(5)霊性教育の実践論

――霊性教育の具体的内容と方法

(4)では、霊性教育が成立するための第1の条件について見てきました。そのポイントは、親が子供の「霊的成長」を最も重要視し、それを育児・教育の目的にするということです。何よりも子供の霊的成長を願う親であってこそ「神の代理者」となることができ、霊性教育が成立します。これが霊性教育の出発点となります。

一方、霊性教育では目的・方向性と同時に、霊性教育の正しい実践内容・正しい方法も重要な要素となります。育児・教育の主役となる親が、どれだけ子供の霊的成長を促す内容を与えられるか、ということです。

霊性教育の成立条件

霊性教育の第2の条件とは、親は子供の霊的成長のために具体的に何をなすべきか、どのような方法をとるべきか、ということです。

結論を言えばまず、親は神の代理者として、子供の霊的成長を促す「霊的栄養素」を与えなければなりません。また、子供が霊的成長の道(霊的人生)を歩めるように「正しい生き方への方向づけ」をしなければなりません。それは「霊的人生の基礎訓練を施す」ということです。子供の霊的成長を促すためにはさらに、「正しい導き方(指導法)」が求められます。無理のない適切な引き上げ方をしなければなりません。間違った教育方法は時として、子供の霊的成長を阻害してしまいます。そこで「霊的摂理」に一致した教育法・指導法が必要となるのです。

以上のように「霊的栄養素」「霊的人生への方向づけ」「正しい導き方」、この3つが揃ったとき、親は子供の霊的成長を促すことができるようになります。これらが霊性教育が成立するための第2の条件です。それは当然、親が神の代理者となるための条件とも言えます。

以上の項目について詳しく述べると、1つ目の霊的栄養素とは――具体的には「基本的な霊的真理」と「親の正しい愛(利他愛)」です。2つ目の霊的人生への方向づけとは――「霊主肉従のための基礎訓練」と「利他愛実践のための基礎訓練」です。3つ目の正しい導き方とは――「親が霊的人生の良き手本となること」と「神の援助者としての育児・教育法」ということになります。

霊性教育が成立するための第2の条件
「霊性教育」が成立するための第2の条件(具体的な実践内容と方法)

以下では、これらの一つ一つについて見ていきます。

1)霊的栄養素〈1〉

――基本的な霊的真理

霊的真理は、最も重要な霊的栄養素

親が子供の霊的成長のために与えるべき1つ目の霊的栄養素は、「基本的な霊的真理」です。正しい霊的知識は魂を成長させる土台となるものであり、子供の霊的成長にとって不可欠な要素です。霊的真理を与えると言っても、私たち大人が学ぶようなレベルで理解させようということではありません。スピリチュアリズムによって明らかにされた霊的真理のアウトラインや大切なポイントを理解させるだけで十分です。

基本的な霊的真理とは

基本的な霊的真理とは、具体的に言えば次のような内容です。「神がいる」、その「神は規則正しい法則(摂理)として人間の前に顕れる」、「霊界がある」、そして「人間は死後、霊界で生活するようになる」、「地上人生は魂の訓練場所である」、「正しく生きるとは、物質に偏らない生活を送り、社会と人類のために奉仕することである」――これらが基本的な霊的真理の内容です。

「いかなる事態においても、社会のため、人類のために貢献できる人物に育てるための知識を授けることが、教育の根本義なのです。それには何よりもまず、宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てるために開発してやらねばなりません。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.109

「どうか子供にはすべての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげてください。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.119

子供に対する「霊的真理の伝道」

親は子供に、こうした基本的な霊的真理を分かりやすい言葉で繰り返し語ってあげることが大切です。人間にとって最も重要な霊的知識・霊的真理が子供の心に染み込むように、日常生活の中で噛みくだいて教えるということです。霊的真理を子供に語ることは、神から預かった人間に対して伝道をするということになります。霊性教育とは、子供に対する「霊的真理の伝道」なのです。

霊的真理を知っていることが、親になるための“最低条件”

本当の育児・教育(霊性教育)とは、子供を「霊的真理」にそった人間に育てるための手段に他なりません。したがって霊的真理を知らない人間は、子供の教育に携わる資格はないということになります。本来、そういう人間は人の親や教師になってはいけないのです。親や教師は子供たちに、人間として知っておかなければならない知識を正しく教えてあげなければなりません。「霊的真理を知っている」ということが、親や教師になるための“最低条件”と言えます。

「子供に種々さまざまな可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が大人と同様、本来が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人――こうした人に育てられた子供は、健全な精神的発育を阻害されます。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.110

しかし地上の現状を見るかぎり、その最低条件さえも満たしていない親や教師がほとんどです。親になる資格のない人間が子供を生み、先生になる資格のない者が人生について教える立場に立っています。親や教師は、次のような霊的真理を確信を持って子供に教えてあげなければなりません。「人間は霊的存在であり、死んですべてが終わりになるのではない」「物質的なものに偏った生活を送ってはいけない」「人のために誠心誠意尽くすことが最も価値ある生き方である」。

子供の“潜在意識”の中に刻み込まれる霊的真理

親から教えられたことは、そのまま子供の“潜在意識”の中に刻み込まれ、その子供の人格の一部となり、その後の人生に大きな影響を与えることになります。子供は親から教えられた内容を無条件に信じ、一生それを引きずっていくことになります。幼いときに間違った考えを教え込まれた子供は、大きくなってから「正しい人生観・世界観」に触れても、もはやそれを受けつけることができません。このように親が基本的な霊的真理を教えるということは、子供の一生を左右する重大事なのです。

霊的真理を知らない親に育てられ、間違った「エゴ的人生観」を植えつけられた子供は、本当に気の毒としか言いようがありません。魂を成長させることが最も大切であることを知らない親に育てられ、この世の富や名声に価値があると教え込まれた子供は、実に不幸です。「基本的な霊的真理を教える」――それは親としての義務であり責任なのです。

「子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することができません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。

このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸とヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者たるものは、まず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.109~110

2)霊的栄養素〈2〉

――正しい愛(利他愛)

親が子供の霊的成長のために与えるべき2つ目の霊的栄養素は、「正しい愛」です。子供は親から正しい愛を受ける中で、霊的成長をしていくことができるようになります。正しい愛、すなわち「利他愛」は、子供の魂を育てるために不可欠な霊的栄養素なのです。「子供を愛する」ということは簡単なようですが、実際にはとても難しいことです。育児・教育とは、まさに高次元の霊的実践です。正しい愛を子供に注ぎ続けるためには、さまざまな困難を乗り越えていかなければなりません。

