霊的観点から見た安倍元首相殺害事件と、統一教会の本質と教義(統一原理)の間違い

インフォメーションNo.45

(1)安倍元首相銃撃・殺害事件がもたらした大きな衝撃

衝撃的大事件の発生と、安倍元首相の死を悼む声

2022年7月、参議院選挙運動中に安倍元首相が銃で撃たれて殺害され、日本中に衝撃が走りました。民主主義に対する破壊攻撃として、一斉に非難の声が上がりました。多くの日本国民が安倍元首相の死を悼み、事件現場では、花を手向ける人々の姿が絶えませんでした。日本の各界の指導者たちからも、突然の訃報に対する驚きの言葉とお悔やみが述べられました。そして世界各地の要人・政治家たちからも哀悼の言葉が寄せられ、安倍氏が生前、国際社会において大きな働きをしてきたことが再認識されました。

安倍元首相は日本憲政史上最長の在任期間を打ち立て、その外交手腕は、日本の政治家の中で際立っていました。安倍氏によって第二次世界大戦後、長く続いてきた日本の外交的しがらみが破られ、やっとまともな外交が行われるようになりました。その功績は、大いに称えられるべきものです。私たちも、安倍氏にはもう一度、日本政治の中心(首相)の座に返り咲いて、日本の政治をけん引していってほしいと願ってきました。

安倍元首相は、日本の発展と国益のために多大な貢献をなしてきました。安倍元首相の死は、日本国家にとって大きな損失です。メディアを通して伝わった安倍氏の気さくな人柄は、日本国民に好ましい首相としてのイメージを与えてきました。まさに安倍氏は、世界に誇るべき政治家でした。

統一教会との関係をめぐって、安倍氏に対する評価に疑問が生じる

一方、事件直後から、山上容疑者の安倍氏殺害の動機が“統一教会”に対する深い恨みから発していたことが報じられました。憎しみの対象であった統一教会と安倍氏が密接な関係にあり、それが山上容疑者を安倍氏殺害に向かわせる引き金になったことが明らかにされました。山上容疑者の動機が分かるにつれ、国民の関心は一気に統一教会に向かうようになりました。統一教会は現在“世界平和統一家庭連合”に改称していますが、ここでは“統一教会”と表記します。)

テレビや新聞をはじめとするメディアは、連日、統一教会に関する情報を流し、これまで統一教会が引き起こしてきた霊感商法をはじめとするさまざまな問題を取り上げました。そして安倍氏が、統一教会の政治工作と深い関わりを持っていた事実が明るみに出されました。

こうした動きの中で、安倍氏に対する当初の評価に疑問が投げかけられるようになりました。そして時間が経つにつれて、今回の事件の最大の原因は統一教会にあるが、安倍氏自身にもそれ相応の原因と責任があると考えられるようになりました。山上容疑者が殺害という手段に出たことについては決して許されるものではないが、殺害に至った動機には同情の余地があることが、人々の共通認識になってきました。

統一教会の活動に、再び国民の目が向けられる

今回の事件以来、かつて統一教会が社会を賑わせてきた合同結婚式や強引な布教活動・反共活動などが、再びメディアによって取り上げられるようになりました。特に詐欺まがいの手口で人々を騙し、恐怖を煽って大金を巻き上げてきた“霊感商法”に関心が向けられ、統一教会の特殊性・反社会性がクローズアップされることになりました。そして統一教会による政治工作や、統一教会と政治家の癒着が注目され、連日、詳しく報じられています。そうした報道を通して、統一教会と日本の政界が深く関わっている実態が広く知られることになりました。

今回の大事件の本当の原因は

――山上容疑者の異常性か? 安倍元首相の政治的野心と軽率さか? 統一教会による家庭崩壊か?

今回の事件を通して、かつて霊感商法やさまざまな社会問題を引き起こしてきた統一教会による政治工作が、自民党を中心とする政治家に深く浸透している事実が明らかになりました。驚くべきことに、統一教会の政治工作は、首相という政治的な最高権力者の座についていた安倍氏を取り込むところにまで至っていました。着々と進められてきた統一教会の政治工作は、安倍氏に自分たちのイベントにビデオメッセージ(祝辞)を送らせるという大きな成果となって現れたのです。

山上容疑者は、安倍氏の殺害を決意したのは、安倍氏が統一教会関連団体(天宙平和連合)に寄せた友好的なビデオメッセージを見たことがきっかけになった、と述べています。統一教会の政治工作は、安倍元首相を手玉に取るところまで進んでいましたが、安倍氏が殺害されたことによって、その成功は一瞬にして崩れ去ることになりました。事件をきっかけにして、統一教会の政治工作の実態が次々と明るみに出され、大打撃を受けることになったのです。

統一教会の政治工作に安倍氏が関与していたことが明らかにされるにともない、山上容疑者に対する非難はしだいに同情心に代わり、殺害された安倍氏自身にも大きな責任があったことが認識されるようになりました。いずれのメディアも、殺害自体は許されないことであるとしながらも、統一教会によって家庭を破壊された山上容疑者は、教会の犠牲者・被害者であり、その統一教会と深い関係を築き、便宜を図っていた安倍元首相の責任が問われるようになりました。

日本政治の最高権力者が“統一教会”の政治工作に取り込まれ、協力者になっていたことこそが、日本民主主義の危機

今回の大事件によって、統一教会と日本政界との癒着関係があぶり出されたことは、日本の国益と日本政治の正常化にとって、ある意味で良い機会であったと言えます。“人を殺す”という山上容疑者の犯行は許されるものではなく、厳格な法の裁きを受けるべきですが、それによって山上容疑者が、一方的に責められるべきではありません。元首相を殺害するというテロ事件だけが、日本の民主主義に対する破壊行為ではありません。選挙に当選したいという政治的野心のために“統一教会”を利用しようとした安倍氏をはじめとする政治家たちにも、大きな責任があるのです。

統一教会の本質を知ってか知らずか、多くの政治家たちが自分の政治的利益のために統一教会の工作を受け入れ、それに取り込まれてしまいました。元首相という立場にあった者が率先してビデオメッセージを送り、統一教会を賛美してきたことは重大な問題です。統一教会との関わりを深め、広告塔のような役割を積極的に果たしてきたことは、明らかに国益を害する行為です。それこそ本当の意味で“民主主義の危機”と言えます。

こうしたことを考えると、安倍元首相は単なる殺害事件の被害者ではなく、事件の原因を自らつくり出してきた加害者であり、その当然の報いを受けることになったと考えるべきでしょう。山上容疑者は加害者であると同時に被害者であり、その母親も加害者であり被害者なのです。しかし、いずれにしても今回の事件の最大の原因が“統一教会”にあることは明らかです。なぜなら、すべてはそこから発しているからです。

統一教会の政治工作に対して根本的なメスを入れることこそ、日本政治の義務と言えます。今後、それが果たせるかどうかによって、我が国の政治の力量が問われることになります。もしそれができなければ、日本の政治は二流の域にとどまり続けることになり、政治に対する国民の不信と失望感は、拭いがたいものになってしまいます。

