(4)霊優位のための具体的な実践内容
1)スピリチュアリズムは、厳格な欲望抑制主義
霊主肉従と欲望抑制のための努力
霊主肉従のための努力とは、本能的欲望・利己的欲望を抑制し、コントロールすることに他なりません。欲望抑制のための努力、ストイックな克己の努力を意味します。スピリチュアリズムの“霊的人生”は、こうした自己の内面における闘いから始まります。その意味でスピリチュアリズムは、厳格な“欲望抑制主義”と言えます。地上の人間がその魂を成長させるためには、地上ならではの努力が必要とされます。肉体を持たない霊界人や天使とは違った努力が要求されます。また霊と肉の二重構造を持たない動物とも違った努力が要求されます。それが「霊主肉従」のための厳しい内面の闘いなのです。
私たちの魂は、肉体本能をコントロールする努力を通じて、初めて成長するようになっています。この霊的コントロールの努力は、各自の“自由意志”のもとで実行されなければなりません。克己の闘いを続けて自らの霊性を高めるのも、その闘いを避けて霊的成長のチャンスを失うのも、すべて本人に任されています。成長も停滞もみな、自分自身が決めるということなのです。
「霊主肉従」の闘いには、確かにたいへんな苦労がともないます。しかし私たち地上人はその苦しい闘いを自分に強いることによって、地上人生を価値あるものにするように運命づけられているのです。
“欲望抑制主義”は、人間らしさを取り戻す方法
現代の大半の人々は、欲望を抑制すること、すなわち“禁欲主義”を時代遅れの考えであるかのように錯覚しています。人間から自由を奪う
現代の地上世界は“物質主義”に覆い尽くされ、霊的成長にとって最も困難な状況が展開しています。その最大の原因は、地上人の「霊的無知」にあります。大半の人々は霊的人生を歩むために必要な最低の知識さえ持っていません。死後にも永遠の生活があり、地上はそのための準備の場であるという最も基本的な霊的知識を知っている人があまりにも少なく、ほとんどの地上人が本能的欲望に支配されて快楽を追求するようになっています。
「大方の人間のしていることをご覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって、精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという、私の持論に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けてくだされば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。」
「私は決して肉体ならびにその必要品をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するように、と勧めているのではありません。一人でも多くの人に、正しい視野を持っていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい、霊をそなえた肉体だと思い込んでいる人が、まだまだ多すぎます。本当は肉体をそなえた霊的存在なのです。それとこれとでは、大違いです。」
2)肉体本能からの3つの欲望
地上の人間に付きまとい、霊的歩みを妨げることになる肉体的・本能的欲望とは、具体的に言えば――「金銭欲・物欲」「性欲」「名誉欲・支配欲(権勢欲)」の3つです。現代人の大半の人生は、まさにこれらの欲望を追求するものとなっています。「肉主霊従」の結果、こうした3つの欲望を満足させることが地上人生の目的となっています。
以下では、一つ一つについて説明していきます。
①金銭欲・物欲
大部分の現代人にとって、お金は物質的欲望を満たすための最も大切な手段であり、頼りになるものです。お金があれば、おいしいものを食べ、立派な邸宅に住み、高級車に乗り、流行の衣服を身に付けることができます。思う存分、旅行や娯楽を楽しむこともできます。多くの人々は、“お金こそが自分に喜びをもたらし、幸福を決定するものである”と考えています。現代社会においては、すべての価値はお金によって決められており、実質的な「価値観の基準」となっています。
また極端な“物質中心主義”の現代社会にあって、人々は絶えず物欲を刺激され続けています。マスメディアによって流される情報に煽られていつの間にか、より多くのモノを買い、より多くのモノを消費することが当然であるかのように思い込んでいます。高価なモノを買い求めることが、素晴らしいことであると思わされてしまっています。テレビや雑誌で宣伝される新商品を手に入れなければ、社会から取り残され、幸せを失うかのような錯覚に陥っています。そして政府までもが、国民に質素な生活を勧めるのではなく、もっと消費を増やして贅沢をさせようとする政策を推し進めています。国民がさらにモノを買い贅沢をしないかぎり、現代の経済は成長していかないようになっているのです。
個人から政府に至るまで、明らかに社会全体・国全体が狂っているとしか言いようがありません。最小限度のモノで満足し、それを使い古すまで大切に用いるという当たり前のことが、美徳ではなく厭うべきライフスタイルになってしまっています。物欲を助長することが当然で、正しいあり方のようになってしまっているのです。
