(2)地獄とは

これまで多くの宗教では、善人は死後天国に行き、悪人は地獄に堕ちて苦しむようになると教えてきました。西洋世界では長い間、キリスト教を信じていない者は、すべて永遠の火炎の中へ放り込まれると信じられてきました。有名な霊界探訪者であるスウェーデンボルグは、幽体離脱の状態で見てきた天界や地獄の様子を述べています。そのスウェーデンボルグが描いている地獄の様子は、どこかしらダンテの『神曲』やキリスト教で言ってきた地獄の様子に似ています。現代の先進国では、罪深き人間を拷問にかけるという地獄の存在をまともに信じるような人は、かつてほど多くはいません。

従来、宗教で“地獄”と呼ばれてきた世界は、本当に存在するのでしょうか。もし地獄があるとするなら、どこにあるのでしょうか。また“地獄の苦しみ”と言われてきたことの真意とは、いったい何なのでしょうか。ここではスピリチュアリズムの明らかにした地獄についての見解を見ることにします。

1)宗教で言われてきたような地獄は存在しない

結論を言えば、これまで宗教で言われてきたような地獄の概念は正しくありません。教訓的な目的から説かれた地獄の様子は、そのほとんどがフィクションであり、事実とは懸け離れています。従来の宗教で言われてきたような、限定された特定の場所としての地獄は実際には存在しません。ダンテの『神曲』やスウェーデンボルグの著作、また多くの宗教の説話の中で述べられているような天国に対峙する世界としての地獄はないのです。また死後の世界におけるサタンや閻魔大王の審判、終末における最後の審判などというものもありません。死後は誰もが幽界において、自分自身の地上での行為を反省し自ら裁くという状況が生じますが、拷問のような罰が与えられる特定の場所(地獄)があるわけではありません。

では“地獄”と言われるような世界は全く存在しないのでしょうか。実はこれまで宗教で言われてきたような場所としての地獄はないのですが、確かに地獄と言ってもいいような世界が現実にあるのです。地獄のイメージにぴったりの世界、拷問による罰を受けて苦しみもがくのと同じような厳しい世界が実際にあるのです。

2)地獄とは、苦しんでいる魂の状態・煩悶する心の世界のこと

死後における大きな後悔と苦しみ

地上時代に利己的な生き方をしてきた者、他人を苦しめてきた者、善行をするチャンスがありながらそれを無視してきた者は、死後、霊界(幽界)に行ってから、その愚かな生き方のツケを払わされることになります。そこでは、自分の地上人生がいかに間違っていたのか、そしてせっかくの霊的成長のチャンスを無駄にしてきたのかを実感するようになり、大きな後悔と苦しみの中に立たされることになります。実際に多くの人々が死後、地獄の苦しみを体験するようになるのです。これが「カルマの法則」による“罰”の実態です。

地上で肉体に包まれていたときには、良心の呵責や後悔をそれほど強く感じることはなくても、思念の世界である霊界に入ると、その後悔は何十・何百倍もの苦しみとなって迫ってくるようになります。そして地上世界で犯してきた罪を、自分自身で裁き罰するようになるのです。自分で自分を責め、後悔の念で苦しむようになるのです。

地獄とは、一人一人の心の中に存在

霊界に行くと大半の人間が、一時的であっても地上人生を後悔し、辛い苦しみの時を過ごすようになります。実はこれが“地獄の苦しみ”ということなのです。霊的視点に立つならば“地獄”とは――「魂が苦しむ場所・後悔で苦しみもがく心の世界」のことなのです。

したがって地獄は、一人一人の心の中に存在するということになります。これまで宗教で言われてきたような地獄という限定された場所・区域が、霊界にあるわけではありません。イエスは「天国は心の中にある」と言いましたが、それと同様に、地獄も各人の心の中に存在するのです。

神の摂理が、一人一人を裁く基準となる

意図的に他人を傷つけたことはないようなごく普通の人間であっても、地上人生を有意義に過ごすことがなかった場合、死後いったんは、厳しい反省と後悔の時間を持つようになります。神の摂理と一致していたかどうか、利他愛と霊優位という摂理にそった生き方をしてきたかどうかが、一人一人を裁く基準となります。その基準から外れていた分だけ、後悔の苦しみを体験することになります。

アラン・カルデックの編集した『天国と地獄』の中で、一人の霊(ジョゼフ・ブレ)が、こうした状況を述べています。

●ジョゼフ・ブレ霊(1840年の交霊会より)

