(2)霊的観点から見た「親子関係論」

――“親と子供”という特別な人間関係

育児・教育は、親と子供という限定された人間関係の上で成立するものです。この点で、他のさまざまな人間関係とは異なっています。ここでは親と子供という人間関係を「霊的真理」の観点から見ていきます。それを通して、これまで当たり前のように考えていた親子関係には、非常に複雑で深い霊的意味があることを理解していただけるものと思います。

1)親子の宿命的関係と血縁信仰

地上世界だけにある出産

人間は結婚して子供を生んだときから、自動的に“親”になります。そんなことは当然だと思われるでしょうが、実は人間にとって本来の世界である霊界には、地上のような結婚も出産もありません。結婚して子供を生むというようなことは、霊界から見ると物質世界ならではの特殊な出来事なのです。

“親子”という宿命的な人間関係

地上世界では、子供を生んだ瞬間から親子の関係ができ上がります。そして好むと好まざるとにかかわらず、親としての責任と義務を負うことになります。

人間は地上人生の中で、さまざまな人間関係を結びます。親子関係もその一つですが、“親子”という人間関係には大きな特徴があります。それは親子関係は一度決定すると、もはや変更したり断ち切ることはできないということです。「私はこの子供の親にはなりたくなかった」「私はこの親の子供にはなりたくなかった」といくら叫んでも、その事実を覆すことはできません。「もっと良い親から生まれたかった」「もっと良い子供を生みたかった」と嘆いても、どうすることもできません。友人関係や夫婦関係は、本人の意志で相手を取り替えたり関係を断ち切ることができますが、親子関係はそれができないのです。

親子関係は、人間の意志を超えたところで決定されています。この意味で親子は、まさに宿命的な関係と言えます。

血縁の重視と「血縁信仰」

人間が子供を生むという事実に立脚して考えると、親子の関係は宿命的で不変的なものと言えます。そしてこの親子関係の“宿命”という事実によって“血縁”が重視され、血縁関係に価値が置かれることになりました。それは自動的に、血族・氏族全体の存続と繁栄を目指す「家系信仰・血筋信仰」をつくり出し、血縁(血のつながり)の継続に最大の関心が向けられることになりました。こうした「血縁信仰」が、古代から現代に至るまで地上人類を支配してきました。

血のつながりを重要視する「血縁信仰」は世界各地に見られますが、中でも中国・朝鮮・日本に代表される東アジア地域の“儒教圏”における血縁信仰は、特筆すべきものです。この地域では永い間、血族と家系を重要視する伝統が続いてきました。そして21世紀の現在でも、血縁信仰は一種の宗教として強い影響力と支配力を持ち続けています。

血縁の断絶は、人間にとっての“最大の不幸”

動物は本能に従って子供を生み、子孫を存続させていきます。本能を支配しているのは「神の摂理」です。動物たちは神の摂理の支配のもとで子供をもうけ、子孫を維持・存続させる営みを繰り返してきました。動物には、永遠に子孫を残したいという意識はありません。それに対して人間だけが、自分の血筋を未来永劫、残そうとしてきたのです。

血縁信仰では、子孫の存続と繁栄こそが自分たちの幸福を保証するものであると考えます。そして血縁の存続が地上人生の重要な目的となってきました。それが部族間の争いを引き起こし、勝者が敗者の血筋を根絶させるという悲劇を生み出してきました。敵の血縁を地上から抹殺するために皆殺しにし、勝者としての支配権を確立してきたのです。このように血縁関係は、これまでの人類にとってきわめて大きな意味を持っていました。

血縁信仰においては、血筋が断絶することは、人間にとっての“最大の不幸”ということになります。子孫を残せなかった者は、地上に生まれた最も重要な目的を果たせなかったということになります。そのため子供を生むことができなかった嫁は“失格者”の烙印を押され、一方的に離縁させられるようなこともありました。

ここでスピリチュアリズムによって示された霊的観点からの結論を述べますが、これまで人類を支配してきた「血縁信仰」は間違っています。それは霊性の未熟な人間がつくり上げた遺物と言うべきものです。スピリチュアリズムは血縁信仰を否定し、それに代わって霊的関係を重視しますこれについては次で説明します)

