(2)時代とともに進化してきた神の概念

――従来の神観の概観

これまで地球上には正しい神観が存在しませんでした。地球人類は本当の神の姿を知りたいと切望しつつも、その願いを叶えることができなかったのです。人類にとって「神」は最も重要なテーマであるにもかかわらず、共通の神認識が確立されないまま現在に至っています。人間にとって最大の関心事である“神の定義”は、今日まで確立されていません。

現在の地球上には無数の神の定義があり、それぞれがそれなりの正当性を主張しています。なかには自分たちの信じる神観だけが真実であるとし、それ以外は間違いであると決めつけ、他の考えを一切認めようとしない人々もいます。こうした現状にあっては、地球上の神観を一つの結論(定義)に導くことなど、到底できません。

しかし視点を変えて人類の宗教史を鳥瞰ちょうかんしてみると、地球人類は時代を経る中で、少しずつ正しい神の理解に近づいてきたことが分かります。

ここではこれまでの人類の神観・神認識の推移を振り返ってみます。

1)古代人が考えた神の概念

人類は絶えず「神」を理解しようとしてきましたが、肉体という物質に包まれた人間は神の本性と働きについて、常に真実から大きく懸け離れた奇々怪々な概念をつくり上げることになりました。

太古においては、目に映る物体を超えた「神」の概念を思いつくことができませんでした。人々は、人間を取り巻くさまざまな存在物に目に見えない超自然的な力が宿っていると考え、これをコントロールするために呪術を生み出しました物神崇拝)。また自然界の存在には霊魂が宿っていると考え、儀礼などによって霊魂との良好な関係を取り結ぼうとしました。また自然界の存在を意志と感情を持つ人格的な霊的存在と見なし、それを信仰対象とすることもありました。

こうして太古の原始信仰では、自然界の存在物や霊魂・霊的存在を絶対的存在者とする“神の概念”がつくり出されることになったのです。

2)多神教から一神教へ

多神教の成立

時代が過ぎ、紀元前3千年~前2千年にかけて、人類最初の本格的な文明が芽生え、古代文明が開化しました。そこでは天空・太陽・大地・水・火・嵐・植物などの自然界の力を神格化したさまざまな神々が崇拝され、「自然神的多神教」が現れるようになりました。それにともない儀礼を専門につかさどる祭司・神官などの聖職者階級が出現し、大きな力を振るうようになっていきました。強大な中央集権的国家が生まれた地域では、専制支配を正当化するために宗教が重要な役割を演じました。宗教は政治に利用されることになり、王の神格化・絶対化が神の名のもとに行われていきました。

こうした多神教や自然宗教が支配的であった中から「唯一神」を信仰するユダヤ教が成立したことは、人類の神観の変遷において重大な意味を持っていますこれは霊界からの集中的な働きかけがあったことを意味しています)

一神教世界宗教の成立

やがて紀元前6世紀~後6世紀には、現在につながる仏教・キリスト教・イスラム教といった世界宗教が成立することになりました。世界宗教は、それ以前の民族宗教や部族宗教とは異なり、特定の地域や人種・階級に限定されることなく、全人類を対象とする普遍的救済を説き、世界規模で信者を有することになりました。

キリスト教とイスラム教は、「唯一神」を信仰対象とする一神教世界宗教です。キリスト教は、一神教の民族宗教であったユダヤ教の上に成立した世界宗教で、地球上に登場した宗教の中で最も大きな影響を人類にもたらすことになりました。

3)人間の想像力によってつくり出された神のイメージ

地球上の宗教は、こうしたプロセスを経て現在に至っていますが、新しい宗教が成立するたびに、新しい神の概念がつくり出されてきました。それらの神観の中には、ある種の啓示・インスピレーションに基づくものもありましたが、多くは人間の想像力によってつくり出されたものでした。宗教組織・教団の利害やエゴが渦巻く中で、それぞれの組織・教団にとって都合のいい神がつくり出されることになったのです。

