14.『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「動物観」
これまでほとんど明らかにされてこなかった、動物に関する真実
『シルバーバーチの霊訓』で取り上げているテーマは、多岐にわたります。霊的真理や宗教思想に関するテーマ、死後の世界や心霊現象に関するテーマ、さらには日常生活における実用的な問題や社会問題・時事問題など、幅広く取り上げています。そしてシルバーバーチは、それらの問題に対して、これまで一度も説かれることのなかった霊的観点からの深い見識を地上人に示してくれました。シルバーバーチによって明らかにされた画期的な見解は、『シルバーバーチの霊訓』がまさに人類史上、比類のない傑出した霊的思想であり、最高の霊的叡智であることを証明しています。
さまざまな問題に言及している『シルバーバーチの霊訓』の中には、他の高級霊界通信ではほとんど語られることのなかった内容があります。『シルバーバーチの霊訓』によって初めて取り上げられたテーマの一つが、“動物”に関するものです。従来の宗教では、もっぱら人間に関する問題を扱い、動物についての見解はほとんど示されていません。原始宗教や古代宗教では、特定の動物を神聖視して信仰の対象としてきましたが、それは霊的事実に基づいた認識ではなく、迷信的な見方にすぎませんでした。
現代の先進国では、生活にゆとりができた人々によって、イヌやネコなどが“ペット”として飼われるようになりました。ペットは飼い主にとって家族の一員であり、愛情の対象として人々の心に多くの喜びや慰めを与えています。こうした状況を見ると、人類は現代に至って、これまでになかった動物との深い関係を築く時代を迎えているように思われます。しかしその一方で、きわめて残忍な“動物虐待”が当然のことのように行われています。動物、特に家畜に対する“大量虐殺”が地球規模で日常的に行われており、それはありふれた光景になっています。大半の人間は、そうした状況に対して何の疑問も持っていません。
地球人類は、あまりにもひどい「霊的無知」の状態にあります。人類は、「自分たちは多くの知識を手に入れ高度な文明を築き上げてきた」と自負していますが、実際には物質世界に関する部分的な知識を知っただけで、霊的な事柄についての認識は幼児のレベルにも達していません。動物に対する虐待は人類の「霊的無知」の実態を示すものであり、それは最終的には人間自身を苦しめることになります。現在の地球人類は、自分(人間)自身に関する肝心なことをほとんど理解していないのと同様に、動物についても重要なことが何ひとつ分かっていないのです。
日本仏教は、日本古来のシャーマニズム的な宗教の要素を取り入れて成立したものであって、内容的にはシャカが説いた仏教と大きく異なっています。シャカ仏教は、アニミズムやシャーマニズムなどの原始宗教や古代宗教とは正反対のものであり、両者は相容れません。中国仏教は、インド仏教に土着習慣である先祖崇拝を取り入れてシャーマニズム化したものですが、その中国仏教にさらに日本特有の自然観を付け加えて、独自の宗教に仕上げたものが日本仏教なのです。
“一切の衆生にことごとく仏性あり”(涅槃経)と言うときの衆生とは、本来は人間を意味しています。しかし日本仏教では、人間だけでなく動植物などすべての生命あるものや、山や川などの自然界の存在物までも含めて衆生と考えます。人間だけでなく動植物界や自然界のすべての存在物の一つ一つに霊が宿る、という独特の考え方をするのです。これが日本仏教の大きな特色であり独自性です。こうした日本仏教における独特の見解は、ある種の「汎仏(汎神)思想」と言えます。日本仏教は、自然界と人間や動物を同一次元に位置づけし、動物を生命あるものとして人間と等しい存在と見なすのです。
*日本仏教には、今述べてきた汎仏(汎神)論的な内容以外にも、世界に類のない独自の内容が見られます。それが鎌倉時代の親鸞以降における出家僧の“妻帯”です。仏教の出家僧が表立って堂々と妻帯するということは、世界中のどこにも先例がありません。
出家僧の妻帯は、海外では僧侶の堕落と見なされます。しかし「霊的観点」に照らしてみれば、それはある意味で日本仏教が世界に誇るべき内容であり、世界仏教にとっての“宗教改革”と言えます。キリスト教のカトリックでは、聖職者は独身が義務づけられていますが、宗教改革後のプロテスタントでは、聖職者(牧師)が妻帯することが認められました。日本仏教における僧侶の妻帯は、キリスト教のプロテスタントと同じ立場にあると言えます。