血縁信仰における「価値観・幸福観」

血縁信仰においては、子孫が永遠に存続することが「幸福に至る道・救いを得る道」ということになります。人間にとっての幸福とは、血筋が維持され、血族が繁栄することに他なりません。そうした中での“親子関係”の確立は、血のつながりを引き継ぐ重大事となります。「血縁信仰」における親と子供のつながりは、血の絆による肉体の連続性を意味し、それによって肉体生命が途絶えることなく続いていくと考えるのです。そしてこれこそが、人間にとって最も価値ある事柄と見なされるのです。

血縁信仰・家系信仰の中では、個人の喜びや願望は血縁全体のために二の次とされたり、一方的に犠牲にされることもありました。

現代社会における血縁信仰の後退

時代が変わり、永い間、人々を支配してきた血縁信仰を否定するような動きが現れてきました。人間の幸福は個人個人に立脚するものであり、家や血縁関係の中に存在するものではない、といった考え方が台頭するようになってきました。こうした“個人尊重”の思想は、現代の先進諸国においては、ほぼ常識となりつつあります。

こうした変化の中で、従来のような極端な個人無視の血縁信仰は、後退を余儀なくされています。人間の幸せは、家や血縁関係によるものではなく、一人一人の生き方がもたらすものであるとする考え方は、それまでの偏狭な血縁信仰を少しずつ崩し始めています。血縁信仰における親子関係は、血と血のつながり、肉体次元の絆を中心としています。しかし血縁信仰に反対して個人個人の幸福を求める新しい考え方の中では、親子関係は単なる肉体次元だけの結びつきを超えて、精神(心)と精神(心)の結びつきをも同時に満たすものへと変化しています。

このこと自体は、ある意味で進歩の一つと言えますが、そこには別の新たな問題が発生するようになっています。

2)親子を結びつける絆とは

親子関係という人間と人間の結びつき(絆)を考える際には、「人間とはどのような存在なのか」という人間観が重要な決め手となります。「人間観」が明瞭でないところでは、人間と人間の関係を明らかにすることはできません。親子関係といっても、その本質は人間と人間の結びつきに他なりません。地上人類は“スピリチュアリズム”を通して初めて、明瞭な人間観を手にすることになったのです。

スピリチュアリズムの「人間観」

――人間は三位一体の霊的存在

「人間は三位一体の霊的存在である」――これがスピリチュアリズムが明らかにした人間観です。私たち地上の人間は、「霊」と「心(霊の心・精神)」と「身体(霊体・肉体)」の3つの要素から成り立っています。ここで重要な点は、これらの要素の中で一番の中心は「霊」であるということです。

人間は三位一体の霊的存在

血縁信仰における親子関係

――肉体次元での結びつき

血のつながりを重視するということは、肉体次元での結びつきに最も価値を置いているということです。極端な血縁信仰社会では、親子関係は肉体次元での結びつきを一番の本質としています。考えてみればこうした関係は、動物の親子関係と大差はありません。親から肉体を提供してもらった、肉体を養い大きくしてもらったという点での結びつきであり、その絆はどこまでも肉体次元に限定されています。

血縁信仰における親子関係

現代人が考える親子関係

――肉体と心の次元での結びつき

親の肉体と子供の肉体には宿命的なつながりがありますが、そうした肉体の連続性・肉体生命の連続性だけで親子関係(親子の結びつき)を捉えるのではなく、心の次元での結びつき(絆)に重要性を置く見方もあります。現代人の多くが、肉体と心の両面における結びつきを親子関係の本質であると考えるようになっています。こうした考え方は現代の先進諸国の人々にとって、ほぼ常識となりつつあります。

これは親子の絆を肉体次元に限定した血縁信仰と比べ、明らかに進歩した考え方と言えます。この際、心の結びつきに大きなウエイトを置く人と、肉体の結びつきにウエイトを置く人がいるというように、細部における考え方は個人個人で異なります。

