スピリチュアリズム実践の真髄“道具意識”

――神の道具となることほど偉大な仕事はありません

ニューズレター第4号

霊訓に見る高級霊の謙虚さ

高級霊の霊訓に触れるたびに、その謙虚な姿勢に強く心を打たれます。高級霊の人格は謙虚さの中にそのまま表れています。霊的な高さを示すものは、愛の深さと同時に謙虚さであり、魂の成長と謙虚さは比例します。霊界の人々の謙虚さを前にする時、私達地上人は本当に傲慢なのだと実感させられます。地上人が傲慢でいられるのは、霊界の事実を知らないためであったり、あるいは知っていても、それを実感できないからでしょう。

物質文明が支配的な地上世界では、自然と物質的な力がものを言うようになります。利己主義の傾向が強くなり、他人との競争に勝つことが人生の目的となります。そうした競争社会では、自己主張とそれを貫く手段(経済的力・政治的力・武力軍事的力)が重要性をもつようになります。アメリカを筆頭とする地球上の先進諸国は、こうした物質的な競争社会に巻き込まれています。そこでは謙譲・謙虚さというものは何の力にもなりません。思いやりという愛も無意味なもの、無駄なものになっています。

日本人は従来、謙譲・謙虚さを美徳と考えてきましたが、欧米的な思想の影響によって、今では、それは古い道徳観念であると位置付けされようとしています。日本人も欧米人のように、はっきりと自分の意見を言って、自己主張しなければならないと考える人が増えてきました。ここではその問題について深入りすることは避けたいと思いますが、一言だけ述べさせていただくならば、そうした傾向は霊的に見てけっして高いものではないということです。

確かに多民族移民国家においては、スムーズなコミュニケーションを図るために自分の意見をはっきりと口に出して言うことが必要です。しかし、それはどこまでも処世的な必要性であって、霊的生き方としてよいということではないのです。言葉を介さずとも、人間は直感的に相手の心や感情をコミュニケートすることができるのです。何が何でも言葉に出して説明しなければ理解し合えないということは、霊性の鈍さを示すものではないでしょうか。より深い心の交わりには、言葉はむしろ反対の作用をするのではないかと思います。言葉を中心とする交わりは、概して表面的・皮相的であると思われます。欧米的な自己主張を前面に出す世界は、霊的には子供のような幼いレベルの世界と言うべきです。欧米人の個人主義は、その前提として神への絶対信仰が有る限り、よさが発揮されることになります。しかし現在のように、肝心なキリスト教への信仰が失われた中にあっては、単なるエゴイズムに堕ちてしまっています。

本当に価値があるのは、個人の主張より、相手への思いやりと自己を後回しにしての全体への協力・奉仕なのです。自己滅私・自己犠牲という言葉は現代人にとって最も厭うべき言葉ですが、そうした自分より他者を優先する在り方こそ、霊的真理にそった歩みなのです。残念ながら日本は欧米的思想の洗脳によって、本来的にもっていた霊的な美徳を失おうとしています。霊的真理は、現在のようなエゴ的個人主義を善しとせず、旧来の日本の謙譲の精神を善しとしています。聖書の思想も同様です。高級霊の教えを、私達日本人は初めから何の抵抗もなく受け入れることができます。違和感を感じることがありません。それは日本人の身に付いている謙虚さと自己滅私的性向が、霊的真理に近いためなのです。

高級霊の人格のすばらしさは謙虚さに表れています。彼らはけっして自分の手柄を披露したり、自分の能力を自慢するようなことはしません。自分は、神とより高い世界の僕であり、それに仕える道具でありマウスピースであると断言しています。ここに彼らの純粋で飾り気のない謙虚さの根拠があります。彼らは、ただ地上人の救いのために働けるだけで十分であると言います。そこには、地上で流行している個人主義や自己主張のひとかけらも存在しません。

私達は幸いなことに霊的真理と出会い、霊的人生を歩むことができるという最高の恩恵にあずかっています。神とすべての高級霊の意図と願いをはっきりと知っています。さらに地球の背後で現実的に進められている、人類史上最大のプロジェクトについても知ることができました。私達はすでに、最高の真理と最高の貢献をなし得る立場を与えられており、霊的世界における最も強力で純粋な軍団の仲間入りをしたのです。

ゆえに当然のこととして、それに見合った人格的努力と実際の貢献が期待されています。肉体をもっているため高級霊のようにはできなくとも、それを具体的な見本として近づく努力が必要です。その際何よりも見習うべきは、高級霊の道具意識であり、謙虚さなのです。

