スピリチュアリズムから見たTM瞑想と伝導瞑想

ニューズレター第17号

スピリチュアリズムでは、祈りや瞑想を、とても重要なものと考えています。物質世界での忙しい歩みの中で、私達の心は自然と「肉主霊従」に陥ってしまいますが、祈りや瞑想は、下がってしまった心を強力に「霊主肉従」の状態に引き上げてくれます。祈りや瞑想を通して、私達は神からの霊的エネルギーを取り入れることができます。それによって高いレベルに心を保ち、日頃から私達を導いてくれている背後の霊達との関係を密接にすることができるようになります。こうした霊的効果があるため、高級霊は私達地上人に、一日わずかな時間でもよいから祈りの時を持つように繰り返し述べているのです。スピリチュアリズムにおける祈りや瞑想については、ニューズレター4号ですでに詳しく説明していますので、ここでは省略します。)

時々、「瞑想にはさまざまな種類がありますが、その中でどれを選んだらよいのでしょうか」という質問を受けることがあります。

それについてシルバーバーチは――「物的混沌から抜け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見い出していくべきものだからです」(『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.155)と言っています。

要するに、各自が自分に合った瞑想法を探せばよいということです。霊的意識を取り戻し、霊的意識を引き上げる効果が得られるならば、どのような方法であっても構わないということです。

さてここでは、禅(ゼン・メディテーション)と並んで、世界的によく知られている2つの瞑想法(TM瞑想と伝導瞑想)を取り上げ、スピリチュアリズムの観点から検討してみることにします。

1.TM瞑想(トランセンデンタル・メディテーション)

シンプルで効果の高い優れた瞑想法

TM瞑想は、日本語では「超越瞑想」と訳されます。これは古代インドのヒンドゥー教の聖典を、物理学者で哲学者である、マハリシ・マヘーシ・ヨーギが、現代社会に合った形で復興させたものです。TM瞑想の方法は実に簡単で、教師がヴェーダ経典の中から選んだその人向けの「マントラ(真言)」を、心の中で15~20分(1日2回)唱えるだけのことです。たったこれだけのことですが、それによってさまざまな効果がもたらされるのです。

しかもその効果は、現代科学によって確かめられています。ストレス解消や不安感の減少といった心理的効果や、新陳代謝率のアップ・不眠症からの解放・血中乳酸塩の低下・高血圧の正常化といった生理的効果が確認されています。また職場の雰囲気の改善や、従業員の仕事に対する満足度の向上といった行動面への効果も認められています。TMでは実際にこうした多くの効果がもたらされるため、現在、企業の中にはTMを導入するところが現れています。

その他、TMの評価できる点は、新興宗教のような強引な勧誘をしないということです。TMには、新興宗教的な狂信性・宗教臭さがありません。スピリチュアリズムから見たとき、TMはグループとしての在り方や瞑想効果という点で、一定の評価を下すことができます。スピリチュアリズムと共存することができる数少ない組織・グループと言えます。

誇大に宣伝され過ぎるTM効果

このようにTMについては、スピリチュアリズムの立場からも評価すべきいくつかの点があります。しかしTM独自のものとしてPRされる心理的効果や生理的効果は、何もTMだけに限られるものではありません。TM以外の多くの瞑想法においても、同様の効果が実際に確かめられています。TMでは500に上る研究調査によって、TM瞑想の独自的効果は立証済みだと言っていますが、比較研究の完全な情報が提示されているわけではないため、TMサイドの見解を、そのまま鵜呑みにすることはできません。

またTMでは、瞑想が進んだ段階で、フライング空中へのジャンピングや浮揚)という現象が起こることが知られています。かつてはこれが、TMの優秀性と独自性を示すものとしてPRされたことがありました。しかしこうした現象も、TMだけに見られる独自のものではありません。ましてやそれによって、TMの優秀性が証明されることにはなりません。

こうしたフライング現象・人体浮揚現象は、かつてのスピリチュアリズム20世紀初期の心霊科学研究の時代)にも頻繁に見られました。スピリチュアリズムの観点からすれば、これはサイキック・レベルの心霊現象の一つに過ぎません。何より重要なことは、そうしたサイキック現象を引き起こす能力は、その人物の霊的成長・霊性のレベルとは無関係であるということです。

