人間の霊的成長を支配する神の摂理(法則)
――神の摂理への絶対信仰が、スピリチュアリズムの基本です
ニューズレター第28号
シルバーバーチは、スピリチュアリズムは「神」と「神の摂理」に対する絶対信仰であると繰り返し述べています。スピリチュアリズムは「神の摂理」への信仰であり、「神の摂理」は、スピリチュアリストにとって最も大切な信仰対象なのです。
私達がスピリチュアリズムという信仰実践の道を歩むに際しては、当然のことですが、神の摂理について正しく知らなければなりません。神の摂理に対する正しい理解は、信仰するうえで絶対に必要なことなのです。しかし実際には、知っているようであまり知らなかったというのが大半の人々の実情ではないでしょうか。
今回は、神の摂理について学び、その重要性をもう一度確認することにします。私達が地上に生まれた目的は、霊的成長に尽きると言っても過言ではありません。霊的成長は、人間にとって最も重要なことであり、それは「神の摂理の支配」のもとでなされるようになっています。
今回のニューズレターでは、私達スピリチュアリストにとって極めて重要な「霊的成長に関する摂理」について見ていくことにします。
1.スピリチュアリズムの神観の特徴
――神の摂理による支配の重視
スピリチュアリズムの神観の特徴
――「法則の神」の強調
スピリチュアリズムは「神」を信仰対象としますが、それだけでなく「神の摂理」も信仰対象とします。スピリチュアリズムの神観の特徴は、神の摂理による支配を強調する点にあります。シルバーバーチの「神は法則です」という言葉は、それを端的に表しています。
一般の宗教では「神は愛なり」と言うのが普通ですが、スピリチュアリズムでは真っ先に「神は法則なり」と言うのです。もちろんスピリチュアリズムでも神は愛の存在であることは認めますが、どこまでも神の法則性を前面に出して主張します。このように神の摂理を強調する点が、従来の宗教とスピリチュアリズムの根本的な違いです。実はここに極めて重大な理由があるのです。
神の摂理は、全霊界・全宇宙を支配し、いかなる存在もこの支配から逃れることはできません。摂理の支配に疑いを抱いたり、これを無視する霊界人はいません。霊界では、神の摂理に忠実に従って生きることは常識となっています。霊界では摂理に絶対服従する信仰が行き渡り、これが霊界のすべての霊達の生き方の指針となり、人生哲学・価値観となっています。スピリチュアリズムは、そうした霊界を支配する唯一の宗教を、地上にもたらそうとするプロジェクトなのです。
これまでの宗教からすると、スピリチュアリズムはあまりにもラジカルな神観を主張していますが、その理由を、スピリチュアリストはしっかりと知らなければなりません。そうでなければ、スピリチュアリズムの本質を正しく理解したことにならないのです。
神は摂理を通じて、間接的に人間と係わりを持つ
神の造られた摂理・法則が、人間をはじめとする宇宙のすべてを支配しているという事実は、神が人間に対して直接の係わりを持つことはないということを意味しています。
従来の宗教では、人々は神に自分の願いを訴え、何とか聞き届けてもらおうとしてきました。こうした信仰は、神が直接、自分達と係わりを持ち、個人的に手を差し伸べてくれることを期待するところから生じたものです。しかし、神が一人一人の人間の声を聞き入れ、それに対して特別の配慮をするようなことは決してありません。
神はどこまでも、自ら造った摂理を通じて間接的に人間と係わりを持つようにされました。そのため人間は、直接神を見ることも、神の手に触れることもできません。どれほど必死に祈っても、神が個人的な願い事を聞き入れるようなことはありません。いかに人間が苦しんでいても、神が直接手を差し伸べるようなことはないのです。
人類がこれまで錯覚してきた重要な事実を、スピリチュアリズムは明らかにしました。スピリチュアリストは、まずこの点をしっかりと押さえておかなければなりません。宗教といえば「神」となりますが、その神について、スピリチュアリズムは初めて真実を人類の前に示したのです。
「大霊とは法則なのです。あなたが正しいことをすれば、自動的にあなたは自然法則と調和するのです。窮地に陥ったあなた一人のために、どこか偉そうな人間的な神さまが総力をあげて救いに来てくれるような図を想像してはなりません。」
「宇宙の大霊は、いかなることにも特別の干渉はいたしません。法則、大自然の摂理として働き、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを中止したり干渉したりする必要性が生じるような事態は一度たりとも生じておりませんし、これからも絶対に起きません。世の中の出来事は自然の摂理によって支配されており、大霊による特別の干渉は必要ありません。」

神は法則を通じて顕現することで、万人の親たる資格を持つ
このような神の間接支配というシステムは、ひたすら自分への慰めや特別な配慮を願う人々には期待はずれとなります。しかし、この機械的な摂理の支配システムがあるために、神は完全な“霊的親”としての資格を持つことになるのです。「完全公平」「完全平等」の親として、全人類に君臨することができるのです。
完璧な法則の支配下に置かれているために、すべての人間は一人の例外もなく平等に扱われることになります。法則の支配という完全平等のシステムによって――「神の愛はすべての人間に等しく注がれる」ようになっています。誰も神から特別な配慮を与えられることはない代りに、「全員が平等な愛を受けられる」ようになっています。
これまで地上人類は、こうした神の一番本質的な内容を理解することができなかったために間違った信仰を続けてきました。一生懸命に信仰すればするほど神から特別の愛を受けられると錯覚し、的外れの努力をしてきました。今日まで言われてきた信仰心の篤い人間とは、こうした的外れの努力を必死にする人のことだったのです。そしてスピリチュアリストの中にも、他の宗教と同じように間違った神認識をしている人々が多く見られます。
