2.『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「人間観」

はじめに

“人間”とは、いったいどのような存在なのでしょうか。宗教や思想・哲学では“人間”についての真理を探求し、さまざまな見解を示してきました。

人間は自分自身のことについて分かっていると思っていますが、実は人間の実体はこれまで明らかにされてきませんでした。確かに現代科学における肉体の研究は、ミクロのレベルにまで進んでいます。数十年前には想像もつかなかったような発見が次々となされ、人体の仕組みや機能など、細部にわたって知ることができるようになってきました。しかし人間に特有の「心(精神)とは何か?」ということになると、いろいろな意見が入り乱れているだけで、今なお共通の見解や定説は打ち立てられていません。人間は「神」を正しく理解していなかったのと同じように、自分たち“人間”のことについてもほとんど分かっていないのです。

人間についての考え方・理解の仕方を「人間観」と言います。「人間とは何か?」という問いに対する答えが「人間観」です。これまでさまざまな人間観が説かれてきましたが、いまだに万人が納得できる人間観は示されていません。シルバーバーチは、この人間観について画期的な知見をもたらしました。地球人類は『シルバーバーチの霊訓』の登場によって初めて、人間についての真実を知ることができるようになったのです。

『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした画期的な「霊的人間観」

シルバーバーチは、霊的観点に立って人間の真実を明らかにしています。従来の人間観はいずれも地上的視点・物質次元の観点から人間を説明したものですが、『シルバーバーチの霊訓』は徹底した霊的観点から人間について解き明かしました。人間を霊的視点から見るということは、これまでの人類の歴史にはなかったことです。『シルバーバーチの霊訓』によって初めて、深い霊的観点からの人間観が人類に示されることになったのです。

霊的観点に立って大局から論じる『シルバーバーチの霊訓』の人間観は、「霊的人間観」と言うことができます。従来の宗教や神秘主義思想の中にも霊的視点からの見解が見られますが、それらはどこまでも“人間”についてのほんの一部分を述べているにすぎません。シルバーバーチの人間観のように、人間全体を霊的視点から説明したものではありません。『シルバーバーチの霊訓』の登場によって地球人類は、人間自身を霊的に見ることが可能となり、人類の叡智のレベルは一気に引き上げられることになりました。

シルバーバーチの「霊的人間観」は、次の4つの内容から成り立っています。

  • 〈1〉人間の本質を「霊」とする「霊本体論」「霊的存在者論」
  • 〈2〉霊的要素と肉的要素からなる三位一体の「人間構成論」
  • 〈3〉霊的要素と肉的要素のバランスから価値や善悪を論じる「霊肉のバランス関係論」と「善悪論」
  • 〈4〉人間の心(意識)の実体を明らかにした画期的な「意識論」

以下ではこれらを一つ一つ取り上げて説明し、『シルバーバーチの霊訓』の「人間観」がいかに画期的で独自性に富んだものであるかを明らかにしていきます。

『シルバーバーチの霊訓』の「人間観」〈1〉

――人間の本質を「霊」とする「霊本体論」「霊的存在者論」

人間の本質・実体に関する問いかけ

――人間の本質は「霊」

人類は太古から「人間の本質とは何か?」「人間の実体とは何か?」という、人間に関する根源的な問いを抱き続けてきました。その問いかけについての従来の見解は、大きく2つに分かれます。1つは人間を肉体だけの存在とするもの、もう1つは人間を心と肉体という2つの要素からなる存在とするものです。

人間は肉体だけで成り立っており、人間の実体は肉体であるとする考え方が「唯物主義的人間観」です。唯物主義的人間観では「心(精神)」を“脳”という肉体器官(物質)によって生み出されるものであると考え、精神を肉体の産物と見なします。すなわち、精神(意識)を脳(肉体)から派生した物質次元のものとして位置づけるのです。しかし世の中の大半の人々は、「心(精神)」と「肉体」はそれぞれ異なるものとして考えています。肉体とは別個の心(精神)の存在を認め、心に人間独自の価値を見いだそうとします。これが多くの現代人の常識的な見方となっています。

『シルバーバーチの霊訓』は、人間を肉体だけの存在とする「唯物主義的人間観」も、人間を心(精神)と肉体からなる存在とする「二元的人間観(心と肉体の人間観)」も、ともに否定します。人間は確かに心と肉体を持っていますが、人間はそれだけの存在ではありません。人間は、「心(精神)」よりもはるかに重要な要素を持っています。それが「霊」なのです。 これまで多くの人々が常識としてきた「心と肉体の人間観」には、最も重要な「霊」という要素がすっぽりと抜け落ちています。

