地球人類の悲劇・不幸を、自分の問題として考えましょう―1
――「霊的無知」から発生した2つのガンと6つの悲劇
ニューズレター第35号
スピリチュアリズムは、地球人類を苦しめている悲劇や不幸を地上から一掃し、人類に真の幸福をもたらすことを目的としています。スピリチュアリズムは、歴史上最高の「人類救済大プロジェクト」なのです。今回は、地球人類の“悲劇”に視点を当てて学ぶことにします。内容は次のようになっています。
今回の35号では1~5までを取り上げ、残りは次回に掲載いたします。
1.地球全体の悲劇・不幸を、高級霊と同じ立場で見る
高級霊の真実の愛に倣って
現在、地上に住んでいる人間の中で、地球人類の苦しみを自分の問題として受け止め、心を痛めている人はあまりいません。世の中には“反戦平和運動”に身を投じている人々は多くいますが、その中で果して何人の人が、自分自身を犠牲にしてまで世界の平和を追い求めようとしているでしょうか。また最近では環境問題に注目が集まり“環境保護運動”が盛んに展開されるようになりましたが、その中で一体どのくらいの人が、地球人類全体の運命を自分の問題として真剣に考えているでしょうか。
残念ながらそうした活動家の心の中には、この世的な利害が絡んでいるのが実情のようです。なかには独りよがりの正義心に駆られて軽率に行動しているだけという人もいます。じっくりと問題の原因を突き詰めて考えている人はめったにいません。
地球人類の“悲劇”を、自分の苦しみ・悲しみとしているのが霊界にいる高級霊達です。スピリチュアリストにとって、スピリチュアリズムを進める霊界の高級霊は、すべての点で良き手本であり教師です。高級霊が地球人類を見るまなざしは、純粋な愛以外の何物でもありません。そこには一片の利己性もなく、ただ地上人の霊的成長と霊的幸福を願う利他愛があるのみです。高級霊達が地上人類の霊的成長と幸せを願う愛の強さと純粋さは、地球上のいかなる博愛主義者も足元に及びません。どれほど優れた聖人も偉人も、高級霊の愛にはかないません。
私達地上のスピリチュアリストは高級霊を手本として、地球人類の苦しみを自らの苦しみとして受け止め、それに対していかなければなりません。スピリチュアリストは、高級霊が地球人類を眺めるのと同じ思いで、悲劇・不幸に遭遇している人々を見ていかなければなりません。高級霊は地球人類の苦しみに同情し、これを何とか取り除こうと全力を挙げて取り組んでいますが、その真剣な姿こそ、私達スピリチュアリストの手本なのです。地球圏霊界の最高級霊であり、スピリチュアリズム運動の最高責任者であるイエスは、地球人類の悲劇を見て涙を流しています。そのイエスの地球人類救済に対する熱意と意欲――それが私達スピリチュアリストの思いでなければなりません。
スピリチュアリズムは、地球上から無用な悲劇・不幸を追放するために展開されている人類史上最大のプロジェクトです。私達は、その一員として壮大な運動に加わっています。高級霊とともに、地球人類の不幸を根本からなくすために働きかけているのです。
地球人類の悲劇・悲惨さの実態を、直視する
地球人類救済運動の参加メンバーである私達スピリチュアリストは、現在の地球上に蔓延している悲劇と悲惨な状況を、しっかりと見据えていなければなりません。地球人類を苦しめている悲劇をなくすために戦っている私達は、戦うべき敵の正体を、はっきりと認識していなければなりません。
「地上世界を見回すと、すばらしい花園であるべきところに見苦しい雑草が生い繁り、花がその美しさを発揮する場所がなくなっています。そこで私は言うのです――まずそうした基本的な問題と取り組みなさい。戦場で戦ういかなる敵よりもはるかに強力なその敵に、宣戦布告をしなさい、と。
人間の霊性を踏みにじっている敵と戦うのです。人間の霊性を抑圧し、魂を束縛する敵と戦うのです。霊的存在としての基本的権利――神の直射日光を浴び、自由の喜びを味わう権利を奪う、ありとあらゆる敵と戦うのです。」
幸い現在では、テレビなどの通信情報機器の発達によって世界各地の様子を、日本にいながらにして現地にいるかのように知ることができます。テレビのドキュメンタリーや報道番組を通じて、地球上の霊的兄弟姉妹達が置かれている悲惨な状況を、つぶさに目にすることができます。
物質の制約を受けない霊界人は、地球上の悲劇のすべてを直接的に知ることができます。しかもその悲惨な状況を、実感を持って感じ取ることができるようになっています。実感度において霊界人は、地球人とは比較になりません。
私達地上人は、霊界の人々ほどではないとしても、現代のメディアを活用して地球上の悲劇・悲惨さの実態を知り、その苦しみの一端を感じ取ることができます。地球上の霊的家族・霊的同胞が今直面している現実の苦しみ・不幸を自分のこととして受け止め、その思いを高級霊と共有することができるのです。
「地上世界を見渡してごらんなさい。悲劇と絶望、悲哀と苦悩、涙にぬれた顔、顔、顔が見えるはずです。何とかしなければならない分野がいくらでもあることに気づかれるはずです。まだまだ無知がはびこっています。まだまだ権力の悪用が跡を絶ちません。改めなければならない偏見がいたるところに見受けられます。
飢餓に苦しむ人、飢え死にしていく人、食べ過ぎて病気になっている人、栄養失調で苦しむ人、こうした人が大勢いることに気づかれるでしょう。痛みに苦しめられて、内部の大霊の力を発揮できずにいる人が大勢いるのです。」
常に、自分より恵まれない人々、苦しんでいる人々に意識を向ける
私達は常に、自分より恵まれない人々に意識を向けていなければなりません。自分より恵まれた人々ではなく、恵まれない人々、悲惨な状況の中で苦しみ喘いでいる人々に目を向け続けていなければなりません。
もちろん、すでに与えられている楽しみや娯楽をすべて否定せよということではありませんが、この地球上には、大半の日本人が味わっている物質的な豊かさを手にすることができない人々が圧倒的に多い事実を忘れてはなりません。日々の“食”の心配から解放され、娯楽や趣味や旅行を楽しむことができるのは、現在の地球上ではごく一部の先進諸国の恵まれた人間に限られています。最低限の食事さえ保障されず、常に“死”に直面して不安の中で日々を過ごしている哀れな人々が、あまりにも大勢いるのです。日本人の飼っているペットの犬の食料の半分さえも口にすることができない人々が、世界中にいることを忘れてはなりません。
大半の日本人は、悲劇の中で苦しみ・悲しみしか持てないような人々があふれている現実を知らずにいます。自分だけの快楽追求に目が眩み、娯楽の喜びにどっぷり浸って、地球人類全体が置かれている状況が全く見えなくなっています。スピリチュアリストは、恵まれた人々ではなく、常に恵まれない人々に意識と関心を向けていなければならないのです。
過去の人々より恵まれている現代のスピリチュアリスト
肉体に包まれ、目の前の人間のことしか実感できない地上人にとって、遠く離れた所で苦しんでいる人々に同情を寄せ苦しみを分かち合うことは、ある面ではとても難しいことです。霊界人は、すべての悲劇を一瞬にして感じ取り、世界中の人々の苦しみの声を聞くことができます。そうした霊界人と比べるならば、他人の苦しみ・悲しみを実感することにおいて、地上人は大きなハンディを持っていると言えます。
しかし先に述べたように、現在では情報通信手段が発達し、それによって地球上の出来事を簡単に知ることができるようになっています。このことは私達の自覚一つで、地球人類の苦しみ・悲しみを深く理解することができるということなのです。高級霊と同じように、地球上の悲劇を自分の問題として考えられる状況が与えられているのです。その意味で、現代に生きる私達は、過去の人々よりもずっと恵まれています。より広い愛を持つための素晴らしい環境が整えられているのです。
すべての地球人類は霊的兄弟であり霊的同胞である
――大切なのは愛国心よりも「人類愛・霊的同胞愛」
