(1)祈りの霊的意義と本質

――祈りは大いなる霊的活動

祈りは、「霊の親」である神の前に出て謁見えっけんする、最も厳粛なひと時です。これが祈りの一番の定義です。祈りにはいくつかの重大な意味がありますが、そのうちの一つが、祈りは人間にとって大いなる霊的活動・霊的行為であるということです。

ここでは祈りの意義と本質を“霊的活動”という観点から整理します。

1)祈りは、神に近づこうとする魂の願望

祈りは、神への語りかけであり、霊の親の愛を求める純粋な霊的活動です。霊の親である神に近づきたいという“魂の願望”から出た、やむにやまれぬ霊的行為なのです。それについて、シルバーバーチは次のように述べています。

「祈りとは大霊に近づかんとする魂の願望です。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.140

「祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神とのつながりをより緊密にすることです。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)p.169

「祈りとは神性の一かけらである自分がその始原とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)p.205

神と人間は、霊的な親子関係にあります。祈りは、霊の親に向けてのストレートな語りかけであり、私たち人間が子供として、親なる神に対して愛を求める純粋な霊的行為なのです。人間サイドから神に向けて働きかけることによって、親子の“愛の絆”は強化されていきます。乳飲み子が本能の働きによって必死に母親を求めるように、人間の魂は“霊的本能”から魂の親である神を求め、これと一つになろうとします。まさに祈りは、そのための行為なのです。

2)祈りは、霊的自立を促すための不可欠な行為

地上人は、肉の親(父母)の保護と育児のもとで地上人生の初期段階を歩むことになります。肉の親は、「神の代理者」として子供を育てる役割を担っています。その期間中、子供は肉の親を通して間接的に「霊の親」である神との結びつきを持ちます。

子供は、肉体の成長とともに霊的成長も促され、やがて霊的に独り立ちして直接、神の前に出ていくようになります。これが「霊的自立」にともなう霊的成人化です。人間は霊的自立にともなって心の拠りどころと考え方の中心を、肉の親やこの世の人間から「神」に移行させるようになります。「神」を中心とした意識世界を形成するようになるのです。

こうした霊的自立に際して、“神への祈り”はきわめて重要な要素となります。人間は祈りを通して、神と一対一の交わりを持ち、その関係を深めることになるからです。この事実は――「祈りによって神と触れ合うすべを知らない人間は、いつまでも霊的自立を果たすことができず、霊的大人になれない」ということを意味しています。

祈りは、霊的真理の理解度と並んで、その人間が霊的自立の時期を迎えているかどうかを判別する一つの目安になります。「祈りを通して神と隠し事のない関係を持つ」ということは、いかなる人間関係よりも神との関係を重視している、いかなる人間よりも神を一番信頼している、という心の姿勢を表明しているのです。

「神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。」

『霊の書/思想編』(スピリチュアリズム普及会)p.248

『霊の書』については翻訳原文の文体・表現を改めています。

3)祈りは、人間の霊性の表現であり、理想に向けての魂の決意表明

一人になって神に語りかけるとき、その言葉(祈り)には、本人のありのままの心の状態が表れます。祈りは、その人間の内面をそのまま映し出します。オーラには一人一人の霊性・性格・知性・意志・感情が表れますが、祈りもそれと同じで、本人の内面を正確に表現します。

したがって祈りを聞けば、その人間の霊性や知性のレベル・精神状態を知ることができます。霊性の高い人は霊的に高い祈りをし、知性的な人は知性的な祈りをし、視野の広い人はスケールの大きな祈りをします。100人いれば100通りの祈りが存在しますが、それは祈りには、一人一人の内面の違いが的確に表れるからです。まさに祈りは、その人を映し出す鏡であり、魂の成長レベル(霊性)の指標と言えます。

一方、人間がより高い霊的世界・理想の世界を求めようとするとき、祈りは本人の決意の表現となります。祈りには、その人間の理想を求める意欲と決意の強さが示されます。祈りは、理想に向けての“決意表明”であり、より高い世界を求める魂の叫びなのです。

