3.『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「死生観」と「霊魂観」

「死の問題」と宗教の歴史的役割

“死”は、誰にとっても避けられない宿命です。人間をはじめとする生命体は、いつか必ず死を迎えなければなりません。私たちは、死に向かって毎日を過ごしていると言っても過言ではありません。人類にとって“死”は最大のテーマであり、太古から現代に至るまで、人間は死を恐れ、死別を悲しみ、死を先延ばしにするために懸命な努力を続けてきました。

現代人の多くは、「人間は死によって無に帰する」と考えています。宗教が説いてきたような「死後の生命」や「死後の世界」などは、子供だましの教えであると頭から決め付けています。では、こうした唯物的な考え方をする人々が自分自身の死や愛する人との死別を冷静に受けとめることができるかというと、決してそうではありません。

日頃は「神などいない」「死後の世界などあるはずはない」と強弁していた人も、死が近づくにつれて、落ち込んだり恐怖に駆られて錯乱状態に陥るようになります。時には神の名を唱えることもあります。また、愛する人が突然死んでしまうと、悲しみに打ちひしがれて生きる気力を失ってしまうようなこともあります。人間にとって死は宿命であり、誰もがいずれ死を迎えることになると分かっていても、実際に愛する人の死に直面したとき平静さを保てる人はほとんどいません。このように唯物論者にとっても“死”は恐怖であり、悲しみであることに変わりはありません。

人類の歴史を振り返ってみると、人間が存在する所には必ず宗教がありました。人間は古来、死への対処を宗教に求め、宗教にすがって死の恐怖を乗り越えようとしてきました。人間にとって宗教とは「死の問題」を解決するための手段であり、死の恐怖から逃れるための拠りどころとなるものでした。人々は「死の問題」に対する答えを宗教に求め、死の恐怖から救われたいと願ってきたのです。“死”は宗教にとって最大のテーマであり、“死”という避けられない現実があるために宗教が存在したと言えるのです。

では、人間は「死の問題」を宗教にすがって解決することができたかというと、そうとは言えません。多くの宗教では、「人間は死んでもあの世で生き続ける」「霊魂として死後も存続する」と教えてきました。しかし多くの知識を手にした現代人は、これまで宗教が説いてきたような「霊魂の存在」や「死後の世界」について信じられなくなっています。あまりにも空想じみた子供だましの教えとしか感じられなくなっています。こうしたことから現代では、宗教はかつてのように人々の心をつなぎとめることができなくなっています。

とは言え、世の中には従来の宗教の教えをそのまま信じ込んでいる純朴な人々もいます。そうした人が、自分や愛する人の死に直面したとき本当に安らかな心境を保つことができるかというと、必ずしもそうではありません。大半の宗教では、人間は死後、生前の行いについての裁きを受けると説いています。あの世は天国と地獄からなり、生前多くの罪を犯した者は地獄で罰を受けると教えています。そのため従順で信仰熱心な人は、「自分は死後、地獄に行って苦しむようなことにはならないだろうか?」と不安を募らせ、教えに従っていっそう信仰に励むようになります。そうした人々は自己満足の中で、ある程度、死への恐怖を和らげることができるかもしれません。

しかし一生懸命信仰に打ち込んでいた人も、いざ愛する人との死別に遭遇すると、悲しみのどん底に落とされることになります。愛する人が遠く離れた世界(あの世)に行ってしまい、永遠に離ればなれになってしまうと考えるからです。宗教の教えを信じている人にとっても“死”は最大の悲劇であり、悲しみであり、不幸であることに変わりはありません。

このように考えてみると、宗教を通して「死後の世界」を信じてはいても、死に対する恐怖や死別の悲しみからはそれほど解放されていないことが分かります。宗教にすがる人にとっても宗教を否定する人にとっても“死”は恐怖であり、悲しみであることは同じなのです。死が最大の悲劇であり不幸であることは、死と向き合う際の人々の様子が物語っています。

死の恐怖を解消し死についての対処を教えることは、これまでもっぱら宗教の役割とされてきました。しかし現代では、宗教にその力がないことは誰の目にも明らかです。宗教に拠りどころを求めることができない現代人は、死への対処の仕方が分からず、恐怖と悲しみに苛まれています。従来の宗教の死生観に満足できず、それに見切りをつけた一部の若者たちは、神秘主義宗教や神秘主義思想に救いの道を求めるようになっています。

