神の摂理と愛の世界

ニューズレター第33号

先回のニューズレター32号では、神の摂理と愛の世界の前半(神の摂理と愛の世界)を述べました。今回はその続きです。

6.利他愛のさまざまな段階(レベル)

ここでは利他愛のレベルについて見ていきます。“利他愛”は相手に対しての無償の働きかけですが、愛の対象の範囲や与える内容、そのために払う犠牲によってさまざまなレベルに分けられます。非常にレベルの高い利他愛から、それほどでもない利他愛といった差が生じます。

「愛の表現形態にもさまざまなランク(段階)があります。愛の対象への働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)p.226

「愛の対象の範囲」によって利他愛のレベルが決定

――より多くの人々への奉仕であればあるほど、多くの愛を与えたことになる

愛の対象が多くなればなるほど、働きかける相手が多くなればなるほど、その利他愛は価値が高まります。言うまでもないことですが、血縁関係のない一人の人間の幸福のために自分の幸福を後回しにして与えることは真の利他愛であり、摂理に一致します。しかしそうした相手が多くなればなるほど、言い換えれば、より多くの人々の幸福を願っての働きかけであればあるほど、その利他愛の価値は高まることになるのです。

家族のためより一人の他人のために尽くすことは利他愛となります。そして社会のため、民族のため、国家のために自分や家族を後回しにして尽くし与えることは、より偉大な利他愛となります。さらに人類全体のために自分の人生を捧げ奉仕することは、それ以上に価値ある利他愛となるのです。もちろんその行為が本当に相手のため、人々のためになっていなければ愛とは言えません。そこにこの後で述べる「与える内容」の問題が関係してきます)相手の霊的成長や真の幸福に貢献できる内容である場合、対象者が多ければ多いほど、多くの愛を与えているということになります。

スピリチュアリズムは地球上の全人類を救済しようという最高の利他愛です。私達スピリチュアリストは高級霊の道具として、人類全体を対象として利他愛を実践しているのです。一人でも多くの時期のきた人に霊的真理を伝えたいと願い、そのために与え続けることは「最大多数の人々への最大限の奉仕」です。一切の見返りを期待しないところでの霊的真理の伝道は、全人類に対する最高の利他愛なのです。それは人間として最も尊い歩みをしていることになります。

「与える内容」によって利他愛のレベルが決定

――より霊的価値のあるものを与えれば与えるほど、多くの愛を与えたことになる

「与える」という行為は同じであっても、与える内容によって利他愛は、さまざまなレベルに分かれます。相手に対して、この世かぎりの一時的な救いや物質的な幸福ではなく永遠的な救いや幸福を与えることができれば、きわめて価値のある利他愛の行為ということになります。普遍的な叡智・霊的真理を与えることは、相手の霊的救いにつながり、霊的成長に直結します。それは相手に対する最も価値ある愛の行為なのです。霊的な幸福は、物質的な幸福とは比較になりません。それこそが人間にとっての真の幸福です。人々の本当の幸せを願うならば、最終的には「霊的真理と霊的救い」を伝えなければならないのです。この意味でスピリチュアリズムの「霊的真理の伝道」は、最高に価値ある利他愛の実践と言えます。

次に価値ある愛は、肉体の維持に必要な最低限の食料や物質を欠く人々に、それらを提供することです。肉体は霊的成長のための不可欠な道具です。その道具を維持できなければ、地上世界においてせっかくの霊的成長のチャンスを失うことになります。肉体を養うための援助は、間接的ではあっても“霊的な援助”の意味合いがあります。これも非常に価値の高い利他愛の実践となります。

一方、同じ物質的援助が、人間の霊的成長に必ずしもプラスにならない場合もあります。必要以上の物質を与えることが、精神的堕落をもたらすことがあります。こうした場合は、その援助は本当の利他愛とは言えなくなります。単なる与える側の“自己満足”にすぎないことになってしまいます。