「もしも干渉が有り得ることになったら、大霊が大霊でなくなります。完全でないことになり、混乱が生じます。」
「神は法則なり」の事実に立った信仰とは
繰り返しますが、神が摂理を通じて人間をはじめとする万物を支配しているという事実は、「神に特別な救いや配慮を願っても無駄である」ということを意味しています。どれほど神に祈り求めても、神から特別に愛されることはないし、奇跡も起こらないということです。
こうした神の摂理の厳粛な支配のもとで人間が取るべき姿勢は――「自分の方から摂理に合わせていく」ということです。まさにこれこそが「神への正しい対し方」「正しい信仰」なのです。賢明な人間は自分自身を摂理に合わせようとします。一方、愚かな人間は摂理を変えてほしいともがき、無駄な努力をして疲れ果てることになります。
スピリチュアリズムとは、神の摂理を正しく理解し、その摂理に自らを積極的に合わせようとするシンプルな信仰です。スピリチュアリズムは、神に特別な愛や配慮・奇跡等を願わない信仰です。神の摂理の絶対性に信頼を置き、自分自身を忠実に従わせようとする宗教なのです。この点で、スピリチュアリズムと従来の宗教は根本的に異なっています。
「賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡智に合わせていくようになります。」
神を知るとは、神の法則を知ること
神は法則を通じて、人間の前に間接的に姿を現します。私達人間にとって神の法則を知ることは、神の姿の一部分(属性)を知ることになるのです。摂理に見られる絶対性、機械的な正確性・不変性・完全平等性は、神がそうした要素を持った存在であることを示しています。
私達は、神の無限の要素・属性のほんの一部分を、摂理を観察することによって知ることができるのです。神が万物を支配するために造られた摂理を理解することは、部分的ではあっても神を理解することなのです。
「私たちの使命は“神とは何か”を明らかにすることですが、それは、神すなわち大霊の摂理を明らかにする以外に方法はありません。」
*シルバーバーチはたびたび「神は法則です」と述べていますが、もしその言葉を鵜呑みにしてしまうと大きな誤解をすることになります。神は「創造神」でないことになってしまいます。シルバーバーチの次のような言葉に注目しなければなりません――「その法則を支配しているのが神だからです。神とは、その自然法則と同時にそれを作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。」
(『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.107)
ここには、法則は神によって造られたものであることが述べられています。すなわち法則は神そのものではなく、神の属性・創造物であるということなのです。シルバーバーチの神観は、どこまでも「創造神論」の立場に立っています。
シルバーバーチが誤解を招くような言い方をしてまで「神の法則性」を強調したのは、従来の宗教の間違った神認識と間違った神への信仰を正そうとしたからなのです。
2.「神は愛なり」の間違った解釈
「神は愛なり」を間違って解釈してきた、これまでの地上の宗教
多くの宗教が言ってきた「神は愛なり」は、確かに事実なのです。スピリチュアリズムでも、神が愛の存在であることを主張します。
しかし、これまで地上の宗教は「神は愛なり」の真意を間違って解釈してきました。人々は「愛の神」に、苦しむ人間への救いを期待し、特別な配慮と奇跡を願ってきました。自分や自分のグループ、自分の教団、自国に対する特別な援助と救いを求めてきました。地上人は自分達に都合のいいような神を勝手に思い描き、事実から大きく懸け離れた神のイメージをつくり上げ、これを信仰対象としてきました。
「人間的な感情をそなえた神は、人間がこしらえた神以外には存在しません。」
的外れの信仰をしてきた地上の宗教
これまでの地上の宗教の神観の間違いを一言で言うならば、神の摂理に対して無知であったということです。そのために人々は、神は信仰心の篤い人間に直接手を差し伸べると錯覚してきたのです。熱心に祈りを捧げれば、神の好意と同情と特別な愛情が得られると勘違いしてきました。そして21世紀の現在も、多くの熱心な信仰者によって的外れな祈りが捧げられています。
神の造られた摂理は、人間サイドのいかなる事情によっても左右されることはありません。神が宇宙・万物の支配のために造られた摂理は、一つの狂いもなく冷酷に作動します。神の摂理は、人間の訴え・願い・祈りとは無関係に機械的な正確さを持って働きます。そこには人間的な感情の入る余地は全くありません。
「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。」
「私がお伝えしようとしている概念は、全能にして慈悲にあふれ、完全にして無限なる存在でありながら、地上の人間がとかく想像しがちな“人間神”的な要素のない神です。」
神の造られた摂理が、人間の事情とは無関係に運行されるという厳粛な事実を前にしたとき、これまで地上の宗教・信仰者が当たり前にしてきた祈りと信仰が、いかに的外れなものであったのかが明らかにされます。全く無駄なこと、何の意味もないことを地上人類は現在まで延々と続けてきたのです。
「神の愛」は法則の後ろに隠れて存在する
神は摂理を通じて、人間をはじめとする宇宙と霊界の万物を支配しようとされました。神は常に法則として人間の前に姿を現します。それを人間の側から見れば、神は何一つ優しさのない冷たい存在ということになります。人間サイドからは、優しい神の姿は見えてきません。神は間違いなく愛の存在ですが、その愛は摂理の後ろに隠れたままなのです。これまで地上人類は、ひたすら優しい「愛の神」を期待してきました。愛の神が特別の慈悲と許しと癒しをともなって出現することを願い、必死に信仰してきました。しかし、人間が期待するような愛の存在として神が姿を現すことはありません。人間がどれほど神に祈り求めても、神は冷酷な摂理(法則)としてしか現れません。
