シルバーバーチに見る“真実の愛”

――愛を安売りする風潮の中で、本物の愛を求めて

ニューズレター第31号

今回は、私達人間にとって最も大切な“愛”について学び、理解を深めたいと思います。

1.愛の乱用・誤用・悪用と、スピリチュアリズムの使命

愛の乱用・誤用・悪用

ある時、シルバーバーチは次のように言っています――「地上では愛という言葉が誤って用いられております。愛とはいえないものまで、愛だ、愛だと、さかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。」『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)  p.225)

シルバーバーチは、人間にとって一番大切で価値ある“愛”が誤解されている、錯覚されていると言います。地上の多くの人々が愛と呼んでいるものは、シルバーバーチにすれば本当の愛ではないと言うのです。愛はさまざまな形をとります。性愛・恋愛・男女愛・友愛・家族愛、そして人類愛です。愛はまた、その内容によってピンからキリまであります。単なる本能的・利己的レベルのものから、自己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕精神に至るまでさまざまです。

誰もが好きな“愛(ラブ)”という言葉――それはあまりにも乱用され、誤用されています。その結果、現在の地球上では、愛は本来の霊的価値と崇高さを失うことになっています。

愛は時に、意図的に悪用されることもあります。独裁者やペテン師は、盛んに愛を口にします。彼らは自らの不正をカムフラージュするのに、あるいは人々をだますのに、愛という言葉を多用することがいかに効果的であるかを知っています。愛を多く語り、愛を強調し、愛を繰り返し讃美すればするほど、周りの人々は自分を愛のある人間・慈悲深い人間と見なすようになることを知っているのです。

スピリチュアリズムの使命

――“本物の愛”を地上にもたらす

このように現在の地球上では、最も神聖で、崇高であるはずの愛は汚されています。そして醜い私利私欲の道具として利用されています。それによって人々は、“本物の愛”が何であるのかが分からなくなっています。スピリチュアリズムは、こうした愛の問題を解決することを、その使命の一つとしています。

本物の愛は最も霊的なものであり、地上的な要素を超越しています。霊界には本物の愛のみが存在します。スピリチュアリズムは、物質まみれ・本能まみれのニセの愛を、純粋な霊的愛に引き上げようとする働きかけです。高級霊自らが本物の愛を示すことによって、地球上に真実の愛を行きわたらせ、定着させようとする高級霊界からの働きかけなのです。

2.シルバーバーチに見る愛の姿

シルバーバーチに見る愛の見本

シルバーバーチに代表される高級霊は、地上人を純粋な“霊的愛”で愛しています。全く利己性のない純粋な愛で、私達地上人を霊的成長へ導こうとしています。『シルバーバーチの霊訓』には、高級霊の本当の愛が示されています。

「わたしは人間の苦痛の叫び声に無神経なわけではありません。できることなら重荷のすべてを、わたしが背負ってあげたいくらいの気持です。ですが、地上世界のことは地上世界で片づけないといけないのです。そこには“公正”というものが行きわたるようになっているのです。」

『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.69

「私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観させられることです。それがその魂にとって大切な葛藤であるがために、私たちにも手出しが許されないのです。(中略)あなた方の葛藤は、私たちの葛藤でもあるということです。にもかかわらず指一本あなた方を援助することは許されないのです。そんな時、私は涙を流していることがあります。救いの手を差し延べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。苦しんでいる本人よりも私の苦痛の方が大きいことがあることを知ってください。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.90

霊的成長を最優先するシルバーバーチの愛

今あげたシルバーバーチの言葉から、シルバーバーチが、いかに優しさに満ちあふれた愛の持ち主であるのかが分かります。それはまさに子供のためならば自分の命をもかえりみず、火中に飛び込む深い愛と思いやりに満ちた母親のようです。シルバーバーチは、地上の母親が我が子に対するのと全く同じような優しさを持って、地上人に臨んでいます。「苦しみのすべてを代わって背負ってやりたい」というほどの思いを持って地上人を導いてくれているのです。私達は一人の例外もなく、守護霊をはじめとする多くの霊達からこうした大きな愛で包まれています。何とありがたいことでしょうか。

さて、ここで重要なことは、そうした深い思いやりと優しさに満ちたシルバーバーチが、苦しむ地上人を前に手助けをせず、敢えて傍観者の立場に身を置いているということです。そこには目先の苦しみを取り除いて楽にしてやる愛の行為よりも、摂理を優先するという毅然とした姿勢が示されています。本人の霊的成長を何よりも重視するというシルバーバーチの強烈な姿勢が、はっきりと示されています。