霊的真理の実践を通じて、私達は地上で魂を成長させることができるようになります。その具体的な内容は、これまでのニューズレターで述べてきましたように、霊主肉従のための努力苦しみの克服利他愛の実践であり、今回のニューズレターで取り上げました瞑想・祈りです。これらの四つの実践項目は大きく、「自己の魂の成長」と「霊的真理の普及」という二つにまとめることができます。

ところがこれらは、「道具意識に徹すること」によって全て成し遂げられるのです。すなわちスピリチュアリズムの実践努力は、純粋な霊界の道具を目指す中に集約されるのです。

では高級霊のよき道具になるためには、どのような考え方をすればよいのでしょうか。次にそれについて見て行くことにしましょう。

自分を、「神と高級霊の道具としようとする」ことが道具意識です。道具である以上、自分という存在も、自分で自由に決められるものではなくなります。自分の人生も、自分の将来も、日々の歩みも、自分から決めるものではなくなります。すべてを高級霊の導きに委ね、預けて、自分であれこれ言わず、「自分のすべてをあなたに捧げますから、どうかよきようにお使いください。どんな道が示されてもそれに従いますから、どうぞ命令をしてください」ということになります。さらには、「この世の利益も、名声も、評価も何も求めません。自分は道具として、ただ与えることだけに徹します。高級霊と同じように働けるだけで、役に立てるだけでうれしいのです。それだけで十分なのです。」ということになります。

こうした思いは、自分を最も霊的に高いところに立たしめようとするものです。霊優位の生き方をストレートに目指すものと言えます。またこの道具意識は、この世の苦しみに対する最善の克服法になっています。そしてそこには、最高次元の利他愛の実践への願いが込められています。さらに最も高次元の祈りがその中に含まれています。このようにスピリチュアリズムの実践のすべてが、「道具意識」という一点に集約されているのです。

「わたしの世界には大霊の使者の大軍が控え、いつでも地上世界のために手助けをする用意を整え、あなたのような“道具”が“私はいつでも用意ができております。どうぞお使いください”と言ってくださるのをお待ちしている事実を、この目で見て知っているのです。」

『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.64

自分なりの心配、気負いは不要

道具意識に徹すれば、暗い考え方をする必要がなくなります。自分の心を暗く狭いところに閉じ込め、自分で自分をいじめることがなくなります。大らかに生きられるようになります。もちろん自分を厳しく反省する時間をもつことは必要ですが、自分の反省とは、道具としての自分の内容をチェックすることです。今日一日の心のもち方が、道具として正しかったかどうかを振り返ればよいのです。自分の心の複雑な分析など不必要です。

自分なりの判断、取り越し苦労、気負いがなかったか、自分の力に過剰に頼ったところがなかったか、傲慢でなかったか、高級霊にしっかり委ね信頼して任せていたか、他人からの見返りや評価を期待していなかったか、相手に与えるだけで満足しようとしていたか――このように道具としての自分の内面を省みるだけで、全てよしとなるのです。

私達は高級霊という最高の存在の道具である以上、自分のことについて何も心配する必要はありません。最高の力をもった存在にしっかりつながっているのです。将来にたいして自分なりの心配をする必要など何一つありません。私達の未来には、間違いなくベストの道が開かれて行くでしょう。その中で自分としての全力を尽くせばよいのです。行くべき方向を自分であれこれ探し求め、エネルギーを浪費する必要はありません。導きに委ね、ただ自分の人生を道具として捧げることだけを考えればよいのです。

今後の人生をすべて高級霊に任せることにしましょう。高級霊の準備してくれた道の中で全力を尽くすことにしましょう。霊界の道具として働けるなら、それ以上望むものは何もないはずです。

また私達は、他人のことについて責任を感じたり、悩んだりする必要はありません。人間は自分のことだけに責任をもつというのが宇宙の法則なのです。他人のことにまで責任を負うように定められてはおりません。魂の成長については、その人が自分自身で責任を取らなければなりません。たとえ自分の子供であっても、魂の成長のすべてに責任をもつことはできないのです。今、自分が高級霊の道具として働いているなら、他人の反応、他人の不道徳に心を痛める必要はありません。私達のなすべきことは、道具としてただ与えることだけです。それで全てなのです。それ以上のものは、高級霊から要求されていません。