TMの1%効果は、事実ではない

TMでは、TM瞑想の実践者が都市人口の1%を超えると、人々の精神状況に変化が生じ、社会環境が改善され、犯罪も減少することになると言っています。これを彼らは「1%効果」と呼んでいます。彼らはこの1%効果は、大規模な科学的調査結果によって証明された事実であるとしています。しかし彼らが証拠として挙げるデータは、どこまでもTMサイドで大量に製作されたものに過ぎません。事情は分かりませんが、最近ではこの1%効果は、以前ほど盛んにはPRされなくなっています。

スピリチュアリズムの観点からすれば、1%効果は明らかに誇大宣伝としか言いようがありません。あるいはTMに潜む盲信的要素が表面化したと言うべきかも知れません。地上世界は、一定の霊的レベルに至った人が「霊的真理」と出会い、それを実践に移すことによって徐々に霊的浄化が進むようになっています。すなわち真のスピリチュアリストが、一人また一人と増えることによって、「地球の霊的浄化」が進展していくのです。TMの言う1%効果は事実ではありません。

なぜTMのマントラでなければならないのか?

TMに対しては、次のような疑問もあります。なぜヴェーダ経典から選んだマントラでなければならないのか、どうしてそれを他人に口外してはならないのか、ということです。それについて納得のいく根拠が示されていません。TMでは、TMのマントラは生命の成長を育む調和的な質を持った波動であり、その人個人に合った特定の音であるからとの説明をしていますが、それではあまりにも説得力がありません。

スピリチュアリズムの観点からすれば、何もマントラでなくとも能力を引き出す方法はいくらでもあるということです。TMの言うマントラでなくとも、他の方法によって同じ効果を引き出すことができるのです。TMのマントラは、単なるサイキックの手法の一つに過ぎません。

TMの最大の問題点

――霊界と霊達の存在に対する無知

TMにおける最大の問題点は、霊界と霊達の存在について全く無知であるということです。スピリチュアリズムでは、地上世界の背後には厳然として霊界が存在していること、そして霊界から絶えず地上に向けて影響が及ぼされていることを明らかにしています。私達地上人にとって、霊界と霊達の存在は絶対的なものなのです。

しかるにTMでは、この重大な事柄についての理解・認識が、ごっそり抜け落ちています。これがTMの決定的な思想的致命傷なのです。したがってTMがどれだけ自らの正当性と優秀性を主張したとしても、片手落ちの思想・片端かたわの理論の域にとどまることになってしまうのです。

「創造神論」のスピリチュアリズムと、「汎神論」のTM

――スピリチュアリズムとの本質的な神観の違い

霊界の存在を無視するという根本的な間違いを生じさせている原因は、マハリシが根拠としている古代ヒンドゥーの教えそれ自体にあります。霊界通信に根拠を置くスピリチュアリズムと、ヒンドゥーの教え(ウパニシャッド)に基づくTMでは、「神観」において本質的な食い違いがあります。これについては先号のニューズレターでも触れましたが、もう一度取り上げることにします。

スピリチュアリズムでは、神(大霊)と人間を、「創造主」と「被造者」という関係としてとらえます。この点においては、スピリチュアリズムの神観は、ユダヤ教やキリスト教と同じ「創造神論」に立っています。神は、どこまでも宇宙の創造主であり、人間との間には明確な一線が引かれています。そして人間の霊魂は、神から生み出された分霊であり、それゆえミニチュアの神と表現されます。人間の霊魂は、永遠的な個別性を保つように造られており、しかも神と同じ要素からなる「神の子供」なのです。人間は、神から与えられた分霊を、種子の状態で内蔵させています。霊性の進化とは、その種子状態の「霊魂(ミニチュアの神)」を、努力によって少しずつ成熟させ、神に似ていくプロセスに他なりません。人間は地上生活中も死後も、進化の道をたどっていきますが、それはどこまでも「親なる神」の霊性に似ていく歩みなのです。

したがって進化の暁に、神と一体融合化し、個別性を失うというようなことはありません。分霊としての個別性は、どこまでいっても保たれるのです。古代インド思想や神智学しんちがくで言うニルバーナのような、神と融合一体化し、個性を失う世界に至ることは絶対にないのです。

