(9)地上の悲劇が招く“霊界の悲劇”
霊的無知から発した物質中心主義と利己主義は、地球人類に「戦争」「貧困・飢餓」「宗教による霊的牢獄」「精神の堕落・退廃」「動物虐待・自然環境破壊」といったさまざまな悲劇をもたらしました。そして地上を暗黒の地獄のような世界にしてしまいました。こうした地上世界の悲劇は、地上人が死後に赴くことになる霊界にそのまま反映され、霊界下層に新たな悲劇を引き起こすことになります。これが第6の悲劇です。
1)地上人生の大目的を達成せずに他界する多くの地上人
地上人生の目的は、「基礎的な霊的成長」をなして、霊界での生活に備えること
地上世界は、人間が「霊的成長」をなす場所として神によって創造されました。人間が地上世界に生まれたのは、永遠の霊的成長の土台となる「基礎的な霊的成長」をなし、霊界での生活に備えるためです。そのための手段として、“肉体”という物質の身体が与えられているのです。
肉体は、物質世界で一時的な生活を送るための“霊の道具”にすぎません。地上人生という一時期を過ごすうえでの手段に他なりません。そのため肉体には永遠性がなく、100年ほどで役目を終えるように造られています。人間がどんなに永遠の肉体生命を願っても実現しないのは、その必要がないからです。人間にとっての本来の住処は、今住んでいる地上世界ではなく、死後に行くことになる霊界です。これは最も基本的・初歩的で、いちばん重要な霊的知識であり、地上人が常識として知っていなければならない真理です。また、育児・教育をする際に、子供たちに真っ先に教えなければならない霊的知識なのです。
しかし実際には、この当たり前の霊的知識(真理)を知っている地上人は、ほんのわずかしかいません。こうした現実は、大半の地上人がまさに「霊的無知」に陥っていることを示しています。
地上人にとって重要なことは肉体生命の維持(長寿)ではなく、地上人生の間に、どれほど「霊的成長」をなし遂げるかということです。長生きをすることや物質的に豊かになることが問題ではなく、霊的成長という地上人生の大目的を達成できるかどうかだけが大切なのです。
地上人は常に、「霊的成長」という地上人生の大目的を意識して生活を送らなければなりません。そうでないと、的外れの方向にエネルギーと時間を費やし、人生をすべて無駄にしてしまうことになります。残念なことに、地上で生活している大半の人間は、霊的成長を目的とした生き方をしていません。それどころか、霊的成長が地上人生の目的であるということさえ知らない人がほとんどです。地上人の多くは、霊的成長の手段として与えられた肉体やモノを重要視し、それを最も価値あるものと錯覚しています。そして肉体本能の満足と物質的な豊かさだけを追い求めて、地上人生を無意味に過ごしているのです。
霊的に未熟なまま霊界入りする大半の地上人
現在、地球上に生きている人間の多くが「霊的成長」とは無縁な生活を送っています。せっかくの地上人生を無駄に過ごしています。その一番の原因は、地上人生の目的について全く知らないところにあります。地上人生が永遠の霊的成長のための準備期間であること、地上世界は霊界の生活に備えるための場所であることが分からないのです。
そうした「霊的無知」は、一人一人の人間の霊的成長を妨げるばかりでなく、人間が集まって成立している社会に、さまざまな悲劇を引き起こすことになります。その悲劇の中で、霊的成長の道はさらに閉ざされることになります。特に戦争や貧困・飢餓によって生命が危機的状況に立たされた人間は、その日その日を生き長らえることだけで精いっぱいです。「霊的成長」に意識とエネルギーを向ける余裕など、全くありません。肉体生命の危機に直面する人間にとって霊的成長の達成は、とうてい不可能です。そうした状況に置かれた人間は、実に不幸と言わざるをえません。霊的無知が引き起こした悲劇が、人類の霊的成長という大目的そのものを犠牲にしているのです。
肉体の死は、霊的成長を果たせなかった人にも必ず訪れます。そのため多くの人間が、霊的に未熟なまま霊界に入ることになります。地上世界のさまざまなしがらみを引きずって、霊界での生活を始めることになります。彼らの多くは霊的に何の準備もできていないため、「霊的真理」をゼロから学ばなければなりません。それが、こうした新参者の指導に当たる霊界の人々に多大な犠牲を強いることになるのです。
霊的成長をなすことなく他界した人間の中には、地上人生において魂に深い傷を負った者もいます。そうした人間は、霊界に行ってから専門の霊による看護を受けて魂の傷を癒すことになります。それと同時に「霊的真理」の学習を受け、霊的成長の道を再出発することになるのです。
2)高級霊の嘆きと未熟霊への救済
高級霊の嘆き
