スピリチュアリズムによって初めて明らかにされた“真実のイエス像”

――スピリチュアリズムが教えるイエスの真相ー2

ニューズレター第45号

先回のニューズレター44号では、スピリチュアリズムが教えるイエスの真相の前半を述べました。今回はその後半です。スピリチュアリズムは、これまで人類が知ることのなかったイエスに関する奥義おうぎを明らかにしています。現在、最高責任者として地球人類救済活動を進めているイエスの真実の姿を初めて知ることができるようになったのです。

【4】イエスについての真実〈2〉

――イエスは人類史上、最高の霊性の持ち主である

イエスは私たちと同じ人間であり、神によって等しく分霊を与えられた神の子供の一人にすぎません。したがって地上時代のイエスに出会った人は、そこにごく普通のありふれた人間を見たはずです。もしイエスが、誰もが認識できるような特別な神々こうごうしさや光輝に包まれていたなら、十字架処刑によって殺害されるようなことはなかったはずです。

ではイエスは、私たちと何もかも同じかといえば、実は霊的次元においては決定的な違いがあるのです。結論を言うなら――「イエスは地球人類史上、最高の霊性の持ち主であり、最も高い霊的成長度に至った人間であった」ということです。「霊性」という内面の世界では、イエスは他の一般人とは懸け離れたレベルにいたのです。そして現在も霊界において、地球出身の霊の中で最も高い霊的立場に位置しています。

1.イエスは人類史上、最高レベルの霊性の持ち主

人類史上、最高の霊性の発現

すべての人間は神の分霊(ミニチュアの神)を内在させているため、誰もが神性(霊性)を宿しています。その神性をより多く発現していくプロセスが「霊的成長」に他なりません。人間は皆、同じ「神の子供」として平等に創造され、神から等しく愛されていますが、霊的成長度においては一人一人異なっています。霊的成長のプロセスを通して神性を多く発現している人と、いつまでも成長できずに神性をほとんど発現していない人間がいるのです。

霊界は、この霊性レベル(霊的成長度)によって住み分けがなされている世界です。神性を多く発現している人、すなわち霊的成長度の優れた人間はより高い界層に住むことになり、霊的成長度の劣った人間はそれに見合った低い界層に住むことになります。

こうした「神性(霊性)の発現」と「霊的成長」という観点から見ると、イエスは並外れて高いレベルに至った人間でした。一般人とは懸け離れた霊性の持ち主だったのです。その意味でイエスは人類史上、最高の人物と言うことができます。イエスは私たちと同じ一個の人間でしたが、一般の人間よりもはるかに多く大霊(神)の御心を体現した人物だったのです。

「人類史上でイエスほど霊性が多く発現した人物はいませんし、その発現の次元がイエスほど高度だった人物もいません。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.161

「人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け、同時に人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受けるに相応しい霊はいない。イエスほど人類に祝福をもたらした霊はいない。要するに、イエスほど神のために働いた霊はいないということである。」

『霊訓(完訳・上)』(スピリチュアリズム普及会)p.147

『霊訓』については翻訳原文の文体・表現を改めています。

物質的制約・時代的制約を受けざるをえなかったイエス

イエスは地球人類史上、最高の霊性の持ち主として登場しました。しかしそうした優れた霊性の持ち主であっても、いったん肉体を携え地球の人間となった以上は、物質世界の制約と時代的制約をまぬがれることはできなくなります。イエスはさまざまな制約を受ける中で、自らの使命を果たすために全力を傾けて地上人生を駆け抜けたのです。

シルバーバーチは、その辺りの事情を次のように述べています。

「イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それはありえないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるをえなかったからです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.266

「地上時代に顕現した意識は、必然的にその時代のレベルに同調させられました。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.161

2.イエスの受肉に関する重大な霊的背景

高級天使の受肉(人間化)

イエスが他の人間と格違いの霊性の持ち主であったのは、宇宙の秘密ともいうべきイエスの特殊な霊的背景によるものです。それは地上に誕生する以前、イエスは霊界で高級天使として存在していたということです。天使は霊界で誕生し、一度も物質世界で生活したことのない純粋な霊的存在です。その天使が人間として誕生するというようなことは、一般の人々にはとても信じられません。

しかし長い人類史上においては、ごくまれにですが実際に奇跡のような出来事が起こっているのです。スピリチュアリズムでは、こうした出来事については、現時点の地球人類の霊性レベルではまだ十分に理解の及ばない問題であるとして、ほとんど言及していません。その真相は秘密のベールに包まれたままですが、遠い将来にはこうした奥義について、地球人類に実態が明かされるようになることでしょう。

いずれにしてもイエスの誕生は、そうしためったにないケースの一つであったということです。霊界の高級天使が、地上の肉の親を介して「人間の子供」として誕生することになりました。高級天使が人間の肉体から生まれることによって、天使から人間へと生まれ変わることになったのです。したがってイエスは、地上に誕生する以前から、非常に高い霊性レベルに至っていたということになります。

霊界の高級霊たちは、しばしば地上人類の霊性啓発という使命を携えて地上に再生しますが、イエスの場合は、そうした高級霊たちとは比較にならないほど高い霊性レベルを備えていたのです。イエスは、高級天使が人間の肉体をまとって(受肉して)地上に誕生した存在です。この事実は、スピリチュアリズムによって初めて地上人類に明かされた最大の奥義です。イエスの霊性の高さは、こうした生まれる前の霊的背景に由来します。

シルバーバーチはイエスの霊性について、次のようにずばりと述べています。

「イエスは私たちの世界(霊界)においても今、私の知るかぎりでの最高の霊格を備えた霊であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.270

イエスの受肉の目的は、人類の霊性進化を促すこと

特別に高い霊性を持った高級天使が受肉して地上人となったのは、地球人類の霊性進化を促すためでした。イエスの受肉の一番の目的は、その一点に言い尽くされます。

神の造られた世界は、霊界・物質界(宇宙)を問わず、摂理によって全体が絶え間のない進化向上のプロセスを歩むようになっています。霊界・宇宙のすべての存在が、お互いの進化を促し、お互いの進化のために協力し合い、全体として進化向上の道をたどるようになっています。それが神の造られた摂理の運行であり、摂理の働きに他なりません。

そうした壮大な全霊界レベル・全宇宙レベルでの摂理の営みの中で、天使が地球という物質界に受肉降臨し、地球人類の霊性進化を助けることになったのです。イエスは人類の霊性進化のために受肉し、人間として人類の霊性進化のために歩み始めることになりました。人間となった天使イエスは、物質的法則・肉体的法則に支配される中で、地球人類の運命を自らのものとして歩むことになったのです。

そうした大きな霊的流れを、シルバーバーチは次のように述べています。

「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の預言者ないし霊的指導者の系譜の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.262

「地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.266

「人類史上でイエスほど霊性が多く発現した人物はいませんし、その発現の次元がイエスほど高度だった人物もいません。(この2千年の間で)後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界がたまわった最大級のものです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.161

3.イエスの地上時代の霊的背後関係と、肉体の非凡さ

生前のイエスの霊的背景

イエスの公生涯(伝道に携わった期間)は、わずか3年と数ヶ月でした。それまでの30年間は、伝道のための準備期間でした。その間、イエスはずっと霊界の天使の一団から指示と指導を受けていました。常に霊界と連絡を取り合っていたのです。そうしたイエスにとって肉体という物質の道具は、霊界との交わりの障害にはなりませんでした。

地上救済のために霊界から遣わされる霊のほとんどが、肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断しゃだんされるようになります。しかし、イエスは例外でした。その肉体の純粋さゆえに、ほとんど霊的感覚を鈍らせることなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることができていました。天使たちの生活に通じ、地上に誕生する以前の彼らの中における自分の位置まで記憶していたのです。イエスは長時間にわたる入神も苦になりませんでした。

イエスの肉体の非凡さ

イエスは、肉体によって束縛されることがほとんどありませんでした。外見上は一般の人々と何も違いはありませんでしたが、霊的次元においては全く違っていました。

地上人類の救済のために霊界から遣わされた霊は、何もイエス一人とは限りません。こうした霊たち(地上へ再生した高級霊)一人一人の肉体の状況は、それぞれ異なっています。俗性や官能性を多分に備えた肉体もあれば、霊的に浄化された肉体もあります。

そうした中にあってイエスの肉体は、ずば抜けて洗練され純化されていました。そのため先に述べたように肉体を持ちながらも霊的感性を曇らせることなく、霊界の天使や霊たちと自由に交流することが可能となったのです。

