(4)スピリチュアリズムがもたらす死生観の革命
スピリチュアリズムは、人類史上初めて死の実相を明らかにしました。スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理」は、死に関する従来の宗教の見解を根本から覆したばかりでなく、人類から死に対する恐れや不安を完全に払拭することになりました。スピリチュアリズムは、地球人類の「死生観」に根本的変革を引き起こしたのです。
ここでは、そうしたスピリチュアリズムがもたらした死生観の革命的変化について見ていきます。
1)死の意味の革命的変化
スピリチュアリズムは、地球人類の死に対するこれまでの常識を根本から覆しました。スピリチュアリズムが明らかにした死の意味は、次のような画期的なものです。
①死は、霊の世界への新たな誕生
シルバーコードが切れると肉体は土に返り、霊体は霊界で新しい生活を始めるようになります。人間は死によって消滅するのではなく、霊体をまとった「霊」として生き続けます。つまり“死”とは――「霊の世界への新たな誕生の瞬間」ということになります。死は、旅の一時的な逗留先であった地球から、霊にとって本来の永遠の住処である霊界に帰っていく出航の時なのです。
地上に生まれた赤ん坊は、へその緒が切れて初めて一個の独立した地球人類となります。一方、人間は、シルバーコードが切れて初めて霊界の一員となるのです。
②死は、自然現象の1つにすぎない
肉体は、「霊」が地上という物質世界で生活するための乗り物にすぎません。70~80年の間使用する物質の道具なのです。私たちの霊・霊の心・霊体は、肉体という乗り物に乗って100年にも満たない短い物質世界での人生を送ります。そしてその短い地上人生の間に、人間は霊界に行くための準備をすることになります。
肉体は機械と同じで必ず、すり切れて動かなくなる時がやってきます。いつまでも使用し続けることはできません。いずれ寿命が尽きるようになります。肉体の使用期限、それが肉体の寿命なのです。したがって肉体の死は、自然現象の1つにすぎないということになります。
もし神が人間を、肉体を持ったままで永遠に生き続ける存在として造られたならば、肉体には寿命というものはなかったはずです。しかし人間が永遠に生きる場所を地上ではなく霊界とされたために、「肉体の死」が存在するようになりました。神は「肉体の死」と同時に、「霊界」という永遠の住処を準備されたのです。
物質界の森羅万象は常に変化し、いつまでも同じ形を維持し続けるものはありません。万物は常に変化し移り行くものとして創造されました。釈迦(シャカ)が発見した“諸行無常”という法は、物質界における神の法則の1つなのです。したがって物質である人間の肉体も自然界の存在物と同様に、そうした神の法則の支配から逃れることはできません。
歴史の中には、肉体を持ったままこの世に生き続けることができるとする教えや宗教がありました。キリスト教は、クリスチャンは終末にイエスの復活にあずかり、肉体が復活して永遠に生き続けるようになると教えてきました。しかし絶対にそうしたことにはなりません。また道教が理想とする不老不死というような奇跡も決して生じません。「肉体の死」は、自然界の現象の1つであり、神が決められた摂理である以上、必ずやってくるものなのです。
③死は悲劇ではなく喜びであり、祝福すべき出来事
死は、大半の人々が考えるような悲劇ではありません。死は、恐れるような出来事ではありません。神は、人間が永遠に生きていくための素晴らしい住処として霊界を造られているからです。死は、苦しみの多い物質世界から、美と光に満ちあふれた霊的な世界への旅立ちです。それは本当に喜ばしい出来事なのです。スピリチュアリズムが人類にもたらした福音とは、死は素晴らしいものであるということを明らかにしたことです。スピリチュアリズムは、これまでの死にまつわる常識を覆しました。「死生観の革命」を引き起こしたのです。
