霊魂の受胎と、それに関連した諸問題

――水子霊・水子霊の運命・人間クローン・水子供養とインチキ霊感商法

ニューズレター第25号

今回は、霊魂の受胎とそれに関連するさまざまな問題を幅広く取り上げます。地上人生の出発となる霊魂と肉体の結合、受胎霊(水子霊)の存在、受胎霊の行方ゆくえ、今話題となっているクローン人間の誕生、世に言う水子の祟りや水子供養などについて見ていきます。

こうした受胎霊に関連する諸問題を取り上げ、スピリチュアリズムの観点から整理することにします。

1.人間の受胎・出生に関する質問・疑問

1)霊にとっての地上人生の出発点

――霊はいつ胎児に宿るのか

霊にとっての地上人生の始まり

――受胎時か、3カ月か、出生時か

霊が、地上人生を出発するのはいつからなのでしょうか。昔から、多くの宗教家や思想家によって、この問題が議論されてきました。

ある者は受胎した時が人間の出発点であるとし出生入魂説受胎入魂説)、ある者は胎児3カ月目に霊が宿るようになると言います。また胎児7カ月目に霊が吹き込まれ、これが人間としての出発点になると言う人もいます。キリスト教などでは一般的に、出生時に赤子が自分で呼吸を始める時に霊が吹き込まれ、この時をもって地上人生が始まるとします出生入魂説)

水子霊の存在を認めない立場では、当然、出生入魂説の見解を取ることになります。

シルバーバーチは、「受胎の瞬間」を地上人生の始まりとする

では、スピリチュアリズムにおいては、いつの時点を地上人生の出発点と考えているのでしょうか。すでに『シルバーバーチの霊訓』を読まれた方は、この問題についてのシルバーバーチの明快な答えを知っていらっしゃることと思います。シルバーバーチは――「地上人生の出発点は、精子と卵子が結合して受精卵となった瞬間である」と述べています。シルバーバーチは、明確な「受胎入魂説」を主張しています。

こうした受胎入魂説に対しては、普通次のような反論が加えられます――「胎児期に、流産や中絶によって肉体を奪われると、結果的には出生できなくなる。地上人として存在できなくなるのだから、受胎時を人間の出発点とするのはおかしい。無事に誕生してこそ地上人生を歩めるようになることを考えれば、出生の瞬間を人生の出発点としなければ辻褄つじつまが合わない」というものです。この主張には論理性があり、いかにも正当であるかのような印象を受けます。

しかしこの見解は、「胎児中に肉体を奪われても、水子霊として生き続ける」という霊的事実の観点を完全に欠落させています。しかも、そうした水子霊は、再び受胎して地上に誕生することができるという重大な事実を考慮すると、受胎時期をもって地上人生の出発点としても、論理的には矛盾しないことになります。

胎児の肉体は、胎児霊の乗り物

シルバーバーチは、地上人の質問に対して、常に徹底した霊的視点に立って回答を与えます。この問題についても、霊的事実を根拠とした明瞭な説明をしています。

シルバーバーチは“霊”こそが人間にとっての本体であり、“肉体”はその霊の地上世界における媒介体・乗り物に過ぎないとします。こうした見方が、人間の出発点の問題を考えるうえでの大原則であり、胎児にもそのまま当てはまります。胎児の肉体は、胎児霊の媒介体であり、乗り物に過ぎないということなのです。妊娠中に肉体を奪われると、霊は乗り物を失うことになりますが、霊という本体は別になくなってしまうわけではありません。

妊娠中の胎児の肉体は、霊の乗り物として成長していきますが、それは母体から出て自力で呼吸することができる時をもって完成します。もし自力で呼吸ができなければ、肉体は霊の媒介体(乗り物)としての役目を果たせなくなります。大切なことは、胎児にとって霊こそが本体であり、肉体は単なる媒介体に過ぎないということです。物質的視点から見ると、胎児の肉体がなくなれば胎児そのものが消滅したように思ってしまいますが、胎児は肉体を持たない霊として存在し続けるということなのです。

したがってシルバーバーチの言うように――「受胎時期をもって、地上人生の出発とする」という見解が一番霊的事実に合致していることになります。水子霊が現実に存在し、その水子霊が再び地上人として生まれるという事実を考えると、シルバーバーチのように、受胎を地上人生の出発点とするのが正しい見解であることが明らかになります。

昔の日本人は、受胎時期を人生の出発点として年齢を数えました。すなわち数え年です。今は出生時をもって地上人生の出発点とみなし、それをゼロ歳としますが、霊的観点に立てば、昔の数え年の方が正しいということになります。

カルデックの『霊の書』当サークル発行 『スピリチュアリズムの真髄 「思想編」』では、シルバーバーチとは少々異なる説明がなされています。魂が肉体と結合するのはいつでしょうかという質問に対して――「受胎の瞬間から結合作用が開始されますが、完了するのは誕生の瞬間です。受胎の瞬間に、その肉体に宿ることになっている霊と受胎した細胞とが流動質の紐でつながります。そのつながりは日を追って緊密になり、出産後の産声によって、地上の人間の一人となったことを告げることになります」と言っています。

