スピリチュアリズムから見た「オウム問題」〈No.1〉
――宗教組織の洗脳と狂気
インフォメーションNo.29
平成7年の地下鉄サリン事件などで殺人罪に問われ、死刑が確定していたオウム真理教元代表・麻原彰晃死刑囚(本名・松本知津夫)ら7人の教団元幹部の死刑が7月6日、執行されました。この死刑執行を機に、再びオウム問題がクローズアップされ、テレビや新聞・ネットなどさまざまなメディアに取り上げられました。私たちのところにも、オウム事件に対するスピリチュアリズムの見解を示してほしいとの要望が多数寄せられました。今回は「オウム問題」について、霊的観点に立ったスピリチュアリズムの見解を述べていきます。
本稿の内容は次のようになっていますが、これを2回に分け、今回は(1)~(6)を、次回は(7)~(11)を取り上げます。
(1)スピリチュアリズムの死刑制度に対する見解
本題に入る前に、最初に“死刑制度”についてスピリチュアリズムの見解を確認しておきます。
スピリチュアリズムは死刑制度に反対
スピリチュアリズムは“死刑制度”に反対します。現在では、死刑制度廃止が世界のすう勢となっています。そうした中で日本やアメリカは、先進国の中でいまだに死刑制度を続けている少数派の国家になっています。死刑制度は、人類の霊性進化のレベルを示す一つの目安であり、地球人類の霊的な成熟に応じて徐々に廃止されていくようになります。
とは言っても現時点では、スピリチュアリズムのように死刑廃止の根拠を「霊的事実」の観点から論じているところはありません。スピリチュアリズムだけが、霊的事実に照らして死刑が悪しき制度であることを明らかにしています。
死刑で生命を失った者の霊界での様子
多くの死刑廃止論者は、死刑による恐怖が凶悪犯罪の抑止になっていない、という理由を挙げます。スピリチュアリズムも死刑制度に反対しますが、スピリチュアリズムが死刑制度に反対するのは、それとは別のもっと本質的な理由があるからです。
それは冷酷で無慈悲な犯罪者は、死刑によって肉体を失った後も、霊界で地上時代と同じような凶悪な思いや復讐心を持ち続けることになる、ということです。大半の人間は、死後もしばらくの間、地上時代と同じような考え方や習性を持っていますが、凶悪な人間は悪なる思いを長い間持ち続け、地上にいる人間に復讐したり悪事を働くようになります。また地上の霊媒体質者に憑依して、残虐な事件を引き起こすこともあります。
こうした「霊的事実」を見るかぎり、死刑は犯した罪の償いになっていないことが分かります。それどころかいつまでも、悪い霊的影響を地上に及ぼすことになります。このためスピリチュアリズムは“死刑制度”に反対するのです。
死刑より無期懲役にすべき
――死よりも辛い刑務所生活
したがってスピリチュアリズムでは、いかなる凶悪な犯罪者に対しても、死刑ではなく無期懲役にすべきであると主張します。愛する家族を奪われた遺族の悲しく悔しい気持ちには心から同情しますが、「霊的事実」に照らして言えることは、死刑では何ひとつ問題は解決しないということです。凶悪犯を死刑に処しても、罪を償わせることはできないのです。
牢獄の中で一生、自由を奪われて過ごす人生には、死刑よりもはるかに大きな苦痛がともないます。そうした不自由で辛い生活を続けることに耐え切れず、自殺する囚人もいます。このように死刑よりも無期懲役のほうが、犯罪者にずっと大きな苦しみを体験させることになるのです。
実はそうした不自由さがもたらす“心の苦しみ”が、犯した“罪の償い”になっているのです。むろん中には、長い囚人生活を送っても心に変化が生じない者もいますが、大半の人間は自らが犯した罪の重さを自覚するようになり、反省と悔悟の思いが湧いてくるようになります。そして自分の犯罪によって苦しみや悲しみを与えることになった遺族に対して、心から謝罪したいと願うようになります。このように囚人生活は、犯罪者の心に根本的な変化をもたらし、彼らを真の意味で更生させることになるのです。
犯罪者は悔悟の苦しみを通して、悪事に見合った償いをするようになります。「神の摂理」がそのようになっているのです。麻原のような悪性の塊のような人間であっても、無期懲役の苦しみの中で同じ状態を保つことはできなくなります。苦しみに耐えきれず、自殺するようになったかもしれません。死刑が執行された元幹部のほとんどが、拘置所での長い囚人生活を通して、自らが犯した罪の重さと愚かさを認識することになりました。そしてなんとかして、自分の罪を償いたいと思うようになりました。