古代インド思想は、こうしたスピリチュアリズムの考えとは全く異なっています。神(ブラフマン)と人間との間に、創造主と被造者という一線を引きません。神と人間の関係を「汎神論的」にとらえ、人間を神の一部であると考えるのです。宇宙はたった一つの真の現実であるブラフマンTMではこれを超越絶対存在と言ったり、永遠存在・純粋意識の存在と言っています)だけが存在するとします。自己と絶対存在(ブラフマン)との合体を完全に成し遂げることで、解脱げだつの瞬間を迎えるようになると考えます。古代インド宗教が理想として求めてきたブラフマンと合一した世界を、TMでは、第4の意識の境地・意識の最高状態・宇宙意識と言っています。そしてこれは、現代物理学で言う“統一場”と同じであると主張するのです。

瞑想中に味わう「至福意識」について

このようにスピリチュアリズムとTMでは、神観において全く異なった考え方をします。この神観の違いが、瞑想中の「至福体験」に対する見解の違いを生み出すことにもなります。深い祈りや瞑想中には、たびたび霊的なエクスタシー状態を体験することがあります。そうした状態では、自分の身体がまるで宇宙の中に溶け込んでしまうような感覚に包まれます。

TMでは、第4の意識状態(純粋意識)に近づくにつれ、至福感覚が高まると説明しますが、これはスピリチュアリズムにおける至福体験と同じことを意味しています。すなわちTMの言う「至福意識」とは、スピリチュアリズムで言う「霊的なエクスタシー体験」と同じものなのです。しかしその等しい体験を、スピリチュアリズムとTMでは、全く異なるものとして解釈します。

スピリチュアリズムでは「至福体験」を、霊的意識の拡大による神(大霊)との接近状態、神と愛において深く結ばれた状態と考えます。実はこうしたことは、肉体の影響を一切受けない霊界においては、日常的に生じていることなのです。各霊の進化のレベルに応じて意識の度合いは異なりますが、地上人ではめったに味わえない至福意識の状態を、霊界人は絶えず体験しています。

一方、TMではそうした「至福体験」を、神(ブラフマン・一者)と合一・合体した瞬間ととらえます。スピリチュアリズムとTMの見解のどちらが正しいのかは、霊界の事実と照らし合わせれば明らかです。至福意識を体験している最中にあっても、霊体が神と一つとなるという事実はありません。主観的にはまさに宇宙と一つとなり、神と一体となったかのような感覚を味わいますが、それはどこまでも主観的感覚であって、霊的な事実ではないのです。霊体という形態が消え失せ、神と融合してしまうようなことはありません。

睡眠中の体験に対する無知

またTMでは霊的世界の事実が分からないために、睡眠中の貴重な体験についても、その重要性を全く認識していません。私達は一人の例外もなく、睡眠中に霊体が肉体から離れ、霊界に赴いて死後に備えてさまざまな体験をしています。このように睡眠には、単に肉体を休める以上の大きな意味があるのです。

TMでは盛んに、睡眠とは異なる深いリラックス効果が得られると宣伝しますが、それは睡眠の持つ重要性を知らないところから発する無知な判断に過ぎません。

祈り・瞑想の目的の一つは、背後の霊との絆を強化すること

地上人は絶えず霊界の守護霊による導きを受けているという重大な事実を、TMでは全く理解することができません。実は祈りや瞑想は、こうした霊達の存在を前提としないところでは成立しないものなのです。

スピリチュアリズムにおける祈りは、神に向けて発せられます。それが魂を神に近づけ、霊界の人々とのパイプを強め、霊達がより働きかけやすい状況をつくり出すことになります。このように正しい祈りには、必ず霊界の霊達の反応がともなうようになっているのです。それによって私達地上人は、大きな導きを得られるようになるのです。スピリチュアリズムにおける祈り・瞑想は、常に背後にいる霊達の存在が前提となっています。

TMでは、霊界の人々の導きや、祈りがそのために大きな意味を持っているという事実が分かっていません。TM瞑想は、霊との係わりという祈りにおける重要な一面を、初めから捨て去ってしまっています。TM瞑想は、霊の存在を全く無視した単なるサイキックの手法に過ぎません。そうした瞑想法では、いつまでたってもサイキック・レベルを抜け出ることができず、さらに高次のスピリチュアル・レベルに至る道が完全に閉ざされてしまっています。

