(5)宗教組織の崩壊の始まり
――洗脳による組織維持の限界
狂信的な教団では“洗脳”が功を奏して、一時的に信者が激増し、強大な宗教組織が形成されることがあります。ここ数十年の間に日本でも、勢力を急拡大して世間から注目されるようになった教団が次々と現れました。しかしそうした急成長した教団は、洗脳が完成した時がピークとなり、時間とともに内部から崩壊が始まるようになります。今をときめく巨大宗教組織も、必ず衰退していくようになるのです。
それは“洗脳”という方法自体が、神の摂理に反しているからです。無知な人間を騙して組織の一員とするような間違った方法が、いつまでも続くことはありません。教団が衰退し始めると、教団の指導者や幹部は焦り、危機感を抱くようになります。何としても勢力を維持しようと考え、さまざまな策を講じて必死に抵抗するのですが、いったん衰退期に入った教団を立て直すことは、もはや不可能です。今この時も、かつて強大な組織を誇った教団の指導者や幹部たちが、組織の崩壊を食い止めようと血眼になって努力しています。しかし、時間とともに崩壊は確実に進行し、衰退の道をたどるようになっていきます。
ここではそうした「宗教組織の崩壊・衰退のプロセス」を見ていきます。
宗教的情熱が色あせ、教団に対する疑念が発生
信仰を始めた当初は、信者本人は自分が洗脳されているとは思っていません。心の底から、「自分は幸運にも最高の宗教に導かれ、最高の奉仕人生を送ることになった」と思っています。「他の人には体験できない素晴らしい人生・最も価値ある人生を送ることができるようになった」と考えています。そして教団に導かれたことを、何度も神に感謝します。そこではすべての時間が充実し、信仰に対する一点の曇りもなく、教団に対して疑いを抱くこともありません。
教団では、信者に優越心と特別な使命感を持たせるための“洗脳”が徹底して行われます。そのため入信したばかりの信者には、まさにバラ色の人生が訪れたように感じられます。しかしその喜びと感謝に満ちた信仰生活は、徐々に色あせていきます。時間とともに、当初抱いていた教団への絶対的な信頼と、自分の人生をすべて捧げようという決意が揺らぎ始めます。教団に対する疑念が頭をもたげるようになるのです。
摂理に反した偽りの信仰は、いつか必ずほころびが生じるようになります。初めは天国のように思えていた信仰生活も、徐々に感動のない普通の生活になり、やがて苦しみのともなう“地獄”のような生活へと変化していきます。
教団内の人間関係の醜さ
信仰を始めた頃は、教団(宗教組織)の一員になれたことを最高の幸運と信じていた人も、時間とともに教団内の人間関係が、教団の示す教えと違っていることに気がつくようになります。教団の教え(真理)に最も忠実でなければならない教団の指導者や幹部たちの実生活が、あまりにも真理とかけ離れていることが分かるようになります。
教団の指導者や幹部たちは、外部に向けては博愛や正義を声高に唱え、世の中の不正や醜さを指摘し非難します。信者たちもそれに倣って、理想を唱えて布教に携わります。ところが目を教団内部に向けると、そこには理想とは正反対の世界が存在し、この世の醜さよりもさらに醜いエゴの実態を見せつけられることになります。組織の末端にいる信者たちは、自らの未熟さに心を痛め、修行を積んで教義どおりの理想的な人間に近づきたいと願っています。そうした純粋な信者にとって目の前の現実は、期待を裏切る絶望的な状況として映ります。
こうした教団内部の醜い人間関係の実態を知った信者たちは、疑念と不信感と絶望感を抱くようになります。否応なく目にした、この世の人間にも劣るような醜さ丸出しの人間関係が信者の心に疑いを引き起こし、教団全体に対する不信感を決定的なものにしていくことになります。
教団(宗教組織)の中では、入信したばかりでまだ教団内部の実態を知らない人間は信仰心を燃え立たせ、使命感を持って人生を捧げようとしています。その一方で、期待を裏切られ、ノルマに疲れ果て、情熱と意欲を枯渇させた年輩(古参)の信者がいます。ほとんどの教団では、こうした“二極構造”ができ上がっています。そして時間の経過とともに、教団創設時の宗教的情熱が内部から失われ、教団そのものが衰退の道をたどり始めるようになるのです。
教祖や指導者のカリスマによって急拡大したような宗教組織では、教祖や指導者が死亡すると内部分裂が発生し、あっという間に崩壊が始まり、衰退していくことになります。
教団の“ノルマ”に疲れ果てる
