
1984年、ユーゴスラビアのサラエボで冬季オリンピックが開催されました。当時のユーゴスラビア連邦は、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国からなる複雑で多様な国家でした。それはひとえに“チトー”という偉大な指導者のもとで達成された偉業でした。
ユーゴスラビア当局は、サラエボでのオリンピック開催に際し、「多文化・多民族・多宗教が共存し、調和する祭典」として誇らしげに世界に向けて宣伝しました。当時のユーゴスラビアはソ連を中心とする社会主義圏に属していましたが、米国や西欧諸国から優等生と称され、社会主義国家としては異例の賞賛を受けていました。サラエボ・オリンピックは、まさにそうした民族と宗教と文化の融合の手本となるような成功を収めました。
ところがそのわずか7年後(1991年)に、ユーゴスラビア国内に内戦が勃発しました(*その内戦は1991年の“クロアチア紛争”から始まり、翌年には“ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争”と呼ばれる大規模な内戦へと拡大しました)。内戦は、民族の浄化を叫ぶ独裁者が国民のエゴ的感情に訴え誘導し、発生したものです。ユーゴスラビア全土で、イスラム教徒・クロアチア人・セルビア人の3つの勢力による凄惨な殺し合いが起こりました。その結果、1995年までの3年半に及ぶ戦いによって死者20万人、難民200万人が発生し、レイプや強制出産といった残虐な性暴力の傷跡を残すことになりました。このユーゴ内戦は、第二次世界大戦後のヨーロッパにおける最悪の戦争と言われています。
極度の貧困と飢餓が、戦争の大きな引き金
物欲をめぐる利己的競争の結果、貧富の差が生じ「貧困」が発生します。それがエスカレートすると「飢餓」という、この世の地獄状態が引き起こされることになります。こうした極度の貧困や飢餓状態では、人間は本能に支配され、エゴ性をむき出しにするようになります。そしてそこに外部から別のエゴ的勢力が介入し、紛争や内戦が勃発することになるのです。いつの時代にも貧困は戦争の大きな引き金となってきました。そうして引き起こされた戦争が、人々をさらに「貧困」と「飢餓」という悪循環に追い込んでいくことになるのです。
貧困・飢餓も原因をたどっていくと、地上人類の「霊的無知」と「物質中心主義」と「利己主義」に行き着きます。(*こうした問題については次の(5)で詳しく取り上げます。)
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最も危険な戦争の引き金
――独裁者と独裁国家
利己主義がエスカレートした結果、“独裁”が発生するようになります。歴史上、多くの独裁者や独裁国家が誕生し、その圧政下で人々は塗炭の苦しみに喘いできました。地球人類は歴史を通じて、独裁者を排除する道を探り求めてきました。そして近世に至って“民主主義”という政治形態にたどり着きました。
しかし民主主義が主流となった21世紀の現在でも、依然として独裁者と独裁国家が存在しています。今も多くの人々が生命を脅かされ、人間としての最低の権利も奪われて、生きる
宗教の対立も、戦争の大きな原因
戦争の引き金となるもう一つの大きな要因が、“宗教の対立”です。宗教にはその性質上、霊的次元・精神的次元での独裁的傾向がともなっています。そのため宗教指導者が独善的であったり、宗教組織の方向性が排他的であると、宗教それ自体が強力な“エゴ集団”になってしまいます。そして「自分たちだけが特別であり、正義である」というような偏狭な優越意識が信者を支配するようになります。信者は「自分たちに反対する者は皆、敵である」と考えるようになり、人々を平和に導くはずの宗教が、戦争を生み出す当事者になってしまうのです。
これまで大半の宗教は「霊的無知」から利己性をエスカレートさせ、他宗教との対立を煽って戦争を引き起こしてきました。宗教心・信仰心の強い人間ほど、他宗教・他宗派を強く拒む傾向があります。この“宗教的独善性”と“自己正当性”が他者との共存を妨げ、争いを生み出すことになります。このようにして宗教は、これまでさまざまな戦争を引き起こしてきたのです。21世紀の現在においても、宗教に関係した多くの紛争が世界各地で発生しています。(*こうした問題については(6)で詳しく取り上げます。)