これは「霊体と肉体の結び付き」を中心にしてとらえたもので、シルバーバーチが徹底して「霊の存在」を一番の根拠としているのとは、視点が少し違っています。地上人の理解に配慮した形で、地上人の目線にまで降りて、霊的要素と肉体の双方を同時に考慮した見解となっています。受胎入魂説を中心としながらも、出生入魂説の要素を上手に取り入れた折衷的な見解と言えます。内容的にはシルバーバーチと矛盾するところはありません。

2)新しい霊と古い霊の問題

受胎霊の2つのケース

受胎入魂説は、地上人生は受胎をもって出発するという見解です。受精の瞬間に、ミニチュアの霊と、ミニチュアの肉体が合体し、ミニチュアの地上人ができ上がることになります。地上人の本体である霊が、この瞬間から地上生活を始めるようになることを意味します。

さて、ここで受胎に関係する重要な内容を述べることにしましょう。それは受胎において地上生活を出発する霊には、2種類あるということです。

1種類の霊は“再生霊”です。霊界にいる霊がもう一度地上人生をやり直すために、地上に再生します。この再生霊が、受精と同時に新たな地上人生を始めることになります。こうした霊は、霊界では、霊体という霊の媒介体(霊的身体)を持って生活していましたが、再生人生を始めるに際しては、最小のミニチュアの霊体をまとい直して新たな出発をすることになります。

もう1種類の受胎霊は、地球上への誕生をもって初めて個別霊となるケースです。再生霊を“古い霊”とするなら、この霊は“新しい霊”と言えます。この新しい霊には当然のこととして前世の人生はありません。今回、初めて人間として物質世界へ誕生するということです。この霊は、受胎をもって新しく地上人生を始めることになりますが、それ以前は“霊の大海”の中に溶け込んでいて、個別的存在としての区別はありませんでした。受胎の時をもって、初めて個別の霊になるのです。霊の大海の中から一滴の霊が取り出され、受胎と同時に、大海から独立した霊として出発するのです。

自分は“新しい霊”か、それとも“古い霊”か

こうしたことを考えると皆さんは、自分は果たしてどちらのケースなのかと考えざるを得なくなることでしょう。自分には前世があって、今、再生霊として地上人生を歩んでいるのか、あるいは自分には前世はなく、今回初めて地上人生を出発するようになったのか、と思いをめぐらすようになるかも知れません。

理論上は1億2千万人の日本人は、再生霊(古い霊)と新しい霊に分かれるということです。自分には前世があったのか、なかったのかということは、とても重要な問題です。もし自分に前世がなかったとしたら、“前世のカルマ”というものはないことになります。シルバーバーチは、「今の苦しみはカルマの償いになっている」ということを述べていますが、その説明が自分には当てはまらないことになります。果たして自分は再生霊なのか、あるいは新しい霊なのか、さらには自分の子供は新しい霊なのか、それとも古い霊なのか、といったことにも関心が向くようになるでしょう。

ところで“新しい霊”と“古い霊”の比率は、一体どのようになっているのでしょうか。実は、これについての質問がシルバーバーチになされています。「地上へ誕生してくる者の中での“新しい霊”と“古い霊”の割合はどれくらいでしょうか」それに対してシルバーバーチは――「そういうご質問には、おおよその数字すら出すことは不可能です。ですが、多分ほぼ同じくらいの割合ではないでしょうか」『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.213)と曖昧あいまいな返事をしています。

シルバーバーチの返事から察するに、この問題については、現在の地上人には明らかにしないようにとの霊界サイドの配慮があることが感じられます。そうした霊界サイドの事情があって、シルバーバーチは明確な答えを示さなかったものと思われます。

私達はこれまで『シルバーバーチの霊訓』を読むとき、自分達は皆、再生者であるかのような感覚で理解してきました。しかしシルバーバーチが言うように、地上人の半分が新しい霊であるとするなら、これから霊訓を読む際には、いろいろなことを考慮しなければならなくなります。なぜなら、もし自分が新しい霊のケースであるなら、シルバーバーチの霊訓のある部分は、自分には当てはまらないことになるからです。

現在の地球人には秘密にされている問題

もし、この問題が高級霊の神庁によって、現時点の地球人には秘密事項とされているとするなら、私達地上人がむやみに詮索すべきではないでしょう。しかし、次のようなことだけは確かに言えます。“新しい霊”は霊的進化の経歴がなく霊的に未熟であり、一方“古い霊”は新しい霊に比べて霊的に進化しているということです。

そのことから推測されるのは、今こうしてスピリチュアリズムに導かれ、シルバーバーチの霊訓の素晴らしさを理解できる私達スピリチュアリストは、地球人の中では間違いなく進化した側の人間、すなわち“古い霊”に属しているであろうということです。シルバーバーチの霊訓を読めるような地上人は、古い霊(再生霊)と考えてほぼ間違いないと思われます。

また、現在スピリチュアリズムが普及している国々では、当然、再生霊の割合が高いということになるでしょう。私達の住む日本では、新しい霊よりも古い霊の方が多いと言えるのではないでしょうか。もしかしたら大部分の日本人は、再生者であるかも知れません。

