11.『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「宗教観」
特定の宗教を熱心に信仰している人に「正しい宗教とは何ですか?」と質問すると、「自分が信じている宗教が世界で一番正しい」「自分が所属する宗教の信仰こそ真実であり、神の御心に最も適っている」という答えが返ってきます。なかには「自分たちの宗教以外はすべて間違っている」と答える人もいます。彼らは自分が信じている宗教を絶対的な基準として、他の宗教の真偽や優劣を論じます。自分が信仰している宗教が最も正しくて最高であると考えるのは、熱心な信仰者に見られる共通の傾向と言えます。宗教にはこうした独断性がつきまとうため、宗教に否定的な人間から「宗教や信仰とは、しょせん洗脳による盲信に他ならない」と批判されることになります。
宗教についての見解・考え方が「宗教観」です。宗教について論じる際には、宗教の思想や信仰の内容についてさまざまな観点から検討して、宗教と信仰の正しいあり方を考察します。それだけでなく既成宗教の教義や組織の運営方法について分析し、その是非を判断することもあります。時には宗教や信仰の間違いに対して、鋭い批判を述べることもあります。
地球上では、これまで多くの「宗教観」が説かれてきましたが、今日に至っても「正しい宗教とは何か?」についての明確な答えは示されていません。人類が共通して認めることができる宗教観は、いまだに確立されていないのです。そのため現在の地上にはさまざまな宗教が存在し、それぞれが自分たちの正当性と優秀性を主張しています。
シルバーバーチは、これまで地上に存在しなかった画期的な「宗教観・信仰観」を明らかにしました。
スピリチュアリズムの「宗教観」
スピリチュアリズムは霊的視点から、地上の宗教と信仰を論じます。霊界から地上の宗教を眺め批評するといった形の「宗教観」は、これまで存在しませんでした。スピリチュアリズムでは多くの霊界通信を通して、膨大な霊的知識・霊的情報が地上に送られてきました。その中には、宗教に関する内容も含まれています。霊界人の視点から、地上の宗教についての考え方(真偽・優劣など)が示されています。そうした霊界から見た地上の宗教に対する見解が、スピリチュアリズムの「宗教観」です。
スピリチュアリズムの「宗教観」は、地上の宗教を一歩高い次元から俯瞰した見解です。宗教は元来、霊的なものを中心としており、さまざまな霊的要素から構成されています。したがって霊界を基準とすることによって、地上の宗教に対する本質的な判断が下せるようになります。霊界という高みから見下ろすことで、地上の宗教の実態とその本質がより明瞭になるのです。
スピリチュアリズムの「宗教観」とは、霊界にいる霊たちが地上の宗教を見たときの見解です。その際、地上の宗教の真偽の判断基準となるのが「霊的事実」と「霊的真理(神の摂理)」と「霊的成長」です。霊界人はこれらの3つの観点から、地上の宗教の真偽や優劣を判断します。地上の宗教を霊界人の視点から見るという「宗教観」の登場は、数千年の人類史の中で初めての出来事です。
霊界から見た地上の宗教に関する見解――すなわちスピリチュアリズムの「宗教観」のポイントは次のようになります。
- ①地上の宗教の教え(教義・ドグマ)には霊的真理の一部が含まれているが、教えの大半は地上人によってつくり出された“ニセモノ”である。その代表がキリスト教における「贖罪論」や「最後の審判説」であり、悪の勢力としての「サタン存在説」である。
- ②地上の宗教の教えの多くは霊的事実からかけ離れており、「霊的無知」の上に宗教がつくられている。
- ③霊的無知の上に築かれた地上の宗教は、「神」に対する間違った認識を人々に植えつけているため、地上人類を霊的成長へと導くことはできない。それどころか、人々を霊的成長から遠ざけることになっている。地上の宗教は「人類の霊性向上を促す」という本来の使命から見ると、明らかに失格である。
- ④地上の間違った宗教の中でキリスト教は、最も弊害の大きな宗教である。イエスの教えとは無関係な人工的教義を土台としてつくられたのが“キリスト教会”という宗教組織である。キリスト教会は絶対的な権力を獲得し、宗教的独裁によって人々を“霊的牢獄”の中に閉じ込めてきた。
- ⑤霊的観点から見ると、キリスト教の教えの多くは間違っているが、イエスが生前に説いたシンプルな教え(神の愛・利他愛の教え)は摂理に一致しており、それは人類にとって“最高の教え”と言える。
以上が、スピリチュアリズムの「宗教観」のポイントです。スピリチュアリズムは、地球人類を「霊的無知」の状態から解放して“魂”を救済し、地上世界から悲劇を駆逐しようとする霊界主導の大計画です。霊界から見ると、地上の宗教は“悲劇”を発生させる大きな原因となっていることは明らかです。スピリチュアリズムとは――「従来の間違った宗教を一掃し、霊的真理に基づく新しい宗教と信仰を地上に確立する運動」と言えます。したがってスピリチュアリズム運動は、必然的に「地上の宗教を否定する」という形で展開していくことになります。
スピリチュアリズムは、霊界から地上に霊的真理・霊的知識を伝えるために「霊界通信」という方法を採用しました。スピリチュアリズムの初期には、非常に優れた2つの霊界通信が登場しました。アラン・カルデック編の『霊の書』と、モーゼスが霊媒を務めた『霊訓』です。これらは、その内容の卓越性から“世界三大霊訓”に数えられます。『霊の書』と『霊訓』の中には、それまで明らかにされることのなかった数多くの霊的知識・霊的情報が述べられています。スピリチュアリズムの「宗教観」は、この2つの霊界通信の中に明確に示されています。
