正しい霊的人生は、霊優位の実践から始まります
――霊優位の努力は、霊的成長のための必須条件
ニューズレター第43号
スピリチュアリズムの霊的真理にそった生き方とは、地上世界で霊的人生を送ることに他なりません。さまざまな困難がともなう地上において霊界人に近い歩みを目指すことが霊的人生です。それは人間が霊的成長をするための歩みでもあります。その霊的人生は、「霊優位(霊主肉従)」の努力から始まります。
ここでは、地上人にとって一番重要な霊優位の努力について学んでいきます。
【1】宗教における修行の本来の目的と意義
――「霊優位」の状態の確立
1.宗教における修行の本来の目的
「霊優位(霊主肉従)」の確立と霊的成長
肉体という物質の牢獄から霊魂を解放するためには、内面における真剣な闘いが必要とされます。実はこれこそが宗教の修行の本当の目的であったのです。地上人生のすべては「霊的成長」のためにあります。人間は霊的成長をするために地上に生まれ、生きていると言っても過言ではありません。
この最も重要な霊的成長を実現するためには、人間は霊的存在としての立場を確保しなければなりません。「霊優位」とは、まさにそのための必須条件なのです。人間は「霊優位(霊主肉従)」の状態を保って初めて霊的存在としての資格を持ち、霊的成長をすることができるようになります。物質の牢獄の中に閉じ込められたままで、霊魂が自由に活動できないうちは、霊は成長することができません。
宗教の修行の目的
宗教の修行の目的は、「霊優位」の状態をつくって霊魂を肉体から解放し、霊的成長を促すことです。宗教の修行とは、心と生活全体を霊優位にするための手段・方法に他なりません。それを通じて人間は、霊的存在としての最低限のラインに立つことができるようになるのです。宗教の修行や禁欲は本来、すべて霊優位の状態をつくり出すという目的のためにあります。霊能力をつけるために修行があるのではありません。そうしたものは邪道であり、人間の霊的成長に何もプラスをもたらしません。本当の信仰生活は、霊優位の努力から始まることになります。霊優位の努力は、宗教者・信仰者ばかりでなく、地上人類のすべてに不可欠な実践内容と言えます。
「霊優位(霊主肉従)」というシンプルであるけれどきわめて重要な真理を、これまで地上人類は明確に知ることができませんでした。スピリチュアリズムによって初めて、霊優位の重要性と霊的成長の関係が明らかにされたのです。
2.「霊優位」を達成するための3つの修行方法
さて、霊優位を確立するための手段(修行方法)として、3つの方向性が考えられます。1つ目は――肉体の力を弱めて、結果的に霊を優位の状態にしようとするものです。“肉体行”といわれるものの多くがこれに属します。断食行や断睡行、肉体を極限まで酷使する荒行は、肉体の力を弱めて霊優位をもたらそうとする修行です。2つ目は――肉体本能に歯止めをかけ、肉体本能の放縦を一方的に阻止しようとするものです。従来“戒律”といわれてきたものがこれに相当します。意志の力によって本能を押さえ込もうというものです。宗教の戒律にはさまざまありますが、その究極の目的は肉体本能に歯止めをかけて霊を優位にするところにあります。3つ目は――霊的エネルギーを取り入れて霊の力を引き上げ、霊の優位性を確保しようとするものです。「真理の学習・祈り・礼拝」などは、こうした形で霊の優位性をもたらします。
スピリチュアリズムが「霊優位」の確立のために最も勧めているのは、3番目の方法です。そして2番目の、意志の力によって肉体本能に歯止めをかけるという方法も重要視します。また状況によっては1番目の、肉体の力を弱める方法(肉体行)を用いることもあります。これは、より効果的に霊優位の状態をつくり出すための補助手段として利用します。
これまで多くの宗教が1番目と2番目の方法を中心としてきたのに対して、スピリチュアリズムでは3番目と2番目の方法をメインとします。

3.正しい霊優位と間違った霊優位
肉体を否定する間違った霊優位
「霊肉二元論」を説く宗教においては、霊魂に価値があり、肉体には価値がないと考えるのが普通です。そして霊を肉体よりも上位に置き、重要性を持たせています。しかしそれがエスカレートして、肉体の全面否定というところにまで至ってしまうことがあります。
