超宗教・高次元宗教としてのスピリチュアリズム―2
――スピリチュアリズムの宗教性の本質と特徴
ニューズレター第38号
先回のニューズレター37号では、スピリチュアリズムの宗教性・信仰性の本質についての前半を述べました。今回はその続きです。内容は次のようになっています。
【3】スピリチュアリズム的生き方の特徴
1.スピリチュアリズムは徹底した実践主義・努力主義
――スピリチュアリズムとは、霊的真理を日常生活で実践すること
霊的真理は実践の指針
どのような思想も、「理論」と「実践」の部分から成り立っています。スピリチュアリズムも同じで、霊的真理という純粋な理論と、それを日常生活に展開する実践内容から成り立っています。スピリチュアリズムの特徴の一つは、実践を徹底して重要視していることです。すなわちスピリチュアリズムは、徹底した「実践主義」であるということです。
スピリチュアリズムの霊的真理は、すべて実践のための指針として高級霊から与えられたものです。霊的真理は、実行に移されることを前提としています。したがって「実行のともなわないスピリチュアリズムは本物ではない」ということになります。実行のともなわない霊的真理は宝の持ち腐れと同じで、何の価値も持たないことになります。
残念なことに、現在すでにスピリチュアリズムに導かれている人々の中には、霊的真理を単なる霊的知識収集の対象・知的好奇心の対象としてのみ見ている人がいますが、それは間違っています。スピリチュアリズムは、単なる思想や哲学ではありません。また従来のキリスト教のような“ただ信じれば救われる”といった宗教でもありません。儀式や祈りだけで善しとされる宗教ではないのです。
“スピリチュアリズム”は、具体的な実践であり行為です。「霊的真理」にそった日常生活そのものであり、それをなすための奮闘努力の歩みなのです。実践のともなわないスピリチュアリズムは本物ではありません。
知識には責任がともなう
高級霊の霊訓では、「知識には責任がともなう」ことが繰り返し述べられています。霊的真理という一般の人々が知らない知識を手にしたことで、その人には他人にはない責任と義務が生じることになります。霊的真理にいち早く出会ったということは、それを真っ先に実行する義務が発生したということです。これが霊的真理を知ったことの意味なのです。
せっかく素晴らしい真理を知りながら、それを忠実に実践しなかったり、勝手な理由をこじつけて無視することは背任行為となります。高級霊が苦労して地上にもたらしてくれた霊的真理は、人間の身勝手な考えによって色づけせず、忠実に実行しようとしなければなりません。
霊的真理を他人に先駆けて知ったということは、地上人として最高の恩恵に浴したということです。しかし同時に、それは与えられた恩恵に見合った大きな責任と義務が背負わされたということなのです。
霊的真理の実践を通じて、霊的成長がなされる
スピリチュアリズムが実践の重要性を強調するのは、霊的真理の実践を通じて「霊的成長」がなされるようになっているからです。真理に対する学問的研究や心霊現象の研究によって人間が霊的に成長することができるなら、スピリチュアリズムがこれほどまでに実践の重要性を強調することはなかったでしょう。しかし「魂の成長」は、日常生活での真理の実践を通じてのみ達成されるようになっています。そのためスピリチュアリズムでは、実際の行為の大切さを繰り返し主張しているのです。
霊界にいる霊が、わざわざ地獄のような地上世界に再生するのは、物質世界で現実に物事を体験し、霊的真理にそった実践の努力によって自らの霊的成長をなすためです。霊界ではできない地上世界ならではの体験と実践を求めて、敢えて再生という困難な道を選ぶのです。
具体的な実践内容とは?
では、その霊的真理の実践とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。日常生活における実践内容とは、何なのでしょうか。霊的真理の実践内容は、以下に述べる4つの行為にまとめることができます。
1つ目の実践内容(行為)とは――「霊主肉従の努力」です。生活のすべてを霊優位の状態にするということです。すなわち日々の生活の中で霊的コントロールをして、霊的存在としての最低ラインである物欲や本能に流されないような生き方をするということです。肉体を持った地上人は、無意識のうちに物欲に動かされ本能的快楽を求めるようになるため、高い世界を目指すには内面の厳しい闘いが必要となります。ある種のストイックな闘いが要求されるのです。霊的真理を手にした者は、まず自分自身の存在と生活のすべてを霊中心にするための内面的闘いが避けられなくなります。これが第一番目の実践内容です。
2つ目の実践内容とは――「利他的行為、すなわち無償のサービス」です。他人のために自分自身を役立てるということです。魂は、そうした利他的行為によって成長するように造られているのです。スピリチュアリズムでは、宗教とは利他愛の実践のことに他ならないと説いています。日常生活における利他的行為・利他愛の実践こそが、人間がなし得る最も価値ある生き方であり、宗教そのものであるとしています。
利他愛の実践(無償のサービス)の素晴らしさは、「神の子供(隣人)に尽くすことによって、神を愛することになる」というところにあります。他人への利他的奉仕は、自動的に神を愛する行為になるのです。したがって“宗教”とは、「人間を利他愛で愛し、同時に霊的な親である神を愛する生き方」と定義することができます。利他的行為が、二番目の実践内容となります。
3つ目の実践内容とは――「霊的真理の伝道」です。霊的真理を一人でも多くの人に伝えるということです。霊的宝を自分だけのものにとどめずに、できるだけ多くの人々に分け与えることです。それは今述べた“利他愛”の中でも最も純粋な行為と言えます。霊的真理を伝えるということは、真の救いの道、霊界にまで通じる永遠的な救いの道を人々に示すことになるからです。他人への奉仕という点で、何よりも価値ある行為となります。
霊的真理の伝道は、先にスピリチュアリズムと出会った者でなければできない最高の奉仕活動です。霊界の人々は純粋な利他愛から、地上人に霊的真理をもたらそうと働きかけてきました。その結果、私達は真っ先に大きな恩恵を手にすることができました。こうした意味でスピリチュアリストは、最も幸運な地上人と言えます。霊界の人々の純粋で献身的な愛に報いるために、今度は私達が、それを他人に伝えていかなければなりません。高級霊の願いは、地上人が一刻も早く真理を知って、霊的救いを得てほしいということです。霊的真理の伝道は、その願いに応えることであり、最高の利他愛の実践になるのです。
4つ目の実践内容とは――「地上人生の中で遭遇する苦しみ・困難に対して、それをカルマが消滅して霊的成長の道が促される、ありがたいチャンスとして受け入れる」ということです。地上の苦難の多くは、自らがつくったカルマによって引き起こされています。「因果の法則」によって、カルマを清算する道が“苦しみ”となってもたらされるのです。そうした苦しみは霊的成長にプラスとなる、ありがたいものと言えます。
したがって苦しみに遭遇したときには、ただただ苦しみから逃れようとするのではなく、それを自分にとって必要なものとして堂々と受け止めることが大切です。こうした姿勢は、霊的真理を知った者でなければとることはできません。霊的成長のためには、真理を拠りどころに苦しみに正しく対処することが不可欠なのです。
スピリチュアリズムの霊的真理を手にした者に要求される基本的な実践内容とは、以上のような4点に整理されます。「霊主肉従の努力(霊的自己コントロール)」「利他愛の実践」「霊的真理の伝道」「苦しみ・困難への正しい対処」――これが日常生活・地上人生における実践内容です。
生半可な心がまえではできない霊的真理の実践
こうした4つの内容を実行していくことによって、私達は「霊的成長」の道を歩むことができるようになります。“スピリチュアリズム”は、地上人にとって最高の実践哲学であり、最高の救いの道なのです。
さて問題は、霊的真理を日常生活で実行に移すことですが、それが非常に難しいということなのです。いかにも簡単に思える内容が、いざ実践に踏み出してみると、実はとても高い目標であることに気がつくようになります。
霊的真理の実践が難しいのは、私達が肉体を持っているからです。肉体という分厚い壁が、私達を物質の中に閉じ込め、実践を妨げることになるのです。4つの内容を本気で実行しようとすると、その厳しさにすぐに直面するようになります。簡単に思えた内容が、あまりにも高い理想であることを実感するようになります。そして、なかなか実行できない自分に自信を失ったり、絶望したり、疲れ果ててしまうことになるかもしれません。やがて自分ひとりの力では、とても実行できそうにないと思うようになります。実はこうした葛藤が、これまでの修道者・宗教家が体験してきた内面の苦しみの実態だったのです。
“奮闘努力”が不可欠
何事においても高い目標を達成しようとするならば、たいへんな努力が要求されます。それと同じでスピリチュアリズムでも――「努力なくしては本物の霊的宝(霊的成長)は得られない」と繰り返し教えています。安易で気ままな生活、自己満足に浸って奮闘努力の必要もないような怠惰な生活からは、霊的進歩は望めません。真に価値あるものを手にすることはできません。
地上人にとって最も嫌なこと、できるならば避けたいことを、スピリチュアリズムは私達に要求します。高い目標に向けての努力こそが、魂を成長させることになるからです。そして、それが神の摂理・神の法則に合った生き方であるからです。スピリチュアリズムは結果よりも、高い目標に向けて努力する姿勢を問題にします。すなわち「動機の純粋さ」を重視します。地上の人間は一人の例外もなく“奮闘努力”の中で、自分の性格と精神と霊性(心)を鍛えるために地上界に誕生したのです。
真っ先に「霊的真理」を手にした人間に要求されることは、高い理想に向けて最善の努力をすることです。あまりの厳しい現実を前にして、ついつい人間レベルの言い訳をしたり、自分なりの理屈をつけて逃れようとしがちですが、そこが自分自身に厳しくするところです。霊的真理を忠実に実行するとは、そういうことなのです。できないと分かっていても理想に向かってチャレンジするところに価値があるのです。そして、その分だけ「霊的成長」がもたらされるようになります。