スピリチュアリズムはどこまでも、すべての地球人類を対象として進められている最も純粋な人類救済活動です。特定の国家や民族を対象としたものではありません。スピリチュアリズムは、地上人類を苦しめているあらゆる悲劇・不幸を、地球上から完全追放するために展開されている霊界主導の大プロジェクトなのです。
私達は日本人として生まれ、日本国家に籍を置いていますが、霊的に見れば、それはたまたま地球上の日本という一地域に生まれたということにすぎません。私達スピリチュアリストの本籍は地球であって、日本ではありません。私達の家族・同胞は、日本人だけに限定されるものではありません。私達の霊的家族は、地球上のすべての人々なのです。
もし自分の家族や友人が悲劇に遭遇して苦しんでいるとするなら、私達は同情し心を痛めます。それと同じように世界中の見知らぬ人々に対しても、その苦しみを自分のこととして同情の思いを寄せることができなければなりません。世の中には国家の将来を憂い、国家のために一命を捧げるような奇特な方もいらっしゃいます。そうした人は国家レベルであっても、立派な公的心を持っている優れた人格の持ち主と言えます。しかし私達スピリチュアリストは、悲惨な状況の中で苦しんでいる地球上の人々に対して、それを自分の家族の悲劇として心配することができなければなりません。スピリチュアリストは、初めから視点を人類全体に置き、地球全体・人類全体の運命を自分自身の問題として考えていかなければならないのです。
スピリチュアリストは、国際主義者ではなく「地球主義者」でなければならない
スピリチュアリズムは「真のグローバリズム(地球主義)」です。そしてスピリチュアリストは「真の地球主義者(グローバリスト)」でなければなりません。スピリチュアリズムは、直接会ったことのない他国の人々に対しても自分の家族の一員と考え、深い愛で結ばれる世界を目指しています。
グローバリズム(地球主義)とインターナショナリズム(国際主義)は、しばしば混同されます。ここでは、まず両者の違いを明確にしておきましょう。グローバリズムとインターナショナリズムは表面的には似ていますが、実はその内容は全く異なっています。
“グローバリズム”とは、他国の人々を「霊的家族意識・霊的同胞意識」で考え、霊的絆(真の利他愛)で結ばれた霊的関係をつくることです。グローバリズムを達成するには、一人一人に深い霊的意識、内面的な利他意識が必要となります。
それに対し“インターナショナリズム”は、ただ肉体次元での外国や外国人との係わり・付き合いにすぎません。近年の物質文化の発展、特に交通手段と通信技術の発達は、外国との距離を縮め地球を小さくしました。その結果、必然的につくり出されたのがインターナショナリズムです。最近では外国語を喋る人や、海外に移住する人、外国人相手に仕事をする人、外国人の友人を持ったり外国人と結婚する人が多くなりました。
しかしこれは、海外との直接的な係わりをほとんど持つことがなかった時代の日本国内における人間関係を、他国に広げたのと同じことなのです。そこでの人間関係は、どこまでも肉体レベル・物質レベルに限定され、表面的・外見的なものです。物質次元の交流の拡大にともないでき上がった人間関係であり、霊的次元での交わりではありません。
グローバリズム(地球主義)は本来、どこまでも霊的関係づくりを目指すものです。グローバリズムには初めから、日本人と外国人の区別がありません。グローバリズム意識に立つならば、日本にいながらにして世界中の人々、直接会うことのない人々との間に、愛の関係を築くことができます。地球上のどこにいるかにかかわりなく、全世界の人々を自分の家族同様に深く愛することができるのです。外国に一度も行ったことがない人でも、外国に長年住んでいる日本人よりも深く外国人と係わりを持つことができるのです。
*最近“グローバリズム”という言葉がよく聞かれるようになりました。この言葉は経済のボーダレス化を意味し、具体的には先進国の市場原理を世界中に拡大し、自由な経済活動ができるようにしようというものです。しかしその実情はと言えば、アメリカを中心とする先進国の多国籍企業が、エゴ的な経済活動の規模をさらに広げることにすぎません。結果的に、富んだ企業や個人が、貧しい国家や人々から、ただでさえ不足している富を吸い上げ、地球規模での貧富の格差を拡大することになっています。
一般的に言われているこうした“グローバリズム”とは、言い換えれば、人間の欲望追求をエスカレートさせるエゴ的なボーダレス経済主義と言うべきものです。「霊的同胞主義」を意味する本当のグローバリズムとは、全く正反対のものなのです。
真のグローバリズムは、“スピリチュアリズム”を通じて初めて可能となります。霊的真理に基づく「霊的家族意識・霊的同胞意識」が実感をともなうレベルにまで高められて、初めて本物のグローバリズムが実現するようになります。スピリチュアリストは、日本にいながらにして世界中の人々を自分の家族として包み、地球全体を自分の住処と考えることができるのです。そうした在り方は、大半の人々には気違いじみた妄想のように映るかもしれませんが、霊的には決して飛躍した空想ではありません。霊界では実際に、「霊的同胞意識」が人々の常識となっているのです。
グローバリズム意識を持つことによって、私達は日本にいて、世界中の人々のために奉仕することができます。世界中の人々の救いのために人生を捧げ、貢献することができます。スピリチュアリスト以外には、誰も真似のできない生き方、最高に価値ある生き方をすることができるのです。こうしたことが可能となるのは、ひとえに“スピリチュアリズム”というスケールの大きな理念があるからなのです。
真のグローバリズム意識――すなわち本物の「霊的家族意識・霊的同胞意識」が実感できるようになると、心の底から喜びが湧き上がってくるようになります。何も歯を食いしばってがんばらなくとも、毎日毎日が楽しく清々しくなります。この世の物質的な欲望に振り回されるのが、本当に馬鹿らしく思えるようになります。
もっとも「霊的同胞意識」が実感できるようになるにつれ、世界中の苦しんでいる人々の辛さが身に染みるようになり、何と哀れなことかと心が苦しくなります。また、どうしてこんな酷いことが地球上で許されるのかと怒りがこみ上げてくるようなこともあります。そして「何とかして一刻も早く、不幸な人々を救ってあげたい!」と思うようになります。これこそまさに霊界人が、これまでずっと私達地球人類に向けてきた思いであり、心の痛みだったのです。
以下では、高級霊と同じ立場に立って地球全体を眺め、すべての地球人類を自分の家族と考え、地球を覆う悲劇・不幸の全体を把握することにします。地球人類を苦しめている敵の実態を、しっかりと認識します。そしてそれを通じて“スピリチュアリスト”としての、人類に対する立場と姿勢を再確認することにします。
2.地球上の悲劇の根本原因
――霊的無知・物質至上主義・利己主義
霊的無知と死の問題
地球上のあらゆる問題を突き詰めて考えると、地上人類が「霊的に無知である」という一点にたどり着きます。地球上の悲劇・不幸の根源が、霊的事実に対する地上人の無知にあることが明らかになります。このように言うと、あまりにも簡潔な答えに唖然とする方や反発を覚える方もいらっしゃることでしょう。地球上の人間社会はとても複雑で、さまざまな要因・原因が絡み合って問題が発生していると考えるからです。事はそんなに簡単なものではないと考えるのです。
しかし霊的に見ると、地球上のすべての問題の原因は、霊的事実に対する無知、霊的真理に対する無知に集約されます。
「あらゆる問題を煮つめれば、その原因はたった一つの事実を知らないことに帰着するのです。すなわち、人間は本来が霊的存在であり、大霊からの遺産(神性)を受け継いでいるが故に、生まれながらにして幾つかの権利を有しているということです。」
「その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である大霊が宿っていることが理解できないからです。」