永遠の救いのために、一時的な救いを犠牲にする愛

シルバーバーチは地上人に、直接的な優しさを与えることよりも、厳しくとも霊的成長に至る道を優先しています。霊的成長は「永遠の救いと幸せ」をもたらします。それに対し、目の前の苦しみを取り除いてあげる行為は、一時的な救いを与えることだけになります。シルバーバーチは、地上人により大きな救いと幸せを与えるために、小さな救いを犠牲にしようとするのです。

地上人の立場からすれば、目の前の苦しみを取り除いてくれる方が、ずっとありがたいと思うに違いありません。それによってシルバーバーチは、地上人からいっそう感謝されるようになるはずです。しかしシルバーバーチは敢えて手助けをせず、じっと耐えているのです。ここには地上の母親とは違った、はるかに深い愛の姿勢を見ることができます。もし、これが地上の一般的な母親ならば、苦しんでいる我が子を前にして手助けしないでいることは、とてもできないでしょう。周りから止められても、何としてでも助けてやりたいと思うことでしょう。

シルバーバーチは、ただ単に優しいだけではない愛、敢えて手助けをしない愛、厳しい愛の在り方を教えてくれています。シルバーバーチの愛は、ただ苦しみを取り除いたり肉体を癒すといったレベルのものではなく、霊的成長を常に優先する厳しさのともなったものなのです。霊的成長のためには、本人が望まないこと・辛いことをも与えるという“真の利他愛”の見本を示しているのです。

3.「優しさ幻想」「愛の錯覚」①

――優しさだけをひたすら求める利己性・未熟性

優しさだけをひたすら求める地上人

シルバーバーチの厳しい愛とは異なり、大半の地上人は“優しい愛”を優先して求めようとします。多くの地上人は、自分に優しくしてくれる人間を良い人、愛のある人だと思います。地上の社会全体がこうした常識におおわれ、常に優しさを求めています。女性は、結婚相手が優しい男性であることを真っ先に願います。新入社員や部下は、上司が優しい人であること、会社の人間関係が優しさと思いやりにあふれていることを望みます。学校では、生徒は優しくて親切な先生を求めます。生徒は皆、優しい先生が一番いいと思っています。そして家庭では、子供は親に常に優しさを要求します。

優しさは、心を慰め、安心を与えてくれます。楽しさを与え、心を癒してくれます。優しさは誰にとっても、心地よいものです。寂しくなると、人は自然と優しさを求め、人々の集まりやサークル・ボランティア活動に参加するようになります。あるいは教会に行ったり、宗教に入ったりします。寂しさや孤独を癒すのは優しさであることを誰もが知っています。そして皆、他人から優しくされることを願っています。ひたすら周りの人から愛されたいと思い、それが優しさを求めさせることになっています。入院患者の中には、病気が治ることを恐れている人もいます。病気が治ると看病してもらえなくなるからです。優しくしてもらえなくなるからです。

人々は、「優しい人」イコール「愛のある人」と思っています。優しさは愛であり、また思いやりであると信じています。しかし、それは「愛の錯覚・落とし穴」であり、多くの地上人が、その落とし穴にはまっているのです。

優しさは愛の半分

――優しさだけを求めるのは「霊的未熟性」

誰もが好む優しさは、確かに愛の不可欠な要素です。しかし重要なことは、「優しさは愛のすべてではない」ということです。それは愛の半分の要素にすぎません。愛は――「与え・与えられる」という「ギブ・アンド・テイク」の関係の中で成立します。

子供のときは親から一方的に愛され与えられる中で成長しますが、やがて他人に与え他人を愛することを覚え、本当の愛の関係をつくり上げる主体者になっていきます。優しさだけを求める姿勢は、相手からの愛だけを期待しているということです。それは愛の世界において、子供のレベル・未熟な利己的レベルにとどまっているということなのです。現在では、与えられることだけ・愛されることだけを期待する大人がとても多くなっています。子供の愛のレベル・利己愛のレベルを卒業できていない大人が社会の中心を占めつつあります。

人間は霊的成長するために、「与える愛(利他愛)」を身につけていかなければなりません。人間は利他愛を持つようになったとき、真の霊的自立の時を迎え、霊的成人の仲間入りをすることができるのです。ここに至って初めて、親になる資格を持つことになるのです。