「祈りとは魂の表現です。具体的に言えば、祈りとは光明あるいは導きを叫び求める魂の止むに止まれぬ切望です。」

『シルバーバーチの霊訓(12)』(潮文社)p.122

「祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑え難い気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)p.198

「祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺激――これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)p.205

4)祈りは、背後の霊との結びつきを深める強力な手段

祈りは、霊界から私たち地上人を指導し援助しようと待機している、多くの霊たちとの“霊的絆”を強化します。地上人の真摯で真剣な祈りは、霊界の霊たちとの交わりを強力に促進します。地上人の祈りに霊たちが呼応して、地上と霊界の“架け橋(霊的パイプ)”がつくられます。地上人と霊界人との霊的絆は、祈れば祈るほど強化され、交われば交わるほど親密度を増すことになります。こうした祈りの“霊的効用”を知れば、誰もが祈りの重要性を認めざるをえなくなります。

霊界の霊たちからすれば、最も近づきやすい地上人とは、日頃から多く祈り、霊的交わりを重ねている人間です。こうした地上人には、霊界人は必要に応じて救いと導きの手を差し伸べることができます。失敗を繰り返し意気消沈しているときには、霊的エネルギーを注ぎ込んで魂を励まし、気力を奮い立たせてくれます。人生の重荷に耐えかねて苦しみ・悲しみに悶えているときには、心に慰めと安らぎを与えてくれます。こうした形で祈りは叶えられ、具体的な“霊的恩恵”がもたらされることになるのです。

また、純粋な動機からの祈りや摂理に一致した祈りは、霊的なバイブレーションを引き起こし、本人の霊的成長レベルに応じた援助を自動的に引き寄せることになります。

「忙しい時間のいくばくかを割いて、背後霊との霊的な交流を持つことを心がけてくださると、背後霊はとても助かるということです。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)p.101

「静かで受身的で受容性のある心の状態こそ、霊にとって最も近づきやすい時です。静寂の時こそ、背後霊が働きかける絶好機なのです。片時も静寂を知らぬような魂は騒音のラッシュの中に置かれており、それが背後霊との通信を妨げ、近づくことを不可能にします。ですから、少しの間でいいのです。精神を静かに統一するよう工夫することです。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)p.18

「それゆえ、日頃から(祈りを通して)霊性に目覚めた生活を営む者ほど、霊的世界の深奥に入ることができるわけです。その種の者には、我々の方からも近づきやすいのです。外界の喧騒に影響されることなく、その者が有するところの、我々にのみ反応する奥深い琴線に触れることができるのです。」

『霊訓(完訳・上)』(スピリチュアリズム普及会)p.168

「寒々として霊性を寄せ付けない地上生活にあっては、人間の魂と、その欲求を叶えてあげようとして待機している背後霊との間の磁気的霊交が、真摯な祈りによってどれほど強く促進されるものであるか、そなたはご存じない。使うほどにその絆は強化され、交わるほどにその親密度を増すものです。祈りというものがどれほど豊かな霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることでしょう。」

『霊訓(完訳・上)』(スピリチュアリズム普及会)p.166

「我々の側(霊界)から最も近づきやすい魂は、日頃から霊的交わりを重ねている者です。友よ、これ以外にはないのです。それが人間の世界とのつながりを支配する不変の法則の一つなのです。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのです。」

『霊訓(完訳・上)』(スピリチュアリズム普及会)p.167

『霊訓』については翻訳原文の文体・表現を改めています。

5)祈りは、スピリチュアル・レベルでの霊的修行

純粋な霊的行為である祈りは、スピリチュアル・レベルでの霊的修行です。一般的に修行というと、断食・滝行・水行などの肉体行や念仏行を思い浮かべます。これらはサイキック・レベルの修行法であり、それによってしばしば「サイキック能力(霊体能力)」が発現するようになります。しかしそれはどこまでも、一人の人間の霊体の能力を引き出したにすぎません。しかも、その修行方法自体が潜在していた能力を無理やり引き出すといった不自然なものであるため、一歩間違えると“低級霊の憑依”という深刻な問題を引き起こすことになります。