シルバーバーチは、霊的存在を意識しない祈りや瞑想に対して、次のように言っています――「もしも宇宙の最高神と直接の交流が持てるとすれば、指導霊のような中間的存在は無用となるでしょう。が、そんなことが出来るかのごとき言葉を耳にすると、私は“キザな霊的俗物根性”の響きを感じずにはいられません。」『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版)p.86

霊界の霊達との係わりを持たない瞑想は、本質的に片手落ちの瞑想ということなのです。

地上世界の浄化は、TMではなくスピリチュアリズムによる

1990年1月、マハリシは地上天国を実現するとの決意を表明し、具体的な活動を開始しました。そしてマハリシ・シティーという理想都市・共同体を建設することに着手しました。ストレス・公害・犯罪・騒音から解放され、暮らしの質を最高度に高めるよう設計された建物やインテリアを備えた具体的な理想世界の建設を始めました。

しかし、こうした意欲的な試みも、間違いなく失敗に終わることになるでしょう。なぜなら地上世界の浄化は、TMの瞑想人口が増えたり、理想都市の建設によって進められるものではないからです。

地上世界の浄化は、スピリチュアリズムに係わる霊達の一大組織によって進められています。霊界側からの働きかけなくして、地上人類の霊的進化はあり得ません。霊界の高級霊からもたらされた「霊的真理」を受け入れ、それを実践に移す地上人が一人また一人と増えることによって、地球はより良い惑星へと進化していくのです。今この時も、地球の霊的浄化は、霊界の霊達の計画にそって着実に進められています。地上世界は、霊界あげての地上救済の働きかけによって、今、霊的向上の道を歩むことが可能となっているのです。

以上、TM瞑想について見てきました。TMは単なる心理的・生理的効果を期待するにはとても優れた方法・手段と言えます。スピリチュアリズムの観点に照らしても評価できる内容を持っています。しかし、それを「霊的観点」から見ると、真に評価に値するものは、ほとんどないということになります。

2.伝導瞑想(トランスミッション・メディテーション)

「大救世主マイトレーヤ如来にょらい」と、ベンジャミン・クレーム

1922年生まれのイギリス人、ベンジャミン・クレームは、公表されたプロフィールによると、画家で密教学徒であり、深い知識と体験を備え、超能力を持っているとされています。彼はまた、これまでUFOや宇宙人との接触があったとも紹介されています。そのベンジャミン・クレームは、1972年の終わり頃から、「マイトレーヤ」と呼ぶ如来からのメッセージを受けることになります。

「マイトレーヤ」とは、釈迦しゃかが末法の世に現れると予言した弥勒菩薩みろくぼさつのことです。ベンジャミン・クレームによれば、このマイトレーヤは、まさに神が人類に遣わされた大救世主であり、全人類のための最大の導師なのです。世界の大宗教がこぞって予言し待ち望んできた救世主であり、仏教で言われてきた弥勒菩薩、キリスト教で言うキリスト再臨主、イスラム教のイマム・マーディー、ヒンズー教のクリシュナの再臨者と同一人物ということになります。

マイトレーヤの地上降臨

マイトレーヤは、地上の全人類を苦境から救い出し、神の啓示を授け、地上に天国を建設するために降臨するということですが、ベンジャミン・クレームは、この「マイトレーヤの降臨」について驚くようなメッセージを伝えています。

それは1977年に、すでにマイトレーヤの地上降臨が行われたと言うのです。マイトレーヤが肉体を持った一人の地上人として、地球上に存在していると言うのです。そしてその肉体を持って降臨したマイトレーヤは、現在まで、全人類の前に救世主として公に登場する時を待っていると述べています。

1982年には、ベンジャミン・クレームは、さらにマイトレーヤについての詳しい情報を伝えています。それによれば、マイトレーヤは1977年7月に、ヒマラヤの山上、5400mの光のセンターから降り、インド大陸からロンドンに入ったと言います。そして最初の拠点地を、ロンドン市内のインド・パキスタン系移民の住む貧民街に選び、そこでありふれた素朴な男として徐々に人前に姿を現していく過程を歩んでいると述べています。