*霊的真理に対する、さまざまな姿勢
スピリチュアリズムは、シンプルであるけれども「高い目標」と、そこに至るための「厳しい実践内容」を私達に要求します。それに対し地上の人間は、さまざまな反応を示すようになります。ある人は、高い目標に至るためにはどれほど厳しくとも挑戦し続けようと決意します。どのような苦労や失敗を繰り返しても、大きな喜び・幸せを手にするために頑張ろうと思います。
一方、スピリチュアリズムが示すあまりの理想の高さに尻込みし、自分が簡単にできる程度のことでよしにしようとする人もいます。挑戦を諦め、初めから妥協点を求める人です。また高い目標・理想に向けての努力など、とても自分にはできるはずがないと決めつけ、さりとてスピリチュアリズムを捨て去ることもできず、真理を都合よく解釈して自分の態度を正当化しようとする人もいます。
さらには自分が実行できそうなところだけを取り上げ、できそうもないところ、耳に痛い部分には蓋をして無視するような人もいます。なかにはスピリチュアリズムとは出会わなかったことにして、別の手頃な道を探そうとしたり、これまで通りのことをするだけでよしにしようとする人もいます。気楽な他の宗教やニューエイジに行くことで、自分の弱さを正当化しようとするかもしれません。
また真理を実践できない自分に負い目を感じたり、スピリチュアリズムを逆恨みして、スピリチュアリズムそのものを否定しようとする人もいます。スピリチュアリズムの真理の一部を都合よく取り入れ、適当に自分流にアレンジして、この世の名声と富を得ようと画策する人間もいます。スピリチュアリズムを単なる学問・知識としてのみとらえ、それを実行に移すことなど全く考えない人もいます。
このように同じ「霊的真理」に出会いながらも、それに対する反応・態度は千差万別となります。
地上は失敗から学び成長する所
霊的真理の実践についてのもう一つの重要な点は――「地上世界は失敗から学び成長する所である」ということです。地上世界は霊界へ行く準備をする所であり、訓練場です。さまざまな失敗から学び、その失敗を糧として成長する所として造られています。全く失敗をしない人ならば、地球上に生まれる必要はありませんでした。
したがって私達は失敗を恐れずに、自分の良心に照らして善かれと思うこと、人のためになると確信することを積極的に実行すべきです。失敗を恐れて何もしないのは間違った生き方です。何もしないということは、「何も善いことをしない」という利己的な生き方なのです。霊的成長の道を、自ら放棄する愚かな歩みなのです。
2.スピリチュアリズムは完璧な自己責任主義・自力救済主義
完全な無干渉主義
霊界の人々は、時のきた地上人を霊的真理に導くために必死の努力をしています。地上人は、何気なく、あるいは偶然にスピリチュアリズムと出会ったと思っていますが、実はその背景には霊界からの強力な導きがあったのです。
さて、そうして地上人は霊的真理と出合うことになりますが、その後のことは、すべて地上人自身の意志に委ねられることになります。自分の責任で、その後の人生を選択していかなければなりません。すなわち「霊的真理」によって示された最高の目標・正しい方向に向けて歩み出そうとするのか、あるいは手にした真理を無視してこれまで通りの生活を続けるのかを、自ら決めなければならないということです。
このようにスピリチュアリズムは、高い目標・真の救いに至る道を示す一方で、それをどのように活用するかについては本人の意志に任せます。霊界サイドからは、地上人が救いに至る高い方向性は示しますが、それを実践に移すかどうかについては直接的な干渉は一切しません。スピリチュアリズムは、この世の宗教組織や会社などのように一方的に命令したり、強制的にノルマを課すようなことはありません。示された目標に向かって努力し、霊的宝を得るかどうかは、すべて本人の自由意志に委ねられます。スピリチュアリズムは――その意味で全くの「無干渉主義・自由放任主義」なのです。
完璧な自己責任主義
それは同時に、自らの選択した行為の結果については、自分自身ですべて責任を負わなければならないということを意味します。せっかく最高の救いの道が示されたにもかかわらず、邪な思いや利己的な思いからそれを無視するならば「神の摂理」によっていつかは、その間違いに対する償いをしなければならなくなります。後悔と苦しみの時が必ず訪れるようになります。
スピリチュアリズムは――「魂の成長に関するすべての責任は自分自身で負う」という、きわめて厳しい「自己責任主義」に立っています。
自力救済主義
スピリチュアリズムの厳格な「自己責任主義」は、救いの問題にそのまま反映されます。スピリチュアリズムの霊的真理は「最高の救い」に至る道を示しますが、それを実行して救いを手にするかどうかは、本人次第であるということになります。すなわち「自己の救いは、すべて自分自身でなす」ということなのです。
神が、苦しむ人間に同情して救ってくれるようなことはありません。霊界から高級霊が手を差し伸べて救ってくれるようなこともありません。心優しい地上人や威厳を持った教祖が、自分の罪を許し引き上げ救ってくれるというようなこともありません。自分で自分を救うしかないのです。目の前に示されたチャンスを生かして救いにあずかるかどうかは、最終的には本人が決めることなのです。
この意味でスピリチュアリズムは――きわめて徹底した「自力救済主義」ということになります。神や霊、他人による“他力救済”は間違いです。キリスト教の贖罪思想も全くの間違いです。安易な救いの道は現実には存在しないのです。
最後は、すべて一人一人の問題
スピリチュアリズムは、神や他人が自分を救ってくれるという“他力救済”の考えを否定します。「自分で自分を救う」という“自力救済”の道以外は存在しません。霊的成長に関しては、自分で責任を負わなければなりません。霊的成長はすべて自分の責任であり、それを他人のせいにすることはできないのです。同時に他人の霊的成長に対しては、誰も責任を負うことはありません。このように「霊的成長」とは、最終的には、すべて一人一人の問題となります。スピリチュアリズムは地球人類救済のための霊界を挙げての大プロジェクトですが、その進展は地上人それぞれの努力を通じてなされていくものなのです。
こうした完全な「自己責任主義・自力救済主義」という点で、スピリチュアリズムは他の宗教と一線を画しています。その厳しさにおいて、スピリチュアリズムは群を抜いています。
3.スピリチュアリズムは徹底した内面主義的信仰
スピリチュアリズムは、深くて敬虔な神への信仰
スピリチュアリズムは、霊界において常識となっている「神と神の摂理への崇拝」という宗教を地上にもたらそうとするプロジェクトです。霊界にいる億万の高級霊達は皆、神への絶対的な信仰を持っています。私達地上人の感覚からするならば、霊界人は残らず敬虔な信仰者ばかりなのです。シルバーバーチは毎回の交霊会を、祈りで始め、祈りで終えています。そして私達に対して、祈ることの重要性を繰り返し述べています。霊界には、地上世界のような無神論者は存在しません。
スピリチュアリズムが信仰であると言うと、あまりよい感じがしないという人がいるかもしれません。信仰という言葉に、従来の宗教の偏狭で狂信じみた様子を思い浮かべるからです。しかしスピリチュアリズムが、人生と生命を懸けた信仰であることは間違いありません。“信仰”とは、神などの信仰対象を絶対的に信じ、これにすべてを捧げる生き方・絶対帰依する生き方です。神を全面的に信頼し、神に人生のすべてを捧げ尽くすという生き方です。
信仰のために殉教していったクリスチャン達、毎日何度も聖地に向かって祈りを捧げるイスラム教徒は代表的な地上の信仰者と言えますが、スピリチュアリストもそれと同様に熱心な信仰者なのです。“スピリチュアリスト”は、神に一歩でも近づくことを目標とする信仰者なのです。
神と良心の声に忠実であろうとする生き方
――内面主義・内省主義的な生き方
真に信仰的な人は、神の前に徹底して自分の内面と行為を正そうとします。敬虔な信仰者とは、こうした内省的な人のことです。他人の目や評価を気にせず、ひたすら神の前に正しくありたいと願い、神と自分の良心の声に忠実に従おうとします。そして日常生活において、真理の遵守を心がけます。
スピリチュアリストは、常に自分自身に厳しく、純粋で内省的な信仰を求める「内面主義者・内省主義者」なのです。
すべてを見通す高級霊の前に……
さらにスピリチュアリズムには、深い内面主義・内省主義にならざるをえない特殊な理由があります。それはスピリチュアリズムの「霊的真理」によって、霊界人の目を意識するようになるからです。霊界の霊達が、私達地上人の行為をすぐ近くで見ていることを実感させられるからです。
霊界人は、地上人の心の内を残らず見通し、心の動機と目的を見抜いています。そしてその動機の純粋さに応じて、霊界から援助や指導・働きかけをするようになります。霊界人は、地上人の心の底に巣くい隠されている利己心やエゴの思い・虚栄心・傲慢さのすべてを知っています。霊の前には嘘や隠し事は一切通用しません。真理の理解が深まるにつれて、こうした事実がはっきりと分かるようになります。
神はもちろんのこと、霊界の人々の前にすべてが知られているということが実感できるようになると、人はおのずと自分の考え方や行為を正しいものにしようと努めるようになります。霊的真理にそったものにしようと心がけるようになります。霊界との関係が密接になればなるほど、より内面的・内省的にならざるをえなくなるのです。
死後、霊界では、地上時代の不正のすべてが明るみに出る
スピリチュアリズムが地上人を内面主義・内省主義に仕向ける、もう一つの理由があります。それが“死後の審判”についての内容です。この霊界の事実が分かるようになると、人目に隠れて不正を行うということができなくなります。死後の霊界では、地上時代のすべての言動が白日の下にさらけ出され、自ら直視させられることになるからです。
そこでは地上時代の不正や悪事のすべてが周りの人々に知られ、言い逃れできないような状況に立たされることになります。こうした形で霊界入りの直後、地上人生の細部にわたる反省が促されることになります。これが“死後の審判”と言われてきたものの実際です。人間は死後、このようなプロセスを通じて地上時代の隠し事や不純な動機から出た自らの不正を突きつけられ、「自分で自分を裁く」ことになるのです。