スピリチュアリズムにおけるスピリチュアル・ヒーリングでは、肉体の病気を治すことよりも霊的自覚がもたらされることを重視します。肉体の病気が治っても霊的自覚がもたらされなかったならば、そのヒーリングは失敗と見なされます。ここにスピリチュアリズムの姿勢が端的に示されています。「霊的救いを肉的救いよりも重視する」ということです。スピリチュアリズムのスピリチュアル・ヒーリングは、他のヒーリングよりも深い愛を与えようとする利他的思いからの奉仕なのです。スピリチュアリズムは、より価値のあるもの、霊的なものを優先的に与えようとする救済プロジェクトなのです。

マザーテレサの愛とスピリチュアリストの愛

マザーテレサは、その無償の純粋な利他的行為によって多くの人々に感動を与えました。私利私欲を超越したキリスト教の愛の見本を世界中の人々に示しました。マザーテレサは、キリスト教の教える領域で最高次元にまで至った聖人と言うべき人間でした。

しかしスピリチュアリズムの霊的観点からすると、スピリチュアリストは、マザーテレサ以上の深い愛を与えられる恵まれた立場に立っているということになります。それはスピリチュアリズムでは、死後も続く「霊的救い」を示すことができるからなのです。マザーテレサは、与えること、そして自己犠牲を払うことにおいて、ほぼ完璧なレベルにまで達していました。ところが残念ながら与える愛の内容においては、最も価値ある霊的救いの方向性を示すことはできませんでした。私達スピリチュアリストは決意如何によって、マザーテレサと同じように純粋な奉仕の人生を送ることができます。しかしマザーテレサはスピリチュアリズムの「霊的真理」を知らなかったために、私達のような霊的な最高の救い(霊的成長の道)を示すことができなかったのです。

霊界では、マザーテレサのような無償の愛に生きる高級霊達が何十億・何百億と結集して、地球人類の霊的救済のために日夜働きかけています。生前のマザーテレサの姿は誰もが見ることができましたが、霊界で献身的に働いている霊達の姿を大半の地上人は見ることができません。そのため地上世界では、マザーテレサなどの一部の奇特な人々だけに関心が向けられることになりました。

しかし霊界の事実を知ったスピリチュアリストならば、霊界で働く億万のマザーテレサ(高級霊達)にも意識を向けるべきでしょう。おそらくマザーテレサは、その優れた人格性と霊性により、死後は程なくしてイエスを中心とするスピリチュアリズムの本流の中に加わっているものと思われます。そしてその軍団の一員として地球人類の「霊的救い」のために働きかけているのではないでしょうか。

「自己犠牲の多少」によって利他愛のレベルが決定

――自己犠牲は利他愛の指標

より多くの愛を与えれば与えるほど「愛のサイクル」は強められ、その結果として多くの愛と喜び・幸福・霊的成長がもたらされるようになります。私達は、与えることだけに意識を向けていればいいのです。利他愛は多く与えることにおいて価値が決まるのです。

ところで皆さんは、どのくらい相手に愛を与えているでしょうか?――それは相手のために「どのくらい多くの自己犠牲を払っているか」ということに示されます。自分が与えた愛の分量は、そのために払った自己犠牲の多少によって知ることができます。相手のために真剣であればあるほど、必然的にそれに見合った自己犠牲を払うようになります。また真の利他愛ならば、そのための自己犠牲を喜んで受け入れるようになるものです。自己犠牲の多寡によって利他愛のレベルが決定するということです。

果して今、自分がどのくらい人類を愛しているのか?――それは今、自分が人類のためにどのくらい自分の大切なものを犠牲にしているかによって、はっきりと答えが示されます。これは“愛”は口先ではなく、現実の犠牲的行為によって計られるということを意味します。

イエスは、全人類の霊的救いのために自らの生命を犠牲にしました。また現在、地球人類救済のために働いている高級霊達は、霊界での生活・進化の歩みという最大の霊的宝を犠牲にしてスピリチュアリズムのために献身しています。

自分の物質的財産や自分の大切なものをどれほど犠牲にしているか、自分の趣味や楽しみ・生活をどれほど犠牲にしているかによって、自分の愛の深さが明らかになります。自己犠牲を多く払っている人間であればあるほど、その利他性はますます高められるようになるのです。この「自己犠牲の法則」は、利他性の法則を強化するための法則と言えます。

