(3)スピリチュアリスト・サークルづくりの準備

スピリチュアリスト・サークルの意義と重要性について理解していただけたものと思います。ここからは、サークルづくりの具体的な方法について学んでいきます。スピリチュアリスト・サークルというきわめて霊的に高い世界をつくり上げるためには、周到な準備が必要となります。

1)サークルのメンバーの選別

伝道では相手を選ばないが、サークルづくりでは相手を選ぶ

シルバーバーチは、外部の人間を相手にする伝道とは違って、すでに霊的真理を手にした人間(スピリチュアリスト)が、さらなる高い霊的世界を求めてグループをつくろうとするときには「相手を選ぶことが必要である」と述べています。

伝道における“真理の種蒔き”では、相手を選ぶというようなことがあってはなりません。真理を受け入れられる時期のきた人には、いつでも真理を伝える準備をしていなければなりません。しかしすでに「霊的真理」を人生の指針としている者同士が、より高度な霊的レベルでの交流を目指してサークルをつくろうとするときには、それにふさわしいパートナーかどうかを厳しく見定め、選別しなければならないのです。

「大人の霊」であるスピリチュアリストを選ぶ

シルバーバーチは――「2人ないし3人の者が集う所には、大霊が賜物を授けてくださる」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.261)と述べ、スピリチュアリストが集まることの霊的意義を明らかにしています。ここにスピリチュアリスト・サークルの出発点が示されています。

では、その2~3人とはどのような人間なのでしょうか。サークルをつくるに際して、いかなる人間との集まりを求めるべきなのでしょうか。スピリチュアリズムに関心がある人なら誰とでも、すぐにサークルをつくることができるのでしょうか。こうした質問に対して、シルバーバーチは次のように答えています――「イヤな思いをすることのない、本当に心の通い合える人々が同じ目的を持って一つのグループをこしらえます。」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.247

シルバーバーチはサークルのメンバーの条件として、「心が通い合う人間」と「同じ目的を持った人間」の2つを挙げています。これはサークルをつくるに際しては、しっかりとメンバーを選別しなければならないということを意味しています。すなわち、サークルをつくる相手は誰でもいいというわけではないのです。ただ単にスピリチュアリズムに関心がある人間、霊的真理を知っているというだけの人間ではダメなのです。

ここでシルバーバーチが挙げている「同じ目的」というのは、言うまでもなくスピリチュアリストとしての共通目的のことであり、具体的には霊的真理の普及と各自の霊的成長を意味しています。シルバーバーチはある時、次のように述べています。「まず自らが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです」『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)p.92――サークルのメンバーとして求めるべき相手とは、これができる人間のことです。

すなわち「霊的真理を受け入れるだけでなく、真理にそって自己コントロールの努力(自己努力)をし、そのうえで自分の人生をスピリチュアリズム普及のために捧げることができる人」ということです。シルバーバーチは、そうした内容を持った人間(スピリチュアリスト)とサークルをつくりなさい、と教えているのです。霊的真理を正しく理解し、真理の実践を心がけるスピリチュアリストとは、これまで述べてきた「大人の霊」を指しています。

このような条件を満たしているスピリチュアリスト同士なら、連絡を取り合った翌日から、2人で霊的サークル(スピリチュアリスト・サークル)を出発させることができるようになります。そして初めから深い世界で心を通い合わせることができるようになります。

安易にサークルづくりに走らない

サークルをつくる場合、最も注意しなければならないことは――「焦って安易にサークルづくりに走らない」ということです。単なる知的好奇心レベルの人、あるいは心霊現象や霊能力への関心だけにとどまっているような人とはパートナーを組まないということです。そうした人間は、スピリチュアリストを自称していても「大人の霊」とは言えません。彼らの多くはとかく傲慢で謙虚さがなく、スピリチュアリズムの普及よりも自分の利益や名声を優先しようとします。到底、スピリチュアリズムの普及を目的とした犠牲的な歩みはできません。そうした相手とは心の底からの深い交わりは持てず、あとになって必ず問題が起きるようになります。

