(7)地上世界の悲劇〈4〉

――精神の堕落・退廃

1)人間の精神の堕落・退廃という悲劇

精神の堕落・退廃が招く「霊的成長の阻害」

霊的観点から見ると「精神の堕落・退廃」は、まさしく人間にとっての大きな悲劇であることが明らかになります。人間にとって最も重要なものとは、「霊的成長」に他なりません。人間は皆、霊的成長をなすために地上に生まれてきました。そして死後も、永遠に霊的成長の道をたどることになります。「霊的成長」は人間の宿命であり、永遠の理想、希望のすべてと言っても過言ではありません。地上人にとっても霊界人にとっても、霊的成長は最大の目標であり、最も価値あるものなのです。物質に支配されて霊的な視野を見失っている大半の地上人には、その重要性は理解できませんが、霊界人は生活の中心を霊的成長において歩んでいます。

精神の堕落・退廃は、これほど重要な霊的成長の歩みを妨げ、人間にとっての霊的宝を奪ってしまいます。戦争や貧困・飢餓などで生命が失われたり肉体が弱体化させられることは、霊的成長のための道具が損なわれ、そのチャンスが奪われるという意味で悲劇ですが、「精神の堕落・退廃」は、霊的成長の道がストレートに妨げられるという点で肉体の死に匹敵する悲劇と言えます。

再度述べますが、精神の堕落・退廃が悲劇であるのは、「霊的成長」という最も大切な霊的宝を犠牲にすることになるからです。霊的成長という地上に生まれた最大の目的を阻害し、永遠の魂に大きなマイナスを及ぼすことになるからなのです。人間が地上に生まれたのは、物質世界での生活を通して霊的成長をなし、霊界での永遠の生活に備えるためです。「精神の堕落・退廃」は、その肝心な霊的成長という目的を達成できないようにするどころか「マイナスの要因(カルマ)」をつくり出し、心にさまざまな不調和と苦しみをもたらすようになります。こうした意味で精神の堕落・退廃は、人間にとって大きな悲劇であり、不幸なのです。

人類史という長いスパンで見るなら、物質文明がピークに達すると「精神の堕落・退廃」という危機的状況が繰り返し出現していることが分かります。人間の精神の荒廃によって国家は内部から崩壊を始め、やがて滅亡の道をたどることになります。精神の堕落・退廃は、個々の人間にとっての危機であるばかりでなく、国家や地球全体にとっての危機でもあるのです。

では「精神の堕落・退廃」とは、具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。

精神の堕落・退廃とは“利己愛・自己愛”の増大のこと

人間は、「利他的実践(サービス)」を通して霊的成長を達成するように造られています。それは神が定めた法則(摂理)であり、人間にとっての生き方の大原則です。人間が地上に生まれたのは、物質世界での利他的行為を通して霊的成長をなし、霊界(死後の世界)での永遠の生活に備えるためです。人間は利他的行為によって「神の摂理」と一致し、霊的成長のプロセスを歩むことができるのです。そのとき魂(精神)は、神の愛と霊的エネルギーに満たされ、喜びが湧き上がるようになります。これが真の意味での幸福な状態です。

ところが地上世界では、この神が定めた摂理通りの人生を歩む人間はほとんどいません。大多数の地上人は、利他愛・利他的行為とは正反対の“利己愛(自己愛)・利己的行為”に走っています。霊的成長を望むのではなく、物質的な富と利益(お金・権力・名声)を手に入れることをひたすら願っています。そして物欲と肉体本能への歯止めをなくし、利己愛・自己愛を増大させています。

霊界人と地上人との違いを一言で言えば、霊界人は“利他愛”によって心が占められているのに対して、地上人の多くは“利己愛・自己愛”によって心が支配されているということです。霊界人は利他的行為しかしないのに対して、地上では自己を後回しにして利他的行為を優先するような人間はほとんどいません。利己愛(エゴイズム)は、神の摂理に反した心の状態です。この利己愛が際限なく増幅していくと、きわめて不自然で不調和な精神状態に陥ります。これが「精神(心)の堕落・退廃」です。地上人がそうした精神の堕落状態にあるということは、地上世界に生まれてきた目的を自ら放棄し、人生を無駄にしているということです。それは地上人にとって、悲劇以外の何ものでもありません。

未熟な霊的レベルにとどまり続けてきた地球人類

――2千年前も現代も大差のない霊的状態

地球人類は現在まで、「肉主霊従」の状態の中で歴史を形成してきました。物欲と利己愛に支配され、領土やモノの奪い合いを延々と続けてきました。2千年前のイエスの時代と今の地上人類を比べると、物質的には進化していても、霊的・精神的にはそれほど差はありません。昔の人間も現代人も、その多くが“物欲”と“利己愛”を中心として生きており、利他的な生活(サービス・奉仕の人生)を送っている人間はめったにいません。

イエスは物欲と利己愛に生きることを戒めましたが、そのイエスの教えは、現在の私たちにもそのまま当てはまります。それは裏を返せば、現代人には2千年前と同じ教訓が必要であり、当時の人間も現代人も、精神的・霊的内容には大して違いはないということを示しています。イエスの時代から現在に至るまでの2千年間、地上人類はほとんど霊的成長をしてこなかったということです。霊的成長ができない子供の状態、未熟な霊的状態を続けてきたということなのです。