人間は、老いも若きも皆、愛されることを心の底から願っています。「優しさを求めること」――それは人間が“愛”の中で生きていくようにつくられている以上、何ら間違ってはいません。人間関係は、愛する立場か、愛される立場かのいずれかに属します。上の人から愛され、下の人を愛するという関係から成り立っています。愛を求めることは人間の“霊的本性”であって、自然な在り方です。それが問題となるのは、与えることをせずに、ただ与えられること・愛されることだけを求めるからです。愛されることを、愛することよりも常に優先するからなのです。

正しい愛の関係をつくるための重要な原則があります。神の定めた「愛の摂理・愛の法則」です。それは「先に与える」「先に愛する」という利他性です。利他性こそ、神が愛の世界をつくるために決められた摂理・法則なのです。“利他愛”は、本当の愛の世界をつくる出発点となり、愛の世界を発展させる原動力となります。しかし“利他性”という神の摂理の重要性が、多くの人々から忘れ去られています。大半の人間は、相手から与えられることだけ・愛されることだけを期待しているのです。

「優しさ幻想」がもたらす失望と孤独

優しさだけを求める人は、必然的に自分中心の希望と理想を描き、相手や周りの人々にそれを求めるようになります。こうした「優しさ幻想」「愛の幻想」は、必ず失望に終わることになります。優しさだけを求めることは、愛の摂理に反しているからです。「先に与える」「先に愛する」――これが神の摂理です。先に与える愛は“利他愛”であり、先に求める愛は“利己愛”なのです。

優しさだけを優先的に求めるということは、先に与えられること・先に愛されることだけを望むということです。そうした利己性は、「もっと優しくしてほしい、もっと愛してほしい」とエスカレートしていくことになります。しかし地球上では、自分が希望するような優しさが常に与えられるようなことはあり得ません。一方的に相手に優しさを求める姿勢は、相手の愛が少ない、自分に対する思いやりや優しさが少ないという非難の感情を湧き起こし、寂しさ・孤独の思いを大きくしていきます。そしてやがて、自分に優しさを与えてくれる別の人や集まりを求めるようになります。しかし、そうした人はどこに行っても、絶望と孤独という「愛されたい症候群」から抜け出すことはできません。

4.「優しさ幻想」「愛の錯覚」②

――優しさの安売りをする利己性・未熟性

優しさだけを与えようとすること、実はそれも“利己愛”なのです。自分が愛されたいために優しくする、相手から嫌われたくないから優しくする、これも相手から愛されたいという未熟性・利己性なのです。こうした傾向も、現代社会に蔓延しています。

麻薬のような「優しさ幻想」

――優しさだけを与えようとする親・教師・上司達

人間である以上、誰でも優しくされれば喜びます。そして優しさを与えた本人も、相手が喜ぶ様子を見て気分をよくすることになります。善人になったような気持になります。それはある種の喜びであり快感であり、それが高じていつの間にか、優しくし過ぎるという状態に陥ってしまいます。こうなると優しさは、麻薬のようなもので弊害をもたらすようになります。

都合がいいことに「優しさの安売り」をすれば、子供や生徒・部下から、話の分かる親・物分かりのいい先生と思われるようになります。うっとうしいことをせずに、しかも相手から喜ばれ、自分もよく思われます。そして自分は思いやりがあり、愛があると錯覚するようになります。優しさの安売りには、麻薬的魅力があるのです。こうした目先の魅力・快楽に誰もが簡単に惑わされ、正しい判断ができなくなってしまいます。

ご機嫌取りと“主客転倒しゅかくてんとう

やがて上の者が下の者の顔色を窺(うかが)い、相手の喜ぶことばかりをするようになります。こうしてご機嫌取りがエスカレートしていきます。それはお祖父さんやお祖母さんが、孫の言いなりになっている姿を思い浮かべれば容易に理解できるでしょう。目に入れても痛くないほどかわいい孫の要求をはねつけることは、なかなかできません。そうした“溺愛状態”では、上の立場の者は、下の者の家来のように成り下がり、“主客転倒”することになります。今やお祖父さん・お祖母さんだけでなく、父親・母親の多くが、ひたすら子供の顔色を見て迎合するようになっています。

「優しさの安売り」をする親や教師は、子供達にとっては、何でも思いどおりにさせてくれる実に都合のいい存在です。自分の好き勝手を許し、誰も反対しない家庭や学校は、子供にとってまさに楽園です。親や教師は、何でも言うことを聞いてくれる家来か召し使いのようです。子供は、もはや親や大人の言うことなど聞く耳は持たなくなります。

こうした状況は、会社のような大人同士の世界においても見られます。上司が部下の顔色を窺い、当たり前の言うべきことを言えない、最低限の注意さえできないといった有様ありさまが至るところで見られます。