「霊的観点」から見たとき、問題の本質が明らかになる

今回の事件のさまざまな背景や原因を考えると、事件の責任が山上容疑者一人にあると決めつけることはできません。今回の事件の大本が、統一教会にあることは否定できません。その統一教会の政治工作に取り込まれ、彼らを選挙のために利用しようとして、彼らの餌食(えじき)になってしまったのが安倍氏をはじめとする政治家たちだったのです。今回の事件を客観的に見ていた多くの国民が、同じような結論に至ったのではないでしょうか。それが良識ある日本人の見解であると思います。

ここからは、今述べたのとは違った方向から、今回の事件にアプローチしていきます。地上で発生する出来事や事件には、必ず霊的な原因があります。そしてそれは「霊的観点」に立たないかぎり知ることはできません。

今回の事件の最大の原因は、統一教会という教団(宗教組織)にあります。したがって事件の本質を明らかにするためには、統一教会という宗教の内部にまで立ち入って、原因を究明していかなければなりません。

宗教の重要な要素に、神や死後の世界(霊界)、罪や罰といった概念があります。統一教会の教義もそうした概念に基づいて構成され、信者たちはその教義に基づいて行動し、信仰生活を送っています。信者たちが信仰の拠りどころとするその教義について知らなければ、事件の真相を解明することはできないということです。

ところが、統一教会を批判する法律家やジャーナリストは、教義について深く知りません。教義を構成する神や霊界についての正しい知識を持っていません。そのため、事件の核心に迫ることができないのです。神や霊界について何も知らない人が、統一教会の教義の是非を論じることは不可能なのです。

また、信教の自由が認められている日本では、特定の宗教の教義の是非を表立って取り上げることはできません。“何を信じるかは本人の自由”というのが日本の憲法の立場であるため、法律家やジャーナリストは、統一教会の教義の間違いを指摘することができないのです。彼らができるのは、法律と道徳に基づいて、統一教会の実際の行為の是非を論じることだけなのです。

しかしそれでは、統一教会の本質や実態を明らかにすることはできません。それを可能にするのが、「霊的観点」に立つスピリチュアリズムなのです。スピリチュアリズムは、「霊的事実」のみを真偽の判断基準とします。それによって統一教会の間違いを、霊的観点から明らかにします。

以下では、スピリチュアリズムの「霊的観点」から統一教会の問題点を掘り下げて見ていきます。今回の事件で最も責任が問われるべき“統一教会”を霊的観点から見て、根本原因の所在と真相を明らかにしていきます。

(2)他の狂信的宗教と共通する、統一教会の狂信性と強烈な洗脳

――オウム真理教と統一教会との共通要素

狂信的宗教に共通する傾向

「自分たちの教団の正義と勢力拡大のためには、何をしても許される。うそだましも、教団が教える大義のためならば許される。たとえそれが世間の人々に苦しみや害を与えることになっても、神が認める“絶対善”である以上、許される」――これが、地球上の狂信的宗教に共通する考え方です。

日本における狂信的宗教と言えば、サリン事件を引き起こした“オウム真理教”と、今回の事件の背後に存在する“統一教会”の名前が真っ先に挙げられます。この2つの教団に共通しているのが、今述べたように「自分たちだけが唯一の“絶対正義”で、自分たち以外は皆、間違っている。人類を救済できるのは自分たちだけである」とする偏狭な正義心、極端な自己中心的な考え方です。彼らは、自分たちの教団の信者にならないかぎり、人間が救われることはないと主張します。

オウム真理教と統一教会の共通性

――“自分たちだけが正しくて、周りの者たちは間違っている”

オウム真理教や統一教会が引き起こしてきた事件は、一見平和で大きな宗教的事件がほとんど見られない日本の社会では、突出した異常さを感じさせます。オウム真理教も統一教会も――「自分たちだけが正義で、他はすべて間違っている。自分たちの正義と勢力拡大のためなら、何をしても許される。人を騙して危害を与えても、むしろそれは相手の人間の救いにつながる良いことである」と考えます。「大義のためなら、人々が苦しむことになっても、人を騙して利用しても罪にはならない」と考えるのです。

 統一教会の霊感商法やさまざまな事件は、自分たちだけが“絶対正義”であるとする極端な自己中心的思考のもとで引き起こされています。20年前のオウムによるサリンテロ事件も、それと同じ状況下で引き起こされました。“人殺し”にまでエスカレートしたという点で、表面的にはオウム真理教と統一教会は異なりますが、「行動の本質・動機」という点では、オウム真理教と統一教会は全く同じです。

両者は、自分たちの行為が他人に危害を与えることを知ったうえで行動に及んでいます。彼らは、人を騙して自分たちの勢力拡大のために利用することを正義であると考えているのです。そのため今回の事件によって、社会やマスコミから叩かれ、糾弾されるようなことになっても、決して自分たちが間違っていたとは考えません。心の底から謝るようなことはありません。メディアが霊感商法を非難し、国民の間に反発が起こっても、統一教会の信者は、「自分たちだけが神の前に正義であり、それを知らない世間の人々はサタンに動かされている」と考えるのです。自分たちが間違っていると思わないどころか、自分たちに反対する人間を“サタンの手先”となった哀れな人間として、上から目線で眺めているのです。

宗教の歴史では、当たり前の狂気の行動

地球上の宗教の歴史を俯瞰すると、狂信的宗教によって、狂気と殺戮さつりくが引き起こされてきたことが分かります。狂信的宗教は、自分たちの宗教の正当性を主張して他の宗教を攻撃し、“人殺し”をごく当たり前に行ってきました。中世には、キリスト教徒による十字軍が、自分たちの正義の旗のもとに大量のイスラム教徒を殺害してきました。またイスラム教のジハードでも、自分たちは正義であるとの信念のもとで他人を悪と決めつけて攻撃し、殺害してきました。宗教の歴史を見れば分かるように、狂信性の強い教団が自分たちの正義を旗印に、しばしば“人殺し”という犯罪行為に及んでいるのです。もちろん彼らは、それを犯罪だとは思っていません。

このように考えると、日本で引き起こされたオウム真理教のサリン事件や、統一教会の霊感商法などの犯罪・詐欺行為も、地球上の宗教の歴史の中では、ごく当たり前の出来事にすぎないことが分かります。オウム真理教の場合は、宗教的な争いがめったに起きない先進国の日本において殺人事件が発生したという点で目立ったのであって、地球上の宗教の歴史の上では、それほど珍しいことではありません。統一教会の場合は、オウム真理教のような殺人事件にまでは至っていませんが、人騙しと詐欺性の度合いがひどかったために、特別な事件として騒がれることになったのです。

オウム真理教や統一教会という狂信的宗教では、「自分たちだけが正義であり、それを貫くためなら人を騙して利用しても構わない」と考えます。極端な自己中心的・独善的な価値観に基づいてすべてを判断し、行為に走るという点で、オウム真理教と統一教会は本質的に共通しているのです。