「我欲を捨て他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.145

「愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表れます。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.146

「(愛は)互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.150

無私の程度が、利他愛のレベルを決定する

利他性のレベルは、どのくらい自分自身を無にしているか、人々のために自分自身を後回しにしているかということにおいてもはっきりと示されます。“滅私奉公”というと多くの人々は嫌な感じを持つかも知れません。時代遅れの道徳のように思うかも知れません。しかし、それは神の利他愛の摂理に一致した崇高な精神なのです。「相手のために」という利他性が強くなり純粋になると、自分自身のこと、自分自身の利益などはすっかり忘れ、ただ相手のことだけに意識が占められてしまいます。こうした滅私の状態は、利他愛が最高レベルにまで高まった、あるいは利他愛が最も純粋なレベルにまで高まった理想的な心境なのです。

世の中には口先では利他愛を叫びながら、しっかりと自分自身の利益を計算している人々が大勢います。自分のことを常に確保しながら愛の大切さを訴えます。そうした愛はもちろん純粋なものとは言えません。利他愛のレベルにおいて、まだまだ低いものなのです。

「あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.68

「自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.135

「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)p.180

「愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.146

「最高の愛にはひとかけらの利己性もありません。つまりその欲求を満たそうとする活動に何一つ自分自身のためという要素がないのです。それが最高の人間的な愛です。(中略)

そうした愛他的動機から人類の向上のために、言い換えれば、内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)p.226

<まとめ>

利他愛のレベルの決定(多く与えれば与えるほど、利他愛の価値のレベルが高まる)

  • より多くの人々を愛する
  • より霊的に高いものを与える
  • より多くの自己犠牲を払う
  • より多くの無償性を持つ
  • ――これらのトータルによって利他愛のレベルが決定する

7.聖書に見る利他愛の教え(イエスの教えの真髄)

先にも述べましたが、イエスの使命は、それまでに知られることのなかった本当の神の愛を地球人類に知らせ、神の愛を中心とする「霊的大家族世界」を地球上にもたらすことでした。イエスは本能中心の人間愛に代わって、霊中心の神の愛・利他愛を人々に教えようとしたのです。神の愛すなわち自己犠牲のともなう“利他愛”こそが、真の愛・最高の愛であることを示そうとしたのです。これがイエスによる「愛の革命」でした。地球人類はイエスによって、初めて本当の愛を知ることになりました。

さらにイエスは短い人生の中で、「与えることを優先する愛」「愛しがたい者をも愛する愛」の見本を示したのです。神が人類を愛するように、人間も神の愛にならって本能・血縁を超えた愛の実践を行うことの重要性を訴えたのです。

聖書の多くの部分は後世の人間によって手が加えられ改ざんされ、真実でない内容が付け加えられています。そのためイエスが語ってもいないことが、イエスの教えとして広まってしまいました。新約聖書の中には、あまりにも真実とは懸け離れた内容が盛り込まれており、そのまま受け入れることはできません。その多くが、神の言葉・神の教えとはあまりにも隔たっています。

しかしその中で“利他愛”に関する内容については、間違いなくイエスが示したものと思われます。シルバーバーチがたびたび引用する聖句は、イエスが語った言葉と思われます。イエスによって始められた「愛の革命」は、スピリチュアリズムという形で現代にまで引き継がれ、今活発に展開しているのです。

ここではイエスによって示された利他愛についての記述を拾ってみます。

「“隣り人を愛し、敵を憎め”と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。(中略)

あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」

(マタイ5章・43~47)

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」

(マタイ22章・39)

「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

しかしあなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。」

(ルカ6章・27~28/31~35)

8.摂理と一致しない愛

――利己愛(自己中心的な愛)・本能愛

ここでは摂理と一致しない愛、すなわちニセの愛について取り上げます。それを通じて真実の愛が、より鮮明になるものと思います。

摂理に一致する愛と一致しない愛

シルバーバーチはあるとき次のように言っています。

「地上では愛という言葉が誤って用いられております。愛とはいえないものまで、愛だ、愛だと、さかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)p.225