2)伝統的宗教の衰退にともなう人間の本能化

物質文明の進歩にともなう宗教的権威の失墜

長い間、キリスト教に代表される伝統的宗教は地上人を霊的牢獄に閉じ込め、人々を霊的奴隷状態に陥れてきました。18世紀、英国に端を発した産業革命は、技術革新と経済発展をもたらし、物質文明を著しく進歩させました。それにともない、人間にとっての絶対的な権威・精神の拠りどころが“神(宗教)”から“モノとカネ”に変化するようになりました。そしてそれまでの宗教への信頼は、根底から揺さぶられることになりました。

さらに19世紀以降の科学技術の発達は、宗教の支配力をよりいっそう後退させることになりました。物質文明の進歩につれて地上人類は伝統的宗教から離れ、代わってお金が新しい神(最も価値あるもの)として人々の心を支配するようになりました。人間は宗教や神ではなく、モノとカネに絶対的な信頼をおくようになってしまったのです。

科学の発展とともにそれまでヨーロッパを支配してきたキリスト教の権威は地に墜ち、多くの人々は教会から遠ざかるようになりました。アメリカのキリスト教はヨーロッパと比べると、現在も依然として勢力を保っていますが、次の世代にはヨーロッパと同じような衰退状況を迎えることになるでしょう。こうしたキリスト教に対して、最後まで大きな宗教的権威を保ち続けることになるのがイスラム教です。しかしそのイスラム教も、今後の経済発展と科学技術の浸透とともに世俗化が進み、宗教的権威と支配力が徐々に揺らぎ、やがてはキリスト教と同じ運命をたどっていくことになります。

伝統的宗教の崩壊と「肉主霊従化」の加速

伝統的宗教の崩壊によって、これまで宗教が引き起こしてきた“魂の牢獄化”という大きな霊的弊害が取り除かれることになります。こうした意味で宗教(*伝統的宗教にかぎらず新興宗教も含め)が崩壊することは、人類にとって朗報と言えます。宗教的束縛から解放されることによって人間は、「霊的成長」という最も重要な道を自由に歩めるようになるからです。間違った宗教による霊的束縛が断ち切られることは、人類にとって歓迎すべきことなのです。

しかし一方では、そうした状況を喜んでばかりいられません。別のマイナス状況が発生することになるからです。宗教の崩壊とともにその束縛から解放された人々は、一気に「肉主霊従」の方向に走るようになります。その結果、これまで宗教によってある程度抑制されていた「物質中心主義」と「本能的快楽主義」が、大手を振るうようになるのです。そして人間は急速に「利己主義」を加速させ、野獣化するようになってしまいます。

物質中心主義の支配が拡大するにともない、人間の心は危機的状況を迎えるようになりました。宗教の権威が失われた現在、信仰の支配が当たり前であった時代と比べると人々の精神は荒廃し、心の拠りどころを失い、不安や絶望の中に立たされるようになっています。伝統的宗教の衰退による霊的奴隷状態からの解放は、「精神の堕落・退廃」という新たな問題を生み出すことになったのです。

イスラム教圏では、人間(信者)の精神的堕落・退廃は、表面的にはキリスト教社会のように進んではいません。それはイスラム教では、戒律や礼拝がしっかりと守られてきたからです。宗教的な信仰実践が義務化されているため、精神と生活に一定の枠がはめられてきました。そしてそれは現在でも同じ状況にあります。戒律や礼拝を破ることに対して厳しい宗教的制裁が科せられるため、外枠が維持され、表面的であっても肉主霊従化が防がれ、精神的堕落・退廃に歯止めがかけられてきたのです。

最近の日本では、キリスト教圏の先進諸国と同じように国民の精神的堕落・退廃が顕著に見られます。それは第二次世界大戦の敗戦によって、それ以前の日本人の間に維持されてきた道徳心や道徳的規律が失われるようになったからです。戦前にはこうした伝統的な精神が、日本人の考え方と生き方に一定の枠をはめていました。それが取り払われたことによって、急速に「肉主霊従化」が進むことになってしまいました。そして今では“肉体本能と利己愛(自己愛)”に支配された日本人が、社会にあふれるようになっています。

3)肉体本能と利己愛に支配された現代人の特徴

――精神的に堕落・退廃した現代人の実態

肉体本能に支配された人間は“利己愛・自己愛”しか持てなくなり、本当の人間関係を築くことができなくなります。こうした「精神の堕落・退廃」は、本人の心にさまざまな苦しみや痛み(不安・恐れ・絶望・悲しみ・虚しさなど)をもたらすようになります。人間は自ら招いた内面の不調和によって、その心を“地獄状態”に追い込んでいくようになるのです。

そうした人間は、霊的成長のために与えられた地上人生を意義あるものにすることができず、無駄に過ごすようになります。そして死んで霊界へ行ってからも、霊界での適応性の欠如や、地上時代の利己的行為に対する後悔という形で、さらなる苦しみを味わうことになります。「精神の堕落・退廃」は、このようにして地上だけでなく、霊界での悲劇をも生み出すことになるのです。こうした問題については(9)で詳しく説明します。)