「このことは、慈悲の要素が摂理の中に配剤されていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。」
「神が慈悲深いということを、どこのどなたが説いておられるのか知りませんが、神とは摂理のことです。究極においては慈悲深い配慮が行きわたっておりますが……」
3.地上人を支配する、さまざまな次元の法則
人間を支配する、さまざまな法則
人間は物質世界における進化の頂点に位置しています。人間の肉体は、地上の生命体の進化の最上部に位置しますが、それは人間の肉体が、地球上のすべての存在物の要素を重層的に内蔵している事実によって明らかにされます。人間の肉体には、物質的・植物的・動物的なすべての要素が含まれています。そして人間には、さらに霊・霊的意識・霊的身体・霊的素材といった霊的要素が加わっています。
こうした人間を構成するそれぞれの要素が、神の摂理によって支配されているのです。

人間の肉体を構成する素材は、さまざまな鉱物元素です。この物質という素材界は、「物質法則・物理法則」によって支配されています。また人間の肉体は、単なる物質の寄せ集めだけの存在ではなく、生命が与えられています。したがって肉体は生命体として、他の生命体同様に、神の定めた「生命法則」の支配を受け、誕生・成長・老化・死という一生のプロセスを踏むようになっています。人間の肉体は生命法則の支配を受けているために、いつか必ず死を迎えなければなりません。また人間の肉体は、動物の肉体と同様に運動機能を持ち、自由性・活動性が付与されています。そして「本能」という低次元の意識を持ち、これが神の法則的支配を受けて、肉体の生存・維持が図られるようになっています。
このような肉体的要素に、霊・霊の心(霊的意識)・霊体が付け加わって、人間ができ上がっていますが、そうした霊的構成要素についても「霊的法則」が働いています。
ここに挙げた人間を構成するさまざまな要素に対して、次元の異なる摂理が支配しています。さらには、霊的領域と肉的領域の2つの異次元領域にまたがる法則も存在します。これが「霊肉に関する法則」です。

人間の霊的成長を支配する法則
私達人間にとって一番重要な法則は「霊的成長」に関する法則です。神が人間に永遠の個性を与えたのは、人間に内在する神の分霊である「霊」を永遠に進化させていくためです。人間が地上世界に生まれたのは、霊的成長のためなのです。霊的存在として創造された人間にとって、霊的成長こそがすべてであると言っても過言ではありません。霊的成長は、地上人生においても、霊界での人生においても究極の目的となっているのです。
人間の肉体の成長が神の摂理に従ってなされるように、「霊的成長」もやはり神の摂理の支配のもとで進められます。霊的成長とは、人間の霊的構成要素の進化・向上のことです。特に「霊」と「霊の心(霊的意識)」の進化・向上を意味します。
では、霊的成長に関係する摂理とは、どのようなものなのでしょうか。結論を言えば、それは以下の9つの摂理(法則)のことです。次から、それらを一つ一つ見ていくことにします。
4.霊的成長に関する摂理(1)
――「永遠の霊的進化の法則」
永遠の個別的存在として造られた人間
霊の大海から取り出された一滴が、分霊として個別性を持つようになりました。これが人間です。そして霊的進化の道の第一歩を踏み出すことになります。いったん個別的存在となった人間の霊は、二度と霊の大海に戻ることはありません。何億、何十億年、そして永遠に個として存在し続けます。進化の暁には、ニルバーナに至って神と融合一体化するというインド思想は間違っています。
現在、地球上には何十万種以上ともいわれる生命体が存在しています。その生命体のすべてが神によって創造されましたが、その中で人間のみが、死後も個別的存在として生き続けることになります。人間はこの意味で、極めて特殊な存在と言えるのです。
永遠の霊的進化の道
大霊(神)の分霊として個別性を与えられた人間は、永遠に進化の道をたどるように定められています。この神の定めた決まりを――「永遠の霊的進化(成長)の法則」と呼びます。霊的進化は、すべての人間にとっての宿命です。
この進化のプロセスは、地上人生の間ばかりでなく、死後霊界に行ってからも永遠に続きます。どこまで行っても進化、進化の連続です。私達人間は、終わりなき進化のプロセスをたどる存在として造られているのです。未来永劫、進歩(成長)の道を歩み続けるように方向づけられているということです。「永遠の霊的進化の法則」は、人間の霊的成長に関する最も重大で根源的な法則です。
シルバーバーチにとっての“大きな謎”
シルバーバーチはあるときサークルのメンバーから、「あなたご自身にとって何かとても重大で、しかも解答が得られずにいる難問をお持ちですか」という質問を受けて、次のように答えています――「進化が永遠に続くという、なぜそういうおしまいのない計画を大霊がお立てになったのか、そこのところが分かりません。いろいろと私なりに考え、また助言も得ておりますが、正直いって、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります。」
(『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)p.122)
このシルバーバーチのあまりにも率直な答えには驚かされますが、同時にシルバーバーチのような高級霊にも、神の定めた「永遠の進化」という法則は理解できないほどの深い謎であることが分かります。肉体を持って霊性の鈍くなった私達に、その意味が理解できなくても当然です。神の御心の内に存在する深い理由など、私達地上人には到底知ることはできません。
とはいっても神が造られた摂理に忠実に従えば、人間にとってよい結果がもたらされることだけは間違いありません。摂理に従えば従うほど、いっそう幸福が得られるようになることだけは断言できます。なぜならすべての摂理は、神の愛から出発しているからです。神の摂理は「神の愛」の反映であり、よりよいものを人間に与えようとするところからつくり出されたものだからです。