その受肉化したマイトレーヤは、ベンジャミン・クレームを通じて、「可能な限り最も早い時期に、一刻の猶予も許さず私自身を顕し、世界の前に登場することが私の意図である。私をただちに発見してくれることに多くのことがかかっている」とメッセージを送っています。ベンジャミン・クレームは、そのマイトレーヤからのメッセージを踏まえて、次のように述べています。「残念ながら世界の責任あるマスコミは、いずこもロンドンへ行ってマイトレーヤ探索のための労を取ることをせず、マイトレーヤはいまだに待っておられる」と。

いまだに姿を見せないマイトレーヤ

ベンジャミン・クレームは、マスコミの怠慢によって、マイトレーヤは現在まで世界人類の前に出られないでいると非難しています。一方、ベンジャミン・クレームのメッセージを信じた人々は、マイトレーヤが世界人類の前に現れる時を、今か今かと待ち望んできました。

ベンジャミン・クレームは、これまでマイトレーヤが人々の前に現れる日時まで発表したことがありましたが、その度に、マイトレーヤの出現は空振りに終わっています。しかしその後も、彼は、マイトレーヤの登場の準備をするために選ばれた代表として、その役割を果たそうと活動しています。しかし今日この時に至っても、マイトレーヤは、出現を待ち望む人々の前にさえ、その姿を現してはいません。

マイトレーヤとベンジャミン・クレームとの特殊な通信方法

――オーバーシャドウ

ところでベンジャミン・クレームは、マイトレーヤからのメッセージを、どのようにして受信しているのでしょうか。彼は、その方法を「オーバーシャドウ」と呼んでいます。オーバーシャドウとは、意識の伝達がテレパシーによって行われることであり、マイトレーヤがベンジャミン・クレームの肉体を使ってメッセージを送ることであると説明しています。要するにオーバーシャドウとは、高度な心的テレパシーのことと考えられます。

こうした説明を聞く限り、明らかに「チャネリング」と同じものと思われますが、ベンジャミン・クレームはそれを強く否定します。彼はオーバーシャドウは、一般の霊媒現象やチャネリングとは異なるものであることを盛んに強調します。マイトレーヤはオーバーシャドウという特殊なテレパシーによって、ベンジャミン・クレームにのみ、メッセージを送っていると言うのです。

マイトレーヤの霊的エネルギーを、地上世界にもたらす手段

――「伝導瞑想」

ベンジャミン・クレームは、マイトレーヤの地上降臨に先立つ1974年に、天上界のエネルギーを地上世界に伝導する(もたらす)ためのグループを結成することにしました。そして天上界の高度なエネルギーを受け止め、変圧し、伝送する仕事に着手しました。そのエネルギーのトランスミッション(変換伝導)の手法として彼が示したのが、「伝導瞑想」だったのです。

伝導瞑想は、マイトレーヤが神から受けたエネルギーを、地上人類に配布する手段であり、それに係わる者は、光の通路(チャンネル)として全人類に対して奉仕をすることになるとされます。伝導瞑想は、それ自体が世界への奉仕という利他的な行為になっていると言うのです。

ベンジャミン・クレームの伝導瞑想だけは特殊

ベンジャミン・クレームの発言の中には、注目すべき内容があります。それは彼が出席する伝導瞑想においてのみ、マイトレーヤのエネルギーのオーバーシャドウが起こるということです。これは別の言い方をすれば、ベンジャミン・クレームが出席していない伝導瞑想の集まりでは、マイトレーヤの直接的なエネルギーのオーバーシャドウは生じないということになります。

ベンジャミン・クレームが加わるときのみ、グループ全体がマイトレーヤのエネルギーによってオーバーシャドウされることになり、それによって参加者の霊的成長が助長され、それ以後は、各人のエネルギー伝導能力が高まると言うのです。したがってベンジャミン・クレームが、世界各地で伝導瞑想の集いを持つことにより、それにたずさわる人々の霊的成長が促され、世界人類がいっそう向上するということになります。

