マイヤースの通信

個人的存在の彼方(全訳)

『個人的存在の彼方(全訳)』表紙

紙版
原書 Beyond Human Personality
著者 ジェラルディン・カミンズ(著)
近藤千雄(訳)
発行日 1998年5月30日 初版発行
ページ数 300ページ
ISBN 978-4-905275-06-0
価格 2,090円(税込)
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内容紹介

永遠の大道』と並ぶマイヤースのもう一つの霊界通信。『永遠の大道』と本書を合わせて読むことで、マイヤースの思想の全体を知ることができます。

目次

  • ……E.B.ギブス
  • 第1部死の直後の生活
    • 1章この、お粗末きわまる時代
    • 2章意識の発達過程
    • 3章死の直後の環境
    • 4章再生(生まれ変わり)
    • 5章アフィニティ
    • 6章二面性について
    • 7章休戦記念日
  • 第2部個人的存在の彼方
    • 1章存在の場の略図
    • 2章人間的個性を超えて
    • 3章太陽人の存在
  • 第3部祈りと神秘体験
    • 祈り
    • 地獄
    • “愛する”ということの正しい在り方
    • 予知と記憶
    • 自然霊
    • 精神病とその治療法
    • 正義と公正
  • 付録

「序……E.B.ギブス」より

英国学士院特別会員のE.W.マクブライド教授が月刊誌〈サイキック・サイエンス〉中で次のようなことを述べている。

《人問の魂の死後存続が真実か否かが我々にとって他のいかなる問題も影が薄くなるほど切迫した最大のテーマであることに疑問の余地はない。そのテーマに思いを馳せれば馳せるほど、他の全ての問題がまったく無意味に思えてくる。と言うのも、死後存続が事実であることによって初めて宇宙人生が合理性を持つことになるからである。そうであって初めて“悪”の問題に納得のいく解決がつく――それ以外には解決法は有り得ないのである。

もしも人間の個性が死後に存続しないとすれば、人生哲学は空虚な厭世思想しか有り得ず、大宇宙の支配者は正常な人間の誰をも憤慨させる悪逆非道に対しての責任を免れないことになる》

前著の中でも、冒頭に掲げたマクブライド教授の切実な問いかけに応えるかのように、人間の死後存続を証明する説得力のあるケースが紹介されている。そこで本書では単に死後の個性存続を証明するだけの証拠物件は取り入れないことにした。そうした細かいケースに興味のある方は『彼等は今も生きている』やSPR発行の月刊誌〈ライト〉、その他、この二、三年間(一九三〇年代初期)に発刊された幾つかの心霊関係の新聞や雑誌を参照されたい。

訳注――『彼等は今も生きている』は一四〇ページぱかりの小じんまりとした“証拠集”のようなもので、その冒頭にもマクブライド教授の講演の一部が掲載されている。その中で教授は「出席者が知らず霊媒も知り得ないはずの情報が入手され、それが後に正しいことが判明したら、それは極めて強力な証拠と言えます」と述べている。これが素直な受け止め方であって、脳の検索機能が働いたのだとか、前もって打ち合わせがしてあったのだろうといった否定のための否定論しか出せない学者は、霊的感性に欠けているのであろう。なお〈ライト〉はモーゼスの『霊訓』が連載された月刊誌である。

『永遠の大道』に“序”を寄せたオリバーロッジ卿は、その最後を次の一文で締めくくっている。

《そうした要素も考慮した上で私は、本書がしっかりとした教養と献身的な奉仕的精神と一点の曇りもない正直さにあふれた霊媒を通して、ほぼ真実に近い死後の実情を伝えんとした試みであることを信じて疑わない》

本書についても私はロッジ卿に受信文をお送りして、ご講評をお願いした。すると手紙文で次のような感想を寄せられた。

《全体としてマィヤースからのものであることに疑いの余地はありません。ただ、太陽人訳注――浅野訳では“日界人”)とか恒星上の生活についての部分は問題があるように思われます。断定的なことを述べるにはテーマがいささか難し過ぎて、誤りが無いとは言い切れないのではないでしょうか。しかし全体としては実に興味深く読みました。

とくに「祈り」と題した章は絶品です》

訳注――ロッジが“問題がある”と評した“太陽人”や“恒星上の生活”は皮肉にも浅野氏がその「評釈」の中で最大限の讃辞を用いて絶讃しているところである。なお「祈り」の章は浅野氏は訳出していない。

そのロッジ卿がカミンズ女史を通してマイヤースと交わした対話を参考までに紹介しておきたい。ロッジ卿もその掲載を快く諒承してくださった。

マイヤース「私はドイツの哲学者(ショーペンハウアー)の思想やインド思想が説いているような最終的な絶対界というものは存在しないという結論に達しています。と言うのは、神とは創造的エネルギーであり理想を超越した光輝ないしは光焔なのです。その中に過去の全てが包み込まれ、保存され、また未来の概念ないしは映像もすでに含まれている。しかし、それが無限大に発展する――ここが重大な点です。