地上の宗教の中には、死後も人間は生き続けるということを説くものが数多くあります。しかしスピリチュアリズムのように、死は素晴らしい出来事であるとまで断言しているような宗教はありません。「死は喜びであり、祝福すべき出来事である」――これはスピリチュアリズムが初めて明らかにした福音なのです。何千年にもわたる死の恐怖を根底から覆し、何ひとつ死を恐れる必要のないことをスピリチュアリズムは証明したのです。
皆さんも何十年か後には必ず死ぬことになりますが、その時を、今から楽しみにしてもよいのです。「死を人生のご褒美として迎えるために、できるかぎり価値ある歩みをしよう!」――そんな気持で地上生活を送ればよいのです。死後の世界の存在を知ることによって地球人類の意識、特に「死生観」に根本的な変化が訪れるようになります。
④死の時期は、生まれつきおおよそ決定している
スピリチュアリズムは、死後の世界の存在や死が素晴らしい出来事であることを明らかにしたばかりでなく、さらに驚くような内容も伝えています。それは「地上に誕生した人間の寿命は、生まれつきおおよそ決まっている」ということです。もちろん脳の意識(顕在意識)ではそれを知ることはできませんが、霊の意識(潜在意識の深層)では、しっかりと自覚しているのです。人間が地上に再生する目的の1つは、前世でつくった「カルマ」を清算することです。カルマという前世で犯した罪を、地上での苦しみの体験を通して償い清算するということです。再生者は地上に生まれる前に、自分の地上人生での試練の内容とおおよその人生行路を決定します。その際、寿命についての大枠も決められるのです。
ここで寿命の大枠(おおよその寿命)と言ったのは、霊界での決定が、必ずしもその通りに展開しないことがあるからです。たとえば“自殺”などがそうです。自殺が再生人生に予定されることはありません(*地上への再生で“自殺”の可能性は考えられたとしても、それは「努力によって避けるべきもの」という前提のもとで再生に踏み出すことになります)。自殺は、すべて地上人の自由意志の悪用と意気地のなさによって引き起こされる間違いです。人間には神から自由意志が与えられていて、常に善を指向するのかマイナス方向を指向するのかの選択権があるのです。地上人生はこうした「自由意志による選択」と、霊的成長のための「カルマ清算」という大きな要素を軸にして展開していきます。そのため再生以前の決意がその通りに実現せずに、失敗に終わることもあるのです。
こうした事情を含めたトータルとして、地上人生における寿命はおおよそ決まっているということになります。現実の寿命は、霊的・精神的・物質的・地上的なさまざまな要因によって決定されます。寿命には、ありとあらゆる要素が絡んでいます。そうした事情を考慮したうえで大抵の場合、人生の大枠・おおよその寿命は前もって決まっているということなのです。
飛行機事故などで一度に大勢の人間が死ぬと、神が寿命が尽きてもうじき死ぬべき人間をまとめて飛行機に乗せ、事故を起こさせたと思うかもしれませんが、そういうことではありません。事故で死んだ人には寿命が尽きる時がきていた(大枠としての寿命の終わりがきていた)ということは言えますが、その日・その時間に飛行機事故で死ぬというようなことが決められていたわけではありません。さまざまな要因(霊的・精神的・物質的な要因)が絡んだ結果として、飛行機事故で死ぬことになったのです。死ぬべき時がきている人間は、飛行機事故でなくとも、いずれ近い時期に他の形で死を迎えることになったはずなのです。
(2)スピリチュアリズムの死生観は、地上人類の「人生観」に根本的変革をもたらす
死の真相が分かると、地上人生に対する見方・考え方が根本から変化するようになります。すなわち人生観に革命が起こるようになります。死ぬことは自然現象の1つであって霊界に行くステップにすぎない以上、肉体を持った70~80年の人生は霊界における永遠の生活に比べたとき、ほんのひとコマであると位置づけされるようになります。では永遠の生活の中での、わずか100年に満たない地上人生の目的とは、いったい何なのでしょうか。こうした視点で地上人生を見つめ、地上人生の目的、すなわち「何のために地上に生まれ、死んでいくのか」を明らかにした宗教・思想はありませんでした。
