(6)神の摂理の支配下における神への正しい対応・姿勢
――神との間接的関係のもとでの「正しい信仰」とは
神は、ご自分で創造された摂理を通して、人間をはじめ宇宙・万物を支配しています。これは神と人間との接触は間接的にしか成立しない、ということを意味します。こうした神の摂理による支配の事実は、人間の側に「神への正しい対応・姿勢とはいかにあるべきか?」という問題を提起することになります。神への対応とは神信仰のことに他なりませんから、それは「神に対する正しい信仰とはどのようなものであるのか?」という問題と言えます。
ここでは神の摂理による支配のもとで、人間がとるべき正しい態度・姿勢――すなわち「正しい神信仰」のあり方について見ていきます。
1)「愛の神」のもとで行われてきた従来の間違った信仰
――「神は愛なり」の間違った解釈・「愛の神」信仰の落とし穴
「神は愛なり」を間違って解釈してきた、これまでの地上の宗教
これまで多くの宗教が「神の愛」について説いてきました。人々は、愛なる神は弱い人間を愛し、罪を犯しやすい人間を許し、孤独の中で苦しむ人間に慰めを与えてくれると考えてきました。神が愛の存在であること、すなわち「愛の神」であることは事実ですが、これまで地上の宗教は「神は愛なり」の真意を間違って解釈してきたのです。人々は「愛の神」に、苦しむ人間への救いを期待し、特別な配慮と奇跡を願ってきました。自分や自分のグループ、自分の教団、自国に対する特別な援助と導きを求めてきました。地上人は自分たちにとって都合のいい神を勝手に思い描き、事実から大きく懸け離れた神のイメージをつくり上げ、これを信仰対象としてきたのです。
地上人の大半が、弱った人間を一方的に慰め、優しく包み、罪深い人間を責めることなく許してくれる神を求めています。それが地球人類の描く「愛の神」のイメージです。しかしそうした神は実際には存在しません。人々の期待と空想の中にしかいないのです。
シルバーバーチは次のように断言しています。
「人間的な感情を備えた神は、人間がこしらえた神以外には存在しません。」
的外れな信仰をしてきた地上の宗教
これまでの地上の宗教における神観の間違いを一言で言うなら――「神の摂理に対して無知であった」ということです。そのため人々は、信仰心の篤い人間には神が直接手を差し伸べてくれると錯覚してきました。熱心に祈りを捧げれば、神の好意と同情と特別な配慮が得られると勘違いしてきたのです。そして21世紀の現在も、多くの熱心な信仰者によって的外れな祈りが捧げられています。
神の造られた摂理は、人間サイドのいかなる事情によっても左右されることはありません。神が宇宙・万物の支配のために造られた摂理は、一つの狂いもなく厳格に作動します。神の摂理は、人間の訴え・願い・希望とは無関係に機械的な正確さをもって働きます。そこには人間的な感情の入る余地は全くありません。
「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。」
神の造られた摂理が、人間の事情とは無関係に運行されるという厳粛な事実を前にしたとき、これまで地上の宗教において当たり前に行われてきた祈りと信仰が、いかに的外れなものであったのかが明らかにされます。全く無駄なこと、何の意味もないことを地上人類は現在まで延々と続けてきたのです。
2)神の摂理が支配する世界における「愛の神」とは
優しい「神の愛」は、法則の後ろに隠れて存在する
神は摂理を通じて、人間をはじめとする霊界と宇宙の万物を支配しようとされました。神は常に「摂理(法則)の神」として人間の前に姿を現します。それを人間の側から見ると、神は何ひとつ優しさのない冷たい存在として映ることになります。人間サイドからは、優しい神の姿は見えてきません。スピリチュアリズムも、「愛の神」「愛の源としての神」を説きます。しかしその愛は摂理の後ろに隠れていて、人間には直接示されないようになっています。
これまで地上人類は、ひたすら優しい「愛の神」を期待してきました。愛の神が特別の慈悲と許しと癒しをともなって出現することを願い、必死に信仰してきました。しかし人間が期待するような愛の神が姿を現すことはありません。人間がどれほど神に祈り求めても、神は厳格な摂理(法則)としてしか現れないのです。
「私がお伝えしようとしている概念は、全能にして慈悲にあふれ、完全にして無限なる存在でありながら、地上の人間がとかく想像しがちな“人間神”的な要素のない神です。」
神は慈愛をもって、人間をはじめとする万物を包んでいます。しかしその愛は、摂理という機械的な支配の道具の後ろに隠れて存在しています。神の愛は、ある面では冷たい摂理の中に溶け込むようにして存在し、人間には温かい愛として感じられないようになっているのです。
その事実をシルバーバーチは次のように表現しています。
「このことは、慈悲の要素が摂理の中に配剤されていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。」
「神が慈悲深いということを、どこのどなたが説いておられるのか知りませんが、神とは摂理のことです。究極においては慈悲深い配慮が行きわたっておりますが……」
天使と守護霊によって届けられる「神の愛」
――2通りの神の愛の伝達
