(7)動物の死後のゆくえと、動物界の進化

ここまでの内容で、霊界の存在者について理解していただけたものと思います。最後に動物の死後の様子について見ることにします。愛情を注いできた“ペット”の死は、飼い主にとっては家族の死別と同じように悲しい出来事です。ペットを飼っている大半の人々にとって愛する動物の死後のゆくえは、とても興味のあるテーマです。

ところがこれまでの宗教や思想では「動物の死後の問題」を、ほとんど取り上げてきませんでした。スピリチュアリズムは、動物の死後の様子を人類史上初めて明らかにしました。しかもそればかりでなく、人間が動物界の進化に重大な影響力を持っているという驚くような霊的事実も明らかにしています。スピリチュアリズムは、動物についての最も深遠な霊的知識を地上世界にもたらしました。

1)ペットとの死別の悲しみ

動物は、死後も存在するのだろうか?

犬・猫・小鳥などのペットは、人間に多くの喜びや安らぎ・楽しみをもたらしてくれます。人間の人生を豊かなものにしてくれます。ペットは家族の一員として、人間とともに愛の世界をつくる構成員なのです。

愛する動物との死別は、家族の一員を失ったときのような悲しみをもたらします。多くの人々が、ペットとの死別を通じて“死”という生命体の宿命の重さを実感するようになります。そして同時に次のような疑問を抱くようになります――「動物たちは死後も霊魂として存在するのだろうか?」「あの世でペットと再び合うことができるのだろうか?」「動物には人間のような再生があるのだろうか?」

霊能者によって霊視される死後の“ペット”

過去のことを全く知るはずのない霊能者が、犬や猫などの姿を霊視し、飼い主にその様子を伝えることがあります。霊能者が告げる内容は、まさしくかつて飼っていたペットについてであり、当時の様子を正確に言い当てています。この結果、飼い主は“愛する動物たちは間違いなくあの世でも生き続けている”ということを確信するようになります。

愛するペットの死後の存在を知ることは、死別を悲しんでいる飼い主にとって本当に慰めとなり救いとなります。

2)動物の死後の様子

自然界の動物の死後のゆくえ

スピリチュアリズムは、動物の死後の様子をきわめて明瞭に述べています。動物の死後の運命は、地上で人間に愛された経験があるかどうかによって大きく違ってきます。人間に愛されたことのない動物たち(家畜や野生動物たち)は、死後ほどなくして、その生命素体生命のエッセンスから成り立つ身体で、人間の霊体とは次元が異なる。動物には人間の霊体のような明確な形体はない。人間の生命素体は、霊体の中に取り込まれている)は「グループ・スピリット「集霊」「集合魂」あるいは「類霊」と訳される)」の中に吸収・融合されます。したがってこうした動物たちは、肉体の死とともに、それまで身体によって示されていた個別性を失うことになります。

「グループ・スピリット」とは、各種の動物ごとの霊的要素のグループ生命素という霊的エッセンスの「集合魂」)のことです。その中に動物の生命素は吸収されることになります。それはちょうど、一滴の水がバケツの水の中に溶け込んで、全体の一部になるのと同じです。

人間は死後、霊界で、霊体を持って永遠の人生を出発することになります。したがって人間は、死によって個別性を失うことはありません。“神の分霊”という永遠の個別性が与えられている点において、人間は動物とは根本的に違っています。

人間は死後、一定の期間を経て「グループ・ソウル(類魂)」の中に入ります。そこでは各メンバーの意識の融合化という現象が生じて、一つの大きな共有意識ができ上ります。しかしそうした状況においても、一人一人の「個別性」は維持されています。人間は「類魂」という共有意識の中でも、個別意識を失うことはありません。その点で動物の死後の生命素の吸収・融合と、人間の死後の意識の融合化は違っています。