霊的事実に対する無知とは、簡単に言えば「唯物主義的な考え方をすること」です。誰にも必ず訪れる“死”に対する事実が、全く分からないことです。多くの人々は死によって、すべてが無に帰してしまうと考えます。死後の世界があることを認めず、人間が永遠の存在であることを信じられない人は、死はすべての終わりであると考えます。宗教を信じている人でさえも、死は最大の不幸であり悲劇であると恐れています。
「人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。」
「本性は霊です。それが肉体とともに成長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的成長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的成長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。」
人類にとっての最大のテーマは“死”であり、宗教は死の問題を解決するために存在していると言っても過言ではありません。しかし、この最も重要な問題に対する明確な答えを、今日まで宗教は地上人類に示すことができませんでした。宗教を通じて部分的な霊的知識がもたらされることはあっても、そのほとんどが間違っていたり、単なる人間の作り話であったりしました。
科学の発達によって多くの知識を得た現代人は、もはや従来の宗教が説くような幼稚な死生観には納得できなくなっています。先進諸国では大勢の若者達が、既成の伝統宗教から離れつつあります。死の問題に対する解答を見出せない現代人は、不安と孤独の中に放り出され、それが自殺者の増加という悲劇を生み出しています。死の事実を知らない人々が人間社会の中で苦しみや困難に遭遇すると、「どうせ人間はいつかは死ぬのだから、今死んでも10年先に死んでも同じだ」と思うようになり、自殺の道を選択するようになるのです。
「大半の人間は、地上だけが人間の住む世界だと考えております。現在の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで物的なものを、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争・流血・悲劇・病気の数々も、元はといえば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。
人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。それが、地上という物質の世界での生活を通じて魂を成長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。」
本能的快楽主義と物質主義
また死後の世界に対する明確なビジョンがないところでは、「人間は死ねば、どうせすべてが無になってしまう以上、今を楽しく愉快に生きなければ損だ」と考えるようになります。「できるだけ肉体的快楽を楽しまなければ損だ」といった思いが心の中心を占めるようになります。そして本能的快楽を最優先して求め、美味しいものを食べ、娯楽に興じることが人生の目的となります。豪華な邸宅・高級車・華やかなファッション・グルメ……といったものに人間を向かわせることになるのです。
そうした欲望追求は、際限なくエスカレートしていきます。「あれもこれも欲しい。もっともっと欲しい」とふくれ上がっていきます。やがてそれが人間を物質と快楽を求める奪い合いへと駆り立てることになります。
心の底から納得して受け入れられる明確な死のビジョンがないところでは、地球人類の心は“本能的快楽主義”に傾いてしまいます。従来の宗教の権威が失われるとともに、現代の先進諸国では本能的快楽主義が人々の心を強く支配するようになっています。
「そこで彼らは、人生は七十か八十か九十年、どう長生きしてもせいぜい百年だ。存分に快楽を味わうために金を儲け、財産を貯えようではないかと言います。イザヤ書にある“食べて飲んで陽気にやろうではないか、どうせ明日は死ぬ身よ”という一節が、それをうまく表しております。」
地上人の心を支配する“物質至上主義”と“利己主義”
死によってすべてが失われてしまうと思うところでは、必然的に心は肉体本能に支配されるようになります。そして「物質的な富こそが幸福を決定する」という考え方(物質至上主義)を生み出し、人間はより多くのモノと金を追い求めるようになります。肉体的快楽を手に入れるための手段としてお金が最も重要視され、お金こそが何といっても一番頼りがいのあるもの、価値あるものと見なされるようになります。他人より少しでも多くお金を稼ぐことが幸せに至る一番の近道であると、人々は考えるようになるのです。
こうして地上人類は、本能的快楽と富を求めて奪い合いの歴史を延々と続けてきました。
「それは唯物主義がもたらした混乱、黄金の子牛の像の崇拝、すなわちお金第一主義がはびこりすぎたからです。唯物主義は、その本質自体が貪欲、強欲、自分第一主義に根ざしています。同じ天体上に住んでいながら、自分以外の者への思いやりも気遣いも考えず、ひたすら自分の快楽と蓄財に励みます。敵対関係、 戦争、怨恨――こうしたものを生み出すのは唯物主義です。物質がすべてである、死はすべての終わりである、だったら自分の思うままに生きて何が悪い、という論法です。
こうした自己中心の考えが地上世界に暗黒と困難、闘争と暴力と憎み合いを生み出すのです。」
“物質至上主義”は、自分自身の利益と快楽を最優先して求める生き方へと人間を引きずっていきます。そこでは自分だけが大切であって、他人は大切ではありません。何よりも自分自身の利益が大切なのです。これが“利己主義”です。
利己主義は、さらなる物質や肉体的快楽を求めての奪い合いという醜い争いを引き起こします。利己的な者同士の間において衝突を生じさせ、そして最終的には力のある一部の者が、より多くの物質・お金を独占するようになっていきます。
「地上世界にもめごとや困難や不幸が絶えないのは、相変わらず強欲と利己主義と怨恨によって支配されているからです。物欲がガンのように人類の心の中枢に食い込んでいるためです。悪性のガンです。そのガン細胞が猛烈な勢いで増殖しております。」
「つまり地上世界は何かにつけて貪欲と利己主義が優先しているから戦争と貧困、飢餓と悲劇、災難と混乱が絶えないのです。」
「地上世界の厄介な問題、および霊界の下層界の問題のすべてが、さまざまな形での利己主義、強欲、貪欲などの私利私欲によって引き起こされているというふうに考えればよろしい。原因はそれしかありません。」
利己主義の拡大と地球上への蔓延
こうして地球人類は、これまで“物質中心主義”と“利己主義”の中で歴史を刻んできました。いつの時代にも人間社会の底辺には、物質至上主義がしっかりと根を下ろし、人間の心を支配していました。そして人々を利己主義的な方向に引きずっていったのです。
一人一人の人間の心を支配するそうした力は、人間の集まりである家族・血族・民族・国家では、さらに強い支配力を持つようになっていきます。個人レベルではいくぶん遠慮のあったエゴ性も、家族・血族・民族となるに従い、共通の利益意識が前面に出るようになります。家族は何よりも自分達の家族の物質的幸福を真っ先に追求し、国家は自分達の国家の物質的利益(国益)を優先して求めます。時には自国の利益のために、他国を侵略することもあります。
現在の地球上の国家を支配している共通の理念は“国益”という物質的価値観であり、物質的豊かさこそが国民を幸せにするというものです。地球上の国々は、そうした物質的豊かさを求めてしのぎを削っているのです。国際社会は、モノと金と力(政治力・経済力・軍事力)をめぐる争いの中で展開しています。これが“利己主義”に支配されている地上世界の実態なのです。