人間の霊的成長を願う魂の親としての神の愛は、摂理を通して示されるようになっています。その摂理は、機械的に働く厳格な支配のための道具です。摂理としか直接的な接触を持てない人間には、神は機械のように冷たい存在として映ることになります。しかし摂理は、神そのものではありません。摂理による支配は、神がその叡智から造られた人間・万物に対する最高の配慮なのです。神は人間・万物への愛から摂理を造られました。すなわち人間・万物に対する愛が、摂理を創造した動機となっています。その意味で神の愛は、摂理の中に存在していると言えるのです。
さて、そうした「神の摂理」は、天使を通じて執行されるようになっています。したがって天使は摂理を執行することによって、「神の愛」を直接的に人間に届けることになります。ただし天使が届ける「神の愛」は、人間が考え期待するような愛ではありません。人間には愛とは思えないような愛、温かさをともなわない愛なのです。これが天使によってもたらされる神の愛の実態です。
摂理の執行は、人間の側にはしばしば罰・不幸・トラブル・良心呵責・苦しみといった現象として現れます。天使を通じて示される愛は、地上人が期待するようなものとは正反対の形を取って現れることがあるのです。天使による摂理の執行の結果が、人間にとって導きとして映る場合もあれば、不幸をもたらす疫病神のように映ることもあるのです。しかしそのいずれもが摂理の働きであり、「神の愛」であり、人間に対する配慮と言えるのです。このように天使によってもたらされる「神の愛」の内容は、地上人が考えるものとは全く異なっていますが、霊的視点から見ると、そこにはまさしく「神の愛」があるのです。
「神の愛」は、こうした形で天使を通して直接的に人間に届けられますが、その一方で神の愛は、神の代理者として人間を愛してくれる守護霊・背後霊によって間接的に地上人に届けられます。それは天使のもたらす愛とは種類が異なり、人間にとって温かさの感じられる愛なのです。守護霊を通して届けられる愛は、まさに人間が愛と思っている愛、与えられることを期待している愛です。守護霊を通じての愛の伝達も、地上人の霊性レベルによって決定されます。言い換えれば、摂理の支配のもとでそれぞれの人間にふさわしい愛が守護霊によって与えられるようになっている、ということです。
守護霊の愛を“愛の基準”とすると、天使の愛は愛ではなくなってしまいます。優しい愛を愛とのみ考える人間にとって、天使が届ける愛は、冷たくて厳しい支配をもたらすだけのものであり、とても愛とは思えないのです。しかし天使が伝える直接的な神の愛も、守護霊が伝える間接的な神の愛も、ともに「神の愛」であることには変わりありません。
*以上の内容は、「神の愛の伝達」という観点から述べたものです。1章の「神について」の箇所では、人間が霊的直感によって神の存在と愛を、直接的に実感できることを学びました。人間の霊性と霊能力が一定のレベルに至ると、神との合一体験によって神の存在と愛を実感できるようになります。“魂の窓”が全開し、神の愛をふんだんに取り入れられるようになると、こうした体験が可能となります。「霊的存在」として、また「神の子供」として創造された人間には、このような形で直接的に神を実感することができるようになっています。神の愛の伝達というルートを経ずに、神の存在と愛を実感できるようになっているのです。
霊界では、すべての霊が“霊的直感”によって神の愛を実感しています。守護霊が地上人に神の愛を伝達することができるのは、霊的直感によって神の愛を実感しているからなのです。残念ながら地上では、神の愛を直感し実感できる人間はほとんどいません。その代りに、守護霊を通して間接的に届けられる愛の中に「神の愛」を感じ取ることができるのです。
以上の内容を図示すると次のようになります。
3)神の摂理の支配下における人間の立場
神は摂理を通じて、間接的に人間と関わりを持つ
神の造られた摂理(法則)が、人間をはじめとする宇宙のすべてを支配しているという事実は、神が人間に対して直接の関わりを持つことはないということを意味しています。従来の宗教では、人々は神に自分の願いを訴え、何とか聞き届けてもらおうとしてきました。こうした信仰は、神が直接、自分たちと関わりを持ち、個人的に手を差し伸べてくれることを期待するところから生じたものです。しかし、神が一人一人の人間の声を聞き入れ、それに対して特別の配慮をするようなことは決してありません。
神はどこまでも、自らが造った摂理を通じて間接的に人間と関わりを持つようにされました。そのため人間は直接、神を見ることも神に触れることもできません。どれほど必死に祈っても、神が個人的な願い事を聞き入れるようなことはありません。どんなに人間が苦しんでいても、神が直接手を差し伸べるようなことはないのです。
スピリチュアリズムは、これまで地上人類が知ることのなかった神の本質を示しました。神の前における人間の立場について、スピリチュアリズムは初めて真実を明らかにしたのです。地上人類は神の奇跡と特別の恩寵・配慮を願って祈りを捧げてきましたが、それは叶えられないことを人類の前に明示したのです。
「宇宙の大霊は、いかなることにも特別の干渉はいたしません。法則、大自然の摂理として働き、これからも永遠に存在し続けます。(中略)世の中の出来事は自然の摂理によって支配されており、大霊による特別の干渉は必要ありません。」
