(7)神の摂理と人間の自由意志
――人間だけに与えられた自由意志による営み
摂理の観点から見たとき人間と動物の違いは、人間だけに“自由意志”が与えられているということです。すなわち人間以外の生命体(動植物)は完全に神の摂理の支配下に置かれていて摂理から逸れることができないのに対し、人間には自由意志があるために摂理に背くことができるのです。自由意志は「神の摂理の支配」に矛盾するものとして、これまで宗教・神学・思想上の大きなテーマとされてきました。スピリチュアリズムは、この自由意志の問題に明確な解答を示しています。
ここではスピリチュアリズムが明らかにした「自由意志に関する霊的真理」について見ていきます。
1)人間と動物との根本的な違い
――霊的要素と自由意志の有無
人間と他の生物との違い
――霊的要素と自由意志
人間は、現在地球上に存在する約200万種の生物(動植物)の中で唯一の例外的な存在です。人間だけが、死後においても永遠の個別性を維持し存在し続けます。人間は死によって肉体が消滅した後も、霊界で「霊体」を持って生き続けることになります。こうした「永遠の霊的存在として造られている」という点こそが、人間と他の生命体(生物)との根本的な違いなのです。200万種の生物の中で霊的存在であるのは、唯一人間だけなのです。人間は動物と違って、神によって永遠の霊的要素を付与されています。人間には、肉体という物質的身体以外に「霊的身体(霊体)」があります。それは肉体に重複して存在しています。その霊的身体に「霊の心(霊的意識)」が内在しています。そして「霊の心」の最奥に「霊(神の分霊・ミニチュアの神)」が存在しているのです。
従来から人間と動物との違いが議論されてきました。その中でしばしば指摘されてきたのが人間と動物の“知性”の違いです。唯物的な進化論者は、進化の結果、人間は脳の比率が大きくなって高度な知性を持つようになったと言います。しかし、それは間違いです。人間だけに霊的身体があり、霊的意識があるために、人間は高度な知性を有するようになっているのです。物質でできている脳は、霊的意識・霊的知性の受信機にすぎません。人間は高度な知的活動・精神活動を、霊的次元(霊体)で行っています。脳が高度な思考や知性の発生源ではありません。人間が高度な知性を有し、言語を持ち、道具を考案し、文明をつくりそれを継承できるのは「霊の心(霊的意識)」があるからなのです。人間の特色とされてきたものの大半が、すべて霊的意識から発生しているのであって、脳からではありません。人間と他の動物との根本的な違いは、人間だけが持つ「霊的要素(霊・霊の心・霊体)」に由来するのです。
さらにもう一つ人間と動物との根本的な違いがあります。摂理の観点から見たとき、人間と動物では決定的な違いがあります。それは人間だけに“自由意志”が与えられているということです。神は摂理を通して宇宙・万物・人間を支配し維持しています。すべての存在物が神の摂理の支配下にあります。そうした摂理が支配する世界の中で、人間には摂理に逆らうことのできる自由が与えられているのです。このように人間だけが“自由意志”を持っているということは、人間が神によって「霊的存在」として造られているという事実と深い関係があります。
人間だけに自由意志が与えられている
人間の“肉体”は、動物の肉体と同じような構造を持ち、同じ摂理のシステムによって維持されています。肉体の素材は物質ですから、人間も動物もさまざまな「物質的法則(摂理)」の支配を受けています。また人間や動物の肉体は単なる物体ではなく、生命体として“生命(生命素)”が付与されています。物体に生命が付与されて、生命体となっているのです。生命体である人間や動物は「生命法則」の支配を受けるようになっています。数多くの生命法則の支配のもとで、生命活動を営むようになっているのです。そして死とともに生命素は肉体から離れ、肉体は単なる物体となって元素に分解されていくことになります。以上が、人間と動物の共通性です。
人間はさらにその上に、「霊的要素(霊・霊の心・霊体)」を持っています。そのため人間は霊的次元にも存在し、人間の霊的部分は無数の「霊的法則」の支配を受けるようになっています。その人間の霊的部分に“自由意志”が存在しているのです。
人間は神から自由意志を付与されました。それによって人間は、摂理の支配に背くことのできる自由を持つようになりました。人間は自分で考え、自分で判断し、自分で選択する自由を与えられています。この自由意志があるために、人間は神の摂理に反した選択をし、摂理に反した行動をとることができるのです。すべての生物(動植物)が神の摂理の完全な支配のもとにある中で、人間だけが神の摂理に反したことをする自由を与えられているのです。これは見方によっては、人間以外の生物がみな“神のロボット”として造られているのに対し、人間だけがロボットではない存在として造られているということになります。