シルバーバーチは人間を、「霊」と「心(精神)」と「身体」からなる“三位一体的存在”とします。「霊」と「心(精神)」と「身体」の3つが一体となって人間を構成していると説いています。この3つの構成要素の中で最も中心となるのが「霊」なのです。シルバーバーチからすれば従来の人間観はいずれも、人間を地上的視点から見た片手落ちの人間観ということになります。物質的な外形(肉体)だけを手がかりとした表面的で皮相的な見方にすぎず、人間の本質・実体に対する認識が欠落した人間観ということです。

シルバーバーチは、人間は「心(精神)」と「肉体」だけからなる存在ではなく、それらの内奥に「霊」があることを明らかにしています。そしてその「霊」こそが人間の本質であり、実体であると言うのです。人間の本質である「霊」を最も重要視した人間観が、シルバーバーチの「霊的人間観」です。人間の本質(実体)は「心(精神)」でも「肉体」でもなく、「霊」であるとするのがシルバーバーチが説く「霊本体論」なのです。

人間は「霊的存在」

一般の人々の中にも「霊」の存在を認める人がいますが、彼らの多くは「霊」を肉体の付属物として位置づけています。肉体をメインにして“Body with Spirit(霊を携えた肉体)”と考えています。

しかしシルバーバーチの「霊本体論」では、それとは正反対に肉体(Body)を霊(Spirit)の付属物とします。「霊」をメインにして“Spirit with Body(肉体を携えた霊)”と考え、これまでの常識を逆転させています。シルバーバーチはどこまでも、「霊」を中心として人間を見ているのです。「人間は肉体だけの存在ではなく、心と肉体からなる存在でもなく、霊を中心とする霊的存在である」と断言しています。「人間とは霊的存在である」――これがシルバーバーチが説く“人間の定義”であり、シルバーバーチの「人間観」の最も重要なポイントです。

「霊」とは何か

――「霊」とは、人間の内奥に存在する“大霊の分霊”“ミニチュアの神”

シルバーバーチは、人間とは「霊的存在」であると定義し、人間の本質・実体は「霊」であると明言します。さらにシルバーバーチは、この「霊」について具体的に説明しています。スピリチュアリズムの中で、あるいは宗教や神秘主義思想や心霊学の中で漠然と「霊」と呼ばれてきたものの正体を明瞭に定義しています。

『シルバーバーチの霊訓』では、人間には大霊(神)から付与された「分霊」が内在していると説き、それこそが人間の「霊」の正体であると述べています。大霊(神)が人間を創造する際に自らを分化させ、その「分霊」を与えることによって人間が誕生することになったと教えています。「分霊」は「大霊(神)」と同じ要素からできているため、シルバーバーチはこれを“ミニチュアの神”と呼んでいます。私たち人間の内奥に存在している大霊の「分霊」――それが人間の一番の本質・実体であると言うのです。これがシルバーバーチが示した「霊本体論」「霊的存在者論」のポイントです。

永遠の個別性の維持と霊的進化

――人間に与えられた“永遠的宿命”

いったん神から分化し独立した存在となった人間の「霊(分霊)」は、永遠に個別性を持つことになります。人間の「霊」は消滅することなくいつまでも存在し、永遠に霊的進化の道を歩み続けます。人間は、未来永劫、霊的進化の道をたどっていく宿命にあるのです。古代インド思想や神智学では、人間は進化の果てに神と融合・一体化して個性を失うと説いていますが、そういうことにはなりません。人間の「霊」は、終わりのない進化のプロセスの中で少しずつ神に近づいていくのです。これが「霊的存在」としての人間の宿命です。以上が『シルバーバーチの霊訓』によって初めて明らかにされた「人間観」のポイントです。

「大霊」によって「霊的存在」として創造された私たち人間にとって、最も重要な部分は内在する「霊(分霊)」です。人間は“大霊の分霊”“ミニチュアの神”を、その内奥に宿しています。そしてこの「霊(分霊)」は永遠の個別性を維持し、果てしない霊的進化の道を歩みながら、一歩一歩「大霊(神)」に近づいていくことになるのです。