人間の愛と神の愛

もし親が、自分の力だけで完全に子供を愛することができると考えるなら、それは傲慢以外の何ものでもありません。少し考えてみれば分かりますが、私たち人間の愛や感情にはムラがあります。そのムラは、一貫した正しい愛の実践者になることを妨げます。自分は永遠的な愛を持つことができると考える人がいるかもしれませんが、その自信は実践の場では、たちまち崩れてしまいます。

人間の気まぐれで飽きっぽい有限の愛に対して、「神の愛」は無限で常にムラがありません。そうした揺らぐことのない不動の愛で子供を愛したとき、その人は真実の親としての資格を持つことになります。醜さ・未熟さを抱えた人間を常に平等に愛してくれる神の姿勢に倣ってこそ、親は子供の醜さや我がままに直面しても愛し続けることができるようになるのです。霊界の高級霊たちは今日まで、そうした「神の愛」で私たち地上人を愛し導いてくれました。「神の愛」を宿した高級霊こそが、まさに地上の親にとっての手本と言えます。

本能的愛と、子供に対する所有欲

人の親として、我が子をいとおしく思わない者はいません。親が子供を思う気持ち自体は確かに純粋ですが、同時にその思いの根底には本能的要素が存在しています。それは本当の霊的愛・真の利他的愛とは言えません。強い母性愛には「子供は自分のもの」という“所有欲”が潜んでいます。我が子を自分の所有物のように考えている親が多いのです。

霊的成長という点から見ると、親がいとしさ・かわいさという感情だけで子供に接することは、時として大きなマイナスを生み出します。人間だけの愛は、その大半が「肉体本能」に由来します。そこには霊的要素がないため、子供の霊的成長を促す霊的栄養素とはなり得ません。

子供への正しい愛の出発点

子供かわいさのあまり、いつまでも自分の手元に置きたいと考えるなら、それは単なる親のエゴにすぎません。「肉体本能」に発する感情から、子供を私物化しようとしているのです。それでは本当の愛を持った親とは言えず、エゴの強い親ということになってしまいます。子供の魂の成長を第一に願う親であってこそ、「霊的愛」で子供を愛することができるようになるのです。

子供の「肉体」は確かに地上の親によって与えられましたが、子供の「霊」は神によって与えられたものです。「霊」が人間の本質である以上、生まれた子供は地上の親の子供である前に「神の子供」なのです。子供は、神から立派な人間に育てるようにと、一時的に預けられたにすぎません。そうした観点を持てず、子供は自分のものであると考えることは間違っています。

「自分が生んだ子供は、自分の子供である前に神の子供である。神は、この子供の永遠の霊的成長と幸福を願っている」と思ったとき、親が子供を見る眼差しは根本から変化します。広い霊的視点から眺められるようになります。それが子供を正しく愛する出発点なのです。

子供の中に“神の尊厳性”を見る

親は子供の中に“尊厳性”を認めなければなりません。それは子供の「霊」が神によって与えられたものであり、子供も親と同じ「神の子供」として、神から愛されているからです。単に人間であるという理由だけで、尊厳性を認めるのではありません。子供は、神から預かった「神の分霊」を宿した存在であり、神から養育を任された神の子供であるからこそ尊いのです。

繰り返しますが、子供は親の所有物ではなく、神から一時的に預かった「神の子供」です。親の使命は、神から預かった子供を「神の代理者」として立派な神の子供に育てることです。

親は、神と子供の媒介者として立ったとき、子供の中に“神の尊厳性”を見いだすことができるようになります。親は我が子を眺めるとき、神が目の前の子供を愛していることを思い起こさなければなりません。子供の背後に神の眼差しと愛があることを忘れてはなりません。そうであってこそ親は、神と同じような「霊的愛・真実の愛」で子供に接し、子供を正しく導くことができるようになるのです。

真実の愛に犠牲はつきもの

――利他愛と犠牲は同義

人間が真実の愛(利他愛・霊的愛)を持つためには、「自己犠牲」を喜んで受け入れなければなりません。真実の愛を実践するためには、自らを「神の道具」として提供しなければなりません。それは子供の「霊的成長」のためなら、たとえイヤなことであっても、どんなに大変なことであっても、自分自身を後回しにして子供に尽くすということです。これが、子供のための犠牲です。真実の愛に犠牲はつきものです。犠牲を払うことは、利他愛を実践するためには避けられない道なのです。「利他愛」と「犠牲」は、車の両輪のように一体関係にあります。

犠牲とは、真実の愛のために、自分にとって大切なもの・価値あるものを後回しにすることです。本能的思いや利己的感情を抑えて、相手のために尽くすことです。犠牲とはまさに、愛が真実であることを証明するものであり、人間だけが持ち得る崇高な精神から発するものなのです。

親が本物の愛を持つためには、自己犠牲を喜んで受け入れることができなければなりません。それができてこそ、親自身も育児・教育を通して霊的成長の道を歩むことになります。人間は、子供を生んだからといって親の資格が与えられるわけではありません。自分を犠牲にして真実の愛を実践してこそ、本当の親になることができるのです。「神の代理者」として、子供の「霊の親」になることが可能となるのです。自らを犠牲にして子供を育てることは、まさに高次元の霊的実践と言えます。

現実の犠牲的行為が、子供との“愛の絆”をつくり上げる

世の中には、自分の忙しさを理由に、乳児の世話を他人に任せている母親がいます。そうした人は、子供が大きくなったとき、最も大切なものを失ってしまったことに気がつくようになります。「子供と真実の愛で結ばれる」という最高のチャンスを、仕事というこの世の事情のために無駄にしてしまったことを悟るようになります。子供との間に“愛の絆”をつくり上げるチャンスを自ら捨て去ってしまった生き方が、結果的に本人に苦しみをもたらすことになるのです。

家庭的な事情のためにどうしても働かざるをえないといったケースは別として、乳飲み子の世話を他人に任せることは、大切な“霊的宝”を捨て去る行為です。元来、母親が父親に優る点があるとするなら、それは子供を生んでからずっと、子供のために生活のすべてを犠牲にし、労力を惜しまず世話をすることができるということです。自分の身を削って、子供のために召使のように尽くすことができるということです。そうした現実の無条件の犠牲的行為が、結果的に子供との間に深い心の絆をつくり出すことになるのです。

父親より母親の方が“親”として優れているのは、すべての意識・すべての時間を、子供のために捧げることができるからです。自分を顧みることなく、ひたすら子供のために尽くすことで、子供の心は無条件に母親に惹き付けられるようになるのです。子供のために無償の愛を与え、犠牲を払うことによって母親は、子供の“魂”との強い結びつきを持つことになります。それが母親に大きな喜びをもたらし、父親の知り得ない“霊的宝”を手にすることになるのです。