今、地球人類はスピリチュアリズムによって初めて、地上人生の意味と目的をはっきりと知ることができるようになりました。スピリチュアリズムが明らかにした地上人生の目的とは、次のようなものです。
①永遠の霊性進化の道のりのひとコマとして、霊的成長をなす
地上人生は、永遠の霊性進化(霊的成長)の道のりの、ほんのひとコマにすぎません。地上人生の最大の目的は、物質世界における体験を通して霊的成長の基礎をつくることです。地球はその意味で、霊的な訓練場所と言えます。霊的成長のために物質世界で奮闘努力する期間が、今の地上人生なのです。
したがって地上人生には、常に努力と自己との闘いが要求されることになります。唯物主義的発想では、死ねばすべては無に帰す以上、できるだけ多くの本能的喜びを求めなければ損だということになりますが、そうした生き方はせっかくの地上人生を全く無駄にしてしまう愚かなことなのです。
②死後に訪れる霊界での生活の準備をする
地上人生は、物質世界で霊的成長をなし、本来の住処である霊界での生活の準備をするためにあります。霊的成長を促すような人生を送れば、それが自動的に霊界に行ってからの準備となります。たかが100年に満たない地上での準備が、霊界における永遠の生活の出発点(生活レベル)を決定することになります。
その意味で地上人生を霊的成長のために費やすことは、きわめて重要なことなのです。
③霊界における本当の喜びと幸福を得る準備をする
地上人生は、物質世界での苦しみや苦労の体験を通して、霊界での本当の喜びと幸せを得るためにあります。愛と美の満ちあふれる真の喜びと魂の充実は、物質世界には存在しません。霊界に行ってからでないかぎり、そうした真実の幸福を味わうことはできないようになっています。霊界での本当の幸福を獲得するために、物質世界で一時的に苦労するように神が厳しい環境を準備されたのです。霊的成長には、苦しみや奮闘努力が不可欠です。
したがって私たちは、苦しみや困難を避けようとするのではなく、反対にそれらを甘受し歓迎するようでなければなりません。
④カルマを清算して、霊的成長の道をリセットする
また前世で「カルマ」をつくってしまった場合は、それを償い清算するために地上人生において苦しみの体験を経なければなりません。その苦しみは、霊的成長の道をリセットしてくれるありがたいものです。霊界における喜び・幸せを思えば、いっとき地上でどれほど苦しんでも構わないということになります。多くの人々は何とか苦しみを避けようとしてもがき、宗教に救いを求めますが、それは間違った生き方です。
霊界での永遠の喜びに満ちた幸せな人生のために、短い地上での苦しみや困難は希望を持って耐え忍ぶことです。死後に訪れる喜び・幸せのことを考えたなら、地上での苦しみなど、どうということはないのです。
3)スピリチュアリズムの死生観は、地上人類の「人間観」に根本的変革をもたらす
スピリチュアリズムは、人間が死によって終わる存在ではなく、神の分霊として永遠に生き続ける霊的存在であることを明らかにしました。そうしたスピリチュアリズムの死生観は、当然「人間とは何か?」というテーマに大きな影響を与えることになります。スピリチュアリズムがもたらした死生観は、地上人類の人間観に根本的変革をもたらすことになりました。
スピリチュアリズムが明らかにした「人間観(人間とは何か)」の内容は、次のようになります。
①人間は永遠に存在する「神の子供」
神の分霊として造られた人間には、個が消滅するような時期はやってきません。死とともに消滅してしまうようなことは決してありません。いったん創造された以上、地球ばかりでなく宇宙が消滅するような時がきても、人間の霊は永遠に存在するのです。人間の本体である「霊(神の分霊)」は神の子供であることを意味しますから、人間は永遠に存在する「神の子供」ということになります。これが人間の定義です。
②人間は、肉体を携えた霊
