(3)霊的真理の実践が、スピリチュアリストの真偽を決定

1)スピリチュアリストとしての資格

――「霊的真理」にそった実践的生き方

霊的真理は、私たちがどのように日常生活を過ごすべきかを教えています。スピリチュアリズムで大切なことは、「実生活において何をしているか」ということです。霊的真理にそった日常生活を心がける歩みがスピリチュアリズム人生なのです。私たちが“スピリチュアリスト”として霊界から認められるかどうかは、日々の生活の中で霊的真理を実践しようとしているか否かで決まります。真理を手にしながらも知的好奇心のレベルにとどまっている人間は、本物のスピリチュアリストとは認められません。

霊界の高級霊は例外なく、行為(実践)の重要性を強調します。シルバーバーチは次のように述べています。

「大切なのは行いです。行為です。つまり各人の毎日の“生活”そのものです。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.71

「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡たかで測れるものではありません。行為によって測るべきです。」

『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)p.152

「要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は、ないよりはあるに越したことはありません。が、その人の真価は毎日をどう生きたかに尽きます。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.219

またインペレーター霊は――「我々は信条にはさしてこだわりません。それよりも我々は行為を重要視します。何を信じていたかは問いません。何を為したかを問います。(中略)言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのです。我々の説く宗教は、行為と習性の宗教であり……『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.40)と言っています。

2)口先だけ・言葉だけのスピリチュアリストにならない

――スピリチュアリストは徹底した実践主義者であるべき

スピリチュアリストは、徹底した“実践主義者”でなければなりません。実践のともなわないスピリチュアリズム人生・霊的人生は存在しません。ところがせっかくスピリチュアリズムと出会いながらも、口先だけ・言葉だけの生き方をする人がいます。自分は真理を実践していないのに、周りの人々に真理を語り愛の重要性を訴えようとするのです。霊的真理を口にする本人自身が、スピリチュアリズムから最も遠い生き方をしていることがあるのです。

霊的真理を知った者がそれを実行に移さず、ただ口先だけで真理を語ったり愛の大切さを主張することは“偽善”以外の何ものでもありません。本当は真理を知っている分だけ、自分自身に厳しい内容を課さなければならないのですが、当たり前の努力さえしようとしないのです。そして一般の人々よりもこの世的な欲望に翻弄され、利己心と傲慢さに支配されるようになってしまっています。そうした到底スピリチュアリストとは言えないような人間が、テレビやインターネットや書籍など至るところで見受けられます。真理を少しかじっただけでスピリチュアリズムが分かったと思い込んでいる軽率な人間は困りますが、真理を知りながら何も実践しない口先だけの偽善者も困ったものです。

霊的真理を知らない世間の人々から“素晴らしい人間・愛のある人間”と見られるようになるには、たいして努力は必要ありません。真理を語り、愛の重要性を繰り返し訴えればいいのです。そしてそうした者は、いつの間にか自分が立派な人間になったつもりになってしまいます。しかし“ニセモノ”を覆っていたメッキは、そのうち簡単にはがれてしまうものです。口先で立派な言葉を語るだけでそれを実践しようとしない人間は、他人を欺くばかりでなく自分自身をも欺き、霊的成長を阻害することになります。自らの魂を醜くし、真理を知らないこの世の人々よりも劣ることになってしまいます。

3)実践の努力なくして価値あるもの(霊的宝)を手にすることはできない

――スピリチュアリストは真摯な努力主義者であるべき

霊的真理を日常生活の中で実践するのは、実にたいへんなことです。多くの精神的エネルギーが必要とされます。大きな緊張を強いられ、強いストレスを受けることになります。このたいへんさゆえに、せっかく真理を手にしながらそれを実践しようとせず、口先だけ・言葉だけのスピリチュアリストにとどまってしまう人が多いのです。

霊的真理の実践は、奮闘努力なくしてはできません。それが「神の摂理」なのです。真理の実践には、常に苦しみや困難が付きまといます。「霊的成長」という人間にとって最も価値ある霊的宝を手にするためには、当然それに見合った実践の努力をしなければなりません。スピリチュアリズムの“努力主義”は、まさに神の摂理そのものなのです。スピリチュアリズム人生とは、霊的真理の実践のために必死に努力する歩みに他なりません。真理を実践するための苦しみや困難・障害との絶え間ない闘いの道なのです。スピリチュアリズム人生・霊的人生は、決して安易で気楽な歩みではありません。

多くの人々が苦労を避けて幸福になりたいと願っていますが、そうした道はありません。霊的には何の価値もないこの世の富(金銭・財産・名誉・人気・権力)を得るためであってもそれなりの努力が要りますが、“霊的富”を手にするためには、それとは比較にならない努力が必要とされるのです。苦労しないで幸福になる、辛い体験をしないで成長するというような都合のいい話は、神の造った世界には存在しません。もしそうした安易な道があり得るかのような教えを説く者がいるとするなら、それはすべて“ニセモノ”です。

「苦しみつつ実践の努力に励む者だけが本当の宝を手にすることができる」――それが神の摂理なのです。実にシンプルな法則です。スピリチュアリズムは決して、安易な生き方も安っぽい幸福論も説きません。霊的真理を実践する努力とそのための闘いの重要性を強調するのです。

「苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わなければなりません。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.57

「価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.71

「魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.52

「もしも私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることが私どもの真の目的なのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.52

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