【5】イエスについての真実〈3〉

――イエスはスピリチュアリズムの中心者で、地球人類救済活動の総責任者である

1.イエスの使命

イエスの使命は、人類の霊性進化を促すこと

高級天使イエスの受肉は、地球人類の霊性進化を促すという「神の摂理」の働きにそって行われたものです。受肉前の天使イエスは、霊界において具体的にどのような役割を担っていたのでしょうか?――それについてはこれまでのところ一切明らかにされていませんが、人類の霊性進化に関わりのある任務についていたことは確かだと思われます。

イエスは2千年前に、地球人類の霊性進化を促すために、地球上に誕生しました。イエスの誕生は、地球人類史上、最大の出来事でした。先に引用しましたが、シルバーバーチは次のように述べています――ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の預言者ないし霊的指導者の系譜の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした」(『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.262)。

このシルバーバーチの言葉は、神の摂理による人類の霊性進化のプロセスの中で、イエスの降臨が行われたことを示しています。「霊的無知」によって物質中心主義と利己主義が発生し、地球上に悲劇が蔓延するようになり、地球は暗黒の惑星世界となってしまいました。そして地球人類は、せっかくの霊的成長のチャンスを生かすことができなくなってしまいました。こうした地球上の環境を改善するために、イエスは地球人として受肉したのです。

人類の霊性進化を促すという使命のもとに地上に降臨したイエスですが、地球人類の立場からすれば「イエスは全人類を救済するために登場した人物」ということになります。この意味で、イエスはまさに地球人類史上、最大のメシア(キリスト・救世主)と言えるのです。

「人類の救済」という点については、これまでさまざまな宗教において異なる解釈がなされてきました。いずれの宗教・宗派も、自分たちの教祖と宗教こそが真に「人類救済の使命」を担っていると主張します。その代表がキリスト教であり、“原罪”によって死を招くようになった人類は、イエスを信じることで復活にあずかり救われるようになる、と説いてきました。

言うまでもなく、そうしたキリスト教の救済観は間違っています。

救世主としてのイエスの本当の使命とは?

地球人類は「霊的無知」から暗黒の世界をつくり上げ苦しむことになってしまいましたが、そうした人類が苦しみから解放され救われるには、何よりも霊的無知という根本原因を解決しなければなりません。イエスの使命は、まさに霊的無知を解決するための基本的な「霊的真理」をもたらすことだったのです。

イエスは、原罪を消滅させ、人類の罪をあがなうために地上に誕生したのではありません。

「イエスには使命がありました。それは当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫がれきの下敷きとなっていた基本的な霊的真理のいくつかを掘り起こすことでした。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.263

「イエス・キリストの指揮のもとに新しい福音を地上にもたらすことが、我々の使命なのである。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.175

イエスは、現在のスピリチュアリズムと全く同じことをしようとしたのです。「霊的真理」を広めることで地球人類の霊的無知を解決し、人間の霊的成長を促そうとしたのです。

キリスト教が説いてきたような“贖罪しょくざい”による救いをもたらすことがイエスの使命ではありません。贖罪による救済という偽りの教えができ上がることなど、イエスにとっては全く予想外のことでした。“イエスを信じることによって救われる”というような教えは、イエス自身が真っ先に否定しているのです。

「イエスには使命がありました。それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.101~102

「キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。その生涯の大事業は、人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面をぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手から救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によりて人間を解放することであった。イエスは次のように述べている――“私は真理を教えようとしているのです。その真理こそ魂の束縛を解いてくれるのです。そのとき真の意味であなた方は自由の身となるのです”(ヨハネ8章・32節)。

キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神についての進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図する真の目的、すなわち人類の改革を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。

(中略)イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活においての霊性の道徳的向上の必要性を説いたのである。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.25~26

“キリスト”という呼称について

地球人類史上、イエスは最高・最大の救世主として誕生しました。キリスト教ではイエスをキリスト(救い主)と見なし、イエス・キリストと呼びますが、キリスト教が考える救いの内容・救済の意味は、スピリチュアリズムとは全く違っています。そのためシルバーバーチは、キリスト教の説く救いの内容と一線を画するために、イエス・キリストと呼ぶことを避けています。そしてその代わりに「ナザレ人イエス」、あるいは単に「ナザレ人」と呼んでいます。他の高級霊の場合には、イエス・キリストといった呼び方をすることもありますが、その際、彼らが意味している“キリスト”の内容は、キリスト教とは異なるものであることを知っておかなければなりません。

シルバーバーチがキリストという表現を用いずに「ナザレ人イエス」と言うところに、他の高級霊にはない深い配慮と知性と霊性がうかがえます。私たちもシルバーバーチにならって、「ナザレ人イエス」と呼ぶのが一番ふさわしいように思われます。もしイエスを“キリスト”と呼ぶとするなら、その救いの意味する内容はキリスト教とはまるで別ものであり、「人類に霊的真理をもたらし、霊的無知から解放すること」であることを、しっかりと自覚していなければなりません。

“イエス”という名前は、当時のユダヤ人の間では、ヤコブ、ヨハネ、ユダと同じように、ごくありふれた名前でした。ユダヤ人が20~30人集まれば、その中には必ず一人は含まれているというような名前だったのです。そのためシルバーバーチはイエスと言わずに、「ナザレ人(あのナザレ地方にいた歴史的な男)」と呼んだのです。

2.イエスの十字架処刑と、イエスの死後の進化

イエスの十字架処刑と使命達成の関係

――イエスの十字架上の死は、神の予定だったのか?

イエスの純粋さと善に対する潔癖性は、当時の人々に後ろめたさと悔恨かいこんの思いを抱かせることになりました。妥協を許さない真摯な態度は、嫉妬心を湧き上がらせることになりました。イエスの説く教えはあまりにも厳しくて、一般民衆にはついていけませんでした。その生活上の戒律は霊的に過ぎて、放縦と安逸と快楽を求める時代にはそぐわなかったのです。言い換えれば、そうした高度な教えを受け入れる用意のない時代が、イエスを十字架にかけることになったのです。

当時の人間の霊的無知と利己性・悪性が、イエスという聖なる人間の生涯を、その半ばにしてこの世から抹殺まっさつすることになりました。キリスト教では、「イエスは地上人類の犠牲となるために降誕し、神の予定に従って十字架にかかって死んだ」と言いますが、それは真実ではありません。イエスは予想外の出来事によって、人生の途中で死を迎えることになったのです。30年にわたる長い準備期間を経て、やっと使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬り去ることは、神の目的と予定の中にはありませんでした。それはどこまでも霊的に無知で愚かな地上人のなせる行為であり、邪悪にして憎むべき、いまわしい出来事であったのです。

イエスは、十字架処刑によって死ぬという目的を持って降臨したのではありません。もしイエスが十字架にかからずに地上生活を全うしていれば、人類がいかに大きな恩恵をこうむることになったのかは計り知れません。しかしイエスの降臨は、当時の人間にとっては時期尚早でした。その時代の人々の霊性は、イエスがもたらそうとした「霊的真理」を受け入れることを拒絶してしまったのです。霊的真理を受け入れるには、それにふさわしい時期という条件一定の霊性レベルに達していること)が大前提となります。霊的に未熟な人々は、真理を受け入れるどころか反対に嫉妬によってイエスを殺害することになってしまいました。

こうした意味において、イエスの地上人生は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終わってしまいました。そしてそのやり残した使命遂行のために、イエスは霊界に入ってからも引き続き人類救済の大事業に携わることになったのです。

死後におけるイエスの霊界での様子

イエスのような霊的に傑出した人物であっても、物質界においては、意識は必然的にその時代のレベルに同調させられることになりました。

とは言っても人類史上、イエスほど霊性を多く発現し、その霊性が誰よりも高度だった人間はいませんでした。ここ2千年の間において、イエスほど高い意識を物質界で顕現した人物は、後にも先にもいないのです。これまで地球上にはたくさんの霊能者や教祖が存在しましたが、そのいずれもがイエスの足元に遠く及びませんでした。イエスによる大霊の顕現は、地上世界において最大級のものでした。

イエスは、十字架にかけられて霊界に入った後、肉体という物質の束縛から解放されて純粋な霊的存在となりました。そして地上に降臨する前の、かつての高い霊的意識をすばやく取り戻しました。その後、イエスは霊界において霊性を飛躍的に進化向上させ、地上時代とは比較にならないほど意識の次元を高めることになりました。イエス自身もこの2千年の間に、大きく霊性進化の道をたどってきたのです。

「その後、その(イエスの)霊格は飛躍的に進化を遂げ、地上時代とは比較にならないほど意識の次元が高くなっております。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.161

