(3)利己愛の実態

――霊的成長を妨げる偽りの愛の現実

残念なことに現在の地上世界は、利己愛によって支配されています。利他愛の実践を心がけている人は、ごく少数です。人々は利他愛の大切さや重要性を理屈のうえでは知っていますが、それを実践しようとはしません。そのため利他愛は、現在まで理想のままにとどまってきました。

私たちスピリチュアリストが目指さなければならないのは、「利他愛の実践」です。その利他愛の実践に先立って、真の利他愛とはどのようなものであるのかを、できるだけ日常の生活レベルの視点から学んでおく必要があります。そのためには、利他愛とは反対の利己愛について知っておかなければなりません。

地上人の霊的成長にとって「利己愛」は、まさに“敵”と言えます。地上人は利己愛の実態を知ることによって、利他愛について深く理解することができるようになります。また、利己愛に支配されている人々の現状について知っておくことは、利他愛を実践するうえで生じてくる障害に対して、前もって闘いの準備をすることにもなります。

利他愛を目指しながらも実際には、多くの人々が利己愛の中に埋没しています。いつの間にか利己愛に陥ってしまっています。地上人にとって利他愛の実践は、とても難しいことなのです。利己愛に対する判断力を養わずに、自分自身の心と行動を高く保つことはできません。そうした意味からここでは「利己愛」の実態と、それに支配されている人々の現状について見ていくことにします。

1)愛の乱用・誤用・悪用

愛の乱用・誤用

ある時、シルバーバーチは次のように述べています――「地上では愛という言葉が誤って用いられております。愛とは言えないものまで、愛だ、愛だと、盛んに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。『古代霊シルバーバーチ―不滅の真理』(ハート出版)p.225

シルバーバーチは、人間にとって最も大切で価値のある愛が誤解されている、地上人は愛を錯覚していると言っています。シルバーバーチからすれば、多くの人々が“愛”と呼んでいるものは本当の愛ではないということなのです。

愛は、いろいろな形をとります。性愛・恋愛・男女愛・友愛・家族愛……、そして人類愛です。愛はまた、その内容によってピンからキリまであります。単なる本能的・利己的な愛から、自己を忘れて他人のために尽くそうとする純粋な愛に至るまで、さまざまなレベルがあるのです。誰もが好きな“愛(ラブ)”という言葉――それはあまりにも乱用され、誤用されています。その結果、現在の地球上では、愛は本来の霊的価値と崇高さを失ってしまっています。

愛の悪用

時に“愛”は、意図的に悪用されることもあります。独裁者やペテン師は、盛んに愛を口にします。彼らは、自らの不正をカムフラージュして人々をだますためには、愛という言葉を多用することがいかに効果的であるかを知っています。愛を語り、愛を強調し、愛を繰り返し賛美すればするほど周りの人々は、自分を愛のある人間・慈悲深い人間と見なすようになることを分かっているのです。

スピリチュアリズムの使命

――“本物の愛”を地上にもたらす

このように現在の地球上では、神聖にして崇高であるはずの愛は、汚されています。そして醜い私利私欲の道具として利用されています。そのため人々は、“本物の愛”とは何かが分からなくなってしまっています。こうした「愛の問題」を解決することは、スピリチュアリズムにとっての使命の一つなのです。

本物の愛は最も霊的なものであり、地上的な要素を超越しています。霊界には本物の愛だけが存在します。スピリチュアリズムは、物質まみれ・本能まみれのニセの愛を“純粋な霊的愛”に引き上げようとする働きかけです。高級霊みずからが手本を示すことによって地球上に本物の愛(真実の愛)を行きわたらせ、定着させようとする高級霊界からの働きかけなのです。それは地上世界における“愛の革命”と言えます。

2)“ひたすら愛されたい”という利己性

常に優しさだけを求める利己性・未熟性

大半の地上人は“優しい愛”を優先して求めようとします。多くの地上人は、自分に優しくしてくれる人間を良い人、愛のある人だと考えます。社会全体がこうした常識に覆われ、人々は常に優しさを求めています。女性は、結婚相手が優しい男性であることを真っ先に願います。新入社員や部下は、上司が優しい人であって、会社の人間関係が優しさと思いやりにあふれていることを望みます。学校では生徒たちは、優しくて親切な先生を求めます。生徒は皆、優しい先生が一番だと思っています。そして家庭では子供たちは、親に対していつも優しさを要求します。