言うまでもなくそれは真実の神ではなく、人間が考え出した空想の神にすぎませんでした。人々は自分たちがつくり出した神を信仰対象とし、その神に対する儀礼と規範をこしらえてきました。時には自分たちが勝手につくり上げた神を、自分たちの都合に合わせて変更するようなこともしてきました。その実態は人間中心の信仰、人間の利益を追求した身勝手な信仰と言えます。

現在に至るまで多くの人々が、神は人間的属性を備えた存在であると考えてきました。人間が持っている性質や感情といった人間的要素を神も等しく有するものと思い、神と人間をきわめて近い立場に位置づけてきました。また神は人間的感情を持って人間に対するものと想像し、時に我慢強い神、時に優しい慈悲心を持つ神を思い描いてきました。こうした神のイメージは多くの場合、人間の都合を基準としてつくり上げられたものであり、人々は“神ならばこうするであろう”という勝手な願望を押しつけてきたのです。このようにして空想としか言いようのない神の概念、人間の欲望をストレートに反映した神の姿がつくり出されることになりました。

人々は、およそ真実から懸け離れた神の姿を思い描いてきましたが、それでも時代が進み人類の霊性が進化すると、神についてのイメージにも変化が生じるようになっていきました。人類史という長い時間の経過の中で、人類の抱く神観は、霊的成長とともに徐々に洗練されたものへと進化していきました。

その神観の最大の変化が、イエスによって引き起こされることになったのです。

4)イエスによる神観の革命

――イエスによる「愛なる神」の登場

イエスによる神観の革命

――「裁きと恐れの神」から「愛の神」へ

地球人類の歴史を全体的に眺めるとき、時代とともに少しずつ神への理解が深められてきたことが分かります。人類は霊的進化にともない、それ以前の未熟な神観を徐々に進化させてきました。その中で最大の変化を、ユダヤ教からキリスト教への流れの中に見ることができます。

ユダヤ民族の守護神である“エホバ”には、復讐・怒り・懲らしめ・嫉妬といったイメージがありました。しかしその神は、イエスによって「愛と公平と慈しみの神」へと大きく変化することになりました。イエスは地上に誕生した人間の中で、誰よりも鮮明に神を認識していました。イエスの説く真理は、きわめて単純・素朴であり、神についての教えも平易そのものでした。

イエスが人々に教えた「神」は、ギリシア哲学で説くような思想の対象としての神ではありませんでした。またこの世界を統合する一つの秩序としての神、根本原理としての一なる存在である神でもありませんでした。イエスが説いた神は、何よりも信仰の対象としての“生きた神”だったのです。イエスは信仰の対象である神を、ユダヤ教の「裁きと恐れの神」から、人類共通の親である「愛なる神」へと変えたのです。イエスの神観は、ユダヤ人(イスラエル人)の伝統の中から生まれましたが、民族的偏狭さを超えて世界宗教として発展することになりました。

「ユダヤ教の神」と「イエスの神」

イエスの説いた「愛の神」がねじ曲げられて教義化

――キリスト教の神観の間違い

イエスによる「愛の神」の概念の登場は、地球人類にとってまさに革命的な出来事でした。イエスの説いた「神の愛(アガペー)」は、民族や血縁・仲間だけを対象とする愛ではなく、全人類の上にあまねく行きわたる愛でした。敵をも愛し、迫害する者をも愛するという普遍的な人類愛でした。そのためイエスから始まったキリスト教は、“愛の宗教”と言われるようになりました。イエスはこの神の愛に倣って、人間同士が“隣人愛”によって愛し合うことの大切さを主張したのです。

しかしこうした画期的な神観と愛の思想は、残念ながらその後、地上人によってねじ曲げられ間違った教義をつくり出すことになってしまいました。イエスによって示された神への信仰は、人間のエゴと手垢によって汚され、霊的成長を妨げる最悪の思想にすり替えられてしまったのです。そして長い間、地上人類を“霊的牢獄”の中に押しとどめることになりました。

