(2)歴史上の代表的な愛の思想と、スピリチュアリズムの愛の思想の特徴

宗教とは、利他愛の実践を通して人間の霊的成長を促す道であることを述べました。スピリチュアリズムの“愛”についての見解は、「真実の愛とは利他愛である」との一言に尽きます。利他愛は神の摂理(法則)そのものであり、実にシンプルな真理なのです。人類はこれまで、哲学や宗教を通して「愛の真理」を探究してきました。その結果、愛についてさまざまな見解が示されることになりました。

ここではその中から代表的なものを取り上げ、学ぶことにします。それによって「スピリチュアリズムの愛の思想」の特徴が、より明確になるものと思います。

1)プラトンの「エロス」

古代ギリシャの哲学者プラトンが、愛を「エロス」という言葉で述べたことはあまりにも有名です。男女はなぜ激しく相手を求め、互いに惹かれ合うのかという男女愛の疑問について、プラトンはギリシャ神話を借りて次のように語ります――「人間は初め、男女が合体した姿で暮らしていた。男女一対魂(ツインソウル)としての人間は、完全で調和がとれ、あまりにも強力であったため、神々を脅かすほどの存在になっていった。そうした中で神々は、人間に対して危機感を抱くようになり、ゼウスはこの完全な人間を2つに切り裂くことにした。こうして人間は、男と女として誕生するようになったのである。男女が合体した存在から男女が別々になった人間は、神に対抗できない弱い存在となった。この男女の分裂以降、男と女はそれぞれ自分の片割れ(ツインソウル・ソウルメイト)を求めて、世界中を遍歴するようになったのである。」

プラトンは、恋する男女が激しく求め合う衝動を「エロス」と呼びました。元の完全で調和のとれた状態に戻りたいという欲求が、エロスの源です。プラトンの言うエロスは、男女関係だけでなく、もっと広い対象にまで適用されます。すなわち理想に憧れ、自分に欠けているものを満たしたいとの強い思いが「エロス」なのです。自分にとって価値あるものを手に入れて満足したいと願い、努力させるのはエロスの力です。エロスには、理想や希望に向けて克己こっきさせるという力があります。プラトンはこのように、エロスに偉大な意味を持たせました。

プラトンの言う愛「エロス」は、何らかの善なるもの、価値あるもの、美しいものに向かい、自己に欠けているものを得ようとする衝動です。より完全で永続的な理想を求める欲求です。このエロスが目指す理想の具体像を、プラトンは「イデア」と呼びました。プラトンによればイデアとは、永遠不変で完全な真の実在のことです。人間が求めてやまない究極の理想がイデアです。したがってエロスとは――「イデアという理想に憧れ、これに向けて絶えざる努力をする愛」ということになります。エロスは、完全な自己実現を目的とした欲求充足の愛と言えます。

2)イエスの「アガペー」

裁きの神から愛の神へ

ユダヤ教は、神の正義による厳しい裁きの側面を強調してきました。そのため人々は、神について恐れを抱いてきました。それに対してイエスは、神の愛の側面を強調し、神を「父なる神」として説きました。しかも父なる神の限りない愛は、神を畏れ敬う者ばかりでなく、神から離れた罪人にまで及ぶとしました。

イエスは、神は「裁きの神」というより「愛の神」であり、その愛は太陽が世界を遍く照らすように、善人・悪人を問わず、すべての人間に注がれると説きました。こうした神の愛が「アガペー」です。アガペーを中心としたイエスの教えは、イスラエルという一民族を超えて世界中に広まり、キリスト教という“世界宗教”として発展していくことになりました。

“愛”に関する2つの戒め

イエスは――「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」と教えています。この言葉からも明らかなように、神との愛の関係がないところでは、神によって造られた人間としての正しい生き方はあり得ないとします。イエスはさらに――「第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛することである」と言っています。この“隣人愛”は、善人であれ悪人であれ、すべての人に遍く行きわたる「神の愛(アガペー)」のことに他なりません。