それに対して、誠心誠意の祈りは、純粋なスピリチュアル・レベルでの修行です。祈りの実践は、サイキック・レベルを超えたスピリチュアル・レベルの修行になっています。そうした祈りは、霊界にいる霊たちの心に直接届き、彼らとの関わりをつくり出すことになります。その結果、多くの霊たちの協力と援助を引き出すことができるようになるのです。一人の地上人の祈りが、無数の霊界の人々を惹きつけ、強大な力(スピリチュアル能力)を持つことを可能にするのです。

サイキック・レベルの修行では極度の緊張が要求されますが、祈りというスピリチュアル・レベルの修行では、霊界への信頼とリラックス・穏やかさ・受身の姿勢が必要とされます。祈りという霊的修行では、高次の霊的エネルギーを取り入れることができますが、サイキック・レベルでの修行では、それはできません。

祈りというスピリチュアル・レベルの修行には、サイキック・レベルの修行(肉体行)よりも、一段と厳しい内容が要求されます。サイキック・レベルの霊能力は、霊的成長(霊性)とは無関係です。卓越したサイキック能力を持っている修行者であっても、スピリチュアル・レベルの霊能力を持っているとは限りません。激しい肉体行に明け暮れている修行者が、必ずしも霊的に高いわけではありません。人格の劣ったサイキック・レベルの修行者は、決して霊界の人々を動かすようなことはできないのです。

純粋なスピリチュアル・レベルの修行である祈りは、利己性や世俗的欲求のあるところには成立しません。それは常に「霊的成長」と一体となっています。ここに「祈り」という霊的修行の厳しさがあるのです。

「祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.226

「祈りとは、我々のまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して、精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることができ、かくして我々に本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)p.198

「祈りの本質は、(中略)より高度なエネルギーと調和するための手段です。(中略)全身全霊をこめて可能なかぎり高い次元の波動に合わせようとする行為のことです。それに呼応して注ぎ込まれるインスピレーションに満たされて霊性が強まります。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.133

「祈りは魂の活動としての価値があります。すなわち自己の限界を悟り、同時に内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となる――つまり、より多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.223

6)祈りは、利他愛実践の意欲を高める霊的手段

シルバーバーチは、次のように言っています。

「祈りの本質は、人のためのサービスという行為へ向けて魂を整えることです。より高度なエネルギーと調和するための手段です。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.133

真実の祈りは、霊的エネルギーを取り入れて霊的意識を高め、利他愛実践のための魂の準備をします。真実の祈りは、愛を実行するための手段であり、不可欠なウォーミングアップなのです。

祈りにはさまざまな目的があり、それに応じた祈りが存在します。自分の醜さを自覚して内面を清めたいと願う祈りや、疲れ果てた心身を癒して奉仕へのエネルギーを与えてほしいと願う祈りがあります。窮地を乗り切るための力と導きを請う祈りもあれば、自分の魂の成長を求める祈りや、霊界人の深い思いをもっと分からせてほしいと願い求める祈りもあります。また、人類の霊的進化のための仕事が成果をあげて世界中から悲劇がなくなり、全人類が幸せになることを希求する祈りもあれば、目の前の不幸な人間が救われることを求める祈りもあります。さらには病人を前にして、できることなら一刻も早く癒されてほしいと願う祈りなど、その内容は人それぞれです。

こうした祈りのどれもが、自分の物質的利益を求めるものではありません。祈りが正しいものであるかは、その方向性が「利他的」で「霊的成長」という神の摂理に一致しているかどうかによって決められます。スピリチュアリズムが認める祈りとは異なり、大半の人々は自分や家族の幸せを願い求めます。特に健康と物質的繁栄、あるいは不幸や災難から逃れられることを祈ります。

しかしそうした祈りのほとんどは“利己的な願い事”であって、真実の祈りではありません。言うまでもないことですが、摂理からずれた祈り、霊的成長とは無関係な祈りが聞き届けられることは決してありません。この世の利益を求める利己的な祈りは、意味がないどころか、魂の成長にとってマイナスの作用をします。そうした祈りは、すべきではありません。

利他性がともなわない祈り、霊的成長を意識しない祈りは正しくありません。さまざまな祈りの中で最も価値ある祈りは――「他人への奉仕」を求める祈り、「他人の霊的成長」を願う祈りです。真実の祈りは、その人間の心を愛の思いでふくらませ、利他愛実践の意欲を高めることになります。