神は摂理を通じて顕現することで、万人の親たる資格を持つ
このような神の間接支配というシステムは、ひたすら自分への慰めや特別な配慮を願う人々には期待はずれとなります。しかし、この機械的な摂理の支配システムがあるために、神は全人類の“霊的親”としての資格を持つことになるのです。「完全平等」「完全公平」な親として、人類に君臨することができるのです。
完璧な法則の支配下に置かれているために、すべての人間は一人の例外もなく平等に扱われることになります。法則の支配という完全・厳格なシステムによって、神の愛はあらゆる人間に等しく注がれるようになっています。誰も神から特別な配慮を与えられることはない代りに、「全員が平等な愛を受けられる」ようになっているのです。
これまで地上人類は、こうした神の一番本質的な内容を理解することができなかったために間違った信仰を続けてきました。一生懸命に信仰すればするほど神から特別な愛を受けられると錯覚し、的外れな努力をしてきました。今日まで言われてきた信仰心の篤い人間とは、神に勝手な期待を寄せて、自分たちだけが愛されたいと願うエゴ的な努力を必死にする人のことだったのです。そしてスピリチュアリストの中にも、他の宗教と同じように間違った神認識をしている人々が多く見られます。
「もしも干渉があり得ることになったら、大霊が大霊でなくなります。完全でないことになり、混乱が生じます。」
「大霊とは法則なのです。あなたが正しいことをすれば、自動的にあなたは自然法則と調和するのです。窮地に陥ったあなた一人のために、どこか偉そうな人間的な神様が総力をあげて救いにきてくれるような図を想像してはなりません。」
4)神の摂理に合わせるための努力こそ真の信仰
――スピリチュアリズムは「神と摂理に対する絶対信仰」
摂理を理解することは、神を正しく知ること
私たちが信仰実践の道を歩むに際しては、「神の摂理」について正しく知らなければなりません。神の摂理に対する正しい理解は、信仰をするうえで絶対に必要なことなのです。しかしこれまでの宗教は、神の摂理について全くといってよいほど理解していませんでした。
神の摂理を正しく理解することは、神を正しく知ることであり、神の前に正しく出て行く方法を知ることです。これまで地球上の宗教が正しい神信仰を持てなかったのは、摂理について正しく知らなかったからです。地上人類が直接知ることができるのは、神の摂理に他なりません。神は、摂理を通じて私たち人間と接しているのです。人間が幸福になるためには、神の摂理を知ってそれに合わせていくことが必要です。神の願いは人間が摂理に従って生きることであり、それによって私たちは、自然界と一体となることができるのです。人間も他の生命体も、霊界・宇宙それ自体も「神の摂理の支配」のもとで存在しています。神の摂理の重要性を自覚し、自分を摂理に厳しくそわせていく努力のプロセスが「人間の正しい生き方」であり「正しい信仰」なのです。
「摂理の神」の強調
スピリチュアリズムは「神」を信仰対象としますが、それだけでなく「神の摂理」も信仰対象とします。スピリチュアリズムの神観の特徴は、「摂理の神」による支配を強調する点にあります。シルバーバーチの「神は法則です」という言葉は、それを端的に表しています。
これまでの宗教では「神は愛なり」と言うのが普通ですが、スピリチュアリズムでは真っ先に「神は法則なり」と言うのです。もちろんスピリチュアリズムでも神は愛の存在であることを認めますが、どこまでも神の法則性を前面に出して主張します。このように神の摂理を強調する点が、従来の宗教とスピリチュアリズムの根本的な違いです。実はこれには、きわめて重大な理由があるのです。
人間の側から摂理に合わせる
神が、摂理を通じて人間をはじめ万物を支配しているという事実は、「神に特別な救いや配慮を願っても無駄である」ということを意味しています。どれほど神に祈り求めても、神から特別に愛されることはないし、奇跡も起こらないということです。
こうした神の摂理の厳粛な支配のもとで人間がとるべき姿勢は――「自分の方から摂理に合わせていく」ということです。まさにこれこそが「神への正しい対し方」「正しい信仰」なのです。賢明な人間は自分自身を摂理に合わせようとします。一方、愚かな人間は摂理を変えてほしいともがき、無駄な努力をして疲れ果てることになります。
「賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡智に合わせていくようになります。」
「神の摂理に逆らった生き方をする人は、自ら酷しい収穫を刈り取らねばなりません。摂理に素直に従って生きる人は、物的な面においても霊的な面においても幸せと豊かさを手にすることになります。」
スピリチュアリズムとは、神の摂理に合わせる信仰
スピリチュアリズムとは、神の摂理を正しく理解し、その摂理に自らを積極的に合わせようとするシンプルな信仰です。スピリチュアリズムは、神に特別な愛や配慮・奇跡などを願わない信仰です。神の摂理の絶対性に信頼をおき、自分自身をそれに忠実に従わせようとする宗教なのです。この点で、スピリチュアリズムと従来の宗教は根本的に異なっています。
神の摂理が信仰対象