肉主霊従の状態に陥った人間は、肉体本能に支配されるようになり、本能的衝動に駆られた行動をするようになります。感情も行為も理性でコントロールできなくなり、極端に自己中心的・自己愛的な行動に走るようになります。常に本能の満足を求め、物質的利益の獲得を優先するようになるため、自分に協力的な人間だけを大切にし、そうでない人間に対しては無視するといった冷たい態度をとるようになります。自分に快楽や利益をもたらすかどうかだけで周りの人間の良し悪しを判断し、自分の欲望達成を妨げる者には敵愾心を抱いて攻撃的に出るようになります。そして自分の悪いところはすべて他人の責任にし、決して自分の非を認めようとしません。周りの迷惑もかまわず、「自分だけが良ければそれでいい」といった極端に身勝手な言動をするようになります。このように肉体本能に支配された人間は、利己愛・自己愛で心が占められるようになるのです。

以下では、21世紀初期の地球上における“利己愛・自己愛”の諸相を見ていきます。利己愛・自己愛を増大させた現代人の実態を、5つの特徴として述べていきます。

利己愛者の特徴【1】

――極端な見栄・自己顕示欲・自信過剰・誇大妄想

肉主霊従の状態に陥るということは“愛”の点から言えば、「利己愛に支配されるようになる」ということです。“利己愛”とは、自分が一番かわいい・自分だけが大切という思いのことです。周りの人々から、ひたすら愛されたい・ほめられたい・持ち上げられたいと切望することです。時にそれは、多くの人々を自分の思うように操りたいという支配願望を生み出すことになります。

そのような者が結ぶ人間関係は、すべて“自分中心”となります。自分に愛を与えてくれる人間だけを求めるようになります。相手の人間は、自分に仕え褒めそやしてくれるときには重要性を持ちますが、そうでないかぎり全く価値がないことになります。

利己愛・自己愛に支配された者の心には、自分は他人よりも偉大な人間でなければならないという「見栄」や「自己顕示欲」、「過剰な自信(自信過剰)」や「誇大妄想」が生まれます。そして自画自賛を繰り返し、他人に自分の自慢話を聞かせるようになります。人の意見など決して聞こうとはせず、ひたすら周りからの称賛を求め続けます。自分のプライドを傷つけたり、自分を無視するような人間には、なりふりかまわず非難・攻撃を浴びせるようになります。

利己愛者の特徴【2】

――強いコンプレックスとプライド・過剰反応・傷つきやすさ

利己愛に支配された人間は、心の内に全く正反対の思いを同居させるようになります。常に強気で自信ありげに振舞い、外面上は決して他人に従おうとしない強情さ・傲慢さを見せています。しかし内面では、自分の能力のなさと弱さをイヤというほど自覚しているのです。自分の思い通りにならない現実を前にしてプライドが傷つき、人によっては強いコンプレックスを内在させるようになります。とは言っても、「何とか自分をよく見せたい」という極端な見栄と自己顕示欲によって上辺を取りつくろい、強気で自信ありげな態度をとり続けることになります。

しかしひと度、現実の力関係の中で自信が崩れるようになると、見せかけの強気は一転し、強い自己卑下やひがみ・逃避志向・引きこもりといった方向に走るようになります。周りの人々との接触を避けて自分一人だけの心の砦をつくり、そこに閉じこもって自分のプライドを保とうとします。自分よりも能力のある人とは、できるだけ会わないようにします。心はガラスのように脆く、ほんの些細なことでも傷つき、コンプレックスで自分自身の首を絞めるようになります。人が口にする何げない言葉も自分への攻撃と勘違いして過剰反応し、被害妄想に陥りやすくなります。

自信過剰と傲慢さ、そしてコンプレックスによる自己卑下と傷つきやすさという両極の性向が、“利己愛”に支配された人間の特徴です。現実には何も行動できない若者が、ネットの掲示板で必死に自己主張している様子は、まさに利己愛に支配された心の荒廃状態を示しています。

利己愛者の特徴【3】

――虚しさを忘れるために集団的行動や刹那的行動に走る

21世紀の先進国に住む人々は科学技術と経済発展の恩恵に浴し、かつての王侯貴族よりもはるかに物質的に恵まれた暮しをしています。しかし、そうした物質的な豊かさとは裏腹に、多くの現代人はさまざまな心の痛み(不安・恐怖・悲しみ・怒り・絶望)を抱え、心の虚しさに喘いでいます。

利己愛に支配された人間は“霊的エネルギー”を枯渇させ、心に虚しさが巣くうようになります。そしてその苦しみから逃れたい、生きがいを実感したいという欲求が強くなっていきます。現在では“生きがい探し”がブームになっていますが、その背景にはこうした実情があるのです。多くの現代人は、虚しさを忘れるために絶えず楽しみや感動体験を追求しています。楽しいことや刺激的な出来事を通して、心の虚しさを忘れようとしているのです。

現代人の多くが常に賑やかな場所やお祭り騒ぎを好み、ギャンブルや酒やドラッグに走り、スポーツ観戦に熱中しています。ゲームの中でバーチャルの世界にのめり込み、次々と刹那的な刺激を追い求めています。人々はこうしたものによって虚しさを忘れ、あるいは虚しさを自覚することがないようにしているのです。

