スピリチュアリズムから見た民主主義と財政の問題点

ニューズレター第15号

1.果たして民主主義は絶対善なのか?

現代の「民主主義信仰」

現代世界では、民主主義は最も優れた政治システムであると考えられています。大半の人々は、政治といえば無条件に民主主義のことであると思っています。民主主義は、独裁者の専制による悲劇を防ぎ、国民一人一人の権利を尊重し、より多くの人々に幸福をもたらす政治制度と思われています。20世紀になって、民主主義は世界中に広まり、世界共通の「普遍的真理・絶対善」であるかのようになっています。現代では、民主主義を唱えることは無条件に善であり、民主主義に少しでも反するようなことは悪であるとの認識が定着しています。

現代の政治家は、民主主義という言葉に、常に最も神経を配っていなければなりません。それと同時に、たえず自らが民主主義の擁護者であることを国民に強調し続けなければなりません。また時には自分の政敵に対して、反民主主義・独裁者のレッテルをはって追い落としを謀ることになります。民主主義を声高に叫び、自らを民主主義者であるとアピールすることは現代政治における常套手段なのです。選挙に勝てば、自らを民主主義の勝利と宣言し、選挙に負けた政敵を独裁主義の敗北とする光景をよく目にします。このように現代の地球上では、「民主主義信仰」と言ってもよいような状況が見られます。

しかし果たして民主主義は、人々が考えるような絶対的な善というべきものなのでしょうか。スピリチュアリストである私達も、民主主義を無条件に信頼してよいのでしょうか。

民主主義は本当に平等なシステムか?

民主主義とは端的に言えば、数の論理によって政策を決定する政治システムということです。民意は数の多さによって示されるとされ、「多数決」は民主主義の重要な原理となっています。理念上は、少数意見を尊重し、決定を下す前には自由な討議を尽くすことが大切とされています。

しかし現実には、意見の違う者達がどれほど審議を続けても、一致点を見い出したり、歩み寄ることはできません。両者が初めから共通的な立場、あるいは共通の基本的見解を持っているときのみ、歩み寄りが成立するのです。もし議案が民族の利害に大きく係わったり、政党の大義名分に抵触するようなときには、歩み寄りとか妥協点を見い出すというようなことは、ほとんど不可能と言わなければなりません。結局、民主主義の多数決の原理とは、数の論理による強制手段を正当化する方法に他ならないということになります。

多数の意見は民意を代表しているという考え方は、時に大きな矛盾を引き起こします。例えばある政権の支持率が51%というようなケースでは、残りのおよそ半分の国民の意見は民意とは見なされなくなります。国民の意見を最大限に尊重するという民主主義の基本的理念は、大きく揺らぐことになります。ここには“平等主義”を大原則とする民主主義の、宿命的な欠陥が現れています。

さらに次のようなことを考えてみると、民主主義は必ずしも平等な制度でないことが明らかになります。現代政治において選挙は、国民が平等に政治に参加する機会ということになっています。しかし考えてみれば、政治について全く無関心で知識のない人と、その道の専門家である政治学者が、同じ一票しか投ずることができないのは非常に不平等なことです。真剣に考え抜かれた末の一票が、単なるファッション感覚や外見上の好み、あるいは他人からの依頼による一票と同じ価値しかないというのは、明らかにおかしなことです。

民主主義とは、選挙民に十分な情報が与えられ、選挙民がその情報を正しく解釈する力がある場合にのみ、まともに機能するものなのです。知性と真剣さを兼ね備えた選挙民がいて、初めて本来の目的を果たすことができるシステムなのです。民主主義は、一人一人の国民を同じように尊重するという厳格な平等主義に立った制度ですが、この“平等主義”が、民主主義それ自体を根底から崩す最大の原因になっているのです。民主主義が平等で正しい政治システムであるなどというのは理屈上のことであって、現実には、理想から大きく懸け離れているのです。

マスメディアによって意図的につくられる偽りの民意・世論

さらに現代の民主主義の問題点は、世論がマスメディアによって操作され、つくり出されているということです。主権者である国民の意見が正しく吸い上げられ、中央において政策が決定されるというのが民主政治の本来の在り方です。国民の意志が正しく反映される世論政治であることが、民主主義の鉄則なのです。しかし現代では、この肝心な世論が、一部のマスメディアによって意図的に形成されるケースが圧倒的に多くなっています。規模の拡大化した大衆民主政治においては、マスメディアによらなくては、政治自体が成り立たなくなっています。

一般の国民が、独自に政治についての十分な情報を持つことは不可能です。また、たとえ自分で情報を入手することができたとしても、政治について専門的な知識を持たない中では、それをどのように判断したらよいのか分からないのが普通です。現代では国民の多くが、マスメディアを通して情報を得ています。その結果、そこで示された見解を、自分の意見として取り入れることになってしまっています。マスメディアに登場する評論家の意見を鵜呑みにしたり、ニュースキャスターの見解をそのまま受け入れたり、あるいは新聞の社説を絶対視することになってしまっています。