霊肉二元論のもとでは、しばしば霊魂は“善”と、肉体は“悪”と結びつけて考えられます。こうして霊肉二元論から「善悪論」が展開するようになります。その結果、霊魂に対立する肉体は徹底して軽視されたり、否定されるようになるのです。時には肉体は悪の権化・悪の根源のように忌み嫌われることもあります。従来の宗教の中には、こうした霊のみに価値を認め、肉体を否定したり嫌悪するといった傾向がしばしば見られます。
霊優位の重要性は言うまでもありませんが、それが今述べたように間違った方向にエスカレートすると、肉体を悪と見なして憎悪したり完全に否定するというようなことになってしまいます。キリスト教の一派や古代ギリシャ宗教の一派(オルフェウス教)やマニ教などでは、肉体的欲望を徹底して否定し悪とします。しかしこうした在り方は、決して正しい霊優位とは言えません。
肉体に対する正しい考え方と霊優位
スピリチュアリズムでは、霊肉の関係において「霊優位」を主張しますが、肉体を悪の根源とするような見方はしません。肉体も神によって与えられた必要なもの、霊の成長に不可欠なものと見なします。霊優位であるけれども、肉体にも霊と等しい価値を積極的に認めるのです。
スピリチュアリズムにおける「霊優位」では、霊の力を高めて肉体をコントロールする、肉体を霊の支配下に置くことをメインとします。必要に応じて肉体の力を弱めることはあっても、肉体そのものを否定するようなことはありません。スピリチュアリズムでは霊も肉も、ともに神が与えた善いものとして認め、それらの間の力関係を重要視するのです。つまり霊が力を持つための努力や手段が、正しい霊的修行ということなのです。
【2】スピリチュアリズム人生の第一歩は“霊優位のための闘い”から
1.スピリチュアリズムの実践の第一歩
霊的存在としての絶対条件・必須条件
「人間は霊と肉の二元からなる存在である」「霊と肉はそれぞれが正反対の方向性を持っている」したがって「霊と肉の間で葛藤が生じるようになる」「霊優位のためには何らかの闘いや修行が必要とされる」――これらはスピリチュアリズムによって明らかにされた真理です。
「霊優位」は、人間が霊的存在としての立場を確立するための必須条件です。霊優位の反対、すなわち「肉優位」の状態では、霊は肉体という物質の中に閉じ込められて自由に活動できなくなります。物質の中に押さえ込まれて霊本来の働きが奪われ、成長できなくなります。「霊優位(霊主肉従)」は、まさに霊的成長のための絶対条件・必須条件なのです。
「霊主肉従」の闘いは、地上ならではのもの
肉体のない霊界人は、私たち地上人と違って「肉主霊従」の状態になることはありません。霊界人は肉欲から完全に解放され、地上人のような「霊と肉」といった内面の葛藤に悩まされることはありません。地上人から見たとき、霊界人はまさに清らかさだけの存在となっています。それに対して肉体をまとっている地上人の場合は、全く異なる方向性を持った霊(霊的意識)と肉(本能)が一つの心の内に存在しています。霊は利他的方向を指向し、肉体に属する本能は利己的方向に向かおうとします。それによって心の中で激しい闘いが生じることになります。
私たちが霊的成長をするためには、「霊主肉従」の状態をつくり上げることが最低条件となります。霊が肉体の力に閉じ込められているかぎり、霊的成長は望めません。地上で霊的成長を求めるならば、霊主肉従の闘いを避けることはできないのです。
スピリチュアリズムの第一の実践は、「霊主肉従」のための内面の闘い
もし私たちがそうした内面の闘いを避けて、霊的真理普及(伝道)という外面的な行動だけに邁進しても、単なる活動家になってしまいます。自分に甘く、他人に厳しいだけの人間になってしまい、決して霊的成長はできません。私たちは、まず自分自身の内面の闘いを通して“真の信仰者”となる道を歩み出さなければなりません。それから外へ出て人々のために働くということです。先に自分自身の内面を厳しく律し、自らの心をスピリチュアリストとしてふさわしいものにしなければならないのです。
このようにスピリチュアリズムの霊的実践の第一歩は――「霊主肉従」の内面的闘いから始まります。
「霊が主人で物は従僕です。つねに霊に係わることを優先させなさい。」
「残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしないかぎり覚醒は得られません。」
「霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。」