また、単にスピリチュアリズムに関心があるというだけの人、シルバーバーチが好きというだけの人とも、安易にサークルをつくるべきではありません。世の中の多くの人々は、気軽な交流の場を持ちたいと思っています。そして自己努力や自己犠牲を頭から嫌っています。ただ気ままにおしゃべりができる人間関係を欲しているのです。“スピリチュアリズムに関心がある”と言っても大半の人たちは、霊的真理を実践するための厳しい努力よりも、まず仲間を求めます。仲間と一緒に自由で楽しい時間を持つことを願っています。毎日の生活の中で霊訓を読み返し、心を鼓舞して内面の闘いを継続していく努力を嫌がり、手っ取り早く自分を満足させてくれるような集まりはないかと考えているのです。

すぐに他人に頼ろうとする人や、周りの人間から優しくされることだけを求める人にも注意しなければなりません。“癒しブーム”の世の中には、優しさだけを求める人間があふれています。そしてそうした風潮に迎合して“偽りの愛”を安売りするニセ霊能者やニセのグループが、多くの人々をとりこにしています。

まず自らが愛を与えるのではなく、先に与えられることを願い、慰めと癒しを求めるところからは霊的成長も真の幸福ももたらされません。そうした幼稚な人間・霊的子供と言うべき人間が集まったグループは、時間の経過とともに必ず破綻するようになります。“優しさの安売り・癒しの安売り”をすればすぐに人は寄ってきますが、そうした集まりは結果的に、醜い争いを生み出すことになってしまいます。自分に厳しくできる人間(大人の霊)であってこそ、霊的成長の一歩を踏み出すことができるのです。

いつまでも甘えを拭い去れない人間、人から愛されることだけを期待する未熟な人間は、世間一般の人間関係の中でさまざまな体験を積み、「霊的大人」としての人間性を身につけることが必要です。励ましを与え合える人間関係を求めることは間違いではありませんが、そのためには一人一人が霊的大人になっていること、霊的に自立していることが大前提となります。

スピリチュアリスト・サークルを立ち上げるときには、決して人集めに走ってはなりません。霊的成長を願い、純粋に自己コントロールの努力を心がけ、スピリチュアリズムのために無償の奉仕をしたいと思っている人間(大人の霊)との交わりを求めるべきです。サークルづくりにおいては、そうした基準と条件を外部にはっきりと示すことが重要です。スピリチュアリスト・サークルは、単に無意味な議論をしたり、慰めを求める場ではないことを明示することが大切なのです。

スピリチュアリズムの地上展開は「霊魂説」を証明するための心霊現象の研究から始まり、霊界通信によって霊的真理・霊的知識を入手する段階を経て、霊的真理を実践する時代を迎えています。つまりスピリチュアリズムには、「心霊現象」「霊的真理(霊的知識)」「霊的真理の実践(信仰実践)」という3つの段階があるのです。

それと同様に、スピリチュアリストにも3種類の人間がいます。心霊現象だけに関心を寄せる「現象レベルのスピリチュアリスト」、霊的知識の収集には熱心だけれど、実践には心が向かない「知識レベルのスピリチュアリスト」、そして霊的真理を正しく理解し、真理の実践を心がける「実践レベル(信仰レベル)のスピリチュアリスト」です。

サークルのメンバーとしてふさわしいのは、言うまでもなく3つ目の「実践レベルのスピリチュアリスト」です。霊的真理を指針として霊的成長を求める人間、スピリチュアリズムを信仰ととらえ、霊的人生を真剣に歩む人間のことです。