ところで皆さんは、霊界の各界層に存在する“類魂の総数”がどのくらいあるのか考えたことはないでしょうか。シルバーバーチの述べた内容を手がかりに、地球圏霊界での類魂の総数を推測することができます。1つの類魂から地上に再生する霊は1つに限られます。アフィニティーはこのケースには当てはまりませんが、めったに存在しないので数には入れません。)現在の地球の人口は、ほぼ60億人ですから、その半分が再生霊である可能性があることになります。したがって地球圏霊界の類魂の総数は、少なくとも30億以上あると言えます。

このように地球圏霊界においてでさえ類魂は無数に存在しているので、宇宙全体となればその数は、もはや想像の域を越えてしまいます。

3)クローン人間の問題

現在の惑星地球で、大きな問題となっているのが“クローン人間”の誕生です。男女の生殖を通じて新しい人間が誕生するのではなく、親の肉体と全く同じ遺伝子を持った複製をつくり出そうとするのがクローンです。羊や牛などの動物ではすでにクローンが成功しており、次はいよいよクローン人間の誕生かと騒がれています。

今、クローン人間誕生の是非をめぐって、世界中で大きな議論が巻き起こっています。最近になってスイスの某新興宗教が、突如、人間のクローンを誕生させたと発表し、世界中を驚かせました。もっともその信憑性は低く、クローン人間誕生の発表をまともに信じる科学者はほとんどいません。

男女の性的交わりを通じることなく新しい人間を誕生させるということは、イエスが処女マリアから生まれた話を思い起こさせることになります。現に、宇宙人がクローン技術を用いてイエスを誕生させたというようなことを主張する人々がいます。イエスは宇宙人のクローン人間だったと言うのです。

もちろんそうした話には何の根拠もありませんし、単なる空想に過ぎません。イエスはマリアを母親として人間の子供として生まれ、人間として地上人生を全うし、そして死んでいきました。死後は霊界で、スピリチュアリズムという地球救済活動の責任者として大計画を推進しています。イエスは現実に霊界にいて、地球人類の救いのために日夜心を砕いているのです。

イエスにも当然、精子を提供した父親がいたはずです。それがマリアと婚約していたヨセフでなかったことは、はっきりしています。精子を提供した他の男性がいたということになりますが、聖書ではそれについて明確に述べていません。しかし聖書の中には、イエス誕生の深い背景を推測させるような記述が見られます。)

スピリチュアリズムの観点から見たとき“クローン人間”は、摂理に反したものであることは明らかであり、到底容認することはできません。スピリチュアリズムは、臓器移植や輸血・人工的生殖技術を霊的法則に反したものとして否定していますが、クローン技術は、それら以上に異常なものなのです。クローン人間の誕生は、科学技術の最大の悪用と言えます。原子力の技術を核兵器開発に用いたのと等しい悪行なのです。

クローン人間の魂は?

クローン人間の誕生というようなことは、決してあってはなりません。しかし将来、心ない科学者によってクローン人間が誕生するような事態が現実となる可能性も考えられます。そのときは新たな哲学的・宗教的疑問が世界中で巻き起こることになるでしょう。

スピリチュアリストにとっても、「クローン人間は、果たして霊(魂)をともなった人間になるのか」「もしクローン人間にも霊があるとするなら、それはいつの時点で宿るようになるのか」「クローン人間には霊体はあるのか」といった疑問が湧いてきます。

すでに述べたように人間の出発点は、精子と卵子が結合した瞬間ですが、クローン人間の場合には、いつがその出発点になるのでしょうか。それについての答えは、次のようになります。

もしクローン胚の形成が成功したとするなら、その時がクローン人間の出発点となります。その時点で「霊が宿るようになる」ということです。一般的には、物質次元での肉体条件が満たされると、自動的に「霊的法則」が働いて、霊新しい霊であれ古い霊であれ)はミクロの肉体に宿るようになるのです。その後クローン胚は分裂増殖して、胎児の身体を形成していきますが、それと並行して霊体も徐々に大きくなっていきます。

普通の受精による場合でも、クローンによる場合でも、胎児の肉体は地上人から与えられ、霊は神から与えられる、ということについては変わりありません。“人間のエゴ”という間違った動機であっても、臓器移植や人工的生殖技術が成功することがあるように、クローン人間製造においても霊的法則は機械的に作用し、霊が宿る可能性があるのです。それは普通の生殖による霊肉の結合と同じです。神が造られた霊的法則によって、霊の大海から分化・個別化が促され“新しい霊”が地上の人間に宿ることになりますが、それはクローン人間の場合も同様です。新しい霊も古い霊(再生霊)も、クローン胚の形成というミクロの肉体の出発点において結合し、地上人としての出発をなすようになります。)

クローン人間は、たとえ誕生しても分身とはならない

クローン胚に宿る霊は、肉体を提供した地上人の霊とは無関係です。その意味でクローン人間は初めから――「地上人の分身ではない」ということです。クローンベビーの誕生に期待を抱く人間は、どこまでも自分の分身が誕生することを望みますが、それは実現しません。仮にクローン人間ができたとしても、それは自分の分身ではないのです。全く別の霊、別人格を持った人間ということになります。クローン胚を提供した人間は、ただ霊の道具(乗り物)である肉体を提供しただけなのです。