もし彼らが死刑を執行されることなく、不自由な環境の中で生き続けたとするなら、その後の人生はまさに罪を償う歩みになっていたはずです。こうした意味から、オウムの幹部たちには無期懲役を科すべきであったと思います。
いかなる悪人も、その生命は「神」によって与えられたもの
麻原のように時がたっても自らの悪事を直視することができない人間は、死刑後、霊界(幽界)下層で“地縛霊”として生きていくことになります。しかし、そうした状態をいつまでも続けていくことはできません。幽界下層において味わう長い塗炭の苦しみが、凶悪な人間の心にも少しずつ変化をもたらすことになります。その苦しみは死刑の苦しみよりもはるかに大きく、比較にならないほど辛いものです。肉体のない霊界では“自殺”という逃げ場がないため、その苦しみは何十倍にもなって迫ってくるのです。スピリチュアリズムでは、こうした「霊的事実」に照らして死刑制度に反対します。
また、いかなる悪人であってもその生命は「神」によって与えられたものです。人間が勝手に他人の生命を奪い去ることは許されません。麻原のような悪人であっても、「神の分霊」を授けられた神の子供です。霊的未熟さと肉体本能の暴走によって罪を犯した愚かな「神の子供」なのです。
死刑制度は、国家による“殺人”です。麻原や幹部たちを生かしておいたなら、彼らの心が変化していく様子を見ることができたはずです。それによって遺族の苦しみ・憎しみは和らぎ、彼らの罪を許すようになっていったことでしょう。
(2)宗教によるテロ事件は、宗教の歴史上ではありふれた出来事
宗教による殺人事件は、ありふれた出来事
オウムによるテロ殺人事件は、日本中を巻き込んだ大事件となりましたが、実はこうした宗教がらみの殺人事件は歴史上ではありふれた出来事であって、決して特別な事件ではありません。世界の宗教の歴史を見れば分かるように、宗教による残虐な殺人は頻繁に発生してきました。
熱心なキリスト教徒やイスラム教徒、あるいは狂信的な新興宗教の信者は、おそらく次のように思うことでしょう。「オウム真理教が起こした事件は、キリスト教やイスラム教の歴史の中ではしばしば起こったことで、現在でも発生しているありふれた出来事である。宗教がらみのテロ事件は、何もオウム真理教に限った特別なものではない」と。
キリスト教であれイスラム教であれ、宗教の歴史を振り返ってみると、宗教的な大義を掲げた悲惨な殺人事件が繰り返されてきました。オウム真理教が引き起こしたようなテロ殺人事件は、決してオウムだけのものではなく、宗教の歴史上ではきわめてありふれた出来事です。そしてそれは、いつでも起こり得る出来事なのです。今この時も世界のどこかで同じようなテロ事件が発生していますし、今後も必ず世界のどこかで発生することになります。現在も、IS(イスラミックステイト・イスラム国)による自爆テロで多くの人命が奪われ、世界中の人々が恐怖におののいています。
オウム事件の特徴とは
オウムによるテロ殺人事件は、ISの自爆テロやかつてのキリスト教徒・イスラム教徒が引き起こしてきた宗教紛争・宗教戦争と本質的には変わりありません。歴史上の宗教がらみの殺人事件と比べるなら、オウムのテロ殺人事件は、残虐性・冷酷性・悪質性の点でも規模の点でも比較になりません。
ただ、オウムのテロ事件ではサリンガスという最新の化学兵器が使用されたこと、しかもそれが日本という先進国、世界の中で最も穏健とされてきた国で発生したことが特徴です。そのためオウムの“サリン事件”は、国内ばかりでなく世界中で大騒ぎになったのです。もしこれと同じようなテロ殺人事件が、銃が自由に手に入るアメリカで引き起こされたなら、もっと大規模で衝撃的な出来事になっていたはずです。そして教団は間違いなく、銃撃戦の末に一気に殲滅させられたことでしょう。
(3)メディアの宗教に対する無知と、ステレオタイプの批評
“オウム事件”に対するメディアのお決まりの批評
テロ事件を起こして殺人罪に問われ、死刑を執行されたオウムの元幹部たちは、何も特別な人間ではありません。私たちと同じく、ごく普通の人間でした。メディアは、理科系の高学歴の青年たちが、どうして麻原のような見るからに俗っぽい人間に心酔するようになったのか、と疑問を投げかけました。
たいていの日本人は、有名大学の理科系の高学歴者は、科学的な合理精神を持った人間であり、宗教とは最も遠い存在であると考えます。そして多くのメディアも、どうしてそんな優秀な若者が宗教に騙され、殺人にまで手を染めるようになったのか、と疑問を抱いたのです。そして新聞の社説では、彼らがもっと冷静であったなら、オウムのような危険なカルトに騙されることはなかったはずだといった主張が展開されました。さまざまなメディアも、これと似たようなステレオタイプの論評を並べ立てました。