霊的成長の一時ストップは、霊にとっての苦しみであり罰である
肉体という物質の壁に閉じ込められている地上人には、霊的成長が停滞させられる(*実際は自ら停滞させるのですが……)ことが、それほど重大なこととは感じられません。しかし肉体を持たない霊界の霊達にとっては、まさに一大事なのです。霊的成長は霊の本能から出る強烈な欲求であり、それが阻害されることは、霊にとっては最大の苦痛となります。
その苦痛はちょうど、私達地上人が何日間も食事を与えられず、ひどい飢餓に陥ったのと同じような状態だと思えばいいでしょう。地上人は肉体本能の欲求が満たされないと苦痛を感じますが、霊界人は霊的進化という霊的本能の欲求が満たされないと、たいへんな苦しみを感じるようになるのです。
魂の成長が一時的に押し留められるというような事態は、地上で犯した罪に対する罰として与えられるのが普通です。地上でつくった霊的過ちが、霊界に行ってから霊的成長のストップという形で、苦しみをもたらすことになるのです。
5.霊的成長に関する摂理(2)
――「霊優位(霊主肉従)の法則」
地上人が霊的成長をなすためには、不可欠な条件があります。それが霊主肉従(霊優位)という霊的コントロールの努力です。神は霊主肉従の実践を通じて、地上人の霊的成長がもたらされるように造られました。これが霊的成長のための第1法則――すなわち「霊優位(霊主肉従)の法則」です。
地上人の霊的成長にとって、自らを霊的存在として立たしめることは絶対必要条件です。肉体という物質の中に閉じ込められたような状態のままでは、霊的成長はできません。地上人は肉体に包まれて物質世界に住んでいるために、自動的に物質中心の状態に陥ってしまいます。肉体の中に閉じ込められた霊は、霊としての本来の働きができなくなり窒息状態に置かれます。残念なことに大半の地上人は、こうした“霊的窒息状態”のまま人生を歩んでいます。単なる肉の塊、動物と大差のない本能の奴隷、物質的欲望の家来となり、霊的存在としての最低ラインにも至っていないのです。

意識的に霊的要素を中心に据えようとしないならば、霊は肉体の牢獄の中に閉じ込められてしまいます。霊的意識を本能に対して支配的位置に置かないかぎり、霊的成長は望めません。これが「霊優位(霊主肉従)の法則」です。
霊優位(霊主肉従)の状態を確立しようとすると、心の中で、霊的意識と本能(肉的意識)の2つが激しくぶつかり合い葛藤するようになります。これが「霊肉の闘い」です。この闘いを克服することによって霊的意識が心の中心を占めるようになり、霊が心の主役になる(*霊主肉従)と、心全体が霊的エネルギーに満たされ、明るくすがすがしくなります。愛の思いが湧き上がってくるようになります。その反対に心が本能に支配される(*肉主霊従)と、利己的思いが湧き上がってくるようになり、物欲・肉欲が高まり批判的な思いが大きくなります。
「霊主肉従の法則」は、肉体を持った地上人にのみ適用される法則(摂理)です。肉体を持たない霊界人には当てはまりません。霊主肉従の実践は、スピリチュアリストが目指す生活そのものと言えますが、具体的には、最少限の物質で満足し、本能的欲望に流されない生き方、本能の奴隷にならない生き方をするということです。すなわち質素で無欲、清らかな毎日を送るということです。
「霊的知識を有する者は、それを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最少限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲(みなぎ)り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。」
6.霊的成長に関する摂理(3)
――「利他性(利他愛)の法則」
霊的成長をなすためのもう一つの不可欠な条件は、利他的行為の実践です。人間は利他愛の実践を通じて、霊的成長が促されるようになっています。これが――「利他性の法則」です。「利他性」は宇宙を支配する摂理です。宇宙の万物の存在形式であり、運行形式となっています。すなわち万物は他者との利他的相互関係の中で、お互いが共存するように造られているということです。利他性の実践によって人間は、宇宙・霊界と一体化し調和状態に置かれます。人間の霊的成長の度合いは、この利他性をどのくらい多く体得しているかということで決定されます。利他性を多く有する人間であればあるほど霊性が高く、霊界では高い界層に住むことになります。
この利他性は人間の重要な霊的本能(魂の属性)の一つであり、他者に対する「利他愛」となって発現します。したがって利他性の法則は、人間にとっては――「利他愛の法則」と言い換えることができます。人間の霊的成長は、利他愛の実践を通じて獲得されるようになっています。反対に利己性や利己的行為は、人間の霊的成長を停滞させることになります。
心が肉主霊従の状態にあるときは、その地上人は純粋な利他性(利他愛)を発現させることができません。心が霊主肉従であってこそ純粋な利他愛を持つことができるのです。地上人においては――「霊主肉従」と「利他愛」は常に一体不可分の関係にあります。霊主肉従は、地上人が利他愛を持つための“前提条件”となるのです。
地上人と違って肉体のない霊界人は、肉主霊従の状態に陥ることはありません。したがって霊界人には、「利他性の法則」のみが適用されることになります。
「最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。(中略)真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己のために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。」

7.霊的成長に関する摂理(4)