人間が単なる肉体からなる物質的な存在であるなら、クローン人間は、肉体提供者の分身となるかも知れません。人間の霊を否定する唯物論の立場からは、クローン人間は文字どおり分身と言えます。その論法に従えば、心は脳という物質の産物に過ぎない以上、当然クローン人間も、肉体提供者と全く同じ心を持つようになるはずです。

しかし現実には、決してそういうことにはなりません。もしクローン人間が誕生するなら、そのとき同時に、肉体と心はまったく別物であることが証明されることになるのです。そして唯物論的な人間観は、根本からその根拠を失うことになります。

再生霊がクローン人間に宿る可能性も考えられますが、その場合は再生霊が、自分でつくった前世の大きなカルマを清算するために、意識的に(あるいは強制的に)異常な身体を選んだということになります。これは自分のカルマを切るために、あえて不自由な肉体を選ぶのと同じことです。

2.胎児霊の存在と中絶の罪

――自然流産と人工中絶の大きな違い

水子とは、流産や中絶によって肉体を失った胎児の霊のこと

妊娠の瞬間から、霊(新しい霊・古い霊)は母親の子宮に宿っています。流産したり中絶されれば、その霊はたとえ未熟であっても霊的身体(霊体)を携えて生き、成長していかなければなりません。流産や中絶によって肉体という物的表現の媒体、地上生活のための乗り物を失っても、それによって霊と霊体は滅ぶことにはなりません。

こうした肉体を失った「霊的胎児(胎児的霊)」を「水子霊」と言います。水子霊は、すでに「一個の独立した霊」であり、妊娠の瞬間から永遠に生き続ける存在として出発しています。そして霊界で成長を続けることになります。

流産や中絶によって水子霊ができることになりますが、自然流産と中絶人工流産も含む)では、その内容が全く違っています。地上人の動機や再生霊の事情、またそれによる罪の内容は全く異なることになります。自然流産と中絶を同じように扱うことはできません。次に、流産と中絶のそれぞれの状況や霊的背景を見ていくことにします。

流産に係わる再生霊の事情と霊的背景

地上の親が、子供の誕生を願っているにもかかわらず、胎児が母親の子宮内で死亡することがあります。これが流産ですが、こうした流産にはさまざまな霊的原因が関係しています。

霊界にいた霊が胎児に宿り、再生人生を始めることについては、すでに述べました。この場合、霊は再生に先立って、自分のカルマを清算し、霊的成長をもたらしてくれる両親・肉体を選ぶことになります。新しい人生について、自分で納得したうえで再生に臨みます。

しかし、そうした再生霊も時として、自ら選択した試練に後込みし、やがて地上に誕生することを強く拒絶するようになる場合があります。そのような時、胎児の肉体は死亡し、流産することになります。せっかくの地上への誕生というチャンスを自ら放棄した再生霊は、たいへんな苦しみをもってその罪を償わなければなりません。

一方、地上の両親は、流産によって大きなショックを受けることになりますが、それがカルマの清算や霊的目覚めのきっかけになることが多いのです。

また再生霊が地上に誕生することを願い、地上の両親もそれを心待ちしながらも、予期せぬ事故や体調の悪化などによって流産するようなこともあります。このようなケースでは、再生霊には優先的に次のチャンスが与えられることになります。同じ親、あるいは別の親を選んで地上に再生することになります。

この場合も、親は念願の子供の誕生が叶わず、一時的に悲しみの中に落とされることになりますが、時間の経過とともに少しずつ心が癒されていくようになります。こうした流産のケースも、やはり地上人にとっては試練とカルマ清算の意味合いがあります。場合によっては両親は死後、霊界にいる自分の子供になる予定だった胎児の霊と会うようなこともあります。

これとは別に『霊の書』には、胎児に霊が宿らないために流産するという特殊なケースがあることが述べられています。初めから生まれることが計画されていなかったにもかかわらず、妊娠することがあるというのです。こうした特殊なケースが本当にあるかどうかについて確証はありませんが、霊の書では、このようなケースでは、胎児の肉体はあるところまでは成長するが、やがてその物質的な肉体は機能しなくなると言っています。

流産と中絶の罪の違い

水子霊をつくるという結果は同じであっても、自然流産と中絶人工流産も含む)では、それに関連する霊的状況は全く異なっています。先に述べた自然流産のケースでは、地上の両親が罪をつくることにはなりません。流産によって地上の親は苦しみの体験をするのが普通ですし、もともとエゴ的な要素はありません。

それに対し人工中絶の場合は、地上人のエゴによって、一方的に胎児の肉体を葬り去ることになります。それは地上の人間を殺すのと同じ殺人の罪を犯すことであり、水子となる胎児霊は不当な被害をこうむることになります。中絶を行った罪は、すべて地上人に科せられることになるのです。罪の償いは、人それぞれ異なりますが、苦しみや後悔といった強い心の痛みがともなうようになることは共通しています。

地上で罪の償いができなかったときには、死後、自分の子供になるはずであった胎児霊と対面させられることになります。おそらくその時には、針のムシロに座らされるような心境を味わうことになるでしょう。