*『霊の書』も『霊訓』も、ともに高級霊が全力を傾けて演出した霊界通信ですが、それぞれの霊界通信は目的とするところが異なっています。『霊の書』は「再生」を中心軸として、それまで地上で知られることのなかった霊的知識・霊的情報・霊的思想をもたらすことを使命としていました。一方『霊訓』は、地上の最大勢力であるキリスト教との論争(質疑応答)を通して正しい宗教・正しい信仰とは何かを明らかにし、新しい霊的知識・霊的思想によって従来の宗教の間違いを地上人に明確に示すことを使命としていました。
こうした2つの霊界通信は、人類の霊性進化を促すという歴史的な使命を担っていましたが、次に述べる『シルバーバーチの霊訓』のように積極的に宗教論を展開しているわけではありません。従来の宗教の間違いを指摘するところに重点を置いて、地上の宗教を論じています。霊界の上層界では、地上の宗教について広範囲に説くことはシルバーバーチによって為されるものとの計画が立てられていたと思われます。『霊の書』も『霊訓』も地上の宗教の細部にまでは言及していません。
その後、半世紀を経て登場した『シルバーバーチの霊訓』は、地上の宗教に関するさまざまなテーマについて詳しく解き明かしました。その結果、スピリチュアリズムの「宗教観」は格段にレベルアップし、完成をみることになりました。
シルバーバーチの画期的な「宗教観」
初期の霊界通信(『霊の書』や『霊訓』など)によって、スピリチュアリズムの「宗教観」のアウトラインが示されましたが、細部については明確にされませんでした。初期の霊界通信は「宗教観」に関する部分的なテーマの論述にとどまり、宗教のあらゆるテーマをカバーするものではありませんでした。
『シルバーバーチの霊訓』の登場によって、それまでのスピリチュアリズムの「宗教観」が深められ、より詳細で具体的なものとなりました。宗教についての本質的で包括的な解説によって、スピリチュアリズムの「宗教観」の集大成がなされることになったのです。『霊の書』や『霊訓』で示された宗教観は、シルバーバーチが説いた内容と完全に一致していますが、それはどこまでも基本的な宗教観を述べたにすぎませんでした。『シルバーバーチの霊訓』は、それまで明らかにされてこなかった新しい霊的知識を示してスピリチュアリズムの「宗教観」をレベルアップし、完成させることになりました。それがシルバーバーチの「宗教観」です。
地上の宗教は、さまざまな要素から成り立っています。「信仰対象」「宗教思想(教義・ドグマ)」「教祖(創始者)」「布教(伝道)」「儀礼」などです。さらには「救い」も重要な要素と言えます。シルバーバーチは、地上の宗教を構成するこれらの内容について一つ一つ、その間違いと問題点を明らかにしています。そして同時に、霊的観点に立った正論と真実を積極的かつ具体的に示しています。そうした霊的真理に基づく見解のトータルが、シルバーバーチの「宗教観」を形成しています。
以下では、宗教を構成する内容にそって、シルバーバーチの画期的な「宗教観」を見ていきます。
シルバーバーチの「宗教観」の特色【1】
――宗教の本質と定義について
スピリチュアリズムのさまざまな霊界通信は、キリスト教に代表される地上の宗教の間違いを指摘し批判してきました。「地上の宗教は、人類の霊的成長を促し真の救いをもたらすどころか正反対のことをしてきた」と糾弾しています。『シルバーバーチの霊訓』も同じように地上の宗教の間違いを指摘し、それらを厳しく非難しています。しかし、シルバーバーチはそれだけにとどまらず「真の宗教とは何か?」「宗教とはどうあるべきか?」「宗教の本来の使命とは何か?」といった内容について積極的に解き明かしています。シルバーバーチは、それまでの霊界通信が明らかにしてこなかった宗教の本質的な問題に踏み込んで、画期的な見解(宗教観)を次々に述べています。
「宗教とはサービスです」――これが、シルバーバーチが繰り返し説いている“宗教の定義”です。シルバーバーチが言う“サービス”とは、無私無欲の利他愛の実践であり、純粋な利他的生き方・無償の奉仕のことです。
これまで宗教と言えば、教祖(創始者)・教義(ドグマ)・崇拝対象・礼拝施設(教会・シナゴーグ・モスク・寺院・神社など)・儀式・布教などがその構成要素と考えられてきました。宗教はそれらによって成立すると思われてきました。しかしシルバーバーチは――「本当の宗教とは、地上人が考えるような教義や組織を必要とするものではない。立派な建造物も儀礼も組織的布教も要らない」と断言します。シルバーバーチは「宗教とはサービスです」という一言で、これまでの宗教に関する常識を根底から覆しました。
シルバーバーチは、本当の宗教には精緻なドグマも立派な礼拝堂も不要であるとし、人間はただ「利他的な生き方」をするだけでよいのであり、それこそが“真の宗教”であると教えています。この世の人々が考えるような宗教的な要素は何もなくても、“サービス”という利他愛の実践さえあれば真に宗教的であると断言しています。
「宗教とはサービスです。これはもう何度くり返したか分からないほど、何度も申し上げています。サービスに優る宗教はありません。サービスは霊の通貨です。分け隔てなく、すべての人に、愛と慈しみの心で臨むことができれば、あなたは最高の意味において“宗教的な”人間であると言えます。最高の神性を顕現しているからです。元来はそれが全宗教の基盤であらねばならないのです。
ところが不幸にしてその基盤が厖大な神学と教条主義と人工の理屈の下に埋もれてしまいました。大霊とは何の関係もないものばかりです。そうしたガラクタをきれいに取り払ってごらんなさい。すべての宗教に共通した基本的な霊的理念が顔をのぞかせます。」
「宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。」