宗教の狂信性は、教義による強烈な洗脳によって発生

――洗脳の強さによって、狂気の度合いが決定

「自分たちの教団こそが世界で唯一の正義であり、自分たち以外はすべて間違っている。自分たちしか人類を救うことはできない」――これが、地球上の狂信的宗教に共通する精神的傾向です。この偏狭で自分中心の価値観、自分たちだけが唯一の真実であり、正義であるという独善的意識が、信者を狂信に走らせることになります。オウム真理教による常軌を逸したサリン事件も、イスラム教のジハード戦士による自爆テロも、十字軍(キリスト教徒)によるイスラム教徒の殺害も、カトリックとプロテスタントとの間で行われた非道な殺害も、こうした“宗教的正義心”――すなわち「自分たちだけが唯一の正義であり、真実である」との思い込みと、そこから生じた“狂信性”によって引き起こされたものだったのです。

では、どうして狂信的宗教の信者は、そうした偏狭で自己中心的な価値観や正義感に向かうようになるのでしょうか。一般の人間なら、決してしないような極端な行動に走るようになるのでしょうか。そこには、教団(宗教組織)による“洗脳”という問題があります。教団の“教義”による洗脳という特殊な事情があるのです。

統一教会の信者一人一人に会って話をすれば、誰もが純粋さと親切心を持った良い人間であることが分かります。私利私欲に走り、物欲追求に奔走する現代人の中にあって、彼らが奉仕性に富んだ優れた人間性を持っていることが分かります。人間性という点では、おそらく一般の人々よりも優れているのではないでしょうか。

ところがそうした人たちが、教団の“洗脳”を受けることによって、考え方と生き方・行動が一気に変わってしまうようになるのです。その変化を目の当たりにした外部の人間は、宗教による洗脳の威力に恐ろしさと危険性を感じることになります。社会組織(組織化された人間集団)においては、何らかの洗脳が常に存在します。それによって組織は維持するための力を保ち、発展のためのエネルギーを得ることになります。洗脳が強ければ強いほど、組織の熱意は高まり、結束力が強化されて、大きな力を発揮するようになります。そうした洗脳が、特に強い形となって現れるのが宗教です。

宗教組織における“洗脳”は、会社や一般のグループによるものとは次元を異にします。特別に強い形となって現れるのです。そのため人々から、宗教には“洗脳”が付きものと思われ、恐れられてきました。宗教の洗脳において決定的な役割を果たしているのが、教団の“教義”です。教団と信者を狂信的方向に向かわせる強力な原動力となるのが、教団の“教義”なのです。統一教会の教義とは“統一原理”です。この教義があるために、信者は自分たちを特別な存在だと思い、自分たちだけが唯一の正義だと信じるようになるのです

以下では、統一教会の信者を狂信へと走らせていった“統一原理(教義)”を分析し、統一教会の本質を明らかにしていきます。

(3)統一教会の出発点と信仰の原点

――文鮮明氏を再臨のメシアとする教義

統一教会の信者が、現代社会において常識外れとも映るような異常な行為に走るのは、教祖である文鮮明氏を“再臨のメシア”とする信仰があるからです。これを広めることが絶対善であり絶対正義であり、神の願いであると信じているからです。統一教会の信者は、この教義以外に真の正義はないし、人類の本当の救いはないと信じ込んでいるのです。そうした強烈な信念をつくり出しているのが、統一教会の教義である“統一原理”です。信者たちは、この教義によって洗脳されているのです。

ここでは、統一教会の教義(統一原理)について見ていきます。信者を狂信へと走らせていく“最大の原因”である統一教会の教え(教義)を掘り下げて見ていくことにします。

文鮮明氏によってつくられた統一教会の教義“統一原理”

統一教会に対する批判者は、これまでの統一教会の行動や行為(霊感商法など)を法律に照らして、あるいは一般道徳に照らして論じてきました。しかし、そうした外面的な観点からだけでは、宗教である統一教会の本質・根源に迫ることはできません。宗教思想(教義)の間違いは「霊的観点」から見たとき、すなわち霊界人の立場から見たとき、初めて明確になるのです。

統一教会が引き起こしてきたさまざまな問題はすべて、彼らが“絶対真理”と信じる教義(統一原理)から発しています。教祖・文鮮明氏の説いた教えが統一教会の教義となり、それが統一教会の思想と信仰のあり方を決定しています。文鮮明氏の説いた教えが統一教会の出発点となり、原点となっているのです。

安倍元首相銃撃事件の山上容疑者は、母親が統一教会に入信し、高額献金によって家庭を壊されたことに対する恨みから事件を引き起こした、と述べています。家庭をメチャクチャにされたことが事件の本当の理由で、その憎い統一教会の関連イベントに安倍元首相がビデオメッセージを送り、統一教会の指導者(韓鶴子総裁)を賛美したのを見たことから襲撃を決意したと述べています。

どれほど深い憎しみや恨みがあっても、殺人は許されるものではありません。「神の摂理(法則)」から外れた間違った行為です。山上容疑者は、この世の法と神の摂理に照らして“罪”を償うことになるでしょう。しかし、今回の事件の責任は安倍氏自身にもあります。安倍氏は、霊的に見たとき大きな罪を犯しているのです。安倍氏は今後の霊界での人生の中で、苦しみをもってその“霊的罪”を償っていくことになります。

今回の事件の原因をたどると、“統一教会”に至ります。もし文鮮明氏によってつくられた教義(統一原理)がなかったなら、今回のような事件は発生しませんでした。本稿の(5)と(6)では、統一原理の間違いを「霊的観点」から、すなわち高級霊の立場から明らかにしていきますが、その前に統一教会についてもう少し詳しく見ていきます。

文鮮明氏を“再臨のメシア”と信じる宗教

統一教会とは、どのような宗教なのか?――これについて端的に言えば、「教祖・文鮮明氏を“再臨のメシア”と信じ、この再臨のメシアを通して全人類が救われるようになるとする宗教」ということになります。したがって統一教会では、「再臨のメシアである文鮮明氏を通さなければ人類は救われない。人類の救済は、再臨のメシアである文鮮明氏を通してのみ可能となり、それが人類が救いに至る唯一の道である」と主張します。これが統一教会における最も重要な教義です。

したがって、文鮮明氏を“再臨のメシア”と認めない統一教会信者はいません。統一原理(教義)の細かなことは知らなくても、この重要な教えは、すべての信者に共有されています。文鮮明氏が“再臨のメシア”であることを否定した瞬間から、その人間は統一教会の信者ではなくなるのです。

統一教会の信者は、自分たちは“再臨のメシア”と出会った特別な存在であると思っています。再臨のメシアと出会い、人類の中で真っ先に救いを得ることになった最も幸運な人間であると考えています。再臨のメシアと共に歩むことが信者の誇りであり、それが信仰の原点となり、信仰生活のモチベーションになっています。統一教会の信者にとって、再臨のメシア・文鮮明氏によって救いにあずかることが人生最大の希望であり、それを目的として信仰生活を送っているのです。