自然界の動物の死後のゆくえ

人間に愛されたペットの死後のゆくえ

ペットとして人間にかわいがられた動物の死後は、家畜や自然界の野生動物とは状況が違ってきます。“人間の愛”によってある種の霊的要素が動物の生命素体に吹き込まれ、個別性が強化され、死後もしばらくはそのままの外形(ある種の幽質の身体)を維持します。それが地上の霊能者によって霊視されることになるのです。

こうした幽界の動物たちは、自分を愛してくれた人間が霊界に来るまで、その姿で待ち続けることになります。そして飼い主は、他界直後にかつて愛したペットの出迎えを受けるようになります。人によってはその後もしばらく、幽界で愛するペットとともに生活を送るようになります。

やがて、霊界入りした飼い主の意識と関心が徐々に地上世界から薄らぎ、それと同時に「霊的成長」への意識が目覚めるようになります。そしてすべての意識が「霊的成長」に向けられるようになります。すると幽界でともに過ごしているペットに対する愛情も自然と薄らぎ、それにともなってペットは姿を消すようになります。このときの別離には、地上で体験したような悲しみはありません。こうして人間と別れた動物は、それまで維持してきた外形を失い、生命素(生命のエッセンス)は「集霊(グループ・スピリット)」の中に吸収されます。

動物があの世で、かつての飼い主を待ち続けるというプロセスの全体が、実は「愛の摂理」そのものと言えるのです。人間が他界直後にペットの出迎えを受けるということは、人間にとっては「動物を愛したこと(善の行為)に対する善い結果がもたらされた」ということなのです。それは自分を愛してくれた人間への動物からの“恩返し”なのです。

霊界入りしたばかりの新参者は、死別したペットと再会することで、自分の死を悟ることができるようになります。また愛情で結ばれたペットが寄り添ってくれることで、安心して霊界での新しい生活に慣れていくことができるようになります。動物はこうして、かつての主人に愛を返すのです。

人間に愛されたペットの死後のゆくえ

外形は保つが、自我意識はない

飼い主より先に死んだペットは、幽界で外形を維持しながら主人との“再会の時”を待つことになります。その期間中、動物は人間のような自我意識を持っているわけではありません。専門家(天使・妖精)の働きかけのもとで外形は維持しますが、動物には自我意識はありません。したがってそのときの動物は、一種のロボットのようなものと言えます。想念霊には自我意識がありませんが、それと同じような状況にあるということです。

どのような動物が幽界にいるのか

ペットとして地上で“人間の愛”を受けた動物だけが、幽界でもその外形を維持することができます。したがって幽界にいる動物の種類は、おのずと限られることになります。地上では犬が最も多くペットとして飼われていますが、幽界でも犬が一番多く見られます。犬についで多いのが猫です。それ以外に小鳥や馬なども見られます。ごく稀に猿なども見られますが、それはめったにないことです。

地上のハンター(狩猟家)は、死後も幽界で同じようなことを繰り返します。その際ハンターは、自分自身の想念でつくり上げた動物を獲物として追いかけ回すのです。そうした「想念霊」としての動物が、稀に地上の霊能者によって霊視されますが、ここで取り上げている動物の死後の「幽体」と、そうした想念体としての動物は全く別物です。

動物が幽界で外形を保つためには「地上で人間に愛される」ということが絶対的な必要条件ですが、それとは別にもう一つの条件があります。それは動物(ペット)が「飼い主よりも先に死ぬ(他界する)」ということです。飼い主がペットよりも先に他界した場合には、幽界での再会はありません。その場合は、動物は死後ただちに「集霊(グループ・スピリット)」に吸収されるようになります。幽界で姿を見せる動物は、飼い主よりも先に霊界入りした動物に限られます。

本来ならすぐに集霊に吸収されるはずのペットが、わざわざ外形を維持して「昔の主人を待ち続ける」という事実の中に、神の造られた世界に充満する愛が感じられます。実はこうした「利他愛の摂理」を遂行するために、天使という専門家が置かれているのです。