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現代の軍事衝突と核問題
「物質中心主義」と「利己主義」が支配する地球上では、民族と民族との争い、国と国との争い、宗教と宗教との争いは避けられません。戦争の勝敗を直接的に決定するのは軍事力であり、それを支えるのが経済力と技術力です。外交交渉は軍事力を背景に展開され、軍事力を持っていない国の主張は、まともには相手にされません。
現在の地球上では、非情で冷酷な“力の論理”が実質的な決定権を持っています。そのためいずれの国家も自衛の名目のもとで軍事力を拡大し、軍拡競争に奔走することになります。話し合いという平和的な手段ではなく、軍事力の拮抗によって、かろうじて武力衝突が避けられているのが実情です。武力による恐怖の均衡によって、消極的に表面上の平和が保たれているにすぎません。
物欲とエゴが支配する“弱肉強食”の世界では、より力を持った国家が台頭し、他国への支配力を増すようになります。やがて地球上は力を持った複数の陣営によって勢力版図が形成されるようになり、それらの間で覇権をかけたさらなる争いが生まれるようになります。
近年ではこうして米ソの冷戦が発生し、ソ連が崩壊した後には米中間に新しい冷戦が出現することになりました。ソ連と中国はともに共産党の一党独裁体制の国家であり、欧米の自由主義陣営と対立することになりました。二大陣営が決定的な武力衝突に至らなかったのは(これまでのところ武力衝突がなかったのは)、米国を中心とする自由主義陣営の軍事力が優っていたからに他なりません。米国の圧倒的な軍事力がソ連や中国の軍事力を凌駕していたために、恐怖の均衡によって直接的な武力衝突が回避されてきたのです。しかし今後、中国の軍事力拡大によって軍事バランスが逆転するなら、どのような事態が発生することになるのか予断を許しません。
かつて行われてきた国と国との戦争、民族と民族との戦争は、それほど規模も大きくなく、広範囲にわたって悲惨な状況を発生させることはありませんでした。当事者(戦争当事国の民衆・国民)は戦争によって大変な辛酸をなめることになりましたが、その悲惨な状況は一定の範囲内にとどまっていました。
しかし20世紀に入ってからの2度の世界大戦は、その悲惨さの規模と深刻さにおいて、それまでの戦争とは比較にならないものでした。そしてその後、冷戦状態が続きましたが、もし二大陣営が実際に全面的な軍事衝突に至っていたなら、人類はこれまで体験したことのないような想像を絶する悲惨な状況を迎えていたはずです。その最大の理由は、“核兵器”というそれまでとは次元の違う大量破壊兵器・大量殺人兵器が用いられることになったからです。
第二次世界大戦後、東西両陣営の頂点に立った米国とソ連は圧倒的な軍事力を保持し、軍事的に対峙することになりました。米ソは核兵器の開発競争にしのぎを削り、核兵器は原爆から水爆へと破壊力を飛躍的に増大させ、その運搬手段であるミサイルや戦闘機や潜水艦の性能が高められました。こうして両陣営は果てしない核の軍拡競争に突入し、地球上の人類を数十回も絶滅させられるほど強力な核兵器を持つに至りました。
こうした状況に危機感を抱いた人々が、世界各地で核兵器の廃絶を求める“反核運動”を展開するようになりました。運動の世界的な広がりと同時に、軍拡による国家財政の圧迫という国内事情が加わって、1987年に米ソ間で初めての部分的な“核軍縮条約”が締結されました。しかしこうした動きはきわめて限定的なものであり、核兵器の全面廃絶には程遠いものです。核兵器による人類滅亡の危機的状況は、現在においても依然として変わっていません。
表面的には、核軍縮の動きは徐々に進められていますが、その一方でさらに困った問題が発生しています。それが「核兵器の保有国の増加」と「核拡散」という問題です。近年、インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮が核兵器の保有国になりました。そしてイスラム教の国々の中からも、核兵器の保有国を目指す動きが見られます。