こうしたメディアのステレオタイプの批評を見るかぎり、メディアも一般の知識人も“オウム事件”の本質を全く理解していないことが分かります。もしそうした見解が正しいのであれば、最も知性が高いとされるノーベル賞の授賞者たち、特に物理学や化学や医学の授賞者は全員、宗教とは無縁な人間ということになります。神の存在や死後の世界や神秘現象の存在を頭から否定する“唯物論者”でなければならないことになります。
日本人の多くが、科学的知識人は神や霊といったものを信じない人間であり、神秘現象に騙されない人間であると思っています。そしてそれが科学者として当り前の姿であると考えています。しかし、そうした考え方や認識は全く間違いです。
宗教と科学に対する無知
実際には、多くの科学者が神の存在を信じています。霊の存在・死後の世界の存在を信じている科学者もいます。それは「宗教」と「科学」が棲み分けを大前提としており、それぞれが異なる分野を研究対象としているからです。宗教は目に見えない霊的・精神的な世界の真理を、科学は物質世界の真理を研究対象としています。そのため宗教と科学の両立は、可能となるのです。
科学者の中には神の存在を信じる者がいる一方で、神の存在を否定する者がいます。科学者は神の存在を信じてはならない、といった考え方はすべて、宗教と科学に関する大原則(宗教と科学の棲み分け)についての無知から出たものです。
世界人口75億の中で、キリスト教とイスラム教という“唯一神信仰”の信者が占める割合は6割以上にものぼります。では、そうした神の存在を信じる人々は皆、知性が低いのでしょうか? 合理的精神が欠如しているのでしょうか? 理科系の高学歴の人間は、神も霊も死後の世界も信じることはない、といった論調はあまりにも無知であり、一方的な見解です。ノーベル賞を取った科学者に対して、あまりにも失礼ではないでしょうか。こうした程度の低い見解を述べるメディアは、日本だけなのでしょうか。
科学は、神の不在を証明していない
科学は、神の存在を否定したのでしょうか? 神が存在しないことを証明した科学者はいるのでしょうか? そんな科学者は、これまで地球上に一人も現れていません。科学によって神の存在が否定されたことはありません。神の存在を信じない科学者はいても、神の不在を証明した科学者はいないのです。
神の存在を否定する科学者は、本当のところは“神がいないと信じている”にすぎません。科学は物質世界の真実を明らかにするための手段である以上、神や霊といった非物質世界の事実を明らかにすることは初めから無理なのです。神の存在を否定する人間は、「無神論」という宗教の信者にすぎません。“神はいない”と断言することは科学的ではなく、科学者としては失格です。たとえノーベル賞を取ったような科学者であっても、そうした発言を平気でする人間は「科学の本質を知らない」ということなのです。オウム事件を論じているメディアに顕著なのは、こうした宗教と科学に関する無知です。
真剣に信仰をしたことのない人間には、オウムの信者の心境と事件の真実は分からない
キリスト教やイスラム教やユダヤ教という一神教の熱心な信者なら、オウム事件の本質は手に取るように理解できます。また、カルトと呼ばれている現代の新興宗教の信者たちにもよく分かるはずです。こうした特定の宗教の熱心な信者には、オウムの信者と自分たちに共通性があること、似たような宗教的要素があることが実感できます。彼らには、オウム事件の本質は明白であり、何がオウム事件の一番の原因であるのか、はっきりと理解できるのです。
この点から明らかなことは――「信仰に人生を捧げたことのない人間には、オウムの信者の心境と事件の真実は理解できない」ということです。真剣に信仰に打ち込み、人生を捧げたことのない人間には、オウムの信者の心の内を知ることはできません。多くのメディアが、さも真実が分かっているかのように信者たちを見下げて批評・批判をしてきましたが、本当は彼らにオウムの信者の生き方を批判する資格はありません。
オウム真理教の信者は熱烈な信仰者であったために、誰が見ても世俗臭ぷんぷんで肉欲まみれの教祖の指示に従って、殺人事件を引き起こすことになってしまったのです(*オウムの教えが正しいか間違っているかは、別の問題です)。
(4)神秘体験を利用したオウムの洗脳方法
なぜ有名大学の優秀な若者が、オウムに惹きつけられたのか?