わしは今、苦しんでいる。と言っても、お前たちの考えるような苦しみとは違うんだよ。わしは、地上で無駄な時間を過ごしてしまったことを後悔しているのだ。(中略)わしは、人間の目から見て「正しい」と言われるような生き方はしてきた。だが人間にとっての「正しい」ことと、神にとっての「正しい」ことでは、天と地ほどの差があるのだよ。お前が分かるように、その違いを説明してあげよう。(中略)

「何にもまして神を愛し、また自らのごとく隣人を愛する」――私のかわいい孫娘よ、これが神の目から見たときの正しい在り方なんだよ。私は地上で生きている間に、こうしたことをちゃんとしてきただろうか? いいや、とてもそんなことはしてこなかった。正直に白状しよう。わしは人間として果たすべきことを、自ら進んでしようとはしなかった。神を忘れることで、神の法も忘れてしまったのだ。わしのしてきたことは人間の法によって罰せられなくとも、神の法には背くことなのだよ。

その事実を知ったとき、わしはとても苦しんだ。だが今は、希望を持って生きている。わしの悔い改めをご覧になった神のご慈悲が、わしに慰めと希望を与えてくれるのだよ。

地縛霊の味わう地獄の苦しみ

先に地縛霊について述べてきましたが、地縛霊の心には、一瞬の安らぎも喜びも満足もありません。平均的な人間は死後、一時的に地獄のような世界を体験することはあっても、やがて霊的自覚が芽生え、次のステップに踏み出していくようになります。

ところが“地縛霊”の場合は、いつまでも霊的自覚を持てず、地上時代と同じように醜い心を持ち続けています。そのため長い間、不安や憎しみ、嫉妬や恐れ、苛立ち・悲しみ・後悔の念といった地獄の世界の中に住み続けるようになります。「神の摂理」から外れた生き方と考え方を変えることができないために、どこまでも自ら苦しみを招くことになるのです。哀れなことに苦しみの中にあっても、そうした事実に気がつかず、さらに罪を重ねるようになります。

地縛霊の心には、神の光と愛は全く届きません。自らがそれを遮断し遠ざけているからです。反省しない霊、過ちを認めない霊、自分の楽しみや快楽しか考えられない地縛霊の心は、まさに“地獄”そのものと言えます。そしてその苦しみ・拷問状態が、霊たちには永遠に続くように思われるのです。いつまでも地獄の中から抜け出せないように感じられるのです。

また自殺した霊も、自らがつくり出した暗黒の世界に閉じ込められたまま、そこをなかなか抜け出すことができません。暗闇の中で拷問を受けているような苦しみが襲ってきますが、それがどのくらい続くのか分からないのです。本人には、永遠の刑罰を受けているように感じられるのです。

また徹底した唯物論者は、“死後の世界などない”と頭から思い込んでいるため、死とともにすべてが終わり消滅するということ以外には考えられません。当然、自分が死んだことをなかなか認めることができません。こうした霊的な盲目状態と頑固な思い込みが、いつまで経っても自分を霊的な暗闇の中に留まらせることになります。自分を取り巻く周りの世界は明るいのに、自分ひとりだけが覆いをかぶり、暗闇の中で生活するようになるのです。そうした霊を霊媒を通して地上に呼び出してみると、「周りは真っ暗闇だ、そして恐ろしいほど寒い所だ」と語ります。

3)地縛霊の実際の声

ここで“地縛霊”の実際の苦しみの声を聞いてみることにします。『天国と地獄』から4人の地縛霊の声を引用します。

①オーギュスト・ミッシェル霊(地上時代は金持の青年で、馬車が転落して死亡)

私は、まだ肉体から完全に離れてはいません。そのため、まだうまく話すことができないのです。馬車が転落して死んだときの恐怖のせいで、私(の霊)はひどく混乱しました。「この先、自分はいったいどうなるのだろうか?」と不安になり、その不安のせいでとても辛いのです。死ぬときに私は恐ろしい肉体の苦しみを味わいましたが、それも今の私の耐えがたい精神的苦痛に比べれば、大したことではなかったのです。(中略)

もう肉体は苦しんでいないのに、なぜ私はまだこんなに苦しいのでしょうか? なぜこの恐ろしい苦痛、耐えがたい苦しみが私につきまとうのでしょうか? 祈ってください。ああ、私のために祈ってください。神が私に休息を与えてくださるように……。ああ、何という恐ろしい不安なのでしょう。私は、まだ肉体から離れられずにいます。私は、自分がどこへ行ったらいいのか分かりません。私の肉体は、そこにあります。どうして私は、まだこんなところにいるのでしょうか?