経済小国であっても核兵器を持つことで一気に軍事力が高まり、国際交渉を有利に進めることができるようになります。それは国際社会の秩序を乱し、世界の平和に大きな危機的状況をもたらすことになります。将来には、イランのような政教分離がなされていないイスラム国家が核兵器を持つことによって、世界をきわめて危険な状態に陥れる状況が発生するかもしれません。また、核保有国の核兵器が一部のテロリストの手に渡り、世界が危険にさらされるようになるかもしれません。
*シルバーバーチは、地球人類が核エネルギーを発見したのは時期尚早であったと述べています。地球人類の霊性が今より進化し、利他主義が個々の人間の間だけでなく、国際社会においても共通の考えとなったときに初めて手にすべきものであったと言うのです。分不相応の秘密を知ったために、核エネルギーを平和目的だけでなく、兵器として用いることになってしまったのです。地球人類全体が一定の霊性レベルに至らないかぎり、自発的に核兵器を捨て去ることはできないでしょう。何百年先のことになるか分かりませんが、それまで地球人類は、自らの霊的未熟さがつくり出した核兵器の恐怖と付き合っていかなければならないのです。
3)真の反戦平和運動とは
スピリチュアリズムこそが「真の反戦平和運動」
地球上の人間の心に潜んでいる「物質中心主義」と「利己主義」は、部族・民族・国家というように集団の規模が大きくなるにともない増大していきます。その結果、戦争が引き起こされるようになります。誰も望んでいないのに戦争が引き起こされ、みんな反対しているのに戦争が地球上からなくならないのは、地上人の心の中に“物欲”と“利己性”が強く巣くっているからです。そしてそれが地上世界を支配しているからなのです。
反戦平和運動は、こうした観点から考えていかなければなりません。本当の反戦平和運動は、人類が共通に持っている“物欲”と“利己性”を対象に進められるべきものです。そうでないかぎり、戦争の原因を根本から絶つことはできません。スピリチュアリズムは、まさにそこに向けての人類救済の働きかけです。その意味でスピリチュアリズム運動こそが、「真の反戦平和運動」と言えるのです。
表面上の反核運動・軍縮運動ではなく、人間の心を根本から変えることが真の解決法となります。平和運動は時間がかかっても、人間の心の中から「物質中心主義」と「利己主義」を排除するものでなければなりません。地上人類の“魂の革命”によって初めて、地球上から戦争が駆逐されることになるのです。スピリチュアリズムの「霊的真理」が地球上に普及し、人々がそれを実践するようになるには、今後何百年という長い期間が必要となります。人類が地球上に出現して以来続いてきた戦争の歴史を根底から覆そうというのですから、そう簡単にはいきません。地球上に永久的な平和をもたらすためには、「霊的真理の実践(利他愛の実践)」を通して神の摂理に合わせていくしかないのです。
スピリチュアリズムは、長期的展望のもとで霊界人が主導して進めている「地球人類救済計画」です。それは霊的真理を普及させることによって地球上から戦争をなくし、平和を築いていくことになります。スピリチュアリズムは、霊界が総力を挙げて展開している「真の反戦平和運動」なのです。
「これ(戦争)を阻止するためには民族的対立をなくし、地上人類のすべてが大霊の子であるとの認識を持つことです。対立を生んでいるのは地上的概念であって、大霊は何も差別をしておりません。民族の別なくすべての人類に大霊の分霊が宿っており、それ故に全人類が等しく大霊の子なのです。地上世界には建設すべきものが幾らでもあるというのに、指導的立場にある人たちはなぜ破壊という手段を選ぶのでしょうか。大霊の摂理にもとることをしていては、破壊と混乱を生むだけです。人類はもう十分にそれを見てきたのではないでしょうか。」