「大霊は人間のすべてに一定範囲内の自由意志を授けてくださっています。あなたは操り人形ではないということです。」
「ものごとは善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権・自由意志・決断力・判断力を使用する要素があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の一つです。言い換えれば、あなたは神の操り人形ではないということです。」
自由といっても、制限内での一定の自由
人間は神から“自由意志”を与えられ、自由選択・自由行動が認められています。しかしその自由は無制限・無制約の自由ではありません。もし無制限の自由が与えられているとするなら、人間は神に取って代わり、神の座につくことも可能となります。神の造られた摂理をぶち壊しにすることもできるようになります。神が人間に与えた自由とは、どこまでも一定の枠内における自由にすぎません。神の造られた世界や法則を壊すような自由は与えられていません。摂理に反する行為をなす自由は許されていても、摂理を破壊するような、神の計画を根底から崩してしまうような自由は与えられていません。人間に自由が与えられているといっても、神と完全に対等の立場に立つことは決してできないのです。人間が自由意志を悪用して世界を滅亡させるようなことを考えても、実際には摂理の働きによって実現できないようになっています。地球全体を破壊から守るための摂理の仕組みが準備されているのです。
人間には、神の定めた範囲内での自由が認められています。人間は常に規制を受けており、一定の枠内で自由に判断し、自由に選択できるようになっているのです。その意味では“自由”といっても依然として摂理の支配下に置かれている、ということです。摂理の支配と自由意志は相反する概念ですが、人間の自由はどこまでも一定の枠内における制限つきの自由であり、広い観点からすれば、やはり人間は神の摂理の支配下にあるということになるのです。スピリチュアリズムでは、これを「自由意志の法則(摂理)」「自由意志を行使できる法則」と呼びます。
「宇宙には
何人 にも動かしがたい基本的な法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意志を行使できる法則もあります。」
「一方にはどうしても従わざるをえない法則があり、他方には従うべきでありながら自由意志で勝手な行動に出てもよい法則もあります。」
人間は神の摂理内で一定の自由領域を与えられていますが、その中で自由意志を行使できる範囲は、一人一人の霊性によって違ってきます。人間は霊的に進化すればするほど、自由意志という“神性”をより多く発揮できるようになるのです。このように自由意志の行使にも、さらなる摂理が働くようになっています。
(質問)「自由意志の行使範囲は広いけれど無条件の自由ではないということですか。」
(答え)「その通りです。その時点において到達した進化の程度によっても違ってきます。」
「人間にも自由意志はあります。しかし、自由のつもりでいても、それはその段階での魂の進化の程度に支配されているのではないでしょうか。自由とは言っても魂の成長度によって規制されているということです。」
「人間の一人一人に、霊性の進化の程度に応じて、それ相応の自由意志が与えられているということです。霊的段階を高く上れば上るほど、自由意志を行使できる範囲が広くなります。つまり現在のあなたは、霊的に言えばそこまでが限界ということです。」
「自由意志を行使できるといっても、あくまでその時点までに到達した進化の段階において許される範囲内でのことです。何でも好きにできるというものではありません。各自が到達した進化の階梯によって自ずから制約があります。」
「摂理は完全であり、自動的に作動します。誰一人それから逃れられる人はいません。自由意志も摂理の中に組み込まれております。その働きは一定の進化の段階まで到達するとわかるようになります。」
2)神はなぜ人間だけに自由意志を与えたのか
――自由意志を付与された理由と、人間の特別な立場
では神は、どうして人間だけに自由意志を与えたのでしょうか。考え方によっては「自由意志を与える」ということは、神にとって大きな危険を冒すことなのです。その危険を覚悟してまで神が人間に自由意志を与えたのは、どのような理由があるからなのでしょうか。
霊的な親子関係をつくるため
あらゆる生物(動植物)が神の摂理の支配下にある中で、人間だけに自由な領域が与えられているということには、どのような理由があるのでしょうか。神が何の意味もないことをするようなことは決してありません。神が人間だけに特別に自由意志を付与したのは、明確な意図・計画に基づいてのことなのです。