生命界の中での人間の特殊性

――人間と動物の根本的な違い

地球上には200万種以上もの生命体未知の生命体を含めると、その数は何千万種にものぼるとされる)が存在すると言われています。生命体は、神が物質体に“生命素”を与えることによって地上に誕生します。生命体は誕生後、成長・繁殖・老化・死というプロセスを経て一生を終え、死とともに消滅することになります。人間も生命体の一つとして、また動物の一種として同じような生命活動を行い、子孫を残し、死を迎えて地上人生を終えることになります。誕生・成長・繁殖・老化・死という歩みは、他の生命体と共通しています。

ところが人間には、他の生命体や動物とは根本的に異なる点があります。それは死後、肉体が滅んだ後も永遠に存在するということです。200万種以上もの生命体の中で、人間だけが死後も個別性を維持するのです。この点で人間は、他の生命体や動物とは決定的に違う、きわめて特殊な存在と言えます。

人間は「霊的存在」として死後も永遠に個別性を維持し、どこまでも霊的成長の道をたどるようになっていますが、それができるのは、神が人間に「分霊(ミニチュアの神)」を付与し、それを人間の本体としたからです。これが人間が「霊的存在」であることの本質的な意味であり、神がこうした特殊性を与えたために、人間だけが200万種以上もの生命体の中で唯一の特別な存在となっているのです。

考えてみれば、無数の生命体の中で人間だけが死後も個別性を維持し、永遠に存在するということは、奇跡以外の何ものでもありません。人間がなぜこれほど特殊な状況に置かれているのかについては不思議としか言えません。それは「神がそのように意図して人間を創造した」と言う以外、説明のしようがないのです。

古来、人間と動物の違いについて多くの議論がなされ、人間だけが高度な知性や複雑な言語を持っていることが指摘されてきました。そうした指摘は確かにその通りですが、では「いったい何が人間と動物との間に、これほど大きな違いを発生させることになったのか?」ということについては、いまだに分かっていません。今なお謎のままなのです。

『シルバーバーチの霊訓』をはじめとするスピリチュアリズムの霊界通信は、その重大な答えを人類に示しています。人間と動物との大きな違いは、人間だけが霊的構成要素を所有しているところから発生しているということです。人間は物質からできている「肉体」以外に、霊的構成要素である「霊体」を持っています。また、その「霊体」の中には意識作用を行う“心”に相当する部分があります。これが「霊の心」であり、宗教において“魂”と呼ばれてきたものです。そしてその「霊の心(魂)」の最も高次の部分に、人間の本体である「霊(神の分霊・ミニチュアの神)」が存在します。人間は、「霊」と「霊の心(魂)」と「霊体」という霊的構成要素を持っているのです。

動物や他の生命体には、人間が有するこうした霊的構成要素はありません。人間の高次の意識作用・精神活動・知的活動は、すべて「霊の心(魂)」で行われています。チンパンジーは、肉体としては人間に一番近い位置にありますが、人間のような「霊」も「霊の心」も「霊体」もありません。したがってチンパンジーは高度な精神活動はできず、高次の言語能力を持つこともできません。また「霊体」がないため、肉体が失われると同時に存在自体が消滅することになります。現在、チンパンジーの言語能力を高めるための研究がさかんに行われていますが、霊的構成要素(特に「霊の心」)を持たないチンパンジーにいくら過酷な訓練を課しても、人間の高度な能力に近づくことはできません。

人間だけが死後も永遠に生き続け、他の動物とは比べものにならない高度な知性を持ち、高次元の意識活動・知的活動が可能になっているのです。それはすべて、人間が「霊(神の分霊)」を本体として創造され、霊的構成要素を有しているからです。神によって「霊的存在」として創造されているがゆえに、人間と動物との間には決定的な違いが生じることになったのです。

「霊本体論」が示す、神を共通の親とする“霊的一大家族”

こうした「霊」を人間の本質・実体とする「霊本体論」は、すべての人間が大霊(神)から生まれた「大霊(神)の子供」であり、大霊と“親子関係”にあるということを意味しています。そして大霊によって等しく「分霊」を授けられた全人類は、同じ大霊の子供であり、霊の絆によって結ばれた「霊的兄弟(姉妹)」であるということです。神が創造した世界は、神を共通の親とし、“霊的絆”で結ばれた子供たち(全人類)によって構成される“霊的一大家族”なのです。