キリスト教に代表される従来の宗教でも、人間は霊を携えた存在であることを主張してきました。しかしそこにおける霊の認識は、せいぜい肉体に付属したものという程度でした。人間とは、肉体と霊を持った存在、あるいは肉体に霊をくっつけたような存在といったものでした。「Body with spirit(霊を携えた肉体)」と考えてきたのです。霊があることは認めるものの、そのウェイトは小さなものでした。肉体が主で、霊は肉体の付属物といった位置づけをされてきたにすぎません。
スピリチュアリズムは、そうした従来の人間観を根底から覆しました。スピリチュアリズムの人間観では、霊のウェイトがとてつもなく大きいものとされます。スピリチュアリズムでは人間を、肉体を携えた霊と定義します。これは霊が主体で、肉体は付属物ということです。「Spirit with body(肉体を携えた霊)」と考えるのです。肉体は霊の外皮であり付属物にすぎません。霊界ではそれがなくなり、純粋な霊的要素(霊・霊の心・霊体)からなる霊的存在となります。しかし地上にいても「霊」は本体・本自我であり、人間の中心なのです。
③人間と人間は、神の愛の絆によって結ばれた「霊的同胞」
人間は永遠に生き続ける霊的存在である、という認識を地球上のすべての人間に拡大して考えるとき、人間関係の本質が明らかになります。「人間と人間の関係はいかにあるべきか?」「他の人間をどのように考えるべきか?」――このテーマに対する最も適切で正しい答えが、2千年前のイエスによって示されています。その答えとは、「全人類は神の子供であり、霊的大家族の一員であり、神を共通の親とする兄弟姉妹である」ということです。これは、まさに真実を言い当てています。ところがこうした真理が示されていながら、その意味することの重要性を理解・実感できなかったために、宗教同士で殺し合いをするといった悲劇が引き起こされるようになってしまいました。同じクリスチャン同士が、血で血を洗う悲惨な争いを繰り返してきました。
人間は死後も存在し続けるという厳粛な事実を深く実感したとき、「霊的真理」の教える世界が地上において実現することになります。すべての人間が等しい霊的存在であり、霊的同胞であることを心から実感したとき、初めて神のもとにあって同じ霊的兄弟姉妹となれるのです。スピリチュアリズムの死生観は、これまで観念的にとらえてきた“人類愛”をより明確にしました。地球人類が皆、神の愛の絆によって結ばれた「霊的同胞」であることを明らかにしたのです。
4)スピリチュアリズムの死生観は、地上の道徳・法律・医学に根本的変化をもたらす
スピリチュアリズムが明らかにした死生観は、地上の道徳や法律・医学に大きな変化をもたらします。ここではその中から現代社会が直面している“死”と関連するいくつかの問題を取り上げます。そのテーマは、自殺・人工妊娠中絶・死刑制度・臓器移植・安楽死・延命治療・尊厳死です。
①自殺
自殺は虐げられた人間の最後の抵抗手段であったり、憎しみを持った相手に対する復讐であったりします。また人生に対する絶望が引き起こす悲劇であることもあります。地球上では毎日、多くの人間が自らの生命を絶っています。これまでも自殺に対する是非がいろいろな形で議論されてきましたが、霊と死後の世界の存在を前提として論じたものではありませんでした。人間には永遠の「霊」と「霊界」がある以上、それを前提としないところで自殺について議論しても無意味なのです。自殺の問題は「霊的事実」の観点から見て、初めて解明されるようになります。
大半の人間は“自殺は悪いこと・してはならないこと”と考えていますが、もし人間が肉体だけの存在であって死とともに消滅してしまうものであるならば、自殺を悪とする根拠はきわめて乏しいことになります。いずれ人間は死を迎える以上、それを少しばかり早くしようが遅らせようが大差はないということになるからです。
自殺を間違いとする理由としてしばしば取り上げられるのが、残された遺族の悲しみ・心の痛手・迷惑です。しかしこうしたことは病死の場合であっても、程度の差こそあれ発生するものです。人間常識や道徳的な理由を根拠に自殺を悪と断じても、それほど説得力はありません。