優しさは、心を慰め、心を癒し、安心感と楽しさを与えてくれます。誰にとっても優しさは、心地よいものです。人は寂しくなると、自然に優しさを求め、人々の集まるサークル活動やボランティア活動に参加するようになります。あるいは教会に通ったり、宗教に入ったりします。優しさによって寂しさや孤独感が癒されることを、誰もが知っているのです。そして皆、他人から優しくされることを望んでいます。周りの人々からひたすら愛されることを願い、優しさだけを求めるようになっています。入院患者の中には、病気が治ることを恐れている人もいます。病気が治ると優しく看病してもらえなくなるからです。

人々は、「優しい人」イコール「愛のある人」と思っています。優しさは愛であり、思いやりであると信じています。しかし、それは本物の愛を知らないところからの錯覚です。多くの地上人が“愛の落とし穴”にはまっているのです。

“優しさ”は愛の半分

――優しさだけを求めるのは「霊的未熟性」

誰もが好む優しさは、確かに愛の不可欠な要素です。しかし重要なことは、「優しさは愛のすべてではない」ということです。優しさは愛の半分の要素にすぎません。真実の愛は――「与え・与えられる」という「ギブ・アンド・テイク」の関係の中で成立するものです。

子供のときは親から一方的に愛され与えられる中で成長しますが、やがて他人を愛し他人に与えることを覚え、愛の関係をつくり上げる主体者になっていきます。優しさだけを求める姿勢は、相手から愛されることだけを期待しているということです。それは愛の世界において、子供のレベル・霊的に未熟なレベルにとどまっていることを意味しています。

現在では、愛されることだけ・与えられることだけを期待する大人がとても多くなっています。子供の愛のレベル・利己愛のレベルを卒業していない大人が社会の中心を占めつつあります。

“優しさ幻想”がもたらす失望と孤独

優しさだけを求める人間は、必然的に自分中心の希望と理想を描き、相手や周りの人々にそれを押しつけるようになります。こうした“優しさ幻想”“愛の幻想”は、必ず失望に終わることになります。優しさだけを求めることは、愛の摂理に反しているからです。「先に与える」「先に愛する」――これが神の摂理です。先に与える愛は「利他愛」であり、先に求める愛は「利己愛」なのです。

優しさだけを求めるのは、先に与えられること・先に愛されることを望むということです。そうしたあり方は、「もっと優しくしてほしい、もっと愛してほしい」という利己的感情をエスカレートさせていくことになります。しかし人間関係において、自分が願うような優しさが常に与えられることはあり得ません。優しさだけを一方的に求める者は、相手への不満を募らせるようになります。「愛が少ない、思いやりが乏しい」という非難の感情が湧き起こり、寂しさや孤独感が大きくなっていきます。そして、自分に優しくしてくれる別の人間を求めるようになるのです。

こうした自分から与えることをしない幼稚な人間は、いつまで経っても“愛されたい症候群”から抜け出すことはできません。摂理の働きによって孤独と絶望という苦しみを味わい続けることになるのです。

3)「優しさの安売り」という利己愛

優しさだけを与えようとする親・教師・上司たち

現代人の多くが、優しさだけを求める一方で、優しさだけを他人に与えようとしています。実はそれも「利己愛」なのです。「自分が愛されたいから優しくする、相手から嫌われないために優しくする」――これは裏を返せば、相手から愛されることを願う未熟性・利己性に他なりません。現代社会には、こうした傾向(優しさ幻想)も蔓延しています。

誰でも、優しくされれば喜びます。そして優しさを与えた人間も、相手が喜ぶ様子を見て気分がよくなります。自分が善人になったような、ある種の喜び・快感を味わうことになります。それが高じると、いつの間にか“優しくし過ぎる”という状態に陥ってしまいます。こうなると優しさは、麻薬と同じで弊害をもたらすようになります。

都合がいいことに「優しさの安売り」をすれば、子供や生徒から、話の分かる親・物分かりのいい先生として好かれるようになります。うっとうしいことをせずに、しかも相手から喜ばれ、よく思われるのです。そして本人も“自分は思いやりがある、愛がある”と錯覚するようになります。「優しさの安売り」には麻薬的魅力があり、その魅力・快楽に誰もが簡単に惑わされ、正しい判断ができなくなってしまいます。やがて上の者が下の者の顔色をうかがい、相手の喜ぶことばかりするようになります。こうして“ご機嫌取り”がエスカレートしていきます。

