スピリチュアリズムから見た「オウム問題」〈No.2〉

――宗教組織の洗脳と狂気

インフォメーションNo.30

今回は「オウム問題」の後半について、述べていきます。「オウム問題」前半

(7)地球上の組織宗教を支配する“宗教エゴイズム”

――自分たちだけが正義で、他は間違っている

現在の地球上には多くの組織宗教がありますが、その大半は“宗教エゴ”に支配されています。そしてその宗教エゴから、さまざまな悲劇が生み出されています。オウムのテロ殺人もISの自爆テロも、宗教エゴから生じた狂気によって引き起こされた事件でした。ここでは地上の組織宗教に付きまとう“宗教エゴ”について見ていきます。

純粋な信仰心・信仰的盲目性という神聖な「霊的本性」を悪用する宗教家・宗教組織

純粋な信仰心や信仰的盲目性は「霊の本性」であり、霊的親である神と一体化するために与えられた霊的資質です。信仰的盲目性には強力な“霊的エネルギー”がともない、それを発動させることによって、親なる神との一体化を進めることが可能となるのです。人間は「神の分霊(ミニチュアの神)」を本体とする神の霊的子供であるため、神に惹かれ、神に憧れ、神を求めて永遠の霊的進化の道をたどるようになっています。人間は「霊」を持っているがゆえに、霊的親である神を全面的に受け入れ、神に絶対帰依するという盲目的要素を持つことになったのです。

霊の本性である“純粋な信仰心・信仰的盲目性”は、霊的刺激を受けることによって、強力な霊的エネルギーを発揮します。私たち人間は「霊」に霊的刺激が与えられると、膨大な霊的エネルギーを発動するようになります。多くの組織宗教では、この信仰的盲目性から発する強力な霊的エネルギーを悪用してきました。信者たちを洗脳し、そのエネルギーを悪なる方向(自己中心的な方向)に用いて、“宗教の狂気”を発生させてきました。

野心的で霊的無知な宗教家(教祖)は、こうした「霊」の性質を利用して、自分(教祖)に対する絶対帰依性・盲信性を引き出し、自分を中心とする宗教組織をつくり上げます。狡猾な教祖は、信者たちの信仰的盲目性という霊的性質を利用して自分を神のように絶対視させ、自分の思いどおりに操ろうとするのです。オウム真理教の信者たちが、見るからに世俗的で強欲な麻原に心酔し、神のように崇拝したのも、その純粋な信仰心・信仰的盲目性が洗脳によって悪用されたからです。

宗教組織による“洗脳プロセス”

――信仰的盲目性を利用して、信者の心を支配

純粋な信仰心・信仰的盲目性は、人間の考え方や人生の方向を決定し、時に大きく狂わせることになります。純粋な信仰心・信仰的盲目性を間違った方向に導き狂わせるのは、教祖や宗教組織によって与えられる間違った霊的刺激・霊的圧力です。

宗教組織(教団)は、信者たちの純粋な信仰心・信仰的盲目性を刺激し、洗脳します。間違った霊的刺激を与えることで信者の心を教祖と教団に服従するように仕向けます。それによって信者たちは教祖を絶対視し、神格化するようになっていきます。

教団による洗脳がさらに進むと信者たちは、自分の人生のすべてが教祖と教団のためにあると思うようになります。自分と教団は一体不可分の関係にあると考え、教団の命令を命がけで実行しなければならないと思い込むようようになるのです。そうした信者にとっては、教祖と教団の指示に従うことが信仰であり、神の意向にそうことであり、最も正しい生き方ということになります。そして信者たちは、教団の指示に従って布教の実績を上げることが自分の“信仰の証”であると考えるようになるのです。

こうした洗脳のプロセスを経て、本来なら「神」と「神の摂理」に向けられるべき純粋な信仰心・信仰的盲目性は、俗悪でエゴ的な“教団至上主義”――すなわち“狂信”へと変貌していくことになります。

洗脳されることに安心と快楽を感じる信者たち

一方、洗脳される信者の側にも根本的な問題があります。“信仰的盲目性”は、洗脳される本人に安心と快楽・喜びをもたらすことになります。信仰的盲目性は本来、霊的親である神を全面的に受け入れ、神の愛に包まれて安心と喜びを得るための霊的資質です。ところが教団の洗脳によって“魂”が束縛され、神ではなく教祖と教団が絶対的な存在になってしまうと、信者たちは教祖と教団に服従することに安心と喜びを感じるようになっていきます。麻薬が人間の心を狂わせるように洗脳が信者たちの心を狂わせ、洗脳されることによって心が安定し、快感を感じるようになってしまうのです。

こうして信者たちは、自ら喜んで教祖と教団の命令に従い、人生を捧げるようになっていきます。教祖と教団のために働くことが喜び・生きがいとなった信者たちは、自分で考え判断することをやめ、教祖と教団の命令に忠実に従う“ロボット”のような存在になってしまいます。そしてそれが正しい信仰であると確信し、布教活動に奔走するようになるのです。