「これら全てが、間違った物質万能主義、言い換えれば、霊的摂理についての無知から生じているのです。地上の人間は生活の基盤を間違えております。国家はその政策を自国だけの利益を中心に考えております。独裁者が生まれては、暴虐非道のかぎりを尽くしましたが、それは、力こそ正義という間違った信条に取りつかれていたからにすぎません。今こそ霊的知識が、個人だけでなく、国家だけでもなく、世界全体にとって必要であることに理解がいかないといけません。」
独裁者と独裁国家
物質主義と利己主義は地球上の人間の心を支配していますが、その強さの程度は一人一人の人間によって、あるいは一つ一つの国家によって違っています。すなわち地球上には、とりわけ利己性の強い人間と国が存在するということです。言うまでもなくその人間とは“独裁者”であり、その国とは“独裁国家”のことです。
物質主義と利己主義の争いがエスカレートするプロセスの中で、富と力の独占化が進み、その決着点として“独裁者”や“独裁国家”というきわめてエゴ性の強い存在が生まれることになります。物質主義と利己主義(エゴ)のエスカレートは、最終的に独裁者と独裁国家を生み出していきます。地上人の誰もが、物質主義的傾向と利己的傾向を持っていますが、独裁者や独裁国家においては、それが極端な形で現れることになります。そこでは権力を握った一人の人間や一つの組織が、それ以外の人間を強力に支配・束縛し、自分達の利益のために非道の限りを尽くすことになります。
利他性という「霊的摂理」に照らしたとき、摂理から最も大きく外れているのが独裁者・独裁国家であることは言うまでもありません。“独裁国家”は、常に他国を侵略して自らの国益と力(政治力・経済力・軍事力)を拡大しようと、そのチャンスを狙っています。弱小国家を餌食にしようとしているのです。独裁者や独裁国家は、まさに人類にとっての最大の敵なのです。しかし“独裁者”は考えようによっては、地上人の誰もが持っている醜い心の凝縮した存在であり、地上人の心の醜さの象徴とも言えます。
物質主義と利己性の全くない霊界
霊界と地上世界の一番の違いは、霊界には地上世界を支配している「物質主義も利己主義も一切存在しない」ということです。霊界人には地上人のような物質的肉体がないため、心が本能に引きずられ、物欲にとらわれるといったことがありません。肉体を持つということは、霊にとっては重い鎧を身にまとうような大きな制約を受けることなのです。
地上人の心は、肉体という物質に閉じ込められているため、自由に霊的意識を発揮できません。そして自己中心の本能的思い・利己的思いに簡単に支配されるようになってしまいます。死んで肉体を捨て去り霊界に行けば、誰もが肉体という物質から解放されます。すると自動的に霊的意識を持って生きるようになります。霊界に行くと、地上世界での物質中心性と利己性は消え失せ、霊中心性と利他性が心を占めるようになります。
霊界と地上世界は、こうした点において根本的に違っています。地上世界は物質だけに覆われ、「物質的価値観」と「物質的幸福観」が人間の心を支配しています。そして、それが地球上のあらゆる“悲劇”を生み出すことになっています。
しかし肉体を持ちながらも努力如何では、本能的思いを克服することができるようになります。それができて初めて、現在見られるような地球人類の悲劇・不幸が根本から克服されるようになるのです。
使命を果たさなかった地上の宗教
物質至上主義と利己主義は、人類を悲劇・不幸へと追い込む2つの元凶・2つのガンです。その2つのガンを生み出すさらなる大元の原因は、「霊的無知」です。したがって地球上のあらゆる問題は、「霊的無知」から発生しているということになります。本来、宗教は霊的無知を克服することを使命としていました。すなわち霊的事実と霊的真理を地上人に教え、「霊主肉従の地上人生を歩ませる」ことがその役目だったのです。霊中心的な価値観を示し、「利他愛の生き方を促す」ことが宗教の本来の務めだったのです。
しかし、これまでの地上の宗教は、地上人を正しく導くどころではありませんでした。自らの「霊的無知」のために、自分自身を“利己主義”に陥れ、この世的な幸福・偽りの幸福を人々に示し、間違った方向に導いてきました。霊的成長を促す方向ではなく、霊的成長に逆行する方向に人々を導いてきました。挙句の果ては、宗教同士がその利害をめぐって衝突し、戦争まで引き起こしてきたのです。
「かつて“黄金の子牛”と呼ばれていた物的な財産が崇拝の対象とされています。人生の基盤が霊的実在であることを宗教が説き明かすことができなくなったために、圧倒的大多数の人間が、物質こそ存在のすべてであり、五感で感じ取れるもの以外には何も存在しないのだと信じるようになっています。(中略)責任は教会やシナゴーグや寺院にあります。基本的な霊的原理の大切さすら説くことができないからです。」
<まとめ>
- 霊的無知
- →
- 物質至上主義
- →
- 利己主義
- →
- モノ・金・力をめぐる争いのエスカレート
- →
- 独裁者・独裁国家
3.地球人類を支配する6つの悲劇・不幸
霊的無知とそこから派生した物質至上主義と利己主義という2つのガンは、地球上に「戦争」「貧困・飢餓」「精神の堕落・心の危機」「間違った宗教による霊的弊害」「動物虐待・環境破壊」「霊界における悲惨さ」という“6つの悲劇”を生み出しています。現在の地球は、幸福とは程遠い地上地獄の状態にあります。シルバーバーチは――「死ぬことが悲劇ではなく、利己主義に覆われた地上世界に生きなければならないことこそ悲劇である」と述べています。
ここでは私達スピリチュアリストが、高級霊と一体となって解決しようとしている地球上の悲劇・不幸のアウトラインを理解することにします。まず初めに地球上を覆う悲劇の全体像を図示します。その後で“6つの悲劇”の一つ一つについて説明していきます。

4.悲劇 <1>
――争い・戦争
動物にも劣る人間の戦争行為
動物は同種の間では殺し合うことはないのに、人間だけが殺し合いをしています。人類はこうした動物にも劣る行為を、歴史上延々と続けてきました。人類が地上に誕生して以来、戦火の絶えた時代はありませんでした。そして現在も、世界各地で紛争や戦争が引き起こされ、毎日多くの人々の生命が奪われています。何億人もの地球人が、今この時も戦争によって生命を失う危険と隣合わせにいるのです。
戦争が地球人類にとって“最大の悲劇”であることに異論を唱える人はいないのに、どうして人間は、子供でも分かる馬鹿げた行為をやめることができないのでしょうか。
戦争はなぜ罪なのか? 戦争の何が悲劇なのか?
誰もが当たり前に分かっているようで、実際にはあまりよく理解されていない問題があります。それが――「戦争はなぜ罪なのか? 戦争の何が悲劇なのか?」という問題です。生命は神が与えたものであって人間のものではありません。人間がその生命を勝手に奪い去ることは摂理に反します。この意味で戦争は“罪”です。しかし戦争が悪いのは、この点だけに限定されるものではありません。戦争は人間として最も価値あるもの、神から与えられた生命以上に価値あるものを奪い去ってしまうために“最大の悲劇”なのです。
スピリチュアリズムと一般の人々では、「戦争の何が悲劇なのか」という点で見解が異なります。スピリチュアリズムでも、戦争を最大の愚かな行為と考えますが、戦争は人間の生命を奪うから最大の罪を犯すことになるといった単純な考え方はしません。スピリチュアリズムでは、肉体生命それ自体を最も価値あるものとは考えていません。スピリチュアリズムでは、死ぬことを悲劇とはとらえていないのです。霊界こそが本来の世界であって、死とはその世界に行くことにすぎないからです。スピリチュアリズムにおいては、死んで霊界に行けることは喜びであり希望なのです。