また、孤独感を癒すために、絶えず人との接触を求めます。現在、多くの日本人は肌身離さず携帯電話を持ち歩き、四六時中、誰かとメールのやり取りをしています。その様子は、まさにドラッグの中毒患者と同じように、一人にされる孤独感・寂しさ・虚しさから必死に逃れようともがいている姿に映ります。

また、誰とも深い愛情関係を築けない人間は、自分の思い通りになるペットに異常に執着するようになります。現在の“ペットブーム”の根底には、人々の心の虚しさがあることは言うまでもありません。

多くの現代人は、自分が独りぼっちであること、友人から切り離されて自分だけが取り残されることに耐えられません。そして周りの人たちとの間に愛の関係をつくりたいと願っています。しかし常に愛されることを優先するため、他者との間に深い心のつながりを持つことができません。自分自身が愛を遠ざけているにもかかわらず、それに気がつかないのです。心では必死に愛を求め切望しているのですが、すぐに破綻してしまいます。そうした人間はやがて、人を愛することも人を信じることもできなくなり、それがいっそう心を孤独にし、自分を虚しさと絶望の淵に追い込むようになります。

利己愛者の特徴【4】

――いつまで経っても成長できず、子供のままにとどまる

利己愛は、人間の心にこうしたさまざまなマイナス傾向を発生させます。そのような人は、いつまでも霊的成長をなすことができません。現在では、利己性の殻を破ることができないまま一生を終える人間が増えています。

利己性とは本来、子供時代の心に特徴的なものです。それは、子供時代に親のもとで一方的に愛を受けて成長するために、一つの成長過程として許されているものなのです。しかしその“利己性”は、成長とともに“利他性”へと脱皮していかなければなりません。利己愛から利他愛への移行が、取りも直さず「霊的成長」ということなのです。いつまでも利己愛の殻から抜け出ることができない人間は、子供のままの精神状態にとどまることになります。

精神の荒廃した現代では、大人になり切れない成人、子供のままの未成熟な成人が増加しています。子供と同じような趣味に走ったり、つまらない冒険心にとらわれたり、霊的成長に何ひとつ結びつかないことに意識とエネルギーを向け続けています。そして現代社会では、それをさも素晴らしいことであるかのように賞賛しています。

利己愛者の特徴【5】

――最低のマナーさえ守らず、身勝手な行動に走る

他人に迷惑をかけない、他人が不愉快になるようなことはしない――これは“利他愛”の最低条件であり、人間としての最低限のマナーです。この最低限のマナーを守らなければ人間は獣化し、動物以下の人間社会ができ上がってしまいます。かつての日本人は、このマナーのよさで世界的に有名でした。しかし最近では、その評判も急速に失われつつあります。人に迷惑をかけようが自分さえよければいいといった、自己中心的な人間であふれています。

“利他愛”とは、自分を犠牲にしておおやけへの奉仕を優先することです。当然その前には、他人に対する思いやりや気遣いが必要です。昔の日本人は、公の世話になることを極力避けようとし、それを申し訳ないことであると考えていました。他人に迷惑をかけない、公の世話になって迷惑をかけない、こうしたあり方が広く行きわたっていました。露骨な利己的行為を恥ずかしく思い、公のために自己犠牲を払う人間を尊敬していました。まさにそれこそが日本人の宝だったのです。

社会のために尽くすというような利他愛のレベルにまでは至らなくても、他人に迷惑をかけないことは人間として当たり前のマナーです。最低のマナーを守れない人間は、動物と等しい存在に堕ち、とうてい魂の成長をなすことはできません。残念ながら今の多くの日本人(若者ばかりでなく年齢を重ねた者も)は、他人に迷惑をかけること、他人に不快感を与えることが平気になっています。日本人の精神レベルは、明らかに低下しています。モラル意識は大きく後退し、さまざまな社会問題を発生させることになっています。

こうした自分勝手なあり方を当然のこととする精神の荒廃状況は、世界的に見ればごく普通のことと言えます。アメリカ・南米・中国・アジア・アフリカ・中東のいずれの国においても、人々のエゴ性は極端に強いのです。日本人の常識では考えられないようなあまりの身勝手さに遭遇すると、(精神の荒廃が進んでいるとはいえ)日本人のモラル意識の高さを実感し、誇らしくなります。世界の大都市の中で夜間、自動販売機を戸外に置きっ放しにしている国は、日本以外にはほとんどないのが実情です。

“モラル”という点から見ると、日本はこれまで特別に優れていたと言えます。宗教の束縛がなくなった先進国、その中でも最も物質的に豊かなアメリカでのモラルの低下は、社会問題の増加の中にはっきりとした形で現れるようになっています。あるいは金権体質一色に染まった中国でのモラルの低さは、これもまた世界の中で突出しています。

4)利己愛・自己愛がもたらす社会問題

利己愛・自己愛は個人ばかりでなく社会全体を支配し、さまざまな問題を引き起こしています。個人の利己愛・自己愛を土台として形成された社会は、必然的に幼稚で利己的な傾向を帯びるようになります。そうした社会が一人一人の人間に悪影響を及ぼし、利己愛・自己愛をさらにエスカレートさせることになります。こうして個人と社会が利己性をエスカレートさせていく、マイナスのサイクルがつくられていきます。