以上、マイトレーヤとベンジャミン・クレーム、並びに伝導瞑想について述べてきました。次にこれらを、スピリチュアリズムの観点から検討していくことにします。

伝導瞑想の本質は「再臨運動」

ベンジャミン・クレームが一貫して係わってきたのは、マイトレーヤの降臨です。彼がこれまで語ってきた内容は、一言で言えば「再臨思想」であり、その活動は「再臨運動」ということになります。伝導瞑想として知られている瞑想法の本質は、この再臨運動の一環に他なりません。

さてこの再臨思想ですが、これには2つの異なる立場(考え方)があります。一つは、「肉体再臨説」で、キリストが肉体を持って再臨する、すなわち地上人として生まれるとする見解です。もう一つが、肉体を持たない形でキリストが再臨するというもので、「霊的再臨説」と言います。ベンジャミン・クレームは明確な「肉体再臨説」を唱え、しかもその内容は、キリストはすでに地球上で生活しているという、きわめて具体性をともなったものとなっています。

スピリチュアリズムでは「霊的再臨説」を主張します。ただし、イエス本人が降臨するという一般的な霊的再臨説とは根本的な部分で異なっています。イエスの再臨とは――「イエスの霊的影響力の地上への再出現」のことであり、これが取りも直さず「再臨のイエス」という言葉の真意であるとしています。スピリチュアリズムとは、イエスの霊的影響力を地上世界にもたらすために展開されている手段なのです。

したがって「スピリチュアリズム」こそが、人類が長い間待ち望んできたイエスの再臨の実態ということになります。20世紀以降、地球上においてこうした再臨思想が盛んに話題に上るようになったのは、霊界において、イエスを頂点とする地上救済の大プロジェクトが活発に進められてきたからなのです。

「肉体再臨説」の間違い

肉体再臨説は、霊的影響力の到来を、イエス自身が肉体を持って再び地上に現れると錯覚したものです。なかにはイエス本人が、手足をクギで打ち抜かれた傷痕きずあとのある肉体を持って地上に現れるといったことを、まともに信じている人々もいます。またイエスと同一人物ではないにせよ、キリストとしての使命を持った人物が、再臨のメシアとして地上に生まれると唱える一派もあります。

結論を言えば、どのような形であれ、キリストが肉体を持って再び出現することは決してありません。もちろんベンジャミン・クレームが言うような、キリスト・マイトレーヤが肉体を持って地上に出現するというようなこともありません。

キリストが地上に再臨するという点については、スピリチュアリズムとベンジャミン・クレームは同様です。ただしその具体的な内容となると、両者では全く異なっているのです。

どれだけ待っても、マイトレーヤは現れない

「肉体再臨説」が事実でない以上、今後、ベンジャミン・クレームやその信奉者達が、どれほど肉体を持ったキリスト・マイトレーヤとの対面を待ち望んでも、それが実現することはありません。彼はいまだに、本当に心の底からキリスト・マイトレーヤの出現を事実だと信じているのでしょうか?

もしかしたらベンジャミン・クレーム自身は、自分の言ったことの間違いに、すでに気づいているかも知れません。25年前に宣言した「マイトレーヤ降臨」のメッセージの誤りを自覚し、その大きな勘違いに不安を感じているかも知れません。あるいはかつて受けたメッセージが偽物であったことに気がついたものの、後に引けずに、あれこれと姑息な策をめぐらしているのかも知れません。

チャネラーとしての未熟性か、意図的なうその塗り固めか

ベンジャミン・クレームが「肉体再臨説」を唱えるという決定的な間違いを犯してしまった理由として、彼がチャネラーとして未熟であったことが考えられます。霊界からの象徴的メッセージの意味を取り違えたのか、あるいは低級霊からの通信を見抜くことができずに、それをまともに受け入れてしまった可能性が考えられます。

理由は何であれ、こうした人々を惑わすことになる重大な間違いは、ベンジャミン・クレーム自身が訂正しなければなりません。地上に生きている間に、勇気を持って自分の間違いを撤回しなければなりません。さもないと霊界において事の真相が明らかになったとき、身の置き場がないようなことになってしまいます。これはニューズレターで以前にも取り上げた、新新宗教の教祖達にも同様に言えることです。