オウム事件の本当の原因は、「宗教(信仰)の本質」を知らずして理解することはできません。なぜ前途有望な若者が殺人を犯すようになったのか?――その答えは「オウムが宗教であった」ということです。この事実を把握することなくして、オウム事件の真実を知ることはできません。オウムが強烈で厳格な宗教組織であったために、有能な若者が惹きつけられ、洗脳され、人殺しを犯すことになったのです。
もしオウム真理教が、倫理道徳のグループであったり、単なる思想・哲学研究の文人グループ(文人会)であったり、ご利益を求めて神社仏閣めぐりをするお参り信仰のグループであったなら、テロ殺人事件を引き起こすようなことはありませんでした。教祖を絶対的存在として崇拝し、教祖が説く教義を最上の正義と信じ、教祖に絶対帰依する強烈な信仰集団であればこそ、テロ殺人という狂気に走ることになったのです。
“経済成長一辺倒の社会状況が、若者をオウムに集めることになった”というお決まりの論評
オウムの信者について論じる際に、決まって取り上げられる内容が、高度経済成長という時代的背景です。バブルの時代、拝金的な風潮が国家全体を覆い、社会は経済原理に支配され、ひたすら経済成長を目指してきました。
「こうした状況の中で人間性が犠牲にされ、多くの若者が人生の目的を失い、疎外感や孤独感にとらわれるようになった。若者たちは寂しさの中で、生きがいと希望を求めてさ迷っていた――そうした社会状況が多くの若者をオウムに惹きつけることになった。真の豊かさを精神世界に求めた若者が、神秘体験を売りにするオウムに集まることになった。心から納得できる真理と、本当の愛で結ばれた仲間や生きがいを得たいとの渇望が、若者をオウムという危険なグループ(カルト)に向かわせることになった」。
以上は、オウム事件を語る際に決まって取り上げられる内容です。しかし若者がオウムに入信し、教祖を信じて教団に人生を捧げるようになったのは、それだけがすべての理由ではありません。当時の社会状況が一つの原因になったことは間違いないでしょうが、優秀な若者がオウム真理教に魅せられた本当の理由は他にあるのです。その理由とは、オウム真理教という宗教組織で行われてきた“洗脳”です。これによって若者の心が強烈に操られるようになったのです。
神秘体験を“洗脳”に利用
オウム真理教では、教祖・麻原を絶対視し、絶大なカリスマ性を確立するためにさまざまな“洗脳”が行われました。神秘体験は、そうした信者の洗脳に大きな役割を果たしました。オウム真理教では、麻原が“空中浮揚”をしている写真が大々的に用いられました。オウムでは、修行によって人間の霊性が高められて解脱に至り、その過程で神秘能力が身につくようになると説いています。空中浮揚は、神秘体験の一つです。教祖・麻原は厳しい修行の結果、神秘能力を身につけ、解脱を果たした理想の人間と見なされました。
オウム真理教では、神秘体験がきわめて重要視されました。そのため信者たちは神秘能力を身につけようと、競ってストイックな生活と厳しい修行の日々を送りました。神秘体験をすることは霊性向上と解脱の証であり、それは同時に理想である教祖・麻原に近づくことを意味しました。神秘体験は教団内での序列にも影響を及ぼし、組織の一員として出世に結びつきました。そしてそうした神秘体験をめぐっての競争が、教団内にこの世にも劣る醜い嫉妬や葛藤を発生させることになったのです。麻原は、弟子たち(信者たち)の嫉妬心を利用することによって“洗脳”に拍車をかけていきました。
神秘体験が、稚拙な教義に信憑性を持たせる
オウムの教義は、麻原がさまざまな宗教(ヨーガ・チベット仏教・神秘主義など)の内容を取り入れてまとめ上げたものですが、実際にはあまりにも幼稚で程度の低いものです。およそまともな検証には耐えられない、次元の低い内容ばかりです。しかし、そうしたものに触れたことのない若者や、徹底して宗教について学んだことのない人間にとっては、初めて耳にする素晴らしい教え(真実の知識)として映ったのです。オウムの教義(麻原の教え)は“神秘体験”を併用することで、信者に真実性を確信させることになりました。信者は自らの神秘体験によって、麻原の教えに対する確信を強めることになったのです。
実際に、神秘体験がオウムの教義に対する絶対性を確信させることになったことを、元幹部(中川智正)が告白しています。神秘体験という特別な体験の実現を通して、信者の心に麻原の教えに対する信念(信仰)が高められることになりました。それによって信者は、いっそう麻原に“絶対服従”することになったのです。
神秘体験や神秘現象(心霊現象)は、ある種の人間に対して大きな刺激とインパクトを与えます。教義に神秘体験を加えることで、信者の心に教祖と教団に対する確信と信頼感を植えつけることができます。こうして信者たちは“洗脳”され、麻原という見るからに自己コントロールのできない強欲な人間を絶対視し、崇拝することになってしまったのです。
オウムの神秘体験とは