地上の人間は霊的視野が閉ざされ、人間に内在している「霊的要素(霊・霊の心・霊体)」を認識できないため、とかく外見(肉体)だけで相手を判断します。物質的視点しか持てない地上人は、肌の色や言語、身分や学歴、肉体の能力や美醜といった物質次元のものを基準にして考えます。霊的視点に立って他人を見ることができないため、表面上のわずかな違いだけにとらわれ、本質的な共通性に目を向けることができません。神によって永遠の生命を与えられた人間に共通する霊的要素を、全く認めることができなくなっているのです。神を信じ、熱心に祈りを捧げる人であっても、すべての地上人が「神の分霊」を有し、自分と同じ「神の子供」であるという意識は失われてしまっています。

現在の地球上の民族差別・人種差別・身分差別は、すべて「霊的意識(霊的人間観)」の欠如から生じています。地上人は最も肝心な霊的なものに対する認識を持てないため、物質的な視点からしか他人を見ることができません。すなわち「霊的無知」ゆえに、物質的・肉体的人間観に支配されているのです。地球上のあらゆる悲劇は「霊的無知」から発生しています。

「霊本体論」における霊的絆と、従来の血縁信仰の間違い

これまで地球人類は、霊性の低さから人間を物質次元からしか見ることができませんでした。そのため、物質的・肉体的人間観しか持てなかったのです。しかし今述べたように、人間は神から付与された「分霊」を有しているため、全人類は神と愛で結ばれた“親子関係”にあります。それゆえ地球上のすべての人間は、民族や人種や国家の違い、言語や習慣の違いに関わりなく、“霊的絆”で結ばれた「霊的兄弟(姉妹)」と言えるのです。この霊的絆が、人間同士を結ぶ最も高次の絆です。全人類が霊的絆で結ばれているという「霊的絆論」は、「霊本体論」を人間関係に展開したものに他なりません。

霊的視野が閉ざされた人類は、人間関係において常に物質的・肉体的な結びつきを優先してきました。その最たるものが“肉的絆”――すなわち血縁的絆を重要視する「血縁信仰・血統信仰」です。血縁信仰・血統信仰は、霊的絆よりも物質的・肉的絆を優先する間違った信仰です。それは、摂理に反する利己的な人間関係と人間社会を形成することになります。

こうした肉的絆を優先する間違った信仰が、地球上の各地で延々と行われてきました。血縁信仰・血統信仰は、特に東アジア地域で「先祖崇拝信仰」という形となって脈々と引き継がれ、社会の隅々にまで浸透し、人々の考え方と生き方を支配してきました。血縁信仰では、先祖からの血筋(血統)が途絶えないことが最も重要なこととされます。先祖から子孫に至る血筋(血統)が消滅することは、人間にとって最大の不幸とされてきました。先祖の血筋が絶えることによって、先祖は救われなくなると考えるのです。儒教文化圏と言われる東アジアや華僑社会では、今日でも血縁(血統)に最大の価値をおく血縁信仰が行われています。

血縁信仰・血統信仰は、霊的真理から見ると明らかに間違っています。「神の摂理」に反する間違った信仰です。血縁信仰・血統信仰は、「霊本体論」の“霊的絆”とは正反対の“物質的絆・肉的絆”を中心とした人間関係をつくり出します。神を中心とした「霊的同胞世界」ではなく、肉体のつながりを重視し血族を土台とした偏狭な人間社会を形成していきます。自分と同じ血縁関係にある人間との絆を大切にし、血族・家族の繁栄を最優先して求め、それを幸福とする間違った考え方・生き方を生み出すのです。

スピリチュアリズムは、「霊的無知」ゆえにこれまで延々と行われてきた血縁信仰・血統信仰を根本から打ち崩していくことになります。

血縁信仰・血統信仰が間違いであることは、地上での血縁関係・家族関係の大半が死後の世界では一切通用しなくなり、バラバラになってしまうという事実からも明らかです。地上でどんなに血縁関係を重要視していても、“霊的絆(真実の霊的つながり)”がなければ、その人間関係は死後には消滅してしまうことになります。

儒教では、血縁者の死体を土葬にして大切に扱います。子孫があの世にいる先祖の霊魂(鬼神)を呼び、地上に残された肉体(骨)に憑依させることによって先祖が救われると考えてきました。しかし儒教で行ってきたこうした儀式や死生観は、「霊的事実」に照らしてみると何の根拠もない間違ったものです。地上の子孫が呼び寄せたと思っていたのは、実際には先祖の霊魂ではなく、自分たちとは関わりのない“地縛霊・邪悪霊”の類だったのです。