自殺の間違いは、霊的に見ると明白になります。まず何よりも生命は自分自身のものではなく、神から与えられたものであるということです。神から与えられた生命を、自分勝手に捨てることは許されません。これが自殺の間違いの1つ目の理由です。
2つ目の理由は、地上人生というせっかくの霊的成長のチャンスを自ら捨て去ることで、永遠の進化の道に大きな損失をもたらすようになるということです。霊的成長という人間にとって最も大切なものを犠牲にしてしまうことは、神の摂理に反する行為です。
3つ目の理由は、死生観に直接関係する内容です。それは自殺しても死ぬことができないどころか、死後にはいっそうの苦しみが生じるようになるということです。地上にいたときには自殺をそれほど悪とは考えていなかった者も、霊界に入ってみると自分の犯した行為の間違いの大きさを知るようになります。自ら霊的成長の道を閉ざしてしまったことの重大さをひしひしと実感し、“後悔の地獄”の中に突き落とされるようになります。
以上のような理由から、自殺は許されません。自ら命を絶つことは間違いなのです。それは霊界という永遠の世界の存在を無視した愚かな行為、無知から出た摂理に背く行為なのです。
とは言ってもすべての自殺が、同じ罪悪性を持っているというわけではありません。キリスト教では、いかなる理由であっても自殺は悪であり決して許されない行為であると断定します。確かに自殺は摂理に反した間違った行為ですが、自殺の中には情状酌量すべきケースが多々あることも事実なのです。すなわち同じ自殺であっても、動機や状況によってはそれほど悪とは言えないケースもあるということです。
自殺は霊界という霊的事実をないがしろにした無知からの行為ですが、「いかなる動機から自殺に及んだのか?」という点において、評価は全く違ったものになるのです。当然、自殺者一人一人の死後の状況は、動機の内容によって異なることになります。人々を救出するために敢えて自分の命を犠牲にしたような場合は、悪どころか立派な利他愛の行為となります。言うまでもなくそうした奇特な行為が霊界に行ってから苦しみや
②人工妊娠中絶
胎児の生命を奪うことは、いかなる理由があるにせよ殺人を犯すに等しいことです。生命は神のものであり、神が人間に与えたものなのです。それを人間の勝手な理由で奪い去ることは許されません。これが「人工妊娠中絶」が罪であることの最大の理由です。胎児の中には、神の分霊である「霊」が宿っています。その点においては、私たち人間と何ら変わらないのです。
胎児霊は、霊的成長やカルマ清算という目的のために地上への誕生のチャンスを求め、やっとそれが聞き入れられたのです。妊娠の背景には、こうした深い霊的理由が存在します。中絶によってそうした他人の重大事を一方的に捨て去り、霊的な大打撃・大損害を与えることは罪以外の何物でもありません。これが中絶が間違いである2つ目の理由です。
3つ目の理由は、死生観に直結する内容です。中絶によって肉体という物質の乗り物(道具)を失った胎児霊は、未熟な霊体を身にまとって新しい生活を始めなければなりません。当然、再生前に予定していた地上世界での体験はできなくなるため、再度生まれ直す必要が生じます。どうしても地上に生まれる必要がある霊は、別の機会を待つことになります。それは霊にとっては無駄な遠回りとなるのです。
地上では、他人の財産を少し奪っただけで大騒ぎになります。他人の命を奪えば裁判にかけられて刑を執行され、辛い日々を送らなければならなくなります。それと同じようなことをしながら、中絶の場合はやり過ごすことができるのです。霊的な観点から見れば中絶は、殺人と同じ罪を犯していることなのです。そしてその罪は、霊界に行ってから償わざるをえなくなります。以上のような理由から、人工妊娠中絶は間違いなのです。
とは言っても自殺の場合と同様に、すべての中絶を一律に断罪することはできません。情状酌量しなければならないケースが実際に多くあるからです。どこまでも動機がその決め手となります。どのような動機で中絶に至ったのかが問題となるのです。例えば母体を生命の危機から守るためにした中絶に悪性はなく、それが罪となるようなことはありません。それとは逆に本能的快楽を追求した結果、子供は邪魔だという身勝手な理由から中絶するようになった場合には、利己的行為の極みとして、一切の言い逃れも言い訳もできないような状況に置かれることになります。