②パルミール霊(愛人と一緒に自殺した婦人)

「あなたと一緒に自殺した恋人が見えますか?」

何も見えません。私の周りをさまよっている霊たちの姿さえ見えないのです。ああ、何という夜、何という暗闇、何という厚いベールが私の目を覆っているのでしょう!

「死後、目覚めたときに、どんな感じがしましたか?」

とても奇妙な感じでした。私は寒いのに、同時に焼けるように熱かったのです。私の体の中を氷のように冷たい血が流れ、額はまるで火で焼かれるように熱いのです。何て奇妙なことでしょう。こんな奇妙な経験は、今までしたことがありません。氷と火が一緒になって、私に襲いかかってくるのです。私は、もう一度死ぬのだろうかと思いました。

「肉体的な苦痛を感じていますか?」

苦痛は、全身に感じています。私の頭の中も、心の中も苦痛でいっぱいです。

③クレール霊(極端なエゴイスト)

あんたのような空っぽの頭で、「けっして終わらない一日」がどんなものか想像できるはずがないわ。一日、一年、一世紀、それがどうして私に分かるというの? 時間の区切りもないし、季節の変化もない。まるで岩から絶え間なくしたたり落ちるしずくのように果てしなく、のろのろと続く一日。

ああ、いやだ、いやだ、ぞっとするわ。鉛みたいに重苦しい時間が、私にのしかかってくるなんて……。ああ、苦しい。周りには何も見えない、見えるのは亡霊だけ。押し黙って、何にも関心を示さない亡霊だけ……。ああ、苦しい。

④アンジェル霊(全く意味のない人生を送った女性)

「あなたは何を求めているのですか?」

心の安らぎです。

「すでに霊になっているのに、どうして心の安らぎが得られないのですか?」

過去への後悔があるからです。

「ということは今、あなたは自責の念にかられて後悔しているということですか?」

いいえ、これからのことがとても恐ろしいのです。

「あなたは何を恐れているのですか?」

この先どうなるか分からないことが恐ろしいのです。

4)地縛霊がつくり出す幽界下層の暗黒世界

地獄とは、心の中の世界のことであるならば、では「霊界には暗く醜い場所(境界)は存在しないのか?」ということになります。しかし霊界(幽界)下層には、実際に“地獄”と言ってもいいような醜悪な領域・暗黒の境域があるのです。

霊界では同じ情景を見ても、ある人間は光と美に酔いしれ、ある人間は醜さと絶望だけを感じることになります。“地縛霊”には、他の霊には光り輝く情景が、灰色で何の感動もないものに映るのです。それと同時に霊界では、心の持ち方が周りの環境をも変化させることになります。2人が同じ所に置かれた場合、一方の霊は美と輝きに満ちあふれた環境を思念によってつくり出し、片方の霊は醜悪で暗闇の環境をつくり出すといったことが現実に起こってきます。霊界とは、こうした思念が現実化する世界なのです。この点で物質世界とは全く異なります。

幽界下層には、実際に醜い心がつくり出す環境(境界)がスポット的に存在しています。地上世界でも、本能的で醜い人間が集まっている場所は霊的に暗く雰囲気が悪くなります。まともな人間ならば、そうした所には寄り付きたくありません。しかし、そこにいる人間たちは、醜いとか暗いとか雰囲気が悪いといったことは露ほども感じていないのです。自分たちが地獄のような所にいることが分からないのです。霊界もそれと同じで、地縛霊の集まる場所には、実際に醜い環境が出現するようになります。

幽界の最下層には、多くの地縛霊や低級霊が集まっています。魂の中身が極悪で、利己性がきわめて強い者がたむろしています。いつまでも地上的感覚を拭い去ることができず、享楽・快楽に耽溺したままの醜い霊たちが大勢いるのです。そうした醜い心の持ち主の思念は、現実に醜い環境をつくり出します。彼らの思念がつくり出した仮想の世界は、外部から見ると暗い舞台のようなものですが、そこに住む地縛霊たちには一番心地よく感じられる場所なのです。地縛霊のつくり出す醜悪な環境は、まさに暗黒の地獄世界そのものと言えます。

地縛霊となって幽界下層に居座り続けている霊たちは、霊的に覚醒するようになるまで、自分自身でつくった暗黒の境涯(地獄的環境)の中で住み続けることになります。

5)地球は暗黒の地獄

地上人の味わう地獄の苦しみ

地獄とは、魂が苦しんでいる状態・煩悶する心の世界のことであるならば、地獄は霊界だけでなく、今私たちが生きている地上世界においても存在することになります。人生に希望を見いだせず生きる意欲を失っている人、苦しみに喘ぐだけで喜びを全く持てない人は、地上にいながらにして“地獄”に住んでいることになります。地上世界には、地縛霊と同じような“地獄の苦しみ”を味わっている人々が大勢いるのです。生きる希望を失い絶望した状態は、まさに地獄と言えます。