3.イエスはスピリチュアリズムの主宰者

――イエスは霊界からスピリチュアリズム運動を指導

スピリチュアリズムの主宰者・総責任者

イエスは2千年前に地上人として受肉し、地上でなすべき使命を果たそうとしましたが、若くして十字架にかけられてしまいました。地上で十分に霊的真理を説くことができなかったイエスは、霊界に行ってからも引き続き、地上で始めた仕事に携わることになりました。「霊的真理をもたらして人類を霊的無知から解放し、霊性進化を促す」という使命に立って今日まで働いているのです。

その間、キリスト教の間違った教えは世界中に広まり、イエスの名のもとに数々の残虐ざんぎゃく行為が行われてきました。イエスは霊界に入ってから、何度も霊的な十字架にかけられることになったのです。シルバーバーチは、地上で行われているキリスト教の非道な行為を見て、イエスが幾度も涙を流したと述べています。

イエスは地球人類の救いを自らの使命として、全責任を持って臨んできました。自分が2千年前に開始した人類救済の使命を成就するために“スピリチュアリズム”という大プロジェクトを計画し、霊界人を総動員して準備を進めてきたのです。イエスによる人類救済の大事業は、地上におけるわずか3年間の公生涯から始まりました。そしてその後、2千年の期間を経て霊界での準備が整い、19世紀半ばから地上世界に向けての具体的な働きかけが開始されることになりました。スピリチュアリズムは、イエスが地上で手がけた人類救済計画の延長上にある一大事業なのです。

「イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直々の激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手がけた仕事の延長ともいうべきこの(スピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当たっておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.104

高級霊界における大審議会の開催

地球という物質世界とそれを取り囲むように存在する広大な地球圏霊界で、今、人類史上最大のプロジェクトが進行しています。言うまでもなくそのプロジェクトとは、スピリチュアリズムによる人類救済活動のことです。スピリチュアリズムという大計画が、高級霊界において開かれる年に2回の“大審議会”によって進められていること、その審議会を指揮し指導しているのがイエスであることを知る地上人はほとんどいません。

年に2回の大審議会に参加が許されるのは、スピリチュアリズムのために指導的立場で貢献している高級霊に限られます。シルバーバーチもインペレーターも、その審議会に定期的に参加している高級指導霊なのです。審議会においてイエスと対面するときの様子を、シルバーバーチは次のように感動的に述べています。

「その大審議会を主宰される、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物が、私たちの業績に逐一ちくいち通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的を持って邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。もとよりそれは、キリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない霊を通して人類に働きかけておられる一個の偉大なる霊なのです。」

『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.244~245

スピリチュアリズムこそが「イエスの再臨」の実態

地球人類救済にかけるイエスの意志と決意は、“スピリチュアリズム”という全霊界を挙げての大プロジェクトとして展開することになりました。何十、何百億という高級霊が総力を結集して、一糸乱れぬ組織体制で使命を遂行しています。シルバーバーチは――「今後は、イエスのような霊的巨人が登場することはないし、その必要性もない」と述べています。イエスの意志を反映して忠実に計画を推し進める体制ができた以上、イエスが個人的に地上に降臨する必要はありません。

キリスト教徒が2千年の間、待ちがれてきたイエスの再臨とは、19世紀に登場した“スピリチュアリズム運動”のことに他なりません。これについては後で詳しく取り上げます。)

【6】イエスについての真実〈4〉

――イエスは人類史上、最高の霊能者である

1.バイブルの中のイエスの奇跡

バイブルに記されたイエスの奇跡

バイブルの中には、イエスが起こした数々の奇跡の記述があります。これまでイエスの奇跡をめぐって、さまざまな議論がなされてきました。ある者は、バイブルに記された奇跡は全くの作り話にすぎないと決めつけました。一方、多くのクリスチャンは、神の一人子であり神であったイエスであればこそ、そうした奇跡が可能になったと考えてきました。

もしバイブルの中に記された奇跡が事実であるとするなら、イエスは文句なしに人類史上、最高の霊能者・超能力者ということになります。

イエスと同様の奇跡が、近代心霊研究の中でも再現

バイブルには、後世の人間によって捏造ねつぞうされた内容が、かなり付け加えられています。したがって奇跡の記述も、イエスを神格化するためにつくり出された可能性があると考えても当然です。現に多くの人々が、イエスの奇跡などもともと存在しなかった、と主張しています。

しかしスピリチュアリズムでは、イエスは生前、間違いなく素晴らしい奇跡を引き起こした、と断言します。バイブルの記述の中には確かに作り話もありますが、それと同時に正真正銘の奇跡の事実もあるとしているのです。

では、なぜスピリチュアリズムでは、バイブル中のイエスの奇跡を真実であると判断できるのでしょうか。それはスピリチュアリズム初期(19世紀後半~20世紀初期)における心霊現象の頻出ひんしゅつと、その現象に対する当時の科学者たちの徹底した研究の成果があるからなのです。スピリチュアリズム初期には多くの霊能者が現れ、驚くような心霊現象が次々と現出されました。そうした心霊現象は、まさにバイブルに記されたイエスの奇跡を思い起こさせるものでした。

心霊現象に対する実験検証が、疑いを抱いた科学者たちによって始められることになりました。そして研究が進む中で、初めは懐疑的であった科学者も、驚異的な心霊現象をのあたりにして、例外なくその存在を認めるようになっていきました。科学理論で説明できない心霊現象など、科学者としては信じたくなかったのですが、実際の心霊現象を前にして、その事実を受け入れざるをえなくなったのです。

こうした近代心霊研究の成果を踏まえるなら、イエスも当時、これと同様の心霊現象(奇跡)を起こしていたことが理解できるようになります。イエスが起こしたのと同じような心霊現象が、近代心霊研究の中で再現したことによって、イエスによる奇跡は、一方的な作り話ではなかったことが証明されました。

2.イエスは人類史上、最高の霊能者

クリスチャンは、イエスの奇跡は、彼だけに許された特別な能力によるものであり、イエスが唯一の神の子供であったために可能になったとします。しかしイエスが行った奇跡の業は、程度の差はあっても霊能力のある者(霊能者)には決して不可能なことではありません。イエスの奇跡が彼だけのものではないことが、スピリチュアリズムの心霊研究によって明らかにされました。ただイエスの場合は、その能力が傑出していたということなのです。

近代心霊研究における目覚しい心霊現象は、「霊能者」という特別な能力を持った人間によって現出したものです。イエスが数々の奇跡(心霊現象)を引き起こすことができたのも、彼が霊能者であったからに他なりません。ただし霊能力の度合いは、霊能者それぞれで異なっており、その種類もさまざまです。一口に霊能力といっても、発揮される程度はピンからキリまであるのです。

そうした観点から見るとき、イエスの霊能力は、スピリチュアリズム初期の霊能者と同様に際立って優れていたことが分かります。それどころかこの2千年の間に、イエスほど多種類の能力を最高次元にまで発揮した人間はいないことも明らかになります。イエスは、まさに人類史上、最高レベルの霊能者だったのです。

3.イエスの奇跡は、すべて神の摂理に基づいての演出

奇跡は存在しない。すべての心霊現象は「神の摂理」にそって現出する

ここで一つ注意しなければならない点があります。それは世間一般では心霊現象を奇跡と見なしがちですが、「神の摂理(法則)を逸脱したような現象は決して生じない」ということです。奇跡と映るような超常現象も、分かってみれば神の摂理の外にあるものではなく、どこまでも神の摂理の範囲内で、摂理(法則)に従って引き起こされたものにすぎません。この意味で、神の摂理を超越した奇跡は存在しないということになります。一般に奇跡と見なされている心霊現象も、すべて厳格な法則性のもとで発生しており、特別に不思議な現象とは言えないものなのです。

現時点での科学は、心霊現象を支配する法則を発見していないために、それを非科学的なものとして否定しますが、あらゆる心霊現象は神の造られた心霊的法則のもとで現出します。イエスは、そうした心霊現象のメカニズムを深く理解し、心霊的法則にそってそれを応用する能力がずば抜けていました。そのため普通の霊能者では手が届かない心霊現象を、数多く引き起こすことができたのです。

「イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。(中略)その心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.263~264

「たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.266

「イエスは人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.101

4.イエスによる奇跡演出の目的

伝道の手段として奇跡を利用

イエスが奇跡ともいえる心霊現象を引き起こしたのは事実ですが、ではイエスは、何のためにそうしたことをしたのでしょうか。

奇跡の業を演出したのは、自分を神格化するためではありません。イエスが奇跡を起こしたのは、人々の注意を自分に向けさせ、肝心な霊的真理を聞かせようと考えたからです。つまり「霊的真理の伝道」の手段として、奇跡を行ったのです。イエスにとっては、どこまでも霊的真理の普及こそがメインであって、奇跡はある意味で仕方なく行った手段と言えます。