スピリチュアリズムの登場と「霊魂観」の正当性の実証

近代に入って科学と唯物主義が隆盛となり、それに並行して伝統宗教は衰退していきました。多くの人々は、宗教はもはや時代遅れであると考えるようになりました。宗教は不要どころか人々に馬鹿げた迷信を強いる有害な存在であると考え、唯物主義が蔓延するようになりました。宗教を捨て去った人々の心は退廃し、物質中心主義とエゴイズムが地球上を支配するようになっていきました。

そうした時代に“スピリチュアリズム”が登場することになったのです。スピリチュアリズムは、人間にとって最大のテーマである「死の問題」を、19世紀の近代社会の中で再び表舞台に登場させることになりました。しかも従来のような“宗教”という形ではなく、現代人の理性や知性に合った“新しい思想”という形で人類に示したのです。宗教に代わってスピリチュアリズムは、現代の地上世界に新しい「死生観」をもたらすことになりました。

スピリチュアリズムは19世紀半ばに欧米から興りました。当初、スピリチュアリズムは次々と奇跡的な心霊現象を演出し、「霊」が実際に存在することを証明していきました。また「霊界通信」によって、霊界にいる「霊」が地上人にメッセージや思いを伝えることができるという事実を示しました。こうして初期スピリチュアリズムは、さまざまな心霊現象を通じて「霊魂説(霊魂観)」の正当性を明らかにしていったのです。「人間は死後も霊魂として生き続ける」「他界した人間(霊)たちが住む世界が実際に存在する」「死後の世界(霊界)に住む霊から地上世界に向けて通信を送ることができる」――こうした霊的事実を明示したのです。

スピリチュアリズムは、死後の生命の存続・死後の世界の実在を宗教における「信仰の問題」としてではなく、科学と同じ「事実の問題」として明らかにしました。心霊研究に携わった多くの科学者たちは、生々しい心霊現象を目の当たりにしてそれまでの唯物論的見解を翻し、「霊魂説」を認めるようになったのです。初期スピリチュアリズムの心霊研究による霊魂説の証明は、地球人類にとって画期的な出来事でした。

「事実の問題」として明らかにされた霊的知識は、宗教の枠・宗派の違いを超えて、また信仰の有無に関わらず、誰もが受け入れることができるものです。こうしてスピリチュアリズムによって、宗教とは異なる「死生観」が確立されることになりました。心霊現象という事実(物証)を通して、現代人の理性と知性が納得のいく形で新しい「死生観」が示されたのです。これは地球人類の歴史上、また宗教史上、まさに革命的な出来事でした。それは同時に、従来の宗教の教えを根底から覆す衝撃的な出来事でもあったのです。

これまでの宗教は、漠然と「霊魂説(霊魂観)」を述べているだけで、合理的・論理的な見解や具体的な説明はなく、霊魂の存在を説く当人が確信を持っていないこともありました。それに対してスピリチュアリズムは、心霊現象という客観的事実に基づく具体的で明確な見解を示しています。スピリチュアリズムは、物証によって「霊魂観」の正当性を証明したのです。

『シルバーバーチの霊訓』による「霊魂観」の集大成

スピリチュアリズムは、従来の宗教が漠然と述べてきた「霊魂」の実体(真相)を明らかにしました。これまで「霊魂」と呼ばれてきたものが、肉体を捨て去って霊体だけになった人間(霊界人)であることを明瞭にしました。従来の宗教は、死後の世界の事実を知らないところで曖昧なまま「人間は死後も霊魂として存在する」と言ってきましたが、スピリチュアリズムは死後の人間の様子を「霊的事実」に基づいて示し、「霊魂」が何であるのかを明確にしたのです。

スピリチュアリズムによって「霊魂」の実体(正体)が明らかになると、次に古来、広く用いられてきた「霊魂」という言葉の意味が問われることになりました。「霊」や「魂」という言葉の定義については、スピリチュアリズム内部でも長い間、共通の見解は確立されてきませんでした。「霊とは何か(霊の定義)?」「魂とは何か(魂の定義)?」「霊と魂の違いとは何か?」が明らかにされないまま、さまざまな見解が主張されてきました。高級霊界通信においても「霊魂」の意味やその解釈は、必ずしも一致していません。「霊魂」という言葉、「霊」や「魂」という言葉をどのように定義するのかが、スピリチュアリズムにおける新たな課題となりました。その課題に対して、初めて明確な答えを示したのが『シルバーバーチの霊訓』です。