本来“愛”と呼ばれるにふさわしいものは、摂理に一致する愛であり、“利他愛”に他なりません。これが「本当の愛」です。愛の本質は霊であり、最も重要な霊的要素であり、その中には物質的要素を含みません。そして私達人間にとって一番重要な「霊的成長」をもたらします。利他愛は、霊的成長に不可欠な“霊的栄養素”なのです。

本当の愛・利他愛の特徴

本当の愛(利他愛)には2つの特徴があります。一つは「先に愛する(与える)」ということです。与え続ける・与えることを優先するということです。もう一つは「愛する(与える)相手を選ばない」ということです。自分の好き嫌いの感情を超えて、また物質的な利害関係・血縁関係を超えて愛するということです。

こうした愛を持つためには、かなりの努力が必要とされます。現在の地球上で真にこの愛を実践している人は少数です。キリスト教はこの利他愛を教えていますが、実際に純粋な利他愛を実践しているクリスチャンは、ほとんどいません。

<ポイント整理>

摂理に一致する愛 = 本当(真実)の愛 = 利他愛

  • 純粋に霊的な愛・霊的栄養素・霊的成長を促す
  • 与えることを優先する・先に与える・与え続ける・見返りを期待しない
  • 愛する相手を選ばない・自分の好き嫌いを超越する・利害関係や血縁関係を超越する
  • かなりの努力が要求される

ニセの愛・利己愛の特徴

これに対して摂理に一致しない愛、すなわち“ニセの愛”とは「利己愛(自己中心的な愛)・本能愛」です。世間一般に愛の名で呼ばれているのがこの愛です。この摂理から外れた愛の本質は、肉体的・本能的・物質的であるということです。この中には霊的要素は含まれず、当然、霊的成長をもたらすことはありません。それどころか霊的成長を停滞させ、これを妨害することにもなります。

このニセの愛(利己愛・本能愛)には2つの特徴があります。一つは「相手から奪う・相手に与えない・相手から与えられることを優先する」ということです。もう一つは「愛する相手を選ぶ」ということです。好きな人・気に入る人・血縁者・物質的利益がもたらされる仲間だけを対象とし、それ以外の人には与えません。こうした愛を持つには特別な努力も苦労も必要ありません。

<ポイント整理>

摂理と一致しない愛 = ニセの愛 = 利己愛・本能愛

  • 肉体本能に由来する・霊的要素なし・霊的成長をもたらさない(阻害する)
  • 相手から奪う・相手に与えない・相手から愛されることを優先する
  • 愛する相手を選ぶ(好きな人・気に入る人・血縁者・物質的利益がもたらされる仲間)
  • 努力が必要とされない

「利己愛・本能愛」は、一般の人々には当たり前の愛の在り方のように思われています。そして地球上の大半の人々が、こうした愛を中心として生活しています。また民族も国家も、その愛が拡大したものとなっています。地上世界を支配している利己愛は、物質的であり、動物と同じ本能的な愛です。そこには霊的要素はありません。よく素晴らしい愛と称えられる恋愛も家族愛も、残念ながらその実態は利己愛がベースとなっているのです。

利己愛のさまざまなレベル

――利己性の度合いに応じて決定される

利他愛は、その利他性の程度によって、最も高いレベルからそれほど高くないレベルまで、さまざまな段階に分かれています。利己愛もそれと同様、その内容(利己性)によって、いろいろなランクに分かれます。すなわち“利己愛”には、最悪のものからそれほど悪性の多くないものまで種々のレベルがあるということです。

まず利己性の最たるものは、「力ずくで相手の物を奪い、一方的に相手を独占・所有化する」というものです。次は「相手に与えない・愛されることだけを期待して愛することをしない」というものです。さらに次は「与える(愛する)ことはあっても、与えられる(愛される)ことを常に優先する」レベルということになります。このように同じ“利己愛”といっても、その利己性の程度は異なります。先に挙げたものほど利己性の度合いが強く、後のものほど弱いということになります。