シルバーバーチは、宗教の本来の使命は「人々の霊的成長を促すこと」であり、それが宗教の存在意義に他ならないとします。シルバーバーチは、真の宗教は宗教組織とは無関係なものであり、宗教組織がなくても成り立つものであると主張します。利他性という「神の摂理」に一致し、「霊的成長」を促す生き方をすれば、それがそのまま本当の宗教となります。“真の宗教”には、教祖も教義も宗教組織も建造物も必要ありません。そうした人工的なものが、これまで人類の霊的成長を妨げ、神への接近を妨害してきたのです。
神が定めた「霊的成長の法則(摂理)」に忠実に従い、日常生活の中でそれを実践することこそ本来の宗教です。これまでの宗教でも神を崇拝し、神の愛を賛美してきましたが、それだけでは本当の宗教とは言えません。何よりも重要なものは「神の摂理」であり、人々の「霊的成長」です。人間にとって一番大切な「霊的成長」は、地上人生において摂理にそった生き方を心がけることによってなされるものです。その結果、人間は神に一歩ずつ近づくことができるようになるのです。それが真の意味での宗教的生き方ということです。
「私たちが関心を持つのは、日常生活をどう生きているかです。宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか? 宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。」
*下線は筆者による
シルバーバーチは“真の宗教”とは摂理にそった生き方であり、利他愛の実践(サービス)であることを明らかにしました。これまでの宗教において見られるような形式(教祖・教義・宗教組織・礼拝施設・布教など)ではないことを明言しました。シルバーバーチが述べている神の摂理とは「利他性の法則(摂理)」のことです。シルバーバーチは――「日々の生活の中で利他愛の実践を心がけるなら、一人一人の魂に成長がもたらされるようになる」と教えているのです。
真の宗教とは、神の摂理を遵守することによって人間の「霊的成長」を促す手段に他なりません。日常の利他的な歩みそのものが宗教であり、教義や組織やさまざまな儀式などは必要ありません。宗教とは、霊界で当たり前に行われている生き方のことなのです。霊界では、すべての人間が利他愛の実践(サービス)に励んでおり、利己的な生活をしている者はいません。すべての人間が利他愛の実践を通して霊的成長の道を歩んでいます。
真の宗教とは、霊界で常識となっている利他的生き方のことです。スピリチュアリズムはそれを地上世界にもたらし、地上人の生き方に革命を起こそうとしているのです。
シルバーバーチの「宗教観」の特色【2】
――正しい信仰対象について
シャカ仏教のような無神論的な宗教は別として、一般的に宗教には“信仰対象”があります。多くの宗教が神仏を信仰対象としてきました。神仏を崇拝し、神仏に祈りを捧げ、神仏の意向に忠実に従うことが信仰であると教えてきました。神仏以外にも、天使(守護神)や種々の霊的存在(妖精や人霊など)や歴史上の人物(聖人)などが信仰対象とされてきました。一神教であるキリスト教(カトリック)の中でも、マリアやキリストの弟子たちが聖人として信仰対象とされてきました。一方、アニミズムなどの原始宗教では、自然界の存在物を崇拝する信仰が行なわれてきました。日本の神道のような多神教では、伝説に登場する神々や歴史上の人物が信仰の対象とされてきました。
シルバーバーチは――人間が崇拝すべき信仰対象は、「神(大霊)」と神が造った「摂理」以外にはないと断言します。これまで地上人は、さまざまな信仰対象を崇拝してきましたが、唯一の神(大霊)以外を崇拝することは間違いであると述べているのです。神々や天使・聖人などを崇拝することは、真の宗教ではありません。当然、多神教は正しい宗教ではないということになります。同時に、神への崇拝を意図的に否定してきたシャカ仏教も、「神(大霊)を崇拝しない」という点で根本的な間違いを犯していると言えます。
人類の長い歴史の中では、キリスト教やイスラム教といった一神教同士が、血で血を洗う悲劇を引き起こしてきました。そうした惨状を目の当たりにして、多くの人々が一神教信仰を否定し、多神教や自然宗教の方がいいのではないかと考えるようになりました。確かに、これまでの一神教における醜態は目に余るものがあり、その存在価値さえ疑われてしまいます。
しかし、だからといって一神教信仰は間違っていて、多神教が正しいということではありません。これまでの一神教のあり方が間違っていただけで、「唯一の神」を信仰対象として崇拝することは間違いではありません。シルバーバーチに代表されるスピリチュアリズムは、従来の間違った一神教信仰に代わる「正しい一神教信仰」を地上に確立しようとする運動です。
ユダヤ教やキリスト教やイスラム教などの従来の一神教が正しい宗教になれなかったのは、神が造った「摂理」への理解が全くなかったからです。「摂理」に対する認識が、ごっそりと抜け落ちていたからです。「唯一の神」を信仰対象としたことは正しかったのですが、「摂理」に対する認識が欠落していたために間違った宗教になってしまったのです。「神(大霊)」と「神の摂理」という2つを同時に信仰対象としたとき、地上の宗教は正しいものになります。1つだけでは正しい宗教にはなり得ません。地上の宗教は一神教・多神教を問わず、「神の摂理」への正しい理解が持てなかったために、間違った宗教にとどまってしまいました。
シルバーバーチは、宗教における信仰対象には「神(大霊)」と「神の摂理」の2つが必要であることを初めて明確にしました。他の霊界通信でも「摂理」について言及していますが、『シルバーバーチの霊訓』ほど、その重要性を強調しているものはありません。その意味で『シルバーバーチの霊訓』は、「摂理の神」という神観を土台とする画期的な「宗教観」を示していると言えます。
「絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることもなければ裏切ることもないからです。だからこそ私たちは、大霊の摂理を説いているのです。それを“スピリチュアリズム”と呼ぼうと何と呼ぼうとかまいません。大霊の摂理があらゆる世界――目に見える物質界であろうと目に見えない霊界であろうと、そのすみずみまで支配していることを理解していただけばよいのです。」
*『シルバーバーチの教え』は、『シルバーバーチは語る』の新版として2015年11月に発行したものです。
「神の摂理」とは、神が被造世界とあらゆる被造物を支配し、維持・運行するために定めた法則です。人間も摂理の支配を受け、摂理に従うことによって霊的成長をなし、真の幸福を手にすることができるようになっています。人間にとって「摂理」とは、霊的成長をして幸福に至るための道筋以外の何ものでもありません。
その中で、特に重要なものが「利他性の摂理」です。この「利他性の摂理」を地球人類が尊重し遵守しさえすれば、人間同士が殺し合うというような“悲劇”は発生しません。従来の一神教が同じ「神」を信仰対象としながら殺し合いを続けてきたのは、「利他性の摂理」というもう一つの信仰対象への崇拝がごっそりと抜け落ちていたからです。「利他性の摂理」を守らなかったこと――すなわち利他愛を実践してこなかったことが、これまで地上世界に悲劇を発生させてきた“元凶”だったのです。地上を悲劇と不幸が蔓延する世界にしてしまったすべての原因は、「神の摂理」に対する認識が欠落し、それを遵守してこなかったところにあるのです。
地球上のあらゆる宗教に共通する根本問題は――「神の摂理に対する不遜と傲慢さ」という一言で言い尽くされます。繰り返しますが、正しい宗教とは「神」と「神の摂理」という2つの信仰対象を正しく崇拝することです。これまで地上の一神教には「神」に対する崇拝はあったものの、もう一つの「摂理」に対する崇拝(実践)が欠けていました。
シルバーバーチは人類史上初めて、宗教の信仰対象には「神(大霊)」と「神の摂理」の2つがあることを明らかにしました。そして宗教とは「利他性」という摂理の実践(サービス)であることを明確にしたのです。
「私たちが忠誠を尽くすのは、一つの教義ではなく、一冊の書物でもなく、一つの建造物でもなく、生命の大霊とその永遠なる摂理です。」
「あなた方は、私たちが説いている叡智の背後に、高級霊団の存在があることを知ってください。地上人類は叡智と理解力が増すにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に従って生きることの大切さを自覚するようになります。地上界の悲惨さや窮乏、苦難や悲嘆はすべて、大霊の摂理が守られていないところから引き起こされていることを悟るようになるのです。」
イエスは2千年前――「神を愛し、隣人を愛せよ」と教えました。これは「神と隣人愛(利他愛)を尊重せよ」ということです。“信仰対象”という点から言えば、「神と利他愛(利他性の摂理)を信仰の対象とせよ」ということを意味しています。しかし実際には、キリスト教会は利他愛という神の摂理を忠実に実践することなく、これを無視してきました。すなわち「神の摂理」を崇拝してこなかったのです。
信仰対象・崇拝対象については、もう一つ別の重要な問題があります。それは、地上の宗教にしばしば見られる“人間崇拝”という問題です。地上の宗教では、神と同時に聖人や教祖などの人間を崇拝するといったことが当たり前に行われてきました。“人間崇拝”と言えば、カトリックのマリア崇拝や聖人崇拝が真っ先に思い浮かびますが、世界中のさまざまな宗教が教団を創始した人間(教祖)を信仰対象としています。
地上の多くの宗教組織(教団)では教祖や創始者を神格化し、神と同じ権威を持つ神の代理者として特別視してきました。神の顕現として、またキリストや仏陀の再生者として、あるいは地球人類の救世主として特別な立場に祭り上げてきました。こうした宗教教団では、さまざまな理屈を並べて教祖や創始者が特別な人間であることを正当化しようとしてきたのです。そして、それが教団のドグマ(教義)となってしまいました。ある教団では、再臨のメシアである教祖が原罪を受け継いできた人類の罪を拭い去り、サタンから人間を解放する、と教えてきました。
こうした教祖を特別視する宗教教団は、現在も地球上に数多く存在しています。彼らは神への崇拝を説き、神に祈りを捧げるものの、実際には神と教祖を同一視しています。そこでは教祖を崇拝し信仰することが神への信仰とされ、それが正しい信仰であるとされています。その結果、「神の摂理」を無視することになっています。
このように地上の宗教は、手を替え品を替え、教祖崇拝という“人間信仰”を巧みにつくり上げてきました。それによって多くの人々を洗脳し、その魂を“霊的牢獄”に閉じ込めてきました。“人間崇拝”の最大の問題点は――「洗脳された人間の魂は霊的牢獄に閉じ込められ、霊的成長の道から遠ざけられてしまう」ということです。人類のために自分の人生を捧げたいという純粋な信仰心は、宗教の間違った教義によって“人間崇拝”にすり替えられてしまいます。そして宗教組織の道具となり、霊的成長が阻害されることになってしまうのです。
「これまで人類は、教えを説く人物に度を越した関心を寄せ、過大評価して途方もない地位に祭り上げ、肝心な教えそのものをなおざりにしてきました。」
「地上界では指導者たちが重んじられてきました。そして過大評価され、“神学”という厄介なものをつくり出すことになりました。その神学が、科学者や思想家、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々を困惑させることになりました。」