マスメディアによって与えられる見解は、それに係わる一部の人間の目を通して抜き出し、彼ら流の解釈をほどこした考えにすぎません。多様な現代世界にあって、バランスを失わずに、また個人的見解をいっさい交えずに社会情報を論じることなど、ほとんど不可能なのです。さらには霊界についての事実も知らず、唯物的視野しか持てない政治評論家やマスメディアに、まともな判断ができるはずがありません。

このようにして現代の世論の多くが、一部のマスメディアによって意図的に形成されることになります。それは、マスメディアを利用すれば簡単に国民を扇動し、一定の世論を意図的につくり上げることができるということを意味しています。マスメディアは現代社会にあっては、強力な政策決定の要因となっています。現実に日本をはじめ先進諸国では、マスメディアによって政治の流れがつくり出され、政策が決定されるようなことがたびたび見られます。本来、政治の脇役であるはずのマスメディアが、れっきとした主役を演じるようになってしまっているのです。こうした事態は、明らかに民主主義の理想を根底から崩すことであり、民主主義の危機的状況を招来させていると言わなければなりません。

将来的には、インターネットを活用して、直接民主制の要素が徐々に取り入れられていくようになるでしょう。しかしそうなっても、国民の一人一人に判断する力がないならば、結局は、外部のメディアによって世論が形成されるという現在の状況は変わらないと思われます。どれほど情報を入手できたとしても、それをもとに個人的な見解・意見をつくり出せない限り、民主主義の理想は、どこまでも理想のままにとどまらざるを得ないのです。

国民のエゴを助長させる手段となっている民主主義

民主主義は、国民・民衆の意志が世論を形成し、それが政策を決定するという制度です。しかし、こうしたプロセスが正しく機能するのは、国民一人一人が政治についてよく理解し、利己的な立場を離れて、全体の利益がいかなるものであるかを考えることができる場合に限られます。すなわち「国民が賢明である」ということが、民主主義が正しく機能するための大前提・絶対条件となるのです。賢明な国民がいて、初めて民主主義の理想は実現するようになっています。

現代の民主主義が直面する最も深刻な問題は、多くの国民が賢明ではないということです。利己主義に染まり切って、いつも自分の利益を真っ先に考えるだけで、国全体のことを考えようとしないのです。大半の国民が、民主主義の理念を支えるにふさわしい資格を持っていないのです。人々は、質素な生活より、物質的に豊かな生活を願います。増税や株価の下落などによって、自分の利益が減ることを最も心配します。そして自分達の利益を守ってくれる政治家を選ぼうとします。贅沢な生活が続けられるような政策を政府に要求します。

こうした状況下にあっては、数によって示される民意は、必然的にエゴ的なものとなります。国民が物質的な満足と繁栄だけを望むのであれば、結果的には、エゴ的欲求を満たすような政策が決定されることになってしまいます。たとえその政策が国の将来にとってマイナスになることが明らかであっても、エゴ的要求が通ることになってしまうのです。

国民は、自分達に物質的な利益をもたらしてくれる政治家を選ぼうとします。政治家の側に立てば、自分が政治家として選ばれるためには、民衆の低俗で身勝手な要求に添わなければならないことになります。結局は、国民がエゴであれば、政治もエゴ的なものに堕ちてしまうのです。民衆という多数派が愚かであるならば、民主主義のもとでは愚かな決定しか生まれません。民衆が賢明ならば、健全な政治がもたらされます。

賢明な民衆とは、自分の物質的・本能的欲望をコントロールすることの重要性を知って、欲望の暴走に歯止めを掛けられる人のことです。もし現在の政府や政治家が良くないとするなら、それはつまるところ「国民が愚かである」ということなのです。

衆愚性しゅうぐせい」は民主主義の宿命

民主主義とは、国民が物質欲をコントロールする賢明さを持ち、私利私欲を離れ、損得を越えられる限りにおいて良いシステムとなり、健全さが保たれることになります。しかし国民が自分の欲望の満足だけを求めるような場合には、国家の発展や利益は後回しにされ、国は食い物にされることになります。

唯物的視点しか持ち得ないマスメディアと、自分のことしか考えられない程度の悪い国民は、「衆愚政治」を出現させることになります。衆愚性は民主主義の最大の敵であり、民主主義の理想を根底から崩す張本人です。歴史が明らかにしているように、衆愚政治のあるところ、その国は必ず衰退の道をたどることになるのです。

人々が物質主義に支配され、物質的な快楽を政府に要求するならば、「衆愚政治」の到来は必至なのです。現在、日本をはじめ地球上の多くの国々が、民主主義によって衆愚政治をもたらしているのが実情です。

民主主義は欠陥原理

――「肉主霊従」に立脚した民主主義は、独裁政治と大差なし

以上、民主主義の問題点を見てきましたが、民意を尊重し、それに基づいて政治が運営されるという民主主義の理念は、現代では根底から崩れ去ろうとしていることは明らかです。民主主義は、その理念によって自壊する道を歩まざるを得なくなっています。