神は“利他性”という摂理が支配する世界を創造されました。そのため“利他愛”があらゆる人間関係の基本となり、大原則になっています。人間が利他性に基づく愛情関係・人間関係を築くとき「神の摂理」と一致し、霊的な喜びを体験することになります。正常な人間関係は、利他性を通して実現します。一人一人が自分のことよりも先に相手や周りのために奉仕し、お互いが全体のために尽くし合い協力し合うとき、霊的絆によって結ばれた真の人間関係が成立するようになっているのです。

利他性という大原則から外れると、人と人との間には本当の愛の関係は成立しなくなります。現在の地上人の精神を支配している利己愛・自己愛は、愛という名前は付いていても、摂理に反した愛であって本物の愛ではありません。そのため喜びではなく、痛みや苦しみ、争いや憎しみをもたらすようになります。本物の愛は純粋に霊的次元のものですが、利己愛・自己愛は肉体次元・物質次元の愛であり、魂に真の幸福をもたらすものではありません。

利己愛・自己愛が支配する社会では、あらゆる人間関係に破綻が生じるようになります。地球人としての人間関係、国民としての人間関係、地域社会の一員としての人間関係、職場での人間関係、家庭における人間関係など、すべての人間関係が破綻することになります。それが当事者である人間の心や身体に、苦しみや痛みなどの悪影響をもたらします。利己愛・自己愛は、真実の愛からかけ離れたエゴ的な人間関係をつくり出し、苦痛を発生させることになるのです。

ここではそうした利己愛・自己愛に支配された現代の先進諸国の社会状況と、神の摂理から外れて不調和状態にある人間社会の実態を見ていきます。

社会全体を覆う異常性

――異常が異常でなくなり、正常が片隅に追いやられる

現代社会の精神の堕落・退廃状態は、テレビや新聞を賑わせている事件や社会現象に端的に示されています。親が子供を殺し子供が親を殺すといった事件、恋人や配偶者に対する暴力、警察官や教師のセクハラ事件、若い母親の幼児虐待、若者の非行や暴力事件、ニートと呼ばれる無気力な若者たちの増加、遊ぶ金欲しさに出会系サイトを利用し犯罪に巻き込まれる少女たち、ネットで知り合った者同士が簡単に集団自殺する事件など、現在では特別に珍しい出来事ではなくなってしまいました。

今や本能だけに翻弄されて野獣化した人間、欲望の奴隷と化した人間、自己愛だけでそれ以外はないといった人間が社会にあふれています。日本人全体の精神が、中心部から腐りかけているように思われます。こうしたことは、つい数十年前にはほとんど見られなかった社会現象です。当初は誰もがその異常さと急激な悪化を感じてはいたものの、毎日毎日こうした事件に触れているうちに、正常とは何かが分からなくなってしまいました。あまりにも異常な出来事が増え、それがメディアによって繰り返し報道されることで、異常を異常と感じられなくなり、よくある出来事と思うようになってしまいます。正常が隅に追いやられ、異常が社会の中で当たり前になってしまうのです。

現在、日本中の至る所でケータイやスマホを手にし、それに熱中している人々の姿を見かけます。歩きながら、自転車に乗りながら、学校の授業中に、休み時間に、食事中に、家では風呂に入りながら、ベッドの中で、通勤通学の駅のプラットホームで、電車の中で……、多くの人々が一日中ケータイと過ごしています。ケータイなくしては生きていけない、まさに“中毒”と言うべき状態に陥っています。それが若者だけでなく、老人を含めたあらゆる年齢層にわたっています。これは、異常としか言えない状況です。

しかし今の日本人の中で、こうした“ケータイ中毒”を異常として指摘し、規制の必要性を訴える人はいません。政府もメディアも見て見ぬ振りをしています。それほどまでに国民全体が異常な状況に陥っているのです。こうした状況がエスカレートしていくなら、いつか何らかの形で破綻をきたすことは避けられません。物質文明の道具の奴隷となって嬉々とし、最も大切な霊的成長や健全な精神を犠牲にしているのです。“ケータイ中毒”は現代社会における異常の一つの例にすぎませんが、日本ではそうした異常な出来事が異常として認識されず、当たり前になっているのです。

異常を異常と思えない社会状況は、国民全体の霊性・精神性を著しく退化させることになります。そして社会全体が霊的・精神的に極端に二極分化するようになります。一部の健全な精神の持ち主と、大半の異常な精神の持ち主に分かれてしまうのです。これと似たような状況が、人類の歴史の中でしばしば出現してきました。特に物質文明が急激に発展した時代には、こうした社会状況が繰り返し現れてきたのです。

「唯物主義」の浸透と純粋な宗教心の喪失

どのような時代にあっても、宗教の価値や精神的生き方の重要性を説く人がいます。モノより心が大切であると主張する人がいます。しかし、物欲と利己愛が人々の心を強く支配している時代には、そうした声は社会の片隅に追いやられてしまいます。唯物論者は、「神などいない。死後の世界など存在しない」と断言します。神や死後の世界に期待するのではなく、現実の世界をいかに精いっぱい生きるかが大切だと主張します。こうした意見に、一般大衆は同調します。

「唯物主義」は科学の発展とともに勢いを得、徹底して宗教を否定してきました。多くの知識人は科学を持ち出して神や死後の世界を否定し、科学によって証明されないものは信じないし、認めることはできないと主張してきました。知識人やメディアがこうした唯物主義の旗振り役となり、唯物主義的な考え方は大衆の中に浸透し、やがて社会の主流の座を占めるようになってしまいました。