これが“洗脳”によってつくられる世界です。洗脳は教祖と教団にとって都合がいいだけでなく、信者たちにとっても実に気楽で生きがいのある人生をもたらしてくれるものなのです。こうして信者たちは完全に教団に取り込まれ、“従順な子羊”として生きていくことになります。

自分たちの教団こそが“唯一の正義”である

――“宗教エゴイズム”の形成

純粋な信仰心と信仰的盲目性は、宗教組織による洗脳を通して信者の心に、「自分たちの教団だけが世界で唯一の正義であり善である」「自分たち以外の宗教や社会はすべて間違っている」との信念を植え付けることになります。それによって信者は、自分たちの教団や教義に対する批判は悪なる勢力(サタンなど)の仕業であるとし、批判する人間を“悪の手先・神への敵対者”であると決めつけるようになります。そして「そんな人間や社会に存在価値はない。自分たちに歯向かうようなものは滅ぼしても構わない。それが神の願いにそうことである」と考えるようになるのです。

キリスト教もイスラム教もIS(イスラミックステイト)もオウム真理教も、さらには世間で“カルト”と呼ばれているさまざまな宗教も例外なく、自分たちだけが“唯一の正義”であり、それに反対する者はすべて“悪なる勢力”であると考えています。そして自分たちに反対する人間を、神への敵対者・人類全体への敵対者として戦いを挑みます。これが“宗教エゴイズム”の実態です。そこにあるのは、「正しいのは自分たちだけ」という自己中心性です。当然、周りの人間が何を言っても聞き入れようとせず、たとえ親や兄弟であっても、自分の“敵”と見なすようになります。

宗教の強烈なエネルギーと狂信

こうした“宗教エゴ”がエスカレートすると、やがて宗教組織は“盲信グループ”の域を超えて“狂信グループ”に至り、“狂気”が当たり前になっていきます。

古来、人々は宗教の強烈なエネルギーを恐れてきました。宗教のパワーの大きさ・強烈さに警戒心を抱いてきました。宗教組織は一致団結して、死をも恐れず敵に突進し、徹底して抵抗します。為政者にとって宗教は、まさに恐るべき勢力です。戦国時代には、一向一揆が戦国大名を恐れさせました。そして今は、ISが自分たちの国家を樹立して世界を恐怖に陥れています。

狂信的な宗教組織は、「自分たちだけが正義で、他はすべて間違っている」という単純な論理のもとに信者たちの敵愾心を煽り、相手に立ち向かわせていきます。相手を滅ぼすまで、決して手をゆるめようとしません。それこそが妥協のない自己中心主義・強烈な宗教エゴイズムから生じた“宗教の狂気”なのです。オウムの殺人事件も、こうした“宗教エゴ”がエスカレートする中で引き起こされました。

宗教エゴと狂信のもとで“人殺し”も正当化

自分たちだけが正義で、他はすべて間違っているという“宗教エゴ”のもとでは、周りの宗教や社会を攻撃するのは正しい行為・神の意志に適う正当な行為ということになります。人類を救うのは自分たちだけ、神の意志を正しく実践しているのは自分たちだけという自己中心的な自負心は、「自分たちに反対する者は滅ぼさなければならない」という間違った信念をつくり上げるのです。

オウムの信者(幹部たち)が、自分たちに反対する人間を粛清しようと考え、サリンを撒いて大量殺人を図ったのはそのためです。実行犯は、その行為を“正義のため”と信じていました。自分たちだけが正しいという独善的正義心が、信者たちを狂気に駆り立てたのです。しかし彼ら自身は、自分たちの行動が狂気であるとは思っていませんでした。人類のための正義の行為であると考えていたのです。ISの自爆兵士も、テロ攻撃は神が認める正義の行為であり、それを達成すれば天国で素晴らしい生活が(褒美として)与えられると信じています。宗教がらみの殺人事件は、一般の人々にとっては許しがたい凶悪犯罪ですが、彼らにとっては最高の正義の行為・正しい信仰実践ということになるのです。

こうした“宗教の狂気”は、地球上の宗教ではありふれたことです。キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、そして現在のカルト宗教も同じです。「自分たちだけが正しくて、他は間違っている」との極端な自己中心主義・宗教エゴイズムに支配されてきました。“宗教エゴによる狂気”――これが組織宗教によって引き起こされる問題に共通する内容です。

宗教エゴイズムはしばしば、“唯一神信仰”のもとで極端な姿をとって現れます。キリスト教やイスラム教やユダヤ教という“一神教宗教”は、現在の地球上で最も多くの信者を抱えています。それらの信者人口は、地球人口の6割以上にも及んでいます。歴史を見れば分かるように、そうした一神教宗教の間で悲惨な宗教戦争が引き起こされてきましたキリスト教とイスラム教の戦争、イスラム教とユダヤ教の戦争)。また異なる宗派の間でも激しい殺し合いが行われてきましたカトリックとプロテスタント、スンニー派とシーア派など)。そして今でも、悲惨な宗教戦争・殺し合いが続いています。