現代人が考える親子関係

3)スピリチュアリズムが明らかにした親子関係の本質

――“霊と霊の関係”が一番の中心

三位次元での結びつき

――霊・心・肉体次元での絆

スピリチュアリズムでは、親と子供の結びつきを「霊」と「心(精神)」と「肉体」の3つの次元において考えます。人間が次元の異なる3つの構成要素から成り立っている存在である以上、親と子供の結びつきも、霊的次元・精神的次元・肉体的次元において同時に成立します。

霊と霊の結びつきが中心

ここで重要な点は、こうした3つの次元の結びつきは、ただ単に同じウエイトではなく、霊と霊の結びつきのウエイトが圧倒的に大きいということです。すなわち霊と霊の結びつきが親子関係の一番の中心である、ということなのです。

人間が霊を中心とする「霊的存在」である以上、親子関係においても霊と霊の結びつきが核になるのは当然です。これは分かってみればきわめて当たり前のことなのですが、地球人類はこれまで、そうした肝心な霊的事実を知ることができませんでした。スピリチュアリズムの到来によって初めて地球人類は、人間関係についての根源的な理解を得ることができるようになりました。

スピリチュアリズムが明らかにした“親子関係”を図示すると、次のようになります。

スピリチュアリズムが明らかにした親子関係(a)
スピリチュアリズムが明らかにした親子関係(b)
霊と心と肉体の3次元における結びつきその中で霊と霊の結びつきが一番の中心

霊的な結びつきがなければ、本当の親子関係とは言えない

霊と霊の結びつきこそが親子関係の本質です。血縁信仰が肉体と肉体の結びつきを本質としているのとは180度異なっています。確かに地上世界では、「子供を生む」ことによって肉体次元での宿命的な関係がつくられます。しかし霊的次元・精神的次元では、宿命的な結びつきはありません。

スピリチュアリズムの「霊的真理」によれば、親子は霊的関係を結ぶに至って初めて、本当の親子と言えるようになります。肉の親として肉体を提供したからといって、親子の間に霊的な結びつきがなければ、真の親子関係は成立しません。“肉体を提供して大きく育てる”というだけでは、親としての資格を持つことはできないのです。反対に、養子のように血のつながりがない場合でも、養親と子供の間に霊的な結びつきがあるなら、本当の親子と言えます。スピリチュアリズムでは“霊的関係(霊と霊の結びつき)”の有無が、親としての資格を決定すると考えるのです。

神こそが本当の「霊の親」

スピリチュアリズムでは親子関係について、さらに深い霊的事実を明らかにしています。それは地上に生まれる子供に「霊」を与えるのは神であり、霊の道具である「肉体」を提供するのが肉の親であるということです。子供は「神」から霊を与えられ、両親から肉体を与えられて誕生してきます。

すでに何度も述べましたが、人間の本質的な定義は「霊的存在である」ということです。人間の「霊」は、未分化の“霊の大海”の中から取り出された一滴が「分霊」として独立したものです。私たち人間の一番の本質である「霊」は、神によって与えられたものなのです。「神が人間を創造した」ということは、いずれの宗教においても説いていますが、その真意と詳しい内容はスピリチュアリズムによって初めて明らかにされました。「神が人間を創造した」という言葉には、実に深い意味が込められているのです。

神による人間の想像

この霊的事実を別の角度から見れば、「私たち人間にとっての本当の親は神である」ということになります。それは当然のこととして、新たに生まれてくる子供の本当の親も神であるということを意味しています。すなわち「神」は、すべての人間にとっての「霊の親」なのです。全人類にとっての共通の親である神の前では、肉の親もその子供も霊的な兄弟姉妹ということになります。

子供は神からの預かりもの

――子供は親の所有物ではない

人間の親(肉の親)は、肉体という霊の道具を子供に提供したにすぎません。昔から、「子供は神からの授かりもの」と言われてきました。確かにそれは真実を言い当てた言葉ですが、解釈の仕方によっては、子供は神から与えられて肉の親のものになったという意味に受け取ることもできます。しかしそのように考えるなら、霊的事実から外れてしまいます。生まれた子供は、どこまでも神のものなのです。