それは女性が苦しみの中で「神の子供」を生み育て、より多く神の仕事を受け持つことに対する神からの祝福であり報酬と言えます。

子供の霊的成長のための犠牲

子供が成長してある程度、手間のかからない時期に達すると、犠牲のあり方は当然それまでとは違ってきます。子供のための犠牲は、少しずつ精神的な面・霊的な面へと移っていきます。子供が幼いときには、主として身の回りの世話をするという形で犠牲の道を歩んできましたが、子供の成長につれてそうした外面的な犠牲から、より内面的な犠牲へと変化していくことになります。

現在では育児に手間がかからない時期になると、子供を保育園・幼稚園に預けて働きに出たり、趣味やスポーツなどで自分の人生を楽しもうとする親が多くなりました。経済的な理由からどうしても働かなければならないという場合もありますし、趣味に打ち込むことも、それ自体が特に問題というわけではありません。

しかし親が、自由な時間をつくって自分の好きなようにやりたい、自由な生活を楽しみたいという考えだけで子供を他人に任せるとするなら、それは大きな間違いです。母親の「価値観」は、子供の「霊性」にストレートに影響します。自分が好きなことをしたくても、子供の霊的成長にプラスにならないと思うときには、いつでもやめなければなりません。子供が霊的に自立するまでは、子供のための犠牲は避けられないものなのです。常に子供の霊的成長に、意識とエネルギーを向けていなければなりません。

以上のようなことは、母親ばかりでなく父親にもそのまま当てはまります。自分がテレビを見たくても、子供のしつけ上よくないと思ったら我慢しなければなりません。世の中には身勝手な父親が多くいますが、自分がどんなに疲れていても、子供の手本となる必要があるときには、無理をしなければなりません。子供のためには、自分の好きなことや楽しみを後回しにしなければならないのです。子供が乳飲み子のときも、成長して親に反抗するようになったときでも、親は常に子供の「霊的成長」を最優先すべきです。それが「神の代理者」としての、犠牲的あり方なのです。

3)霊的人生への正しい方向づけ〈1〉

――霊主肉従のための基礎訓練

“霊的人生”への方向づけ

親は子供よりも人生経験があり、その分だけ視野が広くなっています。そして全体を見通した適切な判断ができるようになっています。親は人生の先輩として、子供を“霊的人生”に向けて導いていく立場に立っているのです。

子供は親から具体的な方向づけをしてもらう中で、霊的人生の第一歩を歩み出すことができるようになります。「霊主肉従の努力」と「利他愛の実践」は、霊的人生における重要な実践内容であり、それを通して人間は霊的成長をすることができるようになっています。子供は親から、霊主肉従の努力と利他愛の実践に向けて手引きをしてもらう中で、“霊的人生”という本当の信仰を身につけていくことになります。

「霊的成長」を目的とするしつけ

人間が生活する所には必ず一定の規律(ルール)があり、その規律を身につけるための“しつけ”が存在します。子供は、親からしつけを受ける中で、人間として生きていくための行動様式を身につけていくことになります。

さて、一口に“しつけ”と言っても、さまざまなものがあります。まず、日常生活に関係する初歩的なしつけがあります。また、社会人として自立するためのしつけもあります。さらには、良き家庭人となるためのしつけもあります。

ここで取り上げるしつけは、子供に“霊的人生”を歩ませるためのしつけです。信仰者として霊的成長の道を歩むことができるように育てるためのしつけです。育児・教育(霊性教育)が果たすべき役割の一つに、子供に対して霊的人生への方向づけをするということがあります。霊性教育における方向づけとは、「霊的成長」を目的としたしつけに他なりません。

良き社会人になるためのしつけ

良き信仰者(スピリチュアリスト)であるためには、それに先立って良識を持った健全な人間でなければなりません。社会人として正常な人間関係を結べるような人間でないかぎり、良き信仰者になることはできません。良き社会人であることは、良き信仰者になるための前提条件なのです。

世の中を見渡すと、社会人としての基本的な内容さえ身につけていない人間が多いのに驚かされます。挨拶ができない青年、返事ができない大人、全体の約束を守れない人間、当たり前の上下関係を無視し、最低の礼儀すら身につけていない人間を至る所で目にします。“物質主義”が支配的になると、人間社会全体が本能的・利己的になっていきます。すると、人々の中から礼儀や社会的秩序を維持するための最低限の規律が失われ、他人に対する当たり前の配慮や思いやりがなくなっていきます。そして社会全体の精神レベルが低下して風紀が乱れ、退廃するようになっていきます。

社会的規律が守られないところで、良い人間関係や人間社会を築くことはできません。挨拶ができない者、言葉づかいが悪くて人の気分を害しても平気な人間は、深い人間関係をつくることはできません。社会人としてのしつけは、人間社会の行動様式と規律を身につけるためのものであると同時に、利他愛に基づく人間関係・対人関係を築くための最低条件でもあるのです。

しつけの重要な意義

――「霊的コントロール」の一手段

しつけには、もう一つの重要な意味があります。それは、しつけは人間の霊的成長にとって欠くことができない「霊主肉従」の状態をつくるための最も初歩的段階の実践であるということです。「霊的コントロール(霊主肉従)」の努力によって人間は、本能に支配されることから免れるようになります。肉体を持った地上人は、意識的な努力をしないかぎり自然と本能に流され、「肉主霊従」の状態に陥ってしまいます。しかし親のしつけによって子供は、本能化への傾斜に歯止めをかけることができるようになります。

しつけは、人間の行動に一定の枠(ワク)をはめ、外形を整えようとするものです。不自然な方法のように思われるかもしれませんが、実際にはそれによって心まで変化することになります。例えば身なりひとつ変えるだけで、心に適度な緊張がもたらされます。上品な言葉づかいを心がけると、気持ちまで高められます。気分が落ち込んでいても意識的に笑ったり明るい表情をつくると、心が明るくなってきます。このように外面が内面に影響を与え、変化を引き起こすことになります。心と体は相関関係にあり、それらの間でエネルギー交換がなされるため、こうしたことが生じるのです。また“習い性”という言葉があるように、習慣として同じ行動を繰り返しているうちに、それがいつの間にかその人間の人格をつくっていくことになります。

霊性教育における“しつけ”とは――「霊的成長をなすための基本的なワクを与えること」「霊主肉従を維持するためのワクを与えること」に他なりません。それは子供が“悪の道”に誘い込まれないための強力な歯止めとなります。霊性教育の目的の一つに「地上の悪の影響から子供を守る」という内容がありますが、それはこうした“しつけ”に負うところが大きいのです。