――「自由意志の法則」
自らの意思によって霊的成長の方向を選択
人間は永遠に霊的進化するように造られていますが、その霊的進化は「霊優位(霊主肉従)の実践」と「利他愛の実践」を通じて達成されます。神は、人間が自らの意志によってこれらの道を選択し、自分自身の責任において霊的進化の道を歩むように造られました。そのために、人間に「自由意志」を付与されたのです。
人間は自ら、霊的成長のための道を選択することも、反対に霊的成長に反する道を選択することもできます。これを――霊的成長に関する「自由意志の法則」と呼びます。
「つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神のかかわる問題ではなく、あなた方の自由意志にかかわる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。(中略)
それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。」
――人間には自由意志があるのでしょうか。
「あります。自由意志も大霊の摂理の一環です。」
*摂理の支配と、自由意志の問題
神の摂理の支配と人間の自由意志の問題は、長い間、思想家や宗教家の頭を悩ませてきました。摂理と自由意志は、相反する方向性を持っています。もし宇宙・万物が神の摂理に完全に支配され機械的に運行されるとするなら、そこでは人間の勝手気ままな行為、摂理に反した行為は一切存在しないことになります。宇宙と人間社会は完璧な善一色の世界になります。初めから神の権威と支配は最高にまで及び、人間は神の摂理に忠実な“善ロボット”として一生を終えることになるはずです。
しかし現実に私達が生きている世界は、そのようになってはいません。人間は動植物とは異なり、自由な思考活動とそれに基づく自由な行動が許されています。時には明らかに摂理に反していると思われるような非道な行為さえも、堂々と行われています。
そうした事実を目の前にして、神の摂理などというもの自体が存在しないのだとの主張が現れます。一方、多くの宗教者は、神の絶対権威を揺るがせるような自由を、なぜ神が人間に与えたのか疑問に思ってきました。
このような状況の中で、「神の摂理」と「人間の自由意志」についての議論は続いてきました。そして現在に至るまで、この問題に明快な解答が与えられることはありませんでした。スピリチュアリズムは、この人類を悩ませ続けてきた難問に対して――「自由意志の法則」という明瞭な解答を示しています。
「自由意志の法則」は、神の愛の反映
神が「自由意志の法則」を定めた理由を、少し踏み込んで考えてみることにしましょう。神は人間を、他の存在物(動植物)のような摂理ロボットとしては創造されませんでした。人間にのみ「自由意志」を与え、自分自身の自発的判断によって霊的成長の方向性を選択し、自らの責任によって霊的成長を果たすように創造されました。そして人間の自由意志に対して、神はいっさい干渉しないように定められました。
神は、人間が摂理に従っていく可能性と摂理に背く可能性があることを予測したうえで、あえて“自由”という特権を与えたのです。人間に自由を与えたことで、人間と神はある意味で対等な関係に立つことになりました。
神が人間に自由意志を与え、自分と同じ立場・対等な立場に立たせたのは、すべて「神の愛」から発したことなのです。人間が自らの判断で神の摂理を実践し、神の分霊・神の子供としての権威を確立したとき、自発的な愛情関係・真の愛情関係が成立することになります。真の愛情関係が成立するためには、自由性と独立性が保障されなければなりません。神はそのために人間に自由意志を与え、神からの独立性を持たせたのです。
人間に「自由意志」が与えられているという事実には、人間との間に真の愛情関係をつくりたいと願う神の期待が示されているのです。
自由といっても、どこまでも「制限つきの自由」
ただし、ここでもう一つの重要な点について併せて理解しておかなければなりません。神が人間だけに自由意志の特権を与えているといっても、それはどこまでも摂理の一定の制限(枠(わく))内においての自由であるということです。この枠から外れようとすると、苦しみ・痛みという警告が摂理によって発せられ、ブレーキ・歯止めが掛けられるようになります。このように神が人間に与えた自由は、無制限ではなく、摂理から外れない範囲での「制限つきの自由」であるということです。
とかく人間は、何事も自分の思い通りにできるものと錯覚しがちですが、そうではありません。人間は、肉体の正常な本能を無視して暴飲暴食を続けると、やがて痛み・苦しみ・病気という摂理からの警告を受けることになります。その警告を無視してさらに暴飲暴食を繰り返すことは、普通の人にはできません。もしそれでも続けるならば病気は深刻化し、いずれ死を迎えるようになります。摂理に反した行為は、最後には自分の肉体そのものを滅ぼすことになってしまいます。
このように摂理に反した行為や方向性に対しては、苦しみ・痛みといったブレーキが自動的に働くようになります。この摂理のブレーキ作用によって、人類は摂理から大きく外れたままでは存在できないようになっています。いやおうなく摂理に一致した方向に軌道修正せざるを得なくなるのです。人間には一見、完全な自由が与えられているかのように見えますが、本当は常に一定の枠内に拘束されていることが分かります。
「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは、大霊の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは大霊の愛から生まれた法則で、大霊の子のすべてに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規則の範囲内において自由であるということです。」