「そのため(霊的真理普及のため)に彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだ後、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。(中略)そうした現象が人々の関心を引くようになると、今度は、(中略)単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.263~264

一度も霊能力を悪用しなかったイエス

歴史を見ても分かるように、人間は少し霊能力があると自慢し、それを悪用してこの世の富や名声を追求するようになります。これが大半の霊能者の実態です。

しかしイエスには、そうした私利私欲は一切ありませんでした。人並み外れた霊能力は、ただ「伝道」という神聖な目的のためだけに用いられました。イエスは自分の霊能力を、一度たりとも自分の利益のために利用したことはありませんでした。

「(イエスは)今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.263

「かりそめにも利己的な目的のためにそれ(霊力)を利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.269

「イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲やよこしまなことに使用したことは一度もありませんでした。(中略)彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです。」

『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)p.44

【7】イエスについての真実〈5〉

――イエスの生前の教えは、スピリチュアリズムと同じ基本的な霊的真理

1.イエスの教えは、キリスト教の教義とは全く別もの

不幸にしてイエスの生前の教えの多くが汚されてしまいました。イエスが語ったのではない言葉がイエスのものとされ、キリスト教の間違った教義の中に繰り込まれてしまいました。イエスが地上時代に説いた教えは、キリスト教の教義とは全く別ものです。キリスト教の教義はイエスの教えに反し、イエスの意志を裏切ることになっています。

「山上の垂訓」も、そのまま信じることはできない

イエスの生前の教えは、キリスト教の教義とは異なるものです。バイブルはイエスの教えを正確には記していません。ただ福音書の中の「山上の垂訓(説教)」には、イエスの教えが比較的そのままの形で残されていると思われます。

とは言っても、ここでも「本当にイエスが語った言葉なのか?」という疑問が付きまといます。山上の垂訓のすべてを、イエスの言葉として呑みにすることはできません。

高級霊は、イエスの生前の教えを知っている

イエス自身が語った教えとは、いったいどのようなものだったのでしょうか。先にも述べましたが、どれほど聖書を研究しても、それに対する答えを得ることはできません。では、イエスの生前の教えを知る手がかりはないのでしょうか。

幸いなことに霊界で直接イエスに会うことができる高級霊によって、その答えが明らかにされるようになりました。シルバーバーチやインペレーターのような高級霊は、イエスが実際に語った内容を知っています。当然、福音書の中の記述の、どれが真実でどれが作り話であるのか、また後世の人間が勝手に付け加えたものであるのかも知っています。

2.イエスが説いたシンプルな教え

それによれば当時、イエスが説いた教えは、スピリチュアリズムが現在、伝えようとしている「霊的真理」と同じ内容でした。イエスは2千年前に、スピリチュアリズムと同じ基本的な霊的真理を人々に教えようとしたのです。

「人類にとって真の福音と言うべきは、イエス・キリストの福音である。これこそ人間にとって唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。我らはそれと同じ福音をイエスより引き継いで説くのである。イエスを地上に送った神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説くために来たのである。イエスの説いた真理と同じものを我らは説く。人間的無知と誤解による夾雑物きょうざつぶつを払い落として、改めて説く。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.26~27

イエスの生前の教えは、実にシンプルなものでした。そして常に実践と結びついたものでした。イエスの教えは、キリスト教神学のような難解なものではなく、キリスト教の教義のような到底理性が受け入れがたいものでもありませんでした。誰もが理解でき、誰もが理性で納得できる内容でした。それは決まって実践を前提として語られたものでした。

イエスの教えは「山上の垂訓」の言葉からも分かるように、とてもシンプルで理解しやすいものでした。イエスが人々に説き続けてきたのは「霊的真理」であり、「神の摂理」でした。現在、スピリチュアリズムが伝えようとしている「霊的真理」と同じものを、イエスは当時の人々の知性のレベルに合わせて説いたのです。

イエスの教えは具体的には、「親(父)なる神とその愛」「神の愛にならった利他愛(隣人愛・人類愛)の実践」「物質にとらわれない生き方」「形式的・外面的でなく内面からの素直な信仰」「口先だけでなく実践のともなった信仰」――こうした内容から成り立っていました。

イエスの教えは、わずか3年間の公生涯の間に示されたものです。イエス自身も、3年あまりで十字架にかかって死ぬようになるとは思っていませんでした。そのためスピリチュアリズムでは当たり前となっている死後の世界に関する真理(霊的事実)を説くことなく、他界することになってしまいました。死や霊界といった霊的真理の肝心な部分を明らかにすることなく、イエスは亡くなってしまいました。それが、その後のキリスト教の混乱と迷走を引き起こす大きな原因となってしまったのです。

以下では、イエスが生前に説いた教えについて見ていきます。

「愛の神」

――人類史上の革命的な神観

当時のイスラエル人の信仰対象は、ユダヤ古来の神(エホバ)でした。その神は全知全能の世界の創造者であり、絶対無謬むびゅう・絶対正義の存在でした。イスラエル人は、“神は人間の間違いや不信仰に対して厳しい裁きを与える”と考えてきました。イスラエル人にとって、神は最大の恐れの対象でした。

そうした「恐れの神」「裁きの神」に対して、イエスは神の愛の側面を強調し、父なる神を説いたのです。親としての神の限りない愛は、太陽があまねく世界を照らすように、地上のすべての人間に等しく及ぶとしました。神から選ばれていないとされてきた異邦人であれ、神の律法に背いた罪人であれ、神は差別することなく平等に愛を注ぐと教えました。

こうした全人類共通の親なる神、そして親であるがゆえにすべての人間を等しく愛するという「親なる愛の神」を、イエスは人類に説きました。これは、まさに地球上の宗教における革命的な出来事でした。地上人類はイエスによって、初めて親なる神の愛を知ることになったのです。

「隣人愛・人類愛」

――利他愛の実践

イエスは愛の神という画期的な神観を明らかにしただけでなく、その神の愛に倣って、人類がお互いに愛し合うことの重要性を強調しました。「利他性」という神の摂理にそった愛の実践を人々に訴えました。イエスは――「自分を愛するように隣人を愛せよ(隣人愛)」と語りました。この「隣人愛」は、善人にも悪人にも分け隔てなく注がれる「神の愛(アガペー)」の人間レベルにおける実践に他なりません。真実の隣人愛は、単に肉親や友人や仲間を愛するだけでなく、敵をも愛し、迫害する者のためにも祈るという「人類愛」へと高められることになります。

イエスは神の愛に倣った「隣人愛・人類愛」の大切さを説きました。好みでない者をも愛する利他愛の尊さを教えました。そして、それが人間としての正しい生き方であることを強調したのです。それゆえキリスト教は“愛の宗教”と言われることになりました。

自分を愛してくれる者を愛することは誰にもできますが、自分を憎み迫害する者を愛することはきわめて困難です。“目には目を、歯には歯を”の方が、感情的には納得しやすいのです。しかしイエスは、「すべての人間は神の子供である以上、愛し合わなければならない」と、自ら率先してその見本を示したのです。

物欲にとらわれない生き方

――霊優位の生き方

イエスは、とかく地上人類が陥りがちな物質中心的な生き方を戒めています。イエスは――「地上に宝を蓄えるな、天に宝を蓄えなさい」「2人の主人に兼ね仕えることができないように、神と富に兼ね仕えることはできない」と述べ、物質にとらわれた考え方・生き方に流されないように訴えています。飲食や衣服といった肉体的なことで思いわずらい、肝心な霊的成長という霊的宝を失ってはならないと教えています。

イエスは、スピリチュアリズムで重視している「霊主肉従の生き方」を説いたのです。一般人の陥りがちな物質中心主義に強い警告を発しているイエスの教えは、まさにスピリチュアリズムと同じ「霊優位・霊中心主義」と言えます。

こうしたイエスの霊優位の考え方・生き方は、人間関係においてもそのまま適用されます。イエスは自分の母親と兄弟が訪ねてきた際に――「私の母、私の兄弟とは誰のことか。神の御心を行う者こそが、自分の母であり兄弟である」と言っています。これは物質(肉体)の延長上にある血縁関係よりも、神を中心とした霊的関係こそが重要であるということを述べたものです。霊的関係を血縁関係以上に重視するところに、初めて本当の霊的絆で結ばれた「隣人愛・人類愛」が形成されることになるからです。

内面的な素直な信仰

――神の目を気にした厳格な“内面主義”