シルバーバーチは、画期的な「人間構成論」を示し、人間がどのような仕組みで成り立っているのかを明らかにしました。そして新しい人間構成論に基づいて、それまでの「霊魂」をめぐる議論に決着をつけました。シルバーバーチは、人間の内奥に存在する「大霊の分霊」を人間の本体とし、それがこれまで世間一般で言われてきた「霊魂」の本質的部分であることを明確にしました。そしてその人間の本体である「霊(分霊)」を取り巻くようにして「霊の心」が存在し、そこから「霊的意識」が発生するとしています。シルバーバーチは、この「霊の心」を「魂」と呼んでいます。

他の高級霊界通信の中には、シルバーバーチとは言葉の当て方を異にしているものもあります。しかし大切なことは、どのような言葉を当てるかではなく、人間の構成に関する共通の認識を持っているかどうかです。共通の認識があれば、その事実に対してどのような言葉を用いても問題はありません。

これまでの宗教や神秘主義思想は、人間の構成に関する事実が分からない中でさまざまな用語を使用し、混乱を引き起こしてきました。『シルバーバーチの霊訓』は、人間の構成についての真実を詳細に解き明かすことによって、用語に関する混乱に終止符を打ちました。この意味において『シルバーバーチの霊訓』は、これまでの「霊魂観」の集大成と言えます。シルバーバーチが明らかにした「人間構成論」は、まさに画期的な「霊魂観」なのです。

スピリチュアリズムによる新しい「死生観」

スピリチュアリズムは、従来の宗教とは別の立場から「霊魂観」の正当性を実証しました。「心霊研究」という形で霊魂観の正しさを証明したのです。それは、これまでの宗教のように“信仰”として霊魂の存在を受け入れさせるというものではなく、“理性”によって霊魂の存在を認めさせるという画期的な出来事でした。スピリチュアリズムによる霊魂観の証明は、自動的に「新しい死生観」「死についての新しい思想」を地球人類にもたらすことになりました。従来の宗教による空想的な死生観ではなく、理性に訴える画期的な死生観が打ち出されることになったのです。

スピリチュアリズムによる新しい「死生観」のポイントは次のようなものです。「地上人は、霊体と肉体という2つの異質の身体が重複して構成されている」「死とは、肉体という1つの物質的身体を捨て去り、霊体だけになって別の世界(霊界)で生活するようになることである」「霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れる時が死の瞬間である」「人間は死によって消滅する存在ではない以上、死を恐怖と考える必要はない」「死によって愛する人と永遠に離ればなれになるということはない」――こうしたスピリチュアリズムがもたらした「死生観(死に関する思想)」は、死を恐れ、死別を悲しむ地上人の魂を救うことになりました。

スピリチュアリズムによって示された「死生観」は、これまで死に対する恐怖にとらわれてきた人々の“魂”を解放しました。人類はスピリチュアリズムの「死生観」によって初めて、死の恐怖から救われることになったのです。死は決定的な悲劇でも不幸でもないことが明らかにされたことで、死に対する人々の考え方は根本から変化していきました。スピリチュアリズムの「死生観」は、従来の宗教がなし得なかった“死の恐怖”からの救いを可能にしたのです。

スピリチュアリズムは心霊研究を通して明らかにされた「霊的事実」に基づいて、死に関する真実を人々に示しました。それによって地上人は、宗教に頼らずに「死の問題」に対処することができるようになりました。スピリチュアリズムの「死生観」は地球人類にとって、まさに死の恐怖からの救いであり福音です。人類は、霊的事実を知ることによって「死後の生命の存続」や「死後の世界の実在」に確信を持つことができるようになり、死への恐怖や不安から完全に解放されることになったのです。

スピリチュアリズムの「死生観」は、死を恐れたり死別を悲しむ必要はないことを人々に教えています。愛する人との死別を最大の悲劇と考えてきた地上人の心は、スピリチュアリズムの「死生観」によって初めて慰められることになったのです。

従来の宗教の死生観とスピリチュアリズムの死生観

『シルバーバーチの霊訓』による、さらなる画期的な「死生観」

スピリチュアリズムの「死生観」によって地球人類は、初めて死の恐怖から解放され、死別の悲しみが癒されることになりました。それは人類にとって、まさに“真実の救い”であり“最高の福音”でした。どれほど多くの人々が、スピリチュアリズムがもたらした死生観によって救われたことでしょうか。