イエスは、「敵をも愛し迫害する者のために祈る」という“人類愛・隣人愛”の実践を説きました。自分を愛してくれる者を愛することは誰にでもできますが、自分を憎み迫害する者を愛することはきわめて困難です。しかしイエスは、「どれほどつまらない存在のように思える人間であっても神の愛する子供であり、かけがえのない尊厳を持っている」――こうした考えから、人間同士が神の愛(アガペー)によって愛し合うことの大切さを説いたのです。ここにキリスト教が“愛の宗教”と言われる所以ゆえんがあります。

正しく伝えられなかったイエスの真意

イエスが説いた愛の教えは、まさに「神の摂理」に一致したものでした。人類はイエスによって初めて、本当の愛について知ることができるようになりました。しかしイエスの死後、その教えの真意は正しく伝えられませんでした。

イエスが強調した点は、真実の愛である神の愛(アガペー)を、人間が主体的に実践することでした。本当の愛の主体者として生きることでした。イエスが説いたのは、神やイエスにすがれば救いを得られるとか、イエスを信じることによって罪が許され救われるというようなことではありませんでした。人為的につくられたキリスト教の間違った救いの教義によって、イエスが示した愛の思想の重要性は薄められることになってしまいました。

「エロス」と「アガペー」の比較

ここでプラトンが説いた「エロス」という愛と、イエスが説いた「アガペー」という愛を比較し、両者の違いを整理してみます。

「エロス」は、自分自身にとって価値のあるもの・美しいものを追い求め、それを手に入れて満足しようとする衝動です。理想という対象を目指す欲求です。それに対して「アガペー」は、自分自身にとって何の利益にもならないものをも対象とする愛です。アガペーは、醜いものや魅力のないものに対しても等しく働きかけるという、相手を選ばない愛なのです。この点で、エロスとアガペーは根本的に違っています。

「エロス」は、理想に近づきたいという願望であり、“自己実現”への欲求です。それは自分のために生きること、自己実現のためにエネルギーを傾けることです。常に自分が目的となっているのです。一方「アガペー」は、自己への見返りを期待しない無償の愛であり、相手の幸福を達成しようとする“他者実現”がその目的となっています。自分のためではなく、相手(他者)のために自分のエネルギーを費やすことです。自分のためではなく、他人のために生きることなのです。

「エロス」の方向性は、徹底して自分に向いており、自分中心の愛(自己愛)と言えます。その意味でエロスは、常に自分という“人間を中心とした愛”ということになります。それに対して「アガペー」は、エネルギーを傾ける方向性は他者であり、その愛の出発点には常に「神」が存在しています。すなわちアガペーは“神を中心とした愛”と言えます。エロスが“人間的愛・個人愛”であるのに対して、アガペーは「神の愛」であり、万人に平等に注がれる“人類愛・隣人愛”です。イエスが説いた「アガペー(神の愛)」こそが、真実の愛なのです。スピリチュアリズムが教える「利他愛」とは、このアガペーのことなのです。

エロスは本質的には「自己愛」であるため、自己中心性を脱することができません。もっともプラトンのような高い精神性を保って理想の追求を続ける限りにおいては、エロスは霊的成長にとってプラスの作用をします。それは崇高な“理想主義”として表れ、スピリチュアリズムの霊的人生を補強することにもなります。しかし高邁な理想主義精神を失ってしまうなら、エロスは低俗な「利己愛・利己主義」に堕ちてしまう危険性をはらんでいます。自己を高めようとする自己実現の欲求(エロス)は、単に肉体本能の欲求を満たすことだけに終わってしまいます。