では、なぜスピリチュアリズムが「戦争」という殺し合いを“最大の悲劇”と考えるかというならば、戦争によって霊の道具である肉体が失われ、せっかくの霊的成長のチャンスが人々から強引に奪われることになるからです。「霊的成長」こそが、肉体生命よりも大切なのです。肉体生命は、地上において霊的成長をなすために神から与えられたものです。「戦争」は、この重要な霊的成長のチャンスを、多くの人間から一方的に奪い去ってしまうために“悪”であり“罪”なのです。また「戦争」は憎しみを増幅させ、人間の心をさらに本能的・利己的にし、霊的成長とは逆方向に向かわせることになるから“悪”なのです。
*多くの人々は、「戦争」は人間の肉体生命を奪うことになるので“悪”であると思っていますが、そこには多分に、人間中心の独断的で身勝手な考え方が潜んでいます。“戦争反対”を叫ぶ大半の人々は、動物の生命も神が与えたもので、人間のものではないことに思いが至りません。霊的な観点に立ってみると、動物を殺して食料にすることは、ある意味で戦争における人殺しと同じ残酷な行為なのです。人間の生命を奪うことは悪で、動物の生命を奪うことは許されると考えるのは間違っています。要するに“肉食”を平気でしているような人間には、「戦争反対を叫ぶ資格はない」ということです。
この問題についてはニューズレター(27号)ですでに取り上げていますので、ここでは省略します。
戦争の最も根本的な原因は、霊的同胞意識と霊的絆の欠如
地球人類は全員、私達の霊的家族であり霊的同胞です。神を霊的親として、全人類はその共通の子供達です。地球人類という霊的家族は、本来なら“利他愛”という霊的絆で結ばれているはずなのです。これが神の造られた摂理に合った在り方です。
もし地球人類全員が、神を自分の親として実感し、他国の人々を自分の霊的家族の一員と感じ、お互いが血縁関係以上の強い絆で結ばれているとするなら、地上には決して戦争は生じないでしょう。現在、地球上に住んでいる人々にとって、そんな話はまるで夢物語か、現実離れした単なる理想のように思われるかもしれません。しかし私達が死後に行くことになる霊界では、すでにそうした神を中心とする霊的世界ができ上がっています。
これまでの地球上の人間関係は、常に血縁と物質的利害が優先されてきました。霊的関係は、血縁関係よりも後回しにされてきました。今日に至るまでの地球上の人間関係を一言で言うならば「肉主霊従」ということになります。霊優位の関係、すなわち霊主肉従の関係であってこそ人間は互いに神の摂理に一致することになりますが、これまでの地球上には、そうした世界は存在しませんでした。
もし現在の地球人が、他人や他国の人々を自分の家族であると心の底から実感できるとするなら、霊的同胞意識が地球上を支配することになります。そして地球上から、一切の争い・戦争が消滅することになります。しかし現在の地球は、それとは全く正反対の肉主霊従の世界になっています。「霊性の未熟さ」と「霊的無知」から発生する血縁優先・物質的利害を中心とする関係があるのみです。「霊的同胞意識の欠如」こそが、地球上の争い・戦争の最も根源的な原因なのです。
「霊的無知」がもたらす戦争の最大の原因
――物質至上主義と利己主義
すべての人間が戦争に反対であるにもかかわらず、戦争をやめられないのは、並々ならぬ大きな力が人類全体に圧力をかけているためです。その力とは、地球人類の誰もが抱いている“物質至上主義”――すなわち物質的な幸福への願望です。「生活レベルを上げたい!」という欲望の力は、政治的圧力や軍事的圧力をもってしても押しとどめることはできません。もし人々から物質的な幸福への願望がなくなれば、地球上の多くの戦争はたちどころに消滅することになるでしょう。
物質のない霊界には、物質的な幸福を求める人間はいません。そのため霊界には、地上世界のような“モノ”をめぐっての争いは一切存在しません。地上人が物質的な幸福に対する欲求を今より小さなものにすることができるならば、地球は霊界にずっと近い世界になるはずです。
地上人が持っている物質至上主義的な考え――「物質こそが幸福の源泉であり、それを手にするためには少しでも多くのモノと金が欲しい」と渇望するところでは“利己主義”がエスカレートし、戦争を引き起こすことになります。
地球上を支配する3つのエゴ集団の衝突
戦争は、エゴとエゴのぶつかり合いから生じます。民族は、自分達の利益と自己の正義を主張して衝突します。国家と国家の間でも、自国の利益と権力拡大をめぐって戦争が引き起こされます。また宗教においても、自分達の正当性と正義と権限拡張を主張して宗教戦争が引き起こされます。現在では、宗教と民族、宗教と国家というように“エゴ集団”が複合的に絡み合って、戦争はより複雑な形で展開するようになっています。
戦争には必ず、戦争当事者の自己正当化の主張と相手への非難の応酬が先行します。それらを聞く限りにおいては、両者の言い分には正当性やまともな根拠があるように思われます。しかしお互いの主張にどれほど正当性や根拠があるように聞こえても、霊的に見ると、ほとんどの主張は“エゴ”から発生していることが分かります。自分達の立場のみを正義であると主張し、ぶつかり合っているにすぎません。戦争の原因を根源にまで遡ると、最後は両者のエゴの問題に行き着きます。大半の戦争は、最終的には双方の“物質欲”と“利己性”という単純な原因に集約されるのです。
極度の貧困と飢餓も、戦争の引き金
利己的競争の結果、貧富の差が生じ「貧困」が発生します。それがエスカレートすると「飢餓」という、この世の地獄が到来します。こうした極度の貧困や飢餓状態では、人間は本能性に支配されエゴ性をむき出しにするようになります。そしてここから紛争・戦争が勃発することになります。貧困は戦争の大きな引き金となるのです。そうして引き起こされた戦争が、人々をさらに「貧困」と「飢餓」という悪循環に追い込んでいくことになります。
貧困・飢餓も、原因をたどっていくと霊的無知と物質主義・利己主義に行き着きます。この問題については後ほど取り上げます。
最も危険な戦争の引き金
――独裁者と独裁国家
利己主義がエスカレートすると、その結果“独裁”が発生するようになります。歴史上、多くの独裁者や独裁国家が誕生し、その圧政下で人々は塗炭の苦しみに喘いできました。地球人類は歴史を通じて、独裁者を排除する道を探り求めてきました。そして近世に至って“民主主義”という政治形態にたどり着いたのです。しかし現在の地球上にも、依然として独裁者と独裁国家が存在します。多くの人々は、生命を脅かされ、人間としての最低の権利も奪われて、生きる屍のような生活を強いられています。独裁は、“利己性”という人類が共通に持つ醜さを最も凝縮した形態です。これは、まさに人類にとっての最大の敵なのです。
民主主義が主流となった21世紀の現在でも、いまだに独裁者・独裁国家が存在します。独裁者と独裁国家は利己性が強く、自分達の利益を露骨に求め、絶えず他国に対して侵略の機会を窺い、周りの国々と紛争・戦争を引き起こすことになります。独裁者と独裁国家によって、現在の国際社会はきわめて不安定となっており、常に戦争の危機にさらされています。“独裁者”と“独裁国家”は、最も危険な戦争の引き金なのです。
間違った宗教も、戦争の大きな原因
戦争の引き金となるもう一つの大きな要因が“宗教”です。宗教はその性質上、精神的な独裁傾向を帯びがちです。もし宗教の教えが独善的であったり、宗教指導者が教条的であったり、宗教組織の方向性が排他的であるならば、宗教それ自体が強力な“エゴ集団”と化してしまいます。「自分達だけが特別であり正義である」というような偏狭な選民意識が信者を支配するようになり、自分達に反対する者はみな敵であると思うようになります。そうなると平和をつくり出すはずの宗教が、戦争を生み出すことになります。
地上の大半の宗教は「霊的無知」から利己性をエスカレートさせ、他宗教との対立を煽って戦争を引き起こしてきました。まさに宗教は、戦争の大きな原因の一つなのです。21世紀の紛争の多くが、宗教がらみの中で発生しています。この問題については次回(36号)で取り上げます。
真の反戦平和運動とは?