政治は国民の欲望によって動かされ、物質欲追及の手段に成り下がっています。国民のエゴイズムがつくり出した衆愚政治と、マスメディアによる世論支配は、現代の政治を民主主義の理想から大きく懸け離れたところに追いやっています。民主主義のそうした結果は、国民の「エゴイズム」や「肉主霊従性」にその原因があるのです。独裁政治の弊害を克服するために登場した民主主義も、結果的には、独裁政治に劣らないような多くの問題と欠点を生み出しているのです。

こうした民主主義にともなう問題点を根本的に解決するには、「肉主霊従」が支配的となっている人々の心・考え方を変えることしかありません。一人一人が自己の利益を離れ、全体の利益を先に考えられるようになるしかありません。個人的見地より、公共的見地を優先するようにならなければなりません。「衆愚性」という致命的な欠陥を克服することができない現在の民主主義よりは、一人の賢明な君主による“哲人政治”の方がずっとまし、ということになるかも知れません。

民主主義は、現代人が賛美するような決して素晴らしいものではありません。何度も述べますが、地上の政治は、不完全な世界における不完全な人間の営みに他ならないのです。そして民主主義というシステムが悪用される結果、多くの人々は、さらなる肉主霊従の方向へと堕落していくことになります。

霊界の人々が、地上の政治にほとんど期待を寄せないのは、こうした事情があるからです。民主主義を土台とした現代政治は、「物質主義」と「利己主義」に支配された地上人類の低次元の営みの一つにすぎないということなのです。

2.民主主義のもとで堕落していく地上人

――地上人の心を堕落させるのに都合がいい民主主義

民主主義がもたらす財政赤字

民主主義のもとにおいては、愚かな国民は「衆愚政治」を現出させることになります。国民は政府に目先の物質的繁栄を優先させ、無い物ねだりを続けることになります。政府に十分な資金があれば、そうした国民の要望を聞き入れることができます。しかし国民の要求は無制限に膨らんでいくのが普通であって、政府がそれに応えようとすれば、必然的に財源が不足し、財政赤字を引き起こすことになります。

もし政府が国民の要求をはねつけたり抑えたりできるならば、財政赤字を避けることができるのですが、民主主義の世界では、それは非常に困難なことなのです。なぜなら絶えず反対党から足を引っ張られている政府としては、国民の意向を無視して政権を維持することは不可能だからです。国民の人気取りを行なわなければ、政権を維持することはできないのです。

国民の多くが政府に対して、さらなる物質的な豊かさ・物質的利益を要求します。景気が良くなって、今よりもっと収入が増すことを願い、心地よい生活のために福祉の充実を求めます。そこで政府は資金を出して公共事業を起こすことになります。政府主導による公共事業は景気を押し上げ、一時的には、確かに効果的な景気刺激策となります。そうした景気刺激策と同時に税金を下げれば、国民の懐にはお金が残るようになり、多くの物が買えるようになります。国民が望むリッチな生活を楽しむことができるようになります。減税されて怒る国民はいません。しかし、こうした国民の人気取り政策を行えば、財政支出が増加し税収は減少し、財政赤字はどんどん大きくなっていきます。

日本政府はこうした赤字を埋め合わせるために、毎年毎年国債を発行してきました。国債という借金を増やし続けてきました。それによって――「もっともっと物質的に豊かになりたい、もっと贅沢をしたい」という国民の要求に応えてきたのです。しかし、たとえ国家であっても、他人から借りたお金・借金は返さなければなりません。借金がどんどん増え続けるのが悪いことぐらいは誰でも理解できます。

自分の家庭なら、できるだけ借金をしないように努力します。まず贅沢をやめ、収入に見合った生活をしようと心がけます。日常の生活費を切り詰め、買いたい物も買わないようにします。たまには遊びに行きたいと思っても我慢します。このように個人の家計であれば、普通は贅沢に対して一定の歯止めが掛けられます。

もし借金による贅沢を続けるならば、いつかは破綻がきて、大変な苦しみを味わわざるを得なくなります。連日、借金取りに追われ、身を隠すような羽目に陥るかも知れません。職場にも借金取りが押しかけ仕事を続けるのも困難になり、子供を学校に行かせることさえできなくなるかも知れません。つまり個人であれば、借金の積み重ねがいかに悲惨な事態を招くようになるかを、自分の痛みとして直接感じられるようになっているのです。

しかし国家に借金をさせ、それによって自分達が贅沢ができるとなると、借金の痛みを直接感じるようなことはありません。国の借金で贅沢をし、しかもその借金は自分で返さなくてもいいとなれば、人間の欲望はさらにエスカレートしていくのは当然です。それに対して政府は、自制を促すどころか、人気を失い政権が維持できなくなるのを恐れ、国民の剥き出しの欲望に迎合しようとします。そして政府の赤字はどんどん膨れ上がっていくのです。