初期スピリチュアリズムから半世紀以上を経て、地上世界に『シルバーバーチの霊訓』が登場することになりました。『シルバーバーチの霊訓』によって、地球人類の死生観にさらなる革命が引き起こされることになったのです。『シルバーバーチの霊訓』は、それまでのスピリチュアリズムの「死生観」を一段と深めることによって、完成した「死生観」を人類に示しました。スピリチュアリズムの「死生観」は、多くの地上人の心に安らぎと慰めを与え、霊的暗黒から人々の魂を救うことになりましたが、シルバーバーチはそれを霊的視点・霊的観点から説くことで、さらにレベルアップさせたのです。

スピリチュアリズムの「死生観」は、地上的観点に立って死に対する考え方や心がまえを説いてきました。地上人サイドに軸足を置いて、死への恐怖や死別の悲しみは不要であることを教えてきました。それに対してシルバーバーチは、徹底した霊的視点――すなわち霊界人の立場からこれまでにはない考え方と心がまえを地上人に説いたのです。

シルバーバーチは――「死は、恐怖や悲しみではないどころか希望であり、喜びの瞬間・祝福の時である」という驚くような説明をしています。これまでの霊界通信では一度も聞いたことがない、スピリチュアリストも耳を疑うような内容を語っています。

シルバーバーチは、次のように述べています。

「死ぬことは悲劇ではありません。今日のような地上世界に生き続けねばならないことこそ悲劇です。(中略)死ぬということは物的身体のオリの中に閉じ込められていた霊が自由を獲得することです。苦しみから解放され真の自我に目覚めることが悲劇でしょうか。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.18

「あとに残された家族にとっては(※死別は)悲劇となることはあっても、死んだ本人にとっては、少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのですから……。」

『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)p.280

「あなた方はまだ霊の世界の本当の素晴らしさを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも一瞬の間に行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことに幾らでも専念できる、お金の心配がない……こうした世界は地上には譬えるものがないのです。その楽しさは、あなた方はまだ一度も味わったことがありません。肉体に閉じ込められた者には、美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色彩、景色、樹木、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがどれほど美しいか、あなた方はご存じない。それでいてなお、死を恐れます。人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は、人間は死んで初めて生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、実際にはほとんど死んでいるのも同然です。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.210~211

シルバーバーチは他の高級霊界通信と同じように、地上人が最も恐れる“死”は、実は少しも恐ろしいものではないことを繰り返し述べています。愛する人との死別は悲劇ではないと断言しています。それどころかシルバーバーチは、「死は大いなる解放者であり、自由をもたらしてくれるありがたいものである」と強調し、「死は地上人生を歩み終えたことに対するご褒美である」とまで言っています。

このようにシルバーバーチは、死を怖がったり死別を悲しむ必要がないことを繰り返し説く一方で、次のような驚くべきことを述べています。

「もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の精妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放を喜んでいる、自由で意気揚々として、嬉しさいっぱいの蘇った霊(※霊界人)をご覧になることができるでしょう。

その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。喜んであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、今地上にいるあなた方も(中略)同じ自由、同じ喜びを味わうことができることを知ってください。」

『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社)p.37~38

さらにシルバーバーチは――「地上では赤ちゃんが生まれると喜びますが、こちらの世界では地上に誕生していく者を、泣いて見送る人(霊)が大勢いるのです。地上では誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を迎えて喜んでいるのです」と述べています。

このようにシルバーバーチは、地上世界における“死”についての常識を180度転換させました。死は、恐怖や悲劇ではなく、希望であり喜びであり、祝福すべき素晴らしい出来事であると明言しています。シルバーバーチは地上人に、これまでの死に対するイメージ・考え方を根本から変えていかなければならないことを教えているのです。

シルバーバーチは、スピリチュアリズムの「死生観」を霊的観点に立って深め、完成させることになりました。それまでの霊界通信によってもたらされたスピリチュアリズムの「死生観」を、さらに高次元のものへと引き上げました。シルバーバーチが説く「死生観」は、地球人類にとって画期的という表現を超えた、まさに“革命的な思想”と言えるものなのです。

スピリチュアリズムの死生観とシルバーバーチの死生観

『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした睡眠中の秘密

――初めて明かされた「死生観」の新しい側面

シルバーバーチが明らかにした「死生観」には、もう一つの画期的な内容があります。それは睡眠中の体験に関するもので、従来の死生観には全く見られない独自のものです。シルバーバーチは、誰もが毎晩のように「幽体離脱」をし、霊体だけになって霊界へ赴き、さまざまな体験をしているという驚くべき事実を明らかにしています。