――ありふれた“サイキックレベルの心霊現象”
オウムが神秘体験を重要視し、大げさにPRしてきたのは、麻原自身が心霊現象に対して無知であったからです。教祖・麻原が、神秘体験(心霊現象)について無知であったのと同じく、信者たちも神秘体験に無知でした。そうした無知が“空中浮揚”という一見、華々しく映る神秘体験を“解脱の証”であるかのように思い込ませることになってしまったのです。もし麻原が神秘体験に対して正しい知識を持っていたなら、オウム真理教の方向は大きく違っていたはずです。もし信者に神秘体験に対する正しい知識があったなら、麻原に騙されるようなことはなかったはずです。
オウムのような神秘体験は、一定の方法に従って修行すれば、たいていの人間に発生する心霊現象です。それは世の中の科学者が言うような脳内で生じる現象ではなく、客観的に存在する現象です。この点で、科学もまた心霊現象に対して無知なのです。
スピリチュアリズム初期(18世紀半ば~19世紀初頭)の心霊研究の時代には、霊媒(ミーディアム)にさまざまな神秘現象を演出させて、それを徹底して研究することが行われました。その中で神秘現象(心霊現象)のメカニズムが明らかにされました。それを簡単に説明すると次のようになります。
人間は、「霊体」と「肉体」という異質の2つの身体が重複して構成されています。肉体にさまざまな感覚器官があって自然界を認識し、自然界に働きかけることができるように、霊的身体(霊体)にもさまざまな感覚能力や働きかけの能力が備わっています。ただ霊体は肉体という物質の身体に覆われているため、通常ではその能力を外部に発揮することはできません。“霊体能力”――すなわち一般に言う“超能力”は、肉体の中に閉じ込められたような状態に置かれています。
こうした人間が、肉体行(断食・断睡・滝行など)に専念して肉体を弱らせると、潜在していた霊体の能力が外部に発揮されやすくなります。これが肉体行による神秘能力(超能力)の発現です。少し難しい言い方になりますが、霊体と肉体という2つの身体の関係を「霊主肉従」の状態にすると、霊体の能力が肉体の物質的ベールを突き破って、外部に発揮されるようになります。普段は肉体に覆われて潜在している霊体の能力が、外部に現れるようになるのです。これが“サイキック能力(心霊能力・霊体能力)”です。この状態を地上人サイドから見ると――「超能力が発揮された、神秘現象が発生した」ということになります。こうした神秘現象は普通では見られないため、周りの人々は驚き、時にはそれを起こした人間を超能力者として崇拝の対象に祭り上げることになります。
神秘体験と霊的成長レベルは一致しない
ここで大切なことは――「神秘体験、すなわちサイキック心霊現象は、その人間の霊的成長や悟り(解脱)とは必ずしも一致しない」ということです。オウムでは麻原が霊的無知であったために、神秘体験を霊性のレベルと一致するかのように説いて信者を洗脳し、修行に駆り立てました。しかし、先に述べたように“サイキック心霊現象”は、霊性の低い人間であっても起きるものなのです。激しい肉体行をすることで容易に発揮される心霊現象であり、人間の霊的進化とは無関係です。それは音楽や芸術の才能と同じで、一つの能力にすぎないのです。
神秘体験・超能力現象は、スピリチュアリズムの心霊研究の歴史の中で、その詳しいメカニズムが明らかにされています。スピリチュアリズムから見たとき、オウムの神秘現象は驚くようなものではありません。さほど価値のある現象ではありません。
霊的成長のともなわない知的成長(*実践を無視し、知的レベルに留まっているスピリチュアリストがこれに相当)があるように、霊的成長のともなわない神秘能力・心霊能力もあるのです。まさにオウムの場合は、霊的成長のともなわない心霊能力の発現を躍起になって求めていたのです。そしてそれを信仰の目的である解脱の証としたのです。オウムの言うような解脱などといったものは、実際にはありません。
神秘体験に無知なメディア
このように麻原も信者も、神秘現象(心霊現象)に対して無知でした。一方、オウムを批評してきたメディア側も、神秘体験(心霊現象)に対して無知という点では全く同じです。メディア関係者の中には、そうした現象があることさえ認めない者もいます。オウムが“空中浮揚”と言うと、頭から詐欺と決めつけ、オウムのすべてを迷信として否定してきました。
しかし結論を言えば、“空中浮揚”という神秘現象は実際に存在します。もっとも麻原が空中浮揚をしているとされる写真はいかさま的ですが、スピリチュアリズムの心霊研究では、こうした“空中浮揚現象”は頻繁に発生し、それが多くの写真に収められています(*否定論者や懐疑論者たちは、どのように説明しても決して認めようとしませんが……)。スピリチュアリズムの心霊研究では、空中浮揚のメカニズムについても明らかにしています。