『シルバーバーチの霊訓』の「人間観」〈2〉

――霊的要素と肉的要素からなる三位一体の「人間構成論」

人間は霊・精神・身体からなる「三位一体」の存在

シルバーバーチは「人間とは霊的存在である」という人間観を、人間の身体の構成という点からも詳細に説明しています。霊的要素を優先する「身体構成論」「人間構成論」を明示し、「人間は三位一体の存在である」と述べています。人間は「霊」と「心(精神)」と「身体」という3つの構成要素からなる一体的存在であると言うのです。

以下では「三位一体的人間構成論」を詳しく説明していきますこの「三位一体論」での「心(精神)」は「霊の心」と「肉体本能」という2種類の心に、また「身体」は「霊体」と「肉体」という2種類の身体に細分化されます。この観点からすれば「五位一体」ということになります)

人間の霊的構成要素

人間はその本体(実体)である「霊(分霊)」以外にも、別の霊的構成要素を持っています。シルバーバーチは、人間の本体である「霊(分霊)」を取り巻くようにして「霊の心」が存在し、さらに「霊の心」を取り巻くようにして「霊的身体(霊体)」が存在しているという事実を明らかにしています。人間は、こうした「霊」と「霊の心」と「霊体」という3つの霊的構成要素を持っているのです。

「霊体」は「霊」の進化にともなって状態が変化し、遠い将来には身体の形体が消滅するようになります。身体の表現形式が形体から色彩に変わっていきます。外形が失われ、色彩によって個別性が示されるようになるのです。

人間のトータルな構成

こうした「霊体」に重複するようにして「物質的な身体(肉体)」が存在しています。「霊体」と「肉体」は同じ形をしており、しかも同一場に位置しています。それぞれの身体は波動が異なるため、同じ場所に存在できるようになっているのです。人間の霊的構成要素は「霊(分霊)」と「霊の心」と「霊体」であることを述べましたが、さらに霊体を取り巻くようにして「肉体」が存在しているということです。

これらの構成要素の中で「霊」だけが永遠に不変であり、その他の要素は変化したり一定の時を経て消滅したりします。一番外側の「肉体」は、一般的に言われる“死”によって分解し土に返ります。また「霊体」に「霊の心」があるように、「肉体」にも“心”のようなものが存在します。それが「肉体本能」です。以上のように、人間は3つの“霊的構成要素”と2つの“肉的構成要素”から成り立っています。

このように『シルバーバーチの霊訓』は、人間の構成要素について明らかにし、そのトータルな仕組みを人類に示しました。これまでは肉的要素を中心として人間の仕組みが説かれてきましたが、シルバーバーチは初めて、霊的要素を中心とする「人間構成論」を打ち出したのです。それによって私たち地上人は、人間がどのようにして成り立っているのかを理解することができるようになりました。『シルバーバーチの霊訓』を通して地球人類は、人間の構成についての真実を知ることができるようになったのです。これはまさに、人類にとって画期的な出来事と言えます。

次の図は、『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした地上人を構成する仕組みを示したものです。

人間の霊的構成要素と肉体的構成要素

これを地上人サイドの視点、すなわち地上人(霊能者)に見える状態として示すと次の図のようになります。肉眼に映る「肉体」に重複して「霊的身体(霊体)」が存在しています。そしてそれらの身体からは“オーラ”が放射されています。オーラとは人間から放射されるエネルギーのことで、“肉体オーラ”と“霊体オーラ”と“霊の心のオーラ”があります。

3つのオーラは同一場所に存在しているため、地上サイドからは区別がつきにくいのですが、それぞれ全く異なるものです。「霊の心」から放射されるオーラは最も次元の高いもので、そこにはその人間の意識や過去の記憶などの情報がすべて含まれています。霊界人はこのオーラから本人に関する情報を読み取ることができるため、地上人の心の隅々まで知り尽くしています。霊能者であっても“霊の心のオーラ”を見ることはできません。地上人が認識できるのは、せいぜい“霊体オーラ”までです。

オーラを包むようにして「霊(分霊)」が存在していますが、実際には誰も「霊」自体を見ることはできません。「霊」は、その表現器官である「霊の心」のオーラによってその内容が知られるようになっているだけです。純粋な霊的要素である「霊」と「霊の心」は物質的な広がりを持たないため、本来は図示することは不可能ですが、ここでは便宜上“オーラ”を包むような形で「霊」を図示しています。

人間の構成図(霊・オーラ・霊体・肉体)