霊界でのさまざまな問題やトラブルは、地上人が霊的に未熟なまま、言い換えれば最低限の霊的成長さえも達成せずに霊界入りするところから引き起こされています。地上人生の間に、霊的知識を何ひとつ身につけることができなかったために発生しているのです。あまりにも霊的なことに無知なまま霊界入りした人間は、新しい環境になかなか適応することができません。そのため「霊的真理」の学習を、ゼロから受けなければならなくなります。本来は地上でしておくべきことを死後、霊界でやり直さなければならなくなるのです。
霊界におけるこうした悲劇は、高級霊にとって大きな悲しみとなっています。「地上時代に、せめて最低限の霊的知識を身につけていたなら、こんな哀れなことにはならなかったのに……」と嘆かせることになっています。『シルバーバーチの霊訓』の中には、次のような高級霊の嘆きが述べられています。
「なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせずに地上を素通りしております。ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えもできていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。」
「こうしている間でも地上から何百万、何千万という人間がこちらへ送られてきますが、そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、混乱し、茫然自失の状態です。それで我々が、いろいろと手を焼くことになります。本当はそちらで霊的教育を始める方が遥かに面倒が少なくて済むのです。」
「地上を去って霊界へ来る人のほとんどが、自分がこれからどうなるのか、自分というのは一体どのように出来あがっているのか、霊的な実在とはどんなものかについて、恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人が、それはそれは多いのです。(中略)そのため、そういう人たちをこちらで面倒をみたり、監視したり、手当てをしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんなが、ちゃんとした知識をもって来てくれれば、私のように地上の人間の面倒をみている者は、とても手間がはぶけて助かるのですけど。」
霊界の高級霊が救済に乗り出す
霊界の悲劇とは、「未熟な他界者があまりにも多い」ということです。そして「その未熟霊たちが、いつまで経っても霊的成長の道を歩み出すことができない」ということです。
霊界で引き起こされるこうした悲劇をなくすために、霊界の高級霊たちは救済活動に乗り出すことになりました。先に地球人生を終えた先輩霊として、地球人類の運命を引き受け、努力することになったのです。
「あなたも、私と同じ立場に立って、発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者が、毎日のようにぞくぞくと霊界へ送り込まれてくるのをご覧になれば、多分私と同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければ、という気持になられるはずです。」
スピリチュアリズムとは、霊界人による「地球人類救済計画」ですが、それは地上人を救済するだけでなく、霊界下層に留まっている多くの未熟霊を救済することも含んでいるのです。
3)霊界最下層の地縛霊と暗黒スポット
霊界下層の“地縛霊”と暗黒の境域
大半の地上人は霊的に未熟なまま霊界に入りますが、その霊的未熟性の度合は一人一人異なっています。未熟性にも、さまざまな程度の違いがあるのです。そうした他界者の中には、霊的に全く成長していないどころか、地上での摂理に反する生き方によって“物欲”と“利己性”を増大させ、魂にまで染み込ませてしまった人間もいます。地上世界には霊性・精神性・人間性の著しく劣った者がいますが、彼らは死後もそうした内容をそのまま持ち続けることになります。あまりにも程度の悪い他界者は霊界の最下層に住み着き、さまざまな悪事を働き、問題を引き起こすようになります。
彼らは、すでに霊界に入っているにもかかわらず、依然として地上世界に住んでいると思い込んでいます。そして地上時代と同じような醜い生き方を続けています。そうした他界者を“地縛霊”と言います。いまだに地上世界に縛られている霊という意味です。「死の自覚」をいつまでも持てない未熟者は“地縛霊”となって地上近くをうろつき、地上時代に味わってきた快楽を求めては悪行を重ねます。そうした霊たちの中には、地上人に“憑依”する者もいます。霊界の下層には、地縛霊が集まると暗黒の境域(スポット)が出現するようになります。そこはまさに“地獄”と言ってもいいような世界なのです。こうした地縛霊と、彼らがつくり出す暗黒のスポットの存在は、まさに霊界の悲劇を凝縮したものと言えます。