霊的事実に対する無知が、中絶の最大原因

地上人が中絶という殺人を犯してしまうのは、霊的事実に対して無知であるためです。胎児には受精時にすでに魂が宿り、私達と同じような独立した人間になっていることを知らないからです。地上人と胎児は、霊的な本質において何の違いもないことが分かっていないのです。胎児は肉体を奪われると、小さな霊体にくるまれてその後も生き続けなければなりません。その胎児霊と、いつか必ず霊界で対面させられることになるのです。

こうした事実を知らないために、胎児を単なる肉体(物質)と考えて、安易に中絶に走ってしまうのです。

奇形の胎児も、生存する権利を持っている

胎児が私達地上人と同じ生命的存在である以上、法律によって中絶を殺人罪に定めることは当然です。生まれたばかりの子供を殺したり捨てたりすれば、現在の法律でも罪が問われ罰せられることになりますが、胎児に対してもそうあるべきなのです。

また現在では超音波などの検査技術が発達して、子宮内の胎児の状態もはっきり分かるようになっています。そのため胎児の身体に異常が見つかれば、当たり前のごとく中絶してしまいます。最近では、喫煙や乱れた食生活の影響で女性の身体が弱化し、奇形児の発生率が非常に高いと言われています。奇形の胎児を中絶することは、心情的に理解できないわけではありませんが、それでも殺人という罪を犯すことには変わりありません。身体障害者を殺せば殺人罪に問われますが、奇形の胎児を中絶することは、それと同じ罪を犯すことなのです。

奇形児が宿ったということは、実は単なる偶然ではありません。奇形の胎児にも霊は宿り、地上に生まれる日を待っています。このような霊は、わざわざ辛い地上人生を選択して奇形児に宿ったのです。一方、奇形児を持つことによって、地上の親も辛い人生を体験することになります。しかし霊的に見たときその親は、霊的成長のために、そうした体験が必要であったということなのです。奇形の胎児を霊的視野から見ると、以上のような状況が浮かび上がってきます。

単に肉体的な異常があるから生まれさせてはならない、親が苦労するから中絶するというのは、唯物的視野に立った身勝手な考え方です。奇形児の中絶は、肉体という物質的外形しか見えないこの世の人々には何の問題もないことのように映るかも知れませんが、実は大きな罪を犯しているのです。中絶する医者も殺人実行犯として、同じ罪に問われることになります。

ただし、何としても子供が欲しいと願っていたにもかかわらず、母体の健康上の理由によって、母体の生命を取るか、胎児の生命を取るかの選択を迫られる場合があります。こうしたケースでは、母体の生命維持を優先して中絶したとしても「霊的摂理」に反することにはなりません。同じ中絶であっても、内容的には自然流産と同じで、罪に問われることはないのです。状況によっては、中絶のために生命を落とした水子霊と、霊界に行ってから喜びの再会をするようなこともあります。

3.胎児霊のその後の様子と、胎児霊の再生

水子霊は必ず再生する

再生霊にとっては、せっかく地上人となるチャンスを与えられたのに、地上人のエゴによって一方的にそれが奪われることになるのですから、そのショックはたいへんなものです。再生霊は、霊界における念入りな準備のもとで、悲壮な決意をもって再生人生を歩み始めます。自分の霊的成長のためには、何としても地上に再生しなければならないことを自覚し、退路を断って新しい人生を歩み出すのです。したがって不幸にして水子霊になるような事態を迎えても、再度地上に誕生するチャンスを探し求めなければなりません。

一方、初めての霊(新しい霊)の場合も、地上への出発をすでに始めています。一個の独立した霊として存在し、永遠の進化の道を歩んでいかなければなりません。永遠の旅路を歩み出そうとするまさにその出発点で、中絶によって道が閉ざされてしまうことは大きな不幸です。しかし永遠の進化という宿命を与えられた以上、水子となった霊は時をおいて別の母胎、あるいは同じ母胎に宿り、再び地上人生を始めることになります。

(質問)「堕胎された霊は、いつかまた誕生してくるのでしょうか」

(答え)「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」

『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)p.132

しかし、水子霊はすぐに再生のチャンスが与えられるとは限りません。失敗に備えて次の再生の準備が整えられていた場合は別として、一般的には新たな出発をするのに、それなりの時間がかかることになります。再生のための準備期間が必要となります。

次に、再生に先立つ準備期間について見ることにします。

水子霊のその後と、再生への準備

水子霊が霊界(幽界)で歩むプロセスは、それぞれの霊によって異なっています。すべて霊が、みな等しいプロセスを歩むわけではありません。受胎期間や霊的成長度、水子になった状況など各自の霊的内容によって歩む道筋が変わってきます。また新しい霊と古い霊でも、当然その後の状況は異なります。一般的な流産の場合には、次のようなプロセスをへて、霊界での成長の道をたどり、再生に臨むことになります。

水子霊は幽界でまず、水子霊達を専門的に扱う役目を持った女性達の世話を受けることになります。そうした役目につく霊の多くは、地上時代、子供が欲しくても叶わなかった女性達です。あの世で、地上時代に実現しなかった「子供を愛し育てる」という体験をすることになります。それは同時に哀れな水子霊達に対する利他愛の奉仕となっており、水子霊達は、このような霊達によって現実に救われることになるのです。