「優しさの安売り」が招く人間の野獣化

優しさはあるがそれ以外は何もない、優しさが一番であとは何もないといった状態、これはまさに「優しさの安売り」です。そうした状況では、親や教師として当然の注意さえできなくなります。時には相手の不正を見て見ぬ振りをして、やり過ごそうとします。“相手を信じることが大切”などという、いかにももっともらしい言い訳をするものの、その実、相手の嫌がることを言いたくないだけであることは、自分の心が一番よく知っています。

利己的な「優しさの安売り」はエスカレートして、育児や教育は、タレント業さながらの単なる人気取り・ご機嫌取りだけの行為に成り下がってしまいます。これが現在の多くの親・教師・上司・リーダーの姿ではないでしょうか。そこには最早、まともな家庭教育・学校教育は存在しません。最低の秩序さえ維持できなくなっています。

現代社会は、「優しさの安売り」の悪しき風潮に覆われています。家庭内暴力や教育現場の荒廃の大きな原因は、こうした優しさの安売りにあるのです。相手の成長を考えた本当の思いやりは、どこにも存在しません。あるのは親や教師の“ご機嫌取り”ばかりなのです。優しさの安売りというニセの愛が「人間の心を本能化」させ、「野獣に等しいような状態」にとしめています。

優しさだけで、子供や生徒・部下が育ったためしはありません。過剰な優しさは思いやりではなく、単なる甘さであり、人間を堕落させるものです。真の思いやりとは、相手のことを考えて、嫌われるのを覚悟で厳しいことをはっきり言い、毅然と指導し、矯正することなのです。

人間として当たり前のこと(挨拶・返事・規則や時間を守るなど)さえ実行できないところで、どうして人間としての霊的成長がもたらされるでしょうか。野獣のごとく自分の本能だけを満足させようとする人間しかでき上がりません。相手のためを思うのではなく、自分が嫌な思いをしたくないために、見て見ぬ振りをする・黙認する・遠回しに言う・あるいは迎合する・好き勝手にやらせる――それでどうしてまともな人間が育つでしょうか。

「優しさの安売り」は単なる親のエゴであり、精神的な未熟さから出た行為であるにもかかわらず、世の中には優しさの安売りを、さも立派なことであるかのように思わせる理論が横行しています。その理論が時に、優しさの安売りの偽善性を隠蔽いんぺいすることになっています。

その理論とは、自由・平等のデモクラシー(民主主義的)思想であり、間違った個人主義と人権尊重思想です。“子供を信じよう、子供の意見を尊重しよう”という考えには確かに一理あります。しかし優しさのみを優先する中で、そうした方針が最終的に至るのは、子供の精神的堕落以外にはありません。

相手から嫌われたくないというだけのニセの愛情関係

親や教師は、子供に喜びを与えることで、愛と思いやり・寛容さがある人間であるかのように振る舞おうとします。愛情の深い親や教師であると見られたいし、また自らもそのように納得したいのです。

しかし実際には、“自分が嫌われることを最も恐れている”というだけのことです。子供に嫌われたくない、子供に気に入られたいと思っているだけのことなのです。そこには、子供のことより自分の感情を優先した自己中心的な愛しか存在しません。相手を駄目にする優しさは、単なるエゴであり甘やかしにすぎません。思いやりでもなければ、本当の愛でもありません。自分本位の利己愛・ニセの愛なのです。

5.真の愛情に基づく育児・教育の在り方

“真の愛情”とは、厳しさのともなったもの

本当の愛情関係は、親や教師など上に立つ者が、先に愛し与えるところから出発します。ただしその与えるものとは、「相手の霊的成長にプラスとなるもの」でなければなりません。相手の霊的成長を願う働きかけであってこそ、本当の利他愛と言えます。それは同時に、相手の成長にマイナスとなる言動に対しては厳しさを持って臨むということを意味しています。未熟な相手を教え導き引き上げることが、教育の目的であり、先に歩む者としての義務なのです。

優しさの安売り、甘いだけの接し方は、人間の精神を堕落させることになります。本当に相手のことを思うのなら、自分が嫌われても言うべきことは言わなければなりません。間違いや不正に対しては注意するのが正しい愛なのです。守らせるべき規則は何としても守らせるのが、責任ある者の当然の在り方なのです。真の愛情があるなら、相手のためを思って厳しく叱ることもできるはずです。たとえ嫌がっても注意することができるはずです。

