(4)霊性教育の目的と方向性

ここでは霊性教育を成立させるための1つ目の条件――「育児・教育の目的と方向性」について見ていきます。育児・教育に対する正しくて明確な目的・方向性を持つことは、霊性教育の出発点であると同時に、親が神の代理者になるための不可欠な内容(条件)ともなっています。親が育児・教育の主役としての責任を果たすためには、最も大切な内容です。

1)育児・教育における目的・方向性の重要性

動物と人間の違い

――人間だけに必要とされる“教育”という営み

人間は子供を生むことによって、宿命的な親子の関係を持つようになります。しかし人間は子供を生んだというだけでは、本当の親にはなれません。生んだ子供の“魂”を育てるという重要な役割を果たして初めて、親と言えるようになるのです。“生みの親より育ての親”という言葉が示すように、「育てる」という意図的な行為が人間には要求されます。ここに人間と動物の決定的な違いがあります。

動物が子供を育てることは、すべて「本能」に基づいてなされます。子供を生んだあと、親は何をすべきかが本能によって自動的に示され、それに従うだけでよいのです。特に意図しなくても、自分の子供の肉体を養うことができるようになっています。

ところが人間の場合には、動物のようにただ「本能」に従うだけでは、子供をまともに育てることはできません。そこに人間に特有の「育児・教育」という意識的な営みが必要とされます。動物には、人間のような育児・教育はありません。育児・教育は人間だけに求められる特別な行為であり、「霊的存在」であるがゆえの特権なのです。

“高次の心”を育ててこその育児・教育

ただ子供の肉体だけを大きくすればいいと考えるなら、動物の親と大差はないことになってしまいます。育児・教育という意図的な営みを通して子供の心を育ててこそ、人の親と言えるのです。

どうして人間と動物の間には、こうした違いがあるのでしょうか。それは人間と動物では身体構成が異なり、人間だけに“高次の心”があるからです。動物には「本能」という低次元の心はありますが、人間のような高次の心はありません。そのため動物は、人間とは違って高次の意識を持つことはできません。この人間に特有の高次の心を引き上げて初めて、「子供を育てた」と言えるのです。人間だけが持つ高次の心とは、詳しく言えば、霊体に存在する「霊の心(魂)」のことです。育児・教育とは、この人間だけが有する「霊の心」を育てることなのです。

育児・教育とは、一定の方向へ向けての働きかけ

「子供を育てる」ということは、親が理想とする目的(人間像)に子供を近づけようとする営みであり、それを実現するために一定の方向へ向けて働きかけることです。このように育児・教育には、明確な目的と方向性が必要とされます。親がはっきりとした目的(目標)と方向性を持っていないかぎり、子供を正しく導いていくことはできません。どのような目標を目指して育てていけばよいのか、どの方向に向けて働きかけていけばよいのかを知ることが、育児・教育における最も重要な出発点となるのです。

したがって目的と方向性が定まっていない育児・教育は、本来は存在しないことになります。しかし私たちがよく目にする育児書には、肝心な育児の目的と方向性に関する内容はほとんど取り上げられていません。「どの方向に子供を育てるべきか」ということについては、あいまいな育児書が多いのです。それはちょうど、砂漠の真ん中でわずかな水しか持たずに、思いつくまま適当な方向に歩いていくのと同じことです。いつか行き倒れになることは明らかです。また、目的を持たない育児・教育は、レールのない野原を障害物にぶつかって破壊するまで走り続ける列車と同じです。方向の定まらない列車にどんな立派な燃料を入れても、すべてが無駄になってしまいます。

多くの育児書が、育児・教育の目的・方向性といった肝心なことにページを割くのではなく、単なる育児の方法・ノウハウだけに焦点をしぼっています。

育児・教育の方向性を決めるもの

――「親の人生観・価値観」

親は子供にとって最も頼りになる“心の指導者・魂の教育者”でなければなりません。指導者である以上、当然のこととして「どの方向に子供を導いていくか」をしっかりと定めていなければなりません。

このように育児・教育に携わる親には明確な目標がなければなりませんが、ではこの目標は、何によって決定されるのでしょうか。それは言うまでもなく「親の人生観・価値観」です。言い換えれば“親の願望”です。

例えば、「お金こそが幸福の源、何と言っても“この世は万事カネしだい”」と考える親なら、間違いなく自分の子供には金銭的に恵まれた人生を歩ませようとするでしょう。そしてそのために有名大学に入れ、医者や弁護士といった収入の多い職業に就かせたいと思うようになります。

