スピリチュアリズムと先祖供養(シリーズ1)

ニューズレター第21号

「スピリチュアリズムでは、どのように“先祖供養”を行ったらよいのでしょうか?」――これまで多くの方々から、こんな質問をお寄せいただいております。

先祖供養は日本人の中に、当たり前の宗教的慣習として定着しています。そして人々は、先祖供養と仏教は一体不可分のものと思っています。しかしスピリチュアリズム発祥の欧米には、日本で行われているような先祖供養はありません。

スピリチュアリズムでは、先祖供養をどのように考えたらよいのでしょうか。スピリチュアリズムは、あの世には未熟な霊が数多く存在していることを明らかにしていますが、そうした霊達に対して、これまでの先祖供養は果たして意味があったのでしょうか。

日本スピリチュアリズムの祖と言うべき浅野和三郎は、古神道とスピリチュアリズム折衷せっちゅうして、独自の心霊観を展開しました。浅野の説く神霊学には、日本古来の死生観が色濃く見られます。浅野の影響を受けたスピリチュアリストの中には、現在でも先祖供養の必要性を主張する人々がいます。

一方、海外のスピリチュアリズムには、日本のような先祖供養の必要性を説く人はほとんどいません。憑依現象に対する除霊などが行われることはあっても、血縁関係のある先祖霊に向けて、定期的に交わりを持ったり働きかけをするようなことはありません。

日本のスピリチュアリズム界では、今日まで先祖供養について徹底した議論がなされたことはなく、先祖供養の問題は曖昧あいまいなままに残されてきました。先祖供養については、各自が思い思いの見解に基づいて自説を展開するだけで、霊界通信に照らし合わせて検証するといったことがなされずにきました。

シルバーバーチは、地上の宗教的慣習や儀礼を“玩具おもちゃ”にたとえています。「それ(宗教的慣習や儀式)が必要な人には敢えて止めさせる必要はないが、成長とともに自然と“玩具おもちゃ”は卒業するようになる」と述べています。宗教とは純粋な無私の奉仕(サービス)であるとの立場に立てば、地上の宗教が行う儀式はどちらでもいいものということになります。

日本人に慣習として定着している先祖供養は、シルバーバーチの言う“おもちゃ”に相当するものなのでしょうか。それとも霊的事実に照らしたとき確たる根拠のあるもので、欧米のスピリチュアリズムがいまだに手がけていない最先端の霊的行為と言うべきものなのでしょうか。世界各地のスピリチュアリストも、今後は取り入れていくべきものと考えたらよいのでしょうか。

ありがたいことに私達は、スピリチュアリズムによって霊界の事実と霊的知識を手にすることができました。その膨大な知識はすべて霊界から与えられたもので、地上世界から霊界をのぞき見して得られたものとは、真実性において天と地ほどの違いがあります。それは霊界という現地から直接もたらされた確実な情報なのです。現在ではそうしたスピリチュアリズムによって明らかにされた霊的事実・霊的知識に基づいて、先祖供養の是非を論じることができるようになっています。また高級霊の霊界通信によって、先祖供養に関係する高級霊の見解を直接知ることも可能となっています。

今回のニューズレターでは、スピリチュアリズムの観点から地上の「先祖供養」について考えてみることにします。スピリチュアリズムは今後、確実に日本全土に普及することになりますが、その際、日本人の中に定着している先祖供養についての明確な見解を示すことが必要となります。心霊世界に関心のある人ならば、当然のこととして先祖供養に関心を持たざるを得ないはずです。

また先祖供養という慣習は日本だけにとどまらず、中国や台湾・韓国・東南アジアの華僑社会といった“儒教文化圏”にも共通して見られます。そこでは伝統的に先祖霊崇拝・先祖霊信仰が行われ、これが日本の先祖供養以上に重要視されています。先祖霊を祭り、儀式を執り行うことが子孫の最大の義務となっています。いずれ儒教文化圏にも間違いなく、スピリチュアリズムは広がっていくことになります。こうした国々においてスピリチュアリズムが正しく理解され受け入れられるためには、先祖霊崇拝・先祖霊信仰に対するスピリチュアリズムの見解を明確にしておくことが必要となります。

ニューズレターでは「先祖供養」に関する問題を、2回シリーズで取り上げます。今回はその前半です。シリーズ2:「あの世から見た地上の先祖供養と招霊会の霊的背景」)

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