(5)神認識の能力と真の神認識について
――スピリチュアリズムの神認識論
スピリチュアリズムは言うまでもなく、神の存在を厳然たる事実であると主張します。スピリチュアリズムでは、「なぜ神の存在を受け入れられる人と受け入れられない人がいるのか?」また同じ信仰者同士であっても「なぜ神の実感度に大きな違いが生じるようになるのか?」という理由も明らかにしています。スピリチュアリズムは、神の認識ならびに神の認識能力の問題について、これまで地上人が知ることのなかった画期的な見解をもたらしました。
ここではスピリチュアリズムの「神認識論」を見ていきます。
1)真の神認識能力とは
――“霊的直感”こそが最高の神認識能力
従来の宗教における神認識の実際
神の認識とは、「神を知る・神を理解する」ということです。先の(4)では、これまで歴史上に現れたいろいろな神の認識の仕方・神の理解の仕方を概観してきました。宗教組織は、信者を増やし信者の信仰心を高めようとして、さまざまな神の認識の方法を試みてきました。
神認識には、哲学的・宗教的・科学的といった異なる角度からのアプローチが考えられます。従来の神認識論の中にも、なるほどと納得がいくような優れたものもありました。では、それらによって本当に神を受け入れ、信仰にまで心を高めることができるようになったのでしょうか。先に紹介したような神認識のアプローチを通して、無神論者が信仰を持つことができるようになったのでしょうか。
結論を言えば、大半の人間がそのようにはなっていません。それは理性・知性による理解(認識)だけでは、本当の神認識には至れないからです。
神の実感が、神認識のバロメーター
人間は神の存在を実感すると、それが強烈な内面の刺激となって「信仰」という実践の方向に進んでいくようになります。理性・知性による理解だけでは、たとえそれがどれほど論理的なものであっても、神の存在を実感的にとらえられないため、なかなか信仰にまで進んではいきません。実感のともなった認識であってこそ、心から神の存在を受け入れ、心から神を信じることができるようになるのです。
神認識の真実度は、「実感的であるかどうか」で決まります。真実の神認識・本当の神認識とは、神の存在をストレートに実感するようなもののことなのです。こうした神の実感体験を得られると、それがきっかけとなって、人は信仰に人生を捧げるようになります。実感のともなった「真実の神認識」は、その人間の意識に大きな変革をもたらし、人生の中心にしっかりと神を置くように仕向けるのです。
本当の神認識の能力とは?
――“霊的直感”こそが最高の神認識能力
では、こうした神を実感するような本当の神認識能力は、どのようにすれば得られるのでしょうか。重大な結論を言えば、真の神認識を可能にする能力とは“霊的直感・霊的感性”なのです。それはある種の霊能力(サイキック能力)であり、霊体に備わっている能力の一つです。
この霊能力を発揮するとき、「神の実体験・神の実感的認識」がもたらされるようになります。その霊能力を開発・発揮することによって、真実の神認識が達成されるようになるのです(*一般に言う「霊能者」とは霊体の能力を発揮しやすい人間のことですが、その霊能力は神認識のための霊能力、すなわち「霊的直感力」とは少し次元が違っています。これらは同じサイキック能力に属しますが、内容的には全く別種のものです。神認識の霊能力(霊的直感力)の方が、次元としてはより高い霊能力と言えます)。
霊的直感力を高める方法とは?
地上人は肉体という物質の衣に覆われているため、この霊能力(霊的直感力)を発揮しにくい状態にあります。またこの霊能力の発揮の度合いは、一人一人で大きく違っています。霊能力(霊的直感力)を発揮しやすい人間と、そうでない人間がいるのです。2人の地上人が驚異的な自然界の仕組みを目の当たりにしたとき、1人はそこに神の存在を感じて感動する一方で、もう1人は全く感動しないというようなことがあります。このように神を感じる反応が人によって異なるのは、それぞれの人間の“霊的直感力”の発揮度が違っているからです。
この霊能力は、外部から霊的エネルギーを多く取り入れたときに、より発揮しやすくなります。そのための効果的な方法が「瞑想・祈り」です。古来より、瞑想や祈りが宗教において不可欠な実践とされてきたのには、こうした理由があるのです。実際に深い祈りができるようになると、「神体験」という神と一つになるような心霊体験が可能になります。これは神との合一体験・融合体験と呼ばれることもあります。このとき地上人は、まさに神と触れ合い交わっているような実感を持つことになります。神を理解するといった次元を超えて、神と直接触れ合い、神と対面しているような感覚に包まれるようになるのです。実はこれが「最高次元の神認識体験」「真実の神認識」なのです。その時、日常生活では味わうことのない霊的エクスタシー状態を体験することになります。
理性によって神を理解しようとすると必ず神との間に距離ができますが、「真実の神体験(実感的神認識)」においては、神との間に距離感が全くなくなります(*とは言っても、この体験が文字どおり神と融合するということではありません。主観的な心霊現象が、本人にはそのように感じられるということなのです)。
「天と地が融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながら、すべての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。すぐその束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです。」