水子霊達は、女性達に面倒を見てもらう中で徐々に霊的世界に適応し馴染んでいくようになります。そうして霊界に適応し、霊的世界の事情に慣れるようになったら、次に地上世界に関係した体験をさせられることになります。水子霊はその道の別の専門家の手に預けられ、地上近くに連れて行かれます。そこで間接的に、地上生活を体験することになるのです。新しい水子霊は、これまで一度も地上生活の体験がありませんが、地上人として生まれていることには変わりありません。そのため霊的成長にとって、地球という物質世界との係わりと、そこでの体験がどうしても必要となるのです。

さて“古い霊”の場合は、前世での地上体験や霊界での生活がありますが、いったん地上人として再生人生を踏み出した時点で、かつての記憶は霊の奥にしまい込まれてしまいます。地上人生を無事に終えて霊界に戻って行く場合には、徐々にその記憶が蘇るようになります。しかし水子霊になった場合は、ミニチュアの霊体に閉じ込められ、しばらくの間、胎児としての個性に押し留められることになります。そのため、かつての記憶をすぐに呼び戻すことはできません。そうした古い霊も一定のプロセスをたどって、再び地上人の胎内に宿ることになります。

4.スピリチュアリズムから見た水子霊の祟りと水子供養について

先祖供養・悪霊の障り・動物霊の祟り・地縛霊の憑依……、これらはニセ霊能者や祈祷師にとって、まさに“金の成る木”です。ニセ霊能者や祈祷師は、人々が霊的世界に対して無知なのをいいことに、不安や弱みに付け込んで法外な祈祷料を要求したり、高価な開運グッズなどを買わせようとします。こうしたインチキ霊感商法については、すでにニューズレターで取り上げ、それらがいかに詐欺さぎまがいのものであるかを明らかにしてきました。

もう一つの悪質な霊感商法は「水子供養」です。水子供養の問題は、これまでスピリチュアリズムの中で、あまり問題視されることはありませんでした。水子供養は、つい最近になって急に注目されるようになりました。ここでは水子供養に係わる悪質な霊感商法を取り上げ、その問題点を明らかにします。

1)水子供養を悪用したインチキ霊感商法

――悪質な水子商法の横行

ここ25年くらいの間に、水子供養は大ブームとなりました。そして全国各地の寺院には、水子霊を祀る供養所や水子地蔵・水子観音が競って建てられるようになりました。こうした水子供養ブームと並行して、ニセ霊能者や祈祷師による水子商法が横行するようになりました。水子商法は、新たな社会問題を引き起こすようになっています。

水子商法は、女性の弱みや悲しみに付け込んだ悪質な商売です。霊能者や祈祷師は相談者に対して――「水子が憑いているため子宮の病気が引き起こされている」「水子によって家庭不和が収まらない」「主人の浮気が治らない」「嫁が子宝に恵まれない」「娘の縁談がまとまらない」などと言って不安を煽り立てます。

相談者が「自分には水子は思い当たらない」と言えば、すかさず「あなたに水子がなくても、あなたのお母さんやお祖母さんがつくった水子霊があなたに取り憑いて祟っている」と平気で嘘をつきます。そして「闇に葬られた水子を愛情もって供養しなければ、いつまでも霊障やトラブルが続くことになる」などと、まことしやかに言うのです。

その水子供養ですが、水子一体につき、5~10万円は要求されるのが普通です。霊的な知識が何もなく、ただ不安に駆られている多くの女性達は、高いと思いつつもその要求を拒むことができません。これで可哀想な水子霊が救われ、自分の罪が許されるとするなら、少々高くても我慢しようと思ってしまうのです。

こうして多くの人々、特に女性達は、水子供養のために多額のお金をニセ霊能者や祈祷師に払うことになります。ニセ霊能者や祈祷師・悪徳宗教家にとって、水子供養は最高の儲け口なのです。彼らにとって、これほどうまい汁はありません。

スピリチュアリズムの知識と照らし合わせてみれば、ニセ霊能者や祈祷師のしていることはインチキ以外の何物でもありません。しかし霊界に対する知識がない人々は、たとえ疑わしいと思っても、結局、騙されることになってしまいます。水子商法は、本当に悪質なサギと言うべきものです。

私達のサークルには以前から――「スピリチュアリズムでは、水子供養をどのように考えるのでしょうか」との質問が寄せられてきました。「水子霊は実際にあるのでしょうか」「水子霊の祟りは本当でしょうか」「水子供養は必要でしょうか」など、不安や悩みを抱えた方々からの便りです。

こうした手紙をいただく度に――「霊能者や祈祷師が“水子霊の祟り・障りがある”と言っても、決して信じてはなりません。彼らは詐欺師か、あるいは低級霊に翻弄されているかのいずれかです。水子霊が皆さん方に対して、霊障を引き起こすようなことは絶対にありません。水子霊の障りで、さまざまな不幸やトラブルが生じていると言うなら、その霊能者に、“どうか人助けと思って無料でおはらいをしてください”と申し出たらいいのです。相手に少しでもまともな良心や奉仕の思いがあるなら、無料でお祓いをしてくれるはずです。もしそうでないなら、すべてがインチキと思って、今後は一切相手にしないことです」と返事を差し上げています。