現在では、地上人の霊体が肉体から離れて遠方に出かけたり、自分の肉体を眺め降ろしたり、霊界にいる知人や友人に会ったりする現象(幽体離脱体験・臨死体験)の存在が広く知られるようになってきました。そうした「幽体離脱体験(臨死体験)」は現代人の関心を集め、この特殊な心霊現象を体験してみたいという多くの人々が現れるようになっています。

これまで「幽体離脱体験」は、特別な人間が偶然体験する稀な心霊現象だと考えられてきました。しかしシルバーバーチは、そうした幽体離脱体験に関する一般的な見解を根底から覆しました。シルバーバーチは――「大半の地上人が毎晩のように死を体験して(臨死体験をして)霊界を訪れている」という事実を明らかにしたのです。これは、他の霊界通信ではほとんど言及されることがなかった驚くべき内容です。

覚醒時には死を恐れ、愛する人との死別を悲しんでいる人間も、睡眠中には霊界を訪れ、時には死別した人にも会っているのです。ただ残念なことに、そうした睡眠中の記憶は朝になって目が覚めると、すっかり失われてしまいます。ほとんどの人は睡眠中の霊界での体験を思い出すことができません。そして「死後の世界はない」「死ねばすべて終わりだ」と主張します。死後の世界の存在をきっぱりと否定している人間が、実は毎晩のように死後の世界を訪れているということは驚きです。

睡眠中の体験を知ることができないという事実は、地上の人間は自分自身に関する肝心な点が何も分かっていないということを示しています。また、地上人が自覚している意識は実に狭い領域に限定されており、人間が考え出した死生観がいかに他愛ないものであるかを教えています。これまで宗教が説いてきた死生観が、あまりにも次元の低いものであることを実感させられます。

『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした睡眠中の体験の事実は、スピリチュアリズムの死生観に新たな知見を付け加えることになりました。シルバーバーチは睡眠中の幽体離脱体験を詳しく取り上げることによって、これまでの死生観に新たな方向づけをすることになったのです。

“死”に関連する問題に「霊的視点」から解答を示す

現代では、自殺・死刑制度・安楽死・延命治療・脳死・臓器移植といった“死”に関連する問題が、さかんに議論されています。しかし「霊的事実」を前提としないところでの議論は、種々の見解が入り乱れるだけで決着がつかず、混乱状態に陥ってしまいます。一方、既成宗教の影響力の低下にともない、墓や葬式のあり方にも疑問が呈されるようになってきました。

スピリチュアリズムは“死”に関連するさまざまな問題を「霊的事実」に基づいて解き明かし、従来の宗教や思想とは異なる見解を示しました。スピリチュアリズムの「死生観」は、地上人の“死”に対する考え方に根本的な変革をもたらしましたが、『シルバーバーチの霊訓』はそれをさらにレベルアップさせ、「死の問題」についての画期的な見解を提示することになりました。

「死の問題」を正しく理解するためには、霊的観点に立つことが不可欠です。“死”は地上世界と霊界の境界での出来事であり、地上サイドの観点だけでは死の背景を明確に理解することはできません。自殺や死刑制度、安楽死や延命治療といった問題は、物質次元を超えた霊的視点からでなければ正しい判断は下せません。それと同時に、地上人生の目的と意義についても明確に知らなければなりません。地上人生をどのように生きるべきかという問題に確かな答えを持っていないかぎり、死の問題を解決することはできないのです。地上人生の目的や意義、生き方についての考え方を「地上人生観(人生観)」と言います。“死”に関連する諸問題は、霊的観点に立った「死生観」と「人生観」の両方があって初めて、正解が得られるものなのですシルバーバーチが教える「人生観」については、7章で取り上げます)

シルバーバーチは、霊的視点に立った「死生観」と「人生観」に基づいて“死”に関するさまざまな問題の答えを示しています。シルバーバーチは――「肉体生命は神によって与えられたものである。生命は神のものであって人間のものではない以上、人間が勝手に生命を取り扱うことはできない」「人間の寿命は、神の摂理によって生まれつき決まっている」「人間が地上に誕生するのは霊的成長のためであり、霊的成長こそが地上人生の目的である」「人間が霊的成長を促すような正しい人生を歩んだときには、肉体は“自然死”という形で終わることになる」と述べています。これらは肉体生命と地上人生に関する霊的知識のポイントです。こうした霊的知識に基づいて、シルバーバーチは“死”に関するさまざまな問題を解き明かしています。