*人間と違って野生動物は、本能に忠実な歩みをしています。人間のように本能の欲求という摂理の枠を越えて暴走することはありません。野生動物には人間のような自由意志が与えられていないために、神の摂理の支配がそのまま行使されることになります。
苦しみによる霊的覚醒
さて、人間にとって一番重要なことは、言うまでもなく霊的成長です。もし人間が霊的成長に反するようなことをすると、さまざまな「霊的苦しみ・痛み(孤独感・悲しみ・不安・恐怖・焦り・絶望・焦燥など)」が生じるようになります。肉体の苦しみや痛みに耐えられないように、「魂の苦しみ・痛み」に対しても、人間はいつまでも耐え切れるものではありません。
人間は魂の痛みのどん底にまで落ちると霊的に目覚め、自動的に摂理の方向に向かうようになります。これが「苦しみによる霊的覚醒」です。こうして地球上の人間は、一人の例外もなく神の摂理のもとで、少しずつではあっても霊的成長の道を歩み続けることになっています。
この「苦しみによる霊的覚醒」は、個人個人の霊的成長のプロセスにおいてだけでなく、人類全体に対しても、国家全体に対しても、民族全体に対してもそのまま当てはまります。地球人類は摂理による警告(苦しみ・痛み)を通じて、徐々にではあっても、全体として霊的成長の方向をたどっていくことになります。
霊的成長とともに拡大する自由意志の範囲
人間の自由意志について、もう一つの重要な点は、自由意志を行使できる幅は霊的成長レベルに応じて自動的に制約されるということです。人間の自由は、魂の進化に応じて拡大し、霊的に高くなればなるほど、自由意志を行使する範囲が広がります。
とかく地上人は無制限の自由を手に入れていると考えがちですが、実際には、各自の霊的成長レベルに応じた一定の枠内で自由を満喫しているに過ぎません。霊的に成長すれば自由が広がり、今とは比較にならない美と喜びを味わうことができるようになります。
8.霊的成長に関する摂理(5)
――「因果(カルマ)の法則」
宇宙・霊界を支配する因果の法則
神が造られた宇宙・霊界が法則によって支配されているということは、宇宙と霊界のすべてが、「原因と結果の機械的連鎖関係」の中で存在しているということを意味します。神が造られた宇宙と霊界は、因果関係という神の定めた法則によって支配されています。この「因果の法則」の外に出られるものはありません。ミクロの物質世界の運行もマクロの宇宙全体の運行も、すべてが因果の摂理のもとに置かれています。
そしてこの因果関係は、私達人間の心の世界に対しても、そのまま適用されるようになっています。人間にとって一番重要な霊的成長は、神の造られた「因果の摂理」の支配を受けて進められます。
人間の霊的成長に関する「因果の法則」
人間に与えられた自由は、愛の本質的要素であるために、神はこれを不可侵領域とされました。人間は自由意志によって、自発的に霊主肉従と利他的行為を実践することができます。反対に自由意志によって、人間は自ら摂理に背き霊的成長の道を放棄することもできます。
これが「自由意志の法則」でしたが、その際、地上人が摂理に合った歩みをすれば、それがよい原因となって「よい結果(霊的成長)」がもたらされるようになります。反対に「悪い原因(肉主霊従と利己的行為)」をつくれば、「悪い結果(霊的成長のストップと霊的苦しみ)」がもたらされるようになります。これが霊的成長に関する――「因果の法則」、すなわち「カルマの法則」です。
「罪と罰の法則」
――負のカルマの法則
摂理に反した悪い原因と、それによってもたらされる悪い結果というマイナス(負)の因果関係を、従来の宗教では「罪と罰」と呼んできました。したがって霊的成長に関するマイナスの因果の法則(負のカルマの法則)は、「罪と罰の法則」と言い換えることができます。(*肝心な罪と罰の内容については、スピリチュアリズムと従来の宗教では解釈が根本的に違っていますが……)
因果の結果は、地上で現れるとは限らない
ここで重要なことは、「因果の法則」は必ずしも地上人生においてのみ適用されるものではないということです。地上で犯した間違った行為の結果は、常に地上人生の中で返ってくるとは限りません。地上でつくった罪の多くが、死後の霊界で後悔や苦しみとなって返ってきたり、再生人生において苦しみ・病気・不幸といった形で与えられます。
しかし大半の地上人は、地上世界での悪行が霊界に行ってから自分に返ってくるという事実を実感できないために、平気で悪事を繰り返すことになっています。悪いことをしても、何とかごまかすことができると思ってしまうのです。
物質世界だけをすべてと考えると、霊的成長に関する「因果の法則」は理解できません。霊界をも含めた広い視野に立って見るとき、厳格な因果の摂理の支配について心から納得できるようになります。死んで霊界に行った霊達は、例外なく神の摂理の完璧さに感嘆し、摂理の支配を無条件に認めるようになります。
「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る――この法則から逃れることは出来ません。神の法則(因果の法則)はごまかすことが出来ないのです。」
「人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。」
「死んで霊界へ戻ってきた者に尋ねてごらんなさい。誰しもが「摂理は完璧です」と答えるはずです。」
9.霊的成長に関する摂理(6)
――「自己責任(自業自得)の法則」
因果の法則に基づく悪い結果はすべて本人の責任であり、そのツケ(悪い結果)はすべて本人が負わなければならない――これが「自己責任の法則」です。今直面している苦しみは、これまでの人生で自らがつくった悪い原因が結果として現れたものです。その意味で、あらゆる苦しみは「自業自得」ということになります。
物質世界だけを人生のすべてと考えると、いわれのない不幸・苦しみが一方的に与えられていると錯覚してしまいます。神の造った世界は、何と不公平で不平等なところなのかということになってしまいます。しかしすべての結果は、前世や霊界を含めてこれまで自分自身が行ってきたことのツケなのです。なるべくしてなっている必然的な結果なのです。そこに一切の不公平・不平等はありません。