結論を言えば、水子霊は存在します。しかし水子霊が地上人に祟って、不幸を引き起こすようなことは絶対にありません。

2)スピリチュアリズムから見た正しい水子供養とは

中絶の罪と罰、そして償い

これまで何度も述べてきたように、“中絶”は殺人と等しい罪を犯すことです。中絶は神の摂理に背くことなのです。神の摂理に反した行為は「因果律」の働きによって、いずれ何らかの苦しみや痛みという形で返ってくるようになります。その苦しみこそが、罪に対する罰に他なりません。

地上に住む人間は、過ちや失敗の結果である苦しみの中から教訓を学び、霊的成長の糧を得るようになっています。中絶によってもたらされた苦しみを通じて深く反省し、その後の生き方をより霊的なものにすることで、初めて罪の償いがなされるようになります。逃れられない苦しみを味わい、過ちを反省し、そして自己犠牲のともなう奉仕的な生き方をすることによって、水子霊に対する加害者としての罪が償われるようになるのです。

水子供養に安易な安心感は禁物

性道徳の乱れた醜い現代社会の現実は、最低限の霊主肉従の歯止めが地上人の中から失われつつあることを意味しています。“中絶が当たり前”という風潮は、人間から霊的感性を奪い去ることになります。その結果、中絶に対する罪の重さに気づくことも、心を痛めることもなくなってしまいます。

もし中絶に対して後悔するような人間がいるとするなら、その人にはまだ救いの余地があると言えます。水子霊に対する供養は、そうした人にとっては存在意義があると言えるかも知れません。たとえインチキ水子供養であっても、時には中絶の間違いを自覚させ、二度と同じ罪を犯してはならないという気持を呼び起こすことがあるからです。

とは言ってもインチキ水子供養は、安易な安心感を与えるだけで、深い反省を引き出すことはめったにありません。“中絶の罪”は、お金を出して人に祈祷や供養をしてもらったり、水子地蔵を奉納したり、仏典を写経するくらいのことで消え去るものではありません。自分の犯した罪を強く自覚して真剣に悩み、心の底から深く反省し、清らかな人生を出発しようと決意してこそ償われるのです。

水子霊の救済は、霊界サイドで行われる

地上人が、水子霊をつくってしまったことをどれだけ後悔しても、すでに殺してしまった胎児が戻るわけではありません。人殺しをしてから、後でどれだけ重い罰を受けても、殺した相手は生き返らないのと同じです。

水子霊の場合、その救いは先に述べたように霊界のしかるべき人々によって進められ、やがて地上に再生する道をたどることになります。水子霊の救いは、地上人とは全く係わりのないところでなされていくということです。水子霊の供養は本質的には、その霊が再度、地上に生まれることができた時点で成就することになります。

こうした事情を知ってみると、地上人が水子霊を救うかのような言い方をする水子供養の実態は、いかに偽善的でインチキなものであるかが理解されます。いったんつくってしまった水子霊の救いは、霊界の人々にお願いするしかないのです。霊界の人々に頼るしかないのです。地上世界における水子供養は、単なる地上人の気休めにしかなっていません。

地上人ができる、一番の水子供養とは

自分が水子をつくるという罪を犯してしまったなら、何より深い反省をして、新しく霊的な人生を歩み出すことです。それこそが水子に対する一番の誠意の示し方なのです。二度と同じ間違いを犯さないように決心し、それまでの考え方・生き方を根本から改めることです。スピリチュアリズムの真理にそった霊的人生を歩み始めることです。

また自分自身に対する反省ばかりでなく、霊的真理に無知なために自分と同じ罪を犯し続けている人々に、中絶の罪の重大さを訴えて、一人でも多くの人が過ちをしでかさないように働きかけることです。自分が犯した罪は、社会から同じ罪をなくすために働きかける利他的行為によって償われます――「利己性がもたらす罪は、利他愛の実践によって償われるようになる」ということです。これこそが、本当の意味での「水子供養」と言えるのです。

3)性の乱れこそが、水子問題の元凶

堕胎天国と、最も醜い現状

日本は少し前まで“堕胎天国”と言われてきました。中絶に対する実質的な法的規制がなかったために、多くの女性が隠れて人工妊娠中絶をしてきました。繰り返しますが、中絶は殺人と同じ罪を犯すことであり、霊的に見たとき決して許されることではありません。

しかし中絶には、それを行なった当事者の動機によって情状酌量が考慮されるような一面もあります。現在60歳以上の女性の多くが中絶を体験していますが、彼女達の場合、多分に経済的な問題が理由となっています。また彼女達は、夫婦間において水子をつくっているのがほとんどであって、婚外関係でつくったのではありません。そうした点を考慮すると、彼女達をストレートに責めることはできません。

一方、現在の10代、20代の若い女性達の中絶には、ほとんど弁解の余地はありません。彼女達の行う中絶は、単なる肉欲の放縦・性の乱れの結果以外の何物でもないからです。そうした罪について霊界では、言い訳は一切許されません。本能的な快楽を思いのままに追い求めることが当たり前、好きな人とセックスしてどこが悪いといった風潮が、こうした邪悪な罪を日常的につくり出すことになっています。