『シルバーバーチの霊訓』は霊的事実をもとにして、これまで地球人類が知ることのなかった動物に関する真実を明らかにしました。人類史上初めて、霊的観点から地上世界の動物について理解する道が示されました。『シルバーバーチの霊訓』によって、人間と動物との正しい関係が明確にされることになったのです。
以下では、『シルバーバーチの霊訓』によって明らかにされた「動物観」のポイントを見ていきます。
シルバーバーチの「動物観」の特色【1】
――人間と動物の“身体構成”と“死後の存続状況”の違い
まず、霊的観点から見たときの人間と動物の違いを取り上げます。人間と動物の間には、身体構成の点で決定的な違いがあります。人間には一番の本体と言うべき「霊(神の分霊・ミニチュアの神)」と、その表現器官である「霊の心(魂)」と、さらに霊の心の表現器官としての「霊体」という3つの霊的構成要素があります。それと同時に、人間には「肉体」と、肉体の心のような部分としての「肉体本能」があります。これらの2つが人間の物質的構成要素です。人間は、3つの霊的要素と2つの物質的要素から成り立っている存在であるということです。
死によって人間の肉体は朽ちて分解し土に戻りますが、霊的部分(霊・霊の心・霊体)は肉体が朽ちたあとも永遠に存続します。すなわち、人間は死後も「個別性」を維持することになり、死によってその存在が消滅することはありません。死後も個別性を携えたまま、永遠に“個”として霊的進化の道を歩んでいくことになります。何万年先、何億年先も、私たち人間は「個的存在」として霊界で生き続けることになるのです。
- 霊的要素(霊・霊の心・霊体) → 死 → 霊界でそのまま存在し続ける(個別性維持)
- 物質的要素(肉体本能・肉体) → 死 → 分解して土に戻る
一方、動物は人間と違って肉体の死とともに存在が消滅します。人間のように死後、“個”として存続することはありません。動物には人間のような霊的構成要素がないため、死は存在の消滅を意味します。人間は死後も永遠に存在し続けますが、動物は死によって「個別性」を失い、存在それ自体が消滅することになるのです。
- 物質的要素(肉体本能・肉体)のみ → 死 → 分解して土に戻る(個別性消滅)
永遠の個別性は、人間だけに与えられた特権です。なぜ「神」は、何百万種にも及ぶ生命体の中で、唯一人間だけに「永遠の個別性」を与えたのでしょうか。この事実は、あまりにも不思議としか言いようがありません。人間と動物の間に存在するこうした大きな違いは、「唯物的進化論」ではとうてい説明できません。何百万種もの生命体の中で、人間だけが死後も永遠に存在し続けるということは極端な不公平としか思えませんが、そこには神の深い意図があります。神の意図によってそのように造られた、ということなのです。
宇宙(物質界)の見事としか言いようのない仕組みや、生命界を成り立たせている想像を絶する合目的なシステムを目の当たりにすると、神の創造の業は常に“神の善意”のもとで進められていることが分かります。したがって人間と動物の間にきわめて大きな差があるように思われても、それはどこまでも人間を中心とした見方にすぎません。神の側からすれば、人間と動物の間に不公平は一切ありません。すべてに神の配慮が行きわたり、人間と動物は公平に扱われています。人間だけが永遠に生き続け、その他の動物はわずか十年(数十年)そこそこしか個別性を維持できないという事実は、人間だけが得をして動物が損をするということではないのです。
シルバーバーチの「動物観」の特色【2】
――人間と動物の「知性」と「心」の違い
人間と動物の間には、神の創造の意図(計画)によって決定的な違いが存在します。その一つが、人間だけに霊的構成要素が付与されているということですが、それ以外にも違いが存在します。それが「知性」と「心(精神・意識)」の違いです。
古来、人間と動物の違いについて繰り返し議論がなされてきました。これまでの代表的な見解は、人間と動物の違いの根拠を「知性」や「精神・意識」に求めるというものです。人間とサルでは、肉体的な外見にそれほど大きな違いはありません。しかし、人間は高度な知性や精神を持っているのに対して、サルはそうしたものを持っていません。肉体の遺伝子を比較すると、人間とチンパンジーの間にほとんど差はありませんが、両者の知性には決定的で埋めがたい開きがあります。