キリスト教やイスラム教などの宗教に対して、日本の神道に代表される“多神教宗教”では、信仰対象それ自体に多様性があるため、一つのものへの盲目的信仰の度合いが薄れます。そのため多神教宗教の中では、一神教宗教ほどひどい宗教・宗派間の対立や紛争・人殺しが発生するようなことはありません。

しかし多神教には、宗教・信仰としての純粋さという点で大きな欠陥があります。大半の宗教が人間中心・自分中心の“ご利益信仰”にとどまっています。

(8)宗教エゴの発生源

――「教祖」という宗教的独裁者

カルトと呼ばれる熱狂的・狂信的な教団(宗教組織)に共通するのは、「正しいのは自分たちだけ、正義は自分たちの教団にある」「自分たち以外は皆、間違っている。すべて神の敵対者である」という極端に自己中心的な考え方です。そうした狂信的な教団の中心には必ず、創始者である「教祖」や、組織をまとめる権力者・カリスマ的リーダーがいます。教団の宗教エゴは、決まってこうした人間から始まっています。

ここでは“宗教エゴ”を生み出すもととなる教祖やカリスマについて見ていきます。

「教祖」の宗教的カリスマと、宗教組織の形成

世の中には、純粋な信仰心・信仰的盲目性を利用して人々を騙し、自分の利己的野心を達成しようとする人間がいます。それが絶大な宗教的カリスマ(権威)を有する「教祖」や「カリスマ的リーダーたち」です。たいていの宗教組織(教団)は、「教祖」と言われる人間が霊感によって啓示を受けるところから始まります。教祖が受けた啓示は神からのメッセージとされ、人類を救う教えとして教団の教義になります。そして「教祖」のもとには多くの信者が集まるようになり、宗教組織(教団)が形成されることになります。

神の啓示を受け取り、それを取り次ぐ「教祖」は、信者にとっては崇拝の対象となります。教祖の宗教的カリスマ性(権威)は時とともに増大し、やがて神格化されるようになります。教祖の言葉は“神の言葉”として絶対視され、教祖は神の代理者として、また神そのもの(神の顕現)として、信者たちの信仰対象となっていきます。こうして信者たちは「教祖」に絶対帰依し、盲目的に従う世界が形成されることになるのです。

教祖の自己陶酔

教祖は、多くの信者たちに取り囲まれているうちに「自分は特別な人間になった」と思い込み、“自己陶酔”の世界に浸るようになります。神になったかのような快感にとらわれるようになります。

しかし、教祖になるような人間であっても、最初から自分のことを特別な人間・偉大な人間と思っていたわけではありません。信者たちに取り囲まれ、大勢の人間を従えているうちに、世の中の支配者になったかのような感覚が芽生え始めるのです。人間には、人々から注目されることに心地よさを感じる性質があります。「肉体本能」から発する利己的感情や優越心や名声欲が満たされるようになるからです。大衆の注目を集めることには、抗しがたい魔性がともなうのです。

こうした“自己陶酔”は、何も宗教に限ってのことではありません。世の中には、教祖タイプの人間が多く存在します。特に一代で大出世を遂げたような人物に、しばしばそうした傾向が見られます。彼らは異常な人間性ゆえに短期間に人々の心を掴み、この世的な成功を収めます。いったん名声欲や権勢欲の満足を味わった者は、その感覚が忘れられなくなります。歌手が人気を得て大観衆の前に立ち続けているとそれが快感となり、病みつきになるのと同じです。一度でもこうした快感を知ると、もはや後戻りできなくなってしまうのです。

教祖の座についた当初は自分に自信が持てず、本当に自分は神の代理者なのだろうかと半信半疑の思いを抱いていた者も、大言壮語を繰り返し、神の代理者を演じているうちに、徐々に演技と実像(実際の自分)の区別がつかなくなっていきます。そして自分を特別な使命を持った人間であると錯覚するようになっていきます。自分自身を騙して演技をしているうちに本当の自分を見失い、勝手につくり上げた人物像を、自分の本当の姿であると思い込むようになってしまうのです。これが「教祖」と呼ばれる人間の実態です。

オウムの麻原は、まさにそうした人間でした。他の新宗教の教祖にも、こうしたタイプの人間が多く見られます。“地上の神”に成り上がった教祖に共通するのは、尊大さ(傲慢さ)と霊的無知と大言壮語です。彼らの言動は、見ていて恥ずかしくなるほどですが、感覚がマヒしている当の本人には、その不自然さが分かりません。しかし、そうしたニセの姿はやがてメッキがはがれ、信者たちの離反を招くようになります。そして自分の愚かさのツケを“孤独”という苦しみの中で味わうことになるのです。

教祖の霊的無知と自己愛

――宗教の教祖は、世の独裁者と本質的に同じ

絶対的な宗教的権威(カリスマ)を持つことになった「教祖」が、霊的事実に一致した正しい教えを説くなら、純粋な信仰心・信仰的盲目性は、信者の心を善なる方向に導き、霊的成長をもたらすことになります。

