第2章 スピリチュアリズムから見た正しい先祖供養

――スピリチュアリズム的“先祖霊救済方法”

ニューズレター第21号

日本人にとっては常識的とも言える先祖供養が、実は本来の仏教(シャカ仏教)とは無関係なものであることが明らかになりました。インドから中国に伝わった仏教は、東北アジアのシャーマニズムの衣をかぶった中国仏教となり、やがてそれが日本に伝来することになりました。

中国や朝鮮では、最終的に日本のように仏教が大きな勢力を持つことはありませんでした。中国や朝鮮において宗教の支配的な立場に立ったのは儒教でした。人々は儒教によって、古来からの先祖崇拝の慣習を維持してきました。このような背景を見るとき、「日本仏教の先祖供養」と、中国や朝鮮における「儒教の先祖崇拝」は、本質的には同じものであることが理解されます。

大半の日本人にとって、先祖供養や墓参りは当たり前の宗教行事となっています。仏教と言えば無条件に先祖供養や墓参りが頭に浮かびます。最近では若者の伝統的宗教離れが進むようになり、先祖供養や墓参りに無縁な日本人が徐々に増加するようになっています。しかし日本人である以上、ほとんどの人々は一定の年齢に至ると、否応なく先祖供養に係わりを持つようになります。普段は年寄の先祖供養を冷やかに眺めていた者達も、親の死を迎えると、いきなり葬儀や先祖供養の慣習の中に投げ出されることになります。墓参りに行ったことのない者達も、年を経るとともに、親族や知人の葬式や法事に参加せざるを得なくなります。結局、先祖供養など信じていなかった人も、従来の先祖供養の慣習に従うことになるようです。

さて、ここでは今日まで日本・朝鮮・中国で続けられてきた先祖供養・先祖霊崇拝の慣習を、霊的事実の観点から考えてみたいと思います。先祖供養という慣習は、果たして意味があるものなのか? これまでの先祖供養で、本当に先祖の霊を救うことになっていたのか? もし先祖供養が必要であるなら、どのような方法でしたらよいのか? こうした点について、霊的事実に照らして考えてみたいと思います。

幸いなことに私達は、スピリチュアリズムによってもたらされた多くの霊的知識と情報を手にしています。そうした知識・情報によって、これまでならば決して知ることのできなかった霊界の様子や、そこでの住人(霊達)の様子を詳細に知ることができるようになっています。スピリチュアリズムによる知識・情報と照らし合わせることで、先祖供養や先祖崇拝の内容を検討することができるようになっています。霊的世界の内容をチェックするというようなことは、スピリチュアリズムが地上世界に登場したことによって初めて可能となったのです。

ここではまず、平均的な地上人が死後、あの世でどのような経過をたどるのかを見ていきます。その過程で“地縛霊じばくれい”と言われる落伍者が存在するようになる事実を取り上げます。重要な結論を先に述べることになりますが、スピリチュアリズムから見たとき「先祖供養」とは、こうした地縛霊達を救済することに他なりません。

次に、従来の先祖供養や先祖崇拝の儀式によって、先祖霊の救済が可能となっているのかどうかを検討します。そしてスピリチュアリズムの観点から地縛霊達に対して、具体的にどのような救済手段を講じるべきかについて考えることにします。すなわちスピリチュアリズム的な先祖供養の方法を明らかにすることにします。

1.平均的人間の死の直後の様子

平均的人間の死後のプロセス

地上から霊界に入っていくプロセスは、本人の霊的成長の度合や霊的知識の有無・地上での体験によって千差万別となります。決まった一律のプロセスというものはありません。聖人と言われるような人間と、単なる普通の人間、また極悪非道な人間が、死後全く同じ道筋をたどるようなことはありません。とは言っても大部分の平均的男女、長所も短所も持ったごく普通の人間一般的に言う善人)には、ほぼ共通した傾向が見られます。ここではそうした常識的人間・平均的人間がたどる死後のコースを見ていくことにします。そのコースは次のようになります。

  • 死の睡眠からの覚醒
  • 死の自覚(霊的意識の目覚め)
  • 迎えの霊達との対面
  • 幽界の休息所へ行く
  • 幽界の審判に臨む
  • 幽界での本格的な生活の開始

①死の自覚と、迎えの霊達との対面

霊体と肉体を結んでいたシルバーコードが切れると、いよいよ幽界霊界の下層世界)に入ることになります。肉体から離れ霊体だけになる瞬間は、本人は半睡眠状態で、ほとんど意識を失っています。死に際しての苦悶の表情や身もだえの様子を見るのは、死を看取る地上人にはとても辛く、いたたまれない気持になりますが、当の本人は何の苦しみも痛みも感じていないのが普通です。

死の睡眠から目覚めると、ある人は、ぼんやりした意識の中で自分にそっくりな人間が横たわっているのに気がつきます。そしてその周りに、先程まで自分の死に立ち会っていた人々が泣いている姿が見えます。そこで集まっている人々に語りかけたり肩を叩いたりするのですが、誰も気がついてくれません。大半の人間はこうした状況に非常に戸惑い、不安に駆られ、混乱するようになります。そして、「ひょっとして自分は死んだのではないか?」と思うようになります。