地上人の味わう苦しみの多くは、自らがなした行為の結果ですが、それが分からずに不幸だ・不運だと不満を持ち続けている人は、いつまで経っても地獄の状態を抜け出すことができません。

霊界から地上を見ると、霊的エネルギーに満たされ、霊的に生き生きとしている人間は、ほとんどいません。霊界人からすれば、大半の地上人が霊的に暗い状態の中で存在しているということになります。霊的には生きていない人、魂の死んでいる人がほとんどなのです。霊界から見ると、地球全体が暗黒の地獄世界そのものに映るのです。

シルバーバーチは、その様子を次のように述べています。

「残念ながら大部分の地上の人間においては、霊があまりにも奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のまま放置されています。物質にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかない人が大半です。」

地球こそが“暗黒地獄”

これまで地上人は、霊界には地獄があるのだろうかと思ってきたのですが、実は私たちが住んでいる地球自体が、霊界から見ると地獄であったということなのです。地球全体が、霊的光の届かない暗黒の世界なのです。先にも述べましたが、霊界には、地縛霊の想念がつくり出す暗黒の境界(小世界)が存在します。しかし、それは霊界全体の中のほんの一部分であり、地上に近い幽界の下層に限られます。それに対し地球という物質世界は、全体がそのまま“暗黒地獄”となっているのです。

地球上のほとんどの人間は、「神の光(霊的エネルギー)」を取り入れることができません。神の造られた世界の美しさを見いだせる者は、ほんの一握りに限られています。地上界では大半の人間が“地獄”に住み、ごく一部の人間だけが“天国”に住んでいるのです。一方、霊界では大半の人間が“天国”に住み、ほんの一部の者だけが“地獄”に住んでいます。地上界では大半の人間が“闇”を眺め、一部の人間だけが“光”を見ています。反対に霊界では大半の人間が光を眺め、わずかな者のみが闇を見ているのです。

こうした点で、霊界と地上界は正反対なのです。霊界と地上界は、全く逆転しています。地獄にいる地上人が「霊界には地獄があるのだろうか?」と考えることは、実におかしなことなのです。

心の持ち方ひとつで、天国にも地獄にも直結する

地獄とは、魂がもだえ苦しんでいる状態のことであるならば、困難を甘受し、苦しみを自己の成長のチャンスとして感謝できる人は“地獄とは無縁”ということになります。そうした人はイエスの言うように、天国に住むことになります。霊的に成長した人は困難に遭遇しても、それをよいものとして受け止めるために、自分の心を地獄に陥れることはありません。

一方、霊的に未熟な者は困難を避けようとしたり、責任を他人に転嫁して不満を募らせていきます。このような人間は、いつまでも地獄の状態を抜け出すことはできません。傲慢な人間は“地縛霊”と等しい状態に留まるようになるのです。

地獄を抜け出すためには、自分のこれまでの行為を反省し、霊的真理にそったものにしなければなりません。それが本当の“悔い改め”です。謙虚になってこれまでの考え方を変えてこそ、人間は神の光の中で霊的成長の道を歩むことができるようになるのです。

霊界では、どのような地縛霊も永い地獄の苦しみを通して傲慢な心が打ち砕かれるようになります。いつまでも地上時代のような思い上がった考えを持ち続けることはできません。否応なく「神と摂理」の前に謙虚にならざるをえなくなるのです。そうした謙虚さが芽生えるようになると、霊的覚醒が促されることになります。そして霊的成長の道を、マイナス地点から歩み始めることになるのです。

人間は頑に利己心を通して悪に留まり続け、自ら苦しみを長引かせることになります。また善をなす努力を通して苦しみを和らげ、地獄の状況を抜け出すことができるようになります。自己を正当化するだけで決して反省しない傲慢な人間、自分を偉いと思い込んでいる人間、嫌なことをすべて他人のせいにする人間、自分は不幸だと不満ばかりこぼしている人間は、決して地獄を抜け出すことはできません。心の持ち方を変えた瞬間に地獄は消滅し、天国に通じるようになるのですが、現実には一定の苦しみの期間を経ないかぎり、それはできないようです。

「霊的真理」に照らしてみるならば、今遭遇している苦しみや困難は、自分自身がこれまでに犯した「罪(摂理違反)」に原因があります。今の苦しみは誰の責任でもなく、すべて自分が蒔いた種の実り(結果)なのです。すべては「カルマの法則」に基づいて、自らがもたらしたものなのです。

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