「国家とか民族とかで差別してはいけません。いずれの国家も民族も大霊の一部なのです。みな大霊の目から見れば兄弟であり姉妹なのです。こうした私たちの教えは単純で子供騙しのように思えるかもしれませんが、やはり真実です。大霊の摂理を基盤としているからです。摂理を無視して地上界を築こうとしても、混乱と騒動が起きるばかりで、最後はすべてが破綻します。(中略)愛が欲しければ愛のタネを蒔くことです。平和が欲しければ平和のタネを蒔くことです。至るところに奉仕のタネを蒔けば、地上世界は奉仕の精神に溢れることでしょう。大霊の真理はこのように至って単純なのです。あまりに単純過ぎるために却って地上の「お偉い方々」には、その重大性がお分かりにならないのです。」
「平和は互助の精神からしか生まれません。すべての人が奉仕の精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行に移すようになるまでは、平和は訪れません。(中略)私が述べる教えは至って簡単なことばかりですが、それを実行に移すには勇気がいります。霊的真理と霊的摂理を知ることによって断固とした決意を持つに至った時、そして日常生活のあらゆる分野で私利私欲をなくし互助の精神で臨むようになった時、地上に平和と和合が訪れます。それは一宗一派の主義・主張から生まれるのではありません。大霊の子のすべてが霊的真理を理解して、それが日常生活に、政策に、経営に、政治に、そして国際問題に適用していくことから生まれるのです。」
国際連合は平和を実現できるのか
第一次大戦後、戦争が起こらないようにするためには国際的な機関が必要であるという考えから“国際連盟”が設立されました。しかしその
人々が国連に抱く理想のイメージは“世界政府”ですが、実際には、国連は単なる国が集まっただけの寄合にすぎず、理想とは程遠いものです。国家の警察に相当するような絶対的な拘束力もなければ、立法・行政・司法に相当するような強い権限もないのですから、世界政府・世界連邦とはお世辞にも言えません。国際社会全体を統括するという“世界的統一機関”であってこそ、国家間の利害調整が可能となり、戦争を阻止することができるようになります。しかし、現在のような国同士が平面的に横の関係を持っただけの国連では、それは不可能です。各国は自国の物質的利益(国益)の追求を常に優先し、エゴ的な争奪競争にしのぎを削っています。そうした中で主権を盾に他国を侵略する国が出ても、それに対して制裁を加えることはできません。グローバル・ガバナンス(地球規模の共同管理)は、単なる口先だけのきれい事にとどまっています。
現在、地球上には200近くの国と、5千~1万にも及ぶ民族が存在しています。これは、大半の国が多民族国家であることを意味しています。そうした国々では民族的利害がきっかけとなり、国内紛争や内戦を引き起こす危険性が常に潜んでいます。国内で、ある民族が民族自決を唱えて分離独立しようとすると、国は武力を用いて弾圧に乗り出し、悲劇が発生するようになります。国は内政不干渉を唱えて海外からの介入を拒否するため、大量殺害が行われてしまいます。こうした人命の危機に対しても、国連は手をこまねいて見ているだけなのです。
地球上では、これまで平和構築のためのさまざまな努力がなされてきましたが、人類はいまだに根本的な解決法を見いだせずにいます。戦争や紛争・民族対立・貧困問題・環境汚染などの深刻な問題が山積しています。多くの人々はそうした問題に対する解決の道を国連に期待してきましたが、その期待はことごとく裏切られました。国連が無力なのは、「物質中心主義」と「利己主義」の上に築かれた国を、ただ寄せ集めただけの組織にすぎないからです。各国は、自国の利益だけを最優先して求め、国連をそのために利用しようとさえしています。いかに優れたシステムをつくっても、それが人間の物質中心主義と利己主義の上に築かれたものであるかぎり、エゴに振り回され、決して良い結果は得られません。すべての努力は水の泡となってしまいます。
シルバーバーチは国際連盟(国際連合の前身)についての質問に対し、次のように答えています。