しかし実際には、ほとんどの教祖が霊的事実を知りません。「霊的無知」のために、自分が受けた啓示を完璧な真理であると思い込み、それがごく一部の真理でしかないことが分かりません。真理どころか“低級霊”からの通信であることも多いのですが、それが分からないのです。権力が自分に集中する中で傲慢になり、もはや他人の意見や批判には耳を傾けようとしません。自分の意見に対する反論は認めず、自分を批判する者は神への敵対者であると決めつけ、教団から追放します。霊的知識のない人間が絶対的な権力を持つことほど、始末に負えないものはありません。そうした教祖に従う信者たちは、本当に気の毒としか言いようがありません。

さらに教祖は、権力が増大するにともない「肉体本能」を刺激され“自己愛”をふくらませるようになっていきます。権力を握ったことで自己愛をふくらませていくのは、独裁者の常です。そのことは歴史を振り返ってみればよく分かります。人間の歴史は権力闘争の歴史であると同時に、権力者が自己愛を増幅させていくプロセスでもあるのです。

独裁者は、例外なく極端な“自己愛”の持ち主です。独裁者にとっては自分が一番大切で、次に自分の身内と崇拝者がかわいいのです。「教祖」とは、宗教的権力を独占する独裁者であり、世の中の独裁者と本質的に変わりません。

教祖の間違った教えと、教祖の増大した自己愛が、教団を“宗教エゴ”に奔走させる

教祖は世の中の独裁者と同じく、崇拝者が増えるにつれて“自己愛”を際限なくふくらませていきます。口では人類愛や人類の幸福を唱えますが、そうした理想的な言葉は、本人の心の中からはすっかり消え失せています。それに代わって“物欲・肉欲”が増幅し、利己的・本能的な思いが心を支配しています。

多くの宗教組織(教団)では、教祖は自分の子供や血縁者にその立場を継がせて、死後にも自らの権威を誇示しようとします。しかし、宗教という“霊的権威”を血縁者に継がせようとする行為は、まさしく本人の「霊的無知」を示しています。物欲性と自己中心性の根深さを表しています。血縁者に教祖の地位を継がせて自分が築いた権威を地上世界に残そうとすることは、その宗教が物質次元だけの存在であって、霊的要素が何もないことを証明しています。

霊的無知と肥大化した自己愛から出される教祖の指示・命令は、信者を間違った方向に走らせることになります。絶対的な権力を持つ教祖の命令には、誰も逆らうことができません。オウムの教祖・麻原の殺人命令に対して、幹部の誰も逆らうことができなかったのはそのためです。組織内にいるかぎり、信者たちには無知で強欲な教祖に従うしか道はなかったのです。

絶対権力を握った教祖・麻原は、歴史上の独裁者であるヒトラーやスターリンに匹敵する独裁者でした。霊的無知とふくれ上がった自己愛から、絶対権力を振りかざして次々と命令を下す姿は、まさに織田信長や歴史上の独裁者と同じです。独裁者が単なる思い付きや気分から繰り出す命令は絶対的であり、すべての信者を地獄へ道連れにしていくことになります。

オウム事件はまさに、こうした教祖の霊的無知と増大した自己愛によって引き起こされました。教祖・麻原のエゴが“オウム真理教”という極端にエゴ性の強い宗教組織をつくり出した結果、発生したものなのです。麻原の頭の中には、オウム真理教を拡大させ、自分が世界の中心者になることしかありませんでした。それは信者のためでも、世の人々のためでもなく、すべて自分自身のためだったのです。麻原の命令によって幹部たちはテロ殺人を犯しましたが、公判では麻原は事件のすべての責任を信者(幹部)たちになすり付け、信者が勝手にやったことだと責任転嫁しました。麻原は、これほどまでに無知で強欲で自己愛の強い人間だったのです。

しかし、それは麻原一人に限ったことではなく、他の狂信的な宗教の教祖にも等しく見られる内容なのです。

(9)オウム事件の真の原因とは

――無知で自己愛に支配された野心的な人間が、宗教的カリスマを確立したこと

これまでの話を通して、オウム事件の真の原因がどこにあったのか、徐々に明らかになってきたものと思います。オウム事件の真相とは、何だったのでしょうか? それを引き起こした最大の原因とは、何だったのでしょうか?

ここでオウム事件の原因について整理します。ここでのキーワードは――「信仰的盲目性」「宗教の洗脳と狂気」「教祖の霊的無知と自己愛」「教祖を頂点とする宗教組織」「宗教エゴ」です。

「霊」の本性である“純粋な信仰心・信仰的盲目性”

――すべての人間に内在する霊的要素

大霊である「神」は、自分の分霊を人間に与え、「霊的存在者」として創造しました。神によってその分霊を与えられた私たち人間は、神の「霊的子供」になったのです。人間の本体である神の分霊は永遠に存在し、どこまでも霊的成長をしていくようになっています。神によって造られた人間は、永遠に霊的成長の道をたどることになるのです。