1つの霊体のグラデーション的変化

――「複数霊体説」の間違い

さて、『シルバーバーチの霊訓』が「人間構成論」で明らかにしたものの中には、もう1つの重要な内容が含まれています。それは“霊体の数”についての見解です。地上の人間には、「肉体」だけでなく肉体に重複するようにして不可視の「霊的身体」が備わっています。古代インド思想や近代の神智学・人智学などの神秘主義思想では、霊的身体は複数あるとし、それぞれの霊的身体を異なる名称で呼んできました。そして人間は死後、霊的成長にともなって霊的身体を一つ一つ脱ぎ捨て、より高次の霊的世界に相応しい霊的身体で生活するようになると説いてきました。こうした複数の霊的身体説は、これまである意味で常識とされてきました。神智学が唱える「複数霊体説」に多くのスピリチュアリストが洗脳され、それを正しいと信じてきたのです。

しかしシルバーバーチは、そうした半ば常識となっていた「複数霊体説」を根底から否定しました。シルバーバーチは、人間の「霊体」は1つであり、それが霊性の向上(霊的成長)にともなって精妙化するようになることを明らかにしました。すなわち、「人間の霊性レベルに応じて1つの霊体がグラデーション的に変化していく」「霊体は無限に変化していく」という画期的な事実を明らかにしたのです。こうして「複数霊体説」は否定されることになりました。

『シルバーバーチの霊訓』の「人間観」〈3〉

――霊的要素と肉的要素のバランスから価値や善悪を論じる「霊肉のバランス関係論」と「善悪論」

従来の宗教における「霊肉の問題」

一般的に宗教では、人間は単なる物質だけで成り立っている“肉の塊”ではないと考え、物質(肉体)に対比するものとして「霊」や「精神」を想定してきました。そしてほとんどの場合、「霊」と「肉」を対立的に考えてきました。キリスト教ではさらに「霊」を“善”、「肉」を“悪”として捉え、「霊肉の対立」を「善悪の対立」と見なしてきました。悪魔(サタン)が人間の肉体に働きかけて「霊」に反する悪しき思いを生じさせる、と説いてきたのです。これがキリスト教における「霊肉の問題」です。

キリスト教では、人間の始祖が神の定めた掟に違反したところから“原罪”が発生し、それが人類全体に及ぶようになったとします。そうした人類に共通する“罪”の延長上で「霊肉の問題」を考えるのです。こうして「霊肉の問題」は、「善悪の問題」と「罪の問題」に結びつけて論じられるようになりました。

人間は皆“罪人”であるため肉体の誘惑にさらされる、とするキリスト教では、人間の内部で起こる「霊肉の闘い」を常に強調してきました。「霊肉の闘い」を内面における「霊」の主導権を確保するための闘いと見なし、肉体とその欲望を罪悪視するあまり、時には肉体を憎悪するところまでエスカレートすることもありました。「罪との闘い」は、キリスト教における重要な信仰努力の一つとなっています。「霊と肉の闘い」は「善と悪の闘い」であり、それは「神とサタンの闘い」でもあるという構図のもとで、キリスト教徒はひたすら努力をしてきたのです。

しかし結論を言えば、キリスト教の考え方はすべて間違っており、空論にすぎません。彼らは自らつくり出した間違った善悪観・罪観の中で、自分自身を苦しめ痛めつけてきたのです。

シルバーバーチが明らかにした「霊肉の問題」の真相

こうした「霊肉の問題」「善悪の問題」「罪の問題」に対してスピリチュアリズムの霊界通信は、これまでの説とは異なる回答を示しました。キリスト教で教えてきた悪の中心的存在である“サタン”も、それから生じたとされる“悪の一大勢力”も否定します。霊界には、地上人が永い間信じてきた“サタン”は存在しません。当然、サタンによって発生したとされる“原罪”もありません。スピリチュアリズムのすべての霊界通信は、これまで地上の宗教において説かれてきた「善悪観」や「罪観」を否定します。とは言っても、スピリチュアリズムは「霊肉の問題」――すなわち「霊と肉の対立」「内面の葛藤」それ自体を否定しているわけではありません。