地球上の人間が共通に持っている物質主義と利己主義が、部族・民族・国家・宗教という集団の中でエスカレートする結果、戦争が引き起こされます。誰もが望んでいないのに戦争が起こってしまう、誰もが反対しているのに戦争をやめられないのは、地上人の心の中に物欲と利己性が強く巣くっているからです。こうした事実は、戦争当事者の双方に、それぞれ原因があるということを意昧します。
したがって反戦平和運動は、人類が共通に持っている“物質欲”と“利己性”に対して向けられるべきものです。そうでないかぎり戦争の原因を根本から絶つことはできません。スピリチュアリズムは、まさにそこに向けての人類救済の働きかけなのです。その意味で“スピリチュアリズム”こそが、「真の反戦平和運動」と言うことができます。
反戦平和を叫ぶこと自体は間違っていませんが、それに携わる運動家自身が、自分も同じ醜さを持っていることを自覚すべきです。“戦争反対・平和賛成”――こうしたスローガンには誰も異論を唱えませんが、現在の地球上では、その主張は往々にして観念論や自己満足にすぎないことがあるのです。また自分のことを棚に上げた無責任な批判にすぎないことが多いのです。時には独裁者や独裁国家が、自分達の利益のために意図的に平和運動を利用することもあります。
*霊界から見れば“物質主義”の支配する地球は、その全体が戦場と言えます。“弱肉強食”の醜い争いが続く地球は、まさに地獄と言ってもいいような世界です。かつて日本が戦国時代に、小国に分かれて覇を競い合い、殺し合いをしていた状況が、今も地球全体で同じように生じています。そこでは軍事力を持つことが、自国の防衛のためには欠かせません。もし何も軍事力を持たないならば、たちまち他国からの侵略を受けて、国家そのものの存続が危うくなります。
日本もこれまで軍事的抑止力を持つことによって、表面上は何とか平穏に保つことができました。軍事力が“必要悪”となり、軍事力なくしては平穏を維持できない実情――それが現在の地球の霊的レベルを端的に示しています。
そうした戦闘状態に置かれている中で、口先だけの平和を唱えることは、現実を無視した観念論にすぎません。「霊的真理」が地球人類の常識となった何百年か後の時代ならばそれもいいでしょうが、現在ではむしろマイナスの結果だけをもたらすことになります。
<まとめ>

5.悲劇 <2>
――貧困・飢餓
戦争に次ぐ2つ目の悲劇は「貧困」と「飢餓」です。この貧困・飢餓も、すべて地球人類の霊的無知と物質中心主義・利己心から発生しています。飢餓は自然災害によってもたらされることもありますが、21世紀の地球上、特に発展途上国における飢餓の大半は、人間の“エゴ”によって引き起こされています。現在の飢餓は、まさに“人災”であって、従来の自然災害とは規模においても悲惨さにおいても比較になりません。
高級霊の嘆き
貧困にともなう「飢餓」は、霊の道具である肉体を弱らせ、その結果、肝心の霊的成長さえままならない状況に人間を追い込みます。人間は「霊的成長」するために生命が与えられ肉体を持ったのですが、その道具である肉体が飢餓によって極度に衰弱するならば、霊的成長どころではなくなってしまいます。そうした哀れな人間が、今の地球上には何千万・何億人もいるのです。
こうした事態は、地球人類を霊的成長へと導こうとしている高級霊にとって、嘆き以外の何物でもありません。シルバーバーチは次のように言っています。
「いま地上全体には、(中略)どこから手をつけたらよいか分からないほど沢山の、悪疫ともいうべき文明の汚点が存在するからです。しかし、その中でも一番急を要する改善は、私に言わせれば、数え切れないほどの人間を苦しめている無くもがなの貧困、悲惨、窮乏です。(中略)内部の神性を発揮しようにも、肝心の身体が惨めなほど疲弊し衰弱している魂に対して、いったい自我の発見などということが説けるのでしょうか。」
貧困と貧富の格差
――富の不平等分配の実情
物質的富をめぐっての利己的な競争や奪い合いは、必然的に一部の富んだ者と多くの貧困者(持たざる者)を生み出すことになります。こうした貧富の格差は、一つの民族内、一つの国家内ばかりでなく、現在では地球規模で発生しています。アフリカやアジア・中南米に代表される第三世界と経済先進諸国との間には、あまりにも大きな貧富の格差が生じているのです。
今、地球人類は、経済先進国という金持と、発展途上国という貧困者に二分されています。そしてこの貧困者に「飢餓」という悲劇が襲いかかっているのです。「貧困」が進んでいくと、最終的には「飢餓」という最悪の事態を迎えるようになります。貧しさと飢えは、常に一体となって人々を苦しめます。貧しい人々だけが、決まってひもじい思いをしているのです。
貧困は、子供達をも深刻な状況に追い込んでいきます。現在、3億5千万人が児童労働に携わり(*5~14歳の子供は2億人)、大半が肉体労働や危険な労働を強いられています。また貧困が生んだエイズ禍によって、エイズを発症した家族の面倒をみるために働かざるをえない子供が年々増加しています。
21世紀を迎えた現在、地球規模で進展する経済のグローバル化・ボーダレス化によって、世界人口の5人に1人(*約13億人)は1日1ドル未満の生活を、そして2人に1人は1日2ドル未満の生活を余儀なくされています(*日本人は1日40ドルです)。またグロ ーバル経済の拡大によって、富裕国と貧困国の所得格差は、ここ40年あまりで18倍から37倍に広がり、貧富の差はより大きくなっています。経済のグローバル化とともに富は先進国に集まり、貧困国の富は先進国に吸い上げられさらに減少しています。
現在の地球上では、6%の富裕層が59%の富を独占しています。その富裕層の大半がアメリカ人です。そして約70%の人々が39%の富を、約20%の人々が2%の富を分け合っていると言われています。このように地球上の富は、あまりにも不平等・不公平に分配されているのです。
「全体としては十分なものが用意されているのに、物的生活の基本的必需品にも事欠く人がいるということは間違ったことです。有り余るほど持っている者と不足している人たちとの間の隔差を修正すること、これこそが現在の地上の焦眉の急です。」
*最も利己的で獰猛な資本主義の登場
レーガン政権以降、アメリカが進めてきたのが経済のグローバル化でした。自由な市場こそ最善のものであり、国境さえもそれを妨げてはならないとする経済のボーダレス化を世界中に広げてきました。
経済のグローバル化は、国際規模で“弱肉強食”の経済戦争を引き起こし、その結果、最も強い国(アメリカ)が圧倒的な利益を手にする一方で、弱い国の経済に壊滅的なダメージを与えることになりました。国際競争カを持つ者だけが生き残りを許されるという時代を迎えることになってしまいました。そして金融やITといった重要な産業において、アメリカの独り勝ちが決定的になりました。
こうした流れの中で、アメリカの金融業界は世界中のマネーを吸収し、集まった膨大な資金は世界中のマーケットを席巻しました。株式や石油などの商品だけでなく、一国の通貨さえも投機の対象となったのです。経済の行き詰まりを見せていたタイやマレーシア・イギリス・韓国・ロシア・アルゼンチンといった国々が餌食にされました。
ヘッジファンドと呼ぱれる投資家集団は、ある国の経済が弱いと見ると、その国を標的に選び、その国の通貨を徹底的に売り叩いて巨額の利ざや(マージン)を稼ぎました。莫大な資金を瞬時に移動させて、無防備な国家から、国富全体の何割かに匹敵する資金を、わずか1~2日の間に奪い去ったのです。アメリカの企業や投資家は、自分達の利益のためならば、他国の人々が何十年もかかって蓄えた富を一瞬にして奪い地獄に突き落としても、何ら良心が痛まないのです。他国の人々は、誰もそんなマネーゲームの餌食にされることを望んでいないのに、ゲームに巻き込まれ身ぐるみ剥がされてしまったのです。
また敵対的企業買収によって、創業者が手塩にかけて育て上げた会社を、カづくで不当に安く奪い取ってきました。
20世紀後半に至って、アメリカを中心として歴史的に最も利已的で獰猛な資本主義が登場することになりました。これによって多くの人々が「貧困」に追い込まれていったことは言うまでもありません。
世界一富める国アメリカの矛盾
――拡大する貧富の格差
現在、世界で最も裕福と言われるアメリカですが、国内的には貧富の格差が広がっています。大都市では多くのホームレスを生み出しています。ここ20年、富める者はますます富み、貧しい者は恩恵にあずかれないという構造が顕著になってきています。