大半の現代人は“厳しさ”が必要であることに気がついていません。戦前の教育を受けた人々は体験的に“甘さ”が人間を駄目にしてしまうことに気がついていますが、現代社会の大勢に押され、声を大にしてなかなかそれを主張できない状況に置かれています。本当の愛情・真の利他愛には、優しさと厳しさの両方の要素がともなっていなければなりません。間違った個人主義や民主主義は、厳しくすることに反対し、甘くすることだけを善とする傾向があります。

シルバーバーチは、愛の良き手本

ここで先程のシルバーバーチの言葉を、もう一度思い出してみましょう。シルバーバーチは、地上人の苦しみを本人に代わって背負ってやりたいというほどに思っていますが、そのあふれんばかりの優しい思いを抑え、敢えて地上人の霊的成長のために手を出さないようにしています。

シルバーバーチは、自分が直接手を貸して苦しみを取り除いてやったなら、どれほど地上人から喜ばれるようになるのかを知っています。しかしシルバーバーチは、自分が感謝されたりよく思われることより、地上人の真の幸福のために心を鬼にして我慢しているのです。“冷たい、愛がない”と地上人からののしられるようなことになろうとも、相手のために安易な手助けはしないようにしているのです。シルバーバーチは、「優しさの安売り」をするこの世の多くの親や教師とは全く正反対の態度をとっています。シルバーバーチの姿勢は、まさしく相手のためを思う「利他愛の見本」なのです。

この世の親や教師は、必要以上に相手の要求に応えようとしています。しかし実は、それは相手のためではなく、自分が嫌われないため、自分がよく思われるためなのです。相手を優先する利他愛ではなく、自分の利益や人気を優先する利己愛から出た行為なのです。

当たり前に必要な上下関係

「大局を知るがゆえに厳しく臨む」――ここに“真の愛”があります。相手の霊的成長を心から願う利他愛があればこそ、厳しさがともなうようになります。そうしたところでは、自動的に上下の関係は明確になります。「教える者」と「教えられる者」の立場がはっきりします。上から下へ与えることが教育の一番の基本です。「先に道を歩み大きな視野を持った者が、後に続く者や下の者を教え導く」――これが心の教育(霊性教育)の本質的な在り方なのです。

親と子供、先生と生徒、上司と部下、リーダーとメンバーの間には、こうした健全な上下関係が存在してしかるべきです。友達のような親子、対等な先生と生徒の関係は、一見民主的で平等主義のように映りますが、子供と大差のない精神的に未熟な親や、子供のような教師であっては、教育に携わることができないことは明白です。そうした関係は結果的に、精神的な荒廃を引き起こすことになります。なぜならそれは、本来の親の役目の放棄・教師の役目の放棄でしかないからです。

相手の「霊的成長」を願ってこそ“真の利他愛”

スピリチュアリズムは、人間の地上人生の目的は霊的成長にあると明言しています。霊的成長のない地上人生は無意味なのです。霊的成長こそが人間を本当の幸福に導きます。霊的成長の道を示し導くことは、“最高の利他愛”を実践することになるのです。

さて、その霊的成長の第一歩は「霊主肉従」という霊的コントロールの努力から始まります。「霊主肉従」は、霊的成長のために神が定められた法則です。神の造られた世界は「摂理(法則)」によって運行されています。私達“造られたもの”は、好むと好まざるとにかかわらず、その法則を順守しなければなりません。「霊主肉従」という神の摂理に従うには、ある種の強制・自己抑制が必要となります。自由意志を悪用し、好き勝手に振る舞うところでは、必ず「肉主霊従」の状態に堕ち、野獣と化してしまいます。

人間の上下関係の中で「厳しく指導される」という体験を通じて、人は神の摂理に合わせることを学ぶようになります。「霊的真理」の原理原則にそって指導されることは、マイナスになるのではなく、霊的存在としての最低の感性を養うことになります。これこそが、まさしく家庭教育・学校教育の目的なのです。

子供や生徒にどのように対すべきか、指導すべきかは、シルバーバーチが示してくれたように、何より「霊的成長を優先して考える」ということです。もちろん優しさも必要ですが、それ以上に霊的成長の方向性を優先しなければなりません。それは必然的に、「相手に対して厳しさをともなって臨む」ということを意味します。「肉主霊従」の中で人生を送ることがないように、必要な規律や自己コントロールを覚えさせなければなりません。そうであってこそ、子供や生徒や部下を愛したことになるのです。親や教師としての務めを果たしたことになるのです。

相手のことを真剣に思っての愛情には、優しさばかりでなく、同時に厳しさもともないます。真の愛情、すなわち“利他愛”には、厳しさがともなうものなのです。優しさだけの愛情は、単なる“利己愛・エゴ”にすぎないのです。

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