『シルバーバーチの霊訓』は、従来「罪の問題」とされてきた「霊肉の問題」に関して、これまでにはない観点(摂理の観点)から画期的な見解を示しています。「霊肉の問題」の真相を明らかにしています。シルバーバーチは、人間の内部(心)における葛藤を「罪の問題」や「善悪の問題」としてではなく、「霊的意識」と「肉体本能的意識」の対立と見なします。シルバーバーチは「霊的存在」である人間を大局から見て、「霊が主人で肉は僕」「霊が王様で肉は家来」と述べ、霊肉の上下関係を明瞭にしています。そして「霊が優位の状態を保ってこそ、人間は霊的存在となれる」と断言します。「心が霊優位の状態であって初めて、霊的存在としての最低条件が満たされる」と言うのです。

シルバーバーチは先に示した人間の構成論に基づいて、「霊肉の闘い」の実態を明らかにしています。「霊肉の闘い」とは――「霊的意識(霊の心の志向)」と「肉的意識(肉体本能の志向)」との対立・葛藤のことです。それは「霊的要素(霊・霊の心・霊体)」と「肉的要素(肉体本能・肉体)」との対立・葛藤であり、「霊体」と「肉体」の対立・葛藤なのです。「霊肉の闘い」は、本人にとっては辛く厳しいものですが、それはすべて霊的成長に不可欠な体験であり、神が与えた訓練なのです。キリスト教で言われてきたような、サタンが人間を神から引き離すために誘惑しているということではありません。

シルバーバーチが明らかにした「霊肉の闘い」の意義

地上の人間は肉体を持っているため、すぐに肉体が心の主導権を握ってしまいます。シルバーバーチは、地上人の心が「肉体本能」に傾いてしまうのは(肉体本能に支配されてしまうのは)、罪があるからではなく、親である神が子供である人間の“魂”を鍛えるために与えた試練であると説いています。肉体という物質の道具に包まれた状態で心を霊優位に保つためには、たいへんな努力が必要とされます。「霊肉の闘い」という試練を乗り越えるための努力は地上世界ならではのものであり、肉体を脱いで霊界に行けば一切不要となります。

人間は、重い肉体を持って地上世界で生活するという厳しい体験の中で「霊的成長」を達成するようになっています。肉体という物質に包まれているため「霊」と「肉」の葛藤が生じ、絶え間ない内面の闘いが続くことになりますが、その努力を通して霊的成長が促されるようになるのです。

永遠的な観点から見ると、「霊的成長」は人間にとっての最高の宝であり、これに優るものはありません。人間は霊的成長という“霊的宝”を得るために地上に生まれてきました。「肉体」という重い道具をまとって歩む地上人生は実に厳しいものですが、そこに人間を天使とは異なる存在として誕生させた神の意図があります。子供である人間の幸せを願う神の愛があるのです。シルバーバーチは、これまで人類が嫌ってきた「霊肉の闘い」を、霊的成長のために必要なもの・ありがたいものとしています。

「霊的存在」である人間は、地上という物質世界にあっても「霊」を中心として生きていかなければなりません。「霊」を優位にして「肉体」を従わせるとき――すなわち「霊」が肉体をコントロール(霊的コントロール)しているときは「神の摂理」と一致し、霊的成長が促されるようになります。それとは反対に「肉」が力を持ち、「霊」が押し込められて本来の働きができなくなっているときは「神の摂理」から外れ、霊的成長をなすことはできません。

『シルバーバーチの霊訓』は、従来の宗教における“善と悪の概念”を霊的事実に基づいて否定します。シルバーバーチの思想は、霊的成長に最高の価値をおく「霊的成長至上主義」です。シルバーバーチとキリスト教では、同じ“善悪”という言葉を用いていても中身は全く違っています。シルバーバーチは霊的成長を促すものを“善”と呼び、霊的成長を妨げるものを“悪”と呼びます。シルバーバーチが説く“悪”とは、キリスト教で説いてきたようなサタンによるものではなく、自らの未熟さが招く結果のことなのです。つまり“悪”とは霊的未熟性のことであり、悪なる勢力という外部からの働きかけによって発生するものではありません。霊的未熟性という“悪”は、霊的成長とともに“善”に変わっていくことになります。“罪”とは霊的未熟性から生じるものであり、霊的成長に反する行為のことなのです。

以上のように『シルバーバーチの霊訓』は、「霊肉の問題」「善悪の問題」「罪の問題」に対して、これまでにない画期的な見解をもたらしました。この点においても『シルバーバーチの霊訓』は、まさに革命的な宗教思想と言えます。