とかく信仰心の篤い人間は、悪いことが生じるのは神が罰を与えたからだと考え、恐れを抱きます。その一方で多くの地上人は、生まれ育った環境や周りの人間関係が悪いために自分に不当な苦しみが与えられていると考えます。しかし、現在味わっている苦しみや不幸は、自分自身がつくり出したものなのです。生まれつきの身体の不自由・障害も、そのほとんどが前世におけるカルマが原因となっています。
反対に、これまでの人生で善なる原因を積み上げてきた人は、高い霊性と霊的知識・霊的視野という「善なる結果」を手にすることになります。皆さん方が今、スピリチュアリズムと出会い、本物の霊的知識を手にするという幸運に恵まれた事実は、これまでの人生でそれにふさわしい努力をしてきたということなのです。
「その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、あえて悪い方を選んだ、自分で選んだのです。(中略)ならば蒔いた種は自分で刈り取らねばなりません。それが神の摂理です。」
10.霊的成長に関する摂理(7)
――「償い(苦しみによるカルマ清算)の法則」
摂理に背いた結果は、苦しみとして自分自身に返ってきます。実はその苦しみは、罪の償い・罪の清算プロセスとなっています。人間は、自分がかつて犯した摂理違反(肉主霊従・利己的行為)を、それに等しい苦しみをもって償うようになっています。これが――「償い(苦しみによるカルマ清算)の法則」です。
苦しみによって罪が償われ、霊的成長のための足枷(あしかせ)が取り外されることによって人生がリセットされ、霊的成長に向けて再出発できるようになります。スピリチュアル・ヒーリングで病気が奇跡的に癒されるのは、悪いカルマが切れた人にのみ起こることです。スピリチュアル・ヒーリングでの驚異的な治癒は、すべて摂理に従って生じた結果に過ぎません。
人間の再生は、この「償いの法則」に基づいて行われます。霊界における(地上人生の)反省によって、かつて地上で犯した罪が今の自分の霊性にどのような障害を引き起こしているのかが自覚できるようになります。すると、それを償い清算するような再生人生を願うようになります。
再生人生では、自ら選んだ試練の内容が絶妙なタイミングで生じるようになっています。罪の償いのための苦しみの体験は、病気であったり、不幸やトラブルであったりします。肉体を持つと、自分自身が再生に先立って苦しみの試練を選択した事実をすっかり忘れてしまい、一方的に苦しみや不幸が与えられていると思いがちです。しかし本当は、地上人生における苦しみの体験の多くは、自分自身で願い、自発的に受け入れたものなのです。それに正しく対処することで、霊的成長の道を再び歩み出せるようになります。
「その結果に対して責任を取らなくてはなりません。元にもどす努力をしなくてはなりません。紋切り型の祈りの文句を述べて心が安らぎを得たとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。」
「大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する――それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は罪として相変わらず残っております。いいですか、それが神、私の言う大霊の摂理なのです。」
11.霊的成長に関する摂理(8)
――「自己犠牲の法則(代価の法則)」
人間の霊的成長は、霊主肉従と利他愛という摂理に一致した実践によってなされます。その際「自己犠牲」が大きければ大きいほど、結果的に大きな霊的成長がもたらされるようになります。正しい目的のために自分を犠牲にすれば、いっそう多くの霊的宝を手にすることができるようになるのです。全人類の幸福と向上のために自ら犠牲と苦労を買って出れば、その分だけ多くの霊的成長が促されます。これが――「自己犠牲の法則(代価の法則)」です。言うまでもありませんが、間違った目的(物欲や私利私欲・この世的な利益追求)のためにどれほど犠牲を払っても、霊的成長はなされません。どこまでも「摂理にそって犠牲を払う」ということが肝心なのです。
自己犠牲とは、自分の利益を後回しにして、より多くの人々の幸せを優先して求めるということです。霊的世界の存在を認めず、死ねばすべてが終わりだと思い込んでいる人にとっては、自己犠牲は損失以外の何ものでもありません。現在の地球人には、あまりにも世間一般の常識から懸け離れた生き方と感じられるかも知れません。しかし霊界にいる霊達にとっては、自己犠牲はごく当たり前の生き方なのです。現在の地球が物質中心の価値観に完全に支配されているために、それが特殊なものに映っているに過ぎません。
自己犠牲は、地上における最も価値ある生き方です。最も賢明な生き方、最も得をする生き方なのです。自己犠牲は、霊主肉従と利他的実践をより徹底し、霊主肉従と利他性のレベルを高め、霊的成長をより早く促してくれる賢明な生き方なのです。「自己犠牲の法則」は、「利他性の法則」を強化する法則と言えます。
「我欲を棄て、他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。」
「何の代価も支払わずして入手できるものは、この地上界には一つもないということです。」
12.霊的成長に関する摂理(9)
――「苦難の法則(光と陰の対照の法則)」
神の摂理に合った実践(霊主肉従・利他愛の行為)を通して霊的成長がもたらされますが、その際、困難・苦難を多く克服すればするほど、霊的成長が早く促されることになります。正しい目的にそって乗り越えた困難・障害は、霊的成長のための肥やしとなり、魂の栄養素となります。摂理に一致した目的達成のために多くの苦労をすればするほど、あるいはそのためのハードルが高ければ高いほど、それを乗り越えたときにはより多くの霊的成長がもたらされます。これが――「苦難の法則」です。