統一教会の信者は、自分たちと同じように、世界中の人間が文鮮明氏を再臨のメシアとして受け入れることが“神の願い”であると思っています。文氏を再臨のメシアとして受け入れ、永遠の救いを得ることが人間として最も幸せなことであり、真に価値ある生き方であると信じているのです。こうして信者たちは必然的に、自分の人生を再臨のメシア・文鮮明氏と統一教会に捧げることになります。そして統一教会の信者を増やすために、伝道や経済活動に懸命に励むことになります。文氏を“再臨のメシア”とする強い信仰心が、すべての活動の情熱と意欲の源泉になっているのです。

文鮮明氏を再臨のメシアと信じ、その教え(統一原理)を世界中に広めていくことで地球人類が救われることになるとの信念――これが、統一教会の信者たちの信仰の原点となっています。世の中を騒がせてきた事件はすべて、この信念から発しています。

一方、信者たちは、再臨のメシア・文鮮明氏と統一教会のために人生を捧げることによって、死後は文氏(教祖)と共に“天国(天上天国)”で生活するようになると思っています。こうした死後の生活に対する希望が、統一教会の信者たちをいっそう狂信へと駆り立てることになっているのです。

広範囲にわたる活発な活動

――すべては“再臨のメシア”を頂点とする“地上天国”実現のため

統一教会はこれまで、広範囲にわたって活発な活動を展開してきました。伝道・布教活動といった宗教活動は言うまでもなく、政治・経済・情報など、さまざまな分野において精力的に活動を展開してきました。日本では勝共連合などの政治活動、政治家に対する政治工作、霊感商法などの経済活動、カープ原理研究会の学生活動、世界日報によるメディア活動、日韓ハイウェイ計画、そして布教を進めるためのさまざまな関連団体の設立など、数えきれないほど多様な分野に向けて働きかけを展開してきました。そうした中で、合同結婚式と霊感商法が社会を騒がせ、それが統一教会の代名詞となりました。

統一教会の活動は日本だけでなく、米国でも活発に行われています。水産関連事業の展開や、ワシントン・タイムズ(新聞社)の創設、UPI情報通信社の買収など、メディアに対する工作も盛んに進めています。韓国では、ソウル近郊に世界聖地となる巨大な宗教施設の建設を進め、日本人信者からの巨額献金がそのための中心的な資金源になっています。

このように統一教会は、世界中で多方面にわたる活発な活動を展開していますが、それらの活動のすべてが、“再臨のメシア”である文鮮明氏を中心とする“地上天国”実現という大目的のために行われているのです。次々とつくられる関連団体は、そうした計画を進めていくうえでの手段にすぎません。日本における霊感商法も、政治家に対する政治工作も、すべては地上天国を実現するための手段の一つなのです。

統一教会は、しばしば人を騙し、社会をあざむいて活動していますが、彼らは“地上天国”実現という大義の前には、それが許されることだと思っています。彼らにとって、日本の政治家を篭絡ろうらくして統一教会の拡大に利用することは大きな善であり、神の前に正義を行うことなのです。日本人や日本国家を利用し犠牲にすることも、正しい行為となるのです。

地上天国とは、統一教会が世界を支配すること

統一教会のすべての活動は、“再臨のメシア”である文鮮明氏を頂点とする地上天国の建設に向けられています。“地上天国”とは、すべての人間が文鮮明氏を再臨のメシアとして受け入れ、それに従う世界のことです。世界の宗教と政治が文鮮明氏のもとで統一され、支配される世界のことです。まさに安倍元首相は、そうした統一教会の政治工作に取り込まれたのです。首相という政治的最高権力者の地位にあった安倍氏が、統一教会関連のイベントにビデオメッセージ(祝辞)を送ったことは、統一教会にとって大きな成果でした。安倍氏は、統一教会にとって政治工作を進めるうえで、実に都合のいい存在でした。しかし、それは「霊的観点(神の摂理)」から見たとき、安倍氏が大きな罪を犯すことだったのです。

統一教会のあらゆる活動は、再臨のメシア・文鮮明氏を頂点とする“宗教世界帝国”をつくるためのもので、その大目的の前には、日本人も日本国家もそれを実現するための一つの手段にすぎません。日本人と日本国家を犠牲にしても、それはすべて良いことと見なされます。文氏は、統一教会のために他者が犠牲になることはその人の救いにつながる、といった詭弁きべんろうして、活動に携わる信者たちを洗脳してきました。

世界全体を自分たちの支配のもとに置こうとする統一教会のあり方は、ナチスのような独裁国家と本質的に違いはありません。自分を再臨のメシアとする文鮮明氏は、ヒトラーなどの独裁者と同じです。統一教会の教義に基づいて、世界中の宗教と政治を支配しようとする世界帝国主義の独裁者なのです。

地球上に生きる者は、いつか必ず死を迎え、霊界に行くことになります。文鮮明氏も2012年に他界し、霊界に入りました。再臨のメシアを自称してきた文氏は死後、どのような状態に置かれることになったのでしょうか。

実は、文鮮明氏は死後、独裁者としての本性をあらわにすることになりました。文氏は、一般の地縛霊とは比較にならないほど低い場所――“暗黒の地獄の底(幽界の最下層)”に追い込まれることになりました。霊界では、地上で隠されてきた彼の本性が、客観的な形となって示されるようになったのです。文鮮明氏の死後の様子については、次回のインフォメーションで詳しく取り上げます。)

統一教会を離れることは、死後、地獄に堕ちること

――信者に対する“恐怖の洗脳”

統一教会では、再臨のメシアによる救いを得た後に、統一教会を離れたり、統一教会を非難したり拒絶したりする者は、死後、地獄で永遠に苦しむようになると教えています。そのため信者たちは、地獄に堕ちることを恐れて必死に統一教会(宗教組織)にしがみつき、信仰生活を全うしようとしています。統一教会を離れることは、人間として最も不幸な運命をたどることを意味しています。こうした“洗脳”によって死後への恐怖を植えつけられた信者たちは“霊的牢獄”に閉じ込められ、教団の“霊的奴隷”になってしまいます。信者たちは霊的牢獄から抜け出せず、教団の言いなりになってしまうのです。

最近では、統一教会は“先祖解怨かいおん”という新たな洗脳手段をつくり出し、信者の不安を煽って巨額の献金を巻き上げようとしています。「何代前、何十代前の先祖が地獄に堕ちて苦しんでいるため、子孫にさまざまな災いが生じている」と脅し、「先祖を救うには、それに見合った償いのための献金が必要である」と強要します。かつて霊感商法で先祖の話を持ち出し、人々を騙してきたことを、今度は信者に向けて行っているのです。