こうした異常な“物質主義”に躍らされているのは、単に日本だけではありません。それは、経済的に豊かになった他の国々においても見られる共通の傾向なのです。物質中心主義によって引き起こされた大量生産・大量消費・贅沢志向の風潮は、今や地球全体を覆い尽くそうとしています。工業化を推し進め、国の経済発展に成功した結果、どの国も例外なく、本能的欲望をよりいっそう追い求める社会をつくり上げてしまっています。金銭的に恵まれるようになった国民は、高価な衣服や装飾品を身に付け、美食に殺到し、高級車を持ち、立派な家に住むことを願っています。かつて一部の金持ちと特権階級だけに許されていた狂った肉欲的な放縦生活を、多くの一般大衆が
いずれの政府も「国民に幸せをもたらす」という大義名分のもとに物質的な繁栄を第一の国是として掲げ、経済的な発展を優先してきました。それによって確かに国民の物質的欲望を満足をさせることに成功しましたが、同時に、人間にとって最も大切な「霊的幸福を奪い取る」という結果を生み出してしまいました。お金さえあれば何でも手に入る、何でも可能になるという物質主義的世界にあって、最低限のモノで満足し質素な生活を送るというライフスタイルは、もはや時代遅れのものとなってしまいました。
こうした“物質中心主義”を国レベルで最も拡大させ、それを世界中に普及してきたのが20世紀のアメリカだったのです。世界の国々は、物質主義の夢を真っ先に実現させたアメリカを目指し、これに倣おうとしてきました。世界中の人々がアメリカの物質的繁栄に憧れ、アメリカ人と同様の物質的恩恵にあずかりたいと願ってきました。国民も政府も、アメリカのような物質的に恵まれた社会を目指すことにおいて、意見は一致しているのです。そしてこうした物質主義文明への憧れが、現在の経済的混乱の中に自らを巻き込むことになったのです。
②性欲・セックス
さて、経済的に豊かになり、生活が保証されるようになった人々が次に追い求めるのが“セックス”の快楽です。食べることに精いっぱいの苦境から脱すると、あるいは宗教的な規制がなくなると、多くの人々は例外なくセックスの快楽を求めるようになります。歴史上、富と権力を手にしながらセックスの快楽に
厚生省(現厚労省)による都立高校生を対象にした最近の調査では、高校三年生の40パーセント近くにセックスの体験があることが報告されています。また平成10年度における10代の人工妊娠中絶数は、女性人口千人に対して9.1人で、過去最高であることが分かりました。このようにセックスの乱れは、異常な広がりを見せています。
自由奔放なセックスの快楽追求ほど、人間を獣以下の存在に
性の退廃は日本だけでなく、世界全体・地球全体の共通の問題であることは言うまでもありません。日本がそうであったように、ある国が経済的に豊かになると決まってセックスの快楽追求がエスカレートしていきます。経済的に恵まれた後も、このパターンを踏まなかった国はありません。経済的に繁栄しながら健全な性道徳が保たれた国はありません。退廃的セックス文化は、現代の先進諸国を覆う共通の傾向となっているのです。
こうした地球レベルでの“性の荒廃”は、欧米のキリスト教の衰退によって歯止めがなくなったことと、経済発展にともなう物質主義の浸透によって引き起こされました。20世紀における人間性の回復の動きが性の自由化をもたらすことになったと考える人もいますが、現実は、人間が肉体本能に翻弄されるようになったことが一番の原因なのです。日本は、そうした欧米での性の解放と退廃の後を追いかけて今日に至っています。20世紀の後半において、性の堕落傾向は地球規模で急激な広がりを見せるようになりました。性がオープンであることが、さも人類の進化・自由の進展であるかのような愚かしい考えが世界中に蔓延するようになっています。
③名誉欲・支配欲
十分なお金を手にし、物質的に恵まれた人間が最終的に追及するようになるのが“名誉欲”であり“支配欲(権勢欲)”です。人から偉い人間であると思われたい、人より優れた存在でありたい、そして周りの人々を自分の言いなりにさせてみたいという願望にとらわれるようになるのです。初めは謙虚であった人間も、人の上に立つようになると、いつの間にかこうした欲望が頭を持ち上げてくるようになります。他人から称讃され、他人を意のままに動かしコントロールすることが快感になってくるのです。政治家、企業家、作家、評論家、芸能人、歌手、学者、宗教者、社会活動家、官僚ばかりでなく、どのような小さな組織の長においても“名誉欲・支配欲”の根深さを見ることができます。そしてここから多くの争いが生じることになります。
この世で成功者と言われる人々の心には、名誉欲・支配欲が強く巣くっています。またボランティア活動に熱心に取り組んでいる人々の心の奥にも、名誉心といった利己性が潜んでいることが往々にしてあるのです。最近ではIT技術の発達によって、誰もが自分の意見を大衆に向けて発信することが可能となりました。それ自体はよいことなのですが、そこにも強烈な自己主張と自己顕示欲が見られます。こうした自己顕示欲の底辺には、名誉心からの利己的願望が渦巻いています。
3)健全な禁欲主義的生き方