やがて自分が死んだことを自覚するようになると、本当の目覚めの時がやってきます。すると、すでに他界している親族や兄弟・知人が目の前に現れるようになります。実はこうした親族達は、死に際してずっと付き添い、新しく霊界入りするための手伝いをしてくれていたのです。本人に死の自覚ができると“霊的視野”が開け、周りにいた人々の姿が見えるようになるのです。

死から死の自覚(霊的意識の目覚め)までの長さは、人によってさまざまです。霊格や知識・地上での習性によって、時間が長くなったり短くなったりします。死の自覚ができると同時に霊的意識の目覚めがもたらされるようになります。

死の眠りから覚めても、混乱状態がひどかったり、なかなか死を自覚できないときには、再び死の眠りを継続させるような状態に置かれます。眠りを通して、調整と自覚が促されることになります。

②幽界の休息所

親族や知人達の歓迎を受け、しばらく彼らと対話を交わした後、出迎えにきてくれた中の一人地上時代の守護霊または知人が多い)に連れられて休息場所に行くことになります。そこで安らかな半睡眠状態で、休息をとるのです。

死んで間もない新参者は、いまだ地上の波動を持ち続け、すぐに霊界になじむことができません。そのため休息所で、自分の身体や精神を霊界に適応させるための調整が行われることになるのです。その間に、霊体にまとわり付くように残っていた“幽質接合体”の残滓ざんしは脱ぎ捨てられ、霊体(幽体)だけの存在になっていきます。

③幽界での審判

休息場所ではこうした適応プロセスが進行する一方、半醒半夢はんせいはんむの状態(まどろむような状態)で地上時代の自分の体験を見せられることになります。自分の目の前に、地上時代のさまざまな出来事がドラマのように展開していくのです。それを、より高い指導霊のインスピレーションの影響を受けながら見つめ、地上時代のすべての行為を自ら査定することになります。これがいわゆる「霊界での審判」と言われているものです。

そこでは「霊的法則」の働きによって、自分で自分を審判し裁くことになります。他の霊が審判し裁くのではありません。地上の裁判のような討議も証拠提出も、一人一人に対する査問などという手間もなく、地上時代のもろもろの行いの霊的価値がひとまとめに明らかにされ、即座に結果が出るようになっています。

従来の宗教で言われてきた“閻魔大王”による裁きというような事実はありません。先入観にとらわれた霊能者が、あの世の閻魔による審判があるかのように言うことがありますが、それはすべて自分自身の想念の世界での出来事を事実と錯覚したものです。

霊界(幽界)での審判における反応は、人それぞれ大きく異なっています。霊界に入ると地上時代のあらゆる見せかけががれ落ち、自我が素っ裸にされます。これはある者にとっては、たいへんなショックです。それによって、自分の地上時代の何が間違っていたのかが少しずつ理解できるようになります。

霊界の審判は、人によっては屈辱となったり、逆に喜びとなったりします。地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者も、霊界では必ず間違いを悟るようになり、おのずと罪の大きさを自覚するようになります。と同時に地上とは異なり、一切のごまかしや言訳が効かないことが分かるようになるのです。

霊界の審判では、自らが裁判官となって、自分で自分を裁くことになりますが、そのときの判決の基準は――「地上で何を行ったのか、世の中のためにどれだけ自分を役立てたのか」ということです。まさに地上での「利他的行為」が判決の基準となるのです。

こうして身体と意識の調整、並びに地上人生の反省というプロセスを経ることになりますが、それは多くの場合、地上の時間にして数日~数週間早い人で3~4日)で完了するようです。そして、いよいよ幽界での生活が始まることになります。

事故などで突然死した者は、霊的にも大きなショックを受けているため、一般の他界者よりも長期の死の眠りが必要となります。霊界の病院などで十分な眠りをとらせ、ゆっくりと霊界の生活に適応させていきます。そうしないと、後で述べる“地縛霊”になることがあるからです。霊界では新しい他界者を地縛化させないために、全力を挙げてケアーが行われています。

これまで述べてきたことを整理すると、次のようになります。

平均的人間の死の直後のプロセス
【図4】 平均的人間の死の直後のプロセス

平均的他界者は、霊界の人々にとっては“問題児”

生前から死後の世界のあることを信じ、霊的世界に対する知識を持っていたような人の場合は、シルバーコードが切れて死の眠りから目覚めると同時に、先に他界していた人々の出迎えを受けることになります。彼らは歓声を挙げて、本人の霊界入りを喜んでくれます。眠りからの覚醒と同時に霊的意識がよみがえり、霊的視野が開かれるために、待ち受けていた霊界の人々の姿をすぐに認識できるのです。地上時代に「霊的知識」を身につけておくことが、いかに大切であるかということです。

これまで平均的な人間の死後のプロセスを見ましたが、実はこの平均的な人間は、霊界に対する最低の知識も、基本的な霊的真理も知らないのが普通です。霊界から見たとき、地上世界における平均的な人々・大半の人々は、霊的存在としての常識的な内容さえ持っていないということです。

彼らは“霊的な問題児”であり、死後に、霊的世界に対する適応期間・準備期間としての休息が必要となります。彼らのために霊界の人々は、たいへんな労力を費やさなければなりません。特に戦争などの異常事態においては、さらに多くの手間や面倒がかかることになります。霊的に無知な人々は、地上では平均的な人間であっても、霊界から見れば最低のことさえ身につけていない人間なのです。彼らは、本来は地上で学んでおくべきこと・準備しておくべきことを、霊界に入ってゼロからやり直さなければならないのです。