夫婦が「霊的大人」という理想的なケース

夫婦が共にスピリチュアリズムのために人生を捧げ、スピリチュアリズムの普及をライフワークとし、そのためには家族を犠牲にすることさえも厭わない「大人の霊」である場合には、理想的なスピリチュアリスト・サークルができ上がることになります。夫婦そのままで、強力なスピリチュアリスト・サークルが形成されることになります。霊肉一致したサークルが出現することになるのです。

とは言っても、そうした理想的なケースは何百年か先の地球上では当たり前のものになっているでしょうが、「スピリチュアリズムの開拓期」にある現在では、きわめて稀なケースと言えます。

2)メンバーと出会う前の孤独な期間

信仰が試される孤独な期間

本物のサークルをつくりたいと考えるなら、純粋にスピリチュアリズムのために一生を捧げたいと思っている人、犠牲精神を持っているスピリチュアリストとの出会いを待つべきです。そうした「大人の霊」との出会いを求めて、毎日祈り続けることが必要です。場合によっては、条件に適った一人のパートナーと出会うために、3年から5年もの孤独な期間を耐え忍ばなければなりません。そのような状況に置かれると、「素晴らしいパートナーとの出会いの時は本当にくるのだろうか?」と不安に駆られたり、焦りを覚えるようになります。

しかし、心配は要りません。皆さんの決心が本物であれば、いつか必ず高い世界で交わることができる人との出会いが与えられるようになります。真剣な思いのあるところには、霊界にいる多くの霊たちが、ふさわしい人との出会いをもたらすために全力で応援してくれるからです。霊界の導きがあることを忘れてはなりません。霊界の人々の応援と導きを信じなければなりません。目に見える結果がすぐに現れなくても――「自分は今、ベストの道を歩んでいる」ということを信じるのです。それはまさに「霊界への信頼が試される時」です。皆さん以上に長い間、霊的真理を受け入れられる地上人を求め続けてきた霊界の人々の苦労に思いを馳せ、スピリチュアリズムの重要性と意義を再確認する時でもあるのです。

こうした孤独な歩みはとても辛いものであるため、誰もがつい、手っ取り早く安易に仲間を募ろうとします。しかし霊界の導きをひたすら信じ、この孤独な期間をじっと耐えて乗り越えるか否かで、その後の展開が天と地ほどに変わることになります。

孤独な体験が「霊的成長」を促す

霊界の導きだけを頼りとする孤独な歩みを通して、何よりも自らの信仰心と忍耐力が強化されることになります。多くの人間に裏切られるという体験を通して、人の心の複雑さ・醜さ・弱さを知り、人間に対する洞察力が身につくようになります。また、霊界の人々との絆がいっそう深まるようになります。その結果、「霊的成長」が大きく促されることになるのです。

そして高められ鍛えられた霊性・人間性に引き寄せられるようにして、霊性の優れた人(大人の霊)との出会いがもたらされるようになるのです。

高いレベルであればこそ、条件に適う人は少ない

スピリチュアリスト・サークルを立ち上げようとするとき、メンバーになる人間がなかなか現れないことに誰もが悩みます。「どうして自分のサークルには人が集まらないのだろうか」と、焦るような思いに駆られます。スピリチュアリスト・サークルになかなか人が集まらないのは当然です。それはスピリチュアリスト・サークルのメンバーになるための“霊的基準”が、非常に高いからです。その条件に適合するような人間は、世の中にはごくわずかしかいません。

スピリチュアリスト・サークルのメンバーとして求められる条件とは、これまで何度も述べてきたように「霊的大人」であることです。単なるシルバーバーチ・ファンや心霊知識マニアではダメなのです。現在の地球上では「大人の霊」のレベルに達した人間は、何十人に一人いるかいないかというのが実情です。スピリチュアリスト・サークルに人が集まらないのは、メンバーになるための基準がとてつもなく高く、その条件に適う人がきわめて少ないからです。