以上のような事実がスピリチュアリズムによって明らかにされているために、地上で人を騙したり、外面だけを取り繕うことの愚かしさが実感できるようになります。利己的に生きること、私利私欲に走ることが決して得をする在り方ではなく、それどころかたいへんなマイナスの結果をもたらすことが強烈な実感をともなって迫ってくるようになります。「正直に人生を歩む」――それが最も賢明な生き方であることが強く自覚できるようになるのです。
こうした理由から、スピリチュアリズムを通じて「深い内省主義」が、一人一人の心の内にしっかりと根付くようになります。
4.霊的視野の重要性と、霊的楽天主義
――スピリチュアリズムは霊的視野から地上世界を眺める
霊的視野で地上人生を見る
大半の地上人は、肉体を持つことによって霊的意識を失い、物質的な意識に支配されるようになります。そして、それが不必要な心配や不安をつくり出すことになっています。
スピリチュアリズムによる霊的真理は、地上世界にいる人間に、霊界人と同じような霊的考え方と霊的判断の仕方を教えています。これが「霊的視野から地上世界を見る」ということであり、先に述べた霊優位主義・霊中心主義の実践的応用となっています。霊界までを包括した「霊的視野」という広い視点に立って地上人生を眺めるようになると、地上でのさまざまな問題は、実に取るに足りない小さなものになってしまいます。一般の人々にとって悲劇や不幸と思われている問題が、それほど深刻なものではなくなってしまいます。
霊的楽天主義
霊的視野を持つことによって、最高のポジティブシンキング・霊的楽天主義が可能となります。いったん「霊的楽天主義」が身につくと、とかく人間が陥りがちな取り越し苦労や不必要な恐れ・悩みから解放されるようになります。すべての出来事を、自分の霊的成長にとって善いものと受け止められるようになります。
地上人生において遭遇するあらゆる出来事は、自分の霊的成長にとってふさわしいものであり、ベストの道が展開していくのだと考え、悠然と人生に臨むことができるようになるのです。
“死“は喜びであり、祝福すべき出来事
人間は霊的視野を持つことで、楽天的な考え方ができるようになります。さまざまな出来事に対して、受け止め方が根本から変わるようになります。その代表的なものが、自分の死の問題であり、愛する人との死別の問題です。
スピリチュアリズムに限らず宗教の多くは、死後の生命の存続を説いています。そして“死は悲劇ではない”と説明していますが、死後の生命に対する確信が乏しいために、いざ自分に死が迫ってくると不安に駆られるようになります。また身内との死別に遭遇すると平静さを失って嘆き悲しむことになります。
大半の地上人にとって、愛する人との死別は最大の不幸であり悲劇です。しかしスピリチュアリズムでは“死”は、重苦しい肉体から解放され、地上とは比較にならない素晴らしい世界に旅立つ喜ばしい出来事であるとします。死は単なる自然現象の一つにすぎず、死によってそれまでの愛情関係がなくなってしまうわけではありません。真の愛情で結ばれた者同士の関係は、いっそう密接になります。したがって身近な人間との死別は、「愛する人が物質や肉体の束縛から解放されて幸せになる祝福すべき時」と考えればよいのです。
スピリチュアリズムのように、自分の死を喜び、愛する人との死別を新しい人生の門出として祝福するといったことは、他の宗教では想像もつきません。こうした点においてもスピリチュアリズムは、この世の宗教とは根本的に違っています。他のすべての宗教を超越しています。
苦しみ・困難はありがたいもの
霊的視野によってもたらされる「霊的楽天主義」のもう一つの実例は、苦しみ・困難への対処の仕方です。死別の問題と同様に、地上人が不幸と考えがちなのが苦しみ・困難についてです。それに対してスピリチュアリズムは、この世の宗教や一般の人々とは正反対の見方をします。
これまで人類は、地上人生の苦しみ・困難を不幸とのみとらえ、それが取り除かれることが救いであると考えてきました。何とか苦しみを避けようとして躍起になってきました。そして多くの人々が“救いの道”を宗教に求めてきました。神の力や奇跡にすがって苦しみを取り除き、不幸をなくそうとしてきたのです。
しかしスピリチュアリズムは、そうした従来の宗教とは全く反対の考え方をします。苦難は、その人間の霊的成長を妨げてきた「カルマ」を清算するための必要なプロセスであり、人間の魂と精神を鍛えて「霊的成長」を促すことになる、ありがたいものと見なすのです。スピリチュアリズムでは、地上世界は霊界での生活に備えて魂を訓練する場所であり、しかもそこに住むのはほんの一時のことである以上、苦しみの体験をむしろ歓迎するのです。
地上での苦労が、霊界という永遠の世界での幸せを約束するものであるとするなら、その苦しみ・困難は貴重なものと言えます。苦しみの体験によって得られる霊界での喜びに比べたなら、地上での苦しみなど取るに足りないものだからです。したがってスピリチュアリズムでは、神にすがって苦しみを取り除いてもらおうとするのではなく、苦しみ・困難に堂々と立ち向かい乗り越えることを教えるのです。
スピリチュアリズムのように、苦難の体験を積極的に善いものと考え、楽天主義的な見方をする宗教は他にはありません。スピリチュアリズムは、霊界の高くて広い視点から地上世界を眺めるために、地上の宗教とは全く違った楽天的なとらえ方をすることができるのです。
5.霊界の霊達との密接な関係
霊界の大軍団の一員である“スピリチュアリスト”
物質主義と利己主義に覆われた地上世界で“スピリチュアリズム”という人類救済の大義のために人生を捧げようとする人間は、霊界の霊達にとっては、まさに同志であり同じ大軍団の一員です。スピリチュアリズムのために献身的に働いている霊界の霊達は、常にそうした地上人を求めています。
シルバーバーチは、スピリチュアリズムのために献身的に携わっている霊界人の気持を次のように述べています――「こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ち受けている霊がいくらでもいるのです。私達の方から皆さんを待ち望んでいるのです。皆さんが私達を待ち望んでいるのではありません。」
(『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.115)「大勢の霊がこれまでずっとあなたを鼓舞し、保護し、導き、目にこそ見えなくても現実的影響力を行使してきたのです。喜びをともに喜び、悲しみをともに悲しんできました。まさしく笑いも涙も分け合ってきたのです。そうした霊とあなたとは文字どおり一体であり、決して見捨ててはおきません。」
(『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.71)
このような状況において、もし地上人がスピリチュアリズムのために人生を捧げ、霊界の人々と一緒に働こうと決心するならば、霊界人は放っておくはずがありません。一人の地上人に、霊が大挙して押し寄せるようなことになります。そして、その地上人を道具として最大限に用いてスピリチュアリズムを推し進めようとします。こうして地上のスピリチュアリストは、霊界の大軍団の一員として働くことになります。「霊界の道具」となったスピリチュアリストは、見た目には一人の人間であっても多くの霊達の力が結集されるため、何百・何千人分もの働きができるようになります。
地上には、このような形で霊界人とタイアップし、霊界からの協力と導きを受けられる宗教や宗教者はいません。唯一、スピリチュアリズムにおいてのみ可能となるのです。それはスピリチュアリストが、霊界を挙げての大プロジェクトの実情と目的を知っているからです。スピリチュアリズムは地上の宗教の中で、最も霊界人と密接な関係にあります。「霊界の霊達との密接度の違い」――これが他の宗教と比べたときのスピリチュアリズムの際立った特徴の一つなのです。
道具意識の素晴らしさ
霊界側の絶大な期待と願いの中で、地上人が自らを「霊界の道具」として提供するとき、霊界人と地上人の関係は最も強化され密接度も高まります。普通ではあり得ないような霊界からの影響力が、一人の地上人に向けて注がれることになります。スピリチュアリズムは、こうした霊界人と地上人の霊的な結びつきと協力関係を通して、地球上に「霊的真理」を普及拡大させていくことになります。
スピリチュアリズム運動の主役・主導役は、霊界の億万の高級霊達ですが、彼らは地上人を道具として用いる中で、その影響力を行使していくのです。スピリチュアリストがいなければ、霊界の霊達も力を発揮することはできません。“スピリチュアリスト”という「地上の道具」があってこそのスピリチュアリズムなのです。その意味でスピリチュアリストは、霊界人にとってきわめて重要な存在です。
このようにスピリチュアリストとは、真っ先に霊的真理を受け入れた地上人ということだけではありません。霊界の霊達の地上の道具として、ともにスピリチュアリズムを進めていく使命を担っています。したがってスピリチュアリストには、自ら志願して霊界の道具となることが求められているのです。それを通じてスピリチュアリストは、地上人として最高の人類への貢献ができるようになります。何も自分の力に頼って、がむしゃらに働こうとする必要はありません。リラックスして、自らをより良い道具、霊達が使いやすい道具とするように専念すればよいのです。それによって最高の利他愛の実践・最高の人類愛の実践が可能となるのです。
霊界の良き道具となって多くの霊達の協力を得られるようになれば、自分一人でなす何百・何千倍もの人類への奉仕が可能となります。しかも淡々と歩む中で、それが実現していくのです。とかく世間の人々は、自分には能力がないから大きな仕事はできないと言いますが、自分を霊界の道具として捧げるならば、確実に大きな仕事が達成できるようになります。今地球上には、スピリチュアリズムほど霊界の人々との一体関係・協力関係をつくり上げることのできる宗教は他にありません。
