(7)祈りにともなう霊的反応と心霊体験

本章の最後に、祈りにともなう霊的反応と、祈りによって引き起こされる心霊現象・心霊体験を取り上げます。祈りは霊的領域・サイキック領域における行為であり、自分を取り巻く霊的世界に向けての働きかけです。そのため祈りは、さまざまな霊的反応や心霊現象を発生させることになります。

世間一般ではこうした現象を大げさに取り上げて騒ぎますが、「霊的真理」を正しく理解していれば、それに振り回されることはなくなります。

1)霊的エクスタシー体験

霊的エクスタシー体験とは

皆さんは、目を閉じると眼前に「神」がいて、霊界があることを立体的に実感するような感覚を持ったことがあるでしょうか。無限の宇宙の中で、自分一人が「神」に直接対面しているような感覚を味わったことがあるでしょうか。古来、さまざまな宗教の中ではこうした神秘的な感覚の存在が知られてきましたが、実際にその感覚を持つことがあるのです。

瞑想状態が深まるにともない、広大な宇宙の中に神と自分だけがいて、自分の体がなくなっていくような感覚を体験することがあります。どこまでも深い静寂の世界、一点の曇りもない澄み切った無限大の世界に吸い込まれ、手を伸ばせば神に届くかのような感覚に包まれることになります。そのうち突如、自分が宇宙と一つになり、神と一つになったような衝撃的な感覚、自分が宇宙大に拡がったような感覚が湧き起こってきます。そして堰を切ったように感動がふくれ上がり、全身の一つ一つの細胞のすべてが酔いしれるようなエクスタシーの状態に入っていきます。こうした“最高の神秘体験”――一瞬ではあるけれど最も深い霊的体験が「霊的エクスタシー体験」です。

「天と地とが融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながらすべての障壁が取り除かれたとき、人間は自分本来の霊性を自覚します。すべての束縛を押しやぶり、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)p.195

「皆さんの魂の静寂の中で霊が大霊と交わることができるまでに霊性を磨くことは可能です。その瞬間には皆さんと大霊とが一つであることを実感します。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.125

「やがて最初の静けさを実感する。何やら宙空を滑るような、あるいは深い淵へ沈み行くような、そして感覚的なものから解き放たれるような感じがする。そして次の瞬間、エクスタシーを体験する。」

『マイヤースの通信 個人的存在の彼方』(スピリチュアリズム普及会)p.190

人間にとっての最高の至福体験

こうした神秘体験は、人間が地上世界で味わうことができる最高の喜びであり、仏教で言われてきた“三昧の世界・ニルバーナの境地”のことです。地上のいかなる喜びも、この至福体験とは比較になりません。まさに地上人にとって極限の心地よさです。それは私たちが死後、霊体だけの存在になったとき、直接「神の愛」に酔いしれる感覚に他なりません。霊的エクスタシー体験は、人間にとってこの上ない喜びであり、地上にいながらにして持ち得る最も幸せな瞬間なのです。

それは一瞬の出来事ですが、あまりにも強烈で刺激的なため、一度体験すると一生忘れることができなくなります。

短時間で深い瞑想状態に入る

こうした神秘現象(霊的エクスタシー)を体験するようになると、霊体から肉体へ流れる“霊的エネルギー”の通路が開かれやすくなります。その結果、短時間で深い瞑想状態に入ることができるようになります。日常の中で、少し心を整えるだけで深い祈りの世界に入っていくことができるようになるのです。

この意味でスピリチュアリストには、ぜひとも“霊的エクスタシー”を体験してほしいと思います。それを通して“霊的感性”を高め、霊的世界を身近に感じ取れるようになってほしいと思います。そうなれば、どのような環境に置かれていても、どれほど忙しい状況にあっても、すぐに霊的意識のレベルを引き上げることができるようになります。あっという間に“霊的感覚”を取り戻すことができるようになるのです。

霊的エクスタシー体験は、どこまでもサイキック現象にすぎない

深い祈りの最中に味わう、自分が宇宙と一つになったような“霊的エクスタシー”は、まさに地上における最高レベルの霊的体験・至福の神秘体験です。

しかしそうした体験をすることが、その人間の魂の高さ(霊性レベル)を示しているわけではありません。霊的エクスタシーを体験したからといって、霊的成長の頂点を極めたことにはなりません。古代インド思想では、ニルバーナの世界に参入することを最高の悟りであるとし修行の目的としていますが、それは間違いです。霊的エクスタシー体験は、霊的エネルギーが「霊の心」から「脳(肉体)」に向けて、瞬間的に大量に流れ込むことで発生する典型的なサイキック心霊現象なのです。