もし、スピリチュアリスト・サークルの“霊的基準”を低く設定すれば、たちまち多くの人間が集まるようになります。芸能人のファンクラブやニューエイジ的なサークル・趣味のグループ・娯楽のイベントなどには、すぐに大勢の人間が集まります。より物欲的なもの、より快楽的なもの、より気ままなものほど、一度に多くの人間を集めることができるのです。反対に精神性の高いもの、禁欲的なもの、自己犠牲が要求されるものほど、人々は敬遠します。出版書やテレビ番組も同様で、低俗で享楽的なものほど、売り上げや視聴率がアップします。低俗なものほど大勢の人間の好奇心を刺激して、短期間にブームや流行をつくり出すことができるのです。

しかしそうしたものから、人間の霊的成長が促されることはありません。それどころか「肉体本能」を刺激することによって霊性を低め、多くのカルマを生み出すことになります。好奇心を煽り、気軽さを売りにしたグループには、他人にすがって甘えたい人間、自尊心をくすぐられたい人間、虚栄心や自己顕示欲の強い人間、自分を自慢したい人間が集まります。自己の利益と欲望の満足だけを求める人間が集まるようになるのです。そうした人間は刺激のあるものにすぐに飛びつき、熱が冷めるとあっという間に他のものに関心が移っていきます。

ファンクラブやニューエイジ的なサークルのような低俗な好奇心によってつくられたグループを取りまとめ維持していくことは、きわめて困難です。自分の利益しか考えていない人間が、それぞれに好き勝手なことを主張するからです。自己中心的な人間だけが集まったグループでは絶えず醜い泥仕合が演じられ、時を経ずして分裂の道をたどることになります。

こうした醜態は、元はと言えば主催者が、大衆の低俗な好奇心を利用して人集めをしたところに原因があります。“不純な動機”に、すべての原因があるのです。低俗な人間は簡単に集まりますが、去る時もあっという間です。そして醜い結果やカルマを残すことになります。主催者は自らのエゴと低俗さによって、同じような人間から“しっぺ返し”を食うことになるのです。

スピリチュアリスト・サークルのメンバーとしてふさわしいのは、これとは正反対の人間です。他人に一方的にすがることのない自立した人間、全体のための自己犠牲を厭わない人間、自分の方から他人に与えようとする人間、この世の利益を求めない人間、霊界の道具として奉仕に専念する人間です。今の世の中には、そうした「大人の霊」はめったにいません。現在はスピリチュアリズムの開拓期であるため、ここに挙げたような奇特な人間・霊性の優れた人間は少ないのです。今後、時間の経過とともに「大人の魂」を持った人間が徐々に増えていきますが、今は「実践を中心とするスピリチュアリズムの初期段階」にあるのです。

しかしそうした時代にあっても、開拓期の苦労を共に分かち合うことができる人間は必ずいるものです。なかなか人が集まらないのは、目指している世界が高いからであることを、しっかりと心に留めておかなければなりません。「簡単に人が集まらないのは、目指しているものが高いことの証明であり、本当はとても良いことである」と考えるべきなのです。安易に人集めに走ると、結果的に無意味な苦労をすることになり、時間とエネルギーを無駄に費やすことになってしまいます。一見、効率が悪いように思えても、霊性が磨かれた「大人の霊」を求めることが、真の実績をあげるための最も堅実な方法と言えます。

3)サークルづくりの第一歩は「読書会」から

これからスピリチュアリスト・サークルをつくろうという場合には、シルバーバーチの霊訓の「読書会」を設けて、積極的に外部にPRするのがよい方法です。インターネットやミニコミ誌など、あらゆるメディアを活用して読書会の存在を知らせるのです。読書会を立ち上げれば、すでに『シルバーバーチの霊訓』を読んで感動した人々が集まるようになります。『シルバーバーチの霊訓』を自分から読んできたような人は、ある意味で時期のきた人間と言えます。そうした人は、シルバーバーチの読書会の存在を知れば、向こうからやってくるようになります。

