(3)宗教組織による洗脳の目的

――教団に対する盲信者・狂信者をつくり出すこと

宗教組織による洗脳の2つの目的

宗教組織(教団)では、2つの目的から“洗脳”を積極的に利用します。洗脳の目的の一つは、できるだけ多くの信者を獲得することです。大半の教団は「自分たちこそが人類を救済する使命を持っている」と主張しており、その目的を達成するためには、一人でも多くの人間を自分たちの教団の信者にしなければなりません。全人類が自分たちの教団の信者になることで、人類の救いが達成されることになるからです。洗脳を上手に利用することによって、時間をかけずに新しい信者を獲得することができるようになります。そのためいずれの教団も、洗脳を最大限に利用しようとします。

洗脳のもう一つの目的は、すでに信者となっている人間を教団にとって都合のいい人間に育てることです。「自分たちの教団こそが世界で最も優れており、唯一、世界を救う使命を持っている」という教えを植えつけることです。それによって信者たちを結束させ、組織的な力を高めようとするのです。教団のためなら命を惜しまず働き、人生を捧げてもよいという強力な信者がいてこそ、教団に力がみなぎり、組織は発展するようになります。熱心な信者の数の多さが組織の力となるため、いずれの教団も洗脳を用いて内部の強化をはかります。洗脳によって「自分たちの宗教(教団)だけが正しくて、他の宗教は間違っている」「自分たちこそが神の意図を知り、神の願いを最も忠実に実践している」という“教条主義”を植えつけて、教団に忠実な盲信者・狂信者をつくり上げようとするのです。

新しい信者を獲得するための宗教的洗脳

多くの教団では、新しい信者を獲得するために、セミナーやワークショップを開いて布教活動を展開します。そうしたセミナーやワークショップでは、ある種の催眠効果を利用して心理的な抵抗力を失わせたり、大げさな同情や称賛によって参加者のプライドを刺激したり、これまでの人生で味わったことがないような親しさを演出します。そうした中で参加者は、徐々に教団の主張に耳を傾けるようになっていきます。

教団サイドは意図的に仲間意識を盛り上げると同時に、参加者に対して教義の内容を教え込み、人生の問題を解決するにはこの方法しかないと迫ります。さらに自分たちの教団との出会いがどれほど幸運なことであるかを語り、「ここから離れることは世の多くの人々と同じ不幸な状態に戻ることだ」と説得します。そしてそれは「せっかくの神の導きを手放すことであり、自ら地獄を選択することだ」と言って不安を煽るのです。

そうした状況の中で参加者は、セミナー全体の雰囲気に飲み込まれ、自発的な判断ができなくなってしまいます。教団サイドは、自分たちの教団こそが正義であり、神に最も近い存在であることを繰り返し語ります。自分たちの教義は他に類のない最高の教えであり、真理であることを強調します。

大半の人間は、それまで宗教に強い関心を抱いたことはなく、当然のこととして深い知識も持っていません。そのため教団サイドの主張に対して、真偽を判断するだけの力を身につけておらず、反論もできません。そして徐々に教団の主張を受け入れるようになり、いつの間にか「自分が最高の使命を持ってここに導かれてきた」と思うようになります。自分の人生を教団の一員として捧げ、神と人類への奉仕に生きることが幸福に至る一番の道であり、それが人類を救うことになると考えるようになるのです。こうして教団の“洗脳”は順調に進み、新しい信者を獲得することに成功します。

新たに教団の信者・組織の一員になった者は、「自分は本当に幸運であった」と感謝するようになります。そして、いまだ教義を知らない人や教団の教えに反した生き方をしている人に対して、“道を間違っている人間”として哀れんだり“サタンの手先”として見下すようになります。

教義のレベルを高めることに必死の宗教組織

教団の教義は、自分たちの教団の特殊性と他の教団との違いを明確にし、自分たちが最も優れていることをアピールする格好の手段となります。教義はまさに、教団の権威を示すための最高の手段と言えます。教義が見劣りすることは、自分たちが他の教団よりも劣っていることを意味します。そのためいずれの教団も、他の宗教の教義の優れたところを自分たちの教義に取り入れ、そのレベルを高めようとします。

今や多くの教団が、スピリチュアリズムの「霊的知識」に注目し、巧妙に自分たちの教義に組み込んでいます。そしてそれを用いて新しい信者の獲得や、内部のメンバーの洗脳に利用しています。