先祖の中には地獄に堕ちて苦しんでいるというケースもあるでしょうが、統一教会のやり方で先祖が救われることはありません。地獄に堕ちた先祖は、苦しみの体験を通して罪を償っていくしかありません。自分が犯した罪は自分で償うというのが「神の摂理」であり、血のつながった子孫であっても、先祖の罪を代わりに償ってあげることはできないのです。苦しみの体験が、本人のカルマ(罪)の清算となるのです。そしてそれを通して「霊的意識」が目覚めたとき、救済霊団の働きかけによって地縛状態から解放されることになります。“自分で自分を救う”――これが「神の摂理」なのです。“先祖解怨”など、信者から金をしぼり取るための手段にすぎません。

儒教のシャーマニズム的風習を導入して、ニセの霊的行事を行う

統一教会が“霊感商法”や“先祖解怨”で持ち出す先祖の話は、すべて何の根拠もない嘘・作り話です。次元の低い悪質な子供だましの類で、「霊的事実」に基づくものではありません。子孫が供養をして先祖を救うという先祖供養の風習は、東アジア地域の宗教に広く見られる特色であり、それは原始宗教のアニミズムやシャーマニズムに由来するものです。

中国の儒教では、先祖の霊を地上に呼んで、子孫を通して先祖を地上に再現させる(子孫に憑依させる)という儀式が、伝統的に行われてきました。東アジアでは、先祖を地上に再現させて(一時的に呼び戻して)供養をするという風習・儀式が、受け継がれてきたのです。日本の仏教で行われているお盆の行事(先祖を家に呼び、子孫と一緒に過ごす)なども、そうした風習(東アジアのシャーマニズム)の変形バージョンです。

そこから、地上に恨みを持ったまま他界した先祖の霊が地上人にたたり、災いをもたらすという考え方が生じるようになりました。若くして死んで地上で幸福を味わえなかった霊や、結婚できずに子孫を残せなかった霊が恨んで災厄をもたらす(祟る)と考えるようになりました。そしてそうした霊を慰めるために、死者同士を結婚させたり、霊と地上人を結婚させるといった馬鹿げた儀式まで行われました。もちろんこうした風習・儀式に霊的根拠はなく、すべてが迷信の類ですが、中国や朝鮮・韓国、そして日本でも(少し前まで田舎では)実際に行われてきたことなのです。

統一教会は、こうしたシャーマニズム的な風習を取り入れ、もっともらしい理由をつけて信者を洗脳しているのです。言うまでもなくそれは“ニセの霊的行事”で、霊界の事実とは一致していません。「霊的事実」に照らしてみれば、迷信の類にすぎないことは明らかです。“霊感商法”や“先祖解怨”といった統一教会の詐欺行為・犯罪行為は、東アジアのシャーマニズム的風習を悪用して考え出されたものなのです。

“死後の運命”を恐れて歩む統一教会の信者たち

――“霊的牢獄”から抜け出せない信者の実態

熱心な統一教会の信者に共通しているのは、彼らが“霊的牢獄”に囚われているということです。間違った教義によって洗脳され、霊的牢獄(地縛状態)に閉じ込められているのです。霊的牢獄から抜け出すことができない状態――それは“魂の病気”です。そうした信者たちは死後、思ってもみなかった状況に追い込まれることになります。

統一教会の信者たちは、自分は死後、天国に行って幸福な生活を送ることができるようになるとの希望を抱いています。ところが実際に霊界に入ってみると、天国どころか“暗黒の地獄”のような状況に置かれることになります。統一教会の信者たちは例外なく、“地縛霊”になっています。霊的光の届かない暗闇の中で苦しみ、絶望的な生活を送っているのです。

次回のインフォメーションでは、地上で統一教会の信者だった“霊の証言”を紹介します。苦しみの末に、地縛状態から抜け出すことができた霊の証言(告白)を見ていくことにします。

(4)統一教会による救いとは

――再臨のメシアによる贖罪救済論

再臨のメシア・文鮮明氏による救いとは?

では、統一教会では“再臨のメシア”である文鮮明氏が、どのようにして人類を救済すると教えているのでしょうか。それを一言で言うなら――「再臨のメシアによる“完全な贖罪”によって」ということになります。再臨のメシアである文鮮明氏によって“完全な贖罪”がもたらされ、それによって人類は救済されるようになると説いているのです。

統一教会では、その“完全な贖罪”は、「合同結婚式に関わる一連の儀式を通して達成される」としています。したがって、全人類が救われるためには、人類のすべてが統一教会の信者になって、合同結婚式に参加しなければならないということになります。統一教会では、世界中のすべての人間を、統一教会の合同結婚式に参加させることを目的としています。文鮮明氏の存命中には、世界各地(韓国・日本・米国など)で大規模な合同結婚式が行われ、マスコミを賑わせました。

文氏の死後は、文氏の夫人(韓鶴子)が最高権力者(総裁)として君臨しています。夫人は自分こそが本当のメシアであると宣言し、夫・文氏の務めを引き継ぎ、合同結婚式を執り行ってきました。しかし、この韓鶴子総裁のメシア宣言は、それまでの教義を根底から覆す大事件です。文氏の死後の混乱を収拾し、教団を統制するために無理やり打ち出した手段であることは丸見えです。当然、古くからの信者たちはこれに反発し、多くの者が統一教会から離脱することになりました。

統一教会の教義の中心となる「贖罪説」

統一教会では、完全な贖罪は、再臨のメシアである文鮮明氏を通して実現することになるとしてきました。再臨のメシアによって贖罪が完成され、人類が救われるようになると教えてきました。

ここからは、統一教会の教義の核心である「贖罪説」について見ていくことにします。再臨のメシア・文鮮明氏による救済観は、キリスト教と同じ「贖罪説」に基づいています。統一教会の救済観を知るためには、キリスト教の「贖罪説」を理解する必要があります。

“贖罪”とは、生贄いけにえを神に捧げて人間の罪をあがなおうとする宗教的行為で、太古より世界各地の原始宗教において行われてきました。ユダヤ教をはじめとする古代宗教では、神の怒りを鎮め、許しを請うために生贄が捧げられてきました。その際、生贄として山羊などの動物が捧げられました。スケープゴート(贖罪の山羊)という言葉は、ここから生まれました。時には人間が、生贄として捧げられることもありました(人身御供ひとみごくう)。日本でも、雨ごい儀式に若い女性や子供が生贄として捧げられたことがありました。

キリスト教の「原罪説」と「贖罪説」

キリスト教では、人間は生まれながらにして人類共通の罪、“原罪”を持っているとします。人類の始祖であるアダムとイブが、蛇これをキリスト教ではサタン・悪魔と解釈)の誘惑に負け、神のおきてに背いて堕落したために“原罪”が発生したと考えます。

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の信者は、聖書を共有していることから“啓典の民”と呼ばれてきましたが、ユダヤ教とイスラム教は、人間に原罪があるとするキリスト教の見解を認めません。全人類が罪人であるという教えは、ユダヤ教にもイスラム教にもありません。「原罪説」は、キリスト教独自の教義なのです。