霊性教育における“しつけ”の意義

――まとめ

以上、しつけの意義と目的について述べてきました。ここでしつけの意義についてもう一度、整理します。

しつけとは、子供に社会生活の規範を身につけさせ、人間としての良識を養い、良き社会人に育てるためのものです。それは他者と当たり前の関係を結ぶことができる人間、良き社会人となるための基礎をつくるものです。霊性教育におけるしつけには、もう一つの意味があります。それは子供に霊的規範を教え、“霊的人生”を歩むことができるように方向づけをするということです。将来、立派な信仰者として立っていけるように仕向けるということです。

霊性教育におけるしつけには、こうした2つの重要な意義があります。

残念なことに、スピリチュアリストを自称する人間の中には、当たり前の良識さえ身につけていない人がいます。真理を知っていても、自己コントロールができず、他者に対する思いやりや配慮に欠ける人がいます。最低限の自己コントロールと他者への心づかいができない者は、良い人間関係を築くことはできません。人間としての基本ができていない、社会人としての基本ができていないからです。それでは真理を手にしたからといって、霊的成長は望めません。

子供に施す“しつけ”には、2つの重要な意義があることを述べました。1つは「社会生活の規範を身につけさせ、良き社会人としての基礎をつくる」ということ、もう1つは「霊的規範を教え、霊的人生を歩むための土台をつくる」ということです。人間的成長・社会的成長を促すためのしつけと、霊的成長を促すためのしつけです。

人間として、社会人としての成長は「霊性教育」の前提条件(ベース)となるものです。それができていなければ霊的成長の道をスムーズに歩むことはできません。霊性教育における“しつけ”とは、人間として、社会人としての基礎をつくりながら、霊的成長を目指す信仰者としての土台をつくっていくものです。一人の人間として自立するのに必要な力をつけ、良き社会人として他者との間に愛の関係を築くことができるように導いていくと同時に、より次元の高い信仰者としての基本的内容を教えていくものなのです。

しつけにおける親の愛と厳しさの関係

子供の心を傷つけることだけを心配して、必要な注意をすることができない親がいます。子供を溺愛して最低限のしつけすらできず、子供を好き放題・我がまま放題に育てる親がいます。そうした親に育てられた子供は、魂の健全な成長が損なわれ、親子の愛の関係も崩れていくことになります。とは言うものの、間違った厳しさだけのしつけも問題です。しつけの効果が得られないばかりか、子供の心に大きな傷を残すことになるからです。

しつけは、あくまでも一定のワクをはめるためのものですから、ある面で子供にストレスや苦痛を与えることは避けられません。しかし、しつけが子供に一時的な緊張と苦痛をもたらしたとしても、「正しいしつけ」であれば子供の成長が阻害されるようなことはありません。

親子が本当の愛情によって結びついていれば、特に母親との間にしっかりとした愛情の絆がありさえすれば、しつけによる一時的な苦痛が子供の心に傷跡を残すようなことはありません。しつけによって心が歪むというようなこともありません。もし、しつけによって子供の心にマイナスが生じたとするなら、それは親の愛情不足のためか、しつけの施し方が自然の摂理に合っていなかったからですしつけの具体的な方法については、次で取り上げます)

しつけは愛情と厳しさの中でなされるべきものですが、何よりも“愛情”をその根底としていなければなりません。親は、子供が自分を完全に信頼し、心を完全に開放しているとの自信があるときのみ、しつけを強いることができるのです。結局、厳しさが問題ではなく、「親に本当の愛情があるかどうか」が問題となるのです。

しつけをするうえでの注意点

子供にしつけを施すうえで特に留意しなければならない点は、次の4つです。1つ目は――「気まぐれなしつけをしてはならない」ということです。子供に対して、自分の気が向いたときだけ注意をするといった接し方をしてはなりません。2つ目は――「一度に多くのことを教えてはならない」ということです。3つ目は――「イライラしたり、感情的に怒ってはならない」ということです。4つ目は――「親が常に手本を示さなければならない」ということです。親ができないことを子供に強要してもできるはずはありませんし、子供に真剣さが伝わらないのは当たり前です4つ目の内容については、5)「霊的人生の良き手本」で詳しく説明します)

しつけの具体的項目

しつけの具体的内容は、子供の霊的成長によって異なります。ここでは霊性教育において重要なしつけの内容を、4つの点から説明します。

①人間としての基礎をつくるためのしつけ

人間関係をつくるのに必要な基本的なマナーや決まりを身につけさせる。

◎人に迷惑をかけない、挨拶や正しい言葉づかいをする、約束や規則を守る、上下関係をわきまえる――こうした内容を身につけることは、当たり前の人間関係を築いていくうえでの最低条件です。

②神の前に出るためのしつけ

神の前に出るときの正しい姿勢(謙虚さ・純粋さ・誠実さ)を教え、神に対する畏敬の念を育む。

◎神に対する正しい姿勢を身につけることは、「霊的存在」としての一番の基礎となります。神への正しい姿勢は「霊的成長」のための出発点であり、信仰者としての土台をつくるための不可欠な内容です。それは親と一緒に「祈りの時」を持つことを通して養われます。親が神の前にぬかずく姿を真似て、最も厳粛な時間を共有する中で身につけることができます。

◎親は「祈り」に際して、常に神が目の前にいて祈りを聞いていることを教え、静かに心を開き、神に委ねるように導きます。神は祈る者の心の内をすべて知っていて、隠し事は一切できないことを説明し、最高の謙虚さと誠実さを持って祈りに臨むように仕向けます。子供は祈りの体験を通して、最も深い霊的世界に触れ、人間としての最高の聖域に浸り、神に対する“畏敬の念”を育むことになります。

◎親子が揃って、祈りの時間と場所を最重視することによって、子供の心に“聖”と“俗”を区別する霊的感覚が養われます。

③この世的な欲望(物欲・名声欲など)に流されないためのしつけ

物質主義が支配する中にあって、物質には価値がないことを教え、金銭や名声といったこの世的な欲望に流されないように仕向ける。この世の悪に対する防波堤としてのしつけを施す。

◎この世の“悪”に流されない心を養うことは、祈りについてのしつけと同様、親自身の生活態度(日常生活)を手本とすることによってなされます。そして日々、親が霊的真理を語って聞かせることを通してなされます。

◎親が常に贅沢を慎み、質素な生活を心がけるなら、子供は自然のうちに質素なライフスタイルを身につけるようになります。親の手本と霊的真理による教育によって、子供は“物質至上主義”が横行する中にあっても、モノやカネや名声といったこの世的な欲望に翻弄されなくなります。