シルバーバーチが――「こうしている間でも、地上から何百万・何千万という人間がこちらへ送られてきますが、そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、混乱し、呆然自失の状態です。それで我々が、いろいろと手を焼くことになります。本当はそちらで霊的教育を始めるほうが、はるかに面倒が少なくて済むのです」『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版)p.79)と言っているのは、こうした平均的な他界者に対してのことなのです。

地上で霊的真理になじみ、霊界に対する知識を持っているなら、霊界に入ってからの適応時間は短くなり、霊的進化の道に入っていくまでのプロセスは短縮されます。「地上で霊的真理を学ぶ」ということは本当に大切なことなのです。その点で“スピリチュアリスト”は、霊界入りのプロセスを最もスムーズに歩むことができる可能性を持っています。死の目覚めと同時に、迎えに来てくれた多くの人々と歓喜の対面をすることができ、その後の調整期間も短いのが普通です。

2.幽界入りのプロセスの落伍者

――“地縛霊”

地縛霊になる他界者

以上は、平均的な人間の死の直後のプロセスでした。大半の他界者はこうした経過をたどって幽界に入り、そこで新しい生活を出発することになります。しかし中には、幽界に入っていけない落伍者も出ることになります。彼らは死の眠りから覚め、周りに出迎えの家族や知人がいても、夢を見ているのだと思い込み、自分が死んだことを認めようとしません。それどころか迎えに来た人々が、「あなたはもう死んでいるのですよ」と教えても、「自分はこうして生きている」と反論し、怒り出す始末なのです。

このような人間に共通するのは、死んだらすべては終わりになるという強烈な唯物的考えを持っている、ということです。彼らの多くは地上人生を、物質的な満足や本能的快楽だけを追求して過ごしてきました。そのため極端に物欲性が強く、一切の霊的要素・霊的内容を受け入れることができなくなっています。先に述べた平均的な他界者と比べると、霊的世界に対して閉鎖的なのです。

平均的な他界者の場合も、生前は霊界のあることを知らなかった人が大半なのですが、唯物的指向がそれほど強くなく、ただ単に無知であったということなのです。そうした人は、霊界に入ってその現実に直面すると、事実をありのままに受け入れるだけの柔軟性を持っています。

それに対して霊的世界の実在を認められない落伍者は、結局、地上世界の近くにとどまることになります。これがいわゆる“地縛霊”です。地縛霊の数は平均的な他界者と比べるならば少数ですが、幽界の下層には地縛霊が集まるようになり、絶対数としてはかなりの数に上ります。地上近くには、こうした霊達がうようよしているのです。

スピリチュアリストと唯物性の強い人間の死の直後のプロセス
【図5】 スピリチュアリストと唯物性の強い人間の死の直後のプロセス

地縛霊の内容はさまざまです。また地縛霊になった原因や置かれている状況も一人一人異なりますが、ある種の共通性も見られます。次に“地縛霊”を、いくつかのケースに分けて見ていくことにします。

さまざまな地縛霊のケース

ケース①

地上時代に一度も、心から他人を愛したことがなかったような人間は、死とともに暗闇の孤独の中に置かれます。自分の心のかたくなさが、霊的視野をさえぎり、霊的な光を全く受けつけることができないからです。それは丁度、自分で自分の目に“目隠し”をしているような状態です。その暗さは地上の夜の暗さとは比較になりません。まさに“漆黒しっこくの闇”と言ったらいいでしょう。

そのような「絶対的孤独の状態」に置かれるのは、少数の他界者に限られます。よくよくの利己主義者・極悪非道の人間・冷酷無情の独裁者・暴君といった者を除いては、こうしたケースはめったにありません。

ケース②

弁解の余地がないような動機から自殺した人間も、しばらくは極悪非道の人間と同じような真っ暗闇の中に置かれることになります。彼らは地上での苦しみや恥かしさに耐えきれずに自殺したものの、死後にはそれ以上の大きな苦しみを味わうことになります。しかも本人には、その苦しみが永遠に続くように思われるのです。

それでも何とか「暗黒の境涯」を抜け出すと、今度は幽界の最下層において“地縛霊”として生きることになります。そうした地縛霊の中には、自分が死んだことに気がついていない者も多く、地上人に憑依ひょういしてその意識を支配し、自殺するように仕向けることもあります。

自殺そのものは神の摂理・法則に背いた行為ですが、その動機によって罪悪性は軽重さまざまです。なかには国家のため・人々のためという理由から、自殺という手段を選んだ人もいます。その場合には、同じ自殺でも動機に利他性があるため、霊界で最悪レベルの地縛霊として、いつまでもとどまるようなことはありません。暗闇の境涯に置かれるのは、徹底した利己主義から出た自殺者です。

また“憑依霊”の仕業によって自殺に追い込まれたような人の場合、やはりしばらくは暗闇に置かれますが、“自殺”という行為の責任をとらされることはありません。責任は自殺に引きこんだ霊の側にあり、自殺した者がその責任を負うことはないのです。この場合は本人の霊性にもよりますが、霊的な目覚めは早くやってくるのが普通です。

ケース③

これといって極端に邪悪な性格をしているわけではないのですが、死後の一連の適応プロセスに乗りきれずに地上近くにとどまってしまう者達もいます。彼らも地上時代には霊界の存在を認めず、霊的なことには一切関心を向けず、ただ物欲・肉欲を追い求めるだけの生活に終始してきました。