さて人間の魂も創造力の、限りある焦点ないしは中枢です。とくに高い意識レベルで機能している時がそうで、それは肉体とつながっていても同じことです。その魂がおぼろげながらも発揮している創造力は宇宙的大創造力(神)と同質のものであり、その一部です。

神は一にして多、多にして一です。あらゆる生命体に宿る魂および霊は最終的には宇宙の創造主との一体を求めています。かくして神の創造力は時の経過とともに変化し豊かさを増していきます。それぞれの段階においてはそれなりに完全性をそなえています。

私にはショーペンハウアーが無意識のニルバーナをもって絶対界とするのは間違っているように思えます。と言うのは、神は意図をもち、想像し、人智を超越したエクスタシーの中で創造活動を行っているのです。訳注――“エクスタシー”には忘我状態、法悦、歓喜といった訳語があるが、いずれも無限の創造力の働きを表現するには不適当である。人智を超越しているのであるから想像すらできないので、原語のまま用いた)

あなた(ロツジ)が著書や討論の場でエーテル理論を展開しておられる単純にして明快な態度を、私はうれしく思っております。科学者があなたの説に賛同しないことは私も承知しております。科学者というのは案外、自分の説で真実が見えなくなっているものです。

ただ、“エーテル”という用語は感心しません。もう少し気の利いた用語があればいいのですが……エーテルの属性についてのあなたの説には賛成です。“生命の運び屋”といった概念をうまく表現するギリシャ語でもないものかと思案しているのですが……お互いに知恵をしぼりましょう。

ところで、精神が直接的に脳に働きかけることはないというあなたの結論は正解です。精神と脳細胞との間にはエーテル的媒体(ダブル)があって、それが連絡しているのです。そのことに関連して幾つか述べてみたいと思います。

最近になって科学者が微粒子という用語を用いるようになったことは私も知っていますが、実はそれより遥かに細かい粒子がダブルから出て、何本もの糸(シルバーコード)を伝って身体の幾つかの部分訳注――ヨガでいうチャクラの存在する位置)や脳へ送られています。その動きの激しさは大変なものです。その粒子を“生命素”とでも呼んでおきましょう。

私のいう糸は内分泌腺とつながっています。内分泌腺に一つでも異状が生じると性格まで変化することは医学者もすでに発見して驚いているようですが、そのうちダブルの存在に気がつけば、その異状というのは生命素をダブルから内分泌腺へ送り込む糸が弱まることが原因の一つだということが分かるでしょう。

もちろん、これは今のところ異端の説です。しかし私がダブルと呼んでいる目に見えない連結組織こそが精神と生命が肉体と連結する唯一のチャンネルであることを知ってほしいのです。両者をつなぐ糸が一本でも切れると、たちまち肉体機関の支配に不具合が生じます」

ロッジ「私の考えではエーテルはあらゆる物質の作用の根底にあるように思うのですが、それを確認する手段がありません」

マイヤース「おっしゃる通りエーテルは物質の始源です。これを確認するには大変な研究、つまりその秘密を捉えて科学者の視覚で納得させるための何らかの計器をこしらえるしかありません。その可能性についてはクルックスとも語り合ってみようと思っています。良い案を持っているかも知れません」訳注――クルックスは一九一九年没。ロッジはこの対話から七年後の一九四〇年没)

ロッジ「現実的に言えばエーテルは存在していません。つまり万事があたかもそんなものは存在しないかのように進行しています」

マイヤース「おっしゃることは分かります。実質的にはエーテルの存在は重大です。今までのところはメッセージの伝導体であるといった程度の認識しかされていないようです。私の考えではエーテルの研究は物的身体との関連性から始めるのがいいように思えます。動物を使って実験するのも可能でしよう。動物もエーテルを原料としてこしらえられた、目に見えない接合体(ダブル)があるのです。その接合体を感知する機器の発明も、いつかは可能となるでしよう。これは素人の参考意見として述べているまでです。私は物理学者ではありませんので……ですが、エーテルを人間との関連、そして今述べた接合体との関連から研究すれば、あなたの研究テーマに光が当てられるのでは、という感じを抱いています」

ロッジ「私のエーテル説は間違っていないでしょうか」

マイヤース「間違っていません。エーテルの存在を否定する証拠が出されるのを心配なさる必要はありほせん。これから十年もすれば、物分かりのよい人にとってエーテルは実在となることを私が予言しておきます。ロッジさん、多分あなたがこちらへお出でになった後くらいに、地上の科学者もその存在の手掛かりを見つけますよ。非常に精巧な機器もできるでしょう。化学の援助もあるでしょう。私が知るかぎりで言えば、エーテルは霊の世界の存在物の基本的な素材です。これには恒久性があり、それが恒久性のない物質に宿っている人間に理解しにくく、また捉えにくいものにしているのです」