地上時代の「物質中心主義」と「利己主義」が浮き彫りになる霊界下層
肉体は滅んでも、「魂(霊の心)」と「霊体」は失われません。死とともに人間の心が変わるわけではありません。利己的な人間は死後も利己的であり、強欲な人間は相変わらず強欲です。身勝手な人間は身勝手なままであり、自己中心的な人間は依然として自己中心的です。性格も好みも感情も、生前と何も変わりません。霊界では地上時代のような肉体の覆いがなくなるため、内面性(心の状態)がむき出しになります。各人の霊性と霊的成長の状態が浮き彫りにされるようになるのです。
地上人生を利己的に生きてきた人間は、霊的成長を果たせないまま霊界入りすることになります。そうした人間は、霊界の入り口である「幽界(霊界の最下層)」に留まることになります。霊界を支配する法則は“利他性”であるため、霊界へ入るための適応性を決定的に欠くことになるからです。“利他性”を持っていない人間は、決まって“利己性(エゴ)”を多く持っています。霊的成長ができなかったということは、霊的に未熟ということです。「利他性が乏しく、利己性だけを増大させている人間」ということなのです。彼らは幽界での生活を通して利己性を拭い去り、利他性だけの存在となって初めて霊界に入ることができるようになるのです。
幽界では、“利己性”の程度に応じた“苦しみ”が自然に発生するようになります。利己性という「罪(摂理違反)」に対する「罰」として、苦しみがもたらされるのです。苦しみの内容は一人一人違っていますが、誰もがその苦しみの体験を通して利己性を拭い去っていくことになります。利己性は、地上人生の中で身につけてしまった“物質的なアカ”と言えます。苦しみが、そのアカを浄化してくれるのです。これが幽界における「霊的浄化のプロセス」です。
他界者は利己性という“物質的なアカ”を落として初めて、本格的な霊界に入っていけるようになります。しかしアカを拭い去ったからといって、肝心な“利他性”という内容(霊的中味)は、ほとんど持っていません。そのため自分が持っている“利他性”の程度に応じた低い場所(界層)から、霊界での生活を始めることになります。そして、そこから少しずつ霊的成長の道を上昇していくことになるのです。
実はこうした幽界下層における「霊的浄化のプロセス」には、上層界からの助けがあります。高級霊によって指導的な役目を与えられた霊が新参者の背後に付き、寄り添って導くことになります。(*新参霊には普通、背後の指導霊の姿は見えません。)
“唯物論者”の地縛霊化
霊的に無知な人間の代表が“唯物論者”です。科学者の多くが唯物論者で、彼らは物質界しか認めず、霊界の存在を頭から否定します。人間については肉体しか認めず、霊魂も霊体も否定します。彼らは地上世界では知識人として見なされ、多くの人々の尊敬を集めることもありますが、そうした評価が通用するのは地上にいる間だけなのです。死とともに唯物論者に対する評価は、180度変わってしまいます。唯物論者の死後の様子はきわめて特徴的で、地上人の「霊的無知」を如実に示しています。
唯物論者にとって“死”は、自己の完全消滅を意味します。しかし死んでも周りにさまざまな情景が見えるため、本人は自分の死を認めることができません。いろいろなものが見えたり、自分自身が存在しているということは、彼らにとっては“死”ではないからです。「唯物主義」という間違った考え方によって“魂”が縛られ、盲目状態になっているために真実が分からず、混乱状態に陥ることになります。彼らには死の直前までの記憶がありますから、今の現実とその記憶が結びつかないのです。そして自分の頭がおかしくなってしまったと思うようになります。
やがて、すでに死んでいる知人や家族・親族が次々と目の前に現れるようになります。彼らは口々に――「あなたはすでに死んで霊界にいるのです。“あの世”と呼ばれている死後の世界に来たのです」と言います。なかには「私は生前、あなたと同じように死後の世界を否定していました。しかし死後の世界は実際にあるのです。ここがその世界なのです」と諭す人もいます。目の前の知人や家族の姿は、話の内容から錯覚ではないことが分かります。それでも“死後の世界などあるはずはない”という先入観が頭をもたげ、混乱状態に拍車をかけることになります。そうしている内にこれまでの思考の土台が根元から崩され、自分自身を維持できなくなってしまいます。