さて、ここで問題となるのは「どのようにしたら霊界の良き道具となれるのか?」ということです。霊界の道具となるためには、何よりも霊の側が魅力を感じるような、喜んで働きかけたいと思えるような内容を地上人が備えていなければなりません。厳しい内面性が要求されます。その内容とは――「スピリチュアリズムの歴史的使命を正しく理解し、そのために高級霊が一丸となって働きかけている事実を知っている」「自らの我欲を捨て去り、ひたすら人類全体の救いのために働きたいとの純粋な奉仕精神と利他愛を持っている」「人類の幸福のために自分を最大限に役立てたいと願い、そのために喜んで犠牲を引き受ける覚悟を持っている」ことです。
こうした奉仕精神と犠牲精神があるならば、霊達は喜んでその人間を道具として用いようとします。霊界の道具としての内面的資質が高まれば高まるほど、いっそう多くの霊の援助を引き出し、スピリチュアリズムと人類全体への貢献の可能性が拡大していくことになります。口先でいくら奇麗事を並べても、霊は地上人の心の内をすべて見通しています。「奉仕精神と犠牲精神のともなった純粋な道具意識」――スピリチュアリストには、常にこうした内容が期待されているのです。
道具意識の素晴らしさは、自分の力を超えた人類への奉仕・利他愛の実践が可能になるということだけではありません。道具意識は、私達の心を徹底して謙虚にしてくれます。“謙虚さ”は、霊的成長にとって不可欠な要素です。世の中の大半の人々は自我を大切にし自己主張に走りますが、それが結局、本人の心にエゴと利己心を増幅させることになっています。道具意識は謙虚さをもたらし、心から醜い利己性や低俗な自己主張を取り除いてくれます。そして霊的成長をスムーズに促してくれます。「純粋な道具意識」は、地上人に大きな霊的恩恵をもたらしてくれるのです。
地上からの守護霊への接近
スピリチュアリズムは、霊界人と地上人が、想像以上に密接な関係にあることを明らかにしています。こうした事実は、スピリチュアリズムによって初めて知らされました。さらにスピリチュアリズムは、一人の地上人と一人の守護霊の間に、さらに密接な霊的関係があることを明らかにしています。
地上人の誰もが、地上に生まれてから死ぬまで、一人の守護霊によってずっと守り導かれています。今この時も、守護霊は私達に密着し、霊的成長のために働きかけています。そしてこれからも、私達が地上人生を終えるまで、その関係は絶えることなく続くことになります。守護霊は、私達の性格・気質・霊的な背景、さらには今後の人生行路から寿命に至るまで、ありとあらゆることを知り尽くしています。またこれまでの地上人生における隠れた行為についても、その一部始終を知っています。そのうえで守護霊は、私達の魂の成長にとって最も適切な導きをしてくれるのです。まさに守護霊は、地上人にとっての「生涯の個人教師・専属の霊的家庭教師」なのです。
一方、守護霊は教師として私達の霊的指導に係わっているだけではなく、神の代理者として、私達地上人を「神の愛(純粋な利他愛)」で愛してくれています。その愛は、地上の肉親の献身的な愛よりも深くて広いものです。自分のすべてを与え尽くし、一切の見返りを期待しない純粋な利他愛なのです。これまでの人生で、私達を最も深く愛してくれたのは肉親ではなく、実はこの守護霊だったのです。
誰もがそうした守護霊の愛と導きを得て地上人生を送っていますが、その最大の援助者の存在に気づいている人はほとんどいません。大半の地上人が、最も身近で親しい関係にある守護霊について知らないまま「自分は誰にも理解されず、愛されることもなく独りぼっちである」と錯覚しています。しかし本当は、独りぼっちで孤独な地上人などどこにもいません。私達のすぐ傍に守護霊がいて、真実の愛で包んでくれている事実を知ることができるなら、その瞬間に孤独感や疎外感は消し飛んでしまいます。
スピリチュアリズムは、こうした地上人と守護霊との密接な関係を繰り返し強調しています。地上人が守護霊の現実の姿を知ってその愛に感謝し、自ら接近を図るとき、守護霊からの働きかけと導きはずっと強力になります。地上人と守護霊を結ぶ霊的パイプは、さらに太くて強いものになります。その結果、地上人は霊界からの影響力とエネルギーをストレートに受けられるようになるのです。
このようにスピリチュアリズムは、地上人が守護霊に近づく努力をする必要性を訴えていますが、祈りや瞑想は、地上人と守護霊の霊的絆を強化するうえで大きな意味を持っています。地上人と霊界人の関係を強化するために“祈り”は、とても大切なものなのです。
地上の宗教の中で、スピリチュアリズムほど守護霊の実態を明らかにし、地上サイドから守護霊に接近を図ろうとするものはありません。ここに他の宗教にはないスピリチュアリズムの特徴があります。
6.祈りの大切さ
祈りを重要視するスピリチュアリズム
今、地上人と守護霊の霊的関係を強化するうえで“祈り”が大きな役割を果たすことを述べました。いずれの宗教においても、祈りは当たり前のものとして行われています。宗教や信仰に祈りはつきものです。スピリチュアリズムは、祈りの重要性を繰り返し強調しています。それは祈りが、多くの霊的恩恵を地上人にもたらすからです。祈りは地上人が考える以上に、霊的影響力が大きいものなのです。
的外れな祈り
――奇跡や特別な配慮を願う祈りは聞き届けられない
多くの人々は苦しみ・困難に遭遇すると、神に祈り、不幸を取り除いてもらおうとします。これまで地上人類は“祈り”とは、神に願い出て、その超越的な力をもって奇跡を起こし障害や不幸を取り除いてもらったり、特別な配慮をしてもらうことであると考えてきました。人間が必死に願い出れば、神はその祈りを聞き届け敵から自分達を守ってくれる、時には自分達に代わって敵を打ち滅ぼしてくれるものと思ってきました。しかし人類が地上に誕生して以来、そうした祈りが聞き届けられた例は一度もありません。そして今後も、一切そうした奇跡は起こりません。
なぜなら地上人類が遭遇する苦難や障害は、「神の法則(因果律)」の支配のもとで引き起こされているからです。人類が体験するあらゆる出来事は、すべて神の摂理に基づいて発生します。神が宇宙や万物を支配するためにこしらえた法則は、人間の願いや希望とは係わりなく、機械的に運行されるようになっています。したがって地上人が摂理によって発生した苦難や障害を神に祈って回避しようとしても、それはできません。もし神が、個人の願いを聞いて摂理に特例を設けるならば、神の造った宇宙そのものが根底から崩れ去ることになります。
多くの日本人は神仏に、家内安全・無病息災・商売繁盛を祈ります。しかしこうした常識的な願い事も、結果的には一切聞き届けられることはありません。大半の地上人の祈りは物質的利益を求めるものになっていますが、そのようなご利益を願う祈りは、決して聞き入れられることはないのです。
地上人が祈りを通して神に願い出る内容の多くは、的外れなものばかりです。こうした状況は個人レベルだけでなく、宗教レベルの祈りにもそのまま当てはまります。これまでの宗教における祈りのほとんどが、摂理に反した内容となっています。真理からずれたことを平気で祈ってきました。そのような祈りは、たとえ必死であったとしても無駄となります。摂理から外れた祈りは、地上人のエゴや物質欲を引き出し、霊的成長にマイナスをもたらすことになります。霊界人から見たとき、これまで地上人がしてきたような祈りは“しない方がましであった”ということなのです。
祈りは何のためにするのか? 祈りの効用とは何なのか?
ではスピリチュアリズムは、なぜ祈りの重要性を訴えているのでしょうか。祈りには、どのような効用があると考えているのでしょうか。結論を言えば、祈りには2つの効用・目的があります。
1つ目の祈りの効用とは――祈りによって「霊的成長が促される」ということです。祈りが霊的成長を促し、霊的成長にプラスになるというのは、次のような理由からです。祈りや瞑想は、地上人を支配している肉的意識・物質的意識を一時的に中断させ、霊的意識を取り戻させます。日常の喧騒から身を引いて一人になり目を閉じると、自動的に物質世界の感覚が遮断され、霊的世界に意識が向くようになります。それまで「肉主霊従(物質的意識中心)」であった心が「霊主肉従(霊的意識中心)」になり、心は本来の状態を取り戻し息抜きができるようになります。そうなると霊的エネルギーを取り入れられるようになり、それにつれて霊中心性が高まり、霊界の高次の波動に魂を合わせることができるようになります。高級霊からのインスピレーションを受けやすくなるのです。
祈りの実践を続けることによって、地上人は肉体を持ちながらも短時間に高い心境に至ることができるようになり、日常生活における霊的コントロールが容易になります。霊的エネルギーを必要に応じて取り入れられるようになり、利他愛実践の意欲を常に保てるようになるのです。これが1つ目の祈りの効用であり目的です。
2つ目の祈りの効用とは――「背後の霊との一体化が促され、より多くの利他愛実践のチャンスが与えられるようになる」ということです。祈りによって霊界の霊との関係が密接になり、たくさんのエネルギーと導き・援助が得られるようになります。その結果、霊の道具としてさらなる貢献の場が与えられ、大きな働きができるようになります。
正しい祈りとは?
正しい祈りを通して、こうした素晴らしい霊的効用がもたらされます。ではその正しい祈りとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。祈りが正しいものとなるためには、次の2つの条件を満たす必要があります。
1つ目の条件とは――「祈りが正しい対象に向けてのものである」ということです。すなわち正しい祈りとは、大霊である“神”に向けての語りかけ・働きかけです。祈りの対象は、唯一の神、大霊の他にはありません。それ以外のもの、例えばイエスや宗教の教祖、背後霊や天使・神々といったものに向けての祈りは間違っています。この意味で神道などの多神教における祈りは間違いであり、ひいてはその信仰自体が的外れの行為ということになります。
2つ目の条件とは――「祈りの内容が正しい」ということです。言い換えれば、神に向けての祈りの言葉が、摂理と真理に合致したものになっているということです。人間の身勝手な願い事、摂理を無視した一方的な願い事は、本当の祈りではありません。
こうした2つの条件を満たしたとき、祈りは正しい霊的行為となります。祈りは、霊的親である大霊(神)に少しでも近づきたいという魂の切望に他なりません。魂の深みから湧き上がる、霊的成長を求める純粋な霊的渇望です。真実の祈りとは、それ自体が利己性を全く含まない「純粋な霊的活動・魂の表現活動」なのです。
何を祈ったらよいのか?