いったん生じた財政赤字をなくすためには、政府は支出を減らし、収入を増やす(増税)しか方法はありません。しかし、そのいずれに対しても国民は猛烈に反発することは目に見えています。政府がどれほど困ろうが、国民は自分達の懐が豊かになることだけを要求するのです。国民は政府にさらなる借金を促し、贅沢な生活を続けることができるように仕向けます。

「肉主霊従」に支配された人間の物欲中心主義は、こうした形で現代の日本の政治を左右することになっています。そしてその結果、今では日本国家は借金で身動きできないようなところにまで追い込まれてしまいました。借金による分不相応な生活に溺れ、そこから抜け出せなくなった破綻者が、取りも直さず、私達日本国民であるということなのです。しかし、それでも自分の力で贅沢をやめることができず、さらなる借金を積み重ねようとしているのです。

“借金地獄”に落ち込んだ日本国家

これまで日本国民は、国家の赤字(財政赤字)が大きければ大きいほど贅沢をすることができるため、政府の景気振興策と減税を歓迎してきました。しかし、それによって日本政府は年々、大幅な赤字を増加させることになっています。日本における借金の代表は国債です。国家の抱える赤字は膨大なものとなり、それにともない利息(金利)の返済額も大きくなっていきます。今、日本における金利負担(利息の返済額)は、政府の年間実収の4分の1にまで及んでいます。こうした金利返済のためのお金は、国民に何の利益も還元しません。利息とは、ただひたすら返さなければならないお金なのです。

なお深刻なことは、日本政府は、もはや国民からの税収によってこの金利を支払うことができず、新たな借金をして返済に当てざるを得なくなっているということです。借金の利息が返せないので、さらにお金を借りて新たな国債発行という形で)、これに当てるという“借金地獄”に落ち込んでいるのです。

日本国家の財政はすでに破綻しています。これは個人であれば、あちらこちらから借金を重ね、その場しのぎをしていくしかない状態であるということです。十分な収入もなく、返済のめども立たず、破滅すると知りつつ借金を続けていく末期的な状況に陥っているのです。

日本政府が置かれている状況を分かりやすく説明するために、一般の個人の家庭に当てはめると次のようになります。

年収520万円の家庭があります。その家庭はこれまで毎年お金を借り続けてきたために、積もり積もった借金の総額が3640万円になっています。この借金に対する利息の支払いは、毎年220万円にものぼります。年収の520万円では自分達が生活していくのに精一杯で、とても利息の返済はできません。そこで仕方なく新たに320万円の借金をして、そこから利息を返すことにします。こうして借金を続けていくしか、生活が成り立たなくなってしまっているのです。

現在の日本は、超低金利で進んでいます。そのために現実の金利負担はきわめて小さくて済んでいます。貯金をしている国民の立場からすれば、それは銀行を保護するだけのことで、全くけしからんということになります。しかし、この超低金利政策は、国家の赤字財政には大きな助け船となっています。

もし今後、従来通りの超低金利政策を続けることができなくなり、金利水準を引き上げざるを得なくなれば、そのとき国家の赤字財政は一気に深刻さを増すことになります。

消費拡大のために、さらなる借金を重ねる愚策

際限なく物質的快楽を求める国民のエゴイズムに迎合し、小手先だけの対策でごまかしてきた日本の民主政治は、「国家の財政破綻」という悲劇を迎えることになりました。しかるに国民はなお、景気回復対策のために、政府にもっと借金をせよと要求しているのです。

景気回復対策といえば、これまではずっと公共事業が効果的と考えられてきました。しかし、それは高度経済成長時代において言えることで、現在のような不景気の時代には、経済波及効果はほとんど見られず、公共事業に対する限界が問われるようになっています。

公共事業と並ぶ景気対策としては、「消費の拡大」があります。人々が多くの物を買ってくれれば、企業は生産を回復することができ、政府に入る税収も増加すると考えられてきました。このため政府は「減税」をして、国民が消費に向かうように仕向けることになります。これまでの政府は消費の拡大を呼びかけてきました。「消費の拡大」とは、言い換えれば、国民にもっと贅沢をして欲しいということに他なりません。

そして、この景気対策としての極めつけの愚策が、小渕内閣における“地域振興券”という国民への小遣い配布だったのです。これによって「もっと消費をしてください」という、まさに呆れるような政策を実行に移したのです。もちろん、そのための費用(7700億円)は、国民からの借金であてがわれたことは言うまでもありません。しかし地域振興券によって何とか消費を拡大させ、景気回復を図ろうという政府の思惑は外れ、国の借金だけが残ることになりました。

さらなる借金が、間違いなく国家を今以上の破局状態に陥れることが分かっていながら、いまだに景気回復のために新たな公共事業を増やせといった、いっそうの借金政策を主張する政治家もいます。すでに国家財政は破綻し、国の経済は衰退の方向に向かっています。我が国における民主政治のもたらした結果は悲惨なものです。これが民意を尊重するという民主主義が引き起こした「衆愚政治」の結末だったのです。