その間違ったキリスト教の教義の代表が「一方的な許しの神」というものです。イエスを罪のない神の一人子で、かつ人類を救うキリスト(救い主)であるとし、これを信じ告白することで罪が許され、神のもとへ一気に招かれるという教えです。しかしキリスト教が説く「一方的に罪や過ちを許す愛の神」は、イエスの「愛なる神」を歪曲してでっち上げたニセの神観です。それは地上の人間が、自分たちの知性と都合によって勝手につくり上げた神観に他なりません。この「一方的な許しの神」という最悪の神観が、イエスによってもたらされた「愛の神」に取って代わってしまったのです。

一神教世界宗教間での対立

――イスラム教によるキリスト教の神観への批判

霊的事実の観点からすれば、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教に代表される一神教は、多神教よりも進化した神観と言えます。しかし一神教であることが、その宗教の神観の正当性を示しているわけではありません。先に見てきたように、キリスト教の一神教的神観の中には、多くの人工的・空想的要素が含まれています。そしてそれが一神教同士の対立を生み出し、戦争を引き起こす原因となってきました。

イスラム教の“アッラー”は唯一無比の神であり、ユダヤ教の“エホバ”およびキリスト教の“ゴッド”と同じ神です。イスラム教の開祖ムハンマドは、初めはユダヤ教徒とキリスト教徒を自分たちと同じ“経典の民”と呼び、親しみと尊敬の念を示していました。ムハンマドは、エホバとゴッドとアッラーを「共通の神」と考えていました。そしてユダヤ教もキリスト教も、自分を最後の預言者として受け入れてくれるものと思っていたのです。

ところがそうした期待に反して、ユダヤ教徒やキリスト教徒がムハンマドを批判し軽蔑したため、彼はこれらを敵視するようになってしまいました。ムハンマドはキリスト教が一人の人間にすぎないイエスを唯一絶対の神の一人子とし、さらには三位一体の教義によって神の地位にまで高めた点を厳しく批判しました。キリスト教は人間を神格化・偶像化するという最大の罪を犯している、と敵意をむき出しにし、対立していくことになりました。

霊的事実に照らしてみれば、ムハンマドによるキリスト教の神観への批判は正当なものであり、まさにその通りなのです。彼のキリスト教批判の指摘は、スピリチュアリズムと全く同じです。とは言っても、ムハンマドによって説かれたイスラム教の神観にも、霊的事実とは異なる決定的な間違いが多く見られます。

5)スピリチュアリズムによる、さらなる神観の革命

――「一方的な許しの神」から「摂理と愛の神」へ

スピリチュアリズムの到来によって、地球人類はイエスの時代よりもさらに多くの啓示を受けることができるようになりました。それを通して、より高次元の神の概念とイメージを持つことが許されるようになったのです。イエスの神観は2千年の間、地球人類の神の基本概念を形成してきました。しかしスピリチュアリズムによってもたらされた神観は、今後数千年の間、地球人類の神の概念を導くことになります。そしてそれは人類の霊性進化の歩みとともに、さらに進んだ神の概念へと高められていくことになります。地球人類は“霊的受容性”に応じて、よりいっそう神に関する深い霊的真理を知るようになっていきますが、スピリチュアリズムによってもたらされた神観は、まさにその出発点となるものなのです。

2千年前、イエスによって初めて示された「愛なる神」は、その真意が十分に理解されないまま、イエスの思いとは反対の方向に進んでいってしまいました。そしてイエスを裏切るような教義や神学をつくり出すことになってしまいました。

今、スピリチュアリズムによってもたらされた神観は、霊界の高級霊たちが総力を結集して地上に伝えたものです。霊界において、現在の地球人類に必要とされる真理の内容を徹底的に吟味し、計画的に地上に降ろしたものです。それはキリスト教の間違った神観を打破し、イエスの「愛の神」の内容をさらに徹底して深めるものとなっています。スピリチュアリズムは、イエスの「愛の神」を「摂理と愛の神」として発展させました。その新しい神観は、従来のキリスト教の「一方的な許しの神」の間違いを正すことになります。イエスによってもたらされた「愛の神」の概念を推し進め、「摂理と愛の神」という新しい神観を地球上に確立していくことになるのです。

この「摂理と愛の神」の内容については、以下の2章、3章、4章で詳しく説明していきます。

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