質素な生活が当たり前になることによって、子供は自ら贅沢を排除し、「霊主肉従」の生活を求めるようになっていきます。

◎親は時に子供に対して、敢えて不自由な生活・必要最小限度のモノしかない生活(キャンプ・野外活動・登山など)を体験させ、人間が生きていくうえで、それほど多くのモノは必要ではないことを実感させることが大切です。また、世界各地の貧困者の実情を教え、日本人が当たり前に享受している物質的な贅沢が、いかに罪深いことであるかを理解させることも重要です。

◎現代の資本主義経済のもとでは、人間の本能を刺激したり、刹那的快楽を追及するような商品が次々と世の中に送り出されています。物質文明と経済はこうして発展していますが、それがますます地球人類を“霊的不毛状況”へと追いやることになっています。

いかなる物質文明・科学技術も、人類が「霊主肉従」を保ったうえでそれらを利用する分には何の問題もありません。しかし現代の地球人類は、物質文明・科学技術に翻弄され、霊的成長の道から遠ざかるようになっています。インターネットや携帯電話やゲーム機器は、ますます子供たちを「肉主霊従」の状態に追いやっており、今やこれらが引き起こす弊害は、何らかの政治的な対処・法律的な規制をしなければならない事態にまで至っています。

こうした状況の中で多くの友人と付き合っていかなければならない子供たちを正しく導くことは、親の努力だけでは限界があります。しかし親は、可能なかぎり物質的なツール(ネット・携帯電話)の弊害に子供が巻き込まれないように、これらをコントロールして用いることを教えなければなりません。過去にはなかった厄介な問題への対処が、現在の親には求められているのです。

◎学校の勉強やクラブ活動も、子供が欲望に流されない強い心を養うための機会と考えて、積極的に活用するようにします。勉強は、進学や学歴や出世のためではなく、全力で一つの課題に取り組みチャレンジする人生経験の一つと位置づけします。そして子供には、勉強を通して全力で困難に立ち向かうことの厳しさと、それを乗り越えたあとの喜びを教えることが大切です。

そうすれば勉強は、子供の忍耐力を高め、目的に向かって努力を継続していく力を養うことになります。親は子供に、勉強は立派な人間になるための一つの訓練であることを繰り返し説き聞かせることが必要です。

④“性”に関するしつけ

現代の世の中には“性的な誘惑”が渦巻き、最も醜い世界を当たり前のことと考える風潮が蔓延している。親は子供に対して、性的な関心が高まってくる思春期を迎える前に、性に関する正しいしつけを施しておかなければならない。性に関する正しいしつけとは、「霊的真理」に基づく性教育のことである。

◎性に関するしつけの一番のポイントは、“セックス”は子供をつくるための行為であり、どれほど強烈な恋愛感情を持っていても無条件に認められるものではないということを教えることです。

セックスは、生まれる子供に対して霊的な責任を持つことができないかぎり、決して許されるものではありません。“好きだからセックスする”というのは、ただ本能に翻弄されているだけなのです。親は子供に「神の摂理」を守ることの大切さを教え、それが結果的に本当の幸福に至る道であることを理解させなければなりません。

◎セックスは子供をつくるために神によって定められた行為であり、摂理にそった一定の条件を満たして初めて許されるものです。セックスが許されるための条件とは、男女がともに、生まれる子供に対して「神の代理者」としての自覚を持っているということです。そして生まれた子供を「立派な神の子供に育てよう」という共通の認識と決意を持っていなければなりません。男女に、摂理にそった親になるための自覚と決意があるときのみセックスは許されるものです。神から預かった子供を、親の責任として「霊的成長をさせよう」との思いがあって初めて、子供をもうけることができるのです。

◎単なる「肉体本能」の発露にすぎない恋愛感情(“好き”という感情)を真の愛情と錯覚し、セックスに走ることは神の摂理に反しています。心身が未成熟な時期にセックスに流されるとするなら、“霊的感性”の芽はズタズタに引き裂かれてしまいます。「霊性」の根幹が崩されてしまうことになります。その後に高い霊的感性を持ちたいと思っても、取り返しがつかないほどの霊的ダメージを受けることになってしまいます。

暴力的な間違ったしつけが、子供の心を傷つけることがありますが、間違った“セックス”は、さらに心の深い部分に傷を残すことになります。

◎人間のセックスは、きわめて霊的な要素が大きい行為です。人間のセックスには、常に霊的なものが優先されなければなりません。人間のセックスは動物とは異なり、肉体の生殖以上の深い意味があるのです。

◎残念ながら、神の摂理にそった理想的な「性教育」が地球上で支配的になるのは、遠い将来のことです。それには今後、永い永い時が必要となります。摂理にそった性教育が実現するのは、地球上に「霊的真理」が行きわたり、地球人類の常識となった時です。それまでは、これまでのような“狂った性愛観”が大手を振るい、人々を間違った方向に引きずっていくことになります。

◎そうした状況の中にあって、子供が間違った性の風潮に染まらないようにする唯一の“防波堤”は、親なのです。親は「霊性教育」を通して、男子にも女子にも心身を清らかに保つことの大切さを教えなければなりません。それが親にとっての重要な役目です。

霊的成長を妨げる「肉主霊従」の最たるものが、間違った性愛・性本能によるセックスです。性本能の放縦に流されないように自己コントロールし、心身を清らかに保つ努力ができるように、子供を導かなければなりません。思春期に至る前からこうした教育を施し、清らかな生き方を求めることが当たり前となるように仕向けなければなりません。

4)霊的人生への正しい方向づけ〈2〉

――利他愛実践のための基礎訓練

霊的人生への正しい方向づけの2つ目は、利他愛実践のための基礎訓練です。人間が霊的成長をするためには、「霊主肉従の努力」と「利他愛の実践」が不可欠です。霊性教育は、この2つの内容を子供たちに基礎訓練として施し、将来大人になったときに霊的成長ができるような道筋をつけることを目的としています。

1つ目の「霊主肉従のための基礎訓練」については、先に述べました。ここでは2つ目の「利他愛実践のための基礎訓練」について取り上げます。

先に愛すること・先に与えることが霊的成長の道

人間は“愛”によって霊的成長をしていきますが、それは上位者から愛され、同時に下位者を愛するという体験を通してなされます。「愛し・愛される」という体験によって、私たちの魂は成長していくことになるのです。

ここで問題となるのが、愛すること、すなわち与えることは容易ではないということです。“利己主義”が支配的な人間社会では、人々は常に他人からより多くのモノと愛を与えられることを願っています。愛すること・与えることよりも、愛されること・与えられることだけを期待しているのです。ここから“愛”にまつわるさまざまな問題が発生します。