これまで、サルの知性を人間レベルに近づけようとする研究が行われてきましたが、そうした試みは永遠に成功することはありません。なぜなら、人間の高度な知性や精神(意識)は“霊的要素”に由来しているからです。厳密に言えば、人間独自の高次元の思考や精神活動は「霊の心(魂)」によって営まれている、ということです。したがって「霊の心(魂)」を持っていない動物を訓練して人間に近づけようとする努力は、無駄に終わってしまいます。
一方、人間と動物には共通の構成要素もあります。それが「肉体」と「肉体本能」です。人間と動物はともに「肉体本能」という、肉体に内在するある種の「心(低次元の心)」を持っています。「肉体本能」は“脳”によって発現しますが、その低次元の心にも人間が有するような“知・情・意”という機能が備わっています。しかしその能力は、人間の「霊の心(魂)」の機能とは比べものになりません。両者には、何千、何万倍もの開きがあります。動物には「霊の心」はなく、「肉体本能」しかありません。そのため人間と比べると、圧倒的な能力の差が生じることになります。こうして人間は動物の頂点に立ち、他の動物を支配するようになったのです。
- 人間の心――「霊の心(魂)」と「肉体本能」 → 高次元の知性は「霊の心(魂)」に存在
- 動物の心――「肉体本能」のみ → 低次元の知性だけが存在
シルバーバーチの「動物観」の特色【3】
――人間も動物も、神によって同じ生命が与えられた仲間・同胞であり、神の家庭の一員
人間と動物の間には、本質的な共通性もあります。人間と動物は、ともに「神(大霊)」によって生命が与えられ“生命体”になりました。物質的身体(肉体)に“生命素”が付与されたことで生命体が形成されました。“生体”と“死体”の違いは現代科学においても不明であり、大きな謎とされています。この疑問に答えるためには、霊的知識が必要となります。生体と死体の違いは、「生命素が宿っているか、生命素が抜け出ているか」によります。“肉体の死”とは、物質的身体から生命素が抜け出ることなのです。“生命素”は神によって創造されたものであり、シルバーバーチはそれを「一種の霊」と呼んでいます。
人間も動物も、神によって生命を与えられ生命体となりました。生命という霊的要素を持った動物は、人間と同じく「霊的存在」と言えます。人間も動物も等しく生命を与えられたということは、人間も動物も神によって生み出された“霊的仲間・神の家庭の一員”であることを意味します(*この点では、すべての存在に「霊性」を見いだしていた日本仏教やアニミズムは、シルバーバーチの「動物観」と共通性を持っていると言えます)。
先に述べたように動物は、死によって個別性を失い“個”として永遠に存在することはできません。動物は死とともに、一度限りの個的存在としての歩みを終了します。しかし、死によって肉体から抜け出た生命素(一種の霊)は、生命素の大きな塊(グループ・スピリット)の中に吸収され、その一部分として存在し続けることになります。
“死によって存在が消滅する”という表現は、「個別性」を基準としたときの見方です。人間には、神によって永遠に消滅することのない個別性が与えられているのに対して、動物は肉体の死とともに個別性を失います。動物の個別性は死をもって消滅しますが、生命(一種の霊)はグループ・スピリットの中に溶け込んで存在し続けることになります。そして人間と比べたときそのスピードは遅くとも、グループ・スピリットとして永遠に進化の道をたどることになるのです。
シルバーバーチの「動物観」の特色【4】
――人間が神から高度な知性と自由意志を与えられたのは、「神の代理者」として他の生命体を正しく愛し支配するため
ここまで、人間と動物のさまざまな違いと共通性について見てきました。次に人間と動物の関係と、両者の立場の違いについて見ていきます。人間は神(大霊)によって“高度な知性”と“自由意志”を与えられているため、他の生命体(動植物)に対して支配力を持つようになっています。人間は動植物に対して常に上位から臨み、それらを思い通りに支配することができます。
神は、人間が知性と自由意志を正しく用いて動物や植物などの生命体を慈しみ、平和な環境をつくり出し、ともに進化の道を歩むように計画されました。人間が「神の代理者」として他の生命体に愛を与えることで、“神の愛”が地球上の隅々にまで行きわたるようになります。人間は、神の代理者として他の生命体を愛し進化の手助けをすることによって“第二の神”の立場に立ち、神の創造の業に参画することができるようになるのです。これが人間だけに高次元の知性と精神と自由意志が与えられている理由です。人間は、他の生命体に対して強大な権力を持っていますが、それはすべて他の生命体を正しく支配するためです。他の生命体を“愛”によって正しく支配するために、特別な権限が与えられているのです。