イエスは、形式的に律法を守って自己満足にひたり、自らを“善”としているパリサイ人に対して激しい非難を浴びせかけました。イエスは単なる形式的・外面的なことが重要ではなく、魂の奥底から神を慕い、神とつながり、神に誠意を尽くすことが大切であるとしました。世俗的・形式的なことを守ることで自らを偉いと思い込んでいる傲慢なパリサイ人のようにではなく、心の貧しさゆえに(自らの足りなさを知って)幼子のように率直な心で神に対することを強調したのです。イエスが嫌ったのは、世俗的なことにこだわって傲慢となり、魂の真の素直さや謙虚さのない姿勢でした。

そのためイエスは、身分の低い者や無学の者、罪深いとされていた人々に進んで近づいていきました。自分の罪の深さを認め、神にすがるしか生きる道はないと救いを求める心の貧しい人々(自分の罪を自覚する謙虚な人々)に語りかけたのです。幼い子供のように純粋に神を慕い、誠実に道を求める「内面主義的生き方・内面的信仰」の大切さをイエスは説いたのです。

常にすべてをご存知の神の前に正しくあろうとする姿勢こそが、本当の信仰・素直な信仰であることをイエスは強調しました。自分の義を見られるために人の前で行わないように、他人に施しをするときは右の手がしていることを左の手に知らせないように、と教えました。隠れたこともすべて見ている“神の目”を意識して生きることを、イエスは説いたのです。イエスは、形式主義・外面主義による偽善的信仰を打ち捨て、神の前に徹底して正しく生きようとする厳しい“内面主義”を訴えたのです。

実践の重視

――“口先だけでなく実践こそが大切”

イエスは――「私を主よ、主よと呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。主よ、主よと言う者が皆天国に入るのではなく、ただ天にいます我が父の御旨を行う者のみが天国に入るのである」と述べています。そして主の名前を呼ぶだけで何も実行しない者に対して――「私はあなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえと言うであろう」と述べています。この言葉から明らかなように、イエスは真理の実践を徹底して強調しています。

イエスは口先ではうまいことを言いながら、その実、実践する気のない学者を偽善者であると激しく非難し、彼らに倣ってはいけないと厳しく戒めています。イエスの教えは、常に日常生活において実践することを前提として説かれたものでした。

【8】イエスについての真実〈6〉

――イエスは全人類にとっての生き方の手本(イエスに対する私たちの姿勢)

地球人類史上、最高の霊性の持ち主であり、全霊界を挙げての地球人類救済活動の主宰者・総責任者であるイエスに対して、私たちはどのような姿勢で臨めばよいのでしょうか。どのような考え方でイエスに接したらよいのでしょうか。

イエスを信仰の対象とするのは間違い

キリスト教は2千年もの間、イエスを信仰の対象としてきましたが、それは間違っています。イエスを“神”として崇拝してきたことは、大きな錯覚だったのです。では私たちスピリチュアリストは、イエスに対してどのように接したらよいのでしょうか。イエスが私たちと霊性や使命において懸け離れた存在であり、私たちの関わっているスピリチュアリズムの総指揮官・最高指導者であるとしても、イエスを信仰の対象としてはなりません。

イエスに対してまずしっかりと理解しておくべき点は、イエスは私たちと同じ人間であり、神のもとにあって等しい子供であり、ともに神の道具であるということです。信仰の対象は、神と神の造られた不変の摂理以外にはありません。またイエスを信仰の対象として祭り上げることを、イエス自身は決して喜ばれませんし、それどころか大きな悲しみを与えることになってしまいます。イエスは私たちと同じ一個の人間であったが、比類なき神性(霊性)を体現した理想的な人間であった、と考えるべきなのです。

生前のイエスの生き方は、地上の人間の理想像と言えます。シルバーバーチは――私たちの世界(霊界)においても今、私の知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております」(『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.270)と述べています。そしてその直後に――私がこうしてイエスについて語るとき、私はいつも“イエス崇拝”を煽ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、私がよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです」と付け加えています。

イエスは私たちにとっての霊的人生の手本

シルバーバーチは――イエスという人物を指して“ご覧なさい。霊力が豊かに発現したときは、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです」(『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.269~270)と、イエスに対する姿勢について述べています。また「イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです」(『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)p.265)と語っています。

私たちは、イエスをスピリチュアリズムの最高指導者であると認めたうえで、自分たちと同じ地上人の先輩として尊敬し、人間にとっての生き方の見本を示してくれた人物として敬意を表していけばよいのです。私たちにとってイエスは、偉大な霊的人生の模範であり、師であり、地上人として最高の霊性を具現した人間でした。

イエスは当時の人々ばかりでなく地球人類史上において、いかなる霊覚者にも優る霊の威力を顕現しましたが、それと同時に霊的人生の大原則である「利他愛・自己犠牲」という神の摂理と一致した生き方を、自らの行為を通して教えてくれたのです。

「イエスは、その地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることができる。」

『霊訓(完訳・上)』(スピリチュアリズム普及会)p.68

【9】イエスについての真実〈7〉

――イエスに関するさまざまな謎と、仮説・憶測

地球人類史上、最も重大な使命を持って地上に降臨したイエスは、幾多の目覚しい心霊現象を引き起こしました。そして死後も霊界から心霊現象を起こし、それを通じて弟子たちの前に“霊”として生きている事実を証明しました。やがてキリスト教が世界宗教として世界各地に普及するにともない、イエスを神格化しようとするキリスト教徒によって、新たな神秘性が付け加えられることになりました。

イエスほど多くの謎に包まれた人物はいません。好奇心と興味の対象となった人物はいません。そこからイエスに関するさまざまの荒唐無稽こうとうむけいな説が現れることになりました。過去から現在に至るまで、イエスの存在は地球人類にとって、まさに大きな謎そのものでした。

これまで、イエスについての謎や憶測を解明するために、霊界通信によってもたらされた霊的事実を通してイエスの実像に迫ってきました。イエスをいろいろな霊的視点から分析し、真実のイエス像を明らかにしてきました。最後に本章では、まだ取り上げていないイエスにまつわる謎と、そこから発生した仮説や憶測についてまとめてみることにします。そして高級霊の通信に照らして諸問題の真相を明らかにしていきます。おそらくここにおいて、これまで地上人の間でまことしやかに論じられてきた馬鹿げた興味本位の仮説や憶測に終止符が打たれるようになるものと思います。

この章で取り上げる内容は大きく、1.イエスの地上時代に関するもの、2.イエスの再臨に関するもの、3.後世の人々によってつくられたイエスにまつわる仮説・憶測、に分類されます。

1.イエスの地上人生における謎と仮説

イエス出生の謎

イエス出生の最大の謎は、イエスが処女マリアから誕生したということです。これについての真相は、すでに述べてきました。すなわち“処女から救世主が誕生する”というストーリーは、当時の周辺地域における宗教の神話を取り入れたものであったということです。処女から救世主が誕生するという話は、各地の神話の中に見られ、古代インドの伝説や古代エジプトの伝説を題材としたものでした。

イエスの誕生には、奇跡といった要素は一切ありません。ただ普通の一人の男子の誕生という事実があるだけなのです。

三人の東方博士の話

では、イエスの誕生時に、三人の賢者が星に導かれて訪れ、イエスの誕生を祝福することになったという話はどうでしょうか。

これについてシルバーバーチは、はっきりと述べています――どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.105~106)。

そして「三人の賢者はそれきり聖書の中に出てこないのでどうなったのだろうと思っておりました」という問いに答えて――カルデア、アッシリア、バビロニア、インド等の伝説からその話を借用したまでのことで、それだけで用事は終わったのです。その後、続けて出てくる必要がなかったということです。(中略)世界のあらゆる神話や伝説のたぐいが、かき集められたのです」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.106)と述べています。

イエスの誕生時期の謎

イエスの誕生日は、いったいいつだったのでしょうか。キリスト教会では、西暦元年がイエスの生まれた年ということになっています。この西暦元年は、バイブル(ルカによる福音書)に記されている「大天使ガブリエルが処女マリアに“あなたは身ごもって男の子を生みますが、その子をイエスと名づけなさい”と告げた時」とされています。

すでに述べましたが、イエスの出生についての記述には信憑性は全くありません。イエスに関する謎や奇跡の類は、その多くが事実ではありません。イエスの出生については、「普通の人間と同じように生まれた」ということしか言えないのです。

現在、世界中で用いられている西暦は、6世紀の神学者ディオニソス・エクシグウスがバイブルの記述をもとに考案したものです。イエスの誕生に関する記述が事実でない以上、イエスが生まれたとされる時期についての確たる根拠は存在しません。現在では、バイブルに記載されている歴史的背景をもとに、イエスは紀元前7年から紀元4年の間に生まれたと推測されています。おそらくこれが正しいのではないかと思われます。