こうした者達は、自分が死んだことに気がつきません。すでに他界している家族や親族・知人の出迎えを受けても、依然として「自分は生きている」と主張し、死んだことを認めようとしません。そして薄暗いもやの中を歩き回り、地上時代と同じ物欲・肉欲を求め続けるのです。自分でつくり上げた幻影まぼろしを手に入れようとひたすら追いかけ、つかんだと思った瞬間にそれが目の前から消え去るという空しいことを繰り返しています。

彼らはまた、相も変わらず快楽を求めて地上近くをうろつき回り、自分と同じような欲望に浸っている地上人に取り憑いて、その快楽を間接的に体験しようとします。

ケース④

地縛霊の中には、これまで述べてきたのとは別種の存在もいます。それが「宗教への盲信」に由来する地縛霊です。地上時代に“間違った教え”を潜在意識の中に強烈に植え込んでしまったために、死後も正常な霊的覚醒ができなくなっているケースです。

そうした地縛霊となるのは、地上時代に熱心に信仰してきた者に限られます。例えばキリスト教徒の場合には“最後の審判”が現実に起こると思い込み、自分が死んだことを認めようとしません。そして同じ信仰を持った者同志で教会に集まり、祈りの時を持ち、終末の復活の日がくるのを待ち続けるのです。間違った宗教の弊害は、地上においてばかりでなく、このように霊界に行ってからも続くことになります。

以上述べた地縛霊のケースを整理すると次のようになります。

地縛霊の4つのケース
【図6】 地縛霊の4つのケース

以上、いくつかの地縛霊のケースを見てきましたが、すでに他界している皆さん方の先祖や血族の中にも、このような地縛霊となっている者がいる可能性があります。“地縛霊”とは、仏教で教える「成仏しない霊・地獄に堕ちた霊」のことです。むろん従来、宗教で言われてきた地獄というような仕切られた世界は、霊界には存在しません。“地獄”とは、地縛霊となって苦しむ霊達の心が生み出す主観的世界であり、自らつくり上げた境遇に他なりません。

すでに他界した先祖や血縁者の中に“地縛霊”となっている者がいる場合には、彼らを救うことが必要となります。それが「先祖供養」の本当の意味なのです。神はこうした落伍者に対しても、見捨てることなく更生の道・救済の道を示されるのです。

では“地縛霊”となった他界者は、霊界でどのようにして更生の道をたどっていくことになるのでしょうか。次にそれを見ていくことにします。

3.地縛霊に対する救済プロセス

地上近くにたむろする地縛霊の存在は、地上人に悪い影響を及ぼします。それは当然、スピリチュアリズムに係わる高級霊にとって悩みの種となっています。地縛霊という存在は、霊界全体にとって何としても無くさなければならない汚点なのです。神の造られた霊界は「利他愛の支配する世界」であり、こうした未熟な霊達にも“救いの道”が示されることになります。

冷酷で極端な利己主義者に対する更生の道

先に述べたように、地上時代を冷酷無情な独裁者や暴君、あるいは極端な利己主義者として過ごし、多くの人々を苦しめたり犠牲にしてきたような者は、いきなり「暗黒の境涯」に置かれることになります。そして半ば強制的に、地上での悪行の数々を目の前に見せつけられるようになります。それは本人にとって逃れられない苦しみと後悔を引き起こします。「神の摂理」によって、地上でなした悪事が、それに見合った苦しみをもたらすのです。自分が苦しめてきた犠牲者と同じ目に遭わされることになるのです。暗黒の環境の中で、気が狂わんばかりの苦しみを味わい、七転八倒し、地獄そのものの時を過ごすことになります。

しかし彼らにも、やがて転機が訪れます。これまでのような「完全に孤独な闇の境涯に居続けるのか」、それとも「再生の道を選ぶのか」という選択肢が示されることになります。そして大半の霊達は後者を選ぶことになります。彼らにとって地上への再生は、神の摂理の働きによるある種の救済の道と言えます。

こうした再生のケースは、本人には選択の余地がないような半強制的な形で執行されていくことになります。地上への再生の道を歩み出すと言っても、決して楽な人生が待っているわけではありません。彼らの中には、再生の地上人生を白痴として過ごすようになる者もいます。また他人に与えたのと同じ苦しみを体験するために、辛くしいたげられた、みじめな人生を歩むようになる者もいます。

いずれにしても地上的観点からすれば、最も不幸な地上人生を送ることになりますが、それによって過去の罪が少しづつ清算され、霊的進化の道を歩み出すことができるようになるのです。

自殺者に対する更生の道

利己的な動機から自殺したような場合、極端な利己性が閉鎖的な壁をつくり出し、外部との交流が遮断しゃだんされることになります。また霊的視野・霊的意識が全く閉ざされているため、霊的光を受けられず、自らつくった暗闇の中に身を置くことになります。今述べた非情な独裁者や暴君のケースと同じように、「暗黒の境涯」で苦しみの時を過ごすのです。

霊的な暗黒世界の中で苦しむうちに、少しづつ意識に変化がもたらされるようになります。やがて暗黒の境涯を抜け出し、幽界の下層で“地縛霊”として生きることになります。地縛霊としてどのような歩みをするかは、一人一人異なっており、共通のパターンはありません。

さて自殺した他界者に対しても、霊界では上層から絶えず救済のための霊達が差し向けられます。利他愛の支配する霊界では、どのような落伍者に対しても愛の思いが向けられています。