また利己性のレベルは、関係を持とうとする相手(対象)によっても決められます。自分を崇拝する人間・自分に従う者だけを愛するという最悪のレベル、次に自分に利益をもたらす相手とだけ付き合い、自分の血縁者だけを対象にしようとするレベル、そして自分の好きな人間・気に入る相手だけを対象にするレベルに分けられます。先のものほど利己性・本能性は強くなります。

独裁者は、最も強い利己愛の持ち主と言えます。最悪とも言うべき利己性の持ち主です。独裁者は時に、非常に愛情深い人間であるかのような行為に走ったり、異常とも思えるほどの愛を示すことがあります。しかし、それは内面の利己性を意図的に裏返したものにすぎません。

利己愛・本能愛が招く悲劇

摂理と一致しない利己愛は、まず人間にとって最も重要な「霊的成長の道」をストップさせることになります。それどころか「悪因縁(悪いカルマ)」をつくり出し、霊的成長をはばむマイナス要因を生み出すことになります。それによって償いのために苦しい遠回りの道を歩まなければならなくなってしまいます。

また利己愛は、本人の心に「孤独・寂しさ・絶望・悲しみ」をもたらすことになります。与えられる(愛される)ことを優先するところでは、霊的エネルギーが枯渇し、心がアンバランスになるからです。利己性の度合いに応じて、魂にもたらされる苦しみは大きくなります。

利己愛は、「愛のサイクル」という真の愛の世界・愛の関係づくりを阻害します。相手がいくら利他愛で愛していても、本人がいつまでも与えることをしなければ、愛のサイクル・真の愛の世界はでき上がりません。常に「一方通行の愛の関係」で終わってしまいます。

もし関係を結ぶ両者が、ともに利己愛しか持てないときには、さらに悲惨な結果をもたらすことになります。互いに与えられることだけを期待し、それがエスカレートすると相手から無理矢理にでも取り上げようとして奪い合いが始まります。そして「暴力・争い・戦争」へと発展していきます。これまで地球上に戦火の絶えることがなかったのは、地球上の人々・民族・国家が“利己愛”に支配されていたからです。21世紀の現在も、この利己愛は依然、地球上を支配しています。いずれの民族も自分達の利益を最優先して求め、いずれの国家も自国の国益追求を最優先しています。自分達の民族の利益拡大、自国の利益拡大に奔走しています。その結果、民族抗争と国家間対立が絶えず引き起こされることになっています。

地球上の争いは、両者が利己性に立っているところから生じます。両者が利己愛しか持てないとき、その最終結末は武力を用いた戦争となるのです。地球全体が“利己主義”に支配されているかぎり、地球上に平和は到来しません。国家の間に利他的関係が成立しないかぎり、戦争はなくなりません。現在の地球上には、いまだに利他的な方向を目指す国家は一つもありません。もし仮に現在、そうした真の平和的国家があるとするなら、その国家は直ちに滅ぼされることになってしまいます。

また物質的利益・富の奪い合いは、力のある者が多くを獲得することになり、「富の偏り・貧富の差」を生じさせることになります。個人レベルにおいても、国家レベルにおいても、あまりにも極端な貧富の差が地球上を覆っています。そして世界各地に地獄さながらの悲惨な飢餓を生み出しています。

“恋愛”という利己愛

一見すると純粋な愛のように見えて(感じられて)も、実は“利己愛”であるというのが家庭愛と恋愛です。恋愛は霊的な愛ではなく、肉体本能に由来する愛です。恋愛は霊的愛から遠く離れたもので摂理とは一致しません。燃え立つ恋愛感情は本能のなせる業です。恋愛関係にある男女を支配しているのは「独占欲・所有欲」です。恋愛の本質は相手から愛されることを優先的に求める利己愛です。自分以外の人間に相手の愛が向かうことを許さない独占欲であり、相手の愛をすべて自分のものにしたいという所有欲なのです。恋愛に“嫉妬”がともなうのは、その本質が独占欲・所有欲であるからです。激しい恋愛感情は両者の間に真の愛の関係をつくらせないどころか、憎しみや争いを引き出す結果にもなります。

