(5)摂理の神と正しい祈り

――祈りを勘違いしてきた地上の宗教

霊界には、すべての人々が信じている「唯一・共通の宗教」があります。それが“スピリチュアリズム”です。そこには、地上の宗教のような宗教組織はありません。教祖(創始者)も、教義も、儀式も、布教活動も、宗教施設もありません。霊界では「神の摂理」に一致した生き方(利他的な生き方)が、そのまま宗教になっています。日常生活における利他的な実践が宗教になっているため、地上の宗教では当たり前とされる宗教形式(教祖・教義・組織・布教)は、すべて不要なのです。このように霊界の宗教と地上の宗教は、根本的に違っています。

それは当然、「祈り」という信仰実践にもストレートに反映しています。祈りは、宗教者・信仰者にとって欠かすことができない重要な実践項目であり、代表的な信仰的行為です。そのため地上世界では“信仰者とは、祈りやお参りをする人間”と考えられています。ところが、霊界人の祈りと地上人の祈りは根本的に異なります。霊界から見ると、地上の宗教における祈りは完全に間違っています。間違っているどころか、人間の“魂”にとって有害な行為となっています。

ここではスピリチュアリズムと地上の宗教を「祈り」という観点から比較し、その違いを明らかにしていきます。

大半の地上人の祈りは“神への願い事”

地上人の「祈り」に共通しているのは、宗教・宗派を問わず、祈りが“神への願い事”になっているということです。大半の信仰者が、祈りを通して熱心に神に願い事を訴えれば、それが聞き入れられると思っています。そしてその願いが叶わないときには、祈りの時間が足りなかったか、祈りの姿勢が真剣でなかったからと考えます。

多くの地上人が、神仏への祈りを通して家族の健康や病気の回復・生活苦からの救い・災害の回避などを願います。なかには、もっと大金を手にしたいとか有名になりたいといった、世俗的なことを願い求める者もいます。皆、必死になって祈れば、あるいは数多くの神仏にすがれば、願いが叶うようになると思っています。これと同様の傾向が、世界中の宗教・宗派において見られます。

大半の地上人にとって「祈り」とは、神仏に願い事をする行為になっています。神仏に自分の願い事を聞き届けてもらうための手段になっています。人間は誰でも不幸を避け、幸福になりたいと願い、神仏にすがるようになります。そして祈りが、自分の願いを神に訴えるための手段になっているのです。このように太古より現在に至るまで、地球上の宗教の祈りは“神への願い事”になってきました。その願い事が物欲を中心としたものである場合には、ご利益信仰・お参り信仰ということになります。

多くの宗教の中には稀に、“願い事の祈り”を否定するものがあります。シャカが説いた仏教は、その代表です。シャカは、神や死後の世界を不問に付し、自らの努力で真理(法)を悟ることが真の宗教であるとしました。神に救いを求め、願い事をすることは、シャカにとっては間違ったあり方でした。

しかしシャカの死後、弟子たちによってつくられていった“大乗仏教”では、シャカが説いた悟りの宗教は変貌し、仏に救い特に死後の救い)を願う宗教に変わってしまいました。

神に“願い事の祈り”をしない霊界人

霊界では、地上の宗教のように神に願い事をする者はいません。霊界人は、大霊である神に絶えず祈りを捧げていますが、地上人にとって当たり前になっている自分の欲望を叶えるための祈りは一切していません。それはすべての霊界人が、神は「摂理」を通して人間をはじめ万物を支配していることを知っているからです。神に直接“願い事”を訴えても、決して聞き入れられないことを理解しているのです。

その人の願いが「神の摂理」に一致しているときのみ、それは摂理の働きによって自動的に実現するようになります。本人の考え方・生き方が「神の摂理」に一致していれば、その願いもおのずと摂理に一致したものとなり、わざわざ神に祈らなくても実現するようになるのです。自分の願いが摂理に一致していなければ、いくら神に祈り求めても叶いません。それが「神の摂理(真理)」なのです。そうした真理を、霊界人はよく知っているのです。

