(4)宗教組織という醜い世界
――この世と変わらない欲とエゴが渦巻く世界
組織内部の“出世競争”
教団の盲信者・狂信者となった人間は、教団のなすことは“すべて正義”と信じ、どんなに理不尽なこと・非常識なことであっても実行するようになります。それが信仰であると心の底から思い込み、教団の命令に喜んで従うようになります。そこでは“信仰”とは、「組織の命令に忠実に従うこと、教団に利益をもたらすこと」であり、それが信仰心を計るバロメーターとされます。
どのような組織にも、積極性に富んだ人間と消極的な人間、自発性の強い人間と受身の態度しかとれない気の弱い人間がいます。また、頭の回転が速い人間と、そうでない人間がいます。宗教組織の中では、より行動的で積極的な人間、やり手の人間が優れた信仰者とされ、ヒエラルキー(ピラミッド組織の上下関係)の中を出世していくことになります。そして“出世競争”を勝ち抜いた一部の人間が、指導者の立場に立つようになります。指導者となった人間は、周りの信者から尊敬と信頼を集め、教祖に近い人間・神に近い人間と見なされるようになるのです。
いずれの宗教組織においても、その内部ではこうしたこの世と変わらない出世をめぐっての激しい競争が展開しています。教団によっては昇進試験を設けているところもあり、出世を目指す野心的な信者たちが、今後の人生をかけて猛烈な競争を繰り広げています。そしてその当然の結果として、教団内には人間臭い対立や争いが起こり、分派や派閥が形成されるようになっていきます。
外向けの主張と、あまりにもかけ離れている組織内部の実態
すでに見てきたように宗教組織(教団)では、組織内部の強化のために“洗脳”が日常的に行われています。「自分たちの教団だけが正義であり、神に最も近い立場に立っている。他の宗教はすべて間違っている」ということを繰り返し吹き込み、他の教団との差別化をはかり、信者たちの自尊心・優越心を喚起していきます。そして教祖と組織が「神の代理者」として絶対的な権威を持っていると信じ込ませ、信者たちをさらなる教団への盲信者・狂信者に仕立てあげていきます。
こうした内部の醜さとは反対に、いずれの教団も外部の世界に向けては「自分たちの教団は“博愛と思いやり”“奉仕と謙虚さ”をモットーとしている」と強調します。しかしその実、教団内部の人間関係は、この世の人間関係よりも醜い状況となっているのです。権力志向の強い野心的でエゴ的な信者によって、常に権力闘争が展開されています。外部に対しては博愛や正義・平等を説きながら、組織内部では嫉妬が渦巻き、エゴ的な醜い争いが絶えることはありません。
これがほとんどの宗教組織の実態であり、このケースからもれる教団はないと言っても過言ではありません。こうした外部に対する見せかけの態度と内部における醜い状況の間で、純粋な信者たちは悩み苦しむことになります。
“エゴ”を増幅させる、宗教組織での活動と修行
宗教組織の中では、指導者の指示や方針に忠実に従うことが信仰とされ、それができる人間が本当の信仰者・信心深い人間と見なされます。そしてそうした教団に忠実な信仰心の篤い人間であってこそ、早く悟りを得ることができ、神から多くの恩恵と救いがもたらされるようになるとされます。そのため信者たちは競って、教団の活動に参加するようになります。しかし熱心な信仰者と言われる人間の心の底にあるのは、自分に対する特別な恩恵であり、自分だけの救いであり、組織内での出世です。要するに、自己の利益への期待で心が占められているのです。
教団に属している限り、外部の人間からの称賛や評価は得られません。称賛はもっぱら、組織内部からのものになります。その結果、信者にとっては、組織の指導者や幹部に認められ称賛されることが大きな目標となります。
また、世の中には“修行”を重視する宗教組織があり、教団の示す修行方法によって悟りが得られ、霊能力が開発されるようになるとしています。“オウム真理教”はまさに、そうした教団でした。そこでは悟りと超能力の獲得を目指して、日夜、必死に修行が続けられました。しかしそうした修行は、やればやるほど内面のエゴを増幅させることになります。悟りを得ることを目標とする修行によってエゴ性が増大し、かえって真の悟り(霊的成長)から遠ざかることになってしまいます。これは、あらゆる宗教の修行に当てはまります。煩悩を絶つための修行によって、さらなる煩悩を積み上げることになっているのです。
洗脳によっていったん教団の盲信者となった人間は、その“霊的牢獄”からなかなか脱け出せず、破綻がくるまで無意味な修行を続けることになります。そして貴重な人生を無駄に過ごすことになってしまいます。