また「神への信仰」こそが、子供を幸福にすると考える親もいます。現在の日本ではそうした親はほとんど見られませんが、海外における宗教者、特にキリスト教徒やイスラム教徒の中には、そうしたケースが多く存在します。そして小さいときから宗教に関するさまざまな儀式や慣習を教え込み、教義を学ばせようとします。そうした親にとっては、子供が聖職者になることが最高の喜びです。

一方、お金や名誉や地位よりも、心の豊かさや思いやりが人間を幸せにすると考える親もいます。そうした親は子供に対して、何よりも人に尽くすことや奉仕の大切さを教えようとするでしょう。

このように親が何を最高に価値あるものと考えるのか、何をもって人間の幸せが決定すると考えるのかが、育児・教育の目的・方向性となるのです。すなわち親の「人生観・価値観」によって、子供に期待するものが変わってくるということです。「本当の育児・教育とは何か?」という問いを掘り下げていくと、必然的に人間の幸福を決定するものは何なのか、何が人間にとって一番価値があるものなのかという「価値観」を問題にせざるをえなくなります。

「物質的価値観」という間違った方向性

現在の日本では、多くの親が子供の学校の成績に敏感になっています。なぜ親が学校の成績にこだわるのかと言えば、学校の成績が子供の人生を大きく左右することになると考えているからです。学校の成績が良ければ、有名高校・有名大学に進学できます。有名大学を卒業すれば収入の多い職種に就いたり優良な会社に就職することが可能となり、お金と地位と名誉を手にすることができると考えているのです。子供により良い成績を望む親の心の中には、こうした単純な人生の図式が描かれています。そこにはお金と地位があれば、それだけ幸福になれるという「物質主義的幸福観」が存在しています。

こうした親にとって学校の成績や大学のランクは、人間を測るバロメーターです。成績の良い者は優秀な人間であり、最も幸福に近い人間であるということになります。これは典型的な「物質的価値観」に立った人生観です。こうした親の多くは、表面上は成績だけにこだわっている様子を見せません。自分の願望を露骨には表に出しませんが、心の中は「物質的価値観」一色に染まっています。

“親のエゴ”の対象にされる育児・教育

「子供の成績が良ければ喜び自慢する」――そこには“親のエゴ”しかありません。こうした親は受験競争を勝ち抜くために、子供の教育にはお金を惜しみません。それが醜い競争に子供を駆り立てることになっています。子供はそうした状況の中で人を押しのけることを覚え、“成績が人間の価値を決める”といった間違った傲慢な考え方を身につけ、早々とエゴ的に生きることを学ぶようになります。

多くの親が「子供の本当の幸福とは何か?」について深く考えることなく、ただ自分の願望を子供に押し付けています。そこでは親の思いだけが前面に出て、どんなに子供が嫌がっても自分の願望を達成しようと仕向けます。そしてそれが子供のためであると自分自身を納得させ、子供にも言い聞かせるのです。

ここまで来れば、もはや「子供の心を育てる」という育児・教育の原点は完全に忘れ去られています。育児・教育は、“親のエゴ”を満足させるための単なる手段に成り下がっています。親は、自分が実現できなかった夢を子供に託し、それが実現することで自己満足の喜びに浸りたいのです。親は決まって「すべては子供のため」と言いますが、そうした自己正当化をどれだけ繰り返しても、本物の親・正しい親でないことは明らかです。

こうした親の価値観の押し付け・親の願望の押し付けは、学業に関してばかりでなく、最近ではスポーツや芸能など他の分野にも見られます。学業ではとても無理だと考えた親が、別の分野で子供を有名にして、自分の願望を達成しようとするのです。その根底にあるのは、この世の名声・名誉を求める「物質的価値観」に他なりません。そしてそこでもまた、「スポーツに打ち込めば立派な人間に育つ」というような、あまりにも短絡的な主張がなされます。プロのスポーツ選手が皆、人格的に優れているわけではないことは、少し考えればすぐに分かることです。“スポーツ=優れた人間づくり”という軽薄な親の考え方の根底にあるのも「物質的価値観」であり、親のエゴにすぎません。