しかし自殺者のように、自らつくり出した暗闇の中に自分自身を閉じ込めているような場合は、救済を任務とする霊達にもなすすべがありません。霊的に完全に閉ざされた彼らとの間には接点がなく、接触さえできないために手の下しようがないのです。苦しみ抜く中で本人の意識が変化するのを待つしかありません。結局は、自らつくった罪に苦しむことが、彼ら自身を救う道となるのです。苦しむことで、罪を償うことになっているのです。

あまりにも利己性が強くて霊的意識の目覚めが得られないような自殺者の場合は、独裁者や暴君のケースのように地上への「半強制的な再生」というプロセスを踏むことになるかも知れません。

一方、利他的動機から自殺の道を選んだ場合は、暗黒の境遇も短期間に抜け出すことができます。意識がもともと開かれているために、霊界での“救済霊の声”を受け入れることができるからです。また、その後も地縛霊になることはほとんどありません。

地縛霊の意識の変化と、幽界の救済霊達

霊的意識が芽生えず、自分のつくり上げた世界に閉じ込められている地縛霊達を救済するのは並大抵のことではありません。彼らの意識が変化し、自分でつくり出した幻想の世界を自ら抜け出したいと思わないかぎり、周りからは手の施しようがないのです。

彼らが自分なりの世界に飽き、苦痛を感じて「もっと別の所に行きたい」と思うようになれば、その時が救済霊にとって働きかけのチャンスです。外部からの働きかけが、初めて地縛霊の心に届くことになります。

すでに述べたように、地縛霊となった者達を救済するために、霊界では上層から降りて救済活動に携わる多くの霊達がいます。地上近くでは、こうした救済霊達が活発な活動を展開しているのです。そこでは「物質的意識・本能的意識」だけに縛られた地縛霊達に対して、「霊的意識」を自覚させるために、ありとあらゆる手段が講じられています。彼らに意識の変化が生じるようになれば、その機会を逃さず、さらなる働きかけがなされるようになります。

救済の任に当たるのは、自らその役目を買って出た霊や、地縛霊となっている者の地上時代の家族や知人達です。ときには生前の守護霊や類魂の一員が、任務に携わることもあります。救済霊達は何とかして、哀れな地縛霊を地獄から救い出したいと必死に働きかけます。

地縛霊としての状態は、時に何百・何千年にも及ぶことがありますが、それは特に稀なケースです。霊界に入りながら、いつまでも物質的意識を持って生活を続けることは不可能だからです。大半の者達が、自分自身でつくり出している幻影の生活に飽きを覚え、嫌気がさすようになります。やがてそれが苦痛に変わり、「何とかここを抜け出したい!」と思うようになっていきます。いずれどのような地縛霊にも、そうした意識の変化が訪れるようになるのです。

地縛状態から抜け出す最後の試練

――“妨害霊”との闘い

霊的意識に目覚め始め、地縛的境遇を抜け出したいと思うようになっても、すぐにそれが実現することはありません。彼の周りには、これまでの仲間達地縛霊となっている邪悪霊や未熟霊)が集結し、本人を取り囲んで元に引き戻そうとするのです。

これと同じようなことは、この世にも見られます。いったん暴力団や暴走族に入って悪事を働けば、そこから抜け出すには大きな苦痛がともないます。悪事を重ねた者ほど、自分を取り巻く環境から足を洗うのに、たいへんな妨害や困難と闘わなければなりません。地上時代になした利己的行為は、依然“罪”として本人の上に残されています。それが多ければ多いほど、地縛状態から抜け出すための苦痛が増すことになります。

実は、悪の道に引き戻そうとする邪悪霊の妨害は、向上を願う霊にとっての“罪滅ぼし”になっているのです。明るい世界を求めて暗闇を抜け出すための苦しい闘いは、今までの悪事に対する罪の清算プロセスになっているのです。必死に妨害の壁を乗り越えようとする苦労と闘いを通して――「善を指向する心と、悪への反発心が強められる」ことになります。自分で犯した利己主義の罪は“妨害に苦しむ”という犠牲を払うことで償われ、魂が清められることになるのです。

その試練は、何度も何度も与えられます。繰り返し繰り返し忍耐が試され、さらなる悲しみ・後悔・絶望を体験しなければなりません。地縛霊は、神の定めた「因果律」によって自分の悪事に見合った苦しみを味わい、罪を償うことができるのです。それによって、やっと霊的進化の道・救いの道を歩み出すことができるようになります。ここで述べたことを整理すると次のようになります。

地縛霊の再生プロセス
【図7】 地縛霊の再生プロセス

4.スピリチュアリズムにおける先祖供養とは

――地縛霊となった先祖霊の救済

先祖供養とは、“地縛霊”となった先祖を救うこと

以上、幽界の下層における地縛霊の様子と、彼らが更生していく過程について見てきました。霊界における厄介な問題の一つは、この地縛霊の存在ですが、彼らも今述べたように、いつまでも地獄の境涯に放って置かれることはありません。いずれはすべての霊が、向上進化の道をたどるようになります。自らの霊的無知と利己性ゆえに「暗黒の地獄で苦しむ」という罰を受け、更生のチャンスが与えられることになるのです。