膨大な借金大国アメリカと、そのアメリカ人の贅沢によって支えられている世界経済

日本国民は分不相応な物質的豊かさを政府に要求し、その結果、膨大な財政赤字を生み出してしまいました。一方、アメリカもまた、国民が徹底して物質的贅沢と快楽を求めた結果、膨大な赤字をつくり出しています。現在のアメリカ社会は、惑星地球を支配する物質主義・欲望主義の状況を、最も凝縮して表しています。アメリカ社会には、「肉主霊従」という精神的な堕落が、最もストレートな形で現出しています。

アメリカは20世紀を通じて、世界で最高の権力と支配力・最高の地位を獲得することに成功しました。またアメリカは、民主主義を地上世界の正義として世界に普及させてきました。日本をはじめとする他の国々の人々は、物質文化を最高に極めたアメリカを目標とし、これを理想として近づこうとしてきました。世界中の若者達は、アメリカの物質文化に魅了され、アメリカ的な物の豊かさに病的とも言えるような憧れを抱いてきました。

21世紀を迎えた現在、アメリカは世界で唯一の超大国として君臨し、世界最大の経済大国として世界経済を牽引しています。これまでアメリカは記録的な長期にわたる景気上昇を続け、大量に世界中から輸入を続けてきました。世界各国から物を買い入れ、世界で最も豊かな物質生活を楽しんできました。アメリカは世界最大の消費国であり、国民はこぞって世界中からあらゆる製品を買い漁っています。クレジットカードという便利なものができたために、自分が持っているお金以上の物を買う人々が増加し、異常な消費ブームを引き起こしてきました。

このアメリカ人の贅沢な生活のお蔭で、日本をはじめ世界各国は多くの物(製品)をアメリカに輸出し、それによって世界中の景気が支えられてきました。しかし当のアメリカは輸出が減少し、輸入が大幅に超過することによって、莫大な貿易赤字を出すことになってしまいました。

アメリカはかつて豊富な資金を溜め込んだ時期がありました。20世紀アメリカの黄金時代に、60年間かけて3千億ドルという膨大な資金をつくり上げました。しかし、その膨大な資金を、わずか3年間ですべて使い果たしてしまったのです。世界中から大量に物を買い込んだために、それまでの蓄えをあっと言う間に使い果たし、赤字国に転落してしまったのです。そして、その後も世界中から物を買い続け、貿易赤字を膨らませることになりました。

普通、弱小国家が資金不足に陥ると、なかなかお金を借りることができません。後で返済できなくなる危険性があるため、誰もお金を貸してくれないのが普通です。外国からお金を借りたくても、借りられないのが弱小国家の実情なのです。

しかしアメリカはその点でも、世界で特別な国家です。アメリカは世界で唯一の超大国であり、アメリカに対する信頼感は絶大です。世界中の人々は、アメリカに資金を貸すことに何の心配もしないのです。そのために大量の資金が、アメリカに流れ続けることになりました。アメリカは、日本をはじめ世界中から借金をすることによって、膨大な赤字を抱えながらも世界中から物を買い漁り、贅沢な生活を維持することができるのです。

日本もアメリカに多額のお金を貸し日本企業がアメリカの国債や株を買うという形で)、アメリカはそのお金で、日本からさまざまな製品を買い続けました。日本の経済は、そうしたアメリカの借金経済によって支えられてきたのです。しかしその結果、アメリカの貿易赤字は年毎に増加し、うなぎ登りに膨れ上がっています。

今やアメリカの経済が崩壊すると、日本の経済も崩壊するといった関係にあります。日本の経済を支えている主要企業の多くは、アメリカへの製品輸出で多額の売上を得ています。アメリカ経済が崩壊すると、日本製品は売れなくなり、深刻な不況に見舞われることになります。このため歴代の政府は、アメリカ経済を擁護する方向で政策を立てざるを得ませんでした。そしてそれが原因となり、日本の“バブル経済”を生み出すことになってしまったのです。

いつかは必ず訪れるアメリカの経済破綻

アメリカ経済は好条件に恵まれ、1991年4月から好況に転じました。そしてアメリカ史上最高と言われる空前の好景気は、10年以上にも及びました。その間、果たしてこうした好景気がいつまで続くものかと、危惧されてきました。もし人々がアメリカ経済の先行きに不安を感じ、資金を貸すことを渋り始めたら、アメリカはたちまち資金不足となり、深刻な不況を迎えることになります。アメリカの株の暴落は、日本の株式市場にもすぐさま波及し、大暴落を招くことになります。その時には、アメリカに貸していた多額の資金を、本当に返してもらえるかどうかの保証はありません。もし、そうした事態が現実のものになれば、間違いなく世界規模での恐ろしいほどの大パニック(世界恐慌)を引き起こすことになります。日本の株式市場は、いつもアメリカの動向に神経をとがらせています。