(質問)――現代の教育に欠けているものは何でしょうか。

「人間それ自身についての真理を教える用意がなされていないことです。人間が霊的な宿命を背負っている霊的存在であるという事実へ指向された教育がないことです。(中略)そして、大して必要でもない知識を教え込むことに関心が向けられすぎております。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)p.68

「現実には多くの親は“我が家”中心に考えて、一人間として立派な性格の子に育てるよりも、金のなる木になってくれるように腐心します。その結果として、もしもその子が親のエゴの通りの人間になったとしたら、それは親としての信義に背くものとして罰を受けると同時に、いびつに育ったその子がこうむる苦しみの数々の責任も問われます。親としての本来の義務を遂行しなかったからです。」

『霊の書/思想編』(スピリチュアリズム普及会)p.227~228

“自由放任・子供任せ”という偽善性

乏しい親の人生観・価値観のもとで、子供の心が立派に育つことはありません。一方、世の中には自分の利己的な願望や価値観を押し付けることはしない代わりに、子供に全く干渉せず、自由気ままに育てようとする親がいます。「好きなようにさせてやれば、自由な中で子供は立派に育っていく」と言うのです。子供をのびのびと自由に自然児として育てるという主張は、いかにも筋が通っているように聞こえますが、人間が「霊的存在」であることを考えると、それは単なる無責任な言い分にすぎません。

自由放任主義・子供任せ主義からは、「本能」のままに行動する人間しか育ちません。人間性を失った、動物と大差のない“本能人間”ができ上がってしまいます。親である以上、子供をより良い方向に導き教育することは義務であり、責任なのです。子供の自由に任せる、好き勝手にやらせるということは、責任放棄に他なりません。育児・教育に関して明確な目標がないということは、親としての真剣さの欠如なのです。

しかし最近では、自分自身の考えに自信を持てない親が、こうした自由放任主義・子供任せ主義に走るケースが増えています。

2)霊性教育の目的〈1〉

――「霊的成長」に向けての働きかけ(霊性教育の一番の本質)

精神レベル止まりだった、これまでの育児・教育

育児・教育には「肉体を育てる」という面と、人間独自の「高次の心を育てる」という両面が必要となります。いくら肉体が大きくなっても心が成長しないかぎり、子供を育てたことにはなりません。人間だけが有する高次の心を引き上げることができなければ、育児・教育とは言えません。

ここで「心を育てる」ということを、もう少し掘り下げて考えてみます。これまでたびたび「高次の心を育てる」と言ってきましたが、厳密に言えば高次の心には、知識レベル・理性レベル・霊的レベルという3つの段階があります。そして人間の心を育てるとは、この3つのレベルをすべてクリアして、最終的には霊的レベルにまで心を引き上げることです。これが「高次の心を育てる」ということの意味であり、「霊的成長を促す」ということなのです。したがって「霊性教育」は、霊的レベルにまで至って初めて実現することになります。

霊的レベルにまで心を引き上げる「霊性教育」

「心を育てる」と言うと、多くの人々は知識を与えることでなされるものと考えます。動物には知識を学ぶということはありませんから、それは確かに人間独自の世界と言えます。しかし単なる知識を与えるだけでは、人間の心は育ちません。知識を与えるのは、心の教育の初歩レベルにすぎません。

結論を言えば、これまでの地球上における教育は、知識レベル・理性レベルの教育に終始していたということです。精神レベル止まりであって、霊的レベルへの働きかけは、ほとんどなされてきませんでした。国家による公教育は、その国にとってより良い人間・国民になることを目指して行われます。しかしこれでは育児・教育が、人間にとって最も深い心の部分、一番重要な霊的な心にまで及ぶことはありません。

霊性を高めることが霊性教育の目的

子供の教育とは“目標とする人間像”に向けての働きかけです。それは単なる知識や技術を身につけさせたり、思考力や創造力や自立心を伸ばすだけの教育では不可能です。「霊的存在」としての価値を発揮するための方法を教えなければなりません。本当の育児・教育は、常に霊の心(魂)の成長ということを目標にしていなければなりません。

スピリチュアリズムの「霊性教育」には、明確な目的・方向性があります。それは霊の心を育てること、すなわち「霊性を高める」ということです。霊性を高めるとは、別の言葉で言えば「霊的成長を促す」ということです。霊的成長こそが、人間が地上世界に生まれた最大の目的です。したがって「霊性教育」とは、地上人生の最大の目的を実現するための働きかけに他なりません。「霊性を高める」「地上人生における霊的成長の歩みの基本をつくる」――これが霊性教育の目的であり方向性です。「霊性」という心の最も深い部分に向けての教育なのです。