それはお祖父さんやお祖母さんが、孫の言いなりになっている姿を思い浮かべれば容易に理解できるはずです。目に入れても痛くないほどかわいい孫の要求をはねつけることは、なかなかできません。そうした“溺愛状態”では、上の立場の者は、下の者の家来のように成り下がり、“主客転倒”することになります。今やお祖父さん・お祖母さんだけでなく、父親・母親の多くが、ひたすら子供の顔色を見て迎合するようになっています。

「優しさの安売り」をする親や教師は、子供たちにとっては、何でも思い通りにさせてくれる実に都合のいい存在です。自分の好き勝手が許され、誰も反対しない家庭や学校は、子供にとってはまさに楽園です。親や教師は、何でも言うことを聞いてくれる家来か召し使いのようです。もはや子供は、親や大人の言うことなど聞く耳を持たなくなります。

こうした状況は、会社のような大人同士の世界においても見られます。上司が部下の顔色をうかがい、言って当然のことを言えない、最低限の注意さえできないといった状況が至るところで見られます。

「優しさの安売り」が招く人間の野獣化

優しさはあるがそれ以外は何もない、優しさが一番であとは何もないといった状態――これはまさに「優しさの安売り」です。そうした状況では、上に立つ者として当たり前の注意さえできなくなります。時には相手の不正を知っても、見て見ぬ振りをしてやり過ごそうとします。“相手を信じることが大切”などと、もっともらしい言い訳をするものの、実際のところ相手の嫌がることを言いたくないだけであることは、自分の心がよく知っています。

利己的な「優しさの安売り」は、しだいにエスカレートしていきます。そして育児や教育は、タレント業さながらの単なる人気取り・ご機嫌取りの行為に成り下がってしまいます。これが現在の多くの親や教師、上司やリーダーの姿ではないでしょうか。そこにはもはや、まともな家庭教育・学校教育・社会教育は存在せず、最低の秩序さえ維持できなくなっています。

現代社会は、「優しさの安売り」という悪しき風潮に覆われています。家庭内暴力や教育現場の荒廃の大きな原因は、こうした優しさの安売りにあるのです。相手の成長を考えた本当の思いやりは、どこにも存在しません。あるのは親や教師の“ご機嫌取り”だけです。優しさの安売りという“ニセの愛”が、人間の心を本能化させ、野獣に等しいような状態に堕としています。

優しさだけで、子供や生徒や部下が育ったためしはありません。過剰な優しさは思いやりではなく、単なる甘さであり、人間を堕落させるものです。真の思いやりとは、相手のためを考えて、必要ならば嫌われるのを覚悟で厳しいことをはっきりと言い、毅然として教え導くことです。相手が自分の間違いを正すことができるように諭すことなのです。

人間として当たり前のこと(挨拶・返事・規則や時間を守るなど)さえ実行できないところで、どうして「霊的成長」がもたらされるでしょうか。野獣のごとく自分の本能だけを満足させようとする人間しかでき上がりません。相手のためを思うのではなく、自分がイヤな思いをしたくないために見て見ぬ振りをする、黙認する、遠回しに言う、あるいは迎合する、好き勝手にやらせる――それでどうしてまともな人間が育つでしょうか。

「優しさの安売り」は単なる親のエゴであり、精神的な未熟さから出た行為であるにもかかわらず、世の中にはそれをさも立派なことであるかのように思わせる理論が横行しています。その理論が時に、優しさの安売りの偽善性を隠蔽いんぺいすることになっています。その理論とは、間違った“個人主義”と“人権尊重思想”です。「子供を信じよう、子供の意見を尊重しよう」という考えには確かに一理あります。しかし優しさだけを優先する中で、そうした方針が最終的にもたらすものは、子供の精神的堕落以外にはありません。

“相手から嫌われたくない”というだけのニセの愛情関係

親や教師は、子供に喜びを与えることで、愛と思いやりを持った寛容な人間であるかのように振る舞おうとします。相手から愛情の深い親や教師であると見られることを望み、自分もそのように納得したいのです。

しかし実際は、自分が嫌われることを恐れているのです。子供に嫌われたくない、子供に気に入られたいと思っているだけです。そこには、子供のことよりも自分の感情を優先した自己中心的な愛しか存在しません。相手を駄目にする優しさは、単なるエゴであり甘やかしにすぎません。思いやりでもなければ、本当の愛でもありません。自分本位の利己愛・ニセの愛なのです。