2.厳しい霊主肉従の闘い
きわめて困難な霊肉の闘い
大半の地上人の霊は、肉体という物質の牢獄に閉じ込められています。肉体という物質が地上人の霊の働きを不自由にさせ、霊に制約を加えています。肉体本能が心の全体を支配し、霊的意識を失わせてしまっているのです。
「霊肉の闘い」を真剣にしている人間、心の清らかさを熱心に求めている人間は、肉体の力をコントロールすることの難しさを否というほど味わうことになります。「霊優位(霊主肉従)」は、言うは易く、行なうはきわめて難しいことなのです。必死に闘いを挑んでも、すぐに肉体が優位になってしまいます。清らかさを求めようとすると、心の中でたちまち葛藤や霊肉の闘いが始まるようになります。こうした体験を重ねると、肉体という牢獄から霊魂を解放することこそが、まさに信仰生活の出発点であることを、はっきりと自覚するようになります。
霊優位の闘いの厳しさは、霊的成長を真剣に求めている者にとっては切実な問題です。霊優位の状態を確立するためには、たいへんな困難がともなうものであり、どれほど霊的エネルギーを振り絞らなければならないかを、つくづくと実感するようになります。魂の清らかさを求める求道者の前には、常に肉体が大きな壁として立ちはだかります。肉体が重苦しい覆いとなって魂の自由を奪い去っていきます。そして失敗と敗北の連続といった体験を余儀なくされることになるのです。
親鸞の内面葛藤の告白
霊優位のための内面の闘いは、歴史上の修行者や宗教者を苦しめてきました。そうした信仰者の代表として、親鸞とパウロのケースを取り上げます。
親鸞は、初めて“肉食妻帯”を肯定して実践した僧としてよく知られています。出家僧が肉食妻帯をするというようなことは、日本仏教界ばかりでなく世界の仏教界の中でも前代未聞の大事件でした。仏教の出家僧とは、一生涯独身を貫くものとされてきたからです。親鸞は、それを根底から覆したのです。親鸞の妻帯は、それまでの仏教の常識を根本から否定するほどの革命的な出来事でした。
親鸞がそうした“戒律を破る”という大胆な行為に出たのは、彼がただ単に情欲(肉欲)に負けて堕落したためではありません。それどころか全く反対に、正当な霊的な理由があったのです。親鸞はひたすら霊的な清らかさを求め、徹底して霊と肉の闘いに挑んできました。親鸞の心の清らかさと信仰的な誠実さは、他の修行僧とは比較になりませんでした。
親鸞は自著の『教行信証』の中で――「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利に大山に迷惑す」と述べて、自己の内にある愛欲と名利の心の存在を吐露しています。愛欲も名利も肉体本能から出る欲望であり、親鸞はそれを業と見なし、業の深い自分を嘆き悲しんでいるのです。親鸞の立派なところは、抜き差しならない“肉欲”という業に対して、うわべを取り繕った偽善的な信仰生活をするのではなく、どこまでも誠実な姿勢で信仰に臨もうとしたことでした。
親鸞が苦しんだ欲望とは、“性欲”を意味していることは間違いありません。親鸞は当時の多くの修行僧が、陰でこそこそと戒律を破りながら、外面だけは取り繕って戒律を守っているかのように見せかける偽善的な生き方を忌み嫌ったのです。“妻帯”という破戒行為は、内面において肉体の欲望に限界まで闘いを挑んだ結果として、最後に親鸞が下した結論だったのです。自分の心の醜さと徹底して闘った親鸞であればこそ、それまで誰もしたことのなかった英断を下すことができたのです。全力を懸けての闘いを経た人間であればこそ、内面の御しがたい欲望の前に無力で醜く業の深い自分の救いを、率直に阿弥陀仏に願い出ることができたのです。そして念仏さえ唱えれば業の深い人間でも救われ、浄土に生まれ変わることができると説くことができたのです。
親鸞は自分の心の内にある欲望と全力で闘い、その結果、どうしても肉欲の誘惑を断ち切れない自分自身の姿を直視し、最後に念仏によって阿弥陀仏にすがる道を見出しました。親鸞ほど人間の弱さと醜さを隠さずに、ありのままの姿で仏の前に出て行こうとした修行僧はいませんでした。
スピリチュアリズムからすれば、“念仏を唱えるだけで救われる”というような教えは「霊的事実」とは明らかに違っています。しかしそうした結論に至るまでの親鸞の信仰的な真剣さと純粋さ・誠実さには、心から尊敬の念を抱かずにはいられません。親鸞には、本物の信仰者の先輩として敬意を表したいと思います。親鸞は、まさに日本が世界に誇ることのできる本当の宗教者・信仰者と言えます。