誰が幽界の動物の世話や管理をするのか

地上でも飼い主が遠出をしたり長期の旅行に出かけるときには、ペットを専門家に預けますが、霊界入りした動物を引き受ける状況もそれと似ています。動物を扱う役割を担った天使が、専門家として動物の個体の崩壊を歯止めし、個体を維持するのです。

さらにそうした天使とともに、幽界にいる人間の霊たちも、動物の世話や管理に携わるようになります。彼らは動物が大好きであったにもかかわらず、地上世界では動物を飼うチャンスがなかった人々です。「動物に対する利他愛を実践したい!」という意欲がありながら、それが叶わなかった人たちなのです。それはちょうど「子供を産み育てる」という愛のプロセスを望みながらも、何らかの理由があってそれが実現しなかった女性が、両親に先立って霊界に来た子供の世話をするのと同じことなのです。

こうしたことからも「動物を愛し育てる」という営みは、育児と同様に立派な愛の行為であり、人間の霊的成長を促すプロセスであることが分かります。

3)人間と動物の違い

永遠の個的存在として進化する人間と、集霊として進化する動物

人間は神の分霊を与えられ、永遠の個的存在となりました。もし仮に何億年か後に宇宙が消滅するようなことになったとしても、人間は霊界で、一人一人が進化の道を歩み続けることになります。一方、動物は地上という物質世界では身体的な個別性を持っていますが、死後はその個別性を失い、種別の「集霊(グループ・スピリット)」の中に吸収されるようになります。動物は各種ごとのスピリットのグループとして進化の道を歩むのです。この点で、人間と動物は根本的に異なっています。

人間はどこまでも個人を単位として、各人が別々に進化の道を歩みます。そのため一人一人の霊的成長レベルは、さまざまとなります。しかし動物には、そうしたことはありません。“大きな塊”となったスピリットが“一つの単位”として進化するのです。人間と比べて動物のスピリットの進化のスピードは、きわめてゆっくりしています。人間を基準にして見ると、動物の(集霊の)成長はストップしているかのように映ります。しかしゆっくりですが、確実に進化しているのです。もちろん鉱物の進化のスピードと比べれば、ずっと速いことは言うまでもありません。

動物の「集霊(グループ・スピリット)」は、永遠的ともいえるような長い時間をかけて少しずつ進化していきます。そしてそれぞれの集霊の進化のレベルは、さまざまです。しかしそうした動物の集霊は、進化の究極において“人間の霊として生まれるようになる”とも言われます。もしそれが事実であるとするなら、動物の集霊(グループ・スピリット)は、人間の霊(霊の素材界)を目指しての進化の途上にあるということになります。永遠的な観点に立つと、すべての存在が進化の途上にあり、低次元から高次元の生命体に進化していくということなのです。動物の集霊は、人間の霊として永遠の個別性を獲得する段階に向けて、長い長い進化の過程を歩んでいるのかもしれませんこうした問題については、現在のスピリチュアリズムでは最終的な結論は示されていません。それは今後、地球人類の霊的進化にともなって明らかにされていくでしょう)

進化の頂点に立つ人間

人間も動物も、「神によって生命を与えられている」という点では等しい存在です。決して人間だけが特別な価値を持っているわけではありません。しかし地球上のすべての存在の中で、人間だけが「永遠の個別性」を持っています。人間は神から“霊的知性”を与えられているために、自然界の全創造物(動植物・鉱物)に君臨するようになっています。人間は他の創造物が所有していない霊的資質を付与されているために、地球上で進化の頂点に立つようになったのです。

こうした点において人間は、他の創造物とは全く異なる存在と言えます。人間と動物は属する範疇が異なります。身体だけを見れば人間は動物の一種と言えますが、人間は動物にはない霊と霊体を持ち、死後も「個別性」を維持します。人間だけに“理性”という神性が付与され、“自由意志”を行使する特権が許されています。人間には――「自由意志を正しく用いて神の王国の進化を促す」という責任が神から与えられているのです。