子供の霊的成長に対する願望の有無が、真実の親かどうかを決定

地上人生の目的である霊的成長は、この世の富や名声によって得られるものではありません。それらを手にしたからといって、本当の幸福に至れるわけではありません。地上に生まれてきた目的が霊的成長にあることを考えると、多くの人々が追い求めているのはガラクタ同然のものであり、地上人生を無駄にしていることが分かります。人々が必死になって追い求めているのは、全く価値のないものばかりです。大半の親は自分の子供に、そうした無意味な人生を歩ませようとしているのです。

親として持つべき願いは、子供の「霊的成長」でなければなりません。たとえ子供に億万の財産を与えたとしても、あるいは子供に最高の学歴をつけ、それによって社会的地位と名声を得られるように育てたとしても、それ以上に霊的成長を願っていないかぎり、親としては失格です。

「子供には、何としても霊的成長の道を歩んでほしい。たとえお金や地位や名声には恵まれなくても、またこの世的には不幸と思われるような人生であっても確実に霊的成長の道を歩み、内面の幸せを得てほしい。地上を去って霊界に行ったとき、自分の霊的成長を喜ぶことができるような歩みをしてほしい。無私無欲になって人類のために人生を捧げるような生き方をしてほしい」――こうした願望を持って子供の教育に携わる人であってこそ、「真実の親・本物の親」と言えるのです。

親が子供の霊的成長を第一に願うとき、親の視線は常に子供の永遠の幸福に向けられています。それは親として“最高の愛”を示していることになります。子供の本当の幸せを願っていることになります。親が、神の代理者として立っているかどうか、神と子供の媒介者と言えるかどうかは、「子供の霊的成長を願う」という一点において明らかにされます。

3)霊性教育の目的〈2〉

――子供を地上の悪から防衛

“地上の悪”にさらされる子供たち

地上世界は“物質中心主義と利己主義”という2つのガンに支配されています。そのため意識的に「霊中心の生き方・利他的な生き方」を目指さないかぎり、2つのガンのとりこになってしまいます。地上を支配する2つのガン(地上の悪)は非常に強い力を持ち、地上人の心を引きずっていきます。人間が霊的成長をなすためには、2つのガンとの闘いは避けられません。この“地上の悪”との闘いこそが、スピリチュアリズムにおける信仰の努力なのです。

地上を支配する“物質至上(中心)主義と利己主義”は当然、子供たちにも多大な悪影響を及ぼします。子供の魂の力は弱く、分別もつきません。世間の大人が言っていることに簡単に影響を受け、マスメディアや社会一般の風潮に容易に染まってしまいます。魂が未熟で幼いうちは、善を志向する力が弱く、誘惑に駆られて道を外れる危険性が常に付きまといます。現代の地球上には、あまりにも多くの悪がはびこり、人々を正しい生き方から遠ざけようとしています。いったん信仰の道に入った大人でさえ引きずりおろすほど強い悪の力に、子供たちはさらされ続けているのです。

したがって育児・教育の主役である親が、しっかりと悪の存在を認識し、その勢力から子供を守ろうとしないかぎり、間違いなく子供はこの世の人々と同じ道を歩むことになってしまいます。

“地上の悪”から子供を守る霊性教育

霊性教育の目的の一つは、「地上の悪から子供を守る」という点にあります。悪の影響から防衛しないところで子供の霊的成長を促そうとしても、積み上げる一方で崩されてしまうことになります。良いことを教えて魂を引き上げると同時に、悪い方向に流されないように仕向けることも霊性教育の目的なのです。そしてそれを責任を持って実践することが親の役目であり、使命なのです。

子供が親と一体になることの重要性

子供を悪から守るために親は、家庭において子供に真理を教え、悪との闘い方を身につけさせて欲望社会に染まらないように仕向けなければなりません。親は子供との触れ合いの中で、“親こそが正義である”との強いメッセージを伝え、親に従うことが正しい道であるとの印象を子供に植えつけなければなりません。子供が、社会の風潮や他の大人の言うことよりも「神の代理者」である親の言葉を信じることができてこそ、子供を悪から守ることが可能となるのです。子供の心に「親に対する絶対的な信頼」と「親と一つでありたいとの願望」があって初めて、周りがどうであれ、子供は親についていくようになるのです。