今年に入ってから、アメリカ経済に好景気をもたらしてきたIT産業にかげりが見られるようになりました。ITバブルが急減速し始めたのです。アメリ力経済の後退に対する不安が世界中に広がっています。しかし現時点では、アメリカという超大国が破綻するはずはないという幻想(期待)が、依然として世界中から資金をアメリカに集めさせることになっています。いずれの投資家も、アメリカが破滅状態に陥るなどということは考えたくないのです。そして今回の同時テロ事件によって、株価が急落し、大きな不安が走りました。

現在、アメリカ人の贅沢によって牽引されてきた世界経済は、いつ破綻してもおかしくないような危い状態にあります。しかしそれに対し、アメリカ自身も他の国々も、効果的な対応策を打ち出すことができずにいます。これまで築き上げてきた物質的繁栄が崩れてしまうことを、誰もが恐れています。物質中心主義に支配されている地球上の人々にとって、アメリカ経済の破綻は最も恐るべき出来事です。そのため世界各国の政府は、そうしたパニックを何としても避けようと必死になっているのです。

アメリカ国民の大量消費(贅沢)に支えられ、何とかバランスを保っているような狂った世界経済に、いつか破綻がくることは避けられません。霊的視点に立てば、物質世界の法則を逸脱したところには、それに見合ったしっぺ返しがくるのは当然のことなのです。膨れ上がった矛盾を修正するための反動は、間違いなく、いずれかの時点で生じることになるのです。限度を超えた飽食を続ければ、いつか必ず病気になるように、アメリカ経済も飽食による異常な肥満によって、自ら病気を引き起こすことになるのです。

アメリカの政治的腐敗と国民精神の堕落

――クリントンの不倫問題に見るアメリカ人の「肉主霊従性」

政治的なスキャンダルが持ち上がるたびに、決まって政治家のモラルが問題にされます。しかし程度が悪いのは政治家に限ってのことではなく、国民も同様なのです。現代政治のさまざまな問題点を突き詰めていけば、結局は、国民が物質中心主義に支配され、物質的な快楽と満足を求め、金と地位だけが力を持つという価値観にとらわれているという現実に行き着くのです。地上を覆う「物質至上主義」が、まさに政治を腐敗させる根本原因となっているのです。

こうしたことを端的に示しているのが、前アメリカ大統領クリントンの不倫問題に対するアメリカ国民の反応だったのです。クリントンの女性スキャンダルは、単に彼一個人の問題ではなく、アメリカ社会を投影する問題として見るべきです。ルーズベルトやケネディーの女好きもよく知られていますが、クリントンの場合はその悪質さの程度が限度を超えていたために、彼らとは比較にならないほど、アメリカ大統領という聖なる職種を地におとしめることになりました。欧米に比べ政治家の女性問題に比較的寛容だと言われている日本においても、宇野総理のように女性スキャンダルによって辞任に追い込まれたケースもあります。

そうしたことを考えると、あれほどの恥ずべきスキャンダルが表沙汰にされたにもかかわらず、クリントンが大統領の任期を全うすることができたことは異常と言わなければなりません。クリントンは大統領という一国のリーダーでありながら、一般の国民が持つべき常識的モラルのひとかけらさえもなかったのです。そのような大統領に対して、不倫疑惑の中にあっても、アメリカ国民はなお65%もの高い支持を与え続けたのです。

このことは、アメリカ国民が大統領に人格性などは全く求めず、ただ経済的な繁栄と物質的な豊かさだけを期待していたことを示しています。多くのアメリカ人がクリントンに対し、「満足できる仕事さえしてくれれば、個人のモラル観は関係ない」としました。アメリカ国民は、ただ物質的な満足だけを与えてくれるなら、どのような大統領であってもかまわないとしたのです。アメリカ国民は、空前のアメリカの好景気を維持し、これまで通りの物質的繁栄を続けさせてくれるなら、それ以外のことは問わないとしたのです。ここには、アメリカ国民が、低い物質主義にとらわれている姿が端的に示されています。クリントンは民主主義というシステムにのっとって、物質欲に目がくらんだアメリカ国民の支持を取り付け、任期を全うすることができたのです。

3.日本の財政破綻を救うためには

経済の大幅な水準低下の必要性

オイルショック以降、現在に至る25年の間に、日本政府の財政赤字は取り返しのつかないほどに膨れ上がってしまいました。現在では、政府が国債の形で負っている借金の総額(国債残高)は、364兆円2001年3月)に達しています。これは国民一人当たり287万円に相当します。4人家族なら1147万円になります。

この借金を返すには、他に一切の支出がないとして7年かかる計算になります。これは常識的に考えれば、完全な破産状態であり、一般の家庭なら到底やっていけない末期的症状と言わなければなりません。これが国と地方を合わせての借金となると、666兆円とさらに膨らみ、国民一人当たり500万円の借金となります。)