しかし、これまで地球人類はそうした神の意図に反して与えられた権力を乱用し、間違った支配をしてきました。それによって動植物は、あまりにも悲惨な状況に立たされることになりました。人間が利他愛ではなく「利己愛」で支配してきたために、動植物は悲劇の中で苦しむことになってしまったのです。
シルバーバーチの「動物観」の特色【5】
――動物は人間にとっての“愛の対象”として創造された
人間と動物の関係について、さらに深く見ていくことにします。人間に他の生命体を支配する能力が与えられているということは、人間には「神の代理者」として他の生命体を利他愛で愛するという義務があることを意味しています。動物が人間の目にかわいらしい存在として映るのは、動物が人間の“愛の対象”として創造されているからです。人間と動物は、愛の世界を共有することができるようになっているのです。人間が本当の愛(利他愛)で愛するなら、動物はそれに応えて愛を返すようになり、人間と動物は互いに愛の喜びを味わうことができるのです。このようにして、人間を通して“神の愛”が動物界に及ぶことになります。その結果、動物界全体が“神の愛”で支配されるようになるのです。
これまでの地球の実情は、そうした神の計画から大きく外れていました。現在では、本来は愛の対象であるはずの動物が人間の“食料”にされています。神の計画の中には、動物を殺して人間の食料にするというようなことは含まれていません。動物に“生命”を与えたのは神であって、人間ではありません。人間と同じように、動物の生命は神のものなのです。したがって人間には、動物の生命を奪う権利はなく、動物を殺して食料とすることも許されていません。
こうしたことを考えると、現在の地球がいかに「神の摂理」からかけ離れているかがよく分かります。
シルバーバーチの「動物観」の特色【6】
――人間の愛が動物の進化を促す
人間と動物は、愛の関係を築くことによって喜びを共有できるようになります。動物にとって人間の愛は、“進化”を促す決定的な要因です。動物は、地上世界で人間に愛されることで、進化していくようになっているのです。人間と違って動物は、肉体の死とともに個別性を失うことになりますが、地上で生命体を成り立たせてきた生命素は、その集合体である“グループ・スピリット(集霊)”の中に吸収されます。そのとき人間から愛を受けてきた動物の生命素は、グループ・スピリットの進化を促すことになります。このようにして動物のグループ・スピリットは、永遠に進化の道をたどることになるのです。
人間の“愛”こそが、動物の進化を決定します。動物は人間の愛を通して“神の愛”を受け、進化が促されることになります。現在の地上で最も進化している動物は、サルではなくイヌです。そしてそれに次ぐのはネコです。動物の進化は、肉体次元と霊的次元では異なります。サルは肉体次元の進化としては人間に次ぐ位置を占めていますが、霊的次元の進化としてはイヌが一番です。地上世界でイヌは、人間から最も愛され、ペットとして重要な立場に立っています。動物のグループ・スピリット(集霊)は“種”ごとに異なっており、その中で最も進化しているのがイヌのグループ・スピリットです。人間はイヌやネコをペットとして愛することによって動物の進化に貢献し、同時に神の創造の業に参加しているのです。
人間から愛され進化を促された動物は、死後、主人(飼い主)が亡くなったとき、お礼として生前の姿で出迎えます。ペットとの再会を通して他界した人間(飼い主)は、自分が死んだことを悟るようになります。こうした形で飼い主は、ペットとしてかわいがった動物と再会を果たすことになるのです。
ただし、ここで理解しておかなければならないことは、ペットが生前と同じ姿で現れたからといって、ペットは死後、ずっと地上時代と同じ状態で存在し続けてきたのではないということです。ペットが生前の姿をとって現れたのは、天使によって生前の外形を維持するための特別な働きかけを受けたからです。天使の働きかけとは、ちょうど粘土で動物の姿をつくるのと同じようなものです。天使は霊界の元素に細工をして素材をつくり、それでペットの姿(外形)をこしらえます。再会時の動物の姿は、天使によって形成されたものであって、それは最近、話題となっているアンドロイド(精妙な人間型ロボット)のようなものと言えます。他界した人間(飼い主)は最初、かつての愛するペットとの再会を喜びますが、やがて霊界における自らの霊的進化に関心が移っていきます。動物への関心が薄らいでいくにつれて、動物の姿は自動的に消滅していくことになります。