したがって厳密に表現するなら――「子供は神からの一時的な預かりもの」「地上人生の間だけの預かりもの」ということになります。こうした霊的観点に立った認識ができないかぎり、自分が生んだ子供は自分のものといった、親の所有物のような考え方に陥ってしまいます。

「子供は神からの預かりもの」という考え方は、神こそが人間にとっての「霊的親」であるとする認識から生まれるものです。地上の親子にとって神は“共通の親”であり、神の前では親子といえども等しい兄弟姉妹にすぎないとの理解のうえで可能となるものです。

こうした霊的事実に基づく正しい理解ができて初めて、子供との間に“霊的絆”が確立されるようになります。神を共通の「霊的親」とする信仰がないところでは、子供との間に霊的絆を結ぶことはできません。霊と霊の関係をつくることはできません。親子の霊的次元における結びつきは、「神」という共通の霊的親の存在を認めてこそ可能となるのです。

4)カルマ的関係(カルマによる親子関係の決定)

スピリチュアリズムが明らかにした驚くべき霊的事実

スピリチュアリズムでは親子関係に関して、もう一つの驚くべき重大な霊的事実を明らかにしています。親子関係における“最大の秘密”とも言うべき事実を明らかにしています。それは、生まれてくる子供が「再生者」である場合があるということです。自分たちのもとに誕生してくる子供が、かつて地上で大人にまで達した人間の可能性があるということなのです。

「分霊」としての出発と再生のプロセス

再生についてはすでに何度も見てきましたが、もう一度簡単に復習します。人間は、神によって永遠の個別性を持った霊的存在として生み出されました。“霊の大海”から一滴が取り出され、地球に代表される物質世界への誕生を機に「分霊」として永遠の独立性を持つようになりました。人間全員が、地球であれ他の天体であれ物質世界への誕生をもって「個別霊」として出発したということです。

物質世界への誕生によって個別性を獲得した「分霊(人間)」は、地上界と霊界の生活を繰り返すプロセスを通して、霊的成長の道をたどっていくことになります。

誕生した子供の2つのケース

したがって今、皆さんを親として誕生した赤ちゃん(子供)には、物質世界へ初めて誕生した「新しい霊」である可能性と、すでに前世において地上人生を送ったことがある「古い霊」が再生してきた可能性が考えられます。物質的な視野から見るかぎり、赤ちゃんは皆、地球上でゼロから出発したように映りますが、霊的に見ると、必ずしもそうとは言いきれません。

さて問題となるのは、自分の子供が「古い霊」の再生者である場合です。誕生した子供がもし「再生霊」であるなら、生まれた子供には「前世がある」ということになります。すなわち、かつて大人にまで成長した経歴があるということです。そうした人間(霊)が、自分の子供として生まれてきたのです。スピリチュアリストの場合、生まれてくる子供は圧倒的に「再生霊(古い霊)」であることが多いと思われます。

「再生」に先立って肉の親(両親)を選択

霊は、霊界において一定期間生活する中で、自分がさらに霊的成長をなすためには「地上に残した悪いカルマを償わなければならない」という事実に気がつくようになります。そしてカルマを償うために、地上世界への再生を願うようになります。

地上への再生を決意するとまず、自分の「カルマ」を償い清算するのにふさわしい環境を選択することになります。さまざまな人種・民族・国家・地域の中から、自分の再生の条件を満たす「肉の親」を選びます。同時に男性として生まれるのか、女性として生まれるのかといった性別も選択することになります。このように「再生」に先立って、ありとあらゆる条件が検討され、最もふさわしい肉の親(両親)と環境を選び、地上へ再生することになるのです。

皆さんはこうしたプロセスを経て、地上に再生してきました。そして皆さんのもとに生まれてきた子供も、さまざまな可能性の中から皆さんを自分にぴったりの地上の親として選択し、再生してきたということです。