「加盟国(国際連盟)の代表は、本当に平和を希求しているのでしょうか。心の底から、魂の奥底から平和を望んでいるのでしょうか。永遠の原理に率直に従うだけの覚悟ができているでしょうか。もしかして自国への脅威となるものを阻止しようとしているだけではないでしょうか。地球と人類全体のためではなく、我が国家と我が民族の富と安全を第一に考えているのではないでしょうか。私たちは大霊と摂理、そしてその摂理の作用を永遠の規範として皆さんに説いているところです。それ以外にないからです。その場しのぎの手段でも一時的には効果があるかも知れませんが、邪悪な手段からは邪悪なものしか生まれません。(中略)
すべての問題を愛の精神で解決するようになれば地上界は平和になります。愛の摂理にもとる欲望は分裂と混沌と破壊を生み出します。その根を正さないといけません。他のいかなる手段をもってしても永遠の平和は訪れません。」
さらに次のように述べています。
「真の平和は霊的摂理を適用する以外にないということを、地球人類はいつになったら悟るのでしょうか。戦争はもとより、それが生み出す流血、悲劇、混沌、破綻といったものの元凶は「利己主義」なのです。その利己主義に代わってお互いが奉仕的精神を抱き合うことによって初めて平和が訪れること、自国の物的威力を誇示しようとする古い唯物思想を捨て、代わって互いが互いのために生き、強い者が弱い者を助け、持てる者が持たざる者を援助しようとする気風になることによってのみ、平和が訪れることを知らねばなりません。(中略)
平和へ向けていろいろと努力が為されながら、ことごとく失敗しております。が、唯一試みられていないのは、霊的真理の理解による方法です。それが為されないかぎり、戦争と流血が止むことはないでしょうし、ついには人類が誇りに思っている物質文明も破綻をきたすことでしょう。」
“必要悪”としての現在の軍事力
反戦平和を叫ぶこと自体は間違っていませんが、それに携わる運動家自身が、自分も同じ醜さを持っていることを自覚すべきです。“戦争反対・平和賛成”――こうしたスローガンには誰も異論を唱えません。しかし現在の地球上では、その主張は往々にして理想論や自己満足のレベルにとどまっています。また、自分のことを棚に上げた無責任な批判にすぎないことが多いのです。一方、独裁者や独裁国家は、自分たちの利益のために意図的に平和運動を利用しています。それは、悪人やペテン師ほど善人を装い人々を騙しているのと同じことです。
霊界から見れば「物質中心主義」と「利己主義」が支配する地球は、その全体が戦場と言えます。“弱肉強食”の醜い争いが続く地球は、まさに“地獄”と言ってもいいような世界です。かつて日本が戦国時代に、小国に分かれて覇権を競って殺し合いをしていた状況が、今は地球規模で同じように展開しているのです。そこでは軍事力を持つことが、自国の防衛のためには欠かせません。もし何も軍事力を持っていなければ、たちまち他国からの侵略を受けて、国家そのものの存続が危うくなってしまいます。
現在では、いずれの国にも警察があります。仮に、他人に危害を加えたり犯罪を犯す人間がいなければ、警察は必要ありません。善人ばかりの世界であるなら、警察は不要なのです。しかし現実には、警察がなくては最低の社会的秩序も道徳も保つことができません。それと同じように、外国に対して軍事的抑止力を持つことは、21世紀の地球上では欠かせないことなのです。軍事力は、本来あってはならない“必要悪”ですが、軍事力なくしては平和を維持できないのが実情なのです。それは現在の地球人類の霊性レベルを端的に示しています。残念なことですが、「霊的真理」が地上人の常識となるまでは、軍事力は必要悪として存在し続けることになるでしょう。
地球全体が戦闘状態に置かれている中で、口先だけの平和を唱えることは現実を無視した観念的平和論、単なる理想論にすぎません。霊的真理が地球人類にとって常識となった何百年か後の時代ならともかく、現在ではむしろマイナスの結果を招くことになります。核兵器廃絶の問題も、これと共通しています。核兵器が地球上に存在してはならないのは当然のことですが、本当の平和を考えるなら、核兵器だけでなく軍事力のすべてを地球上からなくさなければならないという理屈になります。それこそが、本来の平和運動です。しかしいざ実行に移してみると、現実という大きな壁に突き当たることになるのです。
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