*人工妊娠中絶は生命を奪う殺人で許されませんが、避妊による産児制限はこれとは全く事情が違います。もちろんどのような行為も、常にその動機が問題となることは言うまでもありません。経済的理由や母体の健康上の理由、その他の正当な理由で産児制限をすることは決して摂理には反しません。
③死刑制度
現在先進国では、「死刑制度」は徐々に廃止されつつあります。それは地球人類の進歩と言える嬉しい動きです。しかし米国や日本のように先進国でありながら、いまだに死刑が執行されている所もあります。霊的観点から見れば、死刑は国家による公認の殺人であり、国家は罪をつくり続けていることになります。これまでも死刑制度をめぐって、さまざまな議論が巻き起こってきました。その中には死刑の存続に一理あるような意見も確かにありましたが、霊的事実からすれば死刑は、やはり間違いなのです。やめなければならないものなのです。
死刑制度の容認派は、決まって「死刑によって極悪犯罪が抑制されるようになる」と主張します。しかし実際には死刑制度があっても、犯罪がなくなるようなことはありません。死刑を減らすには、一人一人の人間の考え方と、社会全体の意識が変わる必要があります。「物質至上主義」と「利己主義」の蔓延が、犯罪を増大させることになっているからです。犯罪発生の根源にメスを入れないかぎり、死刑という“罰”をちらつかせても犯罪を減らすことはできません。
スピリチュアリズムは、死刑制度の間違いを霊的事実の観点から明らかにしています。それは死刑によって生命を奪われた犯罪者が、死後も霊として生き続け、憎しみを募らせてさらなる悪事を行うようになるということです。死刑は犯罪を減らすどころか、憎しみの感情を煮えたぎらせた“低級霊”をつくり出し、厄介な霊的問題を引き起こすことになります。こうした霊的事実から見るとき、死刑制度には何の効果もないことが分かります。死刑制度は、地球人類の「霊的無知」から発した間違った制度の1つなのです。
④臓器移植
21世紀の地球上を支配している西洋医学は“唯物主義”を土台としています。そこでは当然のこととして、死後の生命や霊界の存在を認めません。“人間とは肉体である”との認識のもとで、死ねばすべてが消滅すると考えています。そうした唯物医学では、寿命を延ばすことが医学の最大の目的となっています。肉体生命にこそ最も価値があると考えるからです。したがって病気を治して死を先に延ばすことができれば医学の勝利となります。反対に病気によって死に至るならば医学の敗北ということになります。
現代医学は、少しでも肉体生命を長引かせる方向にエネルギーを傾けています。現在「臓器移植」が医学の最前線の位置に置かれているのは、こうした背景があるからです。時にはそれが暴走して、お金で他人の臓器を買ったり、大金を投じて海外で臓器移植を受けるといった問題を引き起こすようになっています。そこには“死は恐ろしいものであり最大の不幸である。少しでも先延ばしにすべきものである”といった共通認識があります。
しかし霊的事実に照らしてみるとき、そうした医学は明らかに的外れと言わざるをえません。死は決して悲劇ではなく、それどころか歓迎すべき素晴らしい出来事であるからです。したがって治療の限界に至ったときには、霊界に思いを馳せ、死を静かに受容すればよいということになります。医学関係者の中には、病人を助けたいという純粋な動機から、ひたすら研究に取り組んでいる人もいます。そしてこれまで実際に多くの人命を救い、人類のために多大な貢献をなしてきました。
しかし、それをもって現代医学のすべてを容認することはできません。そうした貢献とは別に、病人には死の本当の意味を教え啓蒙することが重要なのです。肉体は死んでも霊として生き続けること、死は新しい世界への出発であることを知れば、臓器移植をしてまで肉体生命をむやみに引き延ばそうとする考え方の狭さと間違いに気がつくようになります。