前著『永遠の大道』を読まれた方は、マイヤースの言う「夢幻界」――死の直後に通過する記憶でこしらえられた夢のような世界と、その後に続く「エイドスの世界」(色彩界)のことを覚えておられるであろう。本書ではマイヤースはそうした界層についての叙述をさらにふくらませると同時に、続く第五界の「光焔界」ないしは「ヘリオスの世界」訳注――“ヘリオス”はギリシャ神話で太陽神のこと)へと筆を進め、我々が地球人の域を脱して太陽人へと進化する遠い遠い未来の驚くべき生活を美しく描写している。

その大部分は一九三三年から三四年にかけて綴られたものであるが、興味深いのは、その叙述を開始した当初、カミンズ女史の記憶の層に必要な用語が見当たらないことにマイヤースが当惑していることである。と言うのも、カミンズ女史は天文学にはまったく興味がなかったのである。そこでマイヤースはいったん通信を中断して、カミンズ女史に百科辞典の中の天文学の項目を読むように要請してきた。要請に従って女史は『ハームズワース・エンサイクロペディア』を読んだ。研究とか勉強というほどのものではなく、ただ通読して天文用語を仕入れるのが目的だった。

本書の第二部をお読みいただけば、右の『エンサイクロペディア』の天文学の項目との間に叙述上の類似点がないことに気づかれるであろう。マイヤースが欲しかったのは用語であった。“太陽人”の説明のためにはどうしても必要だったのである。知識そのものは本文中でも「他界後に惑星に関する知識を求めた」と述べているし、訪れることのできない上層界のことについては「自分より遥か先を旅している仲間」から情報を得たとも述べている。

本書に盛り込まれた通信の中には物議をかもしかねない説があり、必ずしも読者の全てに歓迎されないかも知れない。しかしカミンズ女史と語り合った末に、それを削除しない方がむしろ一般読者の興味を増すのではないかとの意見の一致を見た。

例えば第二部で遥か未来の進化の階梯での生活が語られているが、これなどは現時点での地上人にはこれといって興味らしい興味はもてないし、内容的に異論をはさむ人が出てもおかしくはない。しかし、そういう知的存在が今この時点で他の天体上で生を営んでいるという示唆は、この神秘に満ちた宇宙の謎に汲めども尽きぬ興味を抱いている人にとっては、きっとアピールするに違いないとの判断から公表することにした。

第二部の最後に出ている「終末」と題した短いエッセーは、第二部のテーマに格別の興味をもつ学者から出された質問に答えたものである。その質問はこうだった――

「今日の第一級の天文学者たちは、熱力学の第二法則に従って宇宙は幾百万年か後には終末を迎える――太陽や星が全てを放射し尽くして消滅する、と断言しています。そういうことが有り得るでしょうか」訳注――熱カ学には三つの法則があり、第二法則とは、全ての変化にはある一定の優先的方向がある、というもの)

私はこの質問を第二部に入ってすぐに提出した。するとマイヤースはこれから書くエッセーの中で回答を用意しましょうという返答をくれた。そして第二部がそろそろ終わりかけた頃になって突然さきの質問に言及して、もう一度質問を読み上げてほしいという。我々はその時はすっかりその質問のことを忘れていた。私が読み上げると、あの第二部の締めくくりとなるエッセーが書かれたのだった。

肉体を捨てた者にとって光焔の世界での生活を叙述する困難さは測り知れないものがあることを理解しておく必要があるであろう。光焔の環境のもとでの生活を表現するのに適切な用語など、地上にあろうはずがないからである。

本書は本書なりにまとまったものであるが、前著の『永遠の大道』への言及や同じことの繰り返しも幾つかある。内容の性格上それは避け難いことであると同時に、本書から読み始めた方にとっては、その必要性もあるであろう。前著の読者の中に、用語が少し煩雑すぎるとの感想を寄せられた方がいたので、本書では意味の明確さを期するために私が筆を加えたことを断っておく。訳注――欧米人の文章家の間では同じ用語を繰り返さない、言い変えると、表現を変えることが教養の高さの証と見なす傾向があるのであるが、この種の内容のものではそれは誤解のもとになりかねないので、その点は訳語の上で私も配慮したつもりである)

霊界通信というものの実在を信じている方にとっては、それがいわゆる“生者”と“死者”の協同作業であるとの認識は改めて説くまでもないであろうが、マイヤースのように死後三十五年(一九三五年の時点で)も経っている者の文体が生前の文体と一致することは期待できない。その上、通信の困難さも考慮しなければならない。また、三十数年間の霊界での生活体験によって生命観や人生観が変わり、性格そのものも変わっていることであろう。

一方、霊媒のカミンズ女史はマイヤースが脳へ語りかけたものを文章に置き替えるとのことなので、当然のことながらその文体はカミンズ女史がそれまでに仕入れた用語や教養によって制約されることになる。マイヤースがカミンズ女史のことを「通訳」と呼んでいるのはそのためである。

前著と同じく本書のタイトルはマイヤース自らが提案したものである。生前の大著『人間の個性とその死後存続』を読まれた方にとっては、そのタイトルはいかにもマイヤースらしいと思われるであろう。

本書とあわせて前著もお読みいただければ、一段と詳細な死後の世界の知識が得られるであろう。

一九三五年四月 E.B.ギブス

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