「案ずることはありません。あなた方は自分なりの最善を尽くせばよいのです。もうこれ以上はできないというところまで努力したら、それ以上はムキにならず、あとは私達に任せる気持におなりなさい。人間は自分にできるかぎりの努力をしていればよいのです。それ以上のことは要求しません。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)p.160

先回のニューズレターでは伝道の実践について取り上げましたが、伝道についても自分の能力のなさを悩む必要はありません。なぜなら伝道の主役は霊界だからです。自分の力で一人でも多くの人に真理を分からせよう、などと考える必要はありません。「自分を最大限に用いてください」と祈る純粋さと一途さが、何より大切なのです。伝道はその大半が霊界によって進められて行きます。その結果、時期の来た人から霊的真理に出会うことになります。

道具としての純粋さがあるところに、高級霊は大挙して働きかけます。その人を中心として救いの道を展開するようになります。霊界の人達こそ、私達を最大限に使いたいと思っているのです。高級霊の援助を得られるようになるなら、自分一人の能力に頼った伝道の、何十倍・何百倍もの結果が出るようになるのです。自分の力を過信し、ガムシャラに突き進むなら、この世のセールスマンや宗教家の伝道と同じです。私達は高級霊を信頼し、委ね、可能なかぎり精一杯やるだけでよいのです。実績をあげようと思うより、自分をもっともっと純粋な道具とすることが大切なのです。

自分の心に「純粋な道具意識を確立する」ことが、結果的に自分の心を高めることになり、同時に最高の貢献をすることになります。「自己の魂の成長・救いと、人々への救済が一致し同時進行して行く」のです。自分の成長と貢献が最高次元で一致し得るのは、委ねる相手が高級霊であるスピリチュアリズムだからこそなのです。

スピリチュアリズムならではの、唯一最高の恩恵

神にすべてを委ねるという信仰は、スピリチュアリズム以外の他の宗教にも見られます。その代表がキリスト教です。自分という存在も生命もすべてを神とイエスに捧げ、自らの人生を神の思し召しに委ねようとします。キリスト教の歴史には、それが殉教という形で結実しています。しかし、そうしたクリスチャンの信仰がどれだけ純粋であっても、霊的事実という観点から見ると明らかに間違っています。キリスト教の絶対帰依の信仰は、間違った教え・事実でない教えの上に立った錯覚的行為にすぎないのです。彼らの考えるような神もイエスも、現実には存在しません。勝手に自分達でつくり上げた架空の神とイエスに、人生を捧げてきたのです。

クリスチャンばかりでなく、現在もそれと同様の宗教が多くあります。特に新宗教・新新宗教のカリスマ教祖をいだく教団などです。こうした教団では、教祖が地上の神となり、絶対的な信仰の対象となっています。そうした偽善は霊界において、すべて白日のもとに明らかにされることになりますが、地上では無知に付け込んだ狂信がまかり通ってしまうのです。信者の純粋な献身はその対象が本物でないため、結局、滑稽なものになってしまうのです。まさに哀れとしか言いようがありませんが、純粋な気持につけこむ教祖の不正は、その動機を照らした時、大きな罪を犯していることになります。霊界においては、それ相当の厳しい償いをしなければならなくなるでしょう。

こうした多くの宗教の実態を見るたびに、スピリチュアリズムが基盤とするものが本物であってよかったとつくづく思います。何万とある宗教の中で、唯一スピリチュアリズムのみが、自らを道具として、自分のすべて、人生のすべてを捧げても間違いを犯すことにならないのです。それは、私達が委ね捧げる高級霊による巨大組織が、正真正銘の本物であるからです。これがスピリチュアリズムが他の宗教と全く違う点なのです。本物に絶対帰依し人生を託すことができるのは、事実スピリチュアリズム以外にはないのです。スピリチュアリズムだけが、道具意識をもっても狂信とならずにすむのです。

道具意識とは、自分の全てをより大きなものに結合させ、より広くて高い価値的世界で自分を生かそうとする生き方です。それは地上的な見方、物質的な見方からすれば、自己放棄の生き方のように映るかもしれません。しかし、霊的世界の事実を何も知らない人達が物質次元からの根拠のない批判を繰り返しても、私達は取り合う必要はありません。霊界に行けば何もかもはっきりすることです。そうした相手に対しては、哀れに思ってあげればよいのです。