シルバーバーチは――「私たちは、大霊の定めた永遠不変の自然法則を第一義として、これに敬虔なる忠誠と真心を捧げます。絶対にしくじることのない摂理、絶対に誤ることのない法則、身分の上下に関係なく、すべての存在に分け隔てなく配剤されている叡智だからです」と言っています。
スピリチュアリズムは「神」と「神の摂理」に対する絶対信仰です。スピリチュアリズムは「神の摂理」への信仰であり、「神の摂理」はスピリチュアリストにとって最も大切な信仰対象なのです。
霊界で常識となっている摂理への絶対信仰
神の摂理は、全霊界・全宇宙を支配し、いかなる存在もこの支配から逃れることはできません。摂理の支配に疑いを抱いたり、これを無視する霊界人はいません。霊界では、神の摂理に忠実に従って生きることが常識となっています。霊界では摂理に絶対服従する信仰が行きわたり、これが霊界のすべての霊たちの生き方の指針となっています。
スピリチュアリズムは、そうした霊界を支配する“唯一の宗教”を地上にもたらそうとするプロジェクトなのです。
5)神の摂理の支配下での正しい祈りとは
無意味だったこれまでの祈り
祈りとは、神に向けての語りかけです。しかし祈りは、決して神に対する願い事・訴え事であってはなりません。人間が語る言葉は神のもとに届けられますが、摂理から外れた利己的な願いは一切聞き入れられません。これまでの地球人類の祈りは、その大半が自分の利益を求める一方的な願い事であり、的外れなものでした。そして現在の地球上の宗教・信仰者が行っている祈りも、ほとんどが意味のない、神に聞き入れられない間違った祈りです。
人間が間違った祈りを続けてきた最大の原因は、「摂理の神」を知らなかったところにあります。人間は神と直接的な関係を結んでいるのではなく、摂理というシステムを通じて間接的な関係を持っているということが分からなかったからです。そのため、いかに熱心な信仰者であっても、結局は神の存在を否定する無神論者・唯物論者と変わらないような立場に自分自身を置くことになってしまったのです。
神の摂理に立脚した祈り
神への正しい語りかけ(祈り)は、「神と人間は摂理を通しての間接的な関係にある」という事実に立脚して初めて可能となります。「神の摂理」の存在を自覚(理解)したうえでないかぎり、それは的外れで虚しい願い事、礼儀をわきまえない身勝手な押し付けや訴えになってしまいます。そうした間違った祈りをいくら捧げても、時間とエネルギーの無駄になるだけです。摂理を理解した人間は、当然のこととして祈りを根本から変化させるようになります。神の摂理の自覚は、祈りに革命的な変化を引き起こすことになるのです。
では「摂理の支配」という霊的事実に基づく正しい祈りとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。正しい祈りとは――「人間サイドの身勝手な要求や神の摂理を無視した願い事ではない」ということです。物質的・本能的欲望を満たそうという祈りは、してはなりません。神は人間が必要としているものをすべてご存知であり、あらかじめそれを準備してくださっています。利己的な動機から発した祈りは、一切してはならないのです。「自分自身の霊的意識を高め、霊的成長を求め、人類全体の霊的進化と真の幸福を願うこと」、そして「神への感謝」――これが正しい祈りの内容です。
シルバーバーチは次のように言っています。
「祈りとは、可能な限り最高の“神の概念”に波長を合わせたいという願いの表れなのです。祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑えがたい気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。我々の心の中に抱く思念は、神は先刻ご承知なのです。口に出される前にすでに知れているのです。なのになぜ祈るのか。
それは、祈りとは我々の周りに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることができ、かくして我々に本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。
利己的な祈りは、時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているにすぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、そのときの高められた波長を通して力と励ましを授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。」
「祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。(中略)祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺激――これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。(中略)言い換えれば、祈りとは神性のひとかけらである自分がその始原とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。」