彼らは、物質世界にいたときには“死後の世界などない”と断言し、死後の世界の存在を信じる人を迷信深い知性の低い人間と決めつけてきました。そこまで強気に霊界を否定できたのは、地上では霊界が見えなかったからです。ただそれだけの理由で、霊界を否定してきたのです。
しかしいったん自分が霊界に入ってしまうと、そこが唯一の現実の世界となり、霊界の存在を否定し続けることはできなくなります。そのため“唯物論者”は霊界に入ると、例外なく今述べたような混乱状態に陥ります。そして地上で霊界を否定し、物質世界に執着して生きてきた分だけ苦しむことになるのです。どんなに頑固な唯物論者であっても、霊界に入ってその事実を突きつけられれば言い逃れはできません。どのような理屈をこねても、目の前の現実を否定することはできません。そして否応なく霊界の実在を認めるようになり、地上時代の間違った考え方を捨て去るようになっていきます。こうして自らが招いた苦しみの体験の中で少しずつ“霊的意識”が芽生え、やがて霊的成長の道を歩み出すようになるのです。
“肉体的快楽”に溺れた人間の地縛霊化
本能的快楽に翻弄されて地上人生を送ってきた人間は、霊的成長をなすことなく未熟なまま霊界に入ることになります。そして地上時代の本能的・利己的な生き方に見合った苦しみを「償い(罰)」として受けるようになります。償いのための苦しみの多くは、地上人生に対する激しい後悔という形でもたらされます。強い後悔の念は、肉体の苦痛よりもさらに大きな苦しみを未熟な人間に与えることになるのです。
しかし“魂”にまで染み込んでしまった肉体的快楽への嗜好は、なかなか拭い去ることはできません。そのため一般の未熟霊以上に「霊的覚醒」が困難となり、中には地上人の肉体に憑依して本能的快楽を間接的に味わおうとする“地縛霊”も現れるようになります。そうした地縛霊は、霊界での落伍者を矯正する使命を持った霊界の人々に、多大な面倒と苦労をかけることになります。
肉体の外見だけにとらわれ続けた人間の地縛霊化
地上人は、あまりにも外見で他人を判断します。容姿の美しさだけで、人格や人間性・内面性が優れているかのように錯覚してしまいます。地上では、容姿端麗であることがしばしば有利になるため、多くの人が少しでも外見をよくしようとお金をつぎ込み、さまざまな努力をしています。しかしこうした生き方は、霊的未熟さの表れに他なりません。容姿の良し悪しだけで人間の価値を判断するのは、霊よりも肉体という物質を優先していることであり、霊を無視して肉体だけにとらわれているということなのです。「物質的価値観・物質的視野」に支配されているそのあり方は、“霊的成長の未熟性”を示しています。
人間、特に女性が美しくありたいと願うのは当然のことであり、それ自体は間違っていません。問題は、霊的成長に全く関心を持つことなく、あるいは霊的成長を無視して肉体という霊の道具だけを美しくしようとすることです。霊よりも肉体を優先することが問題なのです。
現在の地球上では、外見を美しく装うために化粧やファッション、美容体操や整形手術が大流行しています。しかし肉体はどこまでも、霊的成長のために与えられた霊の道具・手段にすぎません。“霊の道具”と位置づけしたうえで肉体を手入れすることが大切なのです。健康維持のために努力をすることは摂理に適ったあり方ですが、霊的なことや霊的成長を無視して肉体を飾り立てるなら、「肉体中心主義・物質中心主義」に陥ってしまいます。
霊界人から見れば、肉体は“霊の道具”であるという以上の重要性はありません。魂の状態・霊的成長度が、すべてなのです。霊界人の目に映るのは物質的な身体(肉体)ではなく、「霊的な身体(霊体)」であり「霊の心」です。霊界では心の中味が映像として表れ、周りの人々に知られてしまいます。霊界人は、地上人の肉体の美しさには全く価値を認めません。しかし地上人は、霊的な美しさと肉体的な美しさの違いが分からないために、外面だけにとらわれてしまうのです。そこには「物質(肉体)中心主義」に支配された地上人の実態が、よく示されています。
女優や芸能人やモデルは、地上人生の多くを肉体の若さと美しさを維持するために費やします。そうした人間にとって肉体の老化は大敵です。老化は何としても克服しなければならない人生最大の敵であり、それに負けないために大金をつぎ込みます。しかしどんなに努力をしても、肉体の老化に打ち克つことはできません。肉体の老化は摂理によって引き起こされる現象だからです。
そうした人間が他界すると、霊界でもやはり同じように肉体の美しさを求め続けることになります。すでに肉体はありませんが、霊体を肉体と錯覚してそれを美しくしようとするのです。霊界では思いがそのまま外観として現実化されます。若くなりたいと思えば、霊体は瞬時に若いときの姿に変わります。美しい容貌になりたいと願えば、その通りの顔つきになります。