しかしベンジャミン・クレームの行動を見る限り、今も架空の使命にしがみつき、嘘を嘘で塗り固め、さらに事実から外れた方向に走り続けています。間違いを訂正するどころか、ますます霊的事実から懸け離れた方向に人々を導いていこうとしているように見受けられます。

伝導瞑想の独断性

――霊的な根拠のない伝導瞑想

ベンジャミン・クレームは、自分達に人類最高の奉仕の道として伝導瞑想が示されたと言っています。伝導瞑想は、神から与えられる霊的エネルギーを、地上世界に伝えるための手段としての瞑想方法であり、高度な源であるハイアラキーと、低い源である人類を結ぶ橋であるとも述べています。

伝導瞑想は、個人の霊的成長のために行うことを目的としたものではなく、あくまでもグループとしての集団奉仕の一形態であると言います。伝導瞑想に参加することは、霊界と地上のつなぎ役を果たすことであり、それ自体が奉仕となり、信仰実践とみなされています。したがって長時間にわたって伝導瞑想することは、それだけ多く人類に奉仕することになり、信仰が深いということになります。そのため信奉者達には、何時間もの伝導瞑想が当然のこととして要求されるのです。

ベンジャミン・クレームは、その正当性を、ヨーガや神智学しんちがく・心霊学の知識を駆使して語り、また彼自身が勝手につくり上げた独断的見解によって主張しています。その結果、程度の悪い新新宗教の教祖達と同レベルに堕ちてしまっています。彼は伝導瞑想というグループの奉仕活動に加わることによって、地上人類に最高の貢献ができると言っています。それと同時に、個人的には、普通の努力の10~20年分の霊的成長が1年で可能になるなどと、霊的事実に照らしたとき何の根拠もないことを平気で言っています。

スピリチュアリズムにおける祈り・瞑想は、日常生活で失われていた霊的意識を取り戻すための実践です。さらには霊的エネルギーを取り入れることによって霊的意識をアップさせるための一つの手段なのです。その結果として、霊界の人々との結束を強め、利他愛実践・奉仕のための援助を得られるようになるのです。スピリチュアリズムにおける祈り・瞑想は、どこまでも利他愛実践のための手段・下準備の行為であるということなのです。瞑想それ自体が、人類への奉仕の代用となったり、信仰の目的そのものになるということはないのです。

“洗脳”の手段となっている伝導瞑想

自分達だけが世界人類を救えるのだと思い込み、情熱をかき立てて邁進していく姿は、多くの宗教特に新興宗教や新新宗教)に共通して見られます。そこでは狂信的な使命感を植え付けることが、常套手段となっています。一人一人の信者は皆、善人であり純粋に人々のために尽くしたいという誠実な思いを持っています。しかしその善良さが逆に、いつの間にか自分を、一人の人間のカリスマ形成に加担させることになってしまいます。そして教祖に対する狂信者にすり変わってしまうのです。

スピリチュアリズムは――「地上のどのような人物も崇拝の対象としてはならない、たとえそれが霊的存在であっても……」と教えています。

伝導瞑想における大きな問題点は、瞑想という本来ならば各自の霊性進化のための手段が、ベンジャミン・クレームという一人の人間をカリスマ化するための道具となっている、ということです。ベンジャミン・クレームは明らかに、霊的事実に対する背信行為と、人々に対する詐欺さぎ的行為を行っています。伝導瞑想は、霊界からの指示によるものではなく、ベンジャミン・クレーム個人が意図的につくり上げた人工的手段としか考えられません。

ベンジャミン・クレームは、自分が参加する伝導瞑想においてのみ、マイトレーヤとのオーバーシャドウが起こると言っています。それ以外では決して起こらないと断言しています。オーバーシャドウとは、マイトレーヤのエネルギーがベンジャミン・クレームを覆う状態になることです。したがってベンジャミン・クレームが参加する伝導瞑想においてのみ、参加者はマイトレーヤの霊的エネルギーを直接受けることができるということになります。

これは結論を言えば、ベンジャミン・クレームを無条件に「霊的カリスマ」とすること以外の何ものでもありません。霊的エネルギーを一人の人間が独り占めするようなことができるはずがありません。ここまでくると伝導瞑想は、相手の霊的無知に付け込んで“洗脳”する、この世の偽宗教と全く変わりないことになってしまいます。