精神の堕落・退廃状況が進展して宗教的・道徳的権威が低下すると、それにともなって唯物主義が圧倒的な影響力を社会全体に及ぼすようになります。唯物主義が社会の中で主流の位置を占めるようになると、宗教や道徳は脇に追いやられて存在意義を失うことになります。

唯物主義が支配的となっている社会では、宗教は単なる飾りもののような存在となり、その影響は日常生活の一部分に限定されることになります。信仰とは週に一度、教会に足を運ぶこと以外の何ものでもなくなり、形骸化した習慣の一つになってしまいます。“神を信じる”と言っても口先だけで、実際は神を意識した生活とは程遠い、物欲にまみれた生活を送っています。お金こそが現実的に最も信頼できるものであるとし、お金がなければいくら信仰を持っていても人間は幸福になれないと考え、せっせと金儲けや蓄財に励むようになります。そうした人間にとって信仰は、もはや単なる儀式であり、善人を装うファッションにすぎません。生活の中心がモノとカネになっていて、宗教と日常生活の間に線引きがなされています。これが先進諸国の伝統的宗教の信者の実態なのです。

“衆愚政治”の出現

――国民の物欲とエゴによって動かされる政治

物欲と利己愛に支配された人間を土台として、その上に築かれた政治は否応なく物欲的で利己的な傾向を帯びるようになります。国民は政治を自分たちの物欲達成の手段と考え、身勝手な要求をします。それが“世論”と言われるものの実態です。民主主義の世界では世論が最も力を持ち、政治を左右します。政治家は世論を無視しては選挙に勝つことができないため、政治家みずからが積極的に国民に迎合するような風潮ができ上がります。国民の要求は利己的で身勝手なものであり、財政に悪影響を及ぼすことが分かっていても、政治家はそれを拒否することができません。こうして政治は大衆の物欲から生じる世論によって翻弄されることになります。「物質的にもっと豊かになりたい。多くの収入を得てもっと幸せになりたい」という国民の願望は際限なく拡大し、政府は国民のさまざまな要求に応えるために莫大な借金を積み上げてしまうことになります。

国民の物欲は、こうして必然的に政府と国家全体を堕落させていきます。分をわきまえた要求、すなわち財政能力の範囲内での要求であるなら摂理に反することはありませんが、それを超えた物欲からの要求は「肉主霊従」という摂理違反を招くことになります。摂理に反する度を越した贅沢(物欲)は、必然的に“破綻”という痛みによってツケを払わざるをえなくなります。国家としての節度や健全性よりも自分たちの物質的幸福を優先することは、国家という全体を犠牲にして自分たちの利益と快楽を優先することであり、きわめてエゴイスティックなあり方なのです。国家にあれもこれもと要求する態度は、「もっともっと自分たちを豊かにせよ。物質的に幸福にせよ」ということであり、それは「もっと愛が欲しい。もっと愛を与えよ」と訴える利己愛者の姿そのものと言えます。

現代社会における“世論”とは、幼稚な国民の、もっとモノを与えよ、もっと物質的な幸福を与えよというエゴ的叫びに他なりません。こうしたエゴ的世論によって動かされている政治が“衆愚政治”です。そこでは、政治は国民の物欲とエゴからの要求を実現するための手段となっています。幼稚な国民が主役となって自分たちの物欲を達成しようとしているのが、衆愚政治の実態なのです。

「国家が困ることになっても自分たちを幸せにせよ」という自己愛的要求は、幼稚さとエゴ性の表現に他なりません。独裁政治では、一人の独裁者の自己愛とエゴによって国家と国民が犠牲になりますが、衆愚化した民主政治は、大衆の自己愛とエゴによって政府と国民を堕落させ、国家を貶めていくことになります。どちらも物欲の満足を優先的に求める政治であるという点で共通しています。「霊的成長」という霊的観点から見るならば、民主政治であっても独裁政治であっても大した差はありません。ともに人間の霊的成長に逆行するシステム、未熟な人間の営みにすぎません。真理普及の自由、信仰の自由という点から言えば、「自由」が認められる民主政治と独裁政治とでは、天と地の違いがあります。)

享楽主義と金権主義の蔓延

社会全体が精神の堕落・退廃状態に陥ると、人々は競って享楽と肉体的快楽を追い求めるようになります。人々の関心は常におもしろいこと、楽しいことに向けられ、人生がそのためだけに費やされるようになります。生活に不自由しない先進国の国民の多くが、買い物やグルメや旅行などの趣味や娯楽に興じ、一昔前の貴族のような享楽的生活を堪能できるようになりました。テレビに代表されるメディアは、おもしろさだけを売り物にした軽薄な番組を次々と流し、世間受けを狙った低俗な情報が社会に氾濫しています。

人々は快楽を手に入れるために金儲けに血眼になり、“カネ、カネ、カネ”といった風潮が社会の隅々まで蔓延しています。すべての価値がお金によって計られ、お金が最も重要視され、経済的に成功した人間は羨ましがられ、時に尊敬の的になります。“世の中、万事カネしだい”という風潮の中では、「お金よりも大切なものがある」という意見は空想的で子供じみた考えとして無視され、軽蔑の対象になってしまいます。