人間の「霊(神の分霊)」には、霊的向上のための霊的本性が備わっています。それが“純粋な信仰心・信仰的盲目性”です。こうした霊の本性によって人間は、永遠に親なる神に憧れ、神を慕い、神に接近していくことになります。霊の属性である霊的本性は、純粋な信仰心・信仰的盲目性という形で表現されます。それは人間だけが持っている特質であり、動物にはありません。そのため人間だけが神を信じ、神を崇拝することができるようになっているのです。こうした意味で“純粋な信仰心・信仰的盲目性”という霊的本性は、とても貴重で最高の霊的価値を有するものなのです。

ところがその最も霊的価値のある純粋な信仰心・信仰的盲目性は、しばしば地上の宗教組織によって悪用されてしまいます。地上の宗教は、純粋な信仰心・信仰的盲目性を“洗脳”に利用して、多くの信者を抱える巨大な宗教組織をつくり上げてきました。オウムの信者たちも“洗脳”によってその信仰的盲目性が悪用され、殺人事件を起こすことになってしまったのです。

このように言うと決まって、「それなら純粋な信仰心など持たなければいいのではないか」と反論する人が現れますが、そうした意見は人間に向かって“人間性を放棄せよ”と言うに等しい間違った考え方です。霊的存在者である人間には、純粋な信仰心・信仰的盲目性が不可欠な要素として内在しているのです。

宗教組織による洗脳と狂気

宗教組織における“洗脳”とは、信者を自分たちにとって都合のいいように仕向け、教祖と教団の“忠実な子羊”にすることです。思いどおりに動く“ロボット”にすることです。その洗脳は、霊的本性である純粋な信仰心・信仰的盲目性に霊的刺激と霊的圧力を加えることによって進められます。「霊」には莫大な霊的エネルギーが潜在していますが、それが霊的刺激・霊的圧力によって間違った方向に引き出されるのです。その結果、通常ではできないことを実現させるようになります。これが“宗教の洗脳”の実態です。

教団による洗脳が進むと、教団全体が強烈な“宗教エゴ”に支配されるようになり、“宗教の狂気”が生じるようになります。社会を騒がす宗教の狂気には、その前段階として教団による信者への“洗脳”が存在します。宗教組織による洗脳では、間違った教義その多くが荒唐無稽な内容)とそれを絶対視させるための神秘体験や心霊現象、そして宗教組織の力学が威力を発揮します。こうした条件が揃ったとき、人間は間違った教えを絶対正義と思い込み、そのために人生を捧げるようになるのです。オウム真理教には“洗脳”のための条件がすべて揃っていました。

教祖の説く教義と、教祖を頂点とする宗教組織

洗脳される信者にとって最大の圧力は、教祖の説く“教義”と、教祖を頂点とする絶対的権力構造である“宗教組織”です。もし教団の教義が「霊的摂理」にそった正しいものであるなら、信者が教義を忠実に実践することで霊的成長がもたらされるようになります。信仰は利他的行為の原動力となり、人類のための犠牲を厭わない崇高な生き方を実現させることになります。しかし、地球上の宗教組織はいずれも霊的事実を知らない「霊的無知」の状態にあるため、その教えは霊的真実からかけ離れています。それを盲目的に受け入れることで、信者にさまざまな悪い霊的影響が及ぶようになるのです。

教祖や宗教組織(教団)によって説かれた間違った教義は、信者の心を間違った方向(宗教エゴの方向)に誘導し、利己性を増大させます。その結果、普通では考えられないような凶悪な事件が引き起こされることになります。オウムによるテロ殺人事件は、そうした教祖の説く間違った教義によって生じた“宗教の狂気”から引き起こされたものだったのです。オウム事件の原因の一つは、教祖・麻原の説く教義の間違いにありました。それは麻原自身が霊的事実に対して、無知であったことを示しています。

教祖という宗教的独裁者の支配力が絶対的であればあるほど教祖は神格化され、信仰の理想・目的となります。すべての信者が教祖を目指して修行に励み、教祖に近づこうとします。それは教団内に、教祖の寵愛を得ようとするこの世さながらの出世競争と、嫉妬が渦巻く醜い世界を現出させることになります。こうした中で信者たちは、自ら進んで教祖と教団に人生を捧げ、教祖の言いなりになる人間になっていったのです。

“宗教エゴ”の形成

信者に殺人を正当化させ、それを実行させるほど“宗教の洗脳”の支配力はすさまじいものです。教祖・麻原が信者たちをテロ殺人事件という狂気に走らせることができたのは、オウム真理教が強大な権力構造によって維持される組織であったからです。

麻原だけが世界で唯一の尊師・救世主であり、オウム真理教だけが唯一絶対の正義であるという意識が、すべての信者に共有されていました。「尊師以外に救世主はいない。オウム以外に正義はない」という強烈な共通意識によって信者たちは、麻原やオウムを批判する者に対して激しい敵愾心を湧き立たせました。こうしてオウム真理教は“宗教エゴ”が支配する教団になっていったのです。強烈な“宗教エゴ”によって、「自分たちに敵対する勢力は殲滅しなければならない」との思いに駆り立てられ、テロ殺人事件という狂気に走ることになったのです。

