(8)摂理と一致しない愛
――利己愛(自己中心的な愛)・本能愛
ここでは摂理と一致しない愛、すなわち“ニセの愛”について取り上げます。それを通じて「真実の愛」が、より鮮明になるはずです。
シルバーバーチはある時、次のように言っています。
「地上では愛という言葉が誤って用いられております。愛とはいえないものまで、愛だ、愛だと、さかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。」
「愛とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。」
本来“愛”と呼ばれるにふさわしいものは、摂理と一致した愛であり、「利他愛」に他なりません。これが本当の愛です。愛の本質は霊であり、最も重要な霊的要素であり、その中には物質的要素は含まれません。そして私たち人間にとって一番重要な「霊的成長」をもたらします。利他愛は、霊的成長に不可欠な“霊的栄養素”なのです。
1)本当の愛・利他愛の特徴
――摂理と一致した愛の内容
本当の愛(利他愛)には2つの特徴があります。一つは「先に愛する(与える)」ということです。与え続ける・与えることを優先するということです。もう一つは「愛する(与える)相手を選ばない」ということです。自分の好き嫌いの感情を超えて、また物質的な利害関係・血縁関係を超えて愛するということです。
しかしこうした本当の愛を持つためには、たいへんな努力が必要とされます。現在の地球上で真にこの愛を実践している人は少数です。キリスト教は利他愛の大切さを教えていますが、実際に純粋な利他愛を実践しているクリスチャンは、ほとんどいません。
<ポイント整理>
- 純粋に霊的な愛・霊的栄養素・霊的成長を促す
- 与えることを優先する・先に与える・与え続ける・見返りを期待しない
- 愛する相手を選ばない・自分の好き嫌いを超越する・利害関係や血縁関係を超越する
- たいへんな努力が要求される
2)ニセの愛・利己愛の特徴
――摂理と一致しない愛の内容
これに対して摂理と一致しない愛、すなわち“ニセの愛”とは「利己愛(自己中心的な愛)・本能愛」です。世間一般に“愛”と呼ばれているものが、この利己愛です。こうした摂理から外れた愛の本質は、肉体的・本能的・物質的であるということです。利己愛の中には霊的要素は含まれず、当然、霊的成長をもたらすことはありません。それどころか霊的成長を停滞させ、妨害することにもなります。
このニセの愛(利己愛・本能愛)には2つの特徴があります。一つは「相手から奪う・相手に与えない・相手から与えられることを優先する」ということです。もう一つは「愛する相手を選ぶ」ということです。好きな人・気に入る人・血縁者・物質的利益がもたらされる仲間だけを対象とし、それ以外の人には与えません。こうした愛を持つには特別な努力も苦労も必要ありません。
<ポイント整理>
- 肉体本能に由来する・霊的要素なし・霊的成長をもたらさない(阻害する)
- 相手から奪う・相手に与えない・相手から愛されることを優先する
- 愛する相手を選ぶ(好きな人・気に入る人・血縁者・物質的利益がもたらされる仲間)
- 努力を必要としない
「利己愛・本能愛」は、一般の人々には当たり前の愛のあり方のように思われています。そして地球上の大半の人々が、この利己愛を中心として生活をしています。また民族や国家においても、こうした愛が拡大したものとなっています。地上世界を支配している利己愛は、物質的であり、動物と同じ本能的な愛です。そこには霊的要素はありません。よく素晴らしい愛と称えられる恋愛も家族愛も、残念ながらその実態は利己愛がベースとなっているのです。
3)利己愛のさまざまなレベル
――利己性の度合いに応じて決定
利他愛は、その利他性の程度によって、最も高いレベルからそれほど高くないレベルまで、さまざまな段階に分かれています。それと同様に「利己愛」も、その内容(利己性)によっていろいろなランクに分かれます。すなわち「利己愛」には、最悪のものからそれほど悪性の強くないものまで種々のレベルがある、ということです。