ギリシア語には“愛”を表現する4つの言葉があります。1つ目が「ストルゲー」で家族愛、2つ目が「エロス」で男女の性愛、3つ目が「フィリア」で友情・友愛、4つ目が「アガペー」です。2つ目の「エロス(性愛)」は、先に述べたプラトンのエロスを広義とするなら、狭義のエロスということになります。4つ目の「アガペー」は、打ち破ることのできない善意・慈悲です。このアガペーをキリスト教が取り入れて「神の愛」としました。

1~3つ目の愛が“好き”という素朴な人間感情に基づく愛であるのに対して、4つ目の「アガペー」は人間の感情とは無関係な愛のあり方、好き嫌いの感情を超えた理性的な愛・義務としての愛ということになります。

3)仏教の「慈悲」

シャカに始まる仏教は、シャカの死後、幾多の変遷をたどります。そして思想の中心軸さえも、時の経過の中で大きく変化していくことになりました。仏教では愛に対して、どのような見解を持っているのでしょうか。

ここでは仏教を“愛”の観点から見ていきます。

仏教の基本的な考え方

仏教では、渇いた者が激しく水を求めるように、人間はさまざまなものを求めようとするとします。それは具体的には財産・家屋・妻子などですが、それらを永遠に自分のものにしておきたいという思いが執着を生み出すことになると説いています。シャカは――「人間が求め、手に入れようとしているものは“無常”であり、そうした無常な対象に執着するところから苦しみが発生するようになる」と言っています。

仏教では、人間の苦しみは“執着”に原因があると考えます。そしてその原因をさかのぼれば、“無常・無我”という真理を知らないこと(無明・無知)に行き着きます。これが、人間に苦しみをもたらす根本原因であると言うのです。特定の人間に対する愛もまた執着となり、自分自身を苦しめることになるとします。

「慈悲」という仏教の愛

シャカの死後、部派仏教では“愛”について、汚れたものと汚れなきものの2種類があるとしました。前者は妻子などに対する愛、後者は仏教の教説や師に対する愛であり、信仰的な愛です。その後、大乗仏教ではさらに愛の対象をめぐって、「小乗への愛」と「大乗への愛」の区別が説かれます。しかしいずれの場合も、利己的思いの混じった愛は低いものと見なされ、それを超えた愛が最高とされます。これが「慈悲」です。

慈悲という語の「慈」は喜びを与えること、「悲」は苦しみを除去することです。いずれも他者のためを思うことであり、渇愛などの利己的欲望の排除を意味しています。完全な慈悲にあっては、自分が誰かのために事をなすという自他の区別意識は消え去るようになるとします。

「空」と「慈悲」

仏教では自己と他者を、それぞれ実体のあるものとして執着するところから自己中心的な欲望の世界が形成され、苦しみが発生すると考えます。もし、自己も他者も実体のない「空」であるとの真理を体得するなら、愛も利己性を超越した「慈悲」になるとします。自他という区別的観念は消滅し、「空」そのものとしての慈悲が表れるとするのです。

「人間がもともと無我であるならば(無知でないならば)、我執や物にとらわれる心を捨てて、進んで生命あるものを平等に愛そうと決心するようになる」――これが慈悲の教えです。慈悲とは、すべての人間だけでなく、生きとし生けるものに対して差別なく平等に楽を与え(慈)、苦を取り除いてやる(悲)ことであると言うのです。

「慈悲」と「アガペー」の類似

仏教ではイエスと同じように、敵をも愛する慈悲を説き、怨みに報いるに怨みをもってしてはならないと教えています。「およそこの世において、怨みに報いるに怨みをもってしては、怨みのやむことはない。怨みを捨ててこそやむのである。これは不変の真理である」(法句経)と述べています。

仏教の慈悲の教えは、まさにキリスト教のアガペーと同じような内容となっています。

大乗仏教の中心的思想

仏教には、「解脱げだつ」と「慈悲」という2つの大きな思想的柱があります。前者は“自己の完成の道”、後者は“他者への奉仕”と言えます。あるいは“自己精進”と“衆生救済”と言うこともできます。小乗仏教はこの前者を強調して南アジアに広まり、大乗仏教は後者の慈悲の面を強調して北アジアに広まりました。日本の仏教は、こうした大乗仏教が中国から伝えられたものです。