空中浮揚現象には“エクトプラズム”という半物質が関与しており、これによって現象が引き起こされるのです。霊媒の体内から流出したエクトプラズムが、その場にいる人間の身体や物体を下から支えたり持ち上げます。それによって人体や物体が空中に浮き上がったり、空中に留まることになります。麻原の写真は、ちょっと飛び上がった瞬間を撮ったような写真で、本格的な空中浮揚と言えるものではありません。強いて言うなら、次元の低い(物質レベルの)サイキック現象ということになります。
オウムと同じく大半のメディアも神秘体験について全く知識がないため、空中浮揚現象をもって“オウムは荒唐無稽な教団である”と一方的に決めつけています。空中浮揚をあり得ないことであると頭から否定しているのですが、間違っているのは空中浮揚現象を認めるオウムではなく、それを否定するメディアの方なのです。そうした心霊現象に無知なメディアが、オウムの空中浮揚を批判する資格はありません。少しは心霊現象について学んでから、オウムを批判すべきでした。
神秘体験や心霊現象は、宗教組織の洗脳の常套手段
世の中には神秘体験や神秘現象を謳い文句にして信者の獲得を進めている宗教組織(教団)があります。そうした教団の多くが、短期間に多くの信者を集めて組織を拡大し、急発展しています。
神秘体験や心霊現象は、宗教に関心のある人にとっては非常に魅力があります。そうした神秘的なものへの憧れが、神秘体験の具現者である「教祖」の絶対性を高め、神格化を促すことになります。多くの新興宗教や新新宗教が、神秘的現象を教団の売りにし、それを教団が優れていることの証であると盛んにPRしています。
守護霊からのメッセージ・霊視・霊聴・前世透視・地縛霊の除霊など、こうしたものに多くの人々が異常な関心を持っています。そしてそうした能力を有する人間を特別視し、教祖に祭り上げ、神格化することになります。オウムは神秘体験を大々的に宣伝し、間違った解釈を付け加えて、信者を洗脳していきました。それがやがて殺人という狂気に結びつくことになってしまったのです。オウムは神秘体験を利用して信者を強烈に洗脳し、テロ殺人へと駆り立てていきました。
とは言っても、神秘体験に惹きつけられた人間のすべてが人殺しをするというようなことはありません。そこには神秘体験にはない、“洗脳”に関するもっと深い事実があります。次からはそれについて見ていきます。
(5)純粋な信仰心は「霊」の本性
――宗教の本質を知らずして、オウム事件の真実は分からない
ISとオウムというテロ殺人集団に共通する要素、人殺しという狂気を実行させた共通の要素とは何でしょうか? 正義の名のもとに人殺しを行う狂気の底辺には、強烈な原動力があるはずです。その原動力とは、いったい何なのでしょうか? ここからはそうした宗教・信仰の本質に関係する問題について見ていきます。
純粋な信仰心と絶対帰依性
ISとオウムに共通する要素とは“純粋な信仰心”です。その純粋な信仰心が、間違った宗教に対する“絶対帰依”を生み出すことになったのです。純粋な信仰心は、宗教組織のさまざまな洗脳を受ける中で“盲信・狂信”という世界をつくり上げてしまいます。その結果、熱心な信者は“正義”と信じて殺人を犯すことになってしまうのです。洗脳を受けた信者は、「テロによる殺人は神が認める行為である」「テロ殺人は神が喜ぶ正義の行為であり、殺された人間の救いになる良いことである」という気違いじみた教えを鵜呑みにし、正義と救済の名のもとに“人殺し”を実行することになるのです。
このように宗教には、人間の心を根本から変え、絶対的に従わせる強力な支配力が存在します。多くの現代人がそうした宗教の力を恐れて、宗教に近寄らないようにしています。その宗教の支配力とは――純粋な信仰心から発生する“絶対帰依性”と“信仰的盲目性”です。宗教にはこうした要素があるために、それを悪用することで、人間の心を自由に操ることができるようになるのです。これが宗教による“洗脳”の実態です。
誰もが生まれつき持っている純粋な信仰心は、宗教者や宗教組織との出会いによって絶対帰依という霊的性向を喚起し、その人間の考え方や人生を根本から変えることになります。それを機に、全く別の人間に変わってしまうのです。
純粋な信仰心は「霊」の本性
人間の一番の本質は「霊」です。人間の最深部に存在する「霊」は神の分霊で、シルバーバーチはこれを“ミニチュアの神”と呼んでいます。実はこの「神の分霊」こそが、私たち人間の本体なのです。「霊」すなわち内在する「神の分霊」が、人間の核心部分を形成しています。このためスピリチュアリズムでは人間を、「霊」を有する存在者・霊的存在者と定義します。
一般的に言われる「心」とは、その「霊」を取り巻くようにして存在する“霊の表現器官”であり“霊の道具”です。人間の「霊」が進化・成長すると、それにともなって心のレベルも向上します。心には“知・情・意”という機能があり、それを通して「霊」を顕現させ、霊の内容を表現します。「霊」が進化すれば当然、知・情・意という心の内容も向上することになります。このように「霊」は、人間全体を支配する司令塔と言えます。世間一般では“脳”が人間の司令塔とされていますが、それは霊的要素が分からないところでの狭い見解です。さらに「心(霊の心・魂)」を取り巻くように「霊的身体(霊体)」があり、その霊体に重複するようにして物質的な身体である「肉体」が存在します。