⑤安楽死・延命治療・尊厳死
安楽死
ガンの末期患者など医学的に見てもはや治る見込みがない病人を、耐えがたい痛みや苦しみから一刻も早く解放してあげるために医学的処置を講じて死に至らせようとすることがあります。これが「安楽死」です。現在、この安楽死の是非をめぐって議論がなされています。海外では、すでに安楽死を法的に認めている国家もあります。安楽死は、患者を少しでも早く楽にしてあげたいという思いやりの気持から出たものであり、その動機には一点の利己性もないことは明らかです。それゆえに多くの人々の賛同を得ているのも当然と言えます。
しかし「安楽死」という死に関係する問題は、霊的観点から見ないかぎり正しい判断はできません。スピリチュアリズムでは、霊的事実に照らして安楽死は間違いであるとします。それは、生命はどこまでも神のものであり、神から与えられたものだからです。人間のものではない生命を、人間の手によって勝手に葬り去ってはならないということなのです。これが安楽死の間違いの第一の理由です。
安楽死が間違いであることは、次のような霊的事実からも明らかにされます。物質的視点からすれば安楽死には何の問題もないどころか、利他愛として容認されてもおかしくないものです。しかし死の直前でただ単に無意味に苦しんでいるように見える状況であっても、その実、生きている意義がないわけではないのです。患者は瀕死の苦しみを通してカルマを切るプロセスを歩んでいたり、地獄のような苦しみの体験の中で何らかの霊的学びをしていることがあるのです。生命は摂理によって支配されている以上、いかなる場合であっても、死は自然の成り行きに任せるべきなのです。それを人間的な判断で故意に早めるならば、不自然な状況・霊的支障が発生するようになります。これが安楽死の間違いの2つ目の理由です。
延命治療と尊厳死
安楽死と反対の位置にあるのが「延命治療」です。死に至ることが明らかな患者に対して医学的処置を施し、少しでも死期を延ばそうというのが延命治療です。現在の医学では、こうした延命治療が当たり前に行われています。全く治る見込みのない末期の患者が、延命装置で何日間か生き続けることがあります。それによって、さらなる苦しみ・痛みの体験が長引くことになります。
このように考えると延命治療は、ある意味で無慈悲な行為のように思われます。どうせ死ぬ以上、無理やり生かすようなことはせずに早く苦しみから解放してあげたいと思ったとしても当然です。「尊厳死」の発想はそこから出ています。死ぬことが分かっている患者を、無理やり機械で生き長らえさせるような不自然なことをせずに“自然にあの世に旅立たせてあげたい”という尊厳死の考えは、人情的に見てきわめて当たり前の在り方と言えます。
この「延命治療」と「尊厳死」の問題に対してスピリチュアリズムでは、どのように考えているのでしょうか。結論を言えばスピリチュアリズムでは、不自然であっても延命治療を一応認めるのです。しいて延命治療を否定はしません。寿命は摂理によって決められるものである以上、延命装置で死期を延ばすことには限界があります。死期がきていれば、どれだけ延命装置を働かせても生き続けることはできません。まだ寿命が残されている場合にのみ延命装置によって生き長らえることができるのであって、延命装置によって寿命が延びるということではないのです。“生き続けている”ということは、まだ寿命が尽きる時がきていないということです。延命装置によって数時間・数日、寿命が延びたならば、それも寿命のうちということなのです。もっとも自然死も延命治療による死も、結果的にはそれほど大きな寿命の差はありません。スピリチュアリズムでは、延命治療に特に意義は認めませんが、敢えて止めるほどの理由もないと考えます。どこまでも生命の尊厳性を最優先するということなのです。
したがって自然な死に方をさせてあげたいと思って延命装置をはずしたとしても、摂理には反しません。尊厳死も問題はないということです。一般的には延命治療と尊厳死は相反する立場にありますが、スピリチュアリズムでは、どちらも問題はないということになります。