まず利己性の最たるものは、「力ずくで相手のモノを奪い、一方的に相手を独占・所有化する」というものです。次は「相手に与えない・愛されることだけを期待して愛することをしない」というものです。さらに次は「与える(愛する)ことはあっても、与えられる(愛される)ことを常に優先する」というレベルです。このように同じ「利己愛」といっても、その利己性の程度は異なります。先に挙げたものほど利己性の度合いが強く、後のものほど弱いということになります。
また利己性のレベルは、関係を持とうとする相手(対象)によっても決められます。自分を崇拝する人間・自分に従う者だけを愛するという最悪のレベル、次に自分に利益をもたらす相手とだけ付き合い、自分の血縁者だけを対象にしようとするレベル、そして自分の好きな人間・気に入る相手だけを対象にするレベルに分けられます。先のものほど利己性・本能性は強くなります。
独裁者は、最も強い利己愛の持ち主と言えます。最悪とも言うべき利己性の持ち主です。独裁者は時に、非常に愛情深い人間であるかのような行為に走ったり、異常とも思えるほどの愛を示すことがあります。しかし、それは内面の利己性を裏返しにしたものにすぎません。
4)利己愛・本能愛が招く悲劇
摂理と一致しない利己愛は、まず人間にとって最も重要な「霊的成長の道」をストップさせることになります。それどころか「悪因縁(悪いカルマ)」をつくり出し、霊的成長を阻むマイナス要因を生み出すことになります。それによって償いのために苦しい遠回りの道を歩まなければならなくなってしまいます。
また利己愛は、本人の心に「寂しさ・孤独・悲しみ・絶望」をもたらすことになります。与えられる(愛される)ことを優先するところでは、霊的エネルギーが枯渇し、心がアンバランスになるからです。利己性の度合いに応じて、魂にもたらされる苦しみは大きくなります。
利己愛は、「愛のサイクル」という真の愛の世界・愛の関係づくりを阻害します。相手がいくら利他愛で愛していても、本人がいつまでも与えることをしなければ、愛のサイクル・真の愛の世界はでき上がりません。常に「一方通行の愛の関係」で終わってしまいます。
もし関係を結ぶ両者が、ともに利己愛しか持てないときには、さらに悲惨な結果がもたらされることになります。互いに与えられることだけを期待し、それがエスカレートすると相手から無理矢理に取り上げようとして奪い合いが始まります。そして「暴力・争い・戦争」へと発展していきます。これまで地球上に戦火の絶えることがなかったのは、地球上の人々・民族・国家が「利己愛」に支配されていたからです。21世紀の現在も、この利己愛は依然として地球上を支配しています。いずれの民族も自分たちの利益を最優先して求め、いずれの国家も自国の国益追求を最優先しています。自分たちの民族の利益拡大・自国の利益拡大に奔走しています。その結果、民族抗争と国家間対立が絶えず引き起こされるようになっています。
地球上の争いは、両者が利己性に立っているところから生じます。両者が利己愛しか持てないとき、その最終結末は武力を用いた戦争となるのです。地球全体が「利己主義」に支配されているかぎり、地球上に平和は到来しません。国家の間に利他的関係が成立しないかぎり、戦争はなくなりません。現在の地球上には、いまだに利他的な方向を目指す国家は一つもありません。もし仮に現在、そうした真の平和的国家があるとするなら、その国家は直ちに滅ぼされてしまうことになります。
また物質的利益・富の奪い合いは、力のある者が多くを獲得することになり、「富の偏り・貧富の差」を生じさせることになります。個人レベルにおいても、国家レベルにおいても、あまりにも極端な貧富の差が地球上を覆っています。そして世界各地に地獄さながらの悲惨な“飢餓”を生み出しています。
5)身近なさまざまな利己愛
“恋愛”という利己愛
いかにも純粋な愛のように見えて(感じられて)も、実は「利己愛」であるというのが家族愛と恋愛です。恋愛は霊的な愛ではなく、肉体本能に由来する愛です。恋愛は霊的愛から遠く離れたものであり、摂理とは一致しません。燃え立つ恋愛感情は本能のなせる業です。恋愛関係にある男女を支配しているのは「独占欲・所有欲」です。恋愛の本質は相手から愛されることを優先的に求める利己愛です。自分以外の人間に相手の愛が向かうことを許さない独占欲であり、相手の愛をすべて自分のものにしたいという所有欲なのです。恋愛に“嫉妬”がともなうのは、その本質が独占欲・所有欲であるからです。激しい恋愛感情は両者の間に真の愛の関係をつくらせないどころか、憎しみや争いを生み出す結果にもなります。