摂理から外れた祈りは、間違った祈りです。その意味で霊的真理を知らない人の祈りは、真剣であっても本当の祈りではないということになります。神は地上人が祈る前から、本人にとって何が必要なのかをすべてご存知です。心の内もすべて見通しています。その神に向かって私達は、一体何を祈ったらよいのでしょうか。
まず、祈ってはならないことを知っておかなければなりません。これは祈りの最低限のマナーということになります(*これまで人類は、この最低限のマナーを守ってきませんでした)。物欲・名声といったこの世の利益を願うような祈りは、マナー違反です。また摂理によって発生している苦しみ・困難を、一方的に取り除いてほしいと願うこともマナー違反です。苦しみ・困難に対しては――「御心ならば取り除いてください。この苦しみが必要なものであるなら喜んで受け入れますので、どうか耐える力を与えてください」と祈るべきです。
マナー違反の祈りをしないようにする一方で、摂理に合った祈りを積極的にします。摂理に合った祈り・真理にそった祈りとは――「自分の霊的成長を願うこと」「弱い自分の心を強くしてほしいと願うこと」「霊主肉従の力を与えて清らかな心を持てるようにしてほしいと願うこと」です。そして「もっと利他愛実践のチャンス・奉仕のチャンスを与えてくれるように、人類のために自分を道具として活用してくれるように、自分を犠牲にしてくれるようにと願い出ること」なのです。
こうした摂理に適った祈りは、霊界の守護霊や他の霊達によって聞き届けられ、本人にとってふさわしい時期に、適切な助力や導きが与えられることになります。神に向けての正しい祈りは、実際には神の代理者である霊達や天使達によって聞き届けられることになります。
祈る資格
祈りは、最も純粋な霊的行為・信仰実践の一つです。霊的な親である神の前に心を解き放ち、最も深い霊的次元で触れ合う厳粛な一時なのです。したがって祈りには、常に最高の誠意が要求されます。誠意があって初めて、神の前に出ても恥ずかしくないということになり、“祈る資格”が与えられるようになるのです。
その誠意とは、常日頃から霊的真理にそった実践を心がけているということです。そうした人であってこそ、神の前に「もっと自分の心を高めてください」と祈ることができるのです。常に醜い自分の心との闘いをしている人のみが、「もっと自分の心を清めてください」と祈ることができるのです。苦しみ・困難から逃げることなく堂々と立ち向かう人であってこそ、「耐える力を与えてください」と祈ることができるのです。絶えず他人や人類への奉仕に励んでいる人であってこそ、神に向かって「もっともっと奉仕のチャンスを与えてください」と願い出ることが許されるようになるのです。
【4】スピリチュアリズムの問題点と今後の展開
1.スピリチュアリズムと心霊現象
――心霊現象は、スピリチュアリズムの脇役
スピリチュアリズムの物理的心霊現象は、前座にすぎない
スピリチュアリズムが地上に展開を始めてからしばらくの間(1930年頃まで)は、物理的心霊現象が頻出していました。まさに奇跡の連続と言ってもいいような状況でした。そしてその不思議な現象を、当時の一流の科学者達が調査実験に乗り出しました。ほとんどの科学者は初めは心霊現象に懐疑的でしたが、研究を進める中で生々しい現象を突きつけられ、例外なく霊の存在を認めるようになっていきました。
実はこうした心霊現象は、すべて霊界側が計画的に演出したものだったのです。地上人に、死後の世界があること、人間は死後も霊として生き続けること、霊と地上人は霊媒を介してコミュニケーションを取ることができるという事実を知らせようとしたのです。物質主義に支配されつつあった当時の人々に「霊魂観」を受け入れさせることが、その目的でした。
そうした物理的心霊現象は、現在の先進国では、ほとんど不要なものになっています。「現代人の心霊を啓発する」という目的には、驚異的な物理現象はすでにそぐわないものになっているため、霊界側で控えるようにしているのです。
物理的心霊現象といった見た目に派手な現象は、霊の存在を証明すること以外に、もう一つの目的を持っています。それは「霊界からもたらされる教訓を、地上人が受け入れやすいように準備をする」ということです。言い換えれば“物理的心霊現象”は、霊界通信という霊界からのメッセージ・霊的教訓を受け入れるための前座にすぎないということです。目覚ましい奇跡的な心霊現象は、どこまでも「霊的教訓」をもたらすために、霊界側から意図的に仕組まれた計画の一部だったのです。
現在でも世界各地で物理的心霊現象が発生していますが、そうした現象は、今のスピリチュアリズムの流れの中では中心的な位置にはありません。いまだに霊的真理や教訓を受け入れられない人々に対して準備をするためのものでしかありません。霊媒現象を含めすべての心霊現象は、スピリチュアリズムの脇役、あるいはスピリチュアリズムの底辺部の展開のための手段なのです。日本においては、派手な物理的心霊現象は、もはや不必要になっています。霊界通信を通じて送られてくる「霊的真理」を、人々が直接受け入れることができる段階に至っているからです。
現在の中心的な心霊現象は「スピリチュアル・ヒーリング」
スピリチュアリズムの初期の段階で頻発した物理的心霊現象は、すでに過去のものとなりつつあります。それはスピリチュアリズムの地上展開の初歩的プロセスにすぎませんでした。地球上の科学の発展に対応して、またスピリチュアリズム自体の霊的レベルの高まりにともない、霊界から演出される心霊現象も変化していきます。より内面的な現象へ、より精神的・霊的要素の多い現象へと変化していきます。それが「スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)」だったのです。1930年頃より、スピリチュアリズムの中からスピリチュアル・ヒーリングが起こされるようになりました。そしてその後、スピリチュアル・ヒーリングはスピリチュアリズムの中心的な心霊現象に発展して現在に至っています。
スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)の目的は、いまだに霊の存在を知らない人々にそれを教え、人間は死後も“霊”として生き続けることを示すことです。霊が霊界から地上人に働きかけることができる事実を伝え、地球人類の「霊的覚醒」を促すことにあります。これがスピリチュアル・ヒーリングの目的です。スピリチュアル・ヒーリングは“病気治療”という医学的手段を用いて「霊的覚醒と霊的救い」をもたらそうとするものであり、病気を治すことが本来の目的ではありません。これが一般の治療(ヒーリング)と心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)の根本的な違いです。
スピリチュアリズムの初期には、物理的心霊現象という華々しい現象が演出されましたが、スピリチュアル・ヒーリングの世界でも、霊性が未熟な地域では派手な心霊治療が演出されます。それがフィリピンやブラジルなどで見られる“心霊手術”です。こうした人目を惹くようなスピリチュアル・ヒーリングは、いつまでも存在する必要はありません。やがて手当てや軽い接触といった一般的なヒーリング形式に変化していくようになります。
交霊会における死者との交わりの意味
――いつまでも死者との交わりを求めるのは間違い
スピリチュアリズムは、交霊会とともに発展してきました。「交霊会」とは、霊界の霊との交わりを目的とする、霊媒を中心とした少人数のグループ(サークル)のことです。こうした交霊会では、霊界のスピリット(霊)が主役となってさまざまな心霊現象を演出したり、あの世からのメッセージや教訓が伝えられます。
人類は大昔より、シャーマン(霊媒)を通じて死者との交わりをしてきました。そうした霊媒現象をレベルアップして、意図的に霊界からの教訓・知識を入手しようとしたのがスピリチュアリズムでした。スピリチュアリズムの交霊会は、ただ単に死者との交わりを目的としたものではありません。その目的は、何よりも高度なメッセージ・教訓・霊的知識の獲得に置かれています。死者との交わりを通して地上人の死別の悲しみを慰めることは、スピリチュアリズムの交霊会の本来の目的ではないのです。
スピリチュアリズムは、交霊会を通して愛する人との死別の悲しみを癒すことを拒否するわけではありませんが、そこにとどまり続けるべきではないとします。いつまでも交霊会によって死者との会話を楽しみ、慰めを求めていてはならないと考えるのです。愛する人が死後も霊界で生き続けていること、そしてそこは地上世界よりも素晴らしい所であることが分かったならば、次は地上人自身が、霊界を視野に入れた正しい生き方をするように心がけるべきなのです。すなわち死者との交わりへの関心から、正しい生き方に意識の中心を移さなければならないということです。死者との交流だけにこだわり続けることは、霊的成長とは無関係なエゴ・低俗な自己満足に他なりません。
*スピリチュアリズムは、愛する人との死別の悲しみが「交霊会」によって慰められることの意義を、積極的ではありませんが認めています。しかしその交霊会は、どこまでも本物の霊からの通信であることを前提としています。
ところが現実には、ニセ霊能者という大きな問題があります。ニセ霊能者が、自分の想像や思い込み、あるいは作り話を、死者からのメッセージと称して伝えるのです。最近では、他界者からのメッセージを伝えるというテレビの心霊番組に人気が集まっていますが、そこで放映される霊媒現象のほとんどがこうした“ニセモノ”です。本当に愛する人からの通信ならば問題はありませんが、現実には本物のあの世からのメッセージは少なく、大部分がニセモノなのです。そしてテレビを見ている大半の人々は、それをニセモノと見抜けずに騙されています。
霊的現象から霊的教訓へ、好奇心から純粋な信仰へ
世間には、心霊現象に異常な関心を寄せる人が多くいます。そのような人々は、知識の収集だけに走っている人間と同様、単なる好奇心のレベルにとどまっています。スピリチュアリズムでは、そうした好奇心のレベルを一刻も早く卒業すべきであるとします。つまり霊的現象や知識の収集だけに、いつまでも関心を持ち続けていてはならないということです。
スピリチュアリズムが重要視するのは、心霊現象ではなく「霊的真理」であり、その実践です。先に述べたように心霊現象は、霊的真理のために演出される前座にすぎません。霊的真理は実践を前提として霊界から与えられるものであり、地上人は真理の実践を通じて霊的成長を達成することができるのです。これこそがまさにスピリチュアリズムが目指しているものなのです。そうした肝心な目的(霊的成長)に意識が向いていかないのは、ひとえにその人間の霊的未熟性に他なりません。
スピリチュアリズムは、霊的現象よりも霊的知識を重視します。そして霊的知識よりも霊的実践をさらに重視します。スピリチュアリズムは、心霊現象を起こしたり、その現象をいじくり回して実験研究することではありません。スピリチュアリズムの目的は、どこまでも実践を通じて地上人の心(魂)を高め、霊的成長をもたらすこと以外にはないのです。
21世紀、現在のスピリチュアリズムは、これまでの心霊現象から「霊的教訓」へ、好奇心から「純粋な信仰実践」へという新たな時代に入ろうとしています。
2.スピリチュアリズムの抱える諸問題
伝統宗教や唯物主義者による迫害・妨害
1848年、スピリチュアリズムが地上世界に展開を始めた当初より、スピリチュアリズムはキリスト教という伝統宗教や唯物主義者から多くの迫害・妨害を受けてきました。これらの反対勢力は、スピリチュアリズムの普及を阻止するために、ありとあらゆる陰湿な手段を講じてきたのです。
しかし霊界の大軍団を背景にしたスピリチュアリズムは、そうした反対者の迫害・妨害の中で着々と勢力を拡大してきました。現在ではスピリチュアリズムは、もはや後退することのない確固たる霊的態勢を確立するに至っています。そして今後のスピリチュアリズム展開の勝利は、揺らぐことのない確実なものとなっています。
もっとも今しばらくは、反対勢力による妨害は続きますが、それも時間とともに消滅していきます。常に霊界から地上に向けて強力な働きかけが休むことなく続けられているため、反対勢力によって今後のスピリチュアリズムが決定的に困った事態に至るようなことはありません。霊界からの働きかけを阻止することのできる勢力は、もはや地球上には存在しません。
スピリチュアリズム内部の敵
今後、スピリチュアリズムが展開していくうえで問題となるのは、伝統宗教や唯物主義者というよりは、むしろスピリチュアリズム内部の敵と言えるでしょう。スピリチュアリズムは、人類史上最高の理想と真理をもたらしました。しかしスピリチュアリズムを受け入れたといっても、一人一人の霊性は異なります。また真理の理解のレベル、取り組む姿勢、真剣さ・純粋さも、それぞれ違っています。さらには肉体を持っているがゆえに、煩悩(利己性)が地上人の心を絶えず低い方向へ引きずり下ろそうとします。