“自殺”は、神から与えられた生命を自ら捨て去ることであり、摂理から外れた間違った行為です。生命は神のものであって人間のものではないという重大な事実を理解していない「霊的無知」からの行為です。“自殺”は、せっかくの霊的成長のチャンスを勝手に捨ててしまうことであり、死後、霊界において強い後悔の念に苛まれることになります。

“安楽死”についても、霊的観点から考えるべきです。人間が自分たちに都合がいいように生命を操作して寿命を縮めるようなことは、してはなりません。植物状態に陥った人間は、地上人の目には生きている意味がないように映るかもしれませんが、霊的次元(霊的意識)では、さまざまな体験や思考活動をしているのです。植物状態で過ごすこと自体が、しばしば本人のカルマ清算のプロセスになっています。

“死刑制度”も、霊的観点から判断しなければなりません。罪を犯した人間であっても、その生命は神から与えられたものです。神から与えられた生命を国家の権力によって奪うことは許されません。強制的に生命を奪われた人間は憎悪を募らせ、霊界からさらなる悪事を働くようになります。死刑制度には、人間の恐怖心に訴えて犯罪を抑制しようという狙いがありますが、実際には何ひとつ問題の解決にはつながっていません。死刑ではなく、無期懲役刑にすべきです。拘束され自由を奪われて生きていく中で、大半の人間は自らが犯した罪の重さに気がつくようになります。取り返しのつかない悪事を働いてしまったことを後悔し、反省し、やがて償いの思いが湧き上がってくるようになります。シルバーバーチだけでなく、高級霊たちは一様に“自殺”や“死刑制度”に反対しています。

“延命治療”の問題も、霊的事実に照らして考えることで明らかになります。人間の寿命は「神の摂理」によって生まれつきおおよそ決定しています。地上人生の期間は「霊的成長」にとっての必要性から定められています。このように人間の寿命が「神の摂理」によって決まるものである以上、人間がどれほど死期を延ばそうとしても、それは不可能です。あらゆる手段を講じたとしても、せいぜい数週間、長くても数ヶ月ほどしか延ばすことはできません。人間が永遠の霊的生命を持ち、どこまでも霊的成長の道をたどっていく存在であるという事実から考えるなら、その程度の延命はほとんど意味を持ちません。

“延命治療”は、してもしなくてもどちらでもいいといった程度の問題です。現代ではさかんに延命治療が行われていますが、それが患者に余分な苦痛を与えるという結果を招いています。単に寿命を延ばすことが大切なのではありません。生きている間に「霊的成長」をなしたかどうかが問題なのです。現代人は霊的成長という肝心なことを問題にするのではなく、肉体生命の延長という無意味なことに躍起になっています。“尊厳死”についても、同じ観点から考えるべきです。死に方が重要なのではなく、生き方が問題なのです。

最近では“臓器移植”と関連して“脳死”が問題となっていますが、“脳死”についても霊的事実に照らしてみれば答えは明白です。「霊体」と「肉体」を結ぶシルバーコードが切れる時が死の瞬間です。脳が機能を失ってもシルバーコードがつながっている間は、人間は生きています。霊的次元で思考活動をしているのです。現代医学は“脳死”を死の判定基準としていますが、それは間違いです。「霊的無知」から的外れな死の判定をし、臓器移植が行われています。霊的事実を知らない現代医学は、明らかに間違った方向に向かっています。

人間の死にともなう“葬式”についても、霊的事実に基づいて考えれば、はっきりします。これまで葬式は死別を悲しむ儀式とされてきましたが、今後は霊界に旅立つ死者を祝福するセレモニーにしなければなりません。本来、葬式はしてもしなくてもどちらでもいいことであり、それほど重要性はありません。“墓”も、造っても造らなくてもどちらでもいいのです。どのような形式で造るかも問題ではありません。葬式や墓が大切なのではなく、真理に立って身近な人間の死に向き合うことができるかどうかが問題となるのです。

以上のように、シルバーバーチは「霊的事実」に基づいて地上人が直面している“死”に関するさまざまな問題に明確な答えを示しています“死”に関する諸問題については、スピリチュアリズムの思想[Ⅰ]で詳しく取り上げています)

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