(10)真実の霊的知識だけが、“宗教の洗脳”を防ぐことができる

――『シルバーバーチの霊訓』は、宗教の洗脳に対する最大の防御策

オウム事件は、教祖と宗教組織の“洗脳”によって信者たちが狂気に走った結果、発生した事件でした。信者がオウムの洗脳に騙されなかったなら、こうした悲惨な事件は起こりませんでした。オウム事件の後、狂信的宗教によるテロ事件を再び起こさないためにはどうすべきかについて、社会学者や宗教学者や知識人が、さまざまな提言をしてきました。しかしそのいずれもが、根本的な解決法と言えるものではありませんでした。

ある全国版の新聞は、次のように述べています。「いま社会が努力しなければいけないのは、若者たちがカルトや洗脳から身を守る知恵を得られる教育の場をつくることだ」と。では、宗教の洗脳から身を守る知恵とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。それについては何も語っていません。抽象的な言葉を並べるだけで、具体的な方法については何も示していません。これではとうてい、若者を宗教の洗脳から守ることはできません。

しかし、スピリチュアリズムには具体的な方法があります。宗教の洗脳から人々を守るための策を示すことができます。『シルバーバーチの霊訓』は、あらゆる宗教の洗脳を打ち破る霊的知識を提供します。ここでは宗教の洗脳と狂気から身を守る方法について見ていきます。

真実の霊的知識が、宗教組織の洗脳を打ち破る

宗教組織によって洗脳されるのは、洗脳される本人が、その教団の教義の間違いを見破るだけの知識を持っていないからです。そのため教団の教義に飲み込まれ、反論できなくなってしまうのです。もし人々が『シルバーバーチの霊訓』を正しく理解するなら、教祖・麻原とオウム真理教の教えのすべてを上から眺め下し、その教えのどこが間違っているのかを的確に指摘できるようになります。

初めから“宗教には接近しない”と決め込んでいる人は、宗教と接点がないため、組織によって洗脳されることはありません。しかし宗教に関心を持ち、そこに真理を求めようとする人間は、教団にとっては格好の洗脳対象です。オウムの幹部たちも、真実を求めてオウムに近づき、それが人生を狂わせるきっかけになりました。洗脳によって彼らの純粋な信仰心が悪用され、道を間違えることになったのです。

もし死刑に処せられたオウムの元幹部たちが『シルバーバーチの霊訓』を知っていたなら、麻原のような無知で低俗な教祖に騙されることはなかったでしょう。『シルバーバーチの霊訓』を通して、麻原が声高に叫ぶ神秘体験にはさほど価値がないことを理解していたなら、その教えに騙されるようなことはなかったはずです。

『シルバーバーチの霊訓』によって示された霊的知識があれば、教祖・麻原の説く教え(教義)の間違いと嘘を完璧に見抜くことができます。シルバーバーチがもたらした霊的知識は、教団の嘘と不正を明らかにしてくれます。そして人間にとって重要なことは神秘体験ではなくて「霊的成長」であることを納得させてくれます。『シルバーバーチの霊訓』は、宗教組織の洗脳に対する最大の防御策なのです。

あらゆる宗教組織(教団)が、自分たちの組織を拡大するために必死に布教活動を展開しています。その中で巧妙な洗脳が行われていますが、そうした宗教組織の洗脳を打ち破ることができるのは、真実の霊的知識だけです。これはオウムだけに当てはまることではなく、すべての宗教組織の洗脳に当てはまる事実なのです。宗教組織以上の霊的知識を持っているときのみ、その嘘と不正を見抜くことができるのです。

宗教に救いと希望を求めて接近してくる人間は、教団にとって絶好のカモです。そうした人の多くが宗教的な知識をさほど持っていないため、教団の教義の真偽を判別することができません。教団サイドの人間と議論しても反論できず、反対にやり込められてしまいます。そしてずるずると深みにはまっていくことになります。

『シルバーバーチの霊訓』は、神秘体験や心霊現象の不正使用の実態を明らかにする

オウムは“神秘体験”を売りにして布教を進めました。ヨーガの神秘体験を利用して信者を集めました。オウムの教義はヨーガやチベット仏教・神秘思想を合わせたような実に幼稚なものですが、そこに“神秘体験”が加わることによって真実味が高まったのです。

他の宗教組織(教団)でも同じように、神秘体験や心霊現象を利用して布教を行っています。多くの教団が、霊言や透視、守護霊や前世の指摘を宣伝して布教活動を展開しています。一般の人々にとって神秘体験や心霊現象や超能力といったものは、とても魅力的です。そこに特別な世界があるかのように錯覚してしまいます。こうした霊能力や超能力を素晴らしいものと思っている人間を洗脳するのは、いとも簡単です。神秘体験や心霊現象についての真実を明確に知らないかぎり、それを売りにする教団の不正を見破ることはできません。

宗教組織の嘘と不正を見破ることができるのは、スピリチュアリズムによってもたらされた霊的知識だけです。『シルバーバーチの霊訓』は、神秘体験や心霊現象を悪用している宗教組織の実態を、誰の目にも明らかにしてくれます。