激しい恋愛感情は心を燃え立たせ、いっとき幻想の喜びをもたらしますが、時間とともに冷めるようになっています。摂理に一致した愛のサイクルではないため、発展性がないからです。そして恋愛には、その幻想の喜びに比例した「苦しみ・悲しみ・絶望」が必ずもたらされるようになります。「償いの摂理」の働きによってそのようになるのです。
この償いの苦しみを通じて、恋愛の利己性に気づき、本物の愛(利他愛)を求めるようになるとするなら、恋愛は「真実の愛」を学ぶための良き反面教師だったということになります。そうした意味で恋愛は存在価値を持ち、人間の霊的成長に貢献することになります。しかし恋愛の欺瞞性に思いが至ることなく、次々と相手を替えるようなことを繰り返しているかぎり霊的成長の道に踏み出すことはできません。いつまでも霊性を低いところに押しとどめることになってしまいます。
残念なことに、この世では「利己性」という恋愛の本質に気づくことなく、それを無条件に美しいものとして讃美しています。そして恋愛は、文学や演劇といった芸術の格好の材料となっています。しかし霊的に見たとき恋愛は、決して価値があるものではありません。どこまでも物質次元の愛・本能次元の愛にすぎないのです。
現代人の「愛されたい症候群」
――“与えるより、ただ愛されたい”という利己性
いつまでも利他愛を持てない人間は、霊的に未熟なまま一生を終えることになりかねません。常に他人から愛されることだけを願う人間は、霊的には子供のままなのです。最近ではこうした大人が増えています。いつまでも霊的に自立できず、子供のレベルの霊性にとどまっているのです。このような人間は、他人から優しくされることだけを求めます。 親離れできない大人、依頼心が強く自分では何もできないといった人間は、典型的な「愛されたい症候群」と言えます。
そうした利己性・霊的未熟性は、相手や周りの人々に対する不満や怒り、孤独感や絶望感を大きくしていきます。「先に与える」という摂理に一致したあり方に立たないかぎり、最後は摂理の働きによって孤独と絶望という“魂の苦しみ”を味わうようになるのです。愛されることだけを願い、自ら与える愛(利他愛)を実践しない人間は、次々と自分を愛してくれる相手を求めてさ迷うことになります。そして行く先々で失望を繰り返し、結局は孤独の中に置かれるようになるのです。
現代人の「優しさの安売り」という利己愛
現代人の多くは愛されることを願い、ひたすら優しさを求める傾向が強いのですが、それに比例するように、必要以上に他人に優しさを与える風潮が見られます。そうした「優しさの安売り」の本音は、相手から嫌われたくない、相手から良く思われたいというものです。“優しさ”は、いかにも相手を愛しているようですが、実際には相手からの愛を求めていることが多いのです。
本当に相手の成長と幸せを願うなら、たとえ相手が嫌がっても必要な注意をするのが当たり前です。親や教師・会社の上司は、相手を指導してより良い状態にすること・育てることが役目です。その責務を通じて「真の愛」を実践することになるのです。
しかし厳しく指導したり注意すると相手から嫌われるため、注意することを避けるようになります。やがて相手の言い分を何でも聞き入れ、嫌がることを一切言わないようになります。こうして相手に迎合し、優しさを安売りするようになっていきます。相手の要求をすべて受け入れて優しくすれば、相手は喜び、自分もいい気持になれます。相手の言いなりになっていれば、相手から好かれ、自分も傷つかずに済みます。しかしそれは相手の霊的成長を阻害し、「肉主霊従」の勝手気ままを許すだけのことなのです。結果的に“本能人間”をつくることになってしまいます。
現代では、こうした「優しさの安売り」が、家庭・学校・会社・人間社会に蔓延しています。相手から嫌われたくない、相手から好かれたいという思いは利己愛にすぎません。相手を指導し引き上げるという責任を放棄して相手に迎合し、相手から好かれようとして人気取りに走るところに本当の教育は存在しません。「優しさの安売り」は、強い利己愛の表れなのです。