「読書会」は、スピリチュアリスト・サークルに至る前段階の集まりです。当然そこには、さまざまな人間が足を運ぶようになります。霊的向上やスピリチュアリズムのための自己犠牲などは、全く眼中にないような人間も来ます。議論好きで自己中心的な人間が参加して、せっかくの読書会を台なしにしてしまうようなことも起こります。そうした人間には、読書会への参加をやめてもらうようにしなければなりません。常に自分が話題の中心になりたがる人間、集まりを自己満足の場にしようとする人間もやめてもらうべきです。

読書会が一部の人間の低俗な欲求を満たすための場になっていないか、無駄話や無益な議論に時を費やす遊び半分の集まりになっていないか、厳しくチェックする必要があります。そして「心を引き上げ奉仕精神を喚起するための読書会」「霊的真理の理解を深めるための読書会」にしていかなければなりません。

現在は、霊界から地上に向けてすさまじい勢いで働きかけがなされています。したがって正しい動機を持って読書会を立ち上げるなら、必ずふさわしい人が導かれてくるようになります。読書会に集まった人の中から、スピリチュアリズムの普及に人生を捧げ、自己犠牲を厭わない人間、心から信じることができる同志を見つけ出していきます。そうした「真のスピリチュアリスト(大人の霊)」との出会いが得られたとき、いよいよ「スピリチュアリスト・サークル」を出発させることができるようになります。

読書会は伝道の延長として行われる活動です。それはスピリチュアリスト・サークルに至る前段階の集まりであり、本当の意味でのスピリチュアリスト・サークルとは異なります。

「読書会」のメンバーの中には、そこに参加しているだけで“自分はスピリチュアリストとしてちゃんと実践している”と思い込んでいる人がいます。月に1度、「読書会」に出席して仲間と触れ合い、一緒に学習することで霊的刺激を受け、自分の心が引き上げられることに満足してしまっているのです。これでは、霊的真理を実践しているとは言えません。霊的成長は、とても望めません。

せっかく「読書会」に参加していながら、なぜこのような状況に陥ってしまうのかと言えば、読書会に参加するだけで良しとしている人間は、「真理に照らして自分を反省することがない」からです。そして「現実に奉仕(利他愛の実践)をしていない」からです。こうした2つの点が考えられます。

たしかに「読書会」に参加するのは有益なことですが、それはスピリチュアリストとしての実践の1つ(one of)にすぎません。読書会の主催者は、そのレベルアップをはかり、参加者の霊的成長を促すために働きかけなければなりません。参加しているだけで満足し、それ以上の向上心が持てない人を、いつまでもそのままにしておいてはいけません。ついて来られない人間が出たとしても、進歩のための道を示さなければならないのです。

シルバーバーチはヒギンソン氏との対話の中で、スピリチュアリズム全体のレベルアップをはかるためには「高い霊的基準を示しなさい」とアドバイスしていますが、それは「読書会」においても必要なことなのです。

「そういう方向へ鼓舞する、何か動機づけとなるものを与え、進むべき道を明示する必要があります。一つの基準を設ければ、みんなそれに従うようになるでしょう。従わない者は脱落していくでしょう。(中略)思い切って突き進みなさい。」

『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』(ハート出版)p.54

4)インターネットを利用したサークルづくりの可能性

知名度のアップは、必ずしもスピリチュアリズムの発展を意味しない

インターネットに代表される最近の情報技術の進歩には目を見張るものがあります。こうした物質文明の先端技術を上手に利用すれば、スピリチュアリズムに進展がもたらされるようになるかもしれません。

とは言っても、あまり過大な期待は禁物です。それは従来のテレビや新聞・雑誌といったマスメディアが、スピリチュアリズムの普及に直接的な貢献ができなかったことからも明らかです。インターネットは従来のメディアと比べ、「スピリチュアリズムの存在を広く世に知らせる」という点では、とても便利なツールと言えます。しかしスピリチュアリズムの知名度を高めることは、必ずしもスピリチュアリズムの発展には結びつきません。