シルバーバーチは、スピリチュアリズム運動が霊界のイエスから出発した霊界を挙げての人類救済計画であることを明らかにしています。スピリチュアリズムは、イエスを総司令官とする高級霊を総動員しての大霊団によって推進されています。シルバーバーチはその一員として、自分の人生を捧げて働いているのです。
シルバーバーチは、年に2回開かれる霊界の大集会でイエスに会うことを心待ちにし、最高の喜びとしています。シルバーバーチだけでなくすべての霊がイエスを尊敬し、イエスの命令に従ってスピリチュアリズムのために献身的に働いています。地上人の感覚からすれば、イエスは大教団の教祖であり、大指導者のような立場にいるのです。そのため他の霊界通信の中には、ともするとイエスを崇拝しているかのような内容が見られることがあります。
しかしシルバーバーチは、決してイエスを崇拝の対象としてはならないことを強調しています。イエスを信仰対象として崇拝することに警告を発し、信仰対象は「神」と「神の摂理」以外にはないことを断言しています。
「(イエスは)今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。」
「いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。(中略)地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることもなければ裏切ることもないからです。」
シルバーバーチの「宗教観」の特色【3】
――地上の組織宗教の間違いについて
スピリチュアリズムの多くの霊界通信と同様に、シルバーバーチもキリスト教を厳しく批判しています。しかし、シルバーバーチの批判はキリスト教だけにとどまらず、地上のすべての宗教に向けてなされています。シルバーバーチは、地上のあらゆる組織宗教の偽善性と不正を糾弾しています。そして「地上の宗教はすべて失格である」という重大な結論を述べています。
シルバーバーチのこの言葉は、地上の宗教が「神の摂理」に反していることを意味しています。組織宗教における信仰のあり方は、霊的真理(摂理)に反しており、宗教本来の目的から完全に外れています。その結果、地上人を間違った方向に洗脳するだけの存在に堕ちてしまっています。こうした組織宗教に対する厳しい見解が、シルバーバーチの「宗教観」の特色の一つです。
地上の宗教が失格である第1の理由は――その「霊的無知」にあります。地上の宗教は「霊的無知」のために人工的な間違った教え(教義)を説いています。多くの宗教は、霊界から送られてくる霊感(インスピレーション)から出発しています。しかし、地上の霊能者がいかに優れた霊能力を持っていたとしても、地上人が知り得る霊的知識・霊的情報はほんのわずかなものにすぎません。ところが大半の霊能者は、自分が受け取ったインスピレーション(啓示)を真理のすべてであるかのように思い込み、勝手な見解をつくり出します。そして教団を形成して、教祖や創始者となります。そうした人間が説く教えの中にも真理の一部は含まれていますが、大部分は霊的事実からかけ離れた人間の想像物にすぎません。
このようにして地上では、およそ真実とは言えない人工的な偽りの教えのもとに宗教教団が形成されることになります。人工的な偽りの教義は、教祖が一般人とは異なる神に近い特別な人間であることや、地上人を救う特別な使命を持っていることを正当化しようとするものになっています。そして教祖と教団(組織)を特別視する教義が、人々を間違った方向に洗脳していくことになるのです。霊的真理を知らない地上の宗教は、人々に霊界の事実を示すことはできません。そのため間違った知識をいかにも本物のように見せかけ、わずかな真理しか持っていないにもかかわらず、すべての真理を手にしているかのように人々を騙します。
地上の宗教が失格である2つ目の理由は――「宗教の目的について正しく理解していない」ということです。宗教の本来の使命は、地上人に霊的覚醒をもたらし、霊的成長へと導くことです。地上人生において霊的成長をなすことができるように人々を導くことが役目であり、それが宗教によってもたらされる“救い”です。しかし、そうした宗教の目的を明確に認識しているところはありません。口では「人々を救うことが自分たちの宗教の使命である」と言うものの、“救い”とは具体的に何を意味しているのか、“救い”はどのようにして為されるものなのかが全く分かっていません。
地上の宗教は、自らが存在する目的や、人々にもたらすべき救いの内容について「霊的無知」の状態にあります。自分たちの宗教組織を拡大することだけに血まなこになり、それが信仰の目的となっています。自分たちの組織を拡大することが人類の救いにつながる、といった勝手な屁理屈を並べ、人々の信仰に対するエネルギーを宗教組織のエゴに利用しているのです。間違った教義・間違った救済観が人々の“魂”を洗脳し、霊的成長と真の救いから遠ざけることになっています。
“救い”とは本来、個人レベルの出来事であり、個人単位で達成されるものです。しかし大半の宗教は、教祖や指導者の指示に従って組織の拡大に参加することによって本人が救われ、人々も救われるようになる、と洗脳します。霊的真理・霊的知識を正しく理解すれば、魂の救いは個人単位でなされるものであり、組織とは無関係であることが明白になります。多くの宗教では、自分たちの教団に所属し、組織の拡大に貢献することによって魂の救いが達成される、と教えてきました。これはきわめて悪質な洗脳であり、霊的不正の最たるものです。「神の摂理」に根本から反する大きな罪です。
このように地上の宗教は、その目的や使命といった本質的な点において真実からかけ離れているだけでなく、「積極的に不正を行っている」という点で大きく摂理に背いています。霊界から見ると「地上の宗教はすべて失格である」というのは、こうしたことを意味しています。地上の宗教は人類に利益をもたらさないどころか、むしろ害をもたらしています。“人類の敵”と言ってもいいのが、地上の組織宗教なのです。