「より大きい生命との直結を求め、それが当人の存在を溢れんばかりに満たし、宇宙の大意識と一体となり、その結果として霊的強化と防備を得て奉仕への態勢固めをすることです。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.227

7)祈りは、人類愛の実践内容

――“人類愛”には必ず真実の祈りがともなう

全人類を愛するということは、「霊的同胞意識」を持って、出会うすべての人々に可能なかぎり利他愛を実践することです。自分の家族に対するのと同じように、時には自分の家族を犠牲にしたり後回しにして他人を愛するということです。それは利他愛を最も高めた形であり、人間として持ち得る最高の愛なのです。

そうした“全人類愛・霊的同胞愛”には、必ず深い祈りが先行します。全人類の幸せを求める強い思いは――「もっともっと人類のために自分を役立てたい、自分の人生を全人類の幸福のために捧げたい」という願いを喚起します。これが「祈り」として、神の前に表明されることになります。単なる自己満足的なボランティア活動と、全人類愛に根ざしたボランティアとでは、「深い祈りがあるかどうか」という点において明らかな違いがあるのです。全人類に対する愛には、必ず真心からの深い祈りが先行します。

シルバーバーチはある時、次のように述べています。

「真実の祈りは偉大なる霊的行為です。(中略)祈りの言葉はたった一言しかありません。『何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え』――これです。『大霊のため、そして大霊の子らのために一身を捧げたい』――この願いより崇高なもの、これ以上の愛、これに優る宗教、これより深い哲学はありません。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.134

魂の奥底からの“真の人類愛”があればこそ――「もっともっと自分を全人類のために役立てたい。できることなら自分の一生をそのためだけに捧げたい」という祈りが可能となります。自分を人類のために捧げ尽くしたいと願う「真実の祈り」には、一片の利己性もありません。祈り自体が、その人間が持つ人類愛の深さを示し、魂の崇高さ・霊性の高さを示しています。人類の幸福のために自分を捧げたいと願う祈りは、全人類愛(霊的同胞愛)そのものであり、全人類愛実践の一部分となっています。

スピリチュアリズムが理想とする「霊的同胞世界」は、地上人類がお互いに純粋な利他愛・人類愛で愛し合い、真実の祈りを捧げ合うところに実現するのです。

8)祈りは、どこまでも霊的成長のための一手段

祈りは、霊的人生を歩むうえで欠くことのできない実践項目であり、多くの霊的恩恵をもたらします。しかし祈りには、心に留めておかなければならない重要な一面があります。それは、「祈りは霊的成長のための一つの手段にすぎない」ということです。祈りは霊的人生において大きな役割を果たしますが、それは霊的人生の目的ではないのです。シルバーバーチは――「祈りはあくまでも手段であって目的ではありません」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.134)と述べています。

祈りはどこまでも手段である以上、祈りをしなかったからといって霊的成長(霊性)レベルが低下するようなことはありません。霊的成長が停滞し、そのレベルに留まるということです。祈りは霊的成長を促すための強力な手段であり、それを上手に活用すれば霊的成長が進みますが、活用しなければ祈りによる成長は望めないということです。祈りを実践すれば素晴らしい霊的宝がもたらされますが、実践しなければせっかくの霊的成長のチャンスを失うということなのです。祈りはどこまでも人間の“自由意志”の範囲での実践項目であり、その選択は各自に委ねられています。

祈りが霊的成長の一手段であるということは、もう一つの重大な意味を持っています。それは、「祈りだけでは霊的成長は達成されない」ということです。人間が“肉体”を持って地上に生まれたのは、“肉体”を用いた行為を通して「霊的成長」がなされるようになっているということです。行為の生活を前提としない祈りには、何の価値もありませんし、何の効用ももたらされません。祈りは、日常の行為・日々の実践の代用にはなり得ないのです。霊的真理の実践を心がけずに祈りだけをしていても、霊的成長はなされません。それどころか一歩間違えると、祈りは利己的行為になってしまいます。

「勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは、思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても、代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは、邪道です。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.160

「祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)p.205

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