弱肉強食の自由競争を“善”とする新資本主義重視の中で、倫理道徳的な正当性より、「儲かるかどうかがすべて」といった“拝金主義”が支配的になっています。自由放任主義の弱肉強食的経済システムの中で、一部の勝者が新たな経済貴族として君臨する一方で、食べるだけで精一杯の貧困者(*移民・ヒスパニツク・黒人など)が固定した底辺層を形成しています。世界一豊かなアメリカで、1000万人以上の人間が空腹に悩んでいるという事実は、利己的な競争が対外的ばかりでなく、自らの国民をも痛めつけるという皮肉を生んでいることを示しています。
アメリカ国内では、上位1%の金持が、アメリカの富の40%を占有しています。そのあまりの不平等さに日本人は驚きます。しかし大半のアメリカ人、特に指導者は、これが公平だと考えています。アメリカでは誰でも金持になれる可能性と自由があるというのが、その理由です。アメリカのエリートを支配しているのは、利己主義・出世第一主義・拝金主義・勝者至上主義・成功崇拝です。そしてこのアメリカ流の個人主義は、一部のエリートだけでなく、多くのアメリカ人にも共通の価値観となっています。お金持が一番尊敬され、人格的・道徳的にも優れていると見なされる一方で、貧しい人々は努力が足りないとされます。自由な競争のもとで公平な勝利へのチャンスがあるという“アメリカンドリーム”を、大多数の人々が受け入れています。
しかしそこでは現実には、敗者や弱者に対する冷たい世界ができ上がることになります。
悲惨な飢餓地獄と食料の不平等分配
アメリカに飢餓で苦しむ人々がいるというのは、利己的な経済活動が生んだ結果です。しかし世界的に見たとき、アメリカの貧困・飢餓は、まだましと言えます。第三世界(発展途上国)における飢餓は、一部の貧困層にとどまらず、人口の半分、もしくはそれ以上に及んでいるからです。現在、世界では8億人以上もの人々が「飢餓」で苦しんでいると言われます。
栄養失調で頬がこけて腹の大きくなった赤ん坊、その赤ん坊を抱くやせ細って衰弱した母親、そして道端に枯れ木のように横たわる死体――世界人口の20%以上の人々が栄養失調の状態に置かれ、1%の人間は死の間際にいます。一方、15%の先進国の人々は“過食”から太り過ぎの状態にあります。地球上にはこうした食料の不平等分配が存在し、多くの発展途上国の人々を飢餓に追いやることになっています。
ある地域では子供達の半分は、5歳になる前に食料不足が原因の病気で死んでいます。世界全体で見ると、先進国の子供を含むすべての子供の5分の1は栄養失調であると言われます。国連によれば、世界人口の8人に1人は文字どおり飢えており、半分は何らかの栄養失調状態にあるということです。
「地上にはすべての人に行きわたるだけのものが用意されているのです。しかし、そこに貪欲が立ちはだかります。」
「何よりもまず人類が知らなくてはならないのは、大霊の恩寵はみんなで分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には、今日の食べ物に事欠く人がいる一方で、有り余るほど貯えている人がいます。もちろんこれは間違っています。余るほど持っている人は、足らない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……。 」
“肉食”という贅沢が招く農産物の不平等分配
――人間の貪欲とエゴの横暴
先進諸国は、第三世界よりはるかに多くの食料を消費しています。世界の食料用および飼料用穀物の半分は、世界人口の4分の1しかない先進国によって消費されています。先進国の家畜は、世界の全穀物生産量の4分の1を消費しています。これは中国とインドの両国民を合わせた全消費量に匹敵します。もし中国が今後、穀物飼料に頼るアメリカ流の飼育法を始めたならば、世界中で飼料が不足し、肉の欠乏状態を引き起こし、肉の価格を高騰させることになります。肉の値段は、今の何倍にも跳ね上がることになるでしょう。当然、人間の口に入る穀物は、世界中で大きく不足することになります。
発展途上国の人々は、米やパン・麺類の形で穀物を直接的に食します。これが摂理に合った正しい食生活です。しかし先進国の人々は、穀物を飼料にして育てた家畜の肉を食べています。肉を生産するためには、その何十倍もの穀物が必要となります。先進国の人々は“肉食”という食の贅沢・無駄づかいをすることによって、発展途上国の人々が口にすべき穀物を奪い取って自分達の快楽のためだけに浪費しているのです。もしアメリカで生産される農産物を家畜の飼料ではなく「飢餓」で苦しむ人々に回すことができたならば、地球上の飢餓の問題はあっという間に解決します。
先進国で行われている工業化された家畜の飼育は、まるで生き物を工業製品のように扱います。そこでは穀物飼料によって家畜を育て、そして“肉”として食するのです。人間は無慈悲にも、自分達の食欲を満たすために、神が与えた動物の生命を残虐の限りを尽くして奪い去るのです。先進国の人々が行っている間違った工業的な家畜の飼育は――「飢えて死にそうになっている人間よりも、自分達の口に入れる家畜の肉の方が大切だ」と言わんばかりの気違いじみた行為なのです。(*そもそも生命ある動物を殺して人間の食料にするということ自体「神の摂理」に反しています。地球上から“肉食”という悪しき食習慣を一掃しなければなりません。この問題については、すでにニューズレター(27号)で詳しく取り上げていますので、ここでは省略します。)
先進国の人々が、思いやりの気持で飢えている人々に穀物を分配してあげるなら、世界中の飢えは消滅します。自分達だけが肉食をしようと思わなければ、何千万・何億という人々が救われるのです。穀物をわざわざ肉に変えるような無駄なことさえしなければ、地球上の飢えの問題は、瞬く間に解決するのです。
第三世界の飢餓を発生させる地球規模のシステム
飢餓は人類の歴史には付きものですが、20~21世紀における発展途上国での飢餓は、こうした天災によるものではありません。多くの人々は、食糧危機や飢餓は自然現象の結果生じたもの、あるいは後進国の人々が子供を産み過ぎたためであるとか、貧乏人の意欲の欠如であると考えてきました。しかし、それは間違いです。本当の原因を一言で言えば――「農産物が公平に分配されない」ということなのです。第三世界の人々は、いくら働いても飢えから逃れられないようなシステムの中に組み込まれ、生産されたものが先進国や特権階級の人間の手に奪い取られているのです。
皆さんは、「飢えた人々はどうして食料を自給しようとしないのか?」「自給こそ食糧危機解決の唯一の方法ではないのか?」と思われることでしょう。第三世界の飢餓というと大都市周辺のスラムを思い出すかもしれませんが、飢餓は都市ばかりでなく、農産物を生産する農村にも存在します。農村に住みながらまともに食べていけない人々、農産物を生産しながら飢えている多くの人々がいるのです。
そこでは農地が一部の人間(*土地所有者という少数の特権階級)の手に握られています。南米では17%の土地所有者が、土地全体の90%を所有している所もあります。また南米では農村人口の3分の1以上が、わずか1%の農地に押し込められ、アフリカでは全人口の4分の3の人々が自由にできる耕地は、全体の4%にすぎないといった状況です。発展途上国の22カ国では、平均して3分の1の農民が、全く土地を所有していません。こうした土地制度がネックとなって、本来自分達の食料となるはずの農作物をつくることができなくなっているのです。
貧しい人々は、怠けているのではありません。飢えから逃れるために自分達の食料を生産したくとも、それが許されないのです。そして自分達の食料にならない農作物(換金作物)だけを無理やりつくらされています。これが貧しい人々を「飢餓」に追い込んでいる一つ目の理由です。土地所有者という特権階級の“エゴ”が飢餓を生み出しているのです。
もう一つの「飢餓」の原因は、先進国サイドにあります。先進国は、発展途上国から換金作物と呼ばれる農産物(コーヒー・バナナ・砂糖・茶・落花生・小麦・綿花・ゴム・花など)だけを買い上げます。そのため第三世界の土地所有者は、農産物を先進国に売ってお金を得るために、こうした作物だけを生産しようとします。決して飢えた農民のための作物を生産しようとはしません。さらには第三世界に属する貧困国家は、海外から国家開発に必要なものを買うために外貨を稼ぐという政策を推し進め、換金作物の生産を奨励してきました。
この結果、先進国は第三世界から安く提供された換金作物によって、より快適な生活を楽しむことができるようになりました。先進国は、第三世界から換金作物以外は買おうとしません。当然、国際価格は第三世界サイドでは自由にできず、多くの場合、安く買い叩かれ、いっそう先進国の従属下に置かれるようになります。まさにかつての植民地時代の支配と同じような構図ができ上がっています。貧困国家はそうしたシステムの中に巻き込まれる中で、ますます飢餓を増大させていくことになりました。こうした農産物の独占システムを利用し、それを意図的に操って莫大な富を稼いできたのが、アメリカを代表とする先進諸国の多国籍企業だったのです。