キリスト教では、人間始祖の堕落から発生した“原罪”が子孫に遺伝し、全人類が罪人として誕生するようになったとします。したがってキリスト教では、人間は皆、生まれながらにして“罪人”ということになります。この原罪が人類に悲劇をもたらし、人間は不幸になると考えるのです。

キリスト教では、唯一の神の子であるイエス(原罪のない神の子)が十字架上で生贄になったことで、人類の原罪が償われる道が開かれたとします。イエスが人類の罪を背負って犠牲になったことで、人類の罪(原罪)が許されるようになったと考えるのです。キリスト教では、この十字架上で死んだイエスを、人類の罪を贖い、人類を救うキリスト(救世主)であると信じることで罪が許され救われるようになると説いています。初期のキリスト教では、さまざまな考え方をするグループがあって、イエスによってもたらされる救いを別の意味で捉えるところもありました。しかし、キリスト教初期の神学論争を経て、最終的に“イエスの贖罪による救い”が、キリスト教の正統的(正式)見解となりました。)

キリスト教は歴史をたどる中で変遷し、カトリック・東方正教会・プロテスタントという“キリスト教三大宗派”に分裂し、互いに対立してきました。しかし、いずれの宗派においても、“キリスト(イエス)による贖罪”という教義は共有されています。それが、キリスト教の正統的見解だからです。この教義を認めないキリスト教は“異端”として、歴史上から抹殺まっさつされていきました。グノーシス派は、キリスト教初期における最大の異端でした。

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教は聖書を共有していますが、ユダヤ教とイスラム教は、イエスをキリスト(救世主)とは認めていません。それどころかユダヤ教では、イエスはユダヤ教の一人の過激な改革者で、正統なユダヤ教に対する反逆者としています。一方、イスラム教では、イエスはキリスト(救世主)ではなく、数ある預言者の中の一人にすぎないとしています。イスラム教では、ムハンマド(マホメット)を最後の預言者とし、最も重要な人物として位置づけているのです。

イエスを“キリスト(救世主)”としているのは、キリスト教に特有な考え方(教義)です。人間は皆、生まれながらにして罪人であるとする「原罪説」と同じく、イエスをキリストとするのもキリスト教独自の考え方なのです。

さらにひねった統一教会の「贖罪説」

――キリスト教の贖罪説をさらにバージョンアップ?

統一教会は、キリスト教の「贖罪説」を踏襲しています。したがって統一教会では、旧約聖書に基づき、サタン(悪魔・蛇)が人類始祖を誘惑して堕落させたために、罪(原罪)が発生したと考えます。そしてその罪(原罪)を贖い、人類を救うのが、十字架上で死んだイエス・キリストであると教えています。統一教会でも、イエスは人類を原罪から救う使命を持ったキリスト(救世主・メシア)であると認めているのです。

このように統一教会の教義は、キリスト教の「贖罪説」を土台としています。したがって統一教会では、サタンの存在、人類始祖(アダムとイブ)の堕落、原罪の発生、キリストによる贖罪・救済が、“教義(統一原理)”の中で重要な内容とされています。

ところが統一教会では、こうしたキリスト教の贖罪説を踏襲しながらも、そこに別の内容を付け加え、独自の「贖罪説」を打ち出しています。統一原理(教義)では、イエス・キリストの贖罪によって与えられる救いは、イエスが十字架上で死を迎えたため、完成されていないとします。イエスが磔刑たっけいによって殺害されたため、人類に対する贖罪というイエスの使命は全うされず、中途半端で終わってしまったと言うのです。

そして人類に対する贖罪・救済を完成させる使命が、“再臨のメシア”に引き継がれることになったと説いています。その再臨のメシアこそ“文鮮明氏”であり、文氏を通して贖罪(原罪からの解放)が完成し、人類は本格的に救済されることになると教えているのです。これが統一教会の「贖罪説」に基づく“救済論”で、統一教会の教義の最も重要な部分・核心部分を形成しています。

キリスト教も統一教会も、キリスト(メシア)の贖罪による人類救済を説いていますが、スピリチュアリズムは「霊的事実」に照らして、それ(贖罪による救済)を否定します。人類の救済はメシアによる贖罪を通してではなく、「神の摂理」の実践を通してなされるものです。すなわちスピリチュアリズムは、贖罪ではなく「神の摂理(霊的真理)」による人類救済を主張しています。神の摂理である真理を理解し、それを実践して霊的成長をすることが、人類の“真の救い”であるとしているのです。

2021年、イエスは二千年ぶりに地上に降臨しましたが、人類を原罪から解放するキリストとして現れたのではありません。再臨したイエスは、「神の摂理(霊的真理)」を示し、それに基づく生き方を教えるという形で“人類の救済”を進めていくことになるのです。

(5)霊界で明らかにされている、統一教会の教義(統一原理)と文鮮明教祖のウソ

――霊界では、宗教の間違いは一目瞭然となる

「霊的無知」だった文鮮明教祖

――霊界の事実を何も知らなかった文鮮明氏

統一教会の霊感商法や先祖解怨では、先祖が地獄に堕ちて苦しんでいるために子孫に災いが生じると脅し、先祖を救うためと称して法外な金銭を巻き上げてきました。「霊的事実」を知らない人間にとって、死後の運命は未知の世界であり、大きな恐れとなります。統一教会では、そうした人間の弱みに付け込み、不安を煽って人々を騙してきました。もし人々が霊界の事実を明確に知っていたなら、統一教会の霊感商法や先祖解怨に騙されるようなことはなかったでしょう。悪質な詐欺にひっかかることはなかったはずです。霊界についての事実を知らないこと、すなわち「霊的無知」が地上人類にとって最大の弱点なのです。

そしてそれは、“ニセの先祖話”を用いて人々を騙してきた統一教会の信者にも、そのまま当てはまります。統一教会の教義(統一原理)では、霊界について言及していますが、その内容は霊界の事実とはかけ離れています。統一教会の信者は、自分たちは霊界について知っていると思っていますが、本当は何も分かっていません。それは教祖・文鮮明氏も同じで、霊界の事実を全く分かっていなかったのです。文氏には、霊界についての正しい知識も高い霊能力もなかったのです。

文鮮明氏は、霊界の事実を知らないにもかかわらず、心霊書(スウェーデンボルグなどの霊界通信)や東アジアのシャーマニズム関連の知識をもとに霊界と霊能者について論じ、“ニセの教義(統一原理)”をつくり上げました。間違った霊的知識を都合よくまとめ上げ、それを利用して信者に恐れを植え付け、“霊的牢獄”に閉じ込めてきました。

文鮮明氏は“再臨のメシア”を自称し、自らの権威を高めるためにすべてのエネルギーを注ぎ込みました。文氏は人を騙す能力や話術には長けていましたが、真実を悟る霊性・謙虚さを持っていませんでした。本物の霊能力もありませんでした。文氏は神や愛を語りながら、支配欲と自己顕示欲が強い、神の摂理から最も遠い人間だったのです。