スピリチュアリストが目指すべき実生活とは、「霊主肉従」の努力、すなわち本能的欲望を抑制する日々の努力の積み重ねに他なりません。それは具体的には――「金銭欲・物欲のコントロール」「性欲のコントロール」「名誉欲・支配欲のコントロール」によってなされる歩みです。そしてその努力は――「物欲に流されない質素な生活」「貞節を守る清らかな生活」「謙虚な道具意識を持った生活」となって示されます。
次に、そうしたあり方の一つ一つについて見ていくことにします。
①質素な生活
衣食住に代表される物質には、何ひとつ霊的な価値はありません。それらは地上で生活するためだけに存在し、必要最低限あれば事足りるものなのです。“衣食住”については、「生活できればそれでよし」といったところで線を引くべきです。霊的成長にとって、豪華な邸宅や高級車は必要ありません。高価でファッショナブルな衣服や装飾品も必要ありません。多くの現代人は不健全で贅沢な食べ物を求めて飽食に走り、肥満を招き、わざわざ病気をつくり出すような愚かなことをしています。このように“衣食住”に意識と生活が翻弄されているうちは、霊的成長をすることはできません。
もし、スピリチュアリズムに導かれながら“物欲”にとらわれているとするなら、その人は霊界に行ってから後悔することになるでしょう。お金を儲けることが悪いとか、金持ちになってはいけないと言っているのではありません。「お金があっても質素な生活をしなさい」ということです。お金に翻弄されることがないように「お金を自分の意志でコントロールしなさい」ということなのです。金銭に対する姿勢に、その人間の霊性の程度が明確に示されます。
余分なお金を手にしたなら、それは人助けのために使うべきです。持たない人に分け与えるべきなのです。自分や自分の家族のためだけに、あり余るお金が与えられているわけではありません。必要以上のお金が入るのは、霊界から自分の内容が試されているのかもしれないということを忘れてはなりません。お金を自分のために使うのか、多くの人々の利益のために使うのか、スピリチュアリストとしての姿勢が問われているのです。
「一般的に言って人間は、肉体にかかわることはおろそかにしておりません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。(中略)肉体にとってなくてはならぬものと言えば、光と空気と食べ物と運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必要品となっているだけです。」
「霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最少限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。」
「『もし、あなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい』。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」
②貞節を守る生活
スピリチュアリストとして“セックス”については、どのように考えたらよいのでしょうか。結論を言えば――「スピリチュアリストは性欲をコントロールし、清らかな生活を心がけなければならない」ということです。恋愛関係にあるからといってセックスは許されるものではなく、婚前セックスもすべきではありません。婚前交渉を認めることは、性の堕落を容認することなのです。当然のこととして、夫婦以外のセックスは許されません。女性ばかりでなく、男性にも貞操が要求されるのです。
このようなことを聞くと、大半の人々は時代遅れの考えのように思うかもしれませんが、霊的な視点に立てばごく当たり前のことなのです。霊界人にとっては常識的な考えにすぎません。それを特別なことのように思うのは、現代人が霊的な常識から懸け離れているということなのです。いつの間にか大部分の日本人が、低俗な“性の乱れ”を異常とは感じられなくなっています。異常を異常と考えることができなくなっています。それほどまでに、大半の人々の「霊性は低下している」ということです。異常と正常の区別がつかないほど、日本の社会全体が腐り果ててしまっているということなのです。
かつての日本では、女性が貞節を守り、我慢することで、社会全体の堕落傾向に一定の歯止めがかけられていました。女性の忍耐によって、ぎりぎりのところで社会の秩序が保たれていました。ところが戦後、女性の権利が叫ばれ、男性との同権が認められるにつれて、それまで男性がしてきたのと同じ性の享楽を女性も求めるようになってきました。その結果、人間社会の根底が崩れ、全国民的な退廃・獣化が急速に進むことになってしまいました。本当は女性の権利の主張は、男性と同じ快楽を求めるのではなく「男性にも貞操を守ることを要求する」という形で進められなければならなかったのです。