今回のニューズレターのテーマは「先祖供養」です。スピリチュアリズムの観点から見た先祖供養とは、地縛霊となっている先祖を救済するということに他なりません。仏教的に言えば、いつまでも成仏できずに地上近くにとどまっている先祖霊、地獄に堕ちている先祖霊を救うということです。何十代にわたる血縁関係者の中には、地縛霊となっている者がいるかも知れません。そうした先祖を救い出すことが先祖供養の目的なのです。

とは言っても、親が嫌がる子供の手を無理やり引っ張っていくというような形で、地縛化した先祖を救うことはできません。これまで見てきたように、地縛霊自身の心が変化しないかぎり、外部からは全く手の施しようがないのです。自分の罪は自分で償い、自分の救いは自分でなすというのが神の摂理なのです。そうした条件が満たされたとき、初めて救済の使命を担って働く霊達の援助を受け、暗黒の地縛世界から解放され、明るい世界に向上していくことができるようになるのです。

先祖供養の対象となる先祖霊は、どのくらいいるのか?

時の経過とともに、地縛霊も必ず進化の道をたどり始めるようになります。なかには何百年・何千年もの間、地縛霊として低い世界にとどまる者もいますが、それは例外であって、わずかな数に過ぎません。先祖の中には、かつては地縛霊であった者がいるかも知れませんが、何百年以上も経って、いまだに地縛霊のままでいるというケースは、それほど多くはないはずです。このように考えると、供養の対象者となる先祖はあまりいない、ということになります。

ただし死後、さほど時間が経っていない他界者の中には、地縛状態に堕ちている者がいる可能性があります。地上時代を物欲追求だけで終わり、霊的成長とは全く無縁な人生を送った者は、地縛霊となって苦しんでいるかも知れません。つまり先祖供養の対象となるのは、死後さほど時間の経っていない者が中心になる、ということなのです。

地縛化した先祖の救済は、霊界サイドで責任を持って進められる

地縛霊の更生は――「罪を償うために地上へ再生する」というケースと、「幽界の下層での苦しみを通じて罪の償いをする」という2つのケースがあることを述べました。地縛霊がそうした更生の道をたどろうとするとき、彼らを手助けし、向上の道を踏み出せるように導く霊達が遣わされることになります。地縛霊は、救済霊やすでに他界している血縁者・知人の霊達の援助によって、地縛状態から抜け出すことができるようになります。

とは言っても、地縛霊の救済が簡単に行われるものでないことは、すでに述べたとおりです。地縛の状態から解放されるには、まず当の本人に意識が変化する時期がきていることが大前提なのです。本人の意識が自己閉鎖的状況から抜け出したいと思わないかぎり、救済霊にも手の施しようがありません。

苦しみの中から、地縛霊のかたくなな心に変化が生じたとき、救済霊はスクリーンに本人の地上生活を映し出して反省を促し、さらなる意識の変化を引き出そうとします。また必要に応じて幽界の休息所や病院に連れていって心を癒したり、霊の世界に適応させるプロセスを踏ませたりします。救済霊達は、こうしたさまざまな働きかけをして地縛霊の更生に当たります。その結果、彼らは向上進化の道を歩み出すことができるようになるのです。

以上のように、地縛霊の救済のための援助は、霊界サイドの万全の体制のもとで確実に進められています。常に可能なかぎりの救済策が講じられています。このような霊の救済活動の実態が分かると、地上人がこれまで先祖供養としてやってきたことは、ほとんど意味がなかったことが分かります。霊能者や祈祷師・宗教者が、祈祷や除霊を行い、それによって「先祖が成仏した」「地縛状態を脱した」などと言っても、そんな言葉をまともに信じてはなりません。安直な救済方法などないのです。彼らの言うことは、すべてインチキか、勝手に救われたと錯覚しているだけなのです。

地上人の先祖供養の役割は?

このように先祖霊の救済に対する働きかけは、霊界においてその大半が進められることになります。地上サイドから、あれこれ手出しするようなことは、ほとんどないのです。ましてや霊界の存在を信じていないような僧侶が先祖供養のための念仏を唱えても、それが地縛霊の更生によい影響を与えることはありません。“低級霊のからかい”を、わざわざ引き出すような結果にしかなりません。

では、地縛霊となった先祖霊を救済するために、地上人ができるようなことはないのでしょうか。彼らを更生させるために、何らかの手助けはできないのでしょうか。実は、地上人が先祖霊の救いに間接的に貢献できる道が残されています。それが次に述べる「愛の念を送る」ということと、地縛霊に「真理を語って聞かせる」ということなのです。

地上人ができる先祖供養

  • ①愛の念を送る
  • ②真理を語って聞かせる

愛の念を送る

地上人が地縛霊となった先祖を救うためにできる手助けの一つは――「地上から愛の念を送る」ということです。縁故ある地上人からの祈りの波動と、そこに含まれる愛のエネルギーは、地縛霊となった先祖霊達にプラスの影響を及ぼすことになります。地上の子孫から送られた愛のエネルギーが、暗闇の中で苦しむ彼らに届き、閉ざされた意識に変化を促すことになります。その愛の念が、地縛霊の心を慰め、孤独の境遇が間違いであるとの自覚と反省心を引き出す助けとなります。また他界直後の不安定な状態にある血縁霊には、地上の子孫からの念が、霊的目覚めと休息化を促し、地縛霊となるのを防ぐことになります。