さらにシルバーバーチは、動物の進化に関するきわめて重要な内容について言及しています。それは動物界全体が進化するにともない、獰猛な“肉食動物”が地上から姿を消し、代わって弱肉強食性の少ない“草食動物”が主流になっていくということです。地上の動物界自体も進化しており、その結果として「利他性の摂理」が支配的になっていきます。進化するにつれて動物界全体がより利他性の摂理に一致し、宇宙との調和の度合いが高まるようになるのです。
シルバーバーチの「動物観」の特色【7】
――人間の「霊的無知」が動物虐待を引き起こしてきた
以上の説明を通して動物の真実と、人間と動物のあるべき関係を理解することができました。これまで人間は、こうした霊的真理を知らなかったために動物に対して間違った支配をしてきました。その結果、動物が人間に虐待されるといった悲劇が発生することになったのです。そして現在の地球は、その悲劇がピークに達しています。
太古の地上人類は、狩猟によって“食”を維持してきました。野山に生息する動物を捕らえて食料としてきましたが、それと同時に、生命ある動物に一種の敬意と尊厳を感じ取っていました。そして人々は“神の使い”として特定の動物を信仰の対象とし、その一方で神への“生贄”として動物を捧げてきました。動物を生贄として捧げるという儀式は、世界中で共通して見られます。アニミズム的な原始信仰では、動物を生贄として捧げることは重要な儀式でした。時にはそれが、動物ではなく人間を生贄として捧げるというところまでエスカレートしました。こうした行為はすべて、霊的事実が分からなかったために発生した迷信であり、人間の「霊的無知」が引き起こした間違った信仰です。動物を生贄にする習慣は、人類史の中で長い間行われてきました。
しかしそうした間違った信仰も、現代人が犯している蛮行と比べれば“まだまし”と言えます。現代では、人間の霊的無知は動物を生贄にするという次元を超えて、人間中心のエゴを極限にまで拡大させています。物質文明がかつてないほど発展した時代にあって、動物に対する間違った扱いは目を覆うような状態にまでエスカレートしています。食料にするために“虐殺”が日常的に行われ、“肉食”が当たり前の習慣となっています。動物をペットとして愛しその進化に貢献する一方で、同じ人間が動物に対して身の毛がよだつような恐怖と苦しみを与えているのです。動物を人間の食料にすることは、「神の摂理」に反しています。人間は肉体構造を見ても分かる通り、動物の肉を食料とするようには造られていません。
動物界の中にも弱肉強食は存在しますが、全体的に見れば「摂理」の枠内に収まっており、バランスが保たれています。しかし人間はその蛮行によって「摂理」を大きく踏み外し、動物界を混乱状態に陥れています。
シルバーバーチの「動物観」の特色【8】
――スピリチュアリズムは、人類史上初めての“真の動物愛護運動”
人間と動物の基本的な関係は、愛による関係です。そしてその関係を築く役目は、一方的に人間に負わされています。なぜなら人間は、神によって高度な知性と精神、そして自由意志という特権が与えられているからです。これまで人間は「霊的無知」ゆえに、動物と正しい関係を築くことができませんでした。それどころか、摂理に反する“虐待”という間違った行為に走ってきました。動物虐待は常態化し、人間はますます大きな罪を重ねています。
今、スピリチュアリズムの到来によって地球人類は初めて、動物に対する正しい考え方・接し方を知ることができるようになりました。シルバーバーチは人類史上初めて、動物に関する真実を明らかにしました。今後、シルバーバーチの教えがスピリチュアリズム全体の教えとなり、それが地球上に普及することによって、現在のような動物虐待は徐々に姿を消していきます。何百年か先には、「肉食は間違った習慣である」との認識が当たり前になります。『シルバーバーチの霊訓』は、まさに最高の動物愛護の教えです。それは地球上の“動物愛護運動”の指針として、地上世界のあり方を根本から変えていくことになります。