性的退廃と異常性愛の増大

利己愛・自己愛が支配的になった精神の堕落社会では、決まったように「性的退廃と異常性愛」が増加するようになります。動物にも劣るような無秩序で奔放な性的関係が社会の至る所に出現するようになります。一対一の男女の間に成立する健全な性関係が失われ、社会全体に「性的退廃」が渦巻くようになります。メディアは大衆の低俗な好奇心を煽るような報道をし、性的退廃の風潮に拍車をかけます。

肉体の快楽追求が当たり前になると、性に対する厳粛さと尊厳性が失われ、性道徳が大衆の中から喪失するようになります。セックスのハードルはきわめて低くなり、いとも簡単にセックスに走るようになります。“好きな相手となら自由にセックスしてもいい”という考え方が当たり前になり、異常を異常と認識できなくなってしまうのです。そして人々はますます肉体本能の奴隷と化し、獣性をエスカレートさせていきます。

こうした極端な「肉主霊従」の状態は、人間にとって最も重要な霊的成長の道を閉ざすことになります。人間は肉体の本能的欲求を自己コントロールすることによって「霊主肉従」の状態を維持し、初めて霊的成長をなすことができるようになっています。セックスは本来、子供をつくるという目的のもとで認められているものです。それが摂理に合った性のあり方であり、性行為の大前提なのです。したがって、好きな相手となら自由にセックスをしてもいいということにはなりません。相手のことが大好きであっても、セックスをしてはならないのです。セックスをしないでも愛を深めることはできます。それが「霊主肉従」という摂理にそった愛のあり方なのです。“性欲”という肉体本能をコントロールすることを通して、人間は霊的存在者としての資格を持つことになるのです。そしてそこに「人間の尊厳性」が示されることになるのです。

一方、セックスの堕落傾向と並行して「異常性愛」が増大していくようになります。“性愛”とは男女の間に成立する愛情関係であり、それが摂理に一致したあり方です。しかし精神が堕落・退廃した社会では、“同性愛”という異常な性的関係が社会の前面に出てくるようになります。異常性愛者が増加するにともない、人々の間で同性愛が異常と見なされなくなり、それが社会から公認されるようになります。“同性愛”という摂理に反した人間関係が、“人権尊重”という偽りの大義のもとで正当化されるようになるのです。現在では、同性愛者同士の結婚を法律的に認めようとする国が増えています。同性愛者はしばしば政治的に利用され、候補者が票の獲得のために同性愛を公認しようとする動きも見られます。

同性愛者の結婚は摂理に反した行為であり、「肉主霊従」をさらにエスカレートさせ、人間の霊性を最も低めることになります。それは「神の摂理」に反した“物欲(肉欲)と自己愛”の極限的な姿であり、決して容認されるべきものではありません。同性愛の問題は別の機会に詳しく述べますが、同性愛者は社会から疎外されたり迫害されたりして、一様に内面に苦しみを抱えています。しかし、生まれつきのハンディによって発生するさまざまな苦しみは、多くの場合、前世での「カルマ(悪業)」が原因となっています。前世のカルマを清算するために、今生で苦しみを味わっているのです。同性愛者の多くが「再生」に先立って、そうした試練を自ら選択してきているのです。

こうした深い霊的背景を考慮しないかぎり、「同性愛の問題」を論じることはできません。同性愛は、単に人権擁護・人間の平等性といった表面的な理由によって正当化されるべきものではありません。それは、人間の「霊的成長」という最も重要な観点から考えるべき問題なのです。

“家庭崩壊”

――人間社会の基本単位の崩壊

家庭は人間社会の基本単位であり、直接的な愛情関係によって形成される共同体です。利己愛・自己愛が支配する世界では、大半の人間関係において真実の愛が失われているため、互いに傷つけ合い、苦しみや痛みや孤独がもたらされるようになります。そうした世の中にあって、多くの人々は家庭に幸福の拠りどころを求め、家庭を最後の心の安らぎの場所、精神の砦として守ろうとします。こうして多くの人々が“マイホーム主義”の人生を歩み出します。ところがその最後の愛の砦も、利己愛・自己愛が大手を振るう時代には次々と崩壊するようになります。

社会全体の精神レベルが下がると離婚率が上昇し、“家庭崩壊”が急激に進行するようになります。その結果、家庭は憎しみが渦巻く地獄のような世界となります。夫婦という人間関係の崩壊によって片親の家庭が増加し、子供たちの養育環境が悪化することになります。そして多くの子供たちが親から見捨てられるという、悲惨な状況を生み出しています。こうした中で子供への虐待が増加し、親から性的虐待を受けるといった悲劇が生まれています。

ある海外の調査では、父親のいない家庭環境で育った子供は、将来刑務所に入る可能性が20倍に、殺人を犯すリスクが8倍になることが報告されています。殺人事件の加害者の6割近くが、父親のいない家庭で育っていると言われます。また、毎年多くの子供が未婚の母親から生まれており、それは全体の4分の1から3分の1の割合に当たります。こうした不遇な家庭環境で育った子供たちは往々にして、深刻な精神的問題を抱えることになります。そして、それが確実に犯罪を増加させることになっています。子供たちが利己的で未熟な大人の犠牲になり、次にはその子供たちが新たに未熟な大人となって、さらなる犠牲者を増やしていくことになるのです。