霊界で苦しんでいる文鮮明教祖と信者たち

霊界では、“教義”の間違いは誰の目にも明らかになります。嘘は一切通用せず、教義の間違いが暴露されることになります。統一教会では、教義に忠実な信仰生活を送った者は、死後は天国に行って幸せになると教えています。しかし実際は、文鮮明教祖と信者たちは、地獄さながらの暗黒の世界で苦しんでいます。逃げ場のない“霊的牢獄”の中で、苦痛にさいなまれているのです。

これまでインフォメーション(No.39~43)では、キリスト教聖職者の死後の様子を紹介してきました。実は統一教会の信者たちも死後、キリスト教徒と同じような、時にはそれよりさらに苛酷な状況に立たされることになります。彼らは地上生活で間違った教義を信じ込んでいたために霊性が開かれず、霊的光を受け入れることができなくなっています。そのため死後は、霊的光が届かない“暗黒のスポット(霊的牢獄)”の中に閉じ込められてしまうのです。

文鮮明教祖と信者たちが、死後の世界で苦しんでいるという事実は、統一教会の教義が根本から間違っていることを証明しています。もっとも、統一教会の信者はこの話を直ちに受け入れることはできないでしょうが、ここで述べていることは、すべて真実です。死後、誰もが自分の目で確認することになる「霊的事実」なのです。文鮮明教祖と信者たちの死後の様子については、次のインフォメーションで詳しく紹介します。)

霊界で明らかになっている統一教会の間違い

霊界では統一教会の“教義(統一原理)”の間違いが、目に見える形となって現れます。客観的事実として示されます。それに対して言い訳や、言い逃れをすることはできません。「神の摂理」にそった形で、ありのままの姿・真実が示されるのです。すべてが厳然とした「霊的事実」として示され、誰の目にも明らかになるのです。

再臨のメシアとされる文鮮明氏が“ニセモノ”であること、統一教会の信者は救われるどころか大変な苦しみを味わうようになること、統一教会の信仰は無意味であるだけでなく魂を霊的牢獄に閉じ込める、きわめて有害なものであることが「霊界の事実」として明白にされるのです。

(6)霊的事実から明らかにされる統一原理の贖罪説の間違い

――文鮮明教祖による贖罪は、すべて作り話

霊界の事実に一致しない統一原理の“贖罪説”

統一教会の教義(統一原理)は、一見すると論理的で整合性を持ち、一貫した壮大な宗教思想体系のように映ります。そうした壮大な教義の中で“贖罪説”は、最も重要な部分・土台を形成しています。この統一原理の贖罪説が「霊的事実」に一致しているなら、再臨のメシアである文鮮明氏を通して人類に完全な救いがもたらされるとの教えは、正当性を持っていることになります。

しかし結論を言えば、統一教会の贖罪の教義は根本から間違っています。内容のすべてが「霊的事実」に一致していません。“統一原理”という教義は、教祖である文氏が頭の中で考え出したものです。霊感によって書いたものでもなければ、霊的事実を霊視して記したものでもありません。単なる思弁の産物にすぎず、空想と等しいものなのです。文鮮明氏が説く贖罪の教義は、神の摂理から外れた“人工の教義・偽りの教義”なのです。

霊的根拠のない統一原理の“贖罪説”

――原罪から人類を救済する“再臨のメシア”は不要

キリスト教と統一教会の贖罪説は、(霊界に)サタン(悪魔・堕天使)が存在すること、人類始祖がサタンの誘惑によって堕落したこと、その結果として原罪が生じたことを大前提としています。しかし、霊界のいかなる高級霊に尋ねても、そうした贖罪説を認める者はいません。サタンの存在、人類始祖の堕落、原罪の存在を認める高級霊は、誰ひとりいないのです。霊界の高級霊から見たとき、キリスト教と統一教会の贖罪の教義の間違いは明らかです。すべて作り話です。大前提となる概念が意図的・人工的につくられたものである以上、原罪から人間を救済するというキリスト(メシア)は不要となります。

サタンがいて、原罪が存在してこそのキリスト教であり統一教会なのですが、霊界にはサタンもいなければ、人類始祖のアダムとイブもいません。原罪もありません。当然、原罪から人間を救うというキリスト(メシア)も不要ということになります。言うまでもなく、再臨のメシアとして人類を救済するという文鮮明氏も不要ということになります。「霊的事実」に照らしてみれば、文鮮明氏を再臨のメシアとする統一教会の贖罪説の嘘は明白です。文鮮明氏を再臨のメシアとする教義(統一原理)は、完全に間違っています。文氏は、再臨のメシアではありません。当然、文氏の後継者となった韓鶴子総裁がメシアであるはずはありません。

イエスは二千年前、地球人類を救済するために地上に誕生しましたが、それはメシア(救世主)として人類を原罪から解放するということではありません。イエスが人類にもたらそうとしたのは、「霊的真理」による救いです。「神の摂理」である霊的真理を説き、その実践を通して霊的成長をなすという“真の救い”を人類に示したのです。

2021年の「イエスの地上再臨」によって、文鮮明・再臨のメシア論の嘘が暴かれた

再臨のメシアを自称する文鮮明氏にとって最も困ることは、本物のイエスが地上に再臨することです。統一原理の“再臨のメシア論”は、イエスが再び地上に降臨しないことを前提としています。ところが2021年に、二千年前に他界した本物のイエスが地上に再臨したのです。これによって文鮮明・再臨のメシア論は、根底から崩れてしまいました。イエスの地上再臨によって、統一教会の再臨のメシア論は真っ赤な嘘であることが証明されてしまったのです。

もっとも文鮮明氏は、イエスの地上再臨のほぼ十年前(2012年)に他界していますから、地上で大恥をかき、屈辱を味わうようなことにはなりませんでした。とは言え、文氏は死後、自らが犯した大罪により、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けることになりました。現に今、文氏は真っ暗闇の沼の底でもだえ苦しんでいるのです。

教祖と信者の死後の現実が、統一原理の“贖罪説”の間違いを証明

宗教の教義や理論の正当性は、それを実践に移したときの結果として明確に示されます。統一教会の贖罪教義の間違いは、文鮮明教祖の贖罪によって救われたという信者たちの死後の様子を見ることで明らかにされます。

統一教会の教義(統一原理)によれば、統一教会の信者は再臨のメシアである文鮮明氏を通して原罪が消滅して救われ、死後は天国に行くことになります。ところが実際には、統一教会の熱心な信者たちは死後、天国に行くどころか地獄のような幽界下層の“暗黒のスポット”に引き寄せられ、地縛霊の集団をつくり出しています。

この事実は、統一原理の“贖罪説”が真実ではないことを証明しています。これまでスピリチュアリズム普及会では、インフォメーションを通して地縛霊になって苦しんできたキリスト教の聖職者の証言を紹介してきましたが、統一教会の信者も死後、キリスト教の聖職者と同じ運命をたどることになるのです。