とは言っても、若者達だけにすべての責任を負わせることはできません。彼らだけが責められる問題ではありません。若者達の獣性的な乱れは、現在の日本人の霊的実状を反映しているのであって、日本人全体の霊的問題と考えなければなりません。セックスの乱れは、その国や社会の霊的状況・道徳意識を的確に映し出す鏡であり指標なのですが、その嘆かわしい現状は、いかに日本人が霊的に堕落しているかをよく示しています。霊的な問題は、他人に迷惑をかけないからとか、自分の自由といった軽薄な判断で許されることではないのです。

エイズ流行の功績

エイズの流行は、現代のセックスの乱れに対して、大きな牽制となっています。エイズはとかく人類共通の敵のように思われていますが、人類の霊性向上に、決してマイナスにはなっていません。それどころかエイズは、性の放縦に何の疑問も感じない現代人には、むしろ必要なものと言えるかも知れません。「エイズが人類の敵ではなく、性の放縦こそが人類の敵」であることを、しっかりと認識すべきなのです。

考えようによっては、エイズは現代人に必要な痛みをもたらし、肉欲・本能の放縦にブレーキをかけてくれるありがたいものなのです。エイズの流行によってアメリカでは、安易なセックスの風潮に歯止めがかけられ始め、若年層の間から、婚前のセックスを軽蔑するような動きが見られるようになっています。これは実に喜ばしいことです。世界の雛型ひながたとして、善きにつけ悪しきにつけ地球人類の歩みの最先端に立つことが運命づけられているアメリカにおいて、性の荒廃に歯止めがかけられつつあることは、明らかに善い兆しと言えます。

これまでのアメリカは、霊性の低い地球を代表する形で、最も醜い堕落退廃の状況をさらけ出してきました。エイズの流行によって、性の荒廃に対する反省が生まれ、健全な性の在り方が模索されるようになったのです。今後はアメリカから新たに、従来の性モラルに対する見直しと、健全な性モラルについての議論が巻き起こることになるでしょう。そして健全な性モラルが、世界の人々に示されるようになるものと思われます。

婚前のセックス、婚外のセックスが当たり前とされている現在の地球上の風潮が、いかに異常なことであるかに地球人類が気づくようになるのも、それほど遠い将来のことではないでしょう。

水子供養の風潮は、時には消極的な貢献か?

エイズの流行が、性の堕落退廃の歯止めとなっているように、水子供養の風潮が、中絶という罪に対する部分的な牽制となっているのも事実です。水子供養が中絶に対する反省を促すことになるとするなら、それこそが社会に対しての貢献ということになります。現在横行している水子供養の大半はインチキ以外の何物でもありませんが、水子霊の障りという“ニセの脅し”を与えて中絶にブレーキをかけさせる結果になるなら、皮肉なことに、それなりの意味を持つということになるかも知れません。インチキ水子霊商法が、消極的ながらも日本人の性モラルの低下に対する歯止めになるかも知れません。

とは言っても、それでニセ霊能者や祈祷師の悪行自体が許されるわけではなく、いつか必ず、その罪に対する責任が追及されるようになることは言うまでもありません。

最も厳しい性倫理を主張しているシルバーバーチ

スピリチュアリストは、シルバーバーチの次の言葉を、じっくり考えてみる必要があります。

「明確にしておかねばならないのは、性的快楽のみを求め、子供は邪魔だという考えから避妊するのは、私は賛成しないということです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)p.413

この言葉の中には、スピリチュアリズムの性倫理が端的に示されています。シルバーバーチの示した内容は、現在の地上人にとって、最も厳しい倫理基準となっています。この基準を順守しようとするなら、日本人のセックス特に婚外のセックス)の大半は間違っているということになります。そして、それだけにとどまらず正式な夫婦間のセックスに対しても、この言葉は大きな問題を提起していることに気がつくはずです。シルバーバーチが投げかけている問題点については、一人一人が自分の良心に照らして、じっくり考えていただくことにしたいと思います。

地球は下から2番目という霊性の低い惑星であることが明らかにされています。その霊性の低さゆえに、進化した他の惑星の人間にとっては当たり前のことが、はるか彼方の理想・目標になっています。

例えば、地上人の肉食の習慣などもその一つです。霊的に見たとき“肉食”は、決して容認されない残虐非道な行為なのですが、現在の地球上ではそれが当たり前のことになっています。肉食が間違いであることに気づいた人が、徐々に増えつつあるという未熟で低い段階を歩んでいます。地球人の“性”の在り方も、この肉食の問題と類似しています。霊界人と地上人では、その見解にきわめて大きな隔たりがあるのです。

シルバーバーチによって示された性倫理の基準は、現実の地球人にはあまりにも厳しく、完璧な実行は到底不可能のように思われます。しかし霊的真理と真っ先に出会ったスピリチュアリストは、手にした真理には責任がともなうことを自覚して、可能なかぎり理想に向けて努力していかなければなりません。まかり間違っても、世俗に迎合するような愚かなことをしてはなりません。

たとえこの世の人々に嫌われても、この世の人々から気違い扱いされても、真実は真実として主張し、霊的真理に照らした誠実な努力をすべきなのです。スピリチュアリズムは、この世だけを対象としているのではなく、常に霊界という永遠の世界を対象とした歩みであることを忘れてはならないのです。

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