一方、動物には自由意志がなく、ある種のロボットとして造られています。動物は常に摂理の範囲内にとどまり、その支配を受けるようになっています。

4)動物界の進化

人間の進化と動物の進化の関係

シルバーバーチは――「人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎったとき、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと小羊が仲良く寄り添うような世界ができるのです」と述べています。地球という物質世界に君臨する人間、その人間の進化が動物界全体に大きな影響をもたらすことになるのです。人類が進化すればするほど、自然界の暗黒部分が減少します。このように人間の霊性の発達と自然界・動物界との間には密接な関係があります。

この事実は――「人間と動物は互いに協力し、ともに進化する宿命にある」ということを物語っています。

動物界の進化の指標

“残忍性”は進化の一番の指標です。残忍性があるということは、それだけ利己的要素が多いということであり、進化が遅れているということを意味します。こうした進化の遅れた動物は、進化のプロセスの中で淘汰され、より進化の進んだ動物に取って代わられることになります。有史以前から地上に生息して今日まで生き延びている動物は、決して他の動物を食い荒らす種類のものではありません。地球上の動物は、現在見られるような姿で今後も永遠に存在し続けるのではありません。動物界全体が進化し、それにともない“獰猛さ・残忍性”が徐々に減少していくようになるのです。

現在の動物界は“弱肉強食”の一方で、全体的にはバランスが保たれています。それぞれの種が一定の数を維持し、共生・共存するようになっています。しかし遠い将来には動物界全体がさらに進化し、弱肉強食といった様相も変化し、いずれ消滅していくことになります。

霊的に一番進化している動物とは?

「進化の法則」は動物界を支配しています。肉体の形体を基準にするなら、人間に最も近い“猿”が動物の中で一番進化しているということになりますが、「集霊」を基準として見るとき、最も進化している地球上の動物は“犬”ということになります。集霊の進化という霊的観点に立つと、人間にかわいがられてきた犬が一番進化しているということは当然の結論です。犬についで進化している動物は“猫”です。

幽界には、人間から一番愛されてきた犬と猫が最も多く存在します。愛によって進化が促されるという神の摂理――「人間に多く愛されれば愛されるほど進化が促される」という摂理の事実を、幽界における犬と猫の現状を通して実感することができます。

動物の「超能力」

霊性のレベルという観点からすれば、人間は動物とは比較にならないほど進んでいます。しかしそれは、すべての能力において人間の方が動物より優れているということを意味しているわけではありません。人間は自らつくり上げた物質文明の悪影響を受け、本来持っている能力を萎縮させ犠牲にしています。その一つが、ある種の「超能力」です。動物は肉体次元に属する超能力を発揮しています。それは大半の現代人が失っている肉体次元の“第六感”と言うべきものです。

人間は今のような物質に閉じ込められた生活をしていないなら、こうした超能力を発揮していたはずなのです。現在のように物質文明が発達していなかった太古の人間は、現代人よりも、ずっと「超能力・心霊能力」を持っていました。人間がもし物質文明に飲み込まれることなく「霊優位の状態」を保ってきたなら、現代人はもっと多くの超能力・心霊能力を所有していたはずなのです。人間は物質的快楽と引き換えに、超能力・心霊能力を犠牲にしました。物質優先の生き方によって、そうした能力が押さえ込まれてしまったのです。

それに対して大半の動物たちは、人間のように不自然な状態に置かれることはありませんでした。そのため動物は、本来の超能力を発揮できるようになっています。しばしば犬や馬が“幽霊を見て驚いた”というような話を聞きますが、犬などの動物は超能力によって霊を認識することがあるのです。また動物が“危険を察知した”というような話予知能力の話)も聞きますが、これも動物が超能力を持っていることを示す実例と言えます。

5)動物に対する人間の責任

進化の先輩としての責任

人間が地球上で進化の頂点にあり、さらには特別に自由意志が与えられているという事実は、進化の先輩として他の創造物に対する多くの責任が与えられていることを意味します。その責任とは「他の創造物の進化に協力する」ということです。