人間は、愛されるだけで愛することをしないかぎり霊的成長はできません。それが「神の摂理」なのです。子供は生まれてしばらくの間は、親から一方的に愛を与えられる中で育ちます。徹底して愛され与えられる時期を過ごすことで、愛の基礎的な世界をつくっていくことになります。やがて成長とともに親以外の人間との間に関係を持つようになり、少しずつ人を愛すること・人に与えることを覚えていきます。しかし親から甘やかされるだけで、そこから一歩も抜け出せない子供は、いつまで経っても周りの人間に与えることができません。

“愛”の観点から言えば――「霊的成長とは、他人に愛を与えることができる“愛の人格性”を高めていくプロセス」ということになります。人をより多く愛し、人により多く与えることができる人間になっていくことが霊的成長ということなのです。この“愛の人格性”こそが、霊性のレベルを決定します。霊的成長とは「愛の人格性の拡大」に他なりません。人間が地上に誕生するのは、さまざまな人間関係の中で愛の人格性を磨くためです。それには、先に愛し、先に与えることができる利他愛の主体者・主役になることが不可欠です。

霊性教育の目的の一つは、子供が利他愛実践の主役となれるように、先に愛すること・先に与えることを教えるところにあるのです。

少子化社会における利己性の助長

ひと昔前の日本では、一つの家庭の中に多くの子供がいるのが普通でした。こうした時代には、利他愛実践のための基礎訓練は、兄弟関係の中でごく自然になされていました。しかし少子化が進んだ現代では、親が意識的に利他愛実践の訓練を施し、子供が人を愛することができるように方向づけをすることが必要です。

現在では、少ない子供にお金と手間をかけて育てることが一般的になっています。そうした家庭環境では、子供の利己性が増し、我がままが助長されるようになりがちです。

さらに現代における問題点は、親自身に、無償の奉仕こそが人間にとって一番尊くて大切なことであるとの自覚が全くないことです。大半の親は、自分の子供が他人に奉仕することを望んではいません。それよりも人に先んじて出世し、有名になり、金銭的に豊かになることを願っています。人々のために喜んで犠牲を受け入れられる人間になってほしいと思っている親はいないのです。そうした親が、子供を利他愛実践の方向に導くことなどできるはずはありません。

意識的な利他愛の訓練が必要

「先に愛する・先に与える」ということは、意識的な実践のプロセスを経ないかぎり身につくものではありません。地上人の心は、放っておけば肉体に閉じ込められ、「肉体本能」のままに翻弄されてしまいます。肉体本能の本質は利己性であるため、そうした「肉主霊従」の状態では、利他愛を持つことはできません。ここに霊性教育における訓練の意味があるのです。

親は実地訓練を通して、子供が先に愛し、先に与えることができるように手引きをしなければなりません。

他人を先に愛せない子供は幸福になれない

先に愛すること・先に与えることを身につけなかった子供は、大人になってから円満な人間関係・夫婦関係を築くことができなくなります。人間関係・夫婦関係は、親子関係とは違い、上下の立場が常に変動する中で愛のサイクルをつくっていかなければなりません。したがって一人一人が互いに相手に与えることをせずに、与えられることだけを願っていると、正常な関係は成立しません。愛のサイクルが続かず、関係は破綻することになります。

子供のうちに、人を愛することができるようになるかどうかは、本人の将来の幸福を決定する重要な問題です。霊性教育は、子供が将来、円満な人間関係・夫婦関係を築くことができるようにすることを目的としているのです。

子供には「無償の奉仕」の大切さを教える

親は子供に、「先に愛し、先に与える」という無償の奉仕精神を身につけさせなければなりません。それこそが親の使命であり、霊性教育の大きな目的です。「無償の奉仕」という利他的生き方が、子供を本当の幸福に導くことになるのです。

親は子供に、自分自身の楽しみを追求することよりも、人々のため・人類のため・困っている人のために奉仕することに価値があることを教えなければなりません。自分だけの楽しみを求めるのではなく、人々への奉仕を優先する生き方の素晴らしさを繰り返し語ることが必要です。本能的・刹那的な快楽を追い求めるような風潮に流されることなく、他人に奉仕することの大切さを教えるのです。「無償の奉仕」の中にこそ真の喜びと幸福があることを、生き生きと語って聞かせるということです。そして何よりも重要なことは、親がそうした生き方の手本を示すということなのです。

「子供には、宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、まじめで無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.220

「利他愛実践の訓練」の具体的内容

利他愛実践のための基礎訓練の内容は、具体的には次のようなものです。

◎利他愛を自発的に実践できるようにするための訓練として、親は子供に家事の手伝いをさせたり、一緒に地域の奉仕活動に参加するようにします。

◎動物の飼育や植物の栽培をさせて、相手に与え続けることを体験させます。相手を愛し続けるには忍耐が要求されることを理解させるための実地訓練です。

◎親は子供に、絶えず「無償の奉仕」の価値を語って聞かせるようにします。この世の人々が必死になって手に入れようとしている金銭や名声には価値がないこと、それらは人生をかけて追い求めるようなものではないことを理解させるようにします。有名にならなくても、金持ちにならなくても、出世しなくても、派手な生活ができなくても、ただ人々のために無償の奉仕をすることに価値があることを教えるのです。そうした人生を歩んでほしいと願っている、親の思いを伝えることが大切です。

“いじめ”と利他愛の訓練

今の時代では、いつ“いじめ”の被害者になるか分かりません。「物質的価値観」に支配された現在の地球上には、さまざまな矛盾が存在しています。いじめや学校崩壊などの問題も、大もとをたどれば、地球人類の間違った生き方がそのまま反映したものと言えます。現代社会が抱える教育問題は、ただ単に教育分野に限定される問題ではありません。“物質主義と利己主義”という人類にとってのガンを撲滅しないかぎり、こうした問題を根本的に解決することはできないのです。

地球上の人間が共通の価値観に立たないかぎり、“物質主義と利己主義”を克服することはできません。共通の価値観に立脚しないところでは、人間関係はスムーズにいきません。それが“いじめ”や“嫌がらせ”として表面化しているのです。共通の価値観が支配していないところでは必ず、いじめや対立・非難・排斥が起きるようになります。それはあらゆる分野・あらゆる人間関係(政治組織や宗教組織・学校・会社・各種グループなど)において見られます。

子供から大人まで、人が集まればグループがつくられ、それと同時にいじめや嫌がらせや対立が発生するようになります。私たちがスピリチュアリストとして霊的真理に忠実に歩もうとするとき、周りからさまざまな嫌がらせを受けるようになるのもその一つです。今は子供の“いじめ”と“自殺”がクローズアップされていますが、こうした問題はどこにでも、いつの時代にもあるものなのです。それを完全になくそうとしても、現在の地球上においては不可能です。