こうした地縛霊や他界直後の未熟霊達には、地上人の念は届きやすいのです。高級霊の愛の念は、未熟霊には強すぎて、まぶしさや苦痛を与えることになります。それに対して地上人の祈りには物質性がともない、波動が粗い分だけ、かえって地縛霊に届きやすくなっているのです。地上人の祈りが地縛霊の心に伝わって、変化のきっかけをつくり出し、救済霊の接近を可能にするかも知れません。

もっとも地上人の祈りの念があの世の霊に影響を与えると言っても、肝心な地上人自身が霊的真理に無知であったり、死別を嘆き悲しんでいるような状態では、どれだけ祈ったり読経をしても、よい結果を生むことはありません。むしろ不安定な念が他界した霊に届き、動揺を与えることになってしまいます。

地上から霊界の霊に働きかけるについては、地上人が霊界の存在に確たる信念を持ち、霊的世界に対する知識を持っていることが不可欠です。そして死を悲しみではなく、喜びと祝福の時として認識するだけの霊的洞察力を持っていなければなりません。先祖供養には「正しい霊的知識」が必要なのです。

たくさん念仏を唱えたら先祖が救われるというようなことではありません。僧侶を呼んで法事を欠かさずに行なえば、地縛霊となった先祖が救われるというようなことではありません。大切なことは「地上の子孫が正しい霊的知識を持ち、純粋な思いやり・利他愛を持って愛の念を送る」ということなのです。念を送る形式は、祈りであっても、読経であっても、優しい語りかけであっても何でもよいのです。愛の念とエネルギーを送ることができるなら、手段は問題ではありません。

霊界の事実を知ってみると、これまで行われてきた先祖供養によって地縛霊となった先祖が救われたケースは、ほとんどなかったことが明らかになります。大半の人々が当たり前のものと思っている先祖供養は、やってもやらなくても、どちらでもいいようなものだったということです。

ただ例外的に、心が清らかで思いやりのある人(霊性が高い人)が仏壇や墓前で読経するとき、その読経には愛の念が込められ先祖霊に届くといったようなことがあったかも知れません。それが地縛霊の心を喜ばせ、意識の変化を促したかも知れません。それは地上人の霊性の高さと、その人間から発せられる愛の念が、先祖霊によい影響をもたらしたということです。ただしこの場合でも、読経する本人が霊的知識を持っていたなら、先祖霊に及ぼす影響力は、さらに大きくなっていたことは言うまでもありません。

真理を語って聞かせる

地上人が先祖の救済に関与することができるもう一つの方法は――地縛化した先祖霊に「真理を語って聞かせる」ということです。地縛霊となった先祖が、無意識のうちに霊障を引き起こすことがあります。

先祖の霊が夢の中にたびたび現れたり、あるいは霊媒に乗り移って出てきて、自分の置かれている状況や、地上の子孫への恨みつらみを語ったりすることがあります。自分の地上時代を後悔したり、位牌や墓について注文してくることもあります。子孫がそうした先祖霊の訴えを聞いて、位牌や墓をつくり替えたり、希望する供物を供えると、これまで続いていた現象がピタッと止まることがあります。こうしたことが現実に起こるために、先祖供養は必要なものであるという認識が広まることになってしまいました。

先祖霊が霊障を引き起こすというケースは、霊本人の意識が依然として地上時代のままであり、何ら変化・向上していないことを示しています。地上時代の宗教的慣習をそのまま持ち続け、霊的意識に全く目覚めていないことを証明しています。

このような霊の注文を、地上人が何でも聞き入れるということは、決してよいことではありません。相手の程度の悪い要求に応じて一時の満足を与えるというのは、その場かぎりの対処方法であって、根本的な解決方法ではありません。それは丁度デパートで、おもちゃが欲しくて泣きわめく子供に、仕方なくおもちゃを買って与えるのと同じことなのです。

地縛状態にいる霊に対しては、威厳を持って――「あなたはすでに死んでいる以上、墓も位牌も必要ないのです」「地上のことに、いつまでも意識を向けていてはいけません」と教え諭してあげるべきなのです。もし相手の心に変化の訪れる時期がきているならば、それが目覚めのきっかけになります。さらに「そばにいる人達の指導を受けて、これまでのことを反省し、向上の道を歩んでください」と言い聞かせます。霊的自覚が芽生えかけているならば、その瞬間に霊界の救済霊の姿が見えるようになります。もちろんそうした教えや諭しが相手の心に響くには、霊自身に時期がきていることが大前提となります。

いずれにしても、同情心と誠意を持って相手に訴えることが大切です。祈りとして語りかけても、読経の中にそうした諭しを込めても、あるいは霊媒を通して霊を呼び出し直接話しかけても、どのような方法であってもかまいません。霊を説得するには、地上人が地縛霊以上に霊界についての知識を持っていることが必要です。そうであってこそ、初めて説得が可能となるのです。ここでも「霊的知識」が絶対的に必要となるのです。

地上人ができる先祖供養とは、どこまでも霊界の救済活動の応援程度のことでしかありません。しかし、それでも状況によっては、霊界で救済活動に携わる霊達に大きな援助をすることになります。実はこうした地縛霊の救済活動をサポートすることも、地上のスピリチュアリストとしての役目なのです。

5.「先祖の罪を子孫が償う」という考えの間違い

先祖供養を中心とする日本仏教における大きな問題点の一つが、「先祖の罪が子孫に及ぶ」という因果観いわゆる“因果応報”の思想です。そこからさらに子孫が徳を積み、先祖の罪を代わりに償うことによって先祖は救われ成仏し、子孫の不幸が消滅するようになるという考え方を生み出すことになります。これが“回向えこう”と言われる思想です。