先にも述べましたが“自由意志”を与えたということは、神は人間をロボットとして造ったのではない、ということを意味します。それは親と子供という“愛の関係”をつくり出そうとしたということです。製作者と製品(作品)という関係ではなく、愛において対等な関係をつくろうとしたのです。神は人間と愛によって結ばれることを求めたのです。愛が愛として成立するには、自発性と自由をベースにしなければなりません。一方的に強制するという関係では、人間はロボットになってしまい、お互いの間に愛は成立しなくなってしまいます。これが神が人間に自由意志を付与した理由の1つです。
人間を神の代理者にするため
神が人間に自由意志を与えたもう1つの理由は、人間を自分の代理者にしようとしたからです。人間を神の代理者として立たせ、「第二の神」として地上に愛の世界を築かせようとしたのです。神は人間を、自らの意志で魂を成長させ、自らを創造していく存在として造られました。人間を、神と等しい創造性を発揮する「神に似た存在」にしようとされたのです。人間は“自由意志”に基づき自発的に神の摂理と一致した行為をなすことで、自らを創造していくこと(霊的成長を達成していくこと)ができるようになります。そうして「神に似た存在」となった人間は、物質次元の世界においてある種の支配権を所有するようになります。それを意図して神は、人間に自由意志を与え、自らその方向性を決めさせ、自分の力で「第二の神」となるように計画されたのです。そして地上世界を、人間の愛による支配が及ぶ世界にしようとされたのです。
もう一度整理すると、神が人間に“自由意志”を与えたのは「神と人間が愛において結ばれ霊的親子関係をつくり出すため」、そして「人間に神と似た創造性を獲得させ、神の代理者として立たせるため」――こうした2つの理由から、神は人間に自由意志を付与したのです。人間が「神の代理者」として他の生物の頂点に立ってそれらを愛し、(人間を通して注がれる)神の愛が支配する世界を造ろうと計画されたのです。このような神の意図によって人間は特別な立場に立たせられ、神に代わって他の生物を愛するという大きな義務と責任を与えられることになったのです。
*神の意図から考えると、人間は神によって特別な存在として創造されたことが分かります。同時に人間には、その立場に見合った義務と責任が与えられています。神が全生命体を創造したという観点からすれば人間は、他の生命体と等しい存在であり自然界の一部分と言えますが、人間にはそれらとは違った特別な立場が与えられ、それにふさわしい義務と責任を果たすことが求められているのです。その点から考えるなら、人間の立場は明らかに他の生物とは次元が異なっています。愛の観点・霊的観点からすると、やはり人間は「神の王国」の中で特別な存在と言えるのです。
人間が幸福になるために、自由意志を与えた
神が人間に自由意志を与えたのは、究極的には人間に最高の幸福をもたらそうとしたからです。神は人間を幸福にするために自由意志を与えたのです。人間は自由意志を活用して、自発的に神の摂理と一致し、自ら神の摂理の内容を実践して、初めて霊的成長をなすことができるようになります。霊的存在として造られている人間にとって「霊的成長」は、永遠の幸福につながる本物の宝・最高の宝なのです。
人間は自由意志を正しく用いることによって、より大きな幸福を手にすることができるようになります。神が人間に自由意志を与えたのは、人間が自らの判断において摂理と一致し、摂理を実践することを通して真の幸福に至るためなのです。人間に永遠の霊的成長の道を歩ませるために、自由意志を与えたのです。
「より高く進化していく上で不可欠の自由意志を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。」
3)自由意志を与えられた人間の義務と責任
人間だけが「自由意志を持つ」という特別な立場に立たせられました。そして同時に人間には、そうした立場に見合った義務と責任が与えられることになりました。その義務と責任とは、いったい何でしょうか。神から人間だけに要求されている義務と責任とは、どのようなものなのでしょうか。
自由意志を用いて摂理に合わせ、摂理を実践する
人間は自由意志を活用して摂理と一致し、摂理を実践するとき、初めて自らの霊的成長を達成することができるようになります。これが自由意志のもとで果たすべき人間の義務であり責任です。人間の“義務と責任”とは――「神の摂理と一致し、これを実践する」こと、そしてその結果として「霊的成長を実現する」ということです。
もし自由意志を悪用して摂理から外れた行為に走るなら、人間としての義務と責任を果たしていないことになります。その場合には、摂理の働きによってそれに見合った罰(償いのための苦しみ)を受けることになります。