大乗仏教は広く大衆を救済することを目指し、すべての人間に仏性(仏陀となる可能性)があることを説き、いかに迷い多き身であっても発心ほっしんさえすれば仏となることができるとの教え(即身成仏思想)を発展させました。

スピリチュアリズムからの評価

スピリチュアリズムの「霊的事実」に照らしてみるなら、仏教の悟り(無常無我観)に立脚した「解脱」という思想をそのまま受け入れることはできません。明らかに霊的事実と一致していないからです。

しかし、もう一つの「慈悲」という愛の思想には、悟りの思想の問題点を補って余りある崇高な内容が見られます。慈悲の思想の前提となる考え方(無常無我観)は間違っていても、結果的に慈悲の教えは、イエスが説いた「アガペー」に似た理想的な愛と言えます。

「慈悲」の思想の内容の変遷

とは言っても、ここにも別の問題が存在します。大乗仏教において「慈悲」が強調される中で、シャカの思想の一番の柱である「悟り」という自力救済の部分が「他者による救済」に取って代わられ、思想上の大変身を遂げることになりました。特に浄土教のように、阿弥陀仏にすがることで救いが得られるとする教えからは、シャカの説いた「自己努力による自己実現」の内容がごっそりと抜け落ちています。

本来の「慈悲」とは、無常無我の上で成立する愛の世界であり、そこには神仏にすがって救いを得るという発想はありませんでした。悟りを得た人間が主体的に持つことのできる愛が慈悲であったはずです。しかし、いつの間にか、自分が慈悲の主体者になることから“仏の慈悲にすがる”という信仰に変わってしまいました。それはキリスト教がイエスの真意から外れ、“イエスを信じることによって救われる”と説いているのと似ています。一方的に仏の慈悲にすがることで救われるとする信仰は、シャカの真意ではなかったはずです。

4)愛に関するスピリチュアリズムの見解の特徴

歴史上に登場した代表的な「愛の思想」について見てきました。スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理」は、従来の思想や宗教が解決できなかったさまざまな問題に明快な解答を与えています。愛の問題についても、明確な答えを示しています。

ここではスピリチュアリズムの特徴を、「愛の思想」の観点から整理します。

利他愛と利己愛

――「霊的成長」と「神の摂理」を基準にした愛の2分類

歴史上の愛の思想を振り返ってみると、愛の問題にはきわめて複雑な要素が含まれていることが分かります。愛とは何かを問うと、幾通りもの答えが出てきます。スピリチュアリズムは――「霊的成長」と「神の摂理」を根拠として愛の本質を明らかにしています。

スピリチュアリズムは、人間の「霊的成長」に重点をおいています。霊的存在として創造された人間にとって、最も価値ある宝は霊的成長です。スピリチュアリズムは霊的成長を促すものに価値を認め、霊的成長を促さないものには価値を認めません。このようにスピリチュアリズムは、他の宗教にはまったく見られない徹底した“霊的成長至上主義”を特徴としています。

人間にとって最も重要な「霊的成長」は、神の摂理に一致したときに初めて達成されるようになっています。神の摂理に反したときには、決して霊的成長はなされません。「霊的成長」と「神の摂理」は、常に一体関係を保っています。両者を分けて考えることはできないのです。

「霊的成長」と「神の摂理」を基準として、人間の行為の価値が決定されます。愛も、その例外ではありません。この基準に照らしたとき、愛は大きく2つに分けられます。1つは「神の摂理に一致し、霊的成長を促す愛」、もう1つは「神の摂理に反し、霊的成長を妨げる愛」です。前者はすでに述べてきた「利他愛」であり、後者は「利己愛」です。利他愛は神の摂理に一致したあり方、すなわち心の霊主肉従状態から発する「真実の愛」であり、利己愛は神の摂理から外れたあり方、すなわち心の肉主霊従状態から発する「偽りの愛」です。