パウロの内面葛藤と罪の告白
親鸞と同様の内面の闘いの様子を、パウロも述べています。ローマ人への手紙の中(第7章)に有名な箇所があります。パウロの内面における霊と肉のすさまじい葛藤と闘いの様子が、迫力をともなって伝わってきます。その箇所を引用します。
「私たちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、私は肉につける者であって、罪の下に売られているのである。私は自分のしていることが、わからない。なぜなら、私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。(中略)そこで、この事をしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。私の内に、すなわち、私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを、私は知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲している私に、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、何というみじめな人間なのだろう。」
このパウロの告白を通して、パウロがいかほど内面において激しい闘いをしてきた人間であるかを知ることができます。パウロはその闘いの中で、肉体を支配する力がとても強く、容易に抵抗できないものであることを率直に述べています。そして内面における善と悪の分裂状態を前にして、自分は何とみじめな人間であることかと嘆いているのです。
パウロが言う肉に入り込んでいる罪とは、親鸞の場合と同様に“性欲”のことを意識しているものと思われます。肉体を支配する強い本能の力の中に、パウロは罪(の法則)を見ています。パウロの脳裏には当然、その罪の大もととなった人間始祖がつくり上げた原罪のことが思い浮かんでいたはずです。人類の罪は原罪から発し、その罪が延々と遺伝して人類に及んだために、こうして自分は今、罪人としてのみじめさを持つことになったと考えるのです。そしてこの罪から人間が救われ、内面の葛藤から解放されるためには、イエス・キリストに対する信仰に依るほかはないと結論づけるのです。親鸞が阿弥陀仏にすがったように、パウロはイエスにすがることによって罪の苦しみから逃れようとしました。
スピリチュアリズムからすれば、パウロの罪についての見解は明らかに間違っています。実際には原罪は存在しませんし、全人類が罪人であるというような事実もありません。したがってイエスを信仰することによって罪が許され救われるようになるという見解は間違っています。しかしスピリチュアリズムから見たとき、パウロが純粋な信仰を確立しようとして内面で激しい霊肉の闘いをしてきた点に、彼の本物の求道者・信仰者としての真価を認めることができるのです。
パウロは、神が与えた肉体本能の衝動を罪とする考え違いを犯し、その錯覚の上で間違ったキリスト教の教義をつくり出してしまいました。イエスの真意から懸け離れたパウロ流の考えを、キリスト教の教えとしてしまいました。しかしこうした大きな失敗をしたにもかかわらず、パウロの純粋一途な求道的信仰心は、現在の私たちスピリチュアリストにとっても、良き手本であることは間違いありません。
3.神によって肉体を与えられたことの意味(肉体付与の意義)
神が人間に肉体を与えた理由
霊優位のための闘いは、実は神が人間に与えた霊的成長のプロセスの一つです。霊優位の闘いを通して、霊的力と精神的力が鍛えられ、霊的成長への志向性が強化されます。まさにそのために、神は人間に肉体を与えたのです。敢えて困難な状況の中に立たせることで魂を強化し、霊的成長を促そうとされたのです。
人間が天使とは異なる物質の身体を与えられ、わざわざ不自由な環境に誕生するについては、こうした深い神の愛があったのです。肉体を持った地上の人間が、たいへんな苦しみ・困難を体験することの背景には、神の叡智による深い配慮があったのです。
肉体本能は、罪でも悪でもない