「自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理にのっとった生活をすれば恩恵を刈り取ります。逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と混乱をもたらします。」
人間の義務と責任の内容
では、人間の義務と責任――すなわち「自分を摂理と一致させ、摂理を実践する」とは、具体的にはどのような内容を意味しているのでしょうか。数ある摂理の中で、どのような摂理と一致させたらよいのでしょうか。結論を言えば――「霊優位の摂理」と「利他性の摂理」という2つの摂理です。
「霊優位の摂理(法則)」とは、常に霊を物質よりも上位に置くというものです。肉体よりも霊的要素(霊・霊の心・霊体)を上位に置き、肉体をこれに従わせるというものです。霊によって肉体を支配し、コントロールすることです。もう1つの「利他性の摂理(法則)」とは、人間が他者や他の生命体を利他愛で愛するというものです。利他愛に基づく関係を築き、利他愛によって生命界へ奉仕し、調和のとれた自然環境をつくるということなのです。
この2つの摂理(法則)によって、人間の運命は大きく左右されることになります。この2つの摂理と一致できるかどうか、これらを実践できるかどうかが、天国をつくるのか地獄をつくるのかの分岐点になるのです。摂理にそって歩むことこそが、人間に与えられた義務と責任ということなのです。
自由意志を悪用して摂理に背き、地獄をつくり出してきた地球人類
ここで問題となるのが、人間が自由意志を正しく活用するかどうか、すなわち自発的に摂理と一致していくかどうかということです。結論を言えば、残念ながら地球人類は現在に至るまで、自由意志を正しく活用してきませんでした。それどころか自由意志を悪用して、摂理に反した行為を延々と続けてきました。現在の地球では、摂理に背くことが人々の当たり前の姿となり常態化しています。地球人類は自ら摂理に反した方向を選択し、摂理に反したことを行い、苦しみを招いています。せっかく神から与えられた自由意志を悪用し、自ら不幸と悲劇を生み出しているのです。その結果、地球全体が霊的光の届かない暗黒世界となり、地獄さながらの状況をつくり上げることになっています。
しかし神は、摂理から外れて苦しむ人間を、いつまでもそのままにしておくようなことはされません。人間が苦しみの中で自らの愚かさを悟り、反省し、再び正しい方向を選択して歩み出すような道を、あらかじめ準備されているのです。人間は、自ら摂理と一致した方向性を選択し、摂理にそって実践することで地獄状態から抜け出すことができるようになります。神が意図する本来の明るい世界に向けて歩み出すことができるようになります。それが人間にとっての「霊的新生(霊的覚醒)」であり、スピリチュアリズムが目指す地球人類全体の“魂の革命”なのです。
4)スピリチュアリズムによる摂理と一致した実践の歩み
スピリチュアリズムは、一人一人の人間が、神によって与えられた自由意志を正しく活用し、自ら摂理と一致した歩みをするように導きます。地球人類全体が、自由意志を悪用して摂理に反してきたこれまでの歩みを改めるように働きかけます。そして暗黒の地獄世界を、光り輝く地上天国へとつくり変えようとするのです。スピリチュアリズムは「霊優位」と「利他愛」という2つの摂理の実践を強力に推し進め、これまでの地球人類の暗黒の歴史を転換させようとする霊界主導の「人類救済計画」なのです。
人間は摂理と一致した方向に向けて実践する努力を通して、「霊的成長」が促されるようになります。「霊的成長」は、霊的存在として創造された人間にとって最高の霊的宝であり、人生の最終目的でもあります。人間は霊的成長をなすために神によって創造され、地上に誕生したと言っても過言ではありません。霊的成長こそが、人間にとっての真実の幸福の源泉なのです。その霊的成長は――「霊優位(霊主肉従)」と「利他愛」という摂理を実践することで達成されるようになっています(*霊的成長を促す摂理の実践については、次の3章で詳しく取り上げます)。
摂理の実践に励む人間が一人、また一人と増えることによって、地球全体が「霊優位(霊主肉従)」「利他愛支配」の世界へと変化していくことになります。それにともなって人類全体が、本当の愛(真実の愛・利他愛)で結ばれるようになります。そして愛の世界が拡大し、やがて「霊的同胞世界(神を共通の親とする霊的大家族世界)」がつくられるようになるのです。地球全体が“神の愛”に包まれる明るい地上天国が実現するようになるのです。
こうした利他愛の実践と愛の世界の拡大による「霊的同胞世界の確立」については、4章で詳しく取り上げます。また「霊優位」と「利他愛」という摂理を実践するための具体的な内容については、スピリチュアリズムの思想[Ⅲ]で詳しく説明します。