4)“恋愛”という利己愛

恋愛は「肉体本能」に由来する愛

“愛”というと真っ先に思い浮かぶのが“恋愛”です。恋愛がいかに心地よいもの、楽しくて心を弾ませるものであるかは、今さら説明する必要はないでしょう。一生を神に捧げようと固い決心をしたはずの独身の修道者を、世俗に引き戻してしまうのが恋愛です。恋愛の喜悦は、麻薬のような恐ろしい力を持っています。もちろん恋をする2人は、自分たちの愛の純粋さを疑いません。

恋愛はいかにも純粋な愛のように思われますが、実は「利己愛」です。恋愛は霊的な愛ではなく、「肉体本能」に由来する愛です。恋愛は霊的な愛からかけ離れたものであり、摂理とは一致しません。

恋愛の本質は“独占欲・所有欲”

燃え立つ恋愛感情は「肉体本能」から発するものです。恋愛関係にある男女を支配しているのは“独占欲・所有欲”です。恋愛の本質は、相手から愛されることを優先的に求める「利己愛」です。自分以外の人間に相手の愛が向くことを許さない“独占欲”であり、相手の愛をすべて自分のものにしたいという“所有欲”なのです。恋愛に“嫉妬”がともなうのは、その本質が独占欲・所有欲であるからです。激しい恋愛感情は両者の間に真の愛の関係をつくらせないどころか、憎しみや争いを生み出すことにもなります。

一見すると素晴らしく感じられる恋愛も、霊的視点から見ると、実は「肉体本能」から出たものであることが分かります。恋愛感情の深層には、相手を独占して自分の思い通りにしたいという“支配欲”が根を下ろしています。恋愛感情が最終的に行き着くところは、相手を独占することです。そのため恋愛感情が激しければ激しいほど、その裏返しとして強い憎しみや苦しみがともなうようになります。恋愛につきまとう苦しみは、すべて自分の独占欲・所有欲に原因があるのですが、恋愛感情という麻薬的甘さに浸っているときは、なかなかそれに気がつきません。

“恋愛賛美”の錯覚

恋愛は本能的感情であり、本人たちの心を支配しているのは“好き”という本能的な思いだけです。そうした利己的で自己中心的な感情を、多くの人々は“愛”と錯覚してきました。恋愛は霊的に見たとき、決して賛美されるものではありません。動物の本能と同じレベルのものであって、霊的なものではありません。特別な克己の努力が要求されるようなものではないのです。

残念なことに、世の中の人々は「利己性」という恋愛の本質に気づくことなく、それを無条件に美しいものとして賛美しています。そして恋愛は、テレビドラマや演劇や芸術の格好の材料となっています。しかし霊的に見たとき恋愛は、決して価値のあるものではありません。どこまでも物質次元の愛・肉体本能次元の愛にすぎないのです。

恋愛にともなう苦しみ

肉体本能に由来する恋愛感情は、いつか必ず冷めるようになっています。長続きしないようになっています。そして恋愛感情が冷めた後には、必ず苦しみが生じます。激しい恋愛感情は心を燃え立たせ、いっとき幻想の喜びをもたらしますが、時間とともに冷めるようになっているのです。恋愛は摂理に一致した愛のサイクルではないため、発展性がないからです。

このように恋愛には、幻想の喜びに比例した“悲しみ・苦しみ・絶望”がともないます。陶酔的な喜びに見合った苦しみや虚しさがもたらされます。それによって利己性に流され摂理に反した分(過ち)が相殺され、埋め合わせがなされるようになっているのです。

恋愛を通してこうした苦しみを体験し、「真実の愛(利他愛)」に目覚めることができるとするなら、恋愛は“反面教師”としての役割を果たすことになります。人間の「霊的成長」にとって貢献することになります。その意味で恋愛は、間違ったものではなく、地上世界ならではの霊的成長の一つのプロセスと言えるのです。

5)利己愛に共通する特徴

以上、利己愛のさまざまなケースについて見てきました。大半の現代人が利己愛に生き、そのあり方を間違っているとは考えていません。今述べた利己愛の具体例を見るだけで、いかに地上人が利己愛に支配されているかを実感していただけたものと思います。