この地球には、世界中の全人口を養えるだけの天然資源が十分に与えられています。数千万・数億の人々が飢えにさらされている実情は、天災によるものではありません。現代の世界政治・経済秩序は、かつて近代にヨーロッパ各地を支配していた階級秩序(支配階級―被支配階級)に相当します。現在のアジア・アフリカ・ラテンアメリカの5億の人々は、昔の労働者階級・被支配階級と同じ立場にいます。日本を含む先進諸国は、貧困者を搾取して労働させる上流階級なのです。
“飽食”を楽しみ、大量の食料を捨てる先進国の人々
先進諸国の人々は、第三世界の人々から換金作物を買い上げ贅沢をする中で、知らず知らずのうちに「飢餓」を進める加害者になっています。私達は日本という先進国に生まれたために、いつの間にか貧困国の人々を苦しめる立場に立っています。神が与えた農作物を不公平に分配し、飢餓をつくり出す加害者になっているのです。
現在の地球上で食べることが問題とならないのは、少数の経済先進国の人間だけです。世界には食べ物にありつけず、一日一日をやっとのことで生き延びている人々があまりにも多くいます。貧困・飢餓の状態を、いつまでも脱しきれない人々が大勢いるのです。それはこれまで見てきたように、すべて人間の“利己性”から発生したものなのです。
日本ではお金さえ出せば、いつでも世界中の美味・珍味を手に入れることができます。多くの日本人にとって、グルメに興じることが楽しみの一つとなり、ある種のステイタスとなっています。それでも足りないとみえ、海外にまでグルメツアーに出かける人々もいます。こうした贅沢・飽食三昧の摂理に反した行為が、いつまでも続くわけがありません。日本人の毎日の食事は、かつての王侯貴族をしのぐ世界中の豊富な食材からなり、カロリー過剰摂取による肥満や現代成人病(生活習慣病)が人々を脅かすようになっています。以前の貧しい時代には、一部の金持・特権階級・貴族にしか見られなかった糖尿病や痛風・ガン・心臓病・脳卒中などの病気が蔓延しているのです。現在、経済先進国では例外なく、ガン・心臓病・脳卒中が死因の上位を占めるようになっています。こうした生活習慣病は、50年前の貧しい時代の食事に戻しさえすれば、たちまち減少するものなのです。
先進国の問題は、これだけにとどまりません。先進国では貧しい人々を犠牲にして飽食・美食を追い求めるだけでなく、驚くほど多くの食べ物を無駄にしています。体が必要とする以上に食べ過ぎて病気になっているばかりでなく、せっかくの食べ物を惜しげもなく捨て去っています。
同じ地球に住む霊的家族・霊的同胞が「飢餓」で苦しみ、死に直面しているときに、「自分の金で買うのだから、自分勝手にしていい」というような理屈は通りません。食べ物がなくて飢えに苦しみ、死を目の前にした人々が大勢いるにもかかわらず、日本をはじめ先進国では至る所で毎日、山のような食べ物が無駄に捨てられています。各家庭ではつくり過ぎの食べ物が生ごみとしてたくさん捨てられています。学校給食や食堂の残飯の山、ホテルのパーティーや宴会の後に捨てられるご馳走の数々を、アフリカの人々が見たら何と思うでしょうか。悲しみを超えて憎しみの思いを抱いたとしても不思議ではありません。おそらく涙が止まらないことでしょう。町のファーストフード店では、一定時間を過ぎた食品はそのまま廃棄処分されてしまいます。
もし、これをアフリカの人々に与えることができるならば、何百万人もの人々が救われることになるのです。
利己的な罪を犯している私達先進諸国の人間達
毎日の食べ物さえ手にすることができずに、飢えに苦しむ人々が何千万・何億といる一方で、彼らから農作物を奪って贅沢・飽食三昧の生活をし、しかも食べ残した大量の食料を平気で捨てる――これを“罪”と言わずして何と言うべきでしょう。大半の人々は、そうした行為に対する罪の意識・自覚すらありませんが、本当はきわめて利己的で非道な行為をしているのです。他人を飢えに追いやっているのに、その事実に気がついていないのです。私達日本人は、利己的システムの中に組み込まれ、その中を飼いならされた豚のように飽食・美食を追い求め、贅沢に生きているのです。
21世紀の先進国に生まれた私達は、否応なく“エゴ”のシステムの加害者の立場に立たされています。いつの間にか非道で利己的な人間の側に属しています。自分はそんな人間ではないと言っても、現実に飢えで死んでいく人々から貴重な食べ物を奪い取っているのです。先進国に生まれたというだけで、知らないうちに貧しい人々を虐げ、鞭打ち、死に追いやっているのです。かつてのヨーロッパの貴族のように、自分は贅沢三昧の生活に浸りながら、民衆の苦しみに全く心を向けることがなかったのと同じことをしているのです。現代の先進国の多くの人々は、あまりの贅沢な暮らしぶりから民衆の反発を招き、フランス革命を引き起こしたマリー・アントワネットのようです。
もし飢餓で苦しむアフリカの難民が、自分の家族の一員であったとしたなら、誰がじっとしていることができるでしょうか。誰が自分一人だけ飽食三昧の生活を送ることができるでしょうか。しかし、これが現在の地球の霊性レベルの実情なのです。まさに“利己主義”が支配する地獄と言ってもいいような所なのです。霊界の人々が――「今、地球上で最も急を要する問題は、貧困と飢餓である」と言う意味が、よく分かるのではないでしょうか。
現在の「飢餓の問題」解決の方法
人間の“利己心”がつくり上げた現在の地球規模の飢餓は、まさに“人災”です。その飢餓を克服するには、どうしたらいいのでしょうか。まずは第三世界における土地改革が不可欠です。農民の多くを自作農にすれば、飢えて死ぬような最悪の事態は避けられます。とは言っても、これには必ず土地所有者の激しい抵抗が付きまといます。さらに海外の先進国からも、そうした改革に対する妨害がなされるはずです。しかし土地改革をしないかぎり、「飢餓の問題」は根本的には解決しません。
次に換金作物ではなく、その地方の人々の食料となる農産物を生産して、欧米をはじめとする先進国への依存体質を断ち切ることです。そして自給自足の経済システムをつくり上げることです。発展途上国の人々にはこうした努力が必要とされますが、そこには人間の所有欲、富を手放したくないという“利己心”が大きく立ちはだかります。
地球規模での飢餓をなくすためのもう一つの努力は、先進国サイドにあります。金に任せた飽食をやめ、質素な食生活で満足するようにすることです。同時に現在、大々的に行われている穀物飼料による家畜飼育と肉の多食という間違った在り方をやめることです。そうすれば大地から与えられる農作物は、それを必要とする人々に正しく分配されることになります。しかしここにも、本能的な喜びを捨てられない人間と、これまでのエゴ的経済システムによって莫大な利益を得ていた人間からの大きな抵抗が予想されます。
こうした根本的な改革は政治に期待することはできません。利己主義の上に立った政治では、自らの利己主義の根を断ち切ることはなかなかできません。“スピリチュアリズム”による「霊的革命」が進行し、人間の心が深いところから変化し、物質的な利益に縛られることがなくなったときに初めて根本的な改革が進むようになります。土地も農産物も、ともに神が人間に与えてくれた恵みです。それを公平に分けることは当たり前のことなのです。たとえ天災などによって不作が起きても、「利他愛の精神・霊的同胞意識の精神」で助け合えば問題は生じません。そうして初めて富と食料は、地球人類に平等に公平に分け与えられることになるのです。
こうした意味において、スピリチュアリズムの目指す世界は“共産主義”と言えます。ただしこれまで共産主義と言われてきた“マルキシズム”は唯物主義に立脚し、独裁政権によって人権を無視し、人々を非道に支配してきました。それは霊的に見たとき、最も利己性の強い在り方です。“スピリチュアリズム”の目指す共産主義とマルキシズムは、天と地ほどの違いがあります。それをしいて言うならば「霊主的共産主義」ということになるでしょう。
*ここでは“エゴ”による食料の不平等分配から「貧困・飢餓」が発生していることを述べました。現在では食料以外にも、先進国によるエネルギー資源・天然資源の不平等搾取によって貧困の格差が拡大しているという事実もあります。
こうしたエネルギー資源・天然資源の不平等分配から生じる「貧困・飢餓」や「経済格差の拡大」の問題については、別の機会に取り上げたいと思います。