その結果、スピリチュアリズム内部にさまざまな問題が発生するようになります。霊的真理を十分に理解しないところで、真理を人間レベルに下げようとする動きが生まれたり、自分勝手なスピリチュアリズム観をつくり上げてそれを広めようとする人間が現れたりします。またスピリチュアリズムの歴史的な使命とその重要性を自覚しないまま、スピリチュアリズムを単なる思想の一つといった程度の位置づけで良しとしようとする人間も現れます。さらには霊的真理を、私利私欲のために利用しようとする人間も現れます。
そうした人間が、スピリチュアリズムの権威を失わせ、スピリチュアリズム発展の足を引っ張るようになります。このような“内部の敵”と言うべき存在は、スピリチュアリズムが地上に展開して以来、常に付きまとってきました。それが良識ある人々にスピリチュアリズムを誤解させ、失望を与えることになってきました。
ニセ霊能者の問題
スピリチュアリズム内部の敵の中で、最も悪質なものがニセ霊能者です。スピリチュアリズムは、霊界と地上世界を媒介する霊能者・霊媒者がいて成立します。スピリチュアリズムにとって、霊能者は不可欠な存在なのです。しかしその重要な立場にある霊能者が、たびたびスピリチュアリズムに大きなマイナスを及ぼしてきました。本来ならば霊界の意向に最も忠実であるべき霊能者が、その立場を忘れ、身勝手なことをして問題を引き起こしてきたのです。残念なことに高い精神性を備え使命感に徹した霊能者は稀な存在であり、ニセ霊能者が圧倒的多数を占めてきました。
霊能者が霊的に堕落して使いものにならなくなってしまう最大の原因は、霊能者自身の煩悩と霊性の低さにあります。そしてその煩悩を引き出すことになっているのが、地上世界の世俗的な人々なのです。世の多くの人々は、前世や守護霊の身元などを知りたがります。また霊からの特別なメッセージや将来の運命を聞きたがります。
こうした関心の底辺には、今の自分にはない可能性を信じたいという心理や見栄があります。その虚栄心を満たす答えを、特別な能力を持った霊能者に言ってもらおうとするのです。霊能者を通して、自分がもっと立派な人間であることや、これから素晴らしい人生が開かれることを確認しようとするのです。
ニセ霊能者は、そうした低俗な人々の関心に合わせて適当な答えを与えることによって、この世の富と名声がいとも簡単に手に入るようになることを知っています。デタラメなことを言っても、人々はそれをありがたく受け入れ、多くのお金と名声をもたらしてくれます。大部分の霊能者は、物欲や名声欲の誘惑にとても弱く、きわめて世俗的です。簡単に低級霊に魂を売り渡し堕落していきます。特にマスメディアによって世間の人々の話題に上るようになった霊能者の中には、そうした人間がいます。大半の霊能者が霊界の道具としての道を外れ、“低級霊の操り人形”と化しているのです。
このようなニセ霊能者は、スピリチュアリズムにとってマイナスにしかなりません。スピリチュアリズムを私利私欲のために利用することは、霊界の人々の誠意と犠牲を踏みにじる最悪の行為であり、スピリチュアリズムの権威そのものを失墜させることになります。
最近では、スピリチュアリズムの「霊的真理」が普及するようになり、それにともなってニセ霊能者も、その手口を巧妙化させるようになっています。ニセ霊能者は、霊的真理を自分の正当化やPRに利用しようとします。真理を隠れ蓑にして、自らの不正を隠そうとします。占いや前世の身元や守護霊の指摘など、低俗な関心に合わせて語られるいい加減なメッセージは、本物のスピリチュアリズムとは全く相容れません。それはスピリチュアリズムの崇高な目的に反します。テレビではいとも簡単に、前世を指摘したり、守護霊を透視したり、あの世からのメッセージを伝えるといったことが行われていますが、実際にはそんなことはあり得るはずがないのです。
ペテン師とも言うべきニセ霊能者の言動が、人々に本物のスピリチュアリズムを歪めて伝えることになります。ニセモノが、さもスピリチュアリズムの一部であるかのような錯覚を与えることになります。こうなるとニセ霊能者の“霊的な罪”は、きわめて大きいのです。スピリチュアリズムが普及するにともない、ニセ霊能者はますます巧妙な手口で多くの人々を騙すことになります。
3.スピリチュアリズムの今後の展開
さまざまな分野に向けての霊界からの働きかけ
スピリチュアリズムの地上世界への働きかけは「霊的真理の普及」を一番の目的としていますが、霊的真理が受容されるための霊的環境づくり・地ならしのための働きかけも同時に進められています。霊界からは、地球上のありとあらゆる分野に向けて導きがなされ、地上人が霊的真理を受け入れるための下準備が着々と進められています。宗教界は言うまでもなく、政治・経済・科学・教育などの分野に向けても、霊界からの働きかけがなされています。また先進国だけでなくすべての国々に対して、その国家の霊的進化に見合った最大限の影響力が行使されているのです。
そうした霊界からの働きかけは、時には人々が全く気がつかない中で行われたり、インスピレーションによって直接地上人の心にメッセージを届けるという形で進められていきます。こうして大半の地上人が“スピリチュアリズム”という名前を知らないところで、霊界からの影響力がじわじわと広がっていくことになります。
霊界からの働きかけは、不平等な身分制度の改革、貧富の較差の是正、人種差別や男女差別の撤廃といった方面にも向けられ、社会改革運動を展開させることになります。20世紀後半から沸き起こった霊的世界に対する関心の盛り上がりも、霊界からの働きかけの一環として引き起こされました。アメリカのニューエイジ運動、日本の精神世界や霊的世界を求める動きも、すべて霊界からの導きによって起こされたものです。
このように一見スピリチュアリズムとは関係がないように思われるところにおいても、スピリチュアリズムは着々と広がっているのです。
スピリチュアリズムの霊的レベルアップ
今、地球上は霊界を挙げてのスピリチュアリズム運動によって、根本的な変化を遂げようとしています。時間の経過とともに「霊的真理」は世界中に普及し、スピリチュアリズムはさらに大きな影響力を持つようになっていきます。またスピリチュアリズムの進展にともない、スピリチュアリズムが抱えているさまざまな問題は、自動的に解決されていくようになります。したがって現在のスピリチュアリズム内部の問題も、それほど心配する必要はありません。
今後、地球上では「霊的真理」を正しく理解し、それを実践する本物のスピリチュアリストが確実に増えていきます。そしてスピリチュアリズムの上限ラインが、さらに引き上げられていきます。それにともない高級霊が願ってきた“本物のスピリチュアリズム”が、この地球上に定着していくようになります。これからの時代には、初めから高い霊性を備えた人間が次々と誕生し、スピリチュアリズムによる地球の霊的浄化に大きな先導役を果たすことになります。
スピリチュアリスト人口の拡大が、すべてを決定
スピリチュアリズムの今後の展開は、地上世界にありがちな激しい論争や議論を通じて相手をねじ伏せるという形でなされていくのではありません。スピリチュアリズムの発展は、霊界の援助を引き出すことのできる本物のスピリチュアリストが増えることによって進められていきます。“本物のスピリチュアリスト”の数こそが、今後のスピリチュアリズムのすべてを決定するということです。
本物のスピリチュアリストが増えることによって、霊界からのさらなる応援を引き出し、地球人類は進歩していくことになります。霊界の力を背景にしたスピリチュアリストの献身的な奉仕活動を通じて、地球の霊的浄化は進んでいきます。何百年か先の遠い将来には、地球人類の過半数がスピリチュアリストとなる時代がやってきます。その時には“スピリチュアリズム”は、地球上で最も大きな影響力を持つことになるのです。
地球上の常識となっていくスピリチュアリズム
将来は、本物のスピリチュアリストの増加とともに、地球全体・地球人類全体の霊性レベルがアップしていくことになります。それにともない霊的真理が、地球人類の共通の考え方になっていきます。高次のスピリチュアリズムが地上世界の中心の座を占め、スピリチュアリズム的思考が人々の常識となっていきます。
当然、これまで地球人類を支配してきた物質中心主義やエゴイズムは、姿を消すことになります。また人々を霊的牢獄の中に閉じ込めてきた地上の大半の宗教も姿を消すことになります。スピリチュアリズムの普及は、地球上の宗教と宗教組織を、自動的に消滅させることになるのです。
何百年か後には、スピリチュアリズムによる「霊的真理」は地球人類の常識となり、「霊的真理の実践」が当たり前の生き方となります。そうなったときスピリチュアリズム運動を通じて働きかけてきた高級霊達の「地球人類救済」という目的が達成されることになります。地球人類がお互いを霊的同胞として愛し合い、神を中心とする霊的家族として助け合う世界が実現することになるのです。
【5】超宗教・高次元宗教としてのスピリチュアリズムの本質と特徴(まとめ)
1.スピリチュアリズムとスピリチュアリスト
これまでの話から“スピリチュアリズム”とはどういうものか、おおよそ理解していただけたと思います。最後にもう一度、スピリチュアリズム全体のポイントと、地上においてスピリチュアリズム運動の主役となる“スピリチュアリスト”について整理してみます。
スピリチュアリズムは、霊界の高級霊による「地球人類救済計画」
スピリチュアリズムを一言で言うならば――「霊界の高級霊によって計画され進められている人類史上最大の救済プロジェクト」ということになります。それが地上世界では、1848年のフォックス家事件から展開することになったのです。
スピリチュアリズムの一番の原点は――「霊界の高級霊による組織的な救済計画である」ということです。したがってスピリチュアリズムのすべては、霊界から出発しています。またスピリチュアリズムが霊界の高級霊を総動員しての大計画である以上、スピリチュアリズムと係わりのない高級霊は存在しないということになります。
スピリチュアリズム運動の最大の目標は、「霊的真理」の伝達と地球人類の「霊的成長」
スピリチュアリズムの第一の目標は――「地上に霊的真理もたらす」ということです。地球人類は「霊的無知」から、物質主義・利己主義という2つのガンを発生させ、悲劇と不幸の暗黒の世界をつくり出してしまいました。
霊界の高級霊達は、そうした地球人類に霊的真理を伝えることによって物質中心主義を「霊中心主義」に、利己主義を「利他主義」に変え、霊的成長の道を歩ませようとします。そして地上にいる間に、霊界での生活のための準備をさせ、他界してから後悔や苦悩を持つことがないようにさせたいと願っています。スピリチュアリズムは、地上人に「霊的成長」という最高の霊的宝と救いをもたらしました。
スピリチュアリズムによる地上世界の霊的新生と、霊的同胞世界の確立
スピリチュアリズムという霊界人が総力を挙げての働きかけによって、地上世界は徐々に霊的に新生してきました。そしてこれまで多くの宗教によって予言されてきた「新しい世界の到来」の時期を迎えることになりました。ニューエイジとかキリストの再臨と言われてきたことは、実はスピリチュアリズムによる「地球規模での霊的新生」を意味していたのです。
今、地球は「人類史上最大の転換期」を迎えています。これまで細々と進められてきた地球人類の霊性進化の歩みが、スピリチュアリズムによって一気に大きく飛躍する時を迎えています。スピリチュアリズムが地球上に普及することによって遠い将来には、神を共通の霊的親とする「霊的大家族世界」――すなわち「霊的同胞世界」が確立することになります。今、地球はその理想世界に向けて第一歩を踏み出したところなのです。

スピリチュアリズムは「超宗教」
スピリチュアリズムの本質は、その宗教性にあります。スピリチュアリズムは単なる学問や思想や哲学ではありません。スピリチュアリズムは正真正銘の宗教ですが、その一方で、従来のいずれの宗教とも異なっています。これまでの地上の宗教を基準とした場合、スピリチュアリズムの宗教的内容や要素(組織・創始者・布教)は根本的に違っています。その意味で「スピリチュアリズムは宗教であるが、従来の宗教ではない」ということになります。
スピリチュアリズムは、地上のいずれの宗教をも超越しています。まさにスピリチュアリズムは「超宗教・高次元宗教」なのです。それはスピリチュアリズムが、霊界人の間で常識となっている唯一の神認識・摂理信仰を、そのまま地上世界にもたらそうとするものだからです。霊界には地上世界のような宗教はありませんが、そこではきわめて純粋な信仰生活が営まれています。そうした霊界人に共通する宗教的生き方・信仰的生き方が、まさにスピリチュアリズムそのものなのです。
スピリチュアリストとは?