しかし、そうした非常事態にありながら、これまで日本政府は何ら有効な手を打たずにきました。これほどまでにひどい状態に至ってしまった最大の原因は、すでに述べたように、国民が際限なく物質的豊かさを政府に要求し続けてきたことにあります。国民の物質中心主義・物質的快楽主義が、こうした悲惨な結果を招くことになってしまったのです。

本来ならこのような状況にあって政府がとるべき手段は、緊急の大増税と思い切った歳出削減しかありません。しかしそうした政策は、不景気を呼び込み、企業の倒産を増大させ、失業者を急激に増やすことになります。個人レベルにおいては、ボーナスもカットされ、収入も減少することになります。当然、これまでのような生活を維持することはできなくなります。車の買い替えができなくなったり、ゴルフや旅行に行けなくなります。住宅ローンが返せなくなり、やっとの思いで手に入れたマイホームを手放すようなことになるかも知れません。さらには、これまでの仕事以外にアルバイトまでしなければ、やっていけなくなるかも知れません。

そうした事態になれば、国民の中から激しい不満と反発の渦が巻き起こることは明らかです。しかしこうした痛みは、子孫に借金のツケを残さないために、私達が今、当たり前のこととして受けていかなければならないものなのです。これまで無い物ねだりをして、政府を食い物にしてきたツケは、自分達の手で返さなければならないのです。

現在、日本の置かれている厳しい状況を救うための方法が、専門家によってあれこれと考えられていますが、その解決方法はこれまで繰り返し述べてきたように、支出の削減と収入の増加(増税)以外にはないのです。すでに右肩下がりの経済状況に入った中で、新たな景気回復による増収は期待できません。またすでに十分な物質欲を満たした国民が、急激に消費に走るようなことも考えられません。

国家の赤字財政を救うためには、「支出削減」と「増税」という単純な方法しかないのですが、それは経済の大幅な水準低下を確実にもたらすことになります。こうした政策は、肥大し過ぎた経済を縮小して、力相応のレベルにまで引き戻すことに他なりません。別の言い方をすれば、政策的に景気を悪くさせるということです。意識的に経済を落ち込ませるということです。それは当然、国民にとって最も歓迎されざる政策となります。

たとえ、どれだけ痛みがともなっても

公共事業の削減、年金を含めての社会福祉の見直し・削減、教育関係費や助成金の削減、ODAの削減日本はもはや他国を助けられるような状態ではない)、公務員の人員削減など大胆に進めなければなりません。あらゆる分野に対してメスを入れなければなりません。しかし財政赤字を減らすためには、単に支出を削減すればいいというわけではありません。財政構造改革によって支出を抑えるだけでなく、増税によって収入を殖やさなければならないのです。そうでない限り、積もり積もった借金(元金)を返済するレベルにまで、到底至ることはできないのです。

このような財政改革は、多くの日本国民を、かつて味わったことがないような厳しくつらい現実に直面させることになります。1997年に、当時の橋本内閣が、消費税を3%から5%に引き上げただけで大騒ぎになりました。このために景気が失速し、橋本政権は退陣を余儀なくされることになりました。現在、日本が抱えている膨大な借金を削減するためには、ヨーロッパ諸国並の消費税率(15~20%)を大幅に上回る、35%以上もの消費税率への引き上げが必要と言う専門家もいます。

政府は、そうした大改革にともなう痛みを当然のこととして、国民に忍耐を要求しなければなりません。国民に対し、これまでのような贅沢はできないこと、質素な生活に切り替えなくてはならないことを訴えなければなりません。国債をどんどん発行するということは、子孫に負債を残すということです。もし私達が借金を返さないなら、子孫がそれを返さなければならなくなるのです。莫大な借金だけを子孫に残すということは、大いなる恥です。重荷だけを一方的に背負わされた子孫から軽蔑されることは、はっきりしています。自分達がつくった借金は、自分達で返さなければ日本の将来はありません。

日本の将来のことを考えたならば、たとえ国民がどれほど反対しようが、今はそうした政策を果敢に押し進めなければならない、ぎりぎりの事態に至っているのです。これまで分不相応の贅沢と快楽に浸り切った国民に、ショックと犠牲を強いるのは当然のことなのです。その痛みは、贅沢を当たり前と思っている日本人が、あるべき姿に立ち戻るための必要なプロセスなのです。

霊的に見れば、不景気はありがたいもの

そうした苦しみは、大半の国民には、大変な不幸・悲劇と映るかも知れません。しかし視野を広げ、全地球的な立場から考えてみれば、これから日本が不景気になり、生活が苦しくなるといっても大したことではありません。毎日の食べ物にも不自由している発展途上国の貧しさとは比べものになりません。

「車が買えない、旅行やゴルフに行けない、家が持てない、持ち家を手放さなければならない」といって、それがどうだと言うのでしょう。悲惨などといって騒ぐようなことではありません。会社が潰れたからといって何が悲劇なのでしょうか。日本にいる限り、見栄さえ捨てれば何とか生活していけるはずです。霊的視点から見れば、それで十分ではないでしょうか。