このように私たち人間は、「霊」「霊の心」「霊体」「肉体」という構成要素から形成されていますが、言うまでもなくその中心は「霊」です。「霊」は人間全体の司令塔として、人間のさまざまな構成要素を支配しているばかりでなく、日常生活のすべてに影響を及ぼしています。
実は先ほどから述べてきた“純粋な信仰心”とは、この人間の一番の本質部分である「霊」の本性なのです。したがって純粋な信仰心と霊は、表裏一体の関係にあります。そして霊の本性である純粋な信仰心は、“絶対帰依性”と“信仰的盲目性”という強烈な霊的性向を生み出します。
純粋な信仰心から生じる絶対帰依性・盲目性は強烈であるため、人間の心を根底から揺り動かします。もし外部から「霊」に圧力が加えられて、悪なる方向に仕向けられると、絶対帰依性・盲目性は間違った方向に力を発揮するようになります。その結果、宗教組織の思いどおりに操られてしまうようになるのです。
オウム事件の根源的な原因とは、信者一人一人に「霊」があり、その霊の本性である純粋な信仰心から“絶対帰依性・盲目性”という霊的性向が発露したところにあります。オウム事件は、信者の純粋な信仰心が、教祖や宗教組織の“洗脳”によって狂気に駆り立てられたことから引き起こされたものだったのです。こうした霊の本性と宗教の本質を知らずして、オウム事件の真相を明らかにすることはできません。
“純粋な信仰心”は、霊的親である大霊に近づくための霊的資質
では「霊」は、どうして“絶対帰依性”や“信仰的盲目性”を有するようになったのでしょうか? 熱心な信仰者に見られる絶対帰依性や信仰的盲目性は、純粋な信仰心に由来する霊的本性で、「純粋な信仰心(霊の本性)の資質」と言うことができます。その絶対帰依性・盲目性という性向が、信者に心の底から信仰対象(神・宗教)を受け入れさせ、無条件に委ねさせることになるのです。
実は人間はこうした状態にいるとき、絶対的な安定感・安心感の中に身を置くことができるようになります。心は最も安定し、深い安らぎを得ることになります。それは霊的存在者である人間が、霊的親である「神(大霊)」と、霊的に一体化することになるからです。純粋な信仰心に発する“絶対帰依性・盲目性”は、霊の本性・霊の資質です。人間は本来、こうした状態において「神」と霊的に一体化し、心の奥底からの幸福感に包まれるようになっているのです。それが霊的存在者として創造された人間の本来のあり方なのです。今は神の存在を否定する人間であっても、心の深いところでは絶対的に信じられるもの・絶対的に信頼できる存在を求めています。それはどのような人間にも「霊」があり、心の深部に“純粋な信仰心”が潜んでいるからなのです。
神の分霊を宿した霊的存在者である人間には、神を霊的親として慕い、霊的親と一体になってすべてを委ねて生きる能力が与えられています。それゆえ「霊」の本性である“純粋な信仰心”には、人間を盲目的にする性向がともなうことになるのです。宗教が盲目的であると批判されるのは、そのためです。世の中の人々は、この“信仰的盲目性”を一方的に敬遠します。それが宗教の狂気を引き起こすとして恐れています。しかし、信仰的盲目性は本来、神によって与えられた素晴らしい霊的本性・霊的資質なのです。人間が「霊的成長」をするために与えられた“霊的な
(6)純粋な信仰心は“諸刃の剣”
純粋な信仰心と信仰的盲目性が導く利他的行為
純粋な信仰心には“盲目性”という霊的性向がともない、それによって膨大な霊的エネルギーが発揮されるようになっています。そして普通ではできないことを実現させることになります。盲目性が“善の方向(利他的方向)”に向けられるとき、それは人間を人類への奉仕を求める犠牲的生き方へと押し出します。時には、人類のために命をも捨てさせることになります。信仰を貫くためなら、自らの命を犠牲にすることも厭わないということになるのです。
“殉教”の歴史はすべて、こうした“信仰的盲目性”がつくったものです。一途で熱心な信仰者の殉教は、魂の純潔と盲目性ゆえの尊い生き方の結晶と言えます。純粋な信仰心を持った人間は、自分の人生も財産も命も、時には愛する家族さえも犠牲にします。純粋な信仰心は、「自分を犠牲にする」という最高次元の利他的行為を可能にするのです。こうした犠牲のともなう利他的行為は、動物では決してあり得ません。「霊」があるために可能になっている、人間の特質・特殊性なのです。
人類への大きな貢献をなさしめる“信仰的盲目性”
――イエスもマザー・テレサも、神への盲信者