シルバーバーチが繰り返し述べているように、スピリチュアリズムの発展は、霊的真理を正しく理解し、真理を実践する人間が一人、また一人と増えることによってなされていくものです。「霊界の道具」となる地上人が現れることによって、少しずつ進展するようになるのです。

ネットやケータイ・スマホという便利なツールを用いてスピリチュアリズムの知名度をアップさせるだけでは、スピリチュアリズムを発展させることはできません。それどころか反対に、マイナスの結果を招くこともあります。現在、ネットの掲示板には、およそスピリチュアリストのものとは言えないような醜い自己主張やエゴ的意見・低俗な中傷的発言が飛び交っています。それはまさに醜態以外の何ものでもなく、スピリチュアリズム界全体にとって大きなイメージダウンとなっています。

SNSは、霊的真理の伝道に貢献できるか?

従来の掲示板とは異なり、最近ではネット上で広く人脈形成をはかるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)に注目が集まるようになっています。善意と信頼性を信条とするSNSは掲示板と比べ、明らかにネットの発展形態の一つと言えます。SNSの登場は、スピリチュアリズムの普及にとって一つのプラス要因になり得る可能性を持っています。SNSの中でスピリチュアリズムが、人と人とを結びつけるきっかけになるなら、SNSは霊的真理の伝道に貢献することになります。

とは言っても、それはどこまでもネット上における関係であって、直接触れ合う関係ではありません。こうしたレベルで結ばれた人間関係は、そのまま「スピリチュアリスト・サークル」の人間関係に移行することはできません。ネットを介しての人間関係は、顔を合わせることがない言葉のうえでの付き合いであり、霊的成長を促すことはできません。口ではどれほど立派なことを言っても、実際の行動はデタラメという人間がいることからも分かるように、直接的な交わりを持たない言葉だけの結びつきは、霊的成長をもたらすことはないのです。

ネット上での結びつきがすべて無意味であるというわけではありませんが、人間の霊的成長という最も大切な点から見たとき、SNSはそれほど価値があるものとは言えません。霊的成長を促すためには、どうしても具体的な人間関係にまで発展させる必要があります。すなわち、直接顔と顔を合わせて触れ合う人間関係、現実の行動によって結ばれた人間関係をつくっていく必要があります。ネット上の人間関係をこうしたレベルにまで引き上げることができるなら、SNSは大きな意味を持つことになりますが、そこには高いハードルがあります。

スピリチュアリスト・サークルは、「大人の霊」であるスピリチュアリスト同士が直接触れ合う中で築いていく関係です。霊的人生を歩む者たちが時間とエネルギーを傾け、自己犠牲を払ってつくっていく関係です。そうした人間関係をつくり上げるためには、ネット上での関係とは比較にならないほど多くの努力が要求されます。真に価値あるものを手にするためには、それに見合った努力や犠牲がともなうというのが「神の摂理」なのです。

一度でも本当の人間関係を体験すると、ネット上の人間関係があまりにも幼稚で内容がないことに唖然とするようになります。祈りが実際の行為の代用にはならないのと同じように、ネット上の人間関係はスピリチュアリスト・サークルや読書会の代用にはなりません。現時点でのSNSは、霊的真理の伝道に貢献することはあっても、スピリチュアリスト・サークルづくりに貢献することはほとんど期待できません。

祈りは、信仰実践(霊的人生)の一部分ですが、実践のすべてではありません。それと同じようにネットでの交流は、スピリチュアリズムの普及に部分的に役立つことはあっても、スピリチュアリズムの普及そのものにはなり得ません。祈りは信仰生活の代用にはならず、祈りだけの人生は間違っていますが、ネット上だけの交流も、スピリチュアリスト・サークルの代用にはならず、むしろ「霊的絆で結ばれた深い人間関係を築く」という本質から外れていく危険性が大きいのです。

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