宗教の神秘主義化・密教化の意味するもの
宗教には教義(教理)を中心とする表の顔と、神秘体験を中心とする裏の顔があります。表の顔の宗教のあり方を「顕教」と言い、裏の顔の宗教を「密教」と言います。顕教は「教理主義」、密教は「神秘主義」と言うことができます。顕教は理性を重視した信仰、密教は神秘体験を重視した信仰です。言うまでもなく、神秘主義や密教が目指しているのは神仏との直接的出会いであり、これまで述べてきた“霊的直感”による実感的神認識と同一のものです。
宗教が神との直接体験、すなわち真実の神認識を求めようとすると、理性を超えた神秘体験を重視するようになります。神秘主義や密教は、教理を中心とする表の宗教から蔑視されたり異端扱いされてきました。しかし、神に対するより深い認識・理解を求める人々は、霊的直感による直接的な神仏の認識を根気強く探求し続けてきたのです。
2)霊界人と地上人の神認識の違い
肉体を持った地上人の中で、こうした神認識の体験を持つ人は稀にしか存在しません。しかし肉体を持たない霊界人は、神の実体験・本当の神認識体験をひんぱんにしています。霊界人は霊的直感を通して神を身近に、そして実感的に認識しているのです。そうした霊界人と比べたとき、霊的能力が肉体という物質の壁に押しとどめられている地上人は、霊的直感力をほとんど発揮できないか、ゼロに等しい状態になっています。地上人が神の存在をストレートに実感することができないのは、何重もの物質的覆いを通して神と対面しているからなのです。
ここでは肉体の制約から解放された霊界人が、霊界でどのような神認識をしているのか?――その実態について見ることにします。
霊界人の神の実感
肉体を持った地上人が、神の存在を身近に感じるような体験をすることはめったにありません。神と直接触れ合い、一つになるような感動的な神秘体験は、深い祈りの中におけるきわめて稀な霊的出来事にすぎません。それに対して肉体を持たない霊界人は、神との実感的な交わりをひんぱんに持つことができます。そのため霊界には、神の存在を疑ったり否定するような者は一人もいません。このように地上人と霊界人では、「霊的感性」と「実感的神認識」において大きな隔たりがあります。
私たち地上人の最大のハンディは、「霊的直感力が鈍くなっている」ということです。そのために大半の人間が神の存在を実感できなくなっています。しかし霊界では、いかなるレベルの霊であっても、地上人とは比較にならないほど強く神を実感しているのです。
霊界人は皆、敬虔な神信仰者
神を強烈に実感している霊界人は、全員が「神への敬虔な信仰者」です。この点で地上界と霊界は根本的に違っています。インペレーターは、霊界人の神に対する信仰心を次のように述べています。
「神への信頼があまりにも実感あふれるものであるため、あえて思案をめぐらす必要を感じません。我々は神のために生き、神に向かって生きています。神の意志を知り、それを実践しようとします。そうすることが、己のみならず、すべての創造物に対し、何らかの貢献をすることになると信じているからです。またそうすることが、神に対する人間としての当然の敬意を表明することであり、神が善しとされる唯一の献上物であるからです。
我々は神を敬愛します。神を崇拝します。神を敬慕し、神に絶対的に従います。」
*『霊訓』については翻訳原文の文体・表現を改めています。
霊界人がいかに強く神を実感しているか、うらやましくなるようなその実情が伝わってきます。またこの言葉の中には、霊界人の純粋で強固な信仰心が示されています。霊界では、霊格が向上し高い界層に至れば至るほど、神に対する実感の度合が増し、神をいっそう深く理解することができるようになります。高級霊の神の実感度とは、いったいどれほどのものなのでしょうか。私たち地上人の想像を超えた神との密接な触れ合いが実現していることは間違いありません。
現在の先進国では、神に人生のすべてを捧げるといった生き方は、時代遅れの人間か狂信者がすることであるかのように見なされています。しかし実は、そのように考える人間の方が、霊界からすれば常識外れで異常な者なのです。人間は皆、神への敬虔な信仰者でなければならないのです。
3)スピリチュアリズムが明らかにした神認識論のポイント
スピリチュアリズムによって明らかにされた「神認識論」のポイントを整理すると、次のようになります。
- ①最高の神認識は、霊体に属する「霊的直感力」によって可能になる。霊的直感によって神を実感的に認識することができるようになる
- ②肉体を持った地上人が、その霊的能力(霊的直感力)を発揮して実感的神認識をすることはめったにない
- ③霊的直感力を発揮して神の存在を実感するためには、「瞑想・祈り」を通して外部から霊的エネルギーを意識的に取り入れなければならない
- ④実感的神認識能力(霊的直感力)には、大きな個人差がある
- ⑤肉体を持たない霊界人は、日常的に「真の神認識体験(実感的神認識体験)」を持っている
- ⑥そのため霊界人は、地上人とは比較にならないほど神について深く理解できるようになっている
4)スピリチュアリズムの霊的真理による「理性的神認識」と、祈りによる「実感的神認識」について
霊界人における神の実感と霊的真理の関係