スピリチュアリズムを信奉する人々を一般に“スピリチュアリスト”と呼んでいます。スピリチュアリストとは、霊界の大プロジェクトによってもたらされた「霊的真理」と真っ先に出会い、それを人生の指針として受け入れた人々と言えます。この点でスピリチュアリストは、いまだにスピリチュアリズムを知らない人々や、スピリチュアリズムによる霊的真理の価値を認めようとしない人々とは、明らかに違った立場に立っています。
またスピリチュアリストは、大半の人々が知ることのない知識を手にしているということにおいて、特別な霊的責任・霊的義務が背負わされています。この点でもスピリチュアリストは、一般の人々や他の宗教の信仰者とは区別されます。
スピリチュアリストが一般人と違うことは、次のようなことを考えてみればより明確になります。スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理を他人に伝え、霊的事実に基づいた霊的救いを示すことができるのはスピリチュアリストだけである」ということです。スピリチュアリスト以外の人々は、たとえ霊性が優れ純粋な利他的行為に励んでいても、周りの人々に霊的知識・霊的救いの道を示すことはできません。この点においてスピリチュアリストは、他の宗教者や信仰者とは違っているのです。
すべての霊界人は“スピリチュアリスト”
スピリチュアリズムで言う「霊的真理」とは、神の摂理のことです。「神の摂理」は、すべての人間を支配しています。その真理を受け入れ忠実に実践しようとする人間は皆、スピリチュアリストということになります。これがスピリチュアリストの広義です。
そうした定義に従うならば、すべての霊界人はスピリチュアリストということになります。私達地上のスピリチュアリストは、霊界のスピリチュアリスト(霊達)に倣って、スピリチュアリズム的生き方をしようとする人間なのです。霊界の霊達は皆、私達地上のスピリチュアリストにとって“先輩スピリチュアリスト”なのです。
幽界の下層にいる地縛霊を除き、霊界にいる億万の霊達の中でスピリチュアリズム(霊的真理)を信仰していない者はいません。地上時代はスピリチュアリズムを知らなかった人間も、あるいは地上時代にスピリチュアリズムに反する主張をしてきた宗教者も、霊界に入ってからは考えを改め、全員がスピリチュアリストに生まれ変わっています。歴史上に名を残した人物も霊界に入ってからは、スピリチュアリストになっています。シャカもガンジーもその他多くの有名人も、残らずスピリチュアリストになっているのです。
“スピリチュアリスト”という用語の使用について
世の中には、スピリチュアリストという用語に必要以上にこだわる人々がいます。なかには「神によって造られた人間は、すべてスピリチュアリストと言えるのではないか」という意見を述べる人もいます。その考え方には一理あります。しかし「神の子」イコール「スピリチュアリスト」の定義は、霊界人にはそのまま当てはまりますが、地上人に適用することはできません。なぜならその定義に従うならば、スピリチュアリズムを迫害し、高級霊からスピリチュアリズムの敵と名指しされてきたクリスチャンも、スピリチュアリストになってしまうからです。それは大きな矛盾です。
一方、シルバーバーチは――「私は自分自身をスピリチュアリストとは思っていません」と言っています。このシルバーバーチの言葉は、「霊的摂理にそった生き方こそが問題で、レッテル(呼称)などはどちらでもいい」ということを強調しているものとして受け取るべきです。先に述べたことから分かるように、シルバーバーチは間違いなく熱心なスピリチュアリストなのです。
私達は「霊的真理」を知っているという事実において、一般の人々とは大きな違いがあることを忘れてはなりません。“スピリチュアリスト”という用語は、こうした立場の違いを明らかにするために便宜上用いているにすぎません。立場の違いを示すためにそう呼んでいるまでのことで、逆にスピリチュアリストという呼称にこだわることこそ不自然なのです。
要は、「霊的真理」を真っ先に知っているということの重要性と意義を自覚しているかどうかが肝心な点であり、真理を知っている人間をスピリチュアリストと呼ぼうが別の呼び方をしようが、本質的な問題ではないのです。スピリチュアリストを名乗ることで自らを特別視したり、霊的に高いなどと主張しているわけではありません。キリスト教を信じる人々を“クリスチャン”と呼んでいるのと同じ次元のことなのです。
スピリチュアリストと盲信・狂信
――イエスは教条主義者? シルバーバーチは原理主義者?
霊的真理を絶対的に信頼し、これに忠実に従おうとする生き方がスピリチュアリズムであり、そうした実践者がスピリチュアリストです。このように言うと、「スピリチュアリズムは教条主義・原理主義ではないか」「スピリチュアリストは狂信・盲信しているのではないか」と批判する人がいます。
これまで何度も述べてきたように、スピリチュアリズムの本質は宗教であり信仰です。スピリチュアリズムだけでなく、いずれの宗教においても信仰対象を心から崇拝し、教えを絶対的に信頼し、それに忠実であろうとします。「信仰」とは、自らを否定して、自分自身を絶対的な存在に従わせようとする精神的営みであり内面的努力です。そこでは、「自分のすべてを捧げる」ということが大前提となっています。これは信仰には、常にある種の盲目性がともなうということを意味します。したがって無神論者からすれば、信仰者は皆、盲信者・狂信者ということになってしまいます。
信仰には、熱心さ・純粋さと盲信性が表裏一体の関係となっています。その盲目性は“信仰の情熱”となって通常ではできないことを可能にしたり、小さな自我の殻を破る力となります。しかし、その盲目性が一歩方向を間違えると“狂気”となり、「正義のため」という理由で戦争やテロを引き起こしたり、自殺や反社会的行為に走らせることになります。信仰にはこうした危うい一面が付きまとうために、知識人から嫌われてきました。現代人の多くが、信仰に忠実であることや、宗教に純粋に打ち込むことを意識的に敬遠しています。
宗教は危険であるとの考え方には一理ありますが、それはスピリチュアリズムには当てはまりません。重大な結論を言えば、熱心さや忠実さが狂気となるのは、その宗教の教えが間違っているからです。問題は――「宗教の教えが本当に正しいかどうか」「神の摂理に一致したものであるかどうか」ということなのです。神の摂理に一致していれば、自然界の営みに完全な調和が存在するように、人間界にも調和がもたらされ矛盾や苦しみは生じません。これまでの宗教の教えが事実でなかったこと、霊的摂理から外れていたことが問題だったのです。
超宗教であるスピリチュアリズムと、地上の人間がつくり出してきた宗教では、その根拠とするところが全く異なります。スピリチュアリズムの教えのすべては、霊界からもたらされるものです。霊的に見たとき唯一、間違いのない教えを説いているのはスピリチュアリズムだけなのです。間違った教えを説く地上の宗教に忠実であろうとすると、結局は盲信・狂信になってしまいます。しかし「霊的真理」を説いているスピリチュアリズムに忠実であることは、決して盲信・狂気にはなりません。それどころかより多くの霊的恩恵がもたらされることになります。スピリチュアリズムでは、自己の見栄や煩悩などによって霊的真理に忠実でないこと、真理を真剣に実践できないことを、むしろ問題であるとします。
スピリチュアリストには当然、スピリチュアリズムの教えに可能なかぎり忠実であることが求められます。純粋に熱心に霊的真理の実践に励むことが望まれます。真理に忠実に従い、これを実践するにはたいへんな困難がともないますが、それでも最大限の努力をし続けることが大切なのです。
スピリチュアリズムの霊的真理を忠実に実践することに対して、教条主義であるとか原理主義であると非難することは間違っています。もし霊的真理・霊的摂理に忠実であろうとすることが教条主義・原理主義であるとするなら、霊界にいるイエスやシルバーバーチなどの高級霊も皆、教条主義者・原理主義者ということになってしまいます。すでにスピリチュアリズムと出会っている人間が、こうした言葉で誠実なスピリチュアリストを非難するようなことがあるとするなら、それはスピリチュアリズムに対する理解不足と、自らの傲慢さを示していることに他なりません。
2.超宗教としてのスピリチュアリズムの特徴
最後に、「超宗教・高次元宗教」としてのスピリチュアリズムの特徴をまとめて整理します。
①スピリチュアリズムには“教祖”がいません。地上世界における大きな問題点は、しょせんは一人の人間にすぎない者を、神の地位に祭り上げたり、崇拝の対象としたりすることです。そこから宗教は道を踏み外し、エゴの集団と化していくようになります。
人間の霊的本性として、絶対的な存在とつながり、それに従って生きたいという願望がありますが、そうした思いは、すべて「神」に向けるべきなのです。なぜなら人間は、神につながって「神の子供」として生きるように造られているからです。しかし物質の中に閉じ込められ、霊性が鈍くなった地上人は、神の代わりに人間を崇拝の対象とするようになっています。スピリチュアリズムは、こうした“人間崇拝”を徹底して排除します。
②スピリチュアリズムは、地上の宗教のような“宗教組織”をつくりません。したがって地上の組織宗教に見られるような霊的弊害はないのです。スピリチュアリズムには、魂の成長を目的とした少人数のサークルやチャーチが存在しますが、魂の成長は最終的には一人一人の問題に帰着するという認識から、必ずしも必要なものとは考えません。スピリチュアリズムは、霊的成長にプラスの影響をもたらす範囲において、サークルやチャーチの存在意義を認めています。