私たちは常に、自分の愛が利他愛なのか利己愛なのかを分別する判断力を持たなければなりません。その判断力は、自分自身に厳しく臨む努力(霊主肉従の努力)を通して養われます。

  • 神の摂理に一致し霊的成長を促す愛 = 利他愛 = 真実の愛(霊主肉従から生じる愛)
  • 神の摂理に反し霊的成長を妨げる愛 = 利己愛 = 偽りの愛(肉主霊従から生じる愛)

神を中心とした愛と、人間を中心とした愛

愛に関する最大の摂理が「利他性」です。利他性という摂理に一致した愛が「利他愛」です。神は摂理を通して、宇宙と霊界を支配しています。したがって利他愛は、神が人間をはじめ万物を愛し支配する方法ということになります。神から発した愛は「利他性」という摂理に従って、被造世界の隅々にまで及ぶようになっています。神の王国の住人である人間には、この神の愛を行きわたらせる役割が与えられているのです。

神は、すべての人間に平等に愛を与えます。自分の好みの者や、自分を崇拝する人間だけに愛を与えるようなことはしません。これが「神の愛」であり、「利他愛」です。私たちが神の愛(利他愛)によって他者を愛するとき、自動的にそこに“神”が存在するようになります。愛の中心に“神”が実在するということです。私たちが純粋に利他愛を実践するなら“神の代理者”として働くことになり、神を中心とした愛を顕現させることができるようになるのです。利他愛(真実の愛)で他者を愛するとき、人間はおのずと「神の摂理」に一致し、神を愛することになるのです。

こうした神を中心とした愛とは反対に、自分の好みから他者に働きかける愛があります。本人は純粋に相手を愛しているつもりでいても、そこには自己中心的な要素が内在しています。言うまでもなくこれが「利己愛」ですが、男女の性愛や家族愛や母性愛などには、そうした要素が強く見られます。「利己愛」という人間(自分)から発した愛は、常に自己が愛の中心となっています。

仏教で説く「慈悲」という愛は、本来は利己性を排除した「無常・無我の悟り」の上で存在する愛です。しかし神の存在を認めないところにおいて、現実に「利他愛」が成立するかどうかについては疑問があります。たとえ無常・無我という悟りの境地に至ったとしても、果たしてそこから積極的な利他愛が発現するようになるでしょうか。理屈のうえでは可能であるように思えても、実際には表面的な意識レベルで終わってしまうのではないでしょうか。そうした事実があったために仏教は、“仏の慈悲にすがって救いを求める”といった思わぬ方向に進んでいくことになってしまったのではないかと考えられます。

それと同じようなことが、多くのボランティア活動についても言えます。神を中心とした「利他愛」からのボランティアでないかぎり、他人のための奉仕といっても結局は、自己満足の行為に終わってしまいます。人助けのつもりが、いつの間にか自分の利己心を満たすだけのエゴ的行為に陥ってしまいます。自分自身(人間)から出発したところには、完全な利他的行為・純粋な奉仕は成り立ちません。

愛には利他愛と利己愛の2つがありますが、それらを別の角度から見るなら「利他愛」は、神を中心とした愛・神から出発した愛と言えます。そして「利己愛」は、自分(人間)を中心とした愛・人間から出発した愛ということになります。