宗教心の篤い多くの人々は、その回向の思想を無条件に受け入れ、先祖を救うために必死になって毎日読経や写経をしたり、墓掃除や仏事に熱心に取り組んだりします。また競って、お寺にお布施や寄進をしたりします。

スピリチュアリストの中にも、先祖の因縁が子孫に影響を及ぼすという因果応報の考えや、子孫の徳積みによって先祖の霊を成仏させるという考えに共鳴する人々がいます。スピリチュアリズムでは、「因果応報の法則(因果律)」が神の摂理として明らかにされています。そのスピリチュアリズムの因果律と、仏教の因果応報の教えが同じものであると錯覚しているのです。

しかし、先祖の罪が子孫に悪因縁として伝わるという事実はありません。また先祖が犯した罪を、子孫が代わって償うことができるということも真実ではありません。スピリチュアリズムが明らかにしているのは――「自分が犯した罪は自分で償う」「自分が犯した罪は他人に償ってもらうことはできない」という因果観なのです。先祖の犯した罪が子孫に及ぶこともないし、先祖が犯した罪を子孫が償うこともできない、ということなのです。それが厳然とした霊的事実なのです。

他人の金銭的負債を自分が代わって支払うことはできますが、他人が犯した霊的な罪は、誰も代わって償うことはできないのです。先祖供養を一生懸命にすれば先祖の罪が償われ、先祖が救われ、地上の子孫の不幸が取り除かれるといった考えは、霊的には何の根拠もない作り話であって錯覚なのです。それは地上の人間が勝手につくり出した考えに過ぎません。

そうした間違った思想は的外れの先祖供養を生み出し、地上の子孫に自己満足だけを植え付ける結果となっています。それどころか、先祖供養を悪用した不正な金儲けという社会問題を引き起こすことにもなっています。先祖供養に名を借りた、さまざまな悪徳商法が至るところで横行しています。先祖の悪因縁を切ると嘘をついて多くの人々から多額の金銭を巻き上げた“霊感商法”は、記憶に新しいところです。

因果応報の法則を、先祖の犯した罪の償いと結び付けることは根本的な間違いであり、日本仏教における大きな問題点です。先祖供養と因果応報を結び付けた考えが誤りであることは、次回のニューズレター(あの世から見た地上の先祖供養と招霊会の霊的背景)で述べる「霊界の事実」と照らしてみるとより明白になります。また回向の思想の問題点は、スピリチュアリズムの「運命観」や「救済観」という根本的な部分に係わってくるので、別の機会にニューズレターで取り上げることにします。

6.“おもちゃ”が必要な人には……

これまでの話の内容から、従来「先祖供養」の名前で行われてきたことには、ほとんど何の意味もなかったことが明らかになりました。またスピリチュアリズムの観点から見たとき、どのようにすることが本当の先祖の救いになるのかということも理解できました。シルバーバーチは、地上の宗教における儀式や慣習を、たびたび“おもちゃ”に譬えています。そして霊的真理を知った人々に対して、いつまでも無意味なおもちゃで遊ぶことがないようにと述べています。

スピリチュアリストは「霊的事実」を知ったことで、おもちゃから卒業することができるようになったのです。スピリチュアリストは、この世の葬式や墓・先祖供養といった慣習を超越できなければなりません。自分が死んだときには、派手な葬式も墓も供養も不要であることを表明すべきでしょう。それを遺言ゆいごんとして残すのも、いいかも知れません。ただし「自分の遺骨はどこどこにいてほしい」などと散骨の場所を指定するのは、むしろ“こだわり”でしかありません。骨を捨てるのは、山でも海でも野原でもどこでもいいのです。まかり間違っても、「飛行機から撒いてくれ」などと愚かなことは言わないことです。スピリチュアリズムを通じて霊的事実を知った以上、私達は無意味な慣習に、いつまでも縛られていてはなりません。

とは言っても、それをいまだ真理を知らない人々に強要するようなことをしてはなりません。これまで家族や親族の間に引き継がれてきた慣習を、自分の一存で一方的に捨て去ってしまう必要はありません。家族の中に先祖供養を重要視している人がいるなら、その人には気の済むように、それを続けさせてあげることです。いまだにおもちゃを大切にしている人に対しては、広いところからそっと眺めていることです。

私達スピリチュアリストは、そうした寛容さを持つべきです。葬式や先祖供養というさして重要でないこの世の“おもちゃ”をめぐって、人々と無駄な争いを引き起こすような馬鹿げたことをしてはなりません。外見上は今までどおり、適当にお付き合いしておけばいいことですし、かたくなに従来の慣習への参加を拒む必要はありません。真実を知った者は心の中で、「霊的事実」にそって一人、正しい死者への手向たむけと先祖供養を行えばいいのです。

次回のニューズレター(あの世から見た地上の先祖供養と招霊会の霊的背景)では、「先祖供養」に関連するさまざまな霊的問題を取り上げることにします。先祖供養や招魂儀式には、霊界にいる霊達との交わり・交信・触れ合いといった現実的な霊的問題がともないます。この点からすれば、先祖供養は一種の招霊会と見なすことができます。

先祖供養の霊的背景や霊的事実を、より広く学ぶことにします。

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