こうした神秘体験は昔から、さまざまな名称で呼ばれてきました。「三昧の体験」「神との合一体験」「神との融合体験」「見神体験」「接神体験」などです。最近のパーソナル心理学では「変性意識」と呼んでいます。キリスト教・仏教・イスラム教・ヒンズー教・ヨーガなどの修道者・修行者は、しばしばこの種の体験をしたことが多くの記録に残されています。最近では、TM瞑想における同様の神秘体験がよく知られています。

霊的エクスタシー体験は、霊性とは無関係

霊的な至福体験(霊的エクスタシー体験)と霊性レベル(霊的成長度)の間には、直接的な関係はありません。霊的エクスタシーを体験した人が、必ずしも霊性が高いわけではありません。霊性が高くてもサイキック能力が乏しいために、霊的エクスタシーを体験できない人間は大勢います。霊的エクスタシー体験と霊性のどちらが大切かは、言うまでもありません。「霊性(霊的成長)」に決まっています。霊的成長を常に優先した生活を心がけるべきであって、霊的エクスタシー体験に固執してはなりません。

地上人生の意義は、不自由な肉体をまとい、その不自由さを克服しながら歩んでいくところにあります。そうした歩みを通して少しずつ、私たちの魂は成長していきます。ところが霊的エスタシー体験は、あまりにも強烈で刺激的であるため、それが心に深く染み込んで忘れられなくなってしまいます。そして霊的エクスタシー体験を求めることが信仰の目的となり、瞑想三昧の生活・祈り漬けの生活を送るようになってしまいます。

しかし瞑想や祈りだけの生活は、地上にあっては邪道です。不自由な肉体を携え、地上ならではの苦しい体験を乗り越えてこそ、魂を成長させることができるのです。

2)祈りにともなう心霊体験とその危険性

瞑想・祈りの場所には、低級霊が押しかける

瞑想や祈りの実践には、注意しなければならない点があります。瞑想や祈りは霊的世界への接近をはかる行為であり、当然、霊界の霊とも通じやすくなります。私たち地上人の周りには“未熟霊・低級霊”がいて、常に働きかけるチャンスをうかがっています。瞑想や祈りをする人間の動機が不純であったり心が不安定な状態にあると、低級霊はそれを見逃さず一斉に働きかけるようになります。瞑想会や祈祷会は私たちにとっては心を高める貴重な時間ですが、低級霊にとっては地上人に働きかける絶好の機会なのです。

「高い霊的世界に触れて霊的エネルギーを取り入れたい、心を引き上げたい」という純粋な動機からの瞑想や祈りなら、何の問題も起こりません。瞑想中は背後霊や多くの高級霊が守り、力を与えてくれるからです。ところが利己的な動機(物質的・この世的な欲望や、前世を知りたいとか霊力をつけたいといった好奇心)から瞑想に臨むなら、低級霊にとっては“餌食”が自分からわざわざやって来るようなものなのです。さらにその人間が「霊媒体質者」であるなら、まさに願ってもないチャンスが転がり込んでくることになります。

霊媒体質者は、真理による“霊的武装”が不可欠

チャンティングやダイナミック瞑想中の神経の異常興奮や泣き叫びなどは、低級霊による“憑依”の始まりであることが多いのです。霊媒体質(霊能体質)は生まれつきのものであり、再生前の本人の自己選択によって決められています。「霊媒体質者」は、内面のコントロールと正しい訓練によって霊能力者(霊媒)になる素質を持っていますが、現実には“低級霊の餌食”になってしまう人間が圧倒的に多いのです。

霊的真理を武器にできない霊能者は、高い心境を維持することはできません。霊能者の精神的安定・心のコントロールのためには、「霊的真理」による知性的な世界の確立がどうしても必要です。知性的にしっかりしていない霊媒体質者は、“低級霊”に翻弄されやすくなります。真理を武器として自己コントロールに努める霊能者に対しては、低級霊は働きかける糸口をつかむことができません。その意味で「霊媒体質者」は霊的真理をじっくりと学び、“理論武装”をすることが不可欠なのです。