これまで地上の宗教は人工的な間違った教えに基づいて組織をつくり、人々を真実からかけ離れた方向に洗脳し、霊的成長を阻害してきました。真の救いと幸福から遠ざけてきました。地上の宗教の弊害は、組織の拡大にともなって増幅します。“組織エゴ”と“集団の力学”が働いて洗脳が進み、人々の“魂”はさらなる霊的牢獄の暗闇の中に閉じ込められることになります。
地上の宗教組織を霊界から見ると、“人間のエゴの凝縮体”そのものに映ります。地上の宗教は間違った教えを強制し、人々の魂を洗脳します。人間は組織に所属し、集団の一員になることで、ある意味の気楽さを持つようになります。組織の中では、リーダーの指示に忠実に従うだけでよしとされます。自分であれこれ考えて判断する必要がなくなります。一人で考えて判断するについては多大なエネルギーが要るだけでなく、大半の人間は自分の判断に自信が持てません。周りからの援助も励ましもない中で、何もかも自分の責任で物事を進めていかなければならない状況に置かれると、不安が付きまとうようになります。それに対して宗教組織という集団の中では、そうした不安がなくなります。皆と同じことをしていれば適当にやり過ごすことができ、責任を問われることもありません。
このように人間は組織(集団)の一員になることで、不安を持たずに気楽に過ごすことができるようになります。宗教組織には“集団の力学”が働くのです。多くの人々が口では“洗脳はイヤだ”と言いながら、心ではそれを求めています。一人で苦労してやるより、仲間と一緒に行動することを願っています。そうした人間の心理を利用した宗教組織は、地上人を間違った宗教に縛りつけるための悪しき手段となっています。
宗教本来の使命を知れば、これまでのような宗教組織は不要となります。不要どころか、一刻も早く地上から駆逐しなければなりません。スピリチュアリズムは、人々の「霊的成長」を促す正しい宗教を地上に確立しようとする運動です。“正しい宗教”とは、教祖も間違った人工的な教義もない宗教です。エゴ的な宗教組織も狂信じみた布教活動もありません。それは「霊的真理」を指針とし、自己責任のもとで霊的成長の道を歩むという霊的人生のことです。正しい宗教とは、「神」と「神の摂理」だけを絶対崇拝する生き方のことであり、従来のような特定の宗教組織に属して一人の人間を神格化するものではないのです。
シルバーバーチが説く“正しい宗教”とは、これまでの地上の宗教のあり方とは正反対のものです。正しい宗教は、従来の宗教が重要視してきたすべてのものを不要とします。シルバーバーチが説く宗教は、地上の宗教をあらゆる点で超越しています。それをあえて表現するなら“超宗教”ということになります。スピリチュアリズムは、こうした正しい宗教(超宗教)を目指す運動であり、その実現のためには従来の間違った宗教を駆逐する必要があります。
スピリチュアリズムは「霊的真理」をもたらし、真理の光によってこれまでの宗教組織の不正を白日のもとにさらします。地上人がスピリチュアリズムを通して霊的真理・霊的知識を得るにともない、従来の間違った宗教は自然淘汰されていきます。今まさに、そうした根本的な変革の時を迎えようとしています。スピリチュアリズムは、人類史上初めての“真の宗教革命”を推進しているのです。
「その仕事(スピリチュアリズム)の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。偽りの教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。」
シルバーバーチの「宗教観」の特色【4】
――組織宗教における布教について
地上の宗教にとっての重要な要素の一つが布教(伝道)です。自分たちの教えを広めることによって人類に救いと幸福をもたらしたいという宗教的情熱は、布教活動となって現れます。布教をしない組織宗教はありません。程度の差はあるものの、いずれの宗教も何らかの布教活動をしています。布教は組織宗教にとって不可欠な要素と言えますが、その布教活動が“宗教エゴ”をいっそう増幅させることになってきました。
スピリチュアリズムの霊界通信の中で、布教について直接言及しているものは『シルバーバーチの霊訓』以外にはありません。この点にも『シルバーバーチの霊訓』の独自性と画期性が示されています。“布教”についての見解は、シルバーバーチの「宗教観」の特色の一つと言えます。
布教活動は、宗教組織(教団)にとっての生命線です。布教活動がストップしてしまえば、組織の存続が困難になります。いずれの宗教も、教団の勢力拡大をはかるうえで布教活動は不可欠な手段であると考えています。教団には、入信する人がいる一方で脱会する人もいます。教団内では絶えず信者が入れ替わり、信者数はいつも流動的な状態にあります。そのため常に布教活動をしていないかぎり、教団の勢力を維持することはできなくなります。新しい信者を獲得し続けなければ組織の維持は困難となり、衰退するようになってしまいます。宗教教団が必死に布教活動を展開するのは、こうしたところに理由があるのです。
表向きは“人類救済のため”“人々の幸せのため”と言うのですが、教団の責任者や幹部の本音は、組織の勢力維持・勢力拡大以外にはありません。教祖や責任者・幹部は、信者数の減少に恐れを抱いています。彼らは、一般の信者に対しては自信ありげに振る舞いますが、心の中は不安でいっぱいです。“信者が減る”ということは将来の発展が望めないことであり、それを避けるために何とか信者を増やそうと焦っているのです。