肉体の欲望(本能)は、これまで多くの宗教で言われてきたような罪でも悪でも煩悩でも業でもありません。肉体は、神が人間の霊的成長のために与えてくれた善なるものなのです。したがって肉体の本能的欲求がどれほど強くても、忌み嫌うようなものではありません。本能それ自体は何も悪いものではありません。肉体本能をどのように考えるべきかという点で、従来の宗教は間違った認識をしてきました。
スピリチュアリズムは、肉体とそれを支配する本能的欲求(欲望)は神が与えてくれた善いものであり、霊的力でそれ(肉体本能)をコントロールすることが正しい人間の在り方であることを明らかにしました。霊肉の闘いがいかに厳しく、自分の内に存在する肉欲の強さに辟易するようなことがあったとしても、自分は何とみじめな人間なのかと嘆き悲しむ必要はありません。自分は何と罪深い人間なのか、業の深い人間なのかと絶望する必要はないのです。
死とともに「霊肉の闘い」から解放される
人間は、肉体の死とともに純粋な霊的存在となって霊界に入ります。そしてそこで肉体を脱ぎ去った自由を味わうことになります。
初めは新しい環境で、すがすがしい生活を送れる喜びが心を占めているのですが、しばらくすると肉体を持ったかつての地上人生の意味がよく分かるようになります。あれほど苦しみを与えた肉体が、自分の霊的成長にとって本当に必要なものであったと、つくづく思えるようになるのです。
4.霊的成長は、「霊主肉従」と「肉主霊従」の間を行き来しつつ達成されるもの
すぐに「肉主霊従」に引き戻されてしまう地上人
「霊優位」の状態、すなわち「霊主肉従」の状態では、自然と周りの人々に対して愛の思いが湧くようになります。肉欲が消え、エゴ的思いがなくなり、心の底から霊的な心地よさ、すがすがしさ、明るさ、喜びを味わうことができるようになります。祈りなどによって霊的エネルギーが多量に取り入れられて霊優位になったときには、利他愛が心を占めるようになります。一度でも霊主肉従のすがすがしさを体験すると、誰もがそうした状態を常に維持したいと思うようになります。
残念なことに地上人は肉体を持っているため、「霊主肉従」の状態を長続きさせることができません。よほど意識していないかぎり、すぐに「肉主霊従」の状態に陥ってしまいます。常に気を引き締めて肉体本能をコントロールしていなければ、「霊主肉従」を維持することはできません。これが肉体をまとっている地上人の宿命です。
肉主霊従という摂理に反した不調和の状態が続くと、やがて心身に痛みや苦しみを感じるようになります。それが限界にまで至ると否応なく霊優位の方向を目指すようになります。痛みや苦しみが霊優位の方向に心を向けさせるきっかけとなるのです。このように大半の地上人は、長い「肉主霊従」の期間を経て「霊主肉従」へと向かうようになります。そして苦しみが過ぎ去ると、再び「肉主霊従」に戻るといったことを繰り返すのです。
地上人類は「霊優位」の状態と「肉優位」の状態の間を行ったり来たりする中で、少しずつ霊的成長の道をたどってきたのです。
スパイラルを描きながら、少しずつ霊的成長をする
今述べたように、地上人は「肉主霊従」と「霊主肉従」の間を行き来しています。しかし考えてみれば、こうした揺れ動きを自覚できる人は、まだましと言えるかもしれません。霊主肉従を目指すことの重要性さえ知らない人間の場合は、肉主霊従の暗闇の中にどっぷりつかったまま人生を過ごすことになってしまうからです。
地上人は肉体を持っているため、いったん「霊主肉従」の状態になったとしても、一転して「肉主霊従」に堕ちるといったことを繰り返します。上がったり下がったり、“三歩進んで二歩下がる”といったことの連続です。しかしそうしたプロセスの中で、「霊的成長の上限ライン」が少しずつ引き上げられていくことになります。もっともその進歩があまりにもゆっくりとしたものであるため、同じ失敗ばかりを繰り返していっこうに成長できないように感じたり、失望感にとらわれるようになります。
しかし地上は失敗から学ぶように造られているため、挫けずにチャレンジするかぎり、少しずつ進化の道をたどるようになっています。失敗に負けずにチャレンジし続けることを通して、霊的成長に対する意志の力が強化されるようになるのです。地上人は、忍耐強い自己コントロールの努力を継続する中で、徐々に霊優位の時間を多く確保できるようになっていきます。まさにこれこそが「霊的成長」の指標なのです。