精神障害者の蔓延

利己愛・自己愛が蔓延する精神の堕落・退廃した社会では、さまざまな“精神障害”を患う人間が増加するようになります。現代の多くの先進諸国では、国民の精神の異常や障害が深刻な社会問題となっています。こうした精神の異常や障害が自殺や自傷行為を引き起こしたり、拒食症状や登校拒否・対人恐怖症などを発生させています。

うつ症状に悩む患者の爆発的な増加にともない、現在では心理カウンセリングや精神療法・心理療法が大流行しています。薬物療法も効果がなく、本当に病気なのかそれとも単なる主観的な症状なのかはっきりしない中で、多くの精神科医がジレンマを抱え、無力感に悩まされています。

こうした精神障害の多くは、人間の精神の“未熟性・幼稚性”から発生しています。人間は誰でも幼少時には自己中心的・自己愛的ですが、成長するにともない自己愛を抑制して利他愛を身につけていきます。これが正常な精神の成長であり、人間性の発達です。しかし社会全体が“利己愛”に支配されている中では、そうした当たり前のプロセスが踏めなくなってしまうのです。多くの患者は精神的に幼稚なレベルにとどまり、自己愛だけを肥大化させていきます。そのため人間としての最低の心のコントロールができなくなり、自ら異常な症状を招くことになります。患者の中には、愛を求めようとして自ら病気を望んでいる人も多くいます。

精神障害の多くは“利己愛・自己愛”が支配する環境の中で、精神の健全な発達が阻害されてしまったところから発生しています。精神障害に苦しむ人たちは、利己愛・自己愛が支配する人間社会の犠牲者とも言えます。

治安の悪化と犯罪の増加

――人間社会における最低限の規則・秩序の崩壊

国民のモラルは、その国の“犯罪率”によって示されると言われています。社会全体が肉主霊従化し、肉体本能からの快楽追求と利己主義がエスカレートすると、著しくモラルが低下して犯罪が多発するようになり、治安が悪化します。アメリカの人口当りの凶悪犯罪の発生件数は、他の先進諸国と比べて群を抜いています。それにはアメリカが銃社会であるという理由も挙げられますが、銃とは無関係な犯罪が多いことを考えると、「精神の荒廃」こそが一番の問題であることは明らかです。

都市に人口が集中するようになるにともない、殺人事件の発生率が増加していきます。それは世界的に共通の傾向となっています。現在のアメリカに代表される先進諸国では、文明と野蛮が同居しています。こうした国々でも、かつて経済が発展途上にあった時代には殺人などの凶悪犯罪は少なく、経済が豊かになるにつれて増加するようになったのです。犯罪の増加は、社会全体の肉主霊従化と自己愛化が進み、人間としての最低限の規律やマナーを守ることができなくなったために発生したものなのです。

自殺者の増加

――人間の生命に対する尊厳の喪失

利己愛・自己愛が支配的な社会では、“孤独感・絶望感・虚しさ”が人間の心を強く支配するようになります。人々は生きがいを喪失し、精神の危機状態に陥ります。こうした中で自殺に走る人間が増加するようになります。「少しばかり長く生きていても、苦しみと虚しさが続くだけの人生に意味はない。いずれ死ぬ以上、自分で命を断ってもいい」と考えるようになるのです。

自殺は“利己愛・自己愛”の究極の姿です。生命は神から与えられたものであって、自分のものではありません。自殺は、そうした神によって与えられた権利を自らの手で捨て去ることです。「生命の尊厳を自覚し、与えられた地上人生を精いっぱい歩み、その間に自らの魂を成長させる」――これが地上に生まれた人間としての責任であり、義務なのです。

「神や守護霊との間に本当の愛のつながりがある」「霊界という永遠の世界がある」「地上は霊界での生活のための一時的な訓練場であり、準備期間である」――こうした霊的知識(真理)を知ってこそ、人間は地上人生の荒波に耐えていけるようになります。その意味で霊的真理を知らない人は、実に気の毒です。

自殺は「霊的無知」が招く最大の悲劇の一つです。それはある意味で、戦争によって生命を奪われるよりも悲惨な出来事と言えます。しかし神の存在を否定する人間が多数を占める現代社会では、自殺をそれほど悪いこととは考えない人が増えてきました。それが若者の自殺を加速させることになっています。

現在の先進諸国では、若者の自殺が増加して、死因の上位にランクされるようになっています。個人主義の傾向が強く、無宗教で経済原理一色の中国では、今や自殺が若者の死因の第1位となっています。神や守護霊との愛の関係を自覚できない人間は、地上の家族愛に拠りどころを見いだそうとします。その家族愛も駄目ということになると、次はアルコールやドラッグなどの憂さ晴らしに走るようになります。それも駄目だということになると、最後には自殺に至るようになるのです。

宗教への信頼性が失われ、精神が荒廃の極限にまで達すると、自殺を認めるような風潮が生まれます。現在“安楽死”という自殺を合法的に容認しようという動きが一部の先進国の間で進んでいますすでに合法化された国もあります)。しかし、それは「神の摂理」から見たとき明らかに間違っています。神が与えた“真の人権(生命の尊厳)”を、国家や社会が抹殺するということなのです。

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