大半の宗教は“自分たちの教団が一番”という思い上がりから、最初は熱心に布教を推し進めます。組織を挙げてがむしゃらな布教をすることで、一気に信者を増やします。ところが、そうした熱狂的な布教はいつまでも続くものではありません。やがてその勢いは鈍り始め、信者の数も徐々に減少するようになっていきます。幹部も信者もともに当初の熱意は冷め、組織の維持だけに汲々とするようになり、守りの態勢に入っていくことになります。そして勢力を挽回するために幹部たちは、「布教は人類のため、神の願いに応え神の意思を実現するため」と言って使命感を煽り、信者を布教に押し出そうとします。しかし、かつてのような熱狂を取り戻すことはできません。さらに新しい宗教が次々と現れ、信者を奪っていきます。そこで信者にノルマを課して強制的に布教に駆り出したり、信者間の競争意識を刺激して実績をあげさせようとします。これが多くの宗教組織に共通して見られる布教の実態です。
宗教組織(教団)では、一生懸命に布教や伝道をする人間は信仰熱心であるとして称賛されます。布教や伝道に励む人間は、より多く神の愛を受けられるようになり、徳を積むことになるとされます。そのため信者の中には人生を宗教組織のために捧げようとする人間が現れ、無我夢中で伝道に邁進するようになります。宗教におけるこうしたあり方は、間違った教義(ドグマ)による“洗脳システム”に他なりません。そこに“集団の力学”が働いて、狂信じみた布教活動が展開することになります。宗教組織は、幹部から個人に至るまで“宗教エゴ”に支配されています。そしてエゴに突き動かされて、必死に布教活動を推し進めています。
スピリチュアリズムは、世間の宗教のように外部に向けて積極的に働きかけるという布教は行いません。スピリチュアリズムは初期の時代から、自ら求めてくる人間だけを相手にし、こちらから出向いて強引に勧誘するというようなことはしませんでした。それでもスピリチュアリズムに関心を持った人々が、続々とスピリチュアリズムのもとに足を運ぶようになりました。スピリチュアリズムは初めから、他の宗教のような布教活動をする必要はありませんでした。また宗教組織がなかったため、必死になって自分たちの勢力の維持・拡大をはかる必要もなかったのです。従来の宗教は、熱心な布教活動をしないにもかかわらずスピリチュアリズムがどんどん発展していくのを見て脅威を感じました。自分たちの信者がスピリチュアリズムに惹きつけられ、やがてその中に取り込まれてしまうのではないかと恐れていました。
スピリチュアリズムは初めから、霊的知識の普及だけを目的としています。スピリチュアリズムの布教(伝道)活動とは、「霊的真理の啓蒙活動」に他なりません。スピリチュアリズムでは、霊的知識が広まればそれでよし、としています。組織を持たないため、自分たちの勢力を拡大しようという野心を抱くこともありません。これがスピリチュアリズムと世間一般の宗教との根本的な違いです。
スピリチュアリズムから見れば、宗教で広く行われている布教活動は自分たちの組織拡大のためであり、強引に自分たちの教義を押し付けようとするエゴ的行為にすぎません。布教活動にがむしゃらに突き進めば、一時的には実績があがるようになります。これが世の中の宗教の初期段階における爆発的な信者数の増加・組織拡大の実態です。しかし、そうした無理な組織拡大は時間とともに限界に達するようになり、内部からほころび始めます。ボロボロと多くの信者が離脱するようになるのです。そこで宗教の指導者たちは、信者を自分たちの組織に引き止めるために「地獄に落ちる」とか「先祖が救われない、先祖が悲しむ」と言って脅すようになります。「サタンに囚われる」とか「不幸が始まる」と言って恐怖心を煽り、信者が離れていくのを何とかしてくい止めようとします。
いずれの宗教組織も、こうした言葉を常套手段として用いてきました。その恐怖心に訴えるやり方は、布教の際にもしばしば用いられてきました。布教活動では自分たちの教義を一方的に語り、何も反論できない気弱でおとなしい人間を強引に説得して組織に取り込もうとします。性格的に弱い人間や情にもろい人間・お人好し・自己顕示欲の強い人間が、こうして組織に取り込まれていくことになります。
現代の宗教組織はしばしば、自分たちの身元を隠して“人間改造セミナー”などのダミーを装って布教をしますが、これは明らかに“人騙し”です。自分たちの立場を表に出さないということは、自ら“ニセモノ”であることを証明しています。占いやヨーガやスピリチュアル・ヒーリングを表看板にした布教も、至るところで行われています。また、多くの宗教組織がメディアや書籍を利用した布教活動を盛んに展開しています。一度に多くの信者を獲得するためには、メディアを利用した布教が効率的だと考えているのです。
以上が、従来の宗教における布教の実態です。大半の宗教が、大なり小なりここで述べたような布教活動を行っています。シルバーバーチは、こうした布教活動を根本から否定します。シルバーバーチは、地上の宗教組織それ自体を存在価値のないものとして否定していますが、同然のこととしてそこで行われている布教活動も認めてはいません。
スピリチュアリズムは、霊的真理を地上に普及させることを目的としています。それは「霊的真理を何らかの形で布教していく」ということを意味しています。スピリチュアリズムの霊的真理の普及方法――すなわち「霊的真理の布教(伝道)」の方法は、従来の宗教とは全く異なっています。シルバーバーチは、地上人には想像もつかないような布教の方法を示しています。スピリチュアリズムがとるべき正しい布教活動の姿を明らかにしています。
霊的観点から見ると、従来の宗教の布教方法は根本的に間違っています。それは「霊的無知」から出た行為であり、霊界の援助や協力を得ることはできません。そのため人間の力だけに頼った、がむしゃらな布教活動に走ることになっています。そうした「神の摂理」に反した布教方法は、結果的にさまざまな問題を発生させることになり、一時的に信者数を増やしても長続きはしません。