肉の親も、育児を通して「カルマ清算」と「霊的成長」がなされる

ここでもう一つの重要なことは、「再生霊」が地上の親を選択する際には、再生霊側の事情だけで決めるのではないということです。肉の親サイドの霊的メリットも、同時に考慮されます。「再生霊」を子供として持つことにより、肉の親も自分のカルマを切り、霊的成長にプラスの影響がもたらされるかどうかが重要な決定条件となります。地上サイドと霊界サイドの条件がともに満たされて初めて“肉の親(両親)”が決定するのです。

「再生」は、主役である再生霊自身のカルマ清算・霊的成長と同時に、受け入れ側の地上の親にとっても霊的成長にプラスとなるように仕組まれます。こうした両親を決定するプロセスは、人智をはるかに超えた「霊的摂理」の驚異的な働きによって進められます。

カルマ清算と、苦しみの体験

「カルマを清算する」ということは、前世においてつくってしまった「神の摂理に対する違反の償いをする」ということです。カルマとは――具体的には「物欲に翻弄された生き方」「自己中心的・利己的な生き方」によってつくられるものです。そうした神の摂理への違反を償うためには、それに見合った苦しみの体験が必要となります。

霊は「前世のカルマ」を償うために、敢えて地上人生における苦しみを選択します。一方、肉の親(両親)も、育児を通して自分自身のカルマを清算する道を歩むことになります。このように生まれてくる子供(再生霊)にとっても、その子供を育てる肉の親にとっても、苦しみ・困難の体験が待ち受けることになるのです。

子供の前世が隠されている理由

再生霊が自分の子供として誕生するまでの霊的背景を知ったなら、肉の親となる地上人は間違いなく尻込みするようになるはずです。誰もが子供を持つことに、ためらいを感じるようになるでしょう。

そこで神は、生まれる子供の前世の身元については、地上人に知られることがないようにしたのです。同時に生まれる子供からも、前世に関するすべての記憶を消し去り、真新しく地上人生を出発することができるように配慮しました。さらには肉の親が我が子に対してふんだんに愛情を注ぐことができるように、子供を最高に可愛らしい存在として創造したのです。

『霊の書』では次のように、出生に関する霊的背景が生々しく述べられています。

「あなた方は表面上の無邪気さの裏に隠された秘密をご存じないようですね。我が子が一体いかなる人間になるのか、生まれる前は何者だったのか、これからどんな人間に成長するかも知らないまま、あたかも自分の分身であるかのごとくに愛撫し、すべてを忘れて育て、その愛は海よりも深いと称えられていますが、他人でさえ感じる幼な子のあの愛らしさ・優しさはどこからくると思いますか。(中略)

子供は神の許しを得て新しい物的生活の場へ送られてきます。その際、神は、その人生の厳しさが不当であるとの不満を抱くことのないよう、どの霊も表向きは無邪気そのものの赤子として誕生させます。たとえ宿っている霊が極悪非道の過去を持っていても、その悪行に関する記憶は全く意識されないようにしてあります。無邪気さによって悪行が払拭されているわけではありません。一時的に意識されないようにしてあるだけです。その純真無垢の状態こそ霊の本来の姿なのです。(中略)

赤子が純真無垢の状態で生まれてくるのは、それに宿る霊のためだけではありません。その赤子に愛を注ぐ両親のためにも――むしろ両親のためにこそ――神の配慮があるのです。もしも過去の残虐な行為がそのまま容貌に現れたらどうしますか。愛は大きくがれることでしょう。邪気もなく、従って従順だからこそ愛のすべてを注ぎ、細心の看護を施すことができるのです。」

『霊の書/思想編』(スピリチュアリズム普及会)p.171~172

「霊は互いの向上進化のために影響し合うようになっています。その目的で親の霊に子の霊の成長を委託することがあります。この場合はそれが親としての使命であり、それが達成されないと罪悪となることさえあります。(中略)

邪悪な霊が、徳の高い親のもとで更生したいという希望が受け入れられて誕生してくることがあります。その親の愛と心遣いによって良い影響を受けさせるために、神が徳の高い親に預けることがよくあります。」(中略)