  • 利他愛 = 神を中心とした愛・神から出発した愛
  • 利己愛 = 自分を中心とした愛・人間から出発した愛

利他愛は「霊主肉従」という克己の努力の上で成立

――利他愛と霊主肉従はワンセット

利他愛を持つためには、厳しい「霊主肉従(霊的自己コントロール)」の努力が必要となります。霊的成長を促す利他愛とは、純粋に霊的な愛です。心が霊主肉従になっていないかぎり、愛は霊的なものにまで高まることはありません。「霊主肉従」という大前提・必要条件を満たしたときのみ、「利他愛(霊的愛)」が現実のものとなるのです。「肉主霊従」の状態にある人間の愛は、自動的に自分中心となり、利己愛が心を支配するようになります。自分自身を厳しくコントロールすることのできる人間であってこそ、本当の愛(利他愛)を持つことが可能となるのです。

ここで大切なことは――「霊主肉従と利他愛は一体関係にある」ということです。すなわち霊的コントロール(霊主肉従)の度合いに応じて、利他愛のレベルが決定されるようになるということなのです。

利他愛の前には必ず「霊主肉従」の努力が先行します。霊主肉従の努力があって初めて利他愛が成立するということは、霊主肉従と利他愛は常に一体関係にあることを意味します。霊主肉従と利他愛は、どこまでもワンセットなのです。この意味で、八正道や五戒律の修行を通して慈悲が持てるようになるとしたシャカの教えには、それなりの正当性が認められます。

ただし、シャカが示した修行内容それ自体は「霊的事実」から見たとき、必ずしも的を射たものとは言えません。

利他愛の実践を通して“自己実現”と“他者実現”が同時進行

――自分の救いと他者の救いが同時に達成

宗教には、自己実現と他者実現という2つの方向性が存在します。“自己実現”とは、自己の悟りや成長を達成することであり、その結果として自己の救いを得ることです。“他者実現”とは、他者への働きかけを通して他者の救いを達成したり、幸福実現に協力することです。仏教における「悟り」と「解脱」は前者に関係します。「慈悲」は後者に関係します。小乗仏教は、前者の自己実現を強調した信仰です。プラトンのエロスも、徹底して自己実現を目指したものです。それに対して大乗仏教は、後者の他者実現を強調した信仰です。現在の多くのボランティア活動も、他者実現の方向での営みです。

“自己実現”と“他者実現”の2つが同時に達成されることが最も優れているのは言うまでもありません。自分が救われ、多くの人々も同時に救われるようになることが理想です。しかし現実には、その両方を達成することはきわめて困難です。仏教の例を見るまでもなく、どうしてもどちらか一方に偏ってしまいます。

厳しい修行をせずに救われることを願うなら、他者実現の信仰に頼ることになってしまいます。浄土信仰やキリスト教には、そうした傾向が強く見られます。また内省的生き方を嫌う人は、自己実現のための苦しい修行よりも、他者実現のための奉仕活動に携わる方がずっと気楽なはずです。反対に自己の救いに熱心な人間は、他者の救いを後回しにしても、持っているエネルギーと時間のすべてを、自分の悟りや救いのために用いたいと思います。出家僧や肉体修行者には、こうした傾向が強く見られます。

スピリチュアリズムにおける利他愛の実践は、この“自己実現”と“他者実現”の問題を見事に解決する道となっています。利他愛の実践を通して「霊的成長」がもたらされ、自己実現が達成されます。同時に他の人々にも“霊的救い”がもたらされ、幸福が与えられることになります。特に「霊的真理の普及活動(伝道)」は、地球人類に最高の救いをもたらす行為と言えます。このようにスピリチュアリズムにおける「利他愛の実践」は、自分自身を救うと同時に他者をも救う営みとなっており、“自己実現”と“他者実現”が一体となって進行していきます。

これを実践者(スピリチュアリスト)の側から見るなら――「自分の救いに固執し、あれこれ思いをめぐらす必要はない。常に利他愛の実践に専念していればよい」ということになります。日常のすべてを、人生のすべてを利他愛の実践に捧げることによって、人間にとっての最高の宝である「霊的成長」が自動的にもたらされるようになるのです。「真の利他愛の実践」は、人助けの道であると同時に、自らの救いを実現する道でもあるのです。

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