言うまでもないことですが、イエスが生まれたのは12月25日ではありません。私たちが言えるのは、「イエスは今から約2千年前に誕生した」ということだけです。そして、それだけで十分なのです。イエスの誕生に関して、それ以上の内容を詮索せんさくしたり思いをめぐらすことは全く無意味なことなのです。

イエスの父親と、13歳までの生活

聖書に書かれているようにイエスが、マリアと夫ヨセフとの間に生まれた子供でないとするなら、イエスはこの世的には“私生児”ということになってしまいます。そしてヨセフは、イエスの養父ということになります。イエスが普通の人間として誕生したとすれば、実の父親がいることになり、「イエスの父親は誰か?」という疑問が湧いてきます。これについても今日に至るまで、さまざまな説が生まれました。

その中には、「マリアの処女懐妊の話は、婚約中のマリアの不倫をごまかすための記述である」との説があります。また「罪のない子供を地上に送り出すための神の深い霊的配慮が、処女懐妊として象徴的に述べられている」とする説もあります。その際、本当の父親(実父)として、ザカリヤが有力視されます。当時は不倫者は石打ちによって殺してもよいことになっていたため、天使がヨセフを説得してマリアを守ることになったと言うのです。

それに対して次のような説もあります。「もし本当にイエスが私生児でヨセフが養父であるとするなら、当時の家父長制の社会にあってイエスに家業を継がせることなどあり得ない。したがってヨセフこそ実の父親に違いない」というものです。

スピリチュアリズムの立場から言えば、イエスが処女から生まれたという記述が他国の神話から取り入れられた架空の話である以上、イエスを私生児とする前提そのものに根拠がないことになります。バイブルの記述を受け入れイエスを私生児と考えるところから、さまざまな仮説や憶測が発生したのですが、それこそ無意味な議論と言えます。

では「真相は何か?」ということになりますが、それについては現在まで霊界から正式な見解は示されていません。当然、霊界の高級霊にはイエスの父親が誰であるのかは分かっているはずですが、これまで一切明かされていないのです。それは現在の地上人には、まだ秘密にしておくべき問題であるとの判断がなされているためかもしれません。あるいは地上人があまりにも無意味な好奇心に駆られるのを前にして、あえて無視する態度に出ているのかもしれません。実際、私たちがスピリチュアリズムの霊的人生を歩むうえで、イエスの実父が誰であるのかは、どうでもいい問題なのです。

おそらくイエスは当時の一般的な子供と同じように家族の中で育ち、幼少期には親と共にユダヤ教の教会に通い、そこで宗教や読み書きを学び、そして12歳頃になって父親ヨセフの見習いとして大工の仕事に携わるようになったものと思われます。

イエスの14~30歳

――「空白の17年」の謎

イエスの誕生とともに、イエスの14~30歳の「空白の17年」が大きな謎とされてきました。バイブルには、イエスが12歳のときにエルサレムで議論をしたことが記されていますが、その後、イエスが30歳で洗礼を受けるまで、どこで何をしていたのかは全く記されていません。この期間が「空白の17年」として、たびたび議論され憶測を呼ぶことになりました。そしてさまざまな仮説が生まれました。

その中には、この期間にイエスはエジプトに行って教育を受けていたというものがあります。さらにはイエスが、はるばるインドにまで出向いて修行をしたという説もあります。こうしたエジプトやインドにおいて修行をしたという見解は、これまでは一部の人を除いて、ほとんど受け入れられることはありませんでした。単なるふざけた仮説の一つくらいに思われてきました。ところがこの問題に対してシルバーバーチは、以下のような実に驚くべき答えを示しています。

(質問)「14歳から30歳までの間、イエスは何をしていたのでしょうか。」

(答え)「その間の年月は勉学に費やされました。イエスの教育に当たった人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費やされたわけです。」

(質問)「その教育施設はどこにありましたか。」

(答え)「いくつかはインドに、いくつかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.108~109

シルバーバーチは、これまで謎とされてきた「空白の17年」に対する想像もつかないような事実を明らかにしています。イエスは、エジプトばかりでなくインドにも渡って真理を学んでいたと言うのです。当時のエジプトの首都アレクサンドリアには、仏教(上座部・小乗仏教)修行者たちの共同体があったことが知られています。もしかしてイエスは、アレクサンドリアで仏教との接点を持ったのかもしれません。そして、それがきっかけとなってインド行きへと結びついたのかもしれません。イエスのインド来訪説は、シルバーバーチの明言がなければ、とうてい信じられないことです。

一方、19世紀後半に、ロシアの探検家ニコラス・ノトビッチが、インドのカシミール地方を探索していた際に、“聖イッサ”という名前の外国人渡来者にまつわる仏教徒の間での言い伝えを耳にすることになりました。この“聖イッサ”こそイエス・キリストのインド名で、彼の行動を記した古文書がラサやチベットに残されていると言われていました。

その古文書によれば、イエスはパレスチナを抜け出し、ユダヤの隊商とともにインドに入ったということです。現在までその古文書の存在は確かめられていませんので、ニコラス・ノトビッチの説をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、イエスがインドにいた証拠が将来、発見されるようになる可能性も否定できません。

イエスの家族関係は?イエスは妻帯していたのか?

マルコによる福音書には、イエスには4人の兄弟とそれ以外に姉妹がいたことが記されています。したがってイエスには、少なくとも6人の兄弟姉妹がいたことになります。その兄弟姉妹とイエスとの関係は、あまり愛情の深いものではなかったようです。母親のマリアも、イエスの行動をあまり快く思っていなかった様子がうかがえます。イエスは家族の中で、むしろ冷たく見られていたようです。

さてイエスの謎としてしばしば取り上げられるのが、イエスは果たして結婚していたのかどうか、ということです。最近では小説『ダ・ビンチ・コード』が話題となり、その映画も世界中で大きな反響を巻き起こしました。この小説は、イエスがマグダラのマリアと結婚して子供をもうけ、その子孫が現在まで存在するという筋書きから成り立っています。

小説はどこまでもフィクションですが、実はこの問題(イエスの妻帯の問題)は、最近になって湧き上がったものではなく、かなり昔(2千年前)から存在したテーマだったのです。キリスト教の異端であるグノーシス派は、イエスには「妻」あるいは「愛人」がいたと主張してきました。マグダラのマリアがイエスの妻であったとしています。こうしたイエス妻帯説を受けて、その後マグダラのマリアがイエスの子供を生んだとする説や、その子供の子孫が、現在まで南フランスで血筋を維持しているといった説まで飛び出しています。小説『ダ・ビンチ・コード』は、こうした説を参考にして描かれたものだったのです。

キリスト教正統派からすれば、イエスは処女から生まれた唯一の神の子供であり、地上人の次元を超えた神であり、それゆえ独身者として一生を過ごしたということになります。したがってイエスが結婚していたとか、ましてイエスの子孫が現在まで存在しているなどという話は、とうてい認めることはできません。万一それが事実であることが証明されれば、キリスト教は根底から崩れ去る可能性もあります。

バイブルにはイエスが結婚していたという記述はありませんが、同時にイエスが独身だったという記述もありません。その意味からもイエスに妻がいた可能性は決して否定できません。バイブルの中でイエスは、ユダヤ人から「ラビ(教師・先生)」と呼ばれています。当時のユダヤ教では、結婚していない男性はラビにはなれないとされていましたので、それはイエスが結婚していたことを示す言葉と理解することもできます。

バイブルにイエスの妻帯についての記述がない以上、この問題の答えは、シルバーバーチなどの高級霊に教えてもらうしかありません。高級霊は当然、その真相を知っているはずです。しかしこれまでスピリチュアリズムでは、イエスの妻帯について明確な説明はなされていません。おそらくこれは他の問題と同様に、現在の地上人には知らせる必要のないこと、あるいは好奇心の対象となるだけで、あえて答えを示すような問題ではないとの判断がなされているものと思われます。将来、地球人類の霊性が今よりずっと高まった時点において、初めて真相が明らかにされるようになるかもしれません。

ただ地上時代のイエスが妻帯していたとしても、その夫婦関係は一般人が考えるようなものでなかったことは確かでしょう。なぜならイエスは、「霊的真理をもたらして人類を救う」という使命を全うするために、必ずしも自分の子孫を残す必要はなかったからです。人類の救いは、子孫を残すことでしか達成されないというものではありません。イエスの使命は、血縁とは無縁の霊的救い・霊的成長の道を示すことでした。

霊界では進化向上にともない地上のような陽陰・男女の区別は希薄になっていきます。地上のような男女関係も消滅していきます。霊界におけるイエスは、当然そうした地上臭を完全に拭い去った存在、霊体という身体形式をも超越した霊的実在なのです。このような霊的事実を考え合わせると、もし仮に地上時代のイエスの妻帯が事実であったとしても、おそらくそれはきわめて純粋でプラトニックな関係に近いものではなかったかと思われます。

しかしこの問題の真相は、先にも述べたように現時点では地上人には全く明らかにされていません。どこまでも推測の域を出ないものなのです。

死人を生き返らせた奇跡とは?