ここで「利己愛」に共通する特徴を整理しておきます。

地球上で“愛”と言われるものの実態

――“好き嫌い”の感情

恋愛に代表される「独占欲・所有欲(支配欲)」と「好き嫌いの感情」をベースにした関係が、地上で“愛”と言われるものの実態です。人々は“相手のため”と言いながら、本音では真っ先に自分に利益がもたらされることを願っています。自分を中心に置き、自分の思い通りになることを期待し、自分や自分の家族の利益を求めます。もちろん誰も、意識的に自分の利益を求めようとしているわけではありません。故意に相手を独占し、支配しようとしているわけではありません。本人は相手のために尽くしているつもりでいながら、無意識のうちに独占欲・支配欲が心を占めてしまうのです。無自覚のうちに、そうなってしまうのです。

その原因は、私たちが肉体を持っているところにあります。霊体は肉体という重いベールに包まれ、常に肉体の制約を受けているため、いつの間にか利己的な感情が心の中心を支配するようになってしまうのです。

ニセの愛・利己愛の特徴

摂理に一致しない愛、すなわちニセの愛とは「利己愛(自己中心的な愛)・本能愛」のことです。世の中で“愛”と呼ばれているものは、この利己愛です。摂理から外れた利己愛の本質は、肉体的・本能的・物質的であるということです。霊的要素を含まない利己愛は、当然のこととして霊的成長をもたらすことはありません。それどころか霊的成長を停滞させ、阻害することにもなります。

このニセの愛(利己愛・本能愛)には、2つの特徴があります。1つは――「相手から奪う・相手に与えない・相手から与えられることを優先する」ということです。もう1つは――「愛する相手を選ぶ」ということです。好きな人・気に入った人・血縁者・物質的利益をもたらしてくれる人間だけを対象とし、それ以外の人には与えません。こうした利己愛を持つには、特別な努力も苦労も必要ありません。

利己愛の特徴をまとめると次のようになります。

  • 肉体本能に由来する・霊的要素なし・霊的成長をもたらさない(阻害する)
  • 相手から奪う・相手に与えない・相手から愛されることを優先する
  • 愛する相手を選ぶ(好きな人・血縁者・物質的利益をもたらしてくれる人間)
  • 霊優位のための内面的努力(克己の努力)を必要としない

「利己愛・本能愛」は、一般には当たり前の愛のあり方のように思われています。そして地球上の大半の人々が、利己愛を中心として生活しています。また民族愛も国家愛も、利己愛が拡大したものとなっています。地上世界を支配している利己愛は、物質的であり、動物と同じ本能的な愛です。そこには霊的要素はありません。素晴らしい愛として賛美される恋愛も家族愛も、残念ながらその実態は利己愛がベースとなっているのです。

6)利己愛のレベル

利己愛は、その内容(利己性の程度)によって、いろいろなランクに分かれます。すなわち利己愛には、最悪のものからそれほど悪性の強くないものまで、さまざまなレベルがあるということです。

利己愛の最たるものは――「力ずくで相手のモノを奪い、一方的に相手を独占し、所有化する」というものです。次は――「相手に与えない、愛されることだけを期待して愛することをしない」というもの、さらに次は――「与える(愛する)ことはあっても、与えられる(愛される)ことを常に優先する」というものです。このように同じ「利己愛」といっても、その利己性の程度は異なります。先に挙げたものほど利己性の度合いが強く、後のものほど弱いということになります。

また、利己愛のレベルは、関係を持とうとする相手(対象)によっても決められます。自分を崇拝する人間・自分に従う者だけを愛するという最悪のレベル、次は自分に利益をもたらしてくれる相手や血縁者だけを対象にするレベル、そして自分の好きな人間・気に入った相手だけを対象にするレベルに分けられます。先のものほど利己性・本能性が強くなります。

独裁者は、最も強い利己愛の持ち主と言えます。最悪とも言うべき利己性の持ち主です。独裁者は時に、非常に愛情深い人間であるかのような行為に走ったり、異常とも思えるほどの愛を示すことがあります。しかし、それは内面の利己性の裏返しにすぎません。

7)利己愛が招く悲劇

摂理に一致しない利己愛は、人間にとって最も重要な「霊的成長」をストップさせることになります。「悪因縁(悪いカルマ)」をつくり出し、霊的成長を阻害するマイナス要因を生み出すことになります。それによって本人は償いのための苦しみを体験するという、遠回りの道を歩まなければなりません。