もし自分の子供が“いじめ”を受けるような立場に立たされたときには、それを「利他愛実践の訓練」の教材にすることです。純粋に利他愛を実践しようとすると必ず、周りの人間の妬みを招くことになり、反発や非難・嫌がらせを受けるようになります。周りの子供たちから無視されたり、いじめられることは、暴力を受けるに等しい苦痛の体験です。特に陰湿ないじめは“集団リンチ”とも言える所業であり、被害者となる子供は、逃げ場のない地獄のような世界に追い込まれることになります。大人でさえ自殺する人が多いのですから、子供へのいじめに対しては、現実的な対処を考えなければなりません。

子供が“いじめ”に遭ったときには、親は常に自分こそが味方であることをしっかりと伝えなければなりません。そして人をいじめるのは恥ずかしいことであり、いじめられる方が立派であること、神がすべてを知っていることを語って聞かせるのです。もし、子供がいじめに耐えられないときには、学校を替えたり休学するといった対処が必要です。それは逃避でもなければ、敗北でもありません。いじめを受けている子供が、いじめる相手を憎むことなく上から眺めて同情できるようになったなら、いじめに勝利したことになります。

5)正しい導き方〈1〉

――霊的人生の良き手本

最高の育児法・指導法は、親が手本を示すこと

多くの専門家によって、これまでさまざまな育児・教育の方法が説かれてきました。しかし「親が手本を示す」ということ以上に優れた方法はありません。親が身をもって正しい生き方を示すことこそが、まさに最高の教育法なのです。霊性教育における教育法・指導法は、“親の手本”というシンプルな結論に言い尽くされます。

親の生き方は、子供が見習うべき手本です。親が真実の霊的人生を歩み、それを見せていくことが、そのまま「霊性教育」になります。これまでの教育学では、とかく方法論が重要視されてきましたが、本当は方法ではなく、親が模範となることが大切です。それが最も効果的な方法・手段なのです。

育児・教育は、その大半が親の内容にかかってきます。方法論が問題ではなく、親の姿勢・日常生活が問題となります。親が「神の前に正しく生きよう」と誠実な努力をすることこそが一番の教育方法であり、それが子供の心に深い感動を与えるようになるのです。

(質問)――手本を示すこと以外に、何かもっと良い方法はないものでしょうか。

「でも、うまく行けば、これほど効果的なものはありませんよ。(中略)人間は、手本によって学ぶように大霊が配慮しておられるのです。あなたは“他にもっと良い方法はないものでしょうか”とおっしゃいましたが、そういうものはありません。」

『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』(ハート出版)p.209~210

親の手本こそが、最も効果的な教育法・指導法

親の生き方や生活態度がそのまま最良の指導法になるということは、霊性教育における大半の責任は親にあるということを意味しています。親は子供にとって霊的人生の良き先輩となるために、日々の努力を怠ってはなりません。親は子供に口先だけで生き方を教えようとするのではなく、自らが良き手本となるように努めなければならないのです。

親が「神の代理者」としての資格を得るためには、子供に対して霊的人生の生きた見本とならなければなりません。「神を信頼して生きること」「奉仕の人生を送ること」「霊的視野に立った考え方・判断をすること」――これらは親が具体的な手本を示す中で学んでいくものです。子供は、親の現実の姿を通して「霊的真理」にそった価値観・人生観を身につけていくようになります。理屈によって信仰的人格がつくられることはありません。親という手本を見て、それを真似ることによって、子供は霊的人生を歩むための基礎的部分が形成されていくようになるのです。

「けっきょく親として一つの手本を示して、その理由づけができるようでなければいけません。それしか方法はありません。」

『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)p.164

語るよりも生き方を見せることが大切

小さな子供に難しい霊的真理を語っても意味がありません。手本を見せ、真理にそった方向に手引きをしてこそ、真理が自然と身につくようになります。言葉を介しての真理の説明は、その後からでいいのです。

子供は、私たち大人が霊的真理という方向性を知ってから実践に移るのとは違い、親の真似をすることによって先に実践内容を覚えていきます。そしてそのあとで、自分のあり方を霊的真理で整理をすることになります。こうしたプロセスを通して、子供は“霊的人生”をスムーズに歩むことができるようになるのです。理屈よりも先に霊的人生の内容を身につけることによって、大人になってから信仰を持った者がとかく苦しむ“真理と現実のギャップ”が少なくて済むようになるのです。

親の手本こそが、真理を深く理解させる最良の方法

真理は純粋に霊的なものであるため、一定のレベルにまで「霊性」が至っていなければ、いくら学んでもその内容を深く理解することはできません。霊的真理をどんなに真剣に読んでいても、現実の生活の場・具体的な判断の場になると、役に立たないのはそのためです。実践の中で身につけた真理以外、なかなか定着しません。霊的真理と実生活が一致していないのです。

親の姿を真似る中で霊的人生の中身を覚えてしまうことは、実に優れた方法です。霊的な中身が先につくられることによって、あとで真理に触れたときに、その意味を深く理解することができるようになります。霊的真理を本当の意味で実感し、無理なく身につけられるようになるのです。「霊的真理を体得する」ということです。

親が子供にとって霊的人生の良き手本であるなら、子供は親と生活をともにする中で自然と真理を学んでいきます。知識として真理を知らなくても、子供の「霊性」はすでに真理の中身を理解しているのです。

常に要求される親の真剣さと言行一致

子供は親を無条件に受け入れます。親のすることはすべて正しいと考え、その通りに真似をしようとします。“子は親の鏡”という諺がありますが、まさしくその通りです。育児・教育においては、多言を費やして真理を説明することよりも、親の具体的な行為が決定的な要因となります。

親の日常生活がそのまま霊性教育の指導法であるということは、親には真剣さが要求されるということです。親は霊的人生の模範である以上、言うことと行動が常に一致していなければなりません。もし言葉と行為が食い違っていたなら、子供は親を信用できなくなります。いくら立派なことを言っても子供の尊敬は得られず、親は子供を教育する資格を失ってしまうことになります。

親の純粋さと謙虚さ

親は常に、霊的真理に忠実な歩みを目指さなければなりません。真理に対する一途な純粋さを、決して失ってはなりません。質素な生活を心がけ、この世の富や名声を求めることのない霊的人生の手本を見せていかなければならないのです。

親は人目につかないところで、人々のために奉仕する生き方を目指さなければなりません。この世的な格好よさを求めず、ひたすら神の前に良き信仰者であるように努めるのです。神と霊的真理に、徹底して自分を従わせようとする謙虚さを持ち続けなければなりません。絶えず祈り、奉仕し、質素な生活を送るということです。