霊界とは異なり、地上世界は光と陰の対照的要素から成り立っています。困難・苦難は霊的成長における陰の要素です。地上人にとってはその陰の体験が、結果的に霊的成長にとってプラスの作用をします。陰の体験によって魂が純化され、鍛えられ、光のありがたさを実感できるようになります。
神は地上世界を、対照的な体験を通じて霊的成長する厳しい訓練場として創造されました。地上人は光と陰の対照の体験によって視野を広げ、魂を磨くことができるようになります。地上世界では、両極の対照的体験によって霊的成長が促されるようになっています。これを――「光と陰の対照の法則」と言います。この法則は、「苦難の法則」を別の角度から言い表したものです。
こうした霊的成長の仕方は、地上人にのみ当てはまります。地上ならではの霊的成長のプロセスと言えます。環境が善(光)一色となっている霊界においては陰の体験はありません。地上人生には摂理達成のための困難や障害が必ず生じるようになっていますが、それは考え方によっては霊的成長が早められるありがたいものなのです。困難やトラブルという霊的成長の“陰”の部分を知ることで、成長の喜びという“光”の部分をより深く理解することができるのです。
地上人は、わざわざ肉体という重くうっとうしい鎧(よろい)を身にまとって生きていかなければなりませんが、それが霊的成長をより効果的に促すことになっています。地上世界が困難な環境として造られているのは、人間の魂をより早く成長させたいと願う神の愛からの配慮なのです。まさに「かわいい子には旅をさせよ、若いうちに苦労をさせよ」との親心と言えます。
「魂の偉大さは、苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥やしです。魂がその秘められた力を発揮するには、いかなる肥やしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。」
「困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥やしです。むろん困難の最中にある時はそれをありがたいと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこのうえない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。」
「暗黒と光、陰と日向といった、まったく対照的なものも、実は一個の統一体の側面の反射に過ぎません。陰なくしては日向も有り得ず、光なくしては暗黒も有り得ません。それと同じ理屈で、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服した時、魂はより強くなり、より純粋になり、より充実し、かくして進化が得られるのです。」
「光をありがたいと思うのは、陰と暗闇を体験すればこそです。晴天をありがたいと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和がありがたく思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対照の中において悟っていくものです。もし辿る道が単調であれば開発はないでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。」
13.霊的成長に関する摂理の相互関係と全体像
これまで霊的成長に関するさまざまな法則(摂理)について見てきました。これらの法則は複雑に絡み合い、組み合わさって運行されていきます。また、一つの法則に別の法則が加わって展開したり、大きな摂理の中に小さな摂理が含まれる形で進展していきます。こうして多次元的な摂理と摂理の関係が成立します。とはいっても摂理である以上、そのいずれの次元においても、機械的な厳格性が失われることはありません。
「法則の裏側にはまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にも重なっております。」
「摂理の裏側に別の次元の摂理があります。(中略)これらが裏になり表になりながら働いているのです。」
人間の霊的成長に関する摂理の全体像を図示すると、次のようになります。

14.まとめ
――日常生活で何をすべきか?
スピリチュアリズムは、神の摂理に対するシンプルな信仰
スピリチュアリズムは、「神」と「神の摂理」に対する信仰です。それは言い換えるならば、自分を摂理に合わせ正そうとする、実に単純・シンプルな信仰であるということです。神に救いを求めたり個人的な願い事をするのではなく、自らを神の摂理に一致させ、自分自身の魂を救おうとする信仰なのです。
私達は、将来に対して心配したり、不安を持つ必要はありません。なぜなら神の摂理に一致さえしていれば、何一つ悪いことは生じないからです。「自分が今、摂理と一致しているかどうか」――それだけが問題なのです。私達は、その点に常に意識を向けているだけでよいのです。スピリチュアリズムは、神の摂理を絶対的に信仰することによって、心に平安と幸福をもたらす信仰なのです。
日常生活で何をすべきか
これまで人間の霊的成長を支配する、さまざまな神の摂理(法則)について見てきました。私達が霊的成長をなすには――「摂理と一致した生き方をすればよい」というのがその結論です。摂理に忠実な生き方、それはスピリチュアリズムという信仰の努力に他なりません。
私達が摂理に忠実な生き方をするために日常的に意識すべきことは、「霊主肉従」と「利他愛」の実践です。そして生活の中で生じてくるさまざまな「困難やトラブルを、広い霊的視野に立って受け止め甘受する」ということです。日常的に何をすべきかは、この3点に集約されます。この3つのことを心がけ努力することによって、私達は神の摂理と一致した歩みができるようになります。
それこそが地球人として最高の生き方であり、最高に価値あるスピリチュアリズム人生なのです。