『シルバーバーチの霊訓』の「人間観」〈4〉

――人間の心(意識)の実体を明らかにした画期的な「意識論」

『シルバーバーチの霊訓』の人間観の画期性は、「意識論」にもはっきりと示されています。これまで多くの研究者が、人間の心(精神)や意識についての真相を明らかにしようと考え、さまざまな見解を示してきました。しかし現代においても、誰もが納得するような意識論は確立されていません。科学にとっても、宗教や思想にとっても、人間の心(精神)や意識の問題は依然として謎のままなのです。

心理学や脳科学といった分野において科学的な研究が進められるようになったものの、それらはどこまでも物質(肉体・脳)サイドからのアプローチにすぎず、心や意識の本質に迫ることはできません。そもそも、いまだに“心の定義”が明確にされていないのです。「心とは何か?」が明らかにされていないところで、心や意識について解釈しようとしても不可能です。

一方、宗教や思想では、心や意識を形而上学的な観点からさまざまに論じてきました。しかし、それらはいずれも単なる観念的・思弁的な営みにとどまり、心や意識の真実を明らかにすることはできませんでした。

科学者も宗教家も思想家も、目に見えない心や意識について、事実をもとに論じることは不可能であると考えていますが、それは間違っています。スピリチュアリズムでは「霊的事実」に基づいて、人間の心や意識についての真実を解き明かしました。地上人の肉眼で心や意識を見ることができないのは、それが物質次元ではなく霊的次元に存在しているからです。霊的次元の存在物は「霊的能力」によらなければ認識できません。それが、これまで地上人が心や意識についての真実を明らかにできなかった最大の理由です。現代の科学的な方法では、いつまでたっても心や意識の本質を解明することはできません。

地上人の心や意識を論じる際には、人間の構造を正しく知ることが大前提となります。人間には「霊体」があり、その中に「霊の心」があるという事実を受け入れなければなりません。霊界人は地上人のような“脳”がないにもかかわらず、霊界で高度な思考活動をしています。この事実は“脳”だけが思考を可能にする器官ではないということを示しています。「霊的次元(霊体)に思考活動をする器官・精神活動をする器官がある」ということです。それが「霊の心」です。地上人は「霊体」と「肉体」という2種類の身体から構成されていますが、「霊体」と「肉体」のそれぞれに思考活動をする“心”のような器官があるのです。スピリチュアリズムは、人間の意識(心)は“脳”だけから発するものではないことを明らかにしています。

『シルバーバーチの霊訓』は、こうしたスピリチュアリズムの見解を推し進め、より精緻な「意識論」を展開しています。シルバーバーチは、地上人が“心”として感じるものには2つのソースがあると言います。「霊の心」から発する霊的意識と、“脳”から発する肉体本能的意識です。地上人には、これらが渾然一体となって1つの“心(意識)”として感じられるのです。「霊の心」と「肉の心」は同一場所に重複して存在しています。そのため地上人には、2つの異なる“心(意識)”が1つのもののように認識されるのです。地上人が“心”として自覚しているのは、実は「霊の心」の内容(霊的意識)と、「肉の心(肉体本能)」の内容(肉体本能的意識)を合わせたものなのです。こうした見解はまさに、これまでの心理学や脳科学、また宗教や思想では想像もつかない画期的なものと言えます。

これを図示すると、次のようになります。

人間の意識(霊的意識と肉体本能的意識)

シルバーバーチの「意識論」は、それだけにとどまりません。地上人の心は「霊の心」の意識と「肉体本能」の意識から成り立っているという見解をさらに深め、より画期的な「意識論」を展開しています。

シルバーバーチは、地上の人間は「霊の心」から生じる霊的意識のすべてを認識することはできず、ほんの一部だけを自覚しているにすぎない、という驚くべき事実を明らかにしています。つまり地上人が自覚できる霊的意識は、本来の霊的意識のごく一部であって、大半は自覚できない状態にあると言うのです。霊的意識の大部分は潜在意識化しているということです。

地上人が自分の“心”として自覚しているのが「顕在意識」です。したがって「顕在意識」――すなわち一般的な意味で“心”とされているのは、「霊的意識」の一部と「肉体本能的意識」が合体したものということになります。これは心理学の大きなテーマである「潜在意識」と「顕在意識」の問題について、初めて明瞭に解き明かした理論です。

以上の内容を図示すると、次のようになります。

人間の意識(潜在意識と顕在意識)

『シルバーバーチの霊訓』によって明示された「意識論」は、まさに地球人類にとって革命的な叡智です。その「意識論」は、他の霊界通信では明らかにされてこなかった内容であり、画期的という言葉を超えた革命的な「意識論」と言うべきものなのです。

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