そうした生き方を貫いたとき、親は子供から絶対的な信頼を勝ち取ることができるようになります。子供は親の中に「神の代理者」としての威厳を見いだすことになるのです。

6)正しい導き方〈2〉

――神の援助者としての育児・教育法

育児・教育における真剣さと人為性

普段は信仰的な人であっても、ややもすると「神に委ねる」という世界を忘れ、何もかも自分の力でやり遂げようと構えてしまうことがあります。いつの間にか人為的手段・人為的力だけに頼ろうとしてしまいます。同様なことが育児・教育においても起こります。育児・教育に熱心な親は、しばしば自分の努力だけで、子供を立派に育てようとします。

しかし重要な結論を言えば、人間の「魂の成長」に関しては、そうした親の力みはマイナスに作用することが多いのです。人間の努力だけで子供の魂を成長させようとすればするほど、歯車が噛み合わなくなっていきます。育児・教育における人為性は、不調和・不自然さを引き起こし、子供の霊的成長を阻害するようになってしまいます。我が子が立派な人間に成長することを願い、そのためにあらゆる努力と犠牲を惜しまない親の姿勢は尊いものですが、その目的をすべて自分の力で達成しようと考えると問題が発生することになります。

神の計らいへの援助

――親は「神の援助者」を目指すべき

親は育児・教育に真剣でなければなりませんが、その熱意を自力で遂行しようとする方向に傾けてはなりません。霊的存在としての人間の魂は、「神の計らい」のもとで無理なく自然に成長するようになっています。神の計らいは、子供の“自然の欲求”という形で現れます。子供は、自然の欲求が満たされる中で魂をスムーズに成長させていくことができるのです。子供の自然の欲求を満たすために援助をするのが、親の役目なのです。

正しい育児・教育とは、「神の計らい」を援助し、それが全うされるように協力することです。神の計らいとその反映である子供の“自然の欲求”を尊重して、神の援助者としての立場に徹することなのです。育児・教育に対する情熱は、自らの手で子供を変えようとするところに向けるのではなく、神の計らいを援助するところに向けるべきなのです。人為的な方法・人為的な力に頼りたいと思っても、むしろそれを退けていかなければなりません。神の計らいを無視しての働きかけは、子供の魂を成長させることはできません。

「親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長をとげるようにしてあげることです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.118

親は、何もかも自分でやろうとしてはならない

子供の魂の成長の手助けをすることが親の役目であって、子育てのすべてを自分でやろうとしてはなりません。“霊的本性”によって子供は、自然と成長の道を歩み始めるようになります。したがって基本的には、子供の自由な意志に任せればよいということになります。親が先に手を貸すのではなく、子供が求めたもので、魂の成長にプラスとなるものを与えればよいのです。

また子供にも守護霊がおり、たえず必要な導きをしてくれている以上、何もかも自分が責任を持たなければならないということではありません。「神の導きに委ねる」という姿勢が、霊性教育ではとても重要なことなのです。

「子供の身体を無理やりに成長させようとすると必ず不自然なことが生じます。それと同じで、霊的成長を性急に求めると失敗します。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)p.122

「神の計らい」にそった育児・教育法

霊性教育とは、これまで述べてきたように「神の計らい」とその反映である子供の“自然の欲求”を尊重し、これに協力することなのです。子供の霊的成長の道は、神が配慮されます。地上の親がそのことを忘れ、人為的に走れば走るほど、神の意向とかけ離れていくようになります。

子供がひたすら愛を求めるときは、それを必要としているからです。子供が十分満足するまで愛を与えるなら、魂の「情愛的側面」が順調に成長していきます。子供が好奇心に満ちあふれ、活動的になってじっとしていられないのは、魂の「意志的側面」が成長していく時期だからです。そうしたときは、子供の行動欲求を満足させてやれば、意志的側面が順調に成長していくようになります。また、子供が外界に対する理論的な理解を求め、より全体的な知識や真理を知りたがるのは、魂の「知的側面」が成長していく時期だからです。親が「霊的真理」を与えることができれば、子供の知的欲求は満たされ、子供の魂は自然に成長していくようになります。

「幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています。」

『霊の書/思想編』(スピリチュアリズム普及会)p.301

賢明な親とは

どこまでも自分が手をかけ面倒をみなければ気が済まないという親は、気をつけなければなりません。多くの場合、それは子供のためではなく、単に自分の心を満足させようとしているにすぎないからです。“子供のため”と思っていても、結局その行為は「肉体本能」の領域を出てはいません。

賢明な親とは、子供に対して高い理想を描き、それを実現するためにはどんな犠牲も厭わない覚悟を持ちながらも、その一方で神の導きを信じ委ねることができる人間のことを言います。神から預かった子供を、「神の援助者」として育てていく立場を全うできる人のことです。自分自身の情熱におぼれず、神の導きに子供を委ねることができる人のことなのです。

ゆったりとした親を目指して

育児・教育のすべてを人間の手でなそうと考えるなら、これほど神経をすり減らす仕事はありません。子供の心は親の思いどおりになるものではなく、たとえ変化が見られたとしても、果たしてそれが良い方向に向いているかどうかは分かりません。また、親としての今の行為が、将来いかなる結果を子供にもたらすようになるのかは確信が持てません。さらに世の中には、親の混乱を助長するような育児書・教育書の類が氾濫しています。育児・教育に関する専門家のコンセンサス(意見の一致)が得られない中で、親は不必要な気遣いと不安だけを募らせています。

しかし「子供の霊的成長は神によってなされていく」ということを思い出したとき、育児は喜びと幸せをもたらすものになります。親は余分な気苦労や心配から解放され、広いところからゆったりと子供に臨むことができるようになります。

子供に「前世のカルマ」がある場合には、思わぬ形でそれが表に現れてくることがあります。カルマによって大きな苦しみが突如、子供の身に降りかかってくるかもしれません。そうしたとき、親がその苦しみをやっきになって取り除こうとしたり、何とか避けさせようとするのは必ずしも良いこととは言えません。「我が子の苦しみを取り除いてやりたい」と考えるのは親の情としては当然のことですが、そうしたときこそ「霊的真理」を思い起こし、広い心で子供に接し、ともに困難に対処していく心がまえが必要です。子供が苦しみに立ち向かい、乗り越えることができるようにアドバイスをしたり、陰で祈ってあげるべきです。それこそが賢明な親の姿勢であり、子供への正しい接し方なのです。

親は自分の感情に盲目的に流されず、常に「霊的真理」に立って、ゆったりと子供に臨まなければなりません。

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