霊媒体質者は、瞑想よりも「霊的真理」の学習を優先すべきです。真理による自己コントロールができない人間は、むしろ瞑想は避ける方がよいのです。霊媒体質者は、絶えず霊的真理を読んで自分の心をコントロールしなければなりません。ところが、そうした人間に限って本を読むのが苦手であり、現象だけに異常に関心を持ちがちです。私たちの背後で暗躍する“低級霊”に対する正しい知識がなければ、好き勝手に翻弄されることになってしまいます。

悪い霊気が漂う瞑想会は避ける

自分が参加している瞑想会で神経の異常興奮が見られ、悪い霊気が漂っているような場合には、そこに加わることは避けるべきです。また、瞑想会の主催者が霊的知識についての理解が乏しく、低級霊の憑依を排除する力がないときも、その会に加わってはなりません。参加者がどんなに“新しい自分を発見した”とか“霊的視野が開かれた”と言って感激したり興奮するようなことがあっても、冷静で落ち着いた雰囲気が支配的でない瞑想会は、あとになって必ずよくないことが生じるようになります。「低級霊の餌食にならないようにすること」――これが瞑想・祈りをする際の大切な注意点です。

心霊現象を大げさに考えない

瞑想・祈りが進んでいくと、人によってはさまざまな超常現象を体験するようになります。サイキック能力が発現したり、心霊現象(霊的現象)が引き起こされるのは、瞑想・祈りでは自然なことなのです。空中から金粉が降ってきたり、幽体離脱が起こったり、霊的スクリーンが見えるようになったり、いろいろな心霊現象が生じるようになります。心霊治療能力が現れることもありますし、他人のオーラが見えたり、霊視や霊聴ができるようになることもあります。

しかし、そうした現象にとらわれてはなりません。ごく当たり前の現象として、やり過ごすことが必要です。サイキック能力が得られたからといって、それが魂の成長の証ではありません。これまで体験したことがないような現象が自分の身に起きると、大抵の人間は有頂天になってしまいますが、そうしたことに浮かれていてはなりません。霊能力や心霊現象にこだわることは間違いです。かつて社会を騒がせた“オウム事件”は、霊能力や心霊現象に関する無知から引き起こされたものなのです。

心霊現象は、初めて出くわした人間にとってはとても魅力的で、邪心が刺激されます。その結果、しばしば人生を狂わされることになってしまいます。しかし「霊的真理」を知った私たちは、霊能力や心霊現象に過度の関心を持ってはなりません。霊能力や心霊現象ではなく、「霊的成長」と「真理の実践」に意識を向けることが大切です。

不純な動機や焦りの中での瞑想・祈りは危険

ヨーガにおける最高次元の世界“ニルバーナ”とは、深い祈りの中で訪れる「至福体験(霊的エクスタシー体験)」のことを指しています。ヨーガでは、準備ができていないうちに無理やりクンダリーニを覚醒させると危険が生じると言いますが、それは霊媒体質者が低級霊に憑依され、異常な状態になるからです。一方、麻薬や催眠術によって低次元の霊的中枢を刺激して「変性意識」を発現させることもできますが、そうした不自然な方法は低級霊とのコンタクトを容易にし、精神障害や憑依といった問題を引き起こすことになります。

よこしまな動機から決して瞑想や祈りをしてはなりません。“自分の前世を知りたい”“背後霊を知りたい”などという低俗な欲求から瞑想に入る人間もいますが、それが良い結果をもたらすことはありません。そもそも“自分の前世を知りたい”という願望は、単なるエゴ以外の何ものでもありません。エゴと霊的知識に対する無知から生じているのです。それがますます“低級霊”に付け入るスキを与えることになってしまいます。

また、「一刻も早く霊的な覚醒を得たい」との願いから瞑想を始める人もいます。その動機は間違ってはいませんが、そうした思いが強くなり過ぎると大きな問題を引き起こすことになります。自己啓発セミナーやニューエイジのセミナーで行われている洗脳や霊能開発プログラムが、いかに霊的成長の法則から懸け離れたものであるかは、今さら言うまでもありません。短期間に一気に自分を変えようと考えるのは、虫のいい話です。霊的成長は、日々の地道な努力を通してしか達成されないものなのです。「霊的意識のレベルを引き上げる、心を高める」という以外の動機で、瞑想・祈りをしてはなりません。

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