③スピリチュアリズムの推進・展開のほとんどが、霊界の高級霊によってなされています。したがってスピリチュアリズムの“主役”は、霊界にいる高級霊ということになります。他の宗教のように、地上人が主役ではありません。地上のスピリチュアリストは、主役である霊界の高級霊達の補助者、あるいは“道具”としての役割を果たすことになります。スピリチュアリズムにおける真の権威者は、神と霊界の高級霊達なのです。
④スピリチュアリズムは熱心に霊的真理を普及しようと努めますが、地上の宗教のように人間の力や組織の力、あるいはマスメディアの力を用いての布教活動はしません。スピリチュアリズムは、「霊的時期」のきた地上人の一人一人に霊的真理が手渡されるという形で普及・拡大していくようになります。「霊的真理」を受け入れられる時期のきた人は、霊界の導きによって真理との出会いを果たすようになります。したがって地上人が、がむしゃらに布教を進める必要など全くありません。
⑤スピリチュアリズムの土台となる「霊的真理」は、人類史上最高レベルの叡智・知識です。しかも誰にでも理解できるシンプルで分かりやすいものです。スピリチュアリズムの霊的真理が、他の宗教の教義(ドグマ)とは比較にならないほど優れているのは、その内容が霊界の高級霊によって審議されたものだからです。それが用意周到な準備のもとで地上に降ろされました。その結果、霊界に蓄積されてきた霊的知識が、純粋な形で地上にもたらされることになったのです。
そうした高級霊界通信の中で、『シルバーバーチの霊訓』モーゼスの『霊訓』カルデックの『霊の書』の“世界三大霊訓”は、人類にとっての最高の叡智・霊的宝と言えます。この三大霊訓の中に、霊的真理・霊的知識が凝縮されています。スピリチュアリズムの思想が明瞭に示されています。
⑥スピリチュアリズムは、神と摂理に対する純粋な信仰であり、生活のすべてを捧げた真剣な霊的人生です。霊的真理・霊的事実という霊的知識を土台とし、その上に信仰的要素(神と摂理への絶対信仰)を積み上げたものの全体が“スピリチュアリズム”と言えます。
⑦スピリチュアリズムの信仰対象は、「唯一の神(大霊)」と神の造られた「摂理」だけです。それ以外の対象物を崇拝したり、祈りの対象とすべきではありません。したがって多くの信仰対象を持つ多神教や、天使や歴史上の人物、霊的存在(背後霊・人霊・精霊)への崇拝は間違いです。スピリチュアリズムは、神以外への信仰・崇拝を強く否定します。
⑧スピリチュアリズムは、徹底した「霊優位主義・霊中心主義」です。現在までの地上世界は物質中心主義に支配されてきましたが、スピリチュアリズムはそうした在り方に真正面から闘いを挑みます。スピリチュアリズムの視点・価値観・救いは、すべて「霊と霊界」を基準としており、霊を優先(中心と)しないものには一切の価値を認めません。当然のこととして、地上人類が必死に求める物質や富・肉体的快楽・名声・権威・階級などにも価値を認めません。
⑨スピリチュアリズムは、「霊的真理」を指針とする霊性の向上(霊的成長)を最終的な目標としています。霊的成長こそが、地上人生の究極の目標であるとします。スピリチュアリズムは、こうした徹底した「霊的成長至上主義」を主張します。
スピリチュアリズムでは、日常生活の一つ一つの営みを、霊的成長にプラスとなるものにしなければなりません。肉体ならびに物質的環境は、人間の霊的成長という目的のための手段となったとき、初めて存在価値を持つことになります。
⑩スピリチュアリズムは、地上人類に「最高の救い」をもたらします。スピリチュアリズムが地上人に与える救いとは、「霊的成長」に他なりません。地上における霊的成長は、人間が将来必ず行くことになる霊界への準備ともなっています。それは霊界における幸福に直結する霊的宝と言えます。
⑪スピリチュアリズムは、地上人の一人一人に対して「霊的成長」という最高の救いをもたらします。そして地上人類全体に対しては、神を共通の霊的親とする「霊的同胞世界・霊的大家族世界」という救いをもたらします。
⑫スピリチュアリズムは、霊的真理の実践を重視する「実践主義」です。実践や行為のともなわない生き方、単なる学問としての真理の探究には全く価値を認めません。霊的真理を指針とし、それを実行し、霊的成長をなすという一連のプロセスが満たされて、初めて真理を知ったことの責任と義務を果たしたことになります。実践なくして、霊的成長はあり得ません。霊的真理の実践行為の総決算が、霊的成長を決定するのです。
スピリチュアリズムでは、地上を「失敗から教訓を学ぶ訓練場所」と見なしています。失敗を繰り返しながらも、真理の示す高い理想・目標に向かって努力するところに意義があるとします。失敗を恐れて何もしないことは罪であり、利己的な生き方なのです。
*霊的真理の具体的な実践内容とは、次の4つに整理されます。
- ①日常生活を霊中心にする。すなわち物質や肉体本能に支配されないようにする
- ②利他愛を実行する
- ③霊的真理を他人に伝える
- ④日常生活の中で生じる困難や苦しみを、霊的視野に立って前向きに受け入れ乗り越える
⑬スピリチュアリズムは、「自己責任主義・自力救済主義」を大原則とします。スピリチュアリズムは、地上人の霊的成長は、すべて本人自身の責任のもとでなされるものとします。霊界人は高い真理を示しますが、それを忠実に実践し、魂を成長させるかどうかは地上人の自由意志に任せられます。霊的真理の実践によって魂を成長させ、初めて自分を救うことになる以上、すべての救いは本人自身が決定するということです。
このようにスピリチュアリズムは、「自己責任主義・自力救済主義」を主張します。“救い”は、神仏にすがって得られるものではありません。自分の努力で摂理に合った生き方をすることによってもたらされるものなのです。
⑭スピリチュアリズムは、地上人の心の中を見通す神と高級霊の前に、すべての動機を正して歩むという最高の誠実性が要求される「内面主義・内省主義」です。その意味でスピリチュアリズムは、純粋で深い信仰と言えます。
スピリチュアリズムは、霊界からは地上人の心の内や動機がすべて見通しであることを教えています。真理に対する理解が深まると、霊の前には自分が常に丸裸であり、何ひとつ隠し事ができないことを実感させられるようになります。そのためスピリチュアリストは、誰からも強制されることなく、自発的に「内面主義・内省主義」を実践するようになります。
⑮スピリチュアリズムは、地上世界のあらゆる出来事を「霊的視野」から眺めます。地上人が最大の不幸と考える“死”を、喜ばしい出来事ととらえます。また地上人の誰もが避けようとする苦しみ・困難も、魂成長のためのありがたいものと考えるのです。
人間が地上に生まれる目的の一つに、物質世界での苦難を通じて魂を鍛え成長させることがあります。他の宗教が苦しみ・困難・障害を不幸とのみ考え避けようとするのに対して、スピリチュアリズムは苦しみ・困難を歓迎しなさいと教えます。「霊的視野」を持つことによってスピリチュアリストは、「霊的楽天主義」的な生き方・考え方ができるようになります。地上世界にありながら、霊的生活ができるようになるのです。
⑯スピリチュアリズムは、他のいずれの宗教よりも、霊界の霊達と密接な関係を結ぶようになります。それはスピリチュアリズムが、霊界を挙げての大計画の地上の足場であり、霊界の軍団の一部となっているからです。霊界の人々と地上のスピリチュアリストは「人類救済」という大義を共有し、願いと苦労を分かち合っています。地上のスピリチュアリストは、霊界の多くの霊達と協力して大プロジェクトを進めています。このような宗教は、どこにも存在しません。
またスピリチュアリズムは、人類救済のために働く数多くの霊達ばかりでなく、魂の個人教授とも言うべき“守護霊”に対しても意識を向け、積極的にこれとの接近を図ります。そのためスピリチュアリストは、他の一般の地上人よりも強い霊的絆で守護霊と結ばれることになります。
⑰スピリチュアリズムは、“祈り”を霊的実践として重視します。祈りは霊との絆を強め、より多くの霊的貢献のチャンスをもたらすようになります。それと同時に、日常の物質の壁を破って霊中心の意識をつくり出し、霊的成長を促すことになります。祈りは、霊的成長を達成するための有力な霊的手段です。
⑱スピリチュアリズムは、奇跡や物理的心霊現象を霊的真理普及の前段階・前座と見なし、それを特別に重要なものとは考えません。心霊現象は霊的真理と比べたとき、どこまでも玩具のような存在です。霊的現象よりも人間の「霊的成長」、すなわち“心”という内面の成長こそが大切であり、それを真に価値あるものとします。
現在では心霊現象の中心は、かつての物理的心霊現象から「心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)」に移っています。
⑲今、霊的真理の普及を目標として、霊界を挙げての“スピリチュアリズム運動”が展開していますが、それと同時に、人々が霊的真理を受け入れるための準備として、地球上のさまざまな分野に向けての働きかけがなされています。スピリチュアリズムの「霊的真理」が普及していくための裾野が、地球レベルで広がっています。
⑳現在のスピリチュアリズムは、内外にさまざまな問題(*伝統宗教からの迫害妨害・スピリチュアリズム内部の敵・ニセ霊能者の問題など)を抱えていますが、それらは今後、スピリチュアリズムが高次元レベルで展開・進展していくにともない、自然に消滅していくようになります。スピリチュアリズムによって示された「霊的真理」は将来、地球上に拡大し、地球人類の“常識”となっていきます。そして自動的に現在の宗教は姿を消すことになります。