(7)子供に対する宗教的洗脳の恐ろしさ
宗教組織による洗脳は、信じた者の“魂”を牢獄に閉じ込めることになります。これは、地上人類にとっての悲劇です。地球上の多くの人間が、宗教の間違った教義による洗脳によって、人生最大の目的である霊的成長を犠牲にし、せっかくの地上生活を無駄に送っています。“洗脳”の恐ろしさは、それを受けている人間に「正しいことをしている」と思い込ませ、悪を行わせることです。洗脳によって間違った教えを植えつけられた人間は、「自分たちこそ正義である」と信じて、摂理に背く行為に走るようになります。「自分たちは人類のためにやっているのだ」と使命感に燃えながら、反社会的な行動や犯罪行為を実行に移してしまうのです。
教団の洗脳によって“盲信”に陥った人間は、自分の子供に教団の教義を教え込み、教団の信者にしようとします。それが子供にとって幸福に至る一番の道であり、親として最も正しい愛の示し方であると考えるのです。信仰熱心な親ほど、子供を幼い時から教団に連れて行き、ともに儀式に参加させます。熱心に子供に教団の教義を語り、教団の信者に育てようとします。こうして子供は、教団の教義に基づく「宗教教育」の中で成長していくことになります。これはまさに親による宗教教義の“洗脳”に他なりません。“カルト”と言われるような宗教に自ら入信するのはほとんどが大人ですが、盲信的な信者は子供がまだ自分自身の考えを持たない幼いうちから宗教的な洗脳を施し、信者の一員に仕立て上げようとするのです。
こうした場合、間違った教義は子供の「潜在意識」の深い部分を支配するようになり、あとになって深刻な問題を引き起こすことになります。親の宗教教育を通して、子供の魂は“霊的牢獄”の中に閉じ込められ、“魂の病”をつくり出すことになってしまいます。そしてそこから脱け出すには、大きな困難がともなうようになります。宗教組織による洗脳の弊害は、それを受けた子供に深刻な形で現れるようになります。子供の魂に、大きな悲劇が覆いかぶさってくるようになるのです。
宗教組織による子供への“洗脳”――すなわち間違った「宗教教育」の問題について、シルバーバーチは次のように述べています。
「子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することができません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸とヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者たるものは、まず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。その子の潜在意識にかかわることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象づけられ、それがその子のその後の思想を築いてゆく土台となるのです。
その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明に大きな障害を築いていくことになり、罪を犯していることになるのです。」
「子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには、“自由”がもたらすあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期から拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的権利を無視することになります。隷属状態に陥らせることになります。霊的奴隷としてしまうことになります。(中略)教育にたずさわる人が、子供に真の自由を与えようという意図からでなく、古い神話や寓話への忠誠心を植えつけたいという願望から物事を教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。知性が十分に発達していれば拒絶するはずの間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。
それだけでは済みません。そのうちきっといつか、魂が反発を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教えてくれた人々に対して、背を向けるようになります。幼い魂は、若木のように、たくましく真っすぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは、存在の根をいじくり回されることであり、当然、生長が阻害されます。」
「子供には、宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、まじめで無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません。」