エネルギー放射の写真は、単なるサイキック現象

伝導瞑想では、ベンジャミン・クレームがマイトレーヤによってオーバーシャドウされた時の、エネルギー放射の写真が公表されています。しかしその写真は、何も彼らの言っているようなオーバーシャドウが現実に生じていることを証明するものではありません。程度の悪い新新宗教の教祖が講演している時にも、この種の写真はよく撮られます。

狂信者の集会では、神経の興奮状態がピークに至ると、それによって引き出された莫大なエネルギーが、さまざまな異常なサイキック現象や心霊現象を引き起こします。敏感な参加者はヒステリック状態になったり、泣き叫んだり半狂乱になったりします。また時には異言などの心霊現象が生じることもあります。それをある人は、神の霊・聖霊に包まれたと錯覚します。普段は霊的に鈍感な人でも、こうした集会に参加すると異様な雰囲気に巻き込まれ、ある種のサイキック的な感覚を味わうことになります。一時的にオーラを見るようなことも起こってきます。教祖のまばゆいばかりのオーラが見えたと言う人も現れます。

狂信が異常なエネルギーを生み出し、これがさらに霊界の低級霊の結集を促すことになります。そうなれば洗脳は、いとも簡単に進んでいくことになります。普段では体験したこともないような経験をするからです。そうしたサイキック・エネルギーが異常に高まった状況下では、エネルギーが念写によって写し出されるようなことも起こります。オーバーシャドウ時に撮られたエネルギー放射の写真が、もしトリックでないとしたなら、まさにこれと同じものと考えるべきなのです。

ベンジャミン・クレームの正当性を認める高級霊はいない

ベンジャミン・クレームが自ら言うような、彼のみに与えられている特殊な霊的立場というようなものは事実ではありません。彼を通じなければ、マイトレーヤとの霊的一体化がなされないという霊的事実もありません。霊界の高級霊に質問してみれば、その間違いは明白です。霊的事実と根本的に食い違っている伝導瞑想の正当性を、認める霊は一人もいないはずです。

ベンジャミン・クレームの発言については、細部にわたって批判すべき点が多々ありますが、要は伝導瞑想が本物の瞑想ではないこと、ベンジャミン・クレームという一人の人間によってつくり出された人工的な手段に過ぎないことを理解しておくだけで十分です。伝導瞑想は、ベンジャミン・クレームの言うような霊的エネルギーを地上にもたらす特別な手段ではありません。またオーバーシャドウという特別なコミュニケーションの手法も存在しません。もしこれに類するような現象が実際にあるとするなら、それは誰もが体験することができる、ごくありふれた霊との交わりであったり、守護霊を通じての神との触れ合いに他なりません。

繰り返しますが、霊界のどこを探しても、ベンジャミン・クレームの言説を認める霊は存在しないということです。こうしたことがあるためベンジャミン・クレームは、メンバーが霊界からの通信を受けることを躍起になって否定しようとしているのでしょう。霊界からのメッセージを受け取ることができる人間が彼以外にいては、都合が悪いからです。彼のこれまでなしてきた不正な行為や作り話の数々は、霊界では、すべて白日の下にさらされることになります。今はベンジャミン・クレームを信じている人々も、霊界に行った時には、その間違いをはっきりと理解することになるはずです。

スピリチュアリズムは、霊的事実を地上人類に明らかにするために、霊界の高級霊の綿密な計画によって進められてきました。そこには、人類がこれまで明確に知ることができなかった「霊的真理」がはっきりと示されています。これまで伝導瞑想を実践してきた方達には、ぜひじっくりとシルバーバーチに代表される「霊界通信」に目を通していただきたいと思います。霊界から届けられた生の情報を、ベンジャミン・クレームが語った内容と比較していただきたいと思います。

幸いなことに、スピリチュアリズムと伝導瞑想には共通性が多く、同じ土俵の上で比較することができるようになっています。「霊訓」を読めば、伝導瞑想とスピリチュアリズムとの違いを容易に理解されるはずです。どちらの言い分が正しいのか、どちらが神によって与えられた理性の批判に耐えられるのか、じっくり検討してくださることを願っています。

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