宗教組織による洗脳の完成

――教祖と教団が「神」のような絶対的な権威を持つ

宗教組織による洗脳の目的は、すでに見てきたように信者の獲得と組織内部の強化にあります。教団は、新しく信者になった人間を教団にとって戦力となる人間に育てるために、さまざまな洗脳を施していきます。

教団による洗脳が進むにつれ、「教団の教えこそが最も正しくて、他の宗教で説いている教えはすべて間違い」という意識が形成されるようになります。「自分たちだけが正義であって、自分たちに反対するものはすべて悪である」という考えが染み込むようになります。自分たちだけが唯一の正義であり、他はすべて間違いという意識が形成される頃には、「教祖と教団こそが神の代理者であり、神の意思を反映している」と考えるようになり、教祖と教団が「神」と同じ絶対的な権威を持つことになります。そして信者は、教祖と教団指導者の指示・命令に絶対服従するようになるのです。

そうした信者にとっては、組織への忠誠が神への信仰そのものとなり、時間を惜しんで教団の活動に参加し、教団に多額の献金をするようになります。組織の活動に参加することが信仰実践となり、神と人類の救いのために献身していることになります。教団にすべてを捧げることが神にすべてを捧げることになり、それが神に対する忠実な歩み・正しい信仰ということになるのです。

考えてみれば、これは中世のヨーロッパにおいて、イエスの後継を自認する教皇とカトリック教会を“神の権威”と見なしてきたのと同じことです。カトリック教会では、組織的な洗脳が完璧な形でなされてきたため、教皇と教会が「神」と同一視されることになりました。それと同じようなことが、現代の熱心な宗教組織の中にも見られます。宗教組織の教祖や指導者は、まさに「神」に等しい絶対的な権威を持って信者を支配し、その命令は神の名によって権威づけられます。教団にとって、一人一人の信者は“従順な子羊”――決して反抗せず、ひたすら言われるままに行動する存在になっています。

一方、信者にとって教団は、自分の人生のすべてと言えます。教団の教えが自分の考え方となり、人生の指針となり、教団のために生きることが、自分の人生そのものとなるのです。こうして教祖と教団が「神」のような絶対的な権威を持った存在・絶対服従すべき存在となり、教団は“盲信者・狂信者”の集団となってしまいます。

“教団への盲信”という気楽な生き方

教団を盲信する信者にとっては、教団からどれほどきついノルマを強いられても、それはすべて“神のため、人類を救うため”ということになります。信者たちは、ノルマを達成するためにあらん限りの時間とエネルギーをつぎ込み、自分や家族のために用いるお金は極力削って、少しでも多く献金しようと心がけます。

また、周りからどれほど激しい反対があっても、それは自分たちが神に近い特別な立場にいるからであると思い、反対が教団の正しさを証明していると考えます。そして周りから反対されればされるほど、いっそう闘志を燃やし、教団に対する忠誠心を高めていきます。「自分たちは他の人とは異なる特別な立場に立ち、正義を行っている」という信念を強固にしていきます。教団によって洗脳された信者は、自分は本当に素晴らしい道を歩んでいると確信しています。最高に価値ある人生を歩んでいると思い込んでいます。しかし、それは教団の洗脳によってつくり出された偽りの世界です。

考えてみれば、教団の洗脳によって“盲信・狂信”に走った者ほど、気楽な人間はいません。教団の指示・命令に従うだけで“善”とされ、最高の救いを得て天国に行けることになるからです。自分なりに考え、苦しみながら解答を模索する必要はありません。自分で判断する面倒もなく、責任を追求されることもありません。ただ組織の上の者の指示に従っているだけで、最善の生き方をしていることになるのです。

教団の中で行う活動は、信者にとっては最高の生きがいとなり、心に刺激と充実感と喜びをもたらします。そのためきつい“ノルマ”も、イヤイヤやるのではなく自ら買って出るようになります。時には法律に抵触したり社会常識に反するようなことも、教団のため、人類のため、神のためと思って果敢に実行するようになります。

ここまでくると教団は、組織への“盲信者・狂信者”をつくり出すことに成功したことになります。教団による洗脳の目的は、教団の命令に忠実に従い、教団の指示を疑うことなく全面的に受け入れ、人生と時間のすべてを教団のために捧げる人間をつくり出すことです。神に対するのと同様に、教団とその指導者を無条件に信じる“盲信者・狂信者”をつくり出すことです。それによって教団は、実に都合のいい人材を確保し、教団の勢力を拡大していくことができるようになるのです。

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