しかし、そうした変化は一時的で長続きしません。やがて摂理に反した“肉体美”への執着は、苦しみとなって迫ってくるようになります。周りの人々がどんどん美しくなっていくのに、自分一人だけがいつまでも変われないからです。地上時代は肉体の美しさから多くの人々にちやほやされ、常に注目の的になってきました。しかし今は、誰も振り向いてくれません。それどころか醜さが身体上に現れるようになって、どうしてもそれを取り除くことができないのです。いちばん願っているものが手に入らず、いちばん嫌いなものばかりが自分に降りかかってくるのです。
そうした絶望的な苦しい時間を経る中で、少しずつ霊界での生活に馴染んでいきます。やがてある時、人間の美しさとは霊的なものの反映であることに気がつきます。そして肉体の美しさだけを求め続けてきた自分の地上人生の愚かさを振り返り、深い後悔の念に苛まれるようになります。
“間違った宗教”を狂信した人間の地縛霊化
地上時代を間違った宗教によって束縛され、魂の深みまで洗脳された人間は、霊界に行ってもすぐに新しい環境に馴染むことができません。なかには間違った教義の影響で、死を自覚できない者もいます。こうした場合も“地縛霊”として地上近くに留まり続け、霊界の下層で地上時代と同じ信仰を続けるようになります。そして地上にいる似たような信者に働きかけることになります。
宗教による“地縛霊”の存在は、霊界の高級霊にとってはとても厄介です。単なる未熟霊よりも更正するまでに手間がかかるからです。地縛霊の中には、高級霊界からの働きかけに一切耳を傾けず、何百年もの間、自らの信仰がつくり出す暗闇の中に居座り続ける者もいます。地上世界での間違った宗教が生み出した“霊的牢獄”は、他界後にも持ち越され、狂信者による暗黒の地獄世界をつくり上げるのです。
どのような“地縛霊”も、いつかは霊的に覚醒し、「霊的成長」の道を歩み出す
人間の心がさまざまであるように、地縛霊の状態もそれぞれ異なっています。ただし、どのような地縛霊にも共通している点があります。地上でつくり上げた心の中身が肉体(物質)中心であり利己的であること、「神の摂理」である霊中心主義と利他主義から大きく外れていること、そしてそれをそのまま霊界にまで持ち込んでいるということです。
霊界は、利他性(摂理)が支配する大海に譬えられます。利他性(摂理)に馴染んでいる人間は、霊界で魚のように自由に楽しく泳ぎ回ることができます。それに対して利他性の乏しい人間(地縛霊)は、岸辺に打ち上げられ、干上がった魚と同じ状況になります。“地縛霊”が味わう苦しみは、摂理に反した考え方と生き方が招いた自業自得の結果なのです。そうした筆舌に尽くしがたい苦しみが生じる幽界(霊界の最下層)の様相は、まさに“地獄”そのものと言えます。
しかしその苦しみがあればこそ、地縛霊は地上時代の間違いに気づき、それを反省して「物質中心主義」と「利己主義」から抜け出し、霊的に覚醒することができるようになるのです。従来の宗教では、地獄に堕ちた人間は“永遠の苦しみ”を味わうことになると説いてきましたが、それは寓話にすぎません。実際には“永遠の地獄の苦しみ”というようなものはありません。地縛霊が味わう苦しみは、摂理に反した行為によって自らが招いたものなのです。もし本人がその間違いに気づき、心を入れ換えて新しく生き直そうとするなら、その苦しみは消滅します。
地縛霊が体験する苦しみは、罪の償いのために摂理の働きによって発生します。それは、地上時代の摂理違反を訂正するために不可欠なものです。霊界でもたらされる苦しみには、地縛霊の“魂の矯正”という重要な意味があるのです。苦しみによって地上での摂理違反(物質中心主義・利己主義)が償われると、摂理の働きによって自動的に霊的意識が芽生え、「霊的覚醒の時」を迎えるようになります。そして「霊的成長」の道を歩み出すことができるようになるのです。
地縛霊が体験する苦しみは“魂の矯正”のために生じるものであり、霊的成長の道をリセットするためにもたらされるものです。「霊的成長」こそが人間にとって最も価値あるものであることを考えると、それはまさに“真の救い”と言えます。その救いのプロセスのすべてが、「神の摂理」によって進められます。地縛霊になるような極悪人であっても、必ず救いの道は用意されます。「地縛霊にも救いの道が与えられる」という事実の中に、“神の愛”を見ることができます。まさしくそこに、すべての人間を救い出し、霊的成長の道を歩ませようとする親なる神の愛が示されているのです。
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