(質問)――親は、心がけと祈願によって、善良な子を授かることができるでしょうか。

「それはできません。しかし、授かった子の霊性を高めることはできます。それが親としての義務なのです。が、同時に親自身の試練のために霊性の低い子を授かることもあります。」

『霊の書/思想編』(スピリチュアリズム普及会)p.112~113

こうした「再生」に関する深い霊的背景・実情を知ると、テレビや書籍などで軽々しく前世を指摘する霊能者は、すべて“ニセモノ”であることが分かります。前世については、地上人には知ることができないようになっているのです。したがって安易に、自分の前世や子供の前世を知りたいなどと思ってはなりません。

5)スピリチュアリズムから見た不妊治療の是非

動機は純粋だが、本質は血縁信仰と同じ

「何としても自分の子供を生みたい」――こうした願いを持つことは、ある面では人間として当たり前と言えます。21世紀の地球上には、子供が欲しくてたまらないのにいっこうに授からない人がいる一方で、人工妊娠中絶によって多くの胎児の生命が奪い去られています。現在の地球には、そうした大きな矛盾が存在しています。

「不妊治療に頼ってでも自分の子供を持ちたい」との思いの中には、不純な動機は全くありません。しかし霊的視野から見ると、不妊治療には多くの問題があります。人工授精による不妊治療の根本にあるのは、これまでの血縁信仰と同じ“血縁”へのこだわりです。莫大なお金をつぎ込んでもいいから、何としても自分の子供を生みたいという執念には、人間の「霊」に関する考慮は全くありません。現在行われている不妊治療は、霊的事実を無視した「物質的価値観」に立脚した行為なのです。

子供を授からないのには、深い霊的意味があるかもしれない

子供の誕生には、これまで述べてきたように、きわめて複雑で人智の及ばない深遠な霊的背景があります。地上人の目に映る子供の誕生は、その表面のほんの一部分にすぎません。

「子供は神からの授かりもの」という考え方は、ある面で霊的事実に一致していますし、霊的視野に立った見方と言えます。この格言は、常識的な努力をしたにもかかわらず、どうしても子供が与えられないときには、それ以上「がむしゃらに進んではならない」ということを意味しています。現状を静かに受け入れ、すべてを善意から発する神の配慮と、絶対的な神の摂理の支配に委ねることを教えているのです。子供ができないことには、何か重要な霊的意味があるかもしれないと考えて、現実を受け入れるのが賢明なあり方です。

霊的成長こそが地上人生の最大の目的です。子供を生まなければ霊的成長ができないということではありません。育児は、どこまでも霊的人生の一コマにすぎません。子供を授からないのは、育児の体験を通しての霊的成長のプロセスがすでに完了しているからかもしれません。あるいはこの世的な願望が叶えられない悲しさを体験するために与えられている試練かもしれません。

不妊治療よりも、養子を育てる

子供を育てることを通して、人間は霊的成長をなすことができます。育児・教育が利他愛の実践として行われるなら、それによって霊的成長がもたらされるようになります。しかし育児は、何も実子でなければならないというものではありません。血のつながりのない子供(養子)であっても、真の利他愛によって結ばれた関係を築くことができるなら、霊的価値は変わりません。むしろ養子を育てる方が、霊的成長にとってはプラスになることが多いはずです。なぜなら血縁ではない人間関係では、初めから“心の絆・霊の絆”を中心にすることになるからです。

地上で子供を持ちたいと願いつつもそれが叶わなかった女性には死後、霊界において多くの子供たちの世話をする役目が与えられます。それを通して地上では実現しなかった育児体験を埋め合わせることができるのです。この際、「子供の面倒をみたい」という地上時代の願望の満足がメインではなく、利他愛の行為を通して不足していた霊的成長のための体験をカバーする(埋め合わせる)ことが、その主な目的となります。

子供ができない人々は、これと同じことを地上世界で行えばよいのです。「養子を育てる」ということです。常識的な努力をしてもどうしても子供ができない場合には、養子を迎え、自分の子供として誠意を尽くし、本当の愛情を注いで育てればよいのです。

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