肉体という、短い地上人生を歩むための道具は、維持できればそれでいいのです。死ねば物質的な物はすべて無に帰すのです。不景気だからといって、必要最低限度の生活物資に困窮するようなことはありません。物質中心主義の視点から見れば“悲劇”と思えることが、霊界の視点からは「大きな恩恵」であることが頻繁にあるのです。不景気は、人間を質素な生活に導く歓迎すべき出来事です。世界経済の破綻は、地上人類の霊的進歩にとって、間違いなくありがたいものになるはずです。

政治家の本来の使命とは

本来なら政治家は、国民が愚かな欲望に目がくらみ、エゴ的な方向に流れていくのを食い止め、方向性を正さなければなりません。国全体を衰退させることになる国民のエゴ的要求を抑えコントロールすることが、その使命なのです。それが一般国民と違って、大局的に国の動向や状態を知ることができる専門家としての義務なのです。しかし現実には、そうした正論を主張できる政治家はほとんどいません。大半の国民が自分のことしか考えられないエゴイストであるように、多くの政治家も、自分の利権と政治生命だけを真っ先に考えることしかできないのです。

政治家のもう一つの使命は、国民の霊的成長を促すような環境づくりに貢献することです。そのためには、政治家自身が物質主義を越えた霊的な価値観を持つことがどうしても必要となります。物質世界を、霊的観点から見下ろすことができたとき、地上世界に何が必要なのかが、はっきりと分かるようになります。「霊的真理」を知らない者は、本当は政治家になる資格はないのです。現実には、まだまだそうしたレベルにまで内面性のともなった政治家はいません。

「小泉改革」の意義

現在、日本が抱えている最大の問題は財政赤字です。この問題に対する根本的な解決法は、すでに述べたように、歳出削減と増税という「経済縮小政策」以外にはありません。これらの政策は国民にとっては最も厭うべき政策であるために、歴代の政府は手をつけずに今日まで先送りしてきました。その結果、膨大な借金をつくり上げることになってしまったのです。歴代の政府のいずれもが、その必要性を知りつつも、本気になって赤字減らしに取り組もうとしませんでした。手術でしか治らない病気にかかっているのに、手術が怖いと言ってズルズルと延ばしてきたのでした。

そうした中にあって、「小泉改革」では初めて、財政赤字をこれ以上増やしてはならないという明確な方向性を打ち出しました。赤字を増やしてはならない、赤字は減らさなければならない、そのためには財政構造改革を大胆に進めなければならないと、初めて当たり前のことを唱え、それに本腰を入れて取り組もうとしています。手術をすぐにでも始めようとしています。

スピリチュアリズムの観点からすれば、小泉改革は、物質欲に暴走する国家と国民に、まともな歯止めを掛けようとしているということです。暴走する国民の「肉主霊従性」に、ストップを掛けようと動き出したということです。これはスピリチュアリズムの観点から見たとき、大いに評価されるべき有意義な改革と言えます。

しかし、現在示されている改革内容では、とても十分とは言えません。赤字を削減し、さらには借金を返済するために避けて通れない「増税」については、その必要性を強く打ち出してはいません。景気後退は不可避であることを、十分に明言していません。これには当然、政治的な駆け引きがあってのことだと思われますが、本来ならば、改革とそれにともなう苦しみの全見取り図を、前もって国民に提示して、覚悟を促しておくべきなのです。2~3年の景気低迷で終わるはずのないことを、はっきりと国民に示しておかなければなりません。小出しの改革では、ズルズルと続く苦しみに、国民の心理が耐え切れなくなる可能性があります。こうした点を考えると、小泉政権における改革が、どこまで徹底されるのかに疑問が残ります。

しかも小泉首相は、どのような反対があっても8月15日に靖国神社に参拝するとの公約を、外圧に屈して翻してしまいました。財政改革に反対する側の圧力は、靖国神社参拝のときとは、比較にならない厳しいものになるはずです。外圧に屈し公約を翻したということは、財政改革における後退の可能性を予測させます。事の重要性を知らない国民は、口では痛みを甘受すると言うものの、その一方で、やはり構造改革よりも景気対策を願っているのが実情なのです。もし構造改革の手初めとなる不良債権処理問題を先送りするようなことがあれば、すべての改革は腰砕けになり、橋本内閣と同じ失敗を繰り返すことになるでしょう。

小泉首相個人は、捨て身で国家のために働こうとする決意を持って出発しました。私達スピリチュアリストも、小泉政権でのさらなる構造改革の進展を支持したいと思います。小泉改革が失敗したときには、日本はもはや、自力では経済を再生させられないことが明らかになるでしょう。後は、IMF(国際通貨基金)の管理下に置かれ、恥辱の中で強制的に大手術を施されない限り、立ち直ることはできなくなるかも知れません。日本は今まさに、そうしたきわめて危ない局面に立たされているのです。

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