ある日の交霊会で、一人の参加者がシルバーバーチに「イエスはどうして動物への愛を説かなかったのですか?」と質問しました。それに対してシルバーバーチは――「当時はまだ人々の霊性が低く、動物に対する愛を示す段階にまで至っていなかったのです」と答えています。イエスの時代には、人間同士の利他愛の重要性を明らかにすることで精いっぱいだったのです。シルバーバーチによって初めて動物への愛が強調され、動物に対する正しい認識が示されるようになりました。それは2千年前と比べたとき、現在の地上人類の霊性が向上しているということを意味しています。
人間の霊性が向上するにともない、「霊的観点」に立った動物への見方が当たり前になっていきます。人間と動物は“愛”によって結ばれる関係にある、との認識が常識となっていきます。当然、遠い将来には現在のような“動物虐待”や“肉食”という悪しき習慣はなくなります。動物に対する認識・接し方は、地球人類の霊性レベルの反映であり、霊性を示すバロメーターです。その意味からすると、現在の地球上を覆っている動物虐待や肉食の習慣は、「現代人の霊性レベルの低さを示している」と言えます。
シルバーバーチの「動物観」の特色【9】
――“動物虐待”という摂理違反に対しては、必ず“罰”としての苦しみが発生する
動物を食料と考え殺害することは、最もエゴ的な行為です。動物虐待や肉食は、人間の霊性の低さがもたらす“愛の欠如”という「摂理違反」です。こうしたあまりにも常軌を逸したエゴ的な行為に対して、人間はその罪に見合った罰としての苦しみを否応なく背負うことになります。摂理違反という“罪”は、苦しみという“罰”を通して償うことになるのです。
その償いの苦しみは、さまざまな病気という形で現れます。肉食が病気の大きな原因であることは将来、医学の常識になっていきます。現在は、老人や子供の健康維持のために肉は欠かせない食品であるかのような知識が流布していますが、その間違った医学的見解は根本から修正されるようになります。
現代では、新しい薬品を開発するために“動物実験”が盛んに行われています。しかし、そうした行為も間違いです。動物実験などという“虐待”をしなくても、人間の病気を癒す方法はいくらでも開発できます。弱い立場の動物を利用しなくても、もっと治療効果のある薬品を植物や鉱物から見つけることができます。地球上のあらゆる所で、未知のハーブ(薬草)が人間によって発見されるのを待っているのです。
シルバーバーチの「動物観」の特色【10】
――“動物愛護”の手本を示すことは、スピリチュアリストとしての使命
スピリチュアリズムは、人類史上初めての本格的な動物愛護運動であることが明らかになりました。スピリチュアリズムは、人間を悲劇から救済することだけを目的としているわけではありません。人間を含めた、地球上のすべての動物を“悲劇”から救済することを目的としているのです。人間がエゴに走り、自分たちの利益と幸福だけを追い求めて他の動物を犠牲にするなら結局、神が人間のために用意してくれた幸福を手にすることはできなくなります。
人間の「霊的無知」から発した“動物虐待”は、地球全土に広まっています。“肉食”が当たり前となっている現状を根本から改めるのは、短期間にできることではありません。スピリチュアリズムの「霊的真理」が普及するにともない、真理にそった生き方を志す人間が増えていきます。それによって肉食は、徐々に消滅していくようになるのです。地球上から肉食の習慣が完全に撤廃されるためには、長い期間が必要となります。何百年という時が、かかることになるでしょう。しかし、霊的真理の実践を通して人類の霊性レベルが向上するにつれて地球全体が浄化され、それに比例して肉食の習慣はなくなっていきます。
他の人々に先駆けて「霊的真理」を知ったスピリチュアリストには、率先して真理を実践していく責任と義務が課せられています。“責任など背負いたくない”と言っても、真理を知った以上、その責任から逃れることはできません。「スピリチュアリストは肉食をしない」「スピリチュアリストは菜食主義者である」という手本を示していかなければなりません。真理を知らない人間が肉食をしても罪(摂理違反)に問われることはありませんが、真理によってその間違いを知ったスピリチュアリストは、罪に問われることになります。動物に対する“愛の欠如”という罪、同じ生命を与えられた仲間・同胞に対する“虐待”という罪を免れることはできません。現在のスピリチュアリストは、“肉食”を基準としてその真偽が問われることになります。真理を実践する「本物のスピリチュアリスト」であるかどうかが試されているのです。
こちらもご覧ください