すべての存在は「進化の法則」のもとにあります。人間だけでなく、動物や植物のすべてが進化のプロセスを歩んでいます人間と動植物では、進化のスピードは大きく隔たっており、鉱物ともなるとそのスピードはさらに遅々たるものとなります)。人間には、そうした他の創造物の進化を促すという責任が神から与えられているのです。それが進化の頂点に立つ人間に対して、神が期待している責務であり役割なのです。

動物の進化に協力する責任

人間が動物を愛しかわいがることによって、動物(の集霊)の進化が促されます。人間が利他愛を発現することによって、動物界から利己性が減っていくようになります。そこに人間の“愛の力”の働きがあります。神が動物に霊性の息吹(生命)を吹き込んだように、人間も動物に対して同じことができるのです。人間は「神の代理者」として、動物に対して霊性の息吹を吹き込む能力を備えています。人間は動物を愛することで、“愛”という霊的な力によって動物に高い意識を芽生えさせることができるのです。

神の愛は、人間を通じて他の創造物へ注がれるようになっています。人間によって与えられる動物に対する神の愛は、動物の死とともに終わるのではなく、動物の「集霊(グループ・スピリット)」の進化という形で実を結ぶことになるのです。

義務と責任に反してきた地上の人間

“進化の頂点”という特別な立場にある人間は、動物を愛しかわいがって、その進化に協力する義務と責任があります。しかしこれまでの地上人は動物たちに対して、それとは正反対のことばかりしてきました。たしかに人間は動物たちを“ペット”として愛し、その進化に寄与してきましたが、それはどこまでも一部の動物に対しての愛にすぎませんでした。

地球人類の霊性の低さは、多くの動物への「虐待」という事実の中に示されています2千年前に登場したイエスは、動物への愛を十分に説くことはできませんでした。当時の地球人類の「霊性」に照らしたとき、人間自身の進化の歩みを優先せざるをえなかったのです)

人間は、動物たちを愛するどころか“食べ物”として扱い、平気で殺害してきました。動物は、人間に食べられるために地上に存在しているのではありません。地球人類は本能主義とエゴによって、動物たちに非道で冷酷な虐待を続けてきました。特に物質文明が勢いを増した近代以降には、動物を用いた生体実験が当たり前のように行われ、生きた動物に甚大な苦痛を与えてきました。“人間の健康のため・医学の進歩のため”といっても、そこには人間中心のエゴ的な大義しかありません。人間中心の偽りの大義のもとで、動物たちに対して苦しみを与え続けてきたのです。

動物も人間と同じように苦しみから逃れようともがきます。死を恐れ、死から逃れようと必死に抵抗します。しかし人間は神から与えられた“自由意志”を乱用することによって動物を虐待し、苦しめ、動物の進化に反する残酷な仕打ちをしてきたのです。

虐待を受けた動物には「埋め合わせの摂理」が働く

人間の虐待の犠牲となっている動物たちは、最高に気の毒な存在です。最も不平等・不公平な境遇に生まれた哀れなものたちです。せっかく神から与えられた生命が、無知で強欲な人間によって無残にも奪い取られているのです。しかしそうした哀れな動物たちに対しても「神の摂理」は公正に働き、動物たちは結果的に平等・公平な扱いを受けるようになります。

人間から一方的に与えられた虐待については「動物の集霊(グループ・スピリット)全体」に摂理が働いて、不公平な境遇に対する埋め合わせがなされるようになります。虐待によって進化が阻害された分については、グループ・スピリット全体の進化のために、別のチャンスが与えられることになります。その多くがグループ・スピリットの進化がより促進される環境に新しい仲間が生まれる、という形で展開するようになります。

一方、非道な仕打ちをした人間には、個人ならびに人類全体のレベルにおいて「カルマ」が発生し、それを清算するための“罪滅ぼし”の苦しみがもたらされるようになるのです。

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