絶対帰依性・盲目性という純粋な信仰心が利他的方向に向けられるとき、「人類全体のために生命を捨てる」といった最高次元の利他的生き方を実現させることになります。世の中には、貧困者のためにすべてを捧げて奉仕人生を貫いた人間がいます。そうした人間として真っ先に思い浮かぶのは、マザー・テレサの名前です。マザー・テレサの心の中心を占めていたのは、神とイエスに対する絶対帰依性・盲目性でした。疑うことのないイエスへの純粋な信仰心が、彼女を突き動かしていたのです。
スピリチュアリズムでは、2千年前にナザレ地方に誕生したイエスを、人類のために最高の犠牲の道を歩んだ人物であると考えますが、そのイエスの心を占めていたのも神への絶対帰依であり、一点の曇りもない純粋な信仰心・信仰的盲目性でした。そしてイエスは、人類の救いのために自らの命を捧げました。
スピリチュアリズムでは、人類の霊的成長のために人生を捧げることほど価値のある利他的行為はないと考えます。“絶対帰依性・盲目性”という霊的本性は、最高の善をなすための強い原動力になるのです。絶対帰依性と信仰的盲目性という霊的資質が利他的方向に向けられるなら、決して盲信・狂信とはなりません。それどころか普通ではできない崇高な生き方、大きな犠牲がともなう奉仕的生き方を可能にすることになるのです。
“信仰的盲目性”を嫌う現代人
現代の知識人や科学的思考に染まった人間は、純粋な信仰心による“盲目性”を嫌い、それを避けようとします。「狂信的な信仰はよくない。宗教とは常に適度な距離を保つべきであって、宗教に夢中になってのめり込むのは間違いである」と言います。宗教(信仰)は人間を狂わせ、正常な人間性を奪ってしまうと考えるのです。彼らに共通するのは、「宗教は人間を狂信へと駆り立てる悪いもの、道を間違えさせる恐ろしいもの」という考え方です。そして“オウム事件”はまさに、こうした宗教の盲信性によって引き起こされることになったと言うのです。
確かにそうした批判には部分的に真実が含まれていますが、批判の多くは的外れです。“信仰的盲目性”そのものを、頭から間違っていると決めつけていますが、それは正しくありません。本当はオウム事件は、信者たちの信仰的盲目性を教祖や教団が意図的に悪用して、自分たちに都合のいい方向に仕向けたために起きたことなのです。信仰的盲目性が悪用されることで発生したのが“オウム事件”だったのです。“信仰的盲目性”そのものが悪いと言うなら、マザー・テレサの生き方も否定されることになってしまいます。
宗教組織による“信仰的盲目性”の乗っ取りと悪用
純粋な信仰心に発する信仰的盲目性は本来、崇高で素晴らしい霊的本性・霊的資質です。ところが、それがしばしば乗っ取られて、間違った方向に利用されてしまうのです。オウム事件はまさに、そうして引き起こされた事件でした。麻原彰晃という教祖とオウム真理教という宗教組織が、間違った教義を信者に吹き込むことによって“信仰的盲目性”を乗っ取り引き起こしたのが、オウムのテロ殺人事件だったのです。
信仰的盲目性は本来、「霊」の本性である純粋な信仰心による素晴らしい霊的本性です。その霊的本性は、人類に対する大きな貢献と犠牲的生き方を可能にする一方で、それとは逆にきわめて悪性の強いエゴ的行為を引き起こすことになります。残念なことに地球上の宗教組織の大半が、この“信仰的盲目性”を正しい方向ではなく、間違った方向に利用しています。間違った教義を信者に植えつけ、“信仰的盲目性”という素晴らしい霊的本性を乗っ取り悪用しています。そして人々を間違った方向に洗脳し、“宗教エゴ”を拡大させてきたのです。
純粋な信仰心による信仰的盲目性は、極端な“諸刃の剣”
純粋な信仰心からの“信仰的盲目性”が正しい方向に向けて発揮されるなら、霊的成長や霊的幸福という良い結果がもたらされることになります。しかし、それが間違った方向に利用されるなら、オウムやISのように非道な殺人をも実行させることになります。霊の本性である純粋な信仰心と信仰的盲目性が悪用されると、無知でエゴ的な教祖や教団(宗教組織)を全面的に受け入れるようになってしまうのです。これまで信仰的盲目性は、宗教組織によって間違った方向(利己的方向)に利用されてきました。そのため多くの人々が、宗教そのもの“悪”として敬遠するようになってしまいました。
世の中の知識人の大半は、宗教は人間を盲目的にする反知性的活動であると軽蔑し、敬遠しています。宗教による絶対帰依性・盲目性は、人間性・個性を奪い去るとしていますが、それは一方的な決めつけにすぎません。宗教・信仰の本質である絶対帰依性・盲目性は、使い方によって天と地ほどの違いを生じさせることになるのです。
純粋な信仰心は「霊」の本性であり尊いものですが、それは用い方いかんで全く違った結果を招くことになります。目指す方向性によって“大きな善”にもなり、反対に“大きな悪”にもなるのです。純粋な信仰心からの信仰的盲目性は、最高・最善の人類愛を実現する可能性を持っている一方で、最悪の人殺しをも犯す可能性を持っています。このように純粋な信仰心とそれにともなう信仰的盲目性は、極端な“諸刃の剣”となるのです。