「親を信じ、親を慕い、親に従う」という姿勢・生き方は、やがてその子供が大人になったとき、実を結ぶことになります。万人が反対する中にあっても信念を曲げず、堂々と正しい道を歩むことができる信仰者として立っていけるようになるのです。

4)霊性教育の目的〈3〉

――子供の前世のカルマ清算の手助け

「再生者」としての我が子

地球上の新生児には、今回が物質世界への初めての誕生というケースと、再生者として何度目かの誕生という2通りのケースがあります。こうした霊的世界の秘密を知ると、「自分の子供は果たしてどちらなのか?」と考え込んでしまうかもしれません。

結論を言えば、今スピリチュアリストとして歩んでいる人の子供は、再生者のケースと考えてほぼ間違いありません。なぜなら今回が地上への最初の誕生という場合は、文明が未開の地域に生まれ、霊性進化の最も初歩的な段階を歩むことになる新生児が圧倒的に多いからです。スピリチュアリズムが普及している国家に生まれるということ自体、すでに何らかの進化の過程を経てきていると考えられます。

子供が「再生者」であるなら、本人はかつて地上で生活した経歴があり、そこでつくった「カルマ清算」のために今回の再生人生を選んできた、ということになります。地上の両親は、その再生人生の目的を果たすのにふさわしい人間として子供に選ばれた、ということになります。それは親になる人間にとっても、霊的成長を促す新たな機会が与えられたということを意味します。再生者(子供)と地上の親の双方にとって、霊的成長のチャンスが与えられたということです。

「カルマ清算」のプロセス

カルマは、前世でのエゴ的生き方・物欲的生き方から発生したものであり、再生人生ではそのカルマを償うための苦しみの体験が必要となります。「カルマ清算」の苦しみは、さまざまな形で現れます。多くの誘惑にさらされる中で、それをはねのけ耐え忍ぶ人生を送るようになることもあります。経済的に困窮したり、病気の苦しみを味わうようになることもあります。いずれの場合でも、当人が「神の摂理」にそった生き方を心がけ、遭遇する苦しみを甘受したとき「カルマ精算」は達成されることになります。

これは、もし積極的に「霊的真理(摂理)」にそった歩みをするなら、カルマ清算(罪の償い)がより早くなされるということを意味します。自分を厳しく律し、霊主肉従の生き方・利他的な生き方を求めるなら、前世の罪はより早く償われていくことになるのです。当然その過程では、さらに激しい物質的・本能的な誘惑に遭遇することは避けられませんが、霊的成長をなすためにはそれらと闘い、乗り越えていくことが必要とされます。

子供のカルマの表面化

子供が再生者である場合には、「前世のカルマ」は子供の人生において、何らかの形で表面化するようになります。子供が成長するにつれてカルマの影響が表に現れたり、無意識のうちに子供の性向を形成するようになります。

前世のカルマを清算するために地上人生を選んだ以上、苦しみとの遭遇は避けることができない宿命と言えます。子供を育てる過程で前世のカルマに由来する問題が発生して親子の間に軋轢が生じ、親と子供の双方がさまざまな苦しみを体験することになるかもしれません。

霊性教育は、子供のカルマ清算の手助けをする

親が正しい育児・教育(霊性教育)を目指して努力するとき、子供に内在していた「前世のカルマ」は、小さい芽のうちに摘み取られるようになります。霊性教育によって、子供が「神の摂理」に一致した歩みをするようになった場合には、カルマの発現を抑えることができるようになります。子供自身が内面的な苦しみを体験することでカルマが償われて帳消しになり、表面化が最小限に食い止められるのです。こうしたケースはめったにありませんが、「神の代理者」にふさわしい親の育児・教育を通して「霊主肉従の努力」と「利他愛の実践」が子供の習性となったときには起こり得ることなのです。

子供が正しい信仰生活を身につけるなら、前世のカルマを完全に断ち切ることはできなくても、カルマの何分の一かは発現する前に償われることになります。また、霊性教育を通して子供のうちから本能的欲望との闘いの大切さを知った者は、大人になってカルマが発現する時を迎えても、信仰の力でそれに立ち向かい克服することができるようになります。

このように親が施す正しい霊性教育によって、子供のカルマ清算の道は確実に進められていくことになります。霊性教育は、再生者のカルマ清算の手助けをすることになるのです。

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