シルバーバーチは、人類に向けて“布教(伝道)”に関する深遠な叡智を示しています。「摂理」に適った布教方法を明らかにしています。「霊的真理」は純粋に霊的なものであるため、真理を受容するにはそれに相応しい“霊的器”が用意されなければなりません。「一定の霊性レベルに達している」ということが、霊的真理を受け入れるための条件となるのです。人間は一定の霊性レベルに達すると、自然に霊的真理に心が惹きつけられるようになります。それが真理の受け入れ体制が整った状態であり、「時期のきた人間」ということなのです。
地上人に“霊的器”が整うと、霊界の霊(主に守護霊)は背後からその人間を霊的真理のある所まで導いていくようになります。霊的真理のある場所とは、スピリチュアリズム関連の書籍やホームページや読書会など、あるいは一人のスピリチュアリストを指します。時期のきた地上人は霊界から導かれて、無意識のうちに霊的真理との出会いを果たすことになります。こうした形で、スピリチュアリズムの霊的真理は普及していきます。この一連のプロセスが、スピリチュアリズムにおける布教(伝道)です。そこには強引な勧誘も身元を隠した人騙しもありません。洗脳や恐怖心につけ込んだ強制もありません。すべてが自発的に、そして自然な形で霊的真理との出会いがなされるようになります。これが「霊的摂理」に適った布教の方法です。
一方、スピリチュアリズムではいったん「霊的真理」と出会った後は、すべて本人に任されることになります。手にした真理を活用して霊的成長の道を歩むのか、あるいは自ら真理を捨て去って霊的成長の道を閉ざすのかはすべて本人の責任であり、各自の判断に委ねられます。霊的真理を手渡すまでが、スピリチュアリストの役目なのです。スピリチュアリズムには組織がないため、布教対象(伝道相手)を組織に縛りつけるようなことはありません。スピリチュアリズムでは、すべてが自己責任によって進められ、自分で自分を救うことになります。シルバーバーチは、こうした摂理に適ったスピリチュアリズムの布教方法を初めて明らかにしたのです。
人間は、一定の霊性レベルにまで成長していないかぎり「霊的真理」を受け入れることはできません。強引に霊的真理を押しつけ、仮に一時的にそれが受け入れられたとしても本当に根付くことはなく、やがて真理は捨て去られるようになります。メディアを利用すれば一度に多くの人間に布教ができると考えるかもしれませんが、好奇心によって集まった人々の多くは時期がきていないため、結果的にすべてが無駄になってしまいます。世間一般の宗教は「霊的摂理」を知らず、人間の力に頼った布教をしています。がむしゃらに突き進み、結局は疲れ果てて絶望することになっています。自ら求めない者に真理を伝えようとしても、意味がありません。自分から求める相手であってこそ「霊的真理」は受け入れられ、定着するようになるのです。
シルバーバーチは、一定の霊性レベルに至った人間を“大人の霊”と呼んでいます。スピリチュアリズムの布教(伝道)は“大人の霊”を対象として進めるものであって“子供の霊”を対象とはしていません。“子供の霊”が地上人生において苦労を重ね霊的成長をなして“大人の霊”になったとき初めて、霊的真理を手渡す時期がきたと考えるのです。スピリチュアリズムの布教は、自ら真理を求める者だけを対象としています。こちらから相手を求めて積極的に動き回るというようなものではありません。
シルバーバーチは布教について、もう一つの重要なことを教えています。それは霊的真理は急激に普及していくものではなく、「時期のきた一人一人に真理が手渡されることによって徐々に普及していく」ということです。この世の宗教は、できるだけ多くの信者を一度に獲得しようとして、あれこれ策をめぐらします。その代表がメディアを利用したり、洗脳手段を駆使した布教方法です。しかしシルバーバーチは、そうした布教は無意味であるとし、きっぱりと否定しています。
スピリチュアリズムの「霊的真理の普及」は、すべて個人単位で進められます。それが「摂理」に適った布教(伝道)であり、多くの人々を一度に引き上げようとするやり方は「摂理」に反しています。洗脳によって変えられるのは、心の表面の一部分にすぎません。世の中の宗教が行っている大衆伝道は摂理に反しています。伝道は、一人一人の人間を相手にするものです。すべて一対一の個人単位で進められるものなのです。
スピリチュアリズムの伝道は、時期のきた地上人を霊界サイドが選んで導くことによってなされていきます。霊的準備の整った人が、霊界から導かれて真理に出会うという形で進められていきます。スピリチュアリズムは組織伝道や大衆伝道とは無縁であり、そうした無駄な布教方法はとりません。シルバーバーチは、これから地上で数百年にわたって続いていくことになる「霊的真理の伝道」に明確な指針を示したのです。
「地上世界は、サウロ(パウロ)がダマスカスへ向かう途中で体験したという目が眩むような閃光で一気に改革されるものではありません。霊的真理に目覚める人の数が増し、大霊の霊力の道具が増えるにつれて、少しずつ霊的な光明が地上界に行きわたるのです。
霊に関わることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は永続きしません。私たちの仕事は永続性を目指しています。一人また一人と大霊の道具となり、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出ることによって地上界は進歩するのです。」
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