すでに述べてきたように、霊界における宗教・信仰の対象は、大霊である「神」と、神がつくった「摂理」以外にはありません。「摂理」とは、全世界を支配し維持するために神が設けた永遠不変の仕組みであり、人間の方がそれに合わせなければなりません。摂理に一致していれば調和と幸福が訪れ、摂理に一致していなければ不調和と不幸が訪れるようになります。

したがって霊界人は、神に願い求めるのではなく、自分の方から「神の摂理」に合わせようとします。摂理に一致した生き方を、自ら心がけるのです。そのため霊界には、地上のように神に自分の願い事を訴える人間は、一人もいません。

「摂理の神」が分からなかった地上の宗教

地上の宗教の最大の問題は、神について正しく知らないということです。いずれの宗教も、神が摂理を通してすべてを支配しているという宇宙の仕組みが分からないのです。「神は摂理を造り、その摂理を通して全世界・全存在を支配している」――これが「摂理の神」という神観であり、神についての重大な真理です。その真理(摂理の神)をこれまで地上の宗教は知らなかったため、宗教自体が“神に直接、願い求めれば聞き入れられる”と錯覚してきたのです。そして信者たちに、多く祈れば祈るほど神はそれを聞き届けてくれると教え、間違った祈りを強いてきたのです。

先に述べたように、摂理に一致していない願い事は決して実現しません。地上の宗教では、摂理から外れたことを神に祈り求めてきました。そのため宗教が教える祈りは、聞き届けられなかったのです。

「どうして神は自分の願いを聞いてくれないのか?」「どうして神はこんな不幸な世界を造ったのか?」「どうして神はこんな苦しみを自分に与えるのか?」「どうして神はすべての人類を平等に扱わないのか?」「どうして神は戦争を止めないのか?」――これまで多くの人間が、こうした疑問を発してきました。これらの疑問はすべて、神が摂理を通して宇宙の万物を間接的に支配しているという仕組みを全く理解していないところから生じたものです。

摂理の観点から言えば、どのようなことにも原因があります。苦しみや不幸は、何らかの「摂理違反」があったために発生しているのです。その意味で、すべてが自業自得の結果と言えます。「摂理の神」という真理を知らないために、これまで地球人類は、さまざまな悩みや疑問を抱き続けてきました。

「正しい祈り」をするための大前提

「摂理の神」という真理(正しい神観)を知れば、これまでのような間違った祈り(神への願い事)はできなくなります。まず、自分の生き方・日常の行為を振り返り、摂理に一致しているかどうか反省するようになります。「正しい祈り」は、自らを神の摂理に一致させようとする「正しい信仰」を前提としたうえで成立する霊的行為です。摂理にそった生き方を心がけているときのみ、可能となるものです。「摂理の神」という認識と、摂理に一致することを目指す「自己努力(自力救済の努力)」が、正しい祈りをするための大前提となるのです。

地上の宗教者の中に正しい祈りをしている人がほとんどいないのは、こうしたことを知らないからです。地球人類は今、スピリチュアリズムを通して初めて、正しい祈りとはいかなるものであるかを知ることができるようになったのです。

「間違った祈り」は魂を貶め、霊的成長を妨げる

祈りは信仰実践の最たるものですが、今述べてきたような理由から、地上の宗教における祈りはことごとく間違っていました。すべて無駄な行為に終わっていました。自分の願いを何としても聞き届けてもらおうとすればするほど、内面のエゴ性・自己中心性が強くなっていきます。そして結果的に、本人の魂を貶め、霊的成長を妨げることになります。本来は人間を神に近づけるための祈りが、反対に人々を神から遠ざけることになっていたのです。

真剣に祈りの生活を送っている信仰者の多くが“宗教組織”のエゴにとらわれ、憎しみと敵対心と裁きの感情を募らせ、自らの“魂”を貶めることになっています。

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