『シルバーバーチの霊訓』が示す、ニセの宗教組織を見破るための判断基準

世の中には、神秘体験や超能力を売りにして人々を騙し、勢力拡大を図っている宗教組織が数多くあります。こうしたニセの宗教組織を見破るための判断基準が、シルバーバーチによって示されています。それは次の4つです。

ニセの宗教組織を見破る1つ目の判断基準は――「その教団の教義が正しいかどうか」ということです。教義の真偽は、『シルバーバーチの霊訓』が示す霊的知識と照らし合わせるだけで簡単に答えが出ます。結論を言えば“教義の真偽”という点で、世の中の大半の宗教組織は失格です。最近では、スピリチュアリズムの霊的真理を導入して自分たちの教団の教義を補強し、間違いをカムフラージュしようとするところも現れています。しかし『シルバーバーチの霊訓』と厳密に比べてみれば、どんなに巧妙にスピリチュアリズムの霊的知識を取り入れても、嘘を隠すことはできません。

ニセの宗教組織を見破る2つ目の判断基準は――「神秘体験や心霊現象を売りにしていないか」ということです。これらを前面に出して布教をしている教団は、すべてニセモノです。前世の指摘や守護霊のメッセージを売りにして次々と本を出版し、布教活動を展開している教団がありますが、その間違いは明らかです。本の中ではいかにも正しいことを述べてはいても、“神秘体験や心霊現象を売りにしている”という事実そのものが、ニセモノであることを示しています。

ニセの宗教組織を見破る3つ目の判断基準は――「その教団が特定の人物を神のごとき地位に祭り上げていないか」ということです。特定の人物をキリスト(救世主)や再臨主やブッダの生まれ変わりといった仰々しいふれこみで売り出しているようなところは、明らかにニセモノです。特定の人物を神格化して崇めるような宗教は、信仰の基本すら分かっていないことを示しています。多くの新宗教がこうした“人物崇拝”をしていますが、それらはすべてニセモノです。オウムもその例にもれません。

ニセの宗教組織を見破る4つ目の判断基準は――「その教団の活動の最終目的は何か」ということです。教団が何を目的として活動しているかによって、本物かニセモノかを判断することができます。教団の活動の目的が表向きの理想とは違って“組織の拡大”にある場合には、その教団はニセモノです。狂信的な宗教組織では“神のため”と言いながら、実際は教団のために信者たちを利用しています。活動の目的がすり替わっているのですが、信者たちは教団のために働くことが神のためであり、それが正しい信仰であると信じて疑いません。教団は“洗脳”によってそうした考え方を信者たちに植えつけ、教団のロボットとして利用しているのです。

以上、『シルバーバーチの霊訓』の内容に基づいて“教団の真偽”の判断基準を示しました。こうしたことを知っているだけで、世の中の宗教組織が正しいものであるかどうか、簡単に判別できるようになります。ここで挙げた判断基準に一つでも反するようなことがあれば“ニセモノ”と判断して間違いありません。『シルバーバーチの霊訓』によって示された霊的知識をしっかりと知っているなら、宗教組織の巧妙な洗脳にも騙されることはありません。宗教の洗脳に対する“最大の防御策”とは――「正しい霊的知識を持つ」ということ以外にはないのです。

(11)スピリチュアリズム運動は、人類史上“最大の宗教革命”

――スピリチュアリズムは、地上の宗教組織を消滅させる大計画

オウム真理教もオウム事件も、地球人類の“霊性の未熟さ”の反映

テロ殺人事件という宗教の狂気も、それを引き起こしたオウム真理教という狂信的な宗教組織も、地球人類の“霊性の未熟さ”を反映したものです。現在の地球人類は、決して高い霊的レベルには至っていません。今の地球人類はまさに“霊的幼児”であって、霊的大人のレベルからは遠く隔たっています。

“霊性の未熟さ”という点で、21世紀に生きるすべての地球人類・すべての宗教は、オウムと共通しているのです。

地球人類の霊的未熟さの原因は、人類の「霊的無知」にあり

人類の霊的未熟さ・霊的幼稚さの最大の原因は、地球人類全体の「霊的無知」にあります。霊的無知とは、「霊的なことを知らない」ということです。神や死、死後の世界や霊的進化といったことについての真実を知らないということです。

地球人類は「霊的無知」から“物質中心主義”と“利己主義(エゴイズム)”に支配されるようになってしまいました。物質中心主義とは、物質以外の存在を認めない“唯物主義”のことであり、それは物質の豊かさが人間の幸福を決めるという「物質的幸福観」や、物質に価値があるという「物質的価値観」を生み出します。物質中心主義とエゴイズムに支配された地球人類は、さまざまな“悲劇”を発生させてきました。現在、「戦争」や「貧困・飢餓」「宗教による霊的牢獄化」「精神の退廃」「動植物への虐待」といった悲劇が地球上を覆っていますが、それは地球人類の霊的未熟さの反映であり、すべてが「霊的無知」に起因しているのです。