こうした教団内部の醜い人間関係とは別の理由によって、教団から宗教的情熱が失われていきます。しばしば“カルト”と批判される教団では、強烈な洗脳によって信者に使命感を吹き込み、がむしゃらに活動に走らせます。そして次々と“ノルマ”を課し、多額の献金を要求します。信者が教団に対して疑いを抱かず、宗教的情熱に動かされているうちは、そのノルマを“神のため・人類の救いのため”という思いで前向きに受け止めます。
しかし、疲れ果ててもなお次々とノルマを与えられ、実績を追求されるようになると、もはや心がついていけなくなります。そして身動きがとれない苦しい状況の中で、悶々とした時間を過ごすことになります。やがて教団からの非難の声が耳に入るようになると、自分自身を責める感情と教団に対する不信感によって、心はグチャグチャになってしまいます。
しかし、追い詰められ苦しい状況に立たされることは、霊的に見ればよいことです。本人にとって、これまでの考え方・あり方を広い視野から客観的に見直すチャンスとなります。“洗脳”によって動かされてきた、自分のこれまでの歩みを振り返る時となるのです。
教団の指示に従ってノルマ達成に必死に取り組んでも、常にそれを成し遂げられるとは限りません。この世の営業マンと同じで、精いっぱいやっても全く実績をあげられないこともしばしばです。教団では、実績をあげれば指導者から「信仰心がある」と褒められ、いつまでも実績をあげられなければ「信仰心が乏しい」と責められるようになります。そうした中で、他の信者が実績をあげる姿を見ていると、焦りを超えて“嫉妬心”が湧き上がるようになります。教団の指示に従って実績をあげないかぎり評価されない、目に見える実績によってしか信仰心が認められないと考えると、虚しさと不満が募り、さらに嫉妬心が燃え上がり、醜い思いが渦巻くようになっていきます。
実績をあげている人間の信仰心のなさ・純粋さの欠如は、日常生活を見れば一目瞭然なのですが、教団の指導者は“実績”という表面的な結果だけですべてを判断します。「自分の方が、もっと厳しい状況の中でノルマ達成に取り組んでいるのに」と思っても、そうしたことは一切考慮されません。しだいに「自分は長年、体の不調を押して精いっぱいやってきたのに、人間性も信仰心も劣る者がただ“実績をあげた”というだけで評価され称賛されるようなことは、教団の教えと違っているのではないか?」と考えるようになります。そして「信仰とは、いったい何なのか?」といった疑問が湧き上がるようになります。これが、どこの教団でも見られる信者の実態です。
入信したばかりの信者が意気揚々としている一方、長年、教団のメンバーとして歩んできた信者は疲れ果てて気力を失い、「みんなの後からついていくだけでいい」と思っています。当初の使命感や情熱が失われた中で、惰性で歩んでいるのです。
教団サイドから見れば、これはまさに危機的状況です。そこで何とか情熱を取り戻させようとアレコレと策を講じるのですが、思うようにいきません。いったん失われた宗教的情熱を沸き立たせることは、もはやできません。そこでさまざまな“洗脳”の手段に訴え、アメとムチを駆使して情熱を喚起しようとするのですが、いっこうにノルマは達成されません。こうした中で、次々と古参の信者たちが離れていくようになり、分派をつくるような動きも現れて、教団は一気に衰退の道をたどることになります。
“教義”に対する疑問の発生
こうした教団の状況を見ている信者たちの中には、他の宗教の教義や思想に関心を向ける者も現れます。現代のネット社会では、さまざまな情報を簡単に知ることができます。書店に行けば他の宗教の書物が並んでいて、容易に自分の教団の教えと比較することができます。すると、他の宗教でもなかなかよいことを言っていることに気がつくようになります。なかには、ネットを通じてスピリチュアリズムの存在を知り、その教え・思想の素晴らしさに釘付けになる者も現れます。ネットに掲載されているスピリチュアリズムの情報を貪り読む中で、これまで自分たちの教団だけが真実の信仰であると信じてきたことが、単なる思い込みであったことを知るようになります。
世間から“カルト”と呼ばれている狂信的な教団や新宗教・新興宗教は、洗脳によって強力な組織体制を整え急激に勢力を拡大してきましたが、今述べたような理由から、いずれ限界を迎えることになります。教団内部の宗教的情熱が失われ、分裂を生み出して衰退していくことになります。“洗脳”を利用して短期間に無知な人間を“盲信者・狂信者”に仕立てても、時間とともに内在していた矛盾が噴出し、自滅の道をたどるようになっていきます。短期間に急拡大した宗教組織は、短期間に衰退する運命にあるのです。