今述べたように、霊界人は“霊的直感”によって神の存在を強烈に感じられるようになっています。心の奥深くから自然と湧き上がる形で、ストレートに神の存在を実感できるようになっています。“霊的直感”による理屈を超えた神の実感――これこそが本当に神を知る・神を理解するということなのです。霊界人は、まさにそのようにして神を実感的に認識しているのです。
霊界人のように直接、神の存在を実感できるなら、神についてあれこれと理屈っぽく考えるようなことはなくなります。神の存在を生き生きと実感できる霊界人にとって、理論的な神の存在証明や説明は不要です。インペレーターが述べているように「神への信頼があまりにも実感あふれるものであるために、あえて思案をめぐらす必要を感じない」ということになるのです。霊界人の神認識は、霊的直感によるストレートな神の実感としてなされるため、地上人のような理性を用いた意図的な神認識の努力は不要となるのです。
霊界における神認識体験では、神の存在に対する実感と神についての理性的理解が、同時になされるようになっています。神の存在の実感が、神の理論的理解と常に一体化しているのです。地上のように実体験による神認識と理論的理解(理性的神認識)が分離してはいません(*もちろん霊界でも「霊性」の違いによって、神の理解の度合いはさまざまになります)。
霊界における神の実体験(真の神認識)では、神の愛と叡智を同時に味わうことになります。霊界人は皆、こうした形で実感的神体験をすることができるため、神についての基本的理解・見解が一致するようになっています。地上では信仰者の数だけ神観(神についての理解・見解)がありますが、霊界では一つの共通した神観があるだけなのです。
スピリチュアリズムにおける理性と神の実感の関係
肉体という物質の身体に覆われ霊(魂)が閉じ込められている地上人は、霊界人のように神を実感的に認識することができません。神の実感と神の理性的理解が同時になされるというようなことは、ほとんどありません。そうした地上人の神に対する理解は大部分が的外れであり、事実から大きく隔たっています。多神教の神観は言うまでもなく、キリスト教・イスラム教に代表される一神教の神観でさえも真実と懸け離れています。
地上人は神秘主義宗教を通じて、稀に実感的神認識・神との触れ合いを体験してきましたが、そこから地上人類に共通する神の理性的理解(神観)を導き出すことはできませんでした。そのため霊界の高級霊たちは、「霊界で認識されている共通の神観を地上に伝える」という方法を選択しました。霊界人に共通する神観の基本的内容を教え、地上人に神を正しく理解させようということになったのです。それがスピリチュアリズムによってもたらされた「神に関する霊的真理(スピリチュアリズムの神観)」です(*その内容は(7)で取り上げます)。スピリチュアリズムでは霊的真理を通して、地上人に「真実の神の理解(理論的認識)」を促します。基本的な神観が一致しないかぎり、霊界主導の地球人類救済計画を進めることはできないからです。
霊界の高級霊たちが地上人に伝えようとしている霊的真理の中には、神による宇宙支配のシステム・万物維持のシステムに関する内容も含まれています。神の造られたシステムとは「摂理(法則)」のことです。摂理は神の属性の一つですが、地上人にとって唯一、理性によって神の性質・内容を直接的に確かめることのできるものなのです。理性による神認識が可能となる対象なのです。このため霊界の高級霊たちは、自然界をはじめ神の造られた世界を支配する「摂理」についての理解を地上人に促します。自然界の中に神を認識できる事実を繰り返し訴えています。
シルバーバーチは次のように述べています。
「大霊は無限の叡智であり、無限の愛です。我々の理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見い出すことができます。」
またインペレーターも、同様のことを述べています。
「その姿を拝したことはありません。(中略)しかし拝したことはなくても、我々はその御業を通して奥知れない完璧さをますます認識しています。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりなのです。」
*霊界人と言えども、神のすべてを認識することはできません。神を実感的に認識することはできても、神のすべてを認識することはできないのです。つまり神そのものを直接的に認識することはできないということです。
インペレーターは次のように述べています――「(地上にいたときより)神への理解が深まりました。しかし神そのものを直接には知ることはできません。(中略)我々にとっても神は、その働きによって知ることができるのみです」
(『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)第2節 p.38)。
このようにシルバーバーチもインペレーターも、神の真実の姿は、神の摂理の働きの中に見い出すことができるものであることを教えています。
スピリチュアリズムでは、霊界から示された「霊的真理」を通じて神の正しい姿を理解(認識)すると同時に、自然界の中に現れている「摂理」という神の属性を観察することによって神の一側面を理解(認識)しようとします。スピリチュアリズムは、こうした形で地上人の理性に訴えて、正しい神認識の基礎をつくり上げようとするのです。それと同時に、「瞑想・祈り」が地上人にとって実感的な神認識に至る方法であることを教え、できるかぎり瞑想・祈りをするように勧めます。瞑想・祈りを通して神の実感的認識を促そうとしているのです。