激しい恋愛感情は心を燃え立たせ、いっとき幻想の喜びをもたらしますが、時間とともに冷めるようになっています。摂理に一致した愛のサイクルではないため、発展性がないからです。そして恋愛には、その幻想の喜びに比例した「悲しみ・苦しみ・絶望」が必ずもたらされるようになります。「償いの摂理」の働きによってそのようになるのです。

この償いの苦しみを通じて、恋愛の利己性に気づき、本物の愛(利他愛)を求めるようになるとするなら、恋愛は「真実の愛」を学ぶための良き反面教師だったということになります。そうした意味で恋愛は存在価値を持ち、人間の霊的成長に貢献することになります。しかし恋愛の欺瞞性ぎまんせいに思いが至ることなく、次々と相手を変えるようなことを繰り返しているかぎり霊的成長の道に踏み出すことはできません。いつまでも霊性を低いところに押しとどめることになってしまいます。

残念なことに、この世では“利己性”という恋愛の本質に気づくことなく、それを無条件に美しいものとして賛美しています。そして恋愛は、テレビドラマや演劇や芸術の格好の材料となっています。しかし恋愛は霊的に見たとき、決して価値のあるものではありません。どこまでも物質次元の愛・本能次元の愛にすぎないのです。

現代人の「愛されたい症候群」

――与えるより、ただ愛されたいという利己性

いつまでも利他愛を持てない人間は、霊的に未熟なまま一生を終えることになりかねません。常に他人から愛されることだけを願う人間は、霊的には子供のままなのです。最近ではこうした大人が増えています。いつまでも霊的に自立できず、子供のレベルの霊性にとどまっているのです。このような人間は、他人から優しくされることだけを求めます。

親離れできない大人、依頼心が強く自分では何もできないといった人間は、典型的な「愛されたい症候群」と言えます。そうした利己性・霊的未熟性は、相手や周りの人々に対する不満や怒り、絶望感や孤独感を大きくしていきます。「先に与える」という摂理に一致した在り方に立たないかぎり、最後は摂理の働きによって絶望と孤独という魂の苦しみを味わうようになるのです。愛されることだけを願い、自ら与える愛(利他愛)を実践しない人間は、次々と自分を愛してくれる相手を求めてさ迷うことになります。そして行く先々で失望を繰り返し、結局は孤独の中に置かれるのです。

現代人の「優しさの安売り」という利己愛

現代人の多くは愛されることを願い、ひたすら優しさを求める傾向が強いのですが、それに比例するように、必要以上に他人に優しさを与える風潮が見られます。そうした「優しさの安売り」の本音は、相手から嫌われたくない、相手から良く思われたいというものです。“優しさ”はいかにも相手を愛しているようであっても、実際には相手からの愛を求めていることが多いのです。

本当に相手の成長と幸せを願うならば、たとえ相手が嫌がっても必要な注意をするのが当り前です。親や教師・会社の上司は、相手を指導してより良い状態にすること・育てることが役目です。その責務を通じて“真の愛”を実践することになるのです。

しかし厳しく指導したり注意すると相手から嫌われるため、注意することを避けるようになります。やがて相手の言い分を何でも聞き入れ、いやがることを一切言わないようになります。こうして相手に迎合し、優しさを安売りするようになっていきます。相手の要求をすべて受け入れて優しくすれば、相手は喜び、自分もいい気持になれます。相手の言いなりになっていれば、相手から好かれ、自分も傷つかずに済みます。しかしそれは相手の霊的成長を阻害し、「肉主霊従」の勝手気ままを許すだけのことなのです。結果的に“本能人間”をつくることになってしまいます。

現代では、こうした「優しさの安売り」が、家庭・学校・会社・人間社会に蔓延しています。相手から嫌われたくない、相手から好かれたいという思いは利己愛にすぎません。相手を指導し引き上げるという責任を放棄して相手に迎合し、相手から好かれようとして人気取りに走るところに本当の教育は存在しません。「優しさの安売り」は、強い利己愛の表れなのです。

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