そして何よりも驚かされることは、教祖である文鮮明氏の死後の様子です。文氏は、普通の信者たちよりもはるかに低い地獄の底に直行し、そこに閉じ込められているのです。歴史上、最も非道な独裁者(ヒトラー、スターリン、毛沢東など)と変わらない、実際にはそれ以上にひどい状況に置かれています。真っ暗闇の地獄の底で毎日、24時間、発狂しそうな状態で過ごしているのです。

こうした霊界の事実は、統一教会の信者たちに大きな衝撃を与えることになりますが、すべて真実です。おそらく統一教会の信者の多くは、そんな話は嘘だと言って信じようとしないでしょう。あるいは、サタンによる作り話だといった反論をするかもしれません。しかし、それは死後、誰もが確認することになる厳然とした「霊的事実」なのです。

熱心な統一教会の信者たちが死後、地縛霊のグループを形成している事実、そして再臨のメシアであるはずの文鮮明氏が死後、想像もつかないような最悪の地獄に堕ちている「霊的事実」を通して、統一教会の贖罪教義の間違いが証明されます。

統一教会の信者たちは、教義に反した生き方をすれば死後、地獄に堕ちるようになると脅されて信仰生活を送ってきました。間違った教義によって洗脳され教団(組織)の言いなりになって、奴隷のような信仰生活を続けてきました。その結果は、今述べた通りです。これが熱心な統一教会の信者の死後の現実なのです。統一教会の信者の方たちには、一刻も早く霊的牢獄から抜け出してほしいと思います。死後、地縛霊になって大きな苦しみを味わうようになる前に、勇気を出して統一教会を去ってほしいのです。『シルバーバーチの霊訓』が、そのための力を与えてくれるはずです。

次回のインフォメーションでは、教祖・文鮮明氏の死後の様子と、統一教会の洗脳から解き放たれ新しい道を歩み出した霊界の信者たちの様子について取り上げます。それを通して皆さんは、統一教会の信者として地上時代を過ごしてきた人たち(霊)の証言(生の声)を聞くことになります。また、安倍元首相の死後の様子(※)と、日本における統一教会発展の立役者である岸信介元首相(安倍氏の祖父)の後悔の告白を紹介します。岸氏が現在、統一教会を解散・撲滅に追い込むために、霊界から地上に必死に働きかけている事実についてもお知らせします。

統一教会では、安倍氏は死後、天国から降りてきた文鮮明氏に手引きされ、天国で語り合っていると言っていますが、それはすべて噓・作り話です。

“聖家庭”の実態を通して証明される、統一原理の贖罪説の間違い

統一教会の贖罪教義の間違いは、霊界の事実に照らしてみれば明らかですが、地上の信者たちの様子を通しても知ることができます。統一教会の贖罪教義によれば、信者は再臨のメシア・文鮮明氏の贖罪を通して原罪が拭われ、無原罪の状態になるとされます。ところが現実には、文鮮明氏から贖罪(合同結婚式)を受けたにもかかわらず、信者たちの間にさまざまな問題が噴出しています。それに対して統一教会では、再臨のメシアによる贖罪を受けても完全な無原罪状態になるには、その後、一定のプロセスと時間がかかるという言い訳じみた理屈(レトリック)を掲げています。堕落性という奇妙な言葉(概念)をつくり出し、地上人には堕落性が染みついていて、再臨のメシアによる贖罪の効果は、直ちには表面化しないと言うのです。

こうした屁理屈は、霊的奴隷状態に置かれている統一教会の信者には説得力があるかもしれませんが、再臨のメシア・文鮮明氏の家庭には通用しません。なぜなら再臨のメシアである文氏の家族には“原罪がない”とされているからです。文氏と血のつながった子供に原罪はないため、彼らは神が認める罪のない人間としての生き方が可能になっているはずなのです。

熱心な統一教会の信者は、この文鮮明氏の家庭を自分たちの信仰の手本・家庭の理想(目標)として歩んでいます。原罪から解放された人間の姿・家庭のあり方を、文氏の家族(家庭)に見ているのです。文鮮明氏の家族が、無原罪の家庭の手本を示してこそ、統一教会の教えは正しかったということになるのです。

では、実際の再臨のメシアの家庭はどうなっているのでしょうか。統一教会の信者は、この問いに答えようとしません。なぜなら、文鮮明氏の家庭がいかに酷い状態にあるのかを知っているからです。文氏の死後、後継の座をめぐって家庭内で激しい骨肉の争いが起きました。息子たちの間で、また母と息子たちとの間で醜い争いが繰り広げられました。挙句の果てに、実権を握った母親が息子を破門して、統一教会から追放しています。文鮮明氏の家庭の醜聞しゅうぶんは、目を覆いたくなるほどです。これが手本とされるべき“聖家庭”の実態なのです。

文氏の家庭の分裂が、統一教会を3つに分裂させることになりました。夫人を中心とする主流派と、七男がつくったサンクチュアリ教会(ガン・チャーチ)が対立し、信者の奪い合いをしています。文氏と韓鶴子夫人との間には、14人の子供(男7人、女7人)がいますが、そのうち6人が離婚し、3人(女)が一般人男性と恋愛結婚しています。理論(教義)と現実は、あまりにも違っています。これで“聖家庭”とは、呆れてものが言えません。

文氏の長男(文孝進)は、アルコール中毒や薬物使用の疑いが指摘され、2008年に心臓まひで他界しています。その長男は売春婦から性病をうつされ、それを結婚して間もない夫人(妻)にうつしてしまいました。そのため夫人は何年もの間、性病の治療で苦しむことになりました。その事実が夫人によって公表されています『わが父、文鮮明の正体』洪蘭淑著:文藝春秋社発行)。こうしたことが文氏の存命中に、現実に起きていたのです。

統一教会の贖罪教義の間違いは、すでに述べたように、教義の内容と霊的事実の不一致を通して明らかです。また、文鮮明教祖と信者の死後の様子や、文氏の家庭の実態を見れば明白なのです。

次回のインフォメーションでは、文鮮明教祖と信者たちの死後の様子を取り上げます。あまりの生々しい報告・証言に、皆さんは言葉を失うことでしょう。当然、統一教会の信者たちは、“これはすべて作り話だ。サタンの仕業だ”といったお決まりの反論をすることでしょう。しかし、幸いなことに統一教会では、霊界の存在や霊との交信・交わりを認めています。その点で、霊界とか霊との交信というだけで頭からサタンと決めつけ、一切聞く耳を持たないエホバの証人(ものみの塔)とは異なります。私たちと接点を持つことができます。

統一教会の信者だった霊の証言を聞く中で、必ず“魂”にひっかかりを感じるようになります。すぐには受け入れられなくても、今後の歩みの中で、霊界から届けられた元信者たちの言葉が心に浮かんでくるようになることでしょう。

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