姦通罪などと言えば、前近代的な時代の産物のように思われがちですが、スピリチュアリズムの観点からすれば、きわめて当然のことです。現在の日本にもし姦通罪が導入されたなら、多くの人々はその窮屈さに悲鳴をあげ、海外に逃げ出すようになるかもしれません。しかし「真の霊的救い」を考えたとき、そうした窮屈さが国民にもたらされるのは、むしろよいことなのです。“自由”は、堕落・退廃のために与えられるものではありません。“魂”を自発的に成長させるために、またはそのチャンスを他人によって奪われないために保証されるべきものなのです。
「肉主霊従」の状態に陥り最低の霊的コントロールさえできない人間にとっては、むしろ自由などない方が、どれだけ「霊的成長」にプラスとなるかしれません。罪を犯し一生を牢獄で送るはめになった受刑者や、病気で寝たきりになり自分自身の身体さえ思い通りに動かせない病人の方が、霊的にはずっと恵まれているのです。その意味からすれば“エイズ”をはじめとする性にまつわる病気が人類にもたらされたことは、ありがたいことと言わなければなりません。エイズや性病は、肉体本能の放縦に流されないようにするための歯止めなのです。何百年か後には、スピリチュアリズムの「霊的真理」が人類に行きわたるようになりますが、そのときには姦通罪という法律はなくても、それ以上の高いレベルの健全な性道徳が人々の常識となることでしょう。
“性欲”との闘いは、「霊主肉従」の努力の中でも厳しいものの筆頭にあげられます。特に独身男性の性欲との闘いには、並々ならぬ困難がともないます(*「性欲との闘い」についてはニューズレター10号で取り上げていますので、それをご覧ください)。今から何百年、あるいは何千年か後には「霊的真理」が地球上に広まり、地球人類にとっての生き方の指針となっているはずです。そのときには現在の物質中心主義に代わって“霊中心主義”が、人類の常識となっています。そして今の地球に見られるような醜悪な欲望追求の風潮は跡形もなくなっています。人間を取り巻く生活環境全体が清浄な雰囲気に包まれるようになり、男性の性欲との闘いは、現在よりずっと楽なものになるのです。
残念ながら、今すぐに霊的真理が地球人類全体に共通する生き方の指針となるようなことはありません。したがってこの時代のスピリチュアリストは、暗黒の環境の中で“理想の光”を目指して最大限の努力をしていくことしかできません。しかし苦労した分だけは、摂理の働きによって必ず霊的恩恵がもたらされるようになります。もっともその恵みを手にするのは地上人生の間ではなく、死後霊界に入ってからということになるかもしれませんが、スピリチュアリストはそれを希望として真理にすがり、霊界の助けを借りながら頑張らなければならないのです。
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③謙虚な道具意識を持った生活
もう一つの欲望である“名誉欲”と“支配欲(権勢欲)”についてはどうでしょうか。これらも霊的な未熟さから生じるものですが、霊界の事情が分かってみれば、そうした低俗な欲望に取り憑かれている人々は気の毒としか言いようがありません。名誉欲や支配欲を追及すればするほどその間違いは、他人からの裏切りや孤独・寂しさという形で自分の身に返ってくるのです。正しい愛のあり方からずれた思いや行為は“孤独”という苦しみ・痛みによって埋め合わせがなされ、利他愛の大切さに目覚めることができるようになります。孤独の苦しみを通じて“名誉欲・支配欲”の間違いに気がつき、見返りを一切求めない無償の愛・無私の奉仕の尊さを知った人は幸いです。
他人より上に立とう、偉くなろうとするのではなく、「他人の役に立とう」とする以外に真に人間の生きる道はありません。この世の成功者になろうとする必要性は全くありません。有名人になろうとする必要性もありません。霊界の道具としての純粋な奉仕精神を持ち、自分を忘れてひたすら他人に尽くすことだけが、私たちのなすべき道なのです。「霊界の道具」としての謙虚さこそが、本当の幸せである利他愛の喜びをもたらしてくれるようになるのです。
まとめ
金銭欲・物欲・性欲・名誉欲・支配欲(権勢欲)は、いずれも物質主義に発するエゴイズムから生じたものです。そうした本能的欲望は「神の摂理」からずれたものであるため、いつか必ず病気や孤独という苦しみ・痛みとなって自分に返ってきます。
スピリチュアリズムにたどり着いた者の生き方は、物欲に対しては「質素」、野放しのセックスに対しては「清らかさと貞節」、名誉欲・支配欲に対しては「霊界の道具としての謙虚さ」を常に心がけなければなりません。「質素」「清らかさと貞節」「霊界の道具としての謙虚さ」――これらはスピリチュアリストが守るべき徳目です。スピリチュアリズムに導かれて霊的人生を送るチャンスを真っ先に与えられた私たちが、生涯を通して実践すべき内容なのです。
「精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい。霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。」
「あなた方もまだまだ、本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを、一時的に地上的生命をたずさえた霊的存在であるとは得心しておられません。身体にかかわること、世間的なことを必要以上に重要視なさる傾向がまだあります。」