スピリチュアリズムにおいては、委ね捧げる対象が霊界にいる高級霊という現実の存在であるがゆえに、安心して身を投げ出すことができます。何の心配もなく自己を積極的に預けることができます。この世にあって、この世を超越した生き方が可能となるのです。私達がスピリチュアリズムと出会ったことは最高の幸運でした。まさにスピリチュアリズムならではの特権的な幸運にあずかっているということです。

謙虚さに至る最短の道“道具意識”

スピリチュアリズムの信仰の真髄は、これまで述べてきたように道具意識にあります。道具意識をもつことは謙虚になる最短の道です。自意識にまつわる醜さを根底から払拭するには、道具意識を深める以外にありません。スピリチュアリズムが霊的実践において、他のいかなる宗教やニューエイジに勝っているのは、道具意識に徹し切れることにあります。

とかく人間は、人に教える立場・人の上に立つと、それは自分が他の人より優れているからだと考えます。たとえ霊的真理を知っていても、いつの間にか傲慢になってしまうのが地上の人間の実態です。愛を語り、謙虚であることの大切さを説く宗教家や文筆家や思想家が、実は傲慢そのものであることが多いのは、自分が偉いと思い込む落とし穴にはまっているということです。そうならないためには、道具意識に徹することです。「自分は道具である、ただ使ってもらう立場である」という意識をもつことによって、地上の人間として、最も純粋で深い謙虚さをもつことができるようになります。

今、スピリチュアリストに何より要求されているものは、そして霊能者やヒーラーとして活動している全ての人達に求められているものは、知性でも霊能力でもなく、道具意識に立った本当の謙虚さなのです。そしてこれこそが、他の宗教やニューエイジにおいてはもち得ない、スピリチュアリストの霊的資質となるべきものなのです。

自分の知識や能力を自慢したり、自分を立派だと思っている人には、純粋な道具意識は存在しません。自分の霊能力や治療実績を誇ったり、背後霊にこだわり自分には誰それが付いていると口にするような霊能者やヒーラーは、霊界の道具とは言えません。身を低くする謙虚な姿勢なくしては、高級霊の真の道具とはなり得ないのです。

「私達はあくまでも謙虚に献身してくれる道具が欲しいのです。何度も申し上げていることをここで改めて申し上げますが、献身こそ霊の正貨です。大義のために献身することこそ気高いのです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.156

道具意識は、時には「私はマウスピースにすぎません」(シルバーバーチ)という表現で語られることもあります。この言葉を思い出すたびに浮かぶのが、俳優の丹波哲郎氏のことです。彼はよく、「自分は霊界の宣伝マンである」と言っています。この言葉を通して、彼がどのようなスピリチュアリストであるのかが分かります。彼の言う「霊界の宣伝マン」とは、まさにシルバーバーチの言う「高級霊のマウスピース」のことであり、これまで述べてきた「高級霊界の道具」と同じことなのです。そこに丹波氏が、自分の人生を純粋に霊的真理普及のために捧げている、本物のスピリチュアリストであることが表れています。

コナン・ドイルが、『シャーロック・ホームズ』の作家であることより、スピリチュアリズムの普及をライフワークと考えていたように、丹波氏もまた、俳優業より、スピリチュアリズムの普及を使命としていることがよく分かります。

俳優という大衆を相手にする立場にあっては、彼の受けた反発や非難は、私達とは比べものにならないくらい大きいはずです。しかし彼は一貫して霊界の宣伝マンに徹し、高級霊の道具として大きな役割を果たしてきました。彼のそうした態度の中に、スピリチュアリズムの同志の姿、よきスピリチュアリストの手本を見ることができます。うわべではない本物の謙虚さ・純粋さを感じ取ることができます。霊界の宣伝マンであると声高に宣言し、素直で明るい霊界の道具に徹する丹波氏を、心から頼もしく思います。

彼は高級霊の道具として、最高に価値ある地上人生を歩んできました。スピリチュアリズムが今まさに大きく日本に展開しようとするこの時期、霊界の先兵としての役割を堂々と果たしてこられた丹波氏の今後の戦いに、応援のエールを送りたいと思います。

「私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具にすぎない――私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)p.220

「わたしたちは大霊の使いにすぎません。ですから、賞讃も栄光も祈りも感謝も、わたしたちが戴くわけにはまいりません。あなたもわたしも、一つの大きな目的のための道具であり、その目的をより容易に、より立派に、そして人をより幸せにするために、お互いの役割を果たそうと努力しているところであることを忘れないように致しましょう。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.122

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