また利己愛は、本人の心に寂しさ・孤独・絶望といった苦しみをもたらすことになります。与えられる(愛される)ことを優先するところでは、霊的エネルギーが枯渇し、心がアンバランスになるからです。利己性の度合いに応じて、魂にもたらされる苦しみは大きくなります。

利己愛は、「愛のサイクル」という本当の愛の世界・愛の関係づくりを阻害します。相手がいくら利他愛で愛していても、本人がいつまでも与えることをしなければ、愛のサイクルはでき上がりません。「一方通行の愛の関係」で終わってしまいます。もし関係を結ぶ両者が、ともに利己愛しか持てないときには、さらに悲惨な結果を招くことになります。互いに与えられることだけを期待し、それがエスカレートすると、無理矢理相手から取り上げようとして奪い合いが始まります。そして“暴力・争い・戦争”へと発展していくことになるのです。

これまで地球上に戦火の絶えることがなかったのは、あらゆる民族や国家が「利己愛」に支配されていたからです。21世紀の現在も、依然として利己愛が地球上を支配しています。いずれの民族も自分たちの利益を真っ先に求め、いずれの国家も国益追求を最優先しています。自分たちの民族の利益拡大、自国の利益拡大に奔走しているのです。その結果、民族抗争や国家間対立が絶えず引き起こされています。

地球上の争いは、当事者が互いに「利己性」に立っているところから生じます。両者が利己愛しか持てないとき、結末は武力を用いた戦争となるのです。地球全体が利己主義に支配されているかぎり、平和は到来しません。国家の間に利他的関係が成立しないかぎり、戦争はなくなりません。現在の地球上には、利他的な方向を目指す国家は、いまだに一つもありません。もし今、そうした真の平和的国家が存在するなら、その国家はただちに滅ぼされることになってしまいます。

物質的利益・富の奪い合いの中では力のある者が勝利し、多くのモノを獲得し、「富の偏り・貧富の差」を生み出すことになります。個人レベルにおいても、国家レベルにおいても、あまりにも極端な貧富の差が地球上を覆っています。そして世界各地で地獄さながらの悲惨な飢餓が発生しています。「利己愛」がもたらす“地球上の悲劇”については、スピリチュアリズムの思想[Ⅱ]において詳しく取り上げています。

8)利己愛を利他愛に切り換える

地上世界の愛のほとんどは「利己愛」となっています。男女愛・家族愛・友愛・民族愛・国家愛――いずれもその底辺には、肉体本能に由来する「利己性」が根を下ろしています。肉体という物質に包まれている地上人が利己愛を持ってしまうのは、ある意味では仕方のないことと言えます。

しかし利己愛の代表ともいえる“男女愛・家族愛”であっても、意識的にそれを利他的方向に切り換えることができるのです。世間一般の男女の感情・家族に対する感情を超えて相手の「霊的成長」を願うようになったとき、また人類全体の成長と幸福を願うようになったとき、その男女愛・家族愛は「利他愛」の中に包まれることになります。そして次元の高い男女愛・家族愛に生まれ変わることになるのです。

人間は血縁でつながった家族の中に生まれて育ちますが、霊的成長とともに利己的な家族愛のレベルを超えて、“人類愛”のレベルに意識が飛躍する時を迎えるようになります。肉の親や家族ではなく、「霊の親(神)」と「霊の兄弟姉妹(地球上の全人類)」を中心とした内面世界が開かれるようになるのです。これが「霊的自立の時」です。

この段階にまで至った男女が愛の関係を結んだとき、本能的な部分を持ちながらも「霊優位の男女関係」を築くことができるようになります。「利他愛」を中心とした男女愛を持つことができるようになるのです。お互いが「神」を真実の親と認め、相手以上に神を愛し、神を優先するとき、結果的に2人は「神の愛」によって固く結ばれることになります。男女それぞれが、相手よりも神を愛することによって「利他愛」が利己愛を支配する男女愛が成立することになります。霊的な愛である利他愛が本能的な利己愛をコントロールする、摂理に適った男女愛が築かれるのです。

こうした“霊的絆”によって結ばれた夫婦を中心に家庭がつくられているとき、その家族は全体として「利他愛」を優先するようになります。家族の間には利己的な感情・利己愛が存在しつつも、「利他性」がその利己性を支配することになります。利他愛が利己愛をコントロールする“真の家族愛”が形成されることになるのです。

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