イエスは、現在のスピリチュアリズムでしているような心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)を数多く行ってきました。また除霊治療を通して、憑依ひょういされた多くの病人を癒してきました。もっともそうしたスピリチュアル・ヒーリングは、すべて「霊的法則」に基づいて行われたものであり、カルマが切れて治るべき時期のきた人だけを完治させたにすぎません。イエスの治療を受けたすべての人間が治ったわけではないのです。

イエスが行った心霊治療の中で際立っているのが“ラザロ”という死人を生き返らせたことです。これも例によって、イエスを神格化するための作り話かと思われますが、高級霊を通じてその真相が明らかにされています。

それによれば、実はラザロは死んではいませんでした。ラザロの霊体と肉体を結ぶシルバーコードはつながっており、霊体と肉体は完全には分離していなかったのです。したがって外見上は死んでいるように見えても、実際にはまだ生きていたのです。こうした出来事は、現在でもしばしば起こります。死んだと思って葬式をしていると、その最中に死者が生き返って人々を驚かせたという話を耳にしますが、ラザロの場合も全くこれと同様のケースでした。

イエスといえども、シルバーコードが完全に切れた人間を蘇生させることはできません。たまたまラザロがこうした仮死状態にあったために、引き起こされた奇跡だったのです。霊視能力の優れたイエスには、シルバーコードが切れていないことが分かっていたため、自信を持ってラザロの蘇生を手がけることができたのです。

イエスの死後の復活

イエスの死後の復活は、キリスト教徒にとっては、終末における肉体の復活を証明する事実となります。十字架にかかって死んだ後、イエスは弟子たちの前に、生前の姿をとって現れました。そして彼は自分がイエス自身であることを示すために、処刑されたときの傷跡まで見せました。一度だけでなく何度も姿を見せて弟子たちに語りかけ、励ましを与えたのです。

キリスト教徒はこうした死後の“復活”は、イエスだけに起こり得た奇跡であるとします。しかしスピリチュアリズムの近代心霊研究によって、死者の霊が生前の姿をとって現れる現象が実在することが明らかにされました。イエスの復活は、心霊的法則に基づく心霊現象の一つであったことが証明されたのです。

キリスト教でいうイエスの復活は、スピリチュアリズムにおける「死者の霊の物質化現象」に他なりません。地上に霊媒体質者がいると、その体内から“エクトプラズム”という半物質を取り出し、霊界の霊が地上時代の姿を再現することができるようになります。粘土で精巧な分身をつくるようなことが、エクトプラズムによって行われるのです。そうしてでき上がった分身は、驚くべきことに地上人の肉体と同じレベルの硬さを持ち、話をしたり、時には地上人と食事をしたり握手をすることさえできるようになります。まさにイエスが死後、弟子たちの前に現れて食事をしたり話をしたのと同じようなことが、近代心霊研究において実際に現出したのです。

イエスの復活の話は、心霊現象の法則やメカニズムを知らない人々には驚愕するような奇跡と映りますが、心霊研究に通じた人間には、ごくありふれた心霊現象の一つにすぎません。

死後、墓石が取り除かれ死体が消えた謎

バイブルには、イエスの死後の様子が次のように述べられています。

イエスの死体は十字架から下ろされ墓に葬られました。その後、マグダラのマリアたちが、遺体に油を塗るためにイエスの墓にやってきました。すると墓地の入り口にあった大きな石のふたが取り除かれ、脇に置かれていました。墓の中をのぞき込むと、そこに白く長い衣を着た青年が立っていました。彼は驚いた婦人たちに向かって――「驚くことはない。あなた方は十字架にかけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活されてここにはいない」と言いました。

このバイブルの記述が、キリスト教徒にとってイエスの復活の根拠となっていることは言うまでもありません。しかしイエスの復活の実態は、キリスト教徒が考えているようなものではなく、先に述べた単なる物質化現象にすぎないのです。ここで白い衣を着た青年(天使)が「イエスが復活した」と言っているのは、死んで霊体となって霊界に入っていくこと、霊として新しい生活を始めることを意味しています。

墓石が取り除かれ、イエスの死体がなくなっていたことについて、シルバーバーチはその事実を次のように明らかにしています。

(質問)「イエスの復活は聖書に述べられている通りだったのでしょうか。」

(答え)「大体あの通りでした。」

(質問)「石の蓋は本当に取り去られたのですか。」

(答え)「本当です。」

(質問)「なぜ取り除く必要があったのでしょうか。」

(答え)「あれはただ蘇りを象徴するためにしたことです。」

(質問)「イエスの死体はどうなったのでしょうか。」

(答え)「分解されてしまいました。」

『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.241~242

このシルバーバーチの言葉は、さまざまな謎と疑問に対する解答を示しています。これまでイエスが十字架にかかって死んだ話は疑わしいとの説がありましたが、シルバーバーチの答えは、イエスが十字架処刑で死亡したことを明確にしています。また死体が消滅したことも認めています。イエスの十字架上での死と、その後の埋葬についての一連の出来事が事実であったことを、シルバーバーチは明らかにしているのです。

一方、インペレーター霊は、石の蓋を取り除き死体を消滅させたのは天使の仕業であったと述べています(『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.204)。この言葉から、イエスの死体が消滅したのは、霊界からの働きかけによるものであったことが分かります。霊界からの働きかけによって、ちょうど物品移動心霊現象の一つ)で物体が瞬時に分解され消滅するのと同じようなことが、イエスの遺体にも生じたと推測されます。イエスの死体は復活によって消滅したのではないことが、霊界サイドから明らかにされたのです。

2.イエスの再臨について

イエスの再臨についての、さまざまな見解

キリスト教徒にとって「イエスの再臨」は、きわめて重要な意味を持っています。キリスト教徒の信仰は、まさにイエスの再臨を信じることによって維持されてきたと言えます。クリスチャンにとって、イエスの再臨は最終的な希望なのです。

しかしその再臨については、さまざまな考え方・とらえ方があってキリスト教徒の中でも一致していません。ある者は、聖書の文字どおりイエスが空中に聖徒を従えてやって来ると考えています。またある者は、イエスは人間として生まれ、その際、手足にクギの跡を持って誕生すると言います。またあるキリスト教の一派では、再臨するのはかつてのイエスではなく、同じ使命を持った別の人物であるとします。別の人物が再臨のメシアとして地上に現れると言うのです。

再臨をめぐってはこのようにさまざまな見解がありますが、それぞれの説では自分たちの見解の正当性を神学的論拠に基づいて主張しています。一方、19世紀以降、イエスの再臨の時期を予言する宗派が数多く現れましたが、その予言はことごとく外れています。

イエスの再臨の実態とは?

スピリチュアリズムの観点から結論を言えば、こうした再臨に関する従来の諸説は、すべて間違っています。「イエスの再臨」の本当の意味は、高級霊の霊界通信によって明らかにされています。イエスを中心とする高級霊団がスピリチュアリズムを興してきたことは何度も述べましたが、イエスの再臨の意味するものは、まさにこのことだったのです。

イエスは大霊の使命を帯びて物質界へ降臨しました。そして地上でなすべき仕事は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではありません。やり残した使命を成就するために死後、霊界から地上世界に向けて働きかけをしてきました。そしてそれが19世紀半ば以降、地上で“スピリチュアリズム”として展開することになったのです。したがってイエスの再臨とは、地球人類救済の大事業であるスピリチュアリズムのことを意味しているのです。

「遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもしてきました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは2千年前に地上での使命をきちんと終えています。今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれの携わっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。」

『シルバーバーチの霊訓(10)』(潮文社)p.190

肉体に宿ってのイエスの再臨はない

現在、イエスを中心とする高級霊団は“スピリチュアリズム”という形を通して地球人類を救うために働きかけ、影響力を及ぼしていますが、それがすなわち「イエスの再臨」の実態です。かつてのイエスと同一人物が再び地上に到来するのではなく、イエスの“霊的影響力”が地上に到来するということなのです。

イエス本人が再び地上に人間の姿をとって現れることはありませんし、イエスと同じ使命を持った人物(メシア)が第二のイエスとして地上に誕生するということもありません。スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理」こそが、まさにキリストの再臨の実態そのものなのです。イエスの再臨とは、人ではなく、霊的影響力・霊的真理の到来のことを指しているのです。

「キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳を持つ者に語りかけるという意味での再来である。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.28

「今まさに主イエスが(新しい啓示を携えて)地上へ帰って来つつあるのである。それを、中継の霊団を通じて行っておられる。必要とあれば、自ら影響力を人間に行使されることもあるかもしれない。が、肉体に宿って再生されることは絶対にない。」

『続霊訓』(潮文社)p.182

イエスの再臨とは、かつてのイエスが肉体を持って地上に再生するというようなことではありません。イエスと同じ使命を持った別の人物が、救世主(メシア)として地上に誕生することでもありません。

シルバーバーチはイエスが肉体を持って地上に降臨した意味を――歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです」(『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)p.44)と述べ、別の箇所では「もう、イエスのような人物が出現する必要はありません」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.108)とも述べて、イエスの肉体を持っての再臨を強く否定しています。

スピリチュアリストは、イエスの再臨に出会った最初の地上人

したがってスピリチュアリストこそ、再臨したイエスに真っ先に出会っている当事者ということになります。クリスチャンにとって、こうした見解はとても受け入れがたいものであり、彼らの多くは、そうしたデタラメを言うスピリチュアリズムは巧妙なサタンの手先に他ならないとします。

しかし今述べたことは、紛れもない霊的事実であり、霊界に行った際には誰もが認めるようになるのです。彼らも死ねば、霊界の事実を通して、そのことを認めざるをえなくなるのです。

3.後世の人々によってつくられた仮説や憶測

イエスの死後、キリスト教が世界宗教として拡大していく中で、イエスにまつわるさまざまな仮説や憶測がつくられることになりました。その一つが、先に取り上げたイエスの子孫に関するものです。イエスが生前、マグダラのマリアとの間に子供をもうけ、その子孫が現在まで存在しているというものです。これについての真相は現在まで、霊界から明らかにされていません。いずれ人類全体の霊性が高まった時点において示されることになるでしょう。

ここではこれ以外のイエスに関する仮説や憶測、まことしやかに語られている謎について見ていきます。

十字架上のイエスの身代わり説と、世界各地にあるイエスの墓

先に述べたように、イエスがゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられて殺害されたことは間違いありませんが、それに対する異論が根強く存在します。その異論とは、イエスの身代わり説です。十字架にかけられたのは本当のイエスではなく、身代わりとしての別の人間であったというものです。その身代わりとなった人物は、12弟子の中のトマスであったとされます。イエスとトマスは双子の兄弟で外見が瓜ふたつであったため、トマスがイエスの身代わりになって十字架にかかったと言うのです。

この説にはさらに続きがあり、死を免れたイエスはその後、世界各地を漂泊することになります。そのためパレスチナ以外の地域にも、イエスの墓があるのだとされます。バイブル外典の中には、イエスが双子であったとのくだりがありますが、その事実関係は別に論じるとして、イエスとは別の人間がイエスの身代わりになって死んだというのは明らかに霊的事実と一致しません。

イエスが十字架にかかって死亡し、霊界入りしていることは高級霊によって明らかにされていますから、この仮説は全くの空論ということになります。またイエスの墓については現在、世界各地にイエスの墓といわれているものがありますが、墓が複数あるのもおかしなことです。そのいずれもがキリスト教徒(観光客)をターゲットにした金儲けのための悪ふざけにすぎません。

キリスト教徒の聖痕せいこん“スティグマ”

キリスト教の歴史の中では、熱心な信者の身体上に、イエスが十字架上で受けた傷と同じ箇所にアザができたり、そこから血がしたたり落ちるといった事実が確認されています。これはキリスト教徒にとっては、まさに奇跡であり、イエスとの霊的一体性を示すあかしとして尊敬の対象とされてきました。これが聖痕(スティグマ)です。スティグマを発生させたクリスチャンは、人々からしばしば聖人と見なされてきました。

スティグマを発生させた歴史上の最も有名な人物が聖フランチェスコです。晩年、重い病気で苦しんでいたフランチェスコが、山中で祈りを捧げていると、まぼろしの中に十字架にかけられたイエスが出現しました。そしてそのとき彼の身体に、スティグマが現れました。これが歴史的に確認されている最初のスティグマであると言われています。

その後、熱心なキリスト教徒の中から、同様のスティグマを体験する人間が現れるようになります。最近の最も際立ったケースは、イタリア人神父のピオ(1887~1968)です。彼は幼少の頃から、天使と話をしたり聖母マリアと会うといった多くの心霊体験をしています。ピオは15歳でフランチェスコ修道会に入り、修道士としての道を歩み出します。1903年にイエスと初めて出会い、1910年から身体上に聖痕(スティグマ)が現れるようになりました。やがてイエスが十字架上で受けた傷と同じ箇所(両手・両足・胸)から、血が流れ出るようになりました。彼はその痛みに耐えながら、この世を去るまで人々のために祈り、手を差し伸べてきました。

こうした熱心なキリスト教徒に現れるスティグマは、イエスと苦しみを共有する奇跡として重要な信仰的意味が与えられるようになりました。しかしスピリチュアリズムでは、スティグマは単なる心霊現象の一つであることを明らかにしています。“スティグマ”とは、サイキックレベルでの心霊現象(超常現象)なのです。人間の精神には強力な潜在能力が秘められていて、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体上に反応を引き起こすようになります。精神は肉体をコントロールする潜在力を持っています。

したがって地上人がキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期にわたって強力に維持すると、肉体上に十字架のスティグマが現れるようになるのです。これは催眠術において、被験者の身体上にさまざまな変化が引き起こされるのと共通のプロセスによって発生するものです。スティグマは、強烈な信仰的自己暗示によってサイキックレベルに変化が生じ、それがさらに身体上の変化を引き起こすようになったものなのです。

スティグマを発生させるようなキリスト教信者は、常にイエスを慕い、イエスの苦しみを共有しようとの強い思いを持っています。その点からすれば、スティグマを体験する人間は確かに信仰心の篤い者ということになります。しかしキリスト教への専心が、高い霊性の持ち主であることを証明するわけではありません。スティグマの発生は、ストレートに霊性の高さを示すものではありません。霊能力の優れた人物が必ずしも霊性が豊かではないという事実がありますが、スティグマもそれと同じように考えるべき問題なのです。

イエスに会ったというキリスト教信者の体験

スティグマと共通する心霊現象が、キリスト教徒が祈りや夢の中でイエスに直接会うという体験です。当事者は間違いなく本物のイエス、十字架上で死んだイエス本人に会ったと信じています。時にはイエスから声をかけられ、物を与えられることもあります。こうした体験はキリスト教の中では、信仰の深さを証明する奇跡と見なされます。しかしこれも先のスティグマと同じで、信仰熱心なキリスト教徒に生じるある種の心霊現象なのです。

イエスのことを思い一心不乱に祈りに専念すると、祈る人間の念が霊界に一つの像(想念霊)をつくり上げることになります。霊界では思念によって想念霊がつくり出されることはすでに述べましたニューズレター24号/呪いと生き霊の祟りについてが、地上のキリスト教徒がイエスに思念を集中して祈り続けると、霊界サイドにイエスの像(想念霊体)をつくり出すことになります。こうしたことは実はひんぱんに生じているのですが、霊視能力がないためにそれを認識できないのです。たまたま霊視能力が開けた人だけが、自分自身でつくり出した像を見ることになります。すると本人はイエスに出会ったと錯覚してしまいます。自分自身でつくり出した像に、自分がだまされてしまうのです。祈りや夢の中でイエスに会ったという話の大半が、このケースです。

地上人の常識では、自分自身でつくり出した像が、自分の思いに反応を示すなどということは考えられませんが、そうしたことが実際に生じているのです。したがって熱心な信仰者がイエスと会ったという話の実態は、サイキック現象ということなのです。

それとは別に、霊界の“低級霊”が地上人を驚かせからかう目的でニセのイエス像をつくり出し、霊視力のある人間にわざと見せつけることもあります。時には相手の望むものを物質化させたり、物品移動によって与えることもあります。心霊現象に対する知識のない者は、間違いなく本物のイエスであると思い込み、まんまと騙されることになります。

一方、高級霊が、地上人の誠実で純粋な信仰心を励ます目的で、イエスと出会うという場面をつくり出すことがあります。そして自ら代理者としてイエスの姿をとって地上人の前に現れるのです。その際“自分はイエスである”と名乗ることもありますが、それは上層界の許可を得たうえでのことです。こうしたケースはめったにありませんが、これは誠実で純粋な奉仕精神に恵まれていながら、霊的真理を十分に理解できていない地上人に向けての霊界側の配慮なのです。

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