「霊的無知」が、オウム事件の根本的な原因

オウムによって引き起こされた残虐な事件は、「宗教による霊的牢獄化」から生じた悲劇そのものです。そしてその原因をさかのぼってみると「霊的無知」という、たった一つの事実に帰着します。人々が霊的無知ではなく「霊的事実」をしっかりと知っていたなら、オウムという教団も麻原という教祖も、神秘体験を売りにする洗脳もなかったはずです。言うまでもなく、テロ殺人事件が起きることはありませんでした。オウム事件はまさに、地球人類の「霊的無知」が招いた事件だったのです。

したがって「霊的無知」という根本原因を克服しないかぎり、また別の人間によって同じような事件が引き起こされることになります。麻原に似たきわめてエゴ性の強い人間によって狂信的な宗教組織が誕生することになります。

「霊的無知」を克服するためには、「真実の霊的知識」が不可欠

オウム事件のような悲劇を地上からなくすためには、「霊的無知」という根本原因を克服しなければなりません。しかしこれまで地上世界には、そのための解決方法がありませんでした。霊的無知という根本原因を取り除くためには、「真実の霊的知識」が不可欠です。真実の霊的知識によってのみ、地球人類は悲劇の根本原因である「霊的無知」を克服することができるのです。

スピリチュアリズムは人類の「霊的無知」を克服して、地球人類を救済しようとする大計画

スピリチュアリズム運動は、霊界主導の「地球人類救済計画」です。霊的無知から悲劇を発生させてきた地球人類を救済するために、イエスを中心とする高級霊たちが推進している大計画であり、人類史上“最大の宗教革命”なのです。スピリチュアリズムの最終目的は、地球人類を悲劇に陥れてきた宗教(宗教組織)を、地上から消滅させることにあります。

スピリチュアリズムは「真実の霊的知識」を示し、人類が霊的無知を克服して「霊的真理(神の摂理)」にそった生き方ができるように宗教の根本変革を進めていきます。スピリチュアリズムの進展にともない、神の摂理を日常生活の中で実践することが正しい信仰であるという認識が、地球人類の間に広まっていきます。「神の摂理を実践する」というシンプルな信仰が、未来の地球人類にとって“共通の宗教”になっていきます。今はそれを実現するための宗教革命が始まったばかりですが、今後は時間の経過とともに地球上に拡大していくようになります。

「神の摂理を実践する」という生き方が地球人類の常識となったときには、現在の宗教はすべて消滅することになります。遠い将来には、これまでのような宗教は存在しない世界が到来するようになります。21世紀の現在は、スピリチュアリズムによる宗教革命の初期段階にあるため“ニセモノ”が存在していますが、「霊的真理の普及」にともない間違った宗教は徐々に地球上から姿を消していくことになるのです。

スピリチュアリズムは、地上から“宗教組織”を追放する大計画

本当の宗教とは、大霊である「神」と「神の摂理」を信仰対象として崇拝し、神の摂理を日常生活において忠実に実践する生き方のことです。摂理にそった生き方がそのまま信仰であり、宗教なのです。したがって本当の宗教には、現在のような教祖やヒエラルキー組織はありません。教義もなければ、無意味な儀式もありません。洗脳によって駆り立てる布教活動も、壮大な宗教施設もないのです。

宗教と言うと、多くの人がオウムのような狂信的な宗教組織のことを思い浮かべますが、そうした宗教は、遠い将来には全く存在しなくなります。スピリチュアリズムの普及とともに地球上の宗教組織は消滅し、「神の摂理を日常生活において実践する」という生き方が宗教になる世界に変わっていくのです。

とは言っても、宗教的な情熱がなくなるということではありません。真実の霊的知識を知った人々が、神の摂理を忠実に実践する生き方を真剣に求めるようになります。スピリチュアリストは、これまでの宗教の殉教者よりも熱心に、情熱を持って信仰生活を送らなければなりません。信仰に人生のすべてを捧げても、生命を捧げても狂信にならないのは、スピリチュアリズムという「超宗教」だけなのです。

シルバーバーチは、スピリチュアリズム運動を進める使命を託されたスピリチュアリストに対して、次のような励ましの言葉を述べています。スピリチュアリズムという本物の信仰のために人生と生命を捧げて歩んでほしいと願う、高級霊たちの切なる思いが伝わってきます。

「奉仕、奉仕、奉仕です。いつどこにいても、自分ができる奉仕を心がけるのです。自分を忘れるのです。」

A Voice in the Wilderness

「迷わず、前進するのです。あなたの差し出す手が人々から拒絶されるようなことがあっても、落胆することはありません。気狂い呼ばわりされても悩むことはありません。その昔、イエスの弟子たちが酔っぱらい扱いされたことをご存じでしょう。」

A Voice in the Wilderness

「もっともっと多くの人材――これが私たちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却し、犠牲を払う用意のできた、